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アクション連発!ガジェット満載!マカロニ版ジェームズ・ボンド、サルタナの勇姿に痺れろ!

なかざわひでゆき

 数えきれないほどの荒くれ者たちが、アメリカの大西部ならぬスペインはアルメリア地方の荒野を駆け抜けていったイタリア産西部劇=マカロニ・ウエスタン。クリント・イーストウッドが演じた「Man with No Name」(名無しの男)を筆頭に、数多くのマカロニ・ヒーローも誕生したが、その中でもジャンゴやリンゴと並んで高い人気を誇る名物キャラクターが、本作『サルタナがやって来る~虐殺の一匹狼~』の主人公サルタナである。 まずは基本的な情報から整理しておこう。ジャンゴ・シリーズやリンゴ・シリーズと同様、数多のパチもの映画を生んだサルタナ・シリーズだが、正式なシリーズ作品は下記の5本とされている。 ・1作目 Se incontri Sartana prega per la tua morte(サルタナに会ったら己の死に祈れ)1968年制作 本邦未公開監督:フランク・クレイマー(ジャンフランコ・パロリーニ)主演:ジョン・ガルコ(ジャンニ・ガルコ) ・2作目 Sono Sartana, il vostro becchino(俺はサルタナ、お前の死の天使)1969年制作 本邦未公開監督:アンソニー・アスコット(ジュリアーノ・カルニメオ)主演:ジョン・ガルコ(ジャンニ・ガルコ) ・3作目 C'è Sartana... vendi la pistola e comprati la bara(サルタナが来た…お前の拳銃を棺桶と交換しろ)1970年制作 邦題『俺はサルタナ/銃と棺桶の交換』 本邦劇場未公開・DVD発売監督:アンソニー・アスコット(ジュリアーノ・カルニメオ)主演:ジョージ・ヒルトン ・4作目 Buon funerale amigos!... paga Sartana(良い葬儀を、友よ…サルタナが支払う)1970年制作 本邦未公開監督:アンソニー・アスコット(ジュリアーノ・カルニメオ)主演:ジャンニ・ガルコ ・5作目 Una nuvola di polvere... un grido di morte... arriva Sartana(埃の雲…死の叫び…サルタナが来る)1970年制作 邦題『サルタナがやって来る~虐殺の一匹狼~』 本邦劇場未公開・DVD発売監督:アンソニー・アスコット(ジュリアーノ・カルニメオ)主演:ジャンニ・ガルコ    シリーズ中で唯一、ジョージ・ヒルトンがサルタナを演じた『俺はサルタナ/銃と棺桶の交換』を5作目とする説もあるが、少なくともイタリア本国での劇場公開日を基準にすると、上記のような順番になる。いずれにせよ、残念ながら今のところ日本で見ることが出来るのは全5本中2本だけ。しかも、どちらもリアルタイムでは日本へ輸入されなかった。それゆえ、日本のマカロニ・ファンにとってサルタナは、長いこと幻のヒーローだったのである。  サルタナ・シリーズの特徴を一言で表すならば、ずばり「西部劇版ジェームズ・ボンド」であろう。お洒落でエレガント、荒唐無稽にして軽妙洒脱。全身黒づくめのギャンブラー風に決めたニヒルな謎のガンマン、サルタナが、愛用の小型リボルバーと数々の秘密兵器を駆使して悪党たちを一網打尽にする。レオーネやコルブッチなどのシリアス路線や、リアリズム志向のガンプレイを愛するマカロニ・ファンには賛否あろうと思うが、しかし猫も杓子もレオーネのエピゴーネンを競っていた当時のマカロニ業界にあって、あえて差別化を図るという意味で正解だったと言えよう。しかも文句なしに面白い。所詮、マカロニなんてハリウッド西部劇のパクリなんだからさ、楽しけりゃそれでいいじゃん!というB級エンターテインメント的開き直りが功を奏した結果だろう。  そもそもの始まりは’67年に公開されたマカロニ・ウエスタン『砂塵に血を吐け』。この作品でアンソニー・ステファン演じる主人公ジョニーよりも目立ってしまったのが、強烈な存在感を放つサイコパスな弟サルタナ(ジャンニ・ガルコ)だった。そう、もともとサルタナは悪人キャラだったのである。しかし、この映画が当時の西ドイツを中心に大受けし、ことにガルコ演じるサルタナの評判が高かったことから、ならばこいつをメインに映画を作れば当たるに違いない!ということで誕生したのがサルタナ・シリーズだったわけだ。  ただし、今回はれっきとした主人公なので、さすがにサルタナが悪党のままでは困る。ゆえにキャラ設定は初めから仕切り直し。ジャンゴみたいな悲壮感漂う復讐ドラマは御免こうむりたい、もっとシニカルでユーモラスなヒーローがいい、衣装も小汚いカウボーイじゃなくて粋でお洒落なイメージで!というジャンニ・ガルコ自身の意向を汲みながら、新たなサルタナ像が形作られていったという。各作品の劇中で使用される秘密兵器なども、主に彼がアイディアを出していたらしい。会計帳簿にピストルを隠した帳簿GUN(4作目)、車輪の穴にダイナマイトを仕込んだ車輪BOMB(2作目)、時にはトランプカードやダーツの矢、懐中時計まで起用に武器として使うサルタナの華麗なアクションは、ジャンニ・ガルコが演じてこその賜物だったのである。  そのジャンニ・ガルコは旧ユーゴスラビアの出身。もともと『太陽の下の18歳』(’62)や『狂ったバカンス』(’62)でカトリーヌ・スパークの相手役を演じて注目された二枚目スターだったが、結果的に一連のサルタナ役が最大の代表作となった。ジャンフランコ・パロリーニ監督と再びタッグを組んだ、痛快軽快な戦争アクション『戦場のガンマン』(’68)もなかなかの佳作。また、パチものジャンゴ映画『二匹の流れ星』(68)では、ゲイリー・ハドソンの偽名でジャンゴ役を演じている。  シリーズ全体のトーンを設定したのは1作目のパロリーニ監督。マカロニにありがちな情念やペシミズムは一切なし。毒を持って毒を制するかのごとく、狡猾で抜け目のないサルタナは常に敵の一歩先を行き、腹黒い悪党どもをてんてこ舞いにして、最後はまんまと金塊の山をかすめ取っていく。ストーリー展開は極めてアップテンポ。アクションも一切出し惜しみせず。続く2作目でバトンタッチした、アンソニー・アスコットことジュリア―ノ・カルニメオ監督は、基本的にパロリーニ監督のライトな路線を継承しつつ、よりコミカルでナンセンスなユーモアを盛り込んだ。’70年代初頭に流行するコメディ・ウェスタンの先駆けである。ただ、E・B・クラッチャーことエンツォ・バルボーニ監督の『風来坊』シリーズなどと違って、粋で洗練されたユーモアセンスこそがカルニメオ監督の醍醐味。ベタな大衆喜劇的コメディに走らないサジ加減が絶妙だ。そういう意味で、このシリーズ最終作『サルタナがやって来る~虐殺の一匹狼~』などは真骨頂と言えるだろう。  何と言っても最大の見どころは、シリーズ中屈指とも呼ぶべき奇想天外なガジェットの数々だ。ミサイル砲を仕込んだインディアン人形型ロボット、アルフィーもなかなかのインパクトだが、パイプオルガンのパイプが倒れてカチューシャ型のロケット砲マシンガンに変身する通称「皆殺しオルGUN」にはぶったまげた(笑)。んなもん西部開拓時代にあるわけねえだろ!という突っ込みは野暮というもの。さすがにここまで大胆不敵な秘密兵器は前作までなかった。カルニメオ監督はこれに味を占めたのか、続くニューヒーロー、アレルヤを登場させた『荒野の無頼漢』(’71)では、ミシンとマシンガンを合体させたミシンGUNとか、バラライカに拳銃を仕込んだバラライGUNとか、もはや何でもアリのやりたい放題状態に。こういう悪ノリは大歓迎である。  消えた大金を巡って、三つ巴・四つ巴・五つ巴の裏切りと騙し合いが繰り広げられるストーリーも悪くない。まあ、厳密に言うと1作目の焼き直し的な印象は否めないのだけれど、恐らく視聴者のみなさんの多くが未見だと思うので問題ないでしょう(笑)。悪党どもをお互いに対立させて、漁夫の利を得ようとするサルタナのずる賢さ(?)も相変わらず。ある種のピカレスクロマン的な魅力すら感じられる。脚本はティト・カルピとエルネスト・ガスタルディ。どちらもイタリア産B級娯楽映画の黄金時代を代表する名脚本家だ。  ヒロインの悪女ジョンソン夫人を演じるのは、ジャッロ映画ファンにもお馴染みのスペイン女優スーザン・スコットことニエヴェス・ナヴァロ。ジュリアーノ・ジェンマと共演したスパイ・コメディ『キス・キス・バン・バン』(’66)や、ジャッロ映画の隠れた傑作『ストリッパー殺人事件』(’71)も忘れ難い美女だが、決定的な代表作に恵まれなかったのが惜しまれる。『猟奇変態地獄』(’77)のぞんざいな扱われ方とか、ちょっと気の毒だったもんなあ。悪徳保安官ジム役はファシスト時代のロマンティックな二枚目スター、マッシモ・セラート。また、サルタナと親しくなる詐欺師の好々爺プロン役の老優フランコ・ペスチェは、3作目以外のシリーズ全作に出演している。  なお、1作目限りで降板したジャンフランコ・パロリーニ監督は、サルタナのキャラをそのままパクった新ヒーロー、サバタ(リー・ヴァン・クリーフ)を主人公にした『西部悪人伝』(’69)をヒットさせ、その後『大西部無頼列伝』(’70・これのみユル・ブリンナーがサバタ役)、『西部決闘史』(’71)とシリーズ化。そのサバタは、サルタナ・シリーズ3作目『俺はサルタナ/銃と棺桶の交換』でサルタナと共演している。ただし、こちらは先述したようにサルタナ役がジョージ・ヒルトン、サバタ役は『荒野の無頼漢』のチャールズ・サウスウッド。そうそう、『荒野の無頼漢』の主人公アレルヤ役はヒルトンだったっけ。なんか、マカロニ界隈は世間が狭いのでややこしい(笑)。  で、その『荒野の無頼漢』でコメディ・ウェスタンの真髄を極めたジュリア―ノ・カルニメオ監督は、マカロニ衰退後も様々なジャンルの娯楽映画で活躍。イタリア版マッドマックスとして一部で有名な世紀末アクション『マッドライダー』(’83)や、悪名高いキワモノ映画としてカルトな人気を誇るホラー『ラットマン』(’88)は彼の仕事だ。■

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巨匠コッポラの“救い”から“地獄”への道程 『ワン・フロム・ザ・ハート』

松崎まこと

 1939年生まれのフランシス・フォード・コッポラは、UCLAに学んだ後、60年代に“B級映画の帝王”ロジャー・コーマンの下で、低予算映画の監督としてキャリアをスタートさせた。その頃のコッポラは、時に才能の片鱗は見せながらも、ヒット作もなく、数多いる若手監督、若手脚本家の1人に過ぎなかった。  そして70年代、三十路を迎えた頃から、「コッポラの時代」が始まった。フランクリン・J・シャフナー監督、ジョージ・C・スコット主演の『パットン大戦車軍団』(70)の脚本で、初めてアカデミー賞を受賞。それと前後して、イタリア系マフィアのファミリーを描く、『ゴッドファーザー』(72)の監督に抜擢された。  『ゴッドファーザー』は、コッポラの提案で起用に至った、主演のマーロン・ブランドの名演などもあって大評判となり、当時の興行記録を塗り替える興行成績を残した。アカデミー賞では、作品賞、主演男優賞、脚色賞を受賞。原作者と共同で脚本も担当したコッポラは、早くも2個目のオスカーを手にした。  盟友のジョージ・ルーカスが監督する。『アメリカン・グラフィティ』(73)でプロデューサーを務め、“大ヒット”の成果を得た後、コッポラは74年に、『カンバセーション…盗聴…』『ゴッドファーザー PARTⅡ』という2本の作品の製作・監督・脚本を手掛けた。前者では、「カンヌ映画祭」の当時の最高賞である“グランプリ”を獲得。後者は1作目の興収には及ばなかったものの、批評的にはより高い評価を得て、アカデミー賞では6部門を受賞。コッポラの元には、作品賞、監督賞、脚色賞と、3個のオスカーが渡った。  正に向かうところ敵なしの勢いだったコッポラが、次なる作品として取り組んだのが、あの『地獄の黙示録』(79)である。原案は、ジョン・コンラッドの小説「闇の奥」(1902)だが、舞台をベトナム戦争に移して、アメリカの侵略を批判的に描くという、当時としては野心的な試みであった。  しかしロケ地のフィリピンで、ハリケーンによりセットが打ち壊されたのをはじめ、様々なトラブルに襲われたことによって、スケジュールが大幅に遅延。76年3月にクランクインして、当初17週を予定していた撮影期間が、何とほぼ1年間オーバー。67週も掛かってしまった。  編集も、コッポラの完璧主義などにより、2年余りの歳月が掛けられた。そのため、同じベトナム戦争を題材にした、マイケル・チミノ監督の『ディア・ハンター』(78)が、製作が始まったのは『地獄の…』の後だったにも拘らず、先に完成してしまった。 公開された『ディア…』は、絶賛を集め、79年4月に開催されたアカデミー賞で、作品賞をはじめ5部門を受賞した。そしてその際には、監督賞のプレゼンターとして、未だ完成していなかった、『地獄の…』の監督であるコッポラが登場。チミノ監督にオスカーを贈呈するという、皮肉な巡り合わせとなった。  映画の完成が遅れれば遅れるほど、嵩むのが、製作費である。当初の予算は1,200万ドル、当時の日本円にして約35億円だったが、最終的には3,100万ドル=約90億円まで膨らむこととなった。  コッポラは『地獄の…』のあまりにも難産ぶりに、“大失敗”そして“財政破綻”を覚悟するようになった。そして、次のような考えかたをするようになっていった。  「…甚大な大失敗の次に作る作品は、急いで手早くまとめよう。手堅く、成功が保証された、エンターテインメント色が強く、一般の人々の興味を引くものにしよう…」と。  具体的に思い浮かんだのが、ミュージカル・ロマンス。これが本作『ワン・フロム・ザ・ハート』のプロジェクトへと繋がっていく。  そしてコッポラは、いつしかそのプロジェクトが、やがて振りかかってくる筈の『地獄の…』の負債という、避けられぬ災厄から自分を救ってくれるに違いないという思い込みに捉われるようになる。後にコッポラはその時のことを、次のように述懐している。 「間違いなく私は狂っていたのである」 ここで、諸々の結果から先に記そう。『地獄の…』は、79年の「カンヌ映画祭」に未完成のまま出品され、コッポラに2度目の最高賞=パルム・ドールをもたらした。そしてその年の8月に公開されると、大方の予想を裏切って、最終的には莫大な製作費の回収に至ったのである。  コッポラに真の“地獄”をもたらしたのは、彼が“救い”になると考えた、『ワン・フロム・ザ・ハート』の方であった。  80年3月にクランクインし、81年の暮れに完成。82年2月にアメリカ公開に至った『ワン・フロム・ザ・ハート』の舞台は、現代のラスベガス。7月4日の独立記念日を翌日に控え、街は観光客でごった返している。 物語の主人公は、旅行会社に勤めるフラニー(演;テリー・ガー)と、郊外の小さな自動車解体工場を友人と共同で経営するハンク(演;フレデリック・フォレスト)の、もう若くはないカップル。同棲生活が5年目を迎えた2人は、倦怠期へと突入。お互いの想いがすれ違ったことから、大喧嘩となった。 そんなタイミングで、フラニーは伊達男のレイ(演;ラウル・ジュリア)と、ハンクは美しい踊り子のライラ(演;ナスターシャ・キンスキー)と出会う。そして共に、熱い一夜を過ごし、己のパートナーを裏切ってしまう。 先に我に返ったのは、ハンクの方だった。何とかフラニーを捜し出すが、その時彼女は、レイと旅に出ようとしていた。 果して2人の仲は、元の鞘に収まるのか…。 男心はトム・ウェイツ、女心はクリスタル・ゲイルという2人のシンガーのヴォーカルによって説明されながら、こうしたシンプルなストーリーが展開する。登場人物が歌って踊るのが一般的なミュージカルだとすれば、本作は“かげ歌ミュージカル”とでも言うべきか。 当初予定していた通り、低予算の軽いミュージカル・ロマンスとして仕上げれば、何も問題はなかった筈である。ではなぜ本作は、コッポラに大きな災厄をもたらしてしまったのだろうか? 間違いの第一歩は、前作『地獄の…』で、ロケ撮影の様々なトラブルを経験したことから、本作を完全にスタジオ内で撮ろうと考えたことだった。そこでコッポラは、撮影開始直前の1980年初頭に、670万ドル=約19億円を投じて、ハリウッドのスタジオを買収した。 4万4,000平方メートルの敷地内に、ステージが9つ。このステージにどんなセットを組んだかは、日本公開時に劇場で販売されたプログラムから引用する。 「ドラマの舞台になるラスベガスの街は、はじめにビデオカメラで撮影され、それをもとに、コッポラをオーナーとするゾエトロープ撮影所内に作られたセットで鮮やかに復元されている。建物も道路も樹木も、そして郊外の砂漠さえ復元されているのだが、この砂漠に女体の曲線を求めるあまり、本物の女性を砂に求めて撮影したというのだから、巨人コッポラの面目躍如である」 9つのステージに、巨大なラスベガスの街を作り上げたわけだが、よくよく考えてみれば、ハリケーンが襲ってくる、フィリピンの密林とは違う。実際のラスベガスに、ロケに行けば済む話なのである…。  何はともあれ、こうしたセットを舞台に、コッポラがどのような製作方法を取ろうとしたかを、ざっと紹介しよう。  まずは“エレクトリック・ストーリーボード”と称する、シナリオのビデオ映像化を行う。具体的には、全ショットを1枚ずつ、合計で数百枚の絵コンテを作成し、舞台となるラスベガスの実景スチール写真と合わせて、ビデオで撮影・編集を行う。 ここに効果音と全セリフを入れた、ラジオドラマのようなサウンド・テープをダビング。“エレクトリック・ストーリーボード”が出来上がる。 このビデオに収められたコンテに合わせて、俳優たちはアテレコの要領でリハーサルを行い、大体の動きを決めていく。  そして本番。ラスベガスのセットの中で、俳優たちはあらかじめ決められた通りの動きをし、これをフィルムで撮影する。同時に同じ映像をビデオで収録する。  コッポラは現場には姿を見せず、トラックを改造したビデオ調整室、通称“ウォー・ルーム=戦争部屋”に居て、TVモニターと睨めっこ。本番が終わると、次々とビデオ編集を行っていく。そしてフィルムの現像が上がったら、ビデオ編集したものを基に、ネガ編集を行っていくという算段であった…。  しかし実際は、実用段階になっていない新技術をそのまま使おうとしたことから、失敗続きになってしまった。ラスベガスを再現したセットに掛かった巨費と合わせて、コッポラ監督作品の製作費は、又もや嵩んでいった。  当初1,200万ドル=約35億円の予算だったのが、2,700万ドル=約78億円にまで跳ね上がった。ある意味『地獄の…』の二の舞であったが、前作と違ったのは、『ワン・フロム・ザ・ハート』は、劇場にまったくお客を呼ぶことが出来ず、コッポラはそのまま“破産”に至ってしまったことだ。  本作の劇場用プログラムには、次のような一節が書かれている。 「ゾエトロープ・スタジオある限り、映像魔術師フランシス・コッポラの活躍は続く。  逆もまた、真なり」  しかしゾエトロープ・スタジオは、本作によって瓦解。コッポラはこの後暫し、“雇われ仕事”で莫大な借金の返済に追われることとなったのである。■  

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「サンダンス」からレッドフォードへの贈り物 『オール・イズ・ロスト ~最後の手紙~』

松崎まこと

 ロバート・レッドフォード、82歳。日本では今年7月公開となる、『さらば愛しきアウトロー』を以て、俳優業から引退することを、昨夏明らかにしている。更に今年1月、彼はもう一つの“引退”を発表した。 「第35回サンダンス・フィルム・フェスティバル」開幕に先駆けて行われた記者会見で、同映画祭の“顔”から退くことを宣言したのである。「僕は34年間ずっとこの開幕スピーチをやってきたけれど、新しい方向に進む時が来た」「…サンダンス映画祭はもう僕の説明が必要ないくらいに育っている…」 アメリカン・ニューシネマの代表的な一作『明日に向って撃て!』(1969)でサンダンス・キッドを演じたことから、一躍スターの座を手に入れた、レッドフォード。この映画の出演料でユタ州に居を構え、1978年には同州のスキーリゾート地“パークシティ”で、映画祭をスタートさせた。当初は「ユタ・US映画祭」という名で、クラシック作品の回顧展がメインだったという。 81年に映画人の養成、インディペンデント映画の製作・上映の支援を目的とした非営利機関として、自らの当たり役の名を冠した、「サンダンス・インスティチュート」を設立。85年からは映画祭の名も、「サンダンス・フィルム・フェスティバル」となり、“インディペンデント映画”とその作り手の発掘を軸とした映画祭へと、変貌を遂げていく。 そして「サンダンス」は、開始して日も浅い内に、コーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』(84)、スティーブン・ソダーバーグの『セックスと嘘とビデオテープ』(89)といった、後の著名監督のデビュー作を高く評価し、世に送り出す役割を果たした。スタート以来30余年の間には、ジム・ジャームッシュ、クエンティン・タランティーノ、ロバート・ロドリゲス、ソフィア・コッポラ、ポール・トーマス・アンダーソン、ダーレン・アロノフスキー、リチャード・リンクレーター、ブライアン・シンガー、トム・マッカーシー、ライアン・クーグラー、デミアン・チャゼル等々、「サンダンス」きっかけでブレイクに至った映画作家は、枚挙に暇がない。 今では毎年1月の開催時期になると、プロデューサーから評論家まで、アメリカ中の映画関係者がこぞって、「サンダンス」詣を行う。次世代をリードする、若き“才能”との出会いを求めて。 そうした「サンダンス」の栄光の歴史と、その立役者であるレッドフォードのフィルモグラフィーを見比べると、妙なことに気付く。レッドフォード自ら言及するところによると、「皮肉なことにサンダンスを創設し、長年主催してきたが、そこでサポートしたフィルムメーカーは誰一人、私のことを起用しなかった」 「サンダンス」の押しも押されぬ“顔”であり、数多の映画人たちの恩人である、レッドフォード。しかし、「サンダンス」出身のフィルムメーカーから出演依頼が届くことはなかったというのだ。 これには、幾つかの理由が思い浮かぶ。まずレッドフォードは、新人監督が演出するには、「荷が重い」と思わせるほどの“スーパースター”であったこと。そしてまた、彼が“アカデミー賞監督賞”を手にしたことがあるほどの、一流の映画監督だったことも、若手がオファーを躊躇う原因になったのではないだろうか。 レッドフォード曰く、「彼らは誰一人、私に役をくれなかったんだ!J・Cがそうするまでは、誰一人としてね」 そう、たった1人、たった1人だけ例外がいた。その監督の名は、J・C・チャンダー。そして彼とレッドフォードがタッグを組んで作り上げたのが、2013年製作の本作『オール・イズ・ロスト ~最後の手紙~』なのである。 チャンダーが世に認められるきっかけとなった「サンダンス」上映作品は、監督デビュー作である、『マージン・コール』(11)。2007年の世界金融危機を題材にしたサスペンスであり、ケヴィン・スペイシー、ポール・ベタニー、ジェレミー・アイアンズ、デミ・ムーア、スタンリー・トゥッチといった、有名俳優たちが出演している。チャンダーは脚本も担当したこの作品で、見事“アカデミー賞脚本賞”にノミネートされた。 『マージン…』以前から、チャンダーがずっと撮りたいと思っていたのが、“海洋ドラマ”。子どもの頃からヨットでのセーリングに親しんでいたという彼が、『マージン…』の成功を機に、製作を実現した航海アドベンチャーが、『オール・イズ・ロスト』だった。そのストーリーを、紹介しよう。 ヨットでインド洋を単独航海中の老齢の男が、船室での睡眠中、水の音で目を覚ます。ヨットが、海上を漂う貨物用コンテナとぶつかって、船体に穴が空いてしまったのである。 応急措置を施して浸水を止めたが、このアクシデントで航法装置は故障。無線もパソコンも水浸しとなって使い物にならないため、「SOS」を発信することも出来ない。 やがて海上は暴風雨に襲われ、ヨットは致命的なダメージを受ける。もはや沈没を免れない状態となり、“男”は食料とサバイバルキットを持って、救命ボートへと移る。 六分儀と航海図を頼りに、何とか船の行き来が多い海上交通路に出ようとする“男”。しかし救命ボートも浸水が始まり、通り掛かった貨物船も彼の存在に気付かないなど、どんどん絶望的な状況へと追い込まれていく…。 この作品に登場するのは、レッドフォードが演じる、“Our Man=我らの男”と役名がクレジットされた、主人公1人だけ。この男がどんな名前でどんな背景を持っているのか、なぜ単独航海しているのかなどは一切説明されず、セリフもほとんどない。 公開当時本作は、「海の『ゼロ・グラビティ』」とも評された。思わぬアクシデントから、大自然の猛威と否応なく対峙することになった“男”が、強靭な意志と行動力で、何とか生き延びようとする様が描かれた、1時間46分なのである。 本作を撮影時には76歳だったレッドフォードだが、ほとんどスタントマンを使わずに演じ切ったという。もちろん、動きは往時と比べて、さすがに緩慢な感じが否めない。しかしそれがむしろ、セリフがほとんどないことと合わせて、リアルな迫力を生み出している。 チャンダーがこの作品の脚本を送って4日後には、レッドフォードから、「会いに来てほしい」という連絡があった。そして面会が実現して5分後には、「君がクレイジーな男ではないことを確認したかっただけだ。これを作ろう」と、出演を快諾したという。 「J・Cだから、この仕事を引き受けたんだ」「私は彼を気に入っている。彼は直感的で、ビジョンを持っている。私はそんな彼と、彼の表現力を信頼している」と語るレッドフォードは、撮影現場ではすべてチャンダーにお任せだった。そして、俳優としての能力を最大限に引き出してくれる監督と仕事することを、大いに楽しんだという。 一方チャンダーは、“名監督”であるレッドフォードに、「…僕が撮ったものを見てチェックしたくないですか?」と聞いたりもした。しかしレッドフォードは、撮影が終わって半年後にラフカットを見せるまでは、何も見なかったという。 こうして完成した『オール・イズ・ロスト』は期せずして、レッドフォードの俳優生活晩年の代表作となった。それはある意味、「サンダンス・フィルム・フェスティバル」が彼にもたらした、最大の恩恵であったと言えるかも知れない。 そして、彼が見込んだJ・C・チャンダー監督はその後、『アメリカン・ドリーマー 理想の代償』(2014)、『トリプル・フロンティア』(19/ Netflix)と、高い評価を受ける作品を世に放ち続けている。■   <参考文献> 「オール・イズ・ロスト~最後の手紙」劇場用プログラム発行日:2014年3月14日発行所:東宝(株)映像事業部発行権者:(株)ポニーキャニオン編集:(株)東宝ステラ Indie Tokyo[584]誰もが知っているようでいて知らないサンダンス映画祭のこと著者:小島ともみhttp://indietokyo.com/?p=7337 サンダンス映画祭開幕!ロバート・レッドフォードが映画祭の顔から引退を表明2019年1月28日 21:00取材・文/平井伊都子https://movie.walkerplus.com/news/article/177409/

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マシスン原作の核に迫る映像化、そして幻となったシュワルツェネッガー版とは? ——『アイ・アム・レジェンド』——

尾崎一男

■前映画化作品に勝る、地上に一人残された主人公の“孤独感”  2007年に公開された『アイ・アム・レジェンド』は、リチャード・マシスンによる終末パニックホラー小説「吸血鬼」(54)の3度目となる長編劇映画化だ。前回の映画化作品『地球最後の男/オメガマン』(71)のリメイクとして、ワーナーはこの企画を世紀をまたぎ息づかせてきた。 しかし本作はマシスンの小説に立ち返ることで、単なるリメイクではなく、原作と『オメガマン』両方の性質を持つ内容となっている。ウィル・スミス演じる主人公ネビルは『オメガマン』と同じく科学者に設定されており(原作のネビルは工場労働者)、ただ事態に翻弄されるのではない、原因究明の使命を帯びたキャラクターを受け継いでいる。また過去回想のインサートによって、ネビルの背景と感染パニックの起点が明らかになる構成は原作に準拠したものだ。  いっぽう『オメガマン』からの変更点は時代設定のほか、人類がウイルス感染し、吸血鬼症を引き起こす原因が同作とは異なっている。前者は製作年度よりもやや先の2012年が舞台となり(『オメガマン』の時代設定は1977年)、そして後者は癌の治療薬として有効視されていた新型ウイルスが、抑制不能の伝染性ウイルスに変化したため引き起こされたものと改められた(『オメガマン』では中ソ戦争での生物兵器使用が原因)。 それにともない感染者の容姿や症状にも、著しい変化がもたらされている。『オメガマン』では感染者は肌の色素を失い、視力の退化した新種のミュータントと化し、自分たちの生存権を主張していた。しかし『アイ・アム・レジェンド』の感染者は「ダーク・シーカー」と呼ばれ、本能的に人を襲う凶暴な夜行性肉食生物として描かれている。その変化は「コミュニケーションのとれない外敵」という性質をおのずと強いものにし、9.11同時多発テロ以降のハリウッド映画らしい、姿なきテロリズムを暗喩したものになっている。  そして過去の映画化作にはない『アイ・アム・レジェンド』固有の特徴として、主人公ネビルの「孤独」を強調する演出が挙げられる。怪物化した感染症者との戦いもさることながら、地上から自分以外の人間が消え、ネビルは自律によって理性を保ち、近代文明から切り離された極限状態での生存を余儀なくされていく。マシスンの原作は、こうした孤独との葛藤を緻密に綴ることで、シチェーションそのものが持つ恐怖をとことんまで追求し、そして後半部の驚くべき展開への布石として機能させている。こうした原作に対する細心の配慮が、原作の根強い支持者だけでなく『オメガマン』に批判的だったマシスンの信頼をも取り戻していくのである。 ■徹底した封鎖措置と、デジタルの駆使によるニューヨークの廃墟化  そんなネビルの孤独を引き立たせるため、本作は無人となって廃墟化した市街地のシーンに創造の力点が置かれている。『オメガマン』では、この都市が無人化するインパクトのある場面を、舞台となるロサンゼルスで撮影。歩行者の少ない休日のビジネス街を中心にゲリラ撮影をおこない、効果的なショットの数々を生み出した。『アイ・アム・レジェンド』もこのアプローチにならい、作品の舞台であるニューヨーク市で実際にロケ撮影が行なわれている。ただ異なるのはその規模と方法で、こちらは南北は五番街を挟んだマディソン街と六番街の間、そして東西は49丁目から57丁目の間で歩行者と車の交通を完全に遮断し、人が一人として存在しない同シチェーションを見事に視覚化したのだ。ネビルを演じたウィル・スミスは、当時の撮影状況を以下のように振り返っている。「一生かけても無人のニューヨークなんて目にすることは絶対にないからね。あれはパワフルな光景だった。五番街の一角を無人にしたとき、僕たちは前例のないことをやっているんだということを痛感したよ」(*1) このようにして得た廃墟のショットを、本作はさらにデジタルで修正し加工することで、映画は無人となった都市の景観が、経年によってどのように変貌していくのかをシミュレートしたものにもなっている。本作のプロデュースと脚本を兼任したアキヴァ・ゴールズマンは、なによりそのモチベーションが『オメガマン』にあったのだと、同作への対抗意識をあらわにしている。「ロサンゼルスと違って、ニューヨークは24時間ひっきりなしに人が動いている。そんな場所で無人のゴーストタウンを作り出すなんて、それだけで挑戦的な価値があるといえるね」(*2)  リメイクの話が幾度となく出ては消える、そんなサイクルが常態化していた『アイ・アム・レジェンド』の映画化は、まさに作り手の企画に対する情熱的な思いと、映画技術の熟成こそが突破口を開けたのだ。   ■リドリー・スコット×シュワルツェネッガー版『アイ・アム・レジェンド』の幻影  そもそも『アイ・アム・レジェンド』は、本来ならば1990年代の中頃には完成が予定されていたものだ。当時アクション映画のトップスターだったアーノルド・シュワルツェネッガーが主演し、『エイリアン』(79)『テルマ&ルイーズ』(91)の巨匠リドリー・スコットが監督する形でプロジェクトが進んでいたのである。 リドリーはこの『アイ・アム・レジェンド』を『G.I.ジェーン』(97)の直後に手がけるつもりで、ワーナーとシュワルツェネッガー側からマーク・プロトセヴィッチ(『ザ・セル』(00))による脚本と、ジョン・ローガン(『ラストサムライ』(03)『007 スカイフォール』(12))による改訂稿を受け取っていた。リドリーは監督のオファーを承諾。その理由は意外なことに「アーノルドと一度仕事をしてみたかった」からだったという。  リドリーはローガンの改訂稿をもとにプロジェクトに着手。同稿はストーリーの流れがプロトセヴィッチの脚本(実際に映画化されたものはアキヴァ・ゴールズマンがこれを改訂)にほぼ近いが、ネビルの職業は科学者ではなく建築家で、また物語の後半、ネビルと、そして“カシーク”と名付けられた感染症者のリーダーとの壮絶な戦いが中心になっている。これは奇しくもリドリーの代表作『ブレードランナー』(82)における、デッカードとレプリカント・ロイとの異種同士の戦いを彷彿とさせ、図らずも同作を反復する刺激的な内容になっている。それでなくとも『アイ・アム・レジェンド』はリドリーの『ブレードランナー』以来のSF映画として、ファンの期待も相当に大きかったのだ。  しかし、予算計上が1億ドルを超えたあたりでワーナーは企画の進行に難色を示し、プロジェクトは暗礁に乗り上げた。シュワルツェネッガーの高額のギャラに加え、ロサンゼルス(企画時点での舞台設定)を封鎖して撮影をするという計画は、費用対効果の面で懸念の対象となったのだ。加えて当時はデジタル技術も過渡期にあり、物理的に廃墟を作り出すことを中心にする以外にない。同様の理由で吸血鬼症の感染者の表現も課題として、シュワルツェネッガー版の障害として立ちはだかった。リドリーの演出プランでは感染者は常時、皮膚を紫外線から隠すためにベドウィン(アラブの遊牧民族)のような外装をしていたが、実際に映画化されたクリーチャーに近いプロダクションデザインがなされ、その映像化にも多くの予算が費やされるであろうことが予測されたのだ。  とはいえ、このシュワルツェネッガー版、かなり長期にわたりプリプロダクション(撮影前の準備)がおこなわれていたようで、筆者(尾崎)が2000年代のリドリー・スコット作品の編集にたずさわった横山智佐子さんに取材したさい、編集室にひょっこりシュワルツェネッガーが顔を出すことがあったと語っていた。そのさいシュワは守秘義務などどこ吹く風で「今度リドリーと『アイ・アム・レジェンド』をやるんだよ、ガハハハハ!」と自慢げに話していたというから、本人もさぞや乗り気だったのだろう。ちなみに改訂稿にはネビルが葉巻を好むなど、実際のシュワルツェネッガーを想定して執筆したような痕跡が見られる。それだけシュワ自身としても肝煎りの企画だっただけに、個人的心情としては彼のバージョンも観てみたかった気がする。 ■シュワルツェネッガー版に異を唱えたギレルモ・デル・トロ  ところが、もう一人『アイ・アム・レジェンド』の監督に名乗りをあげた人物は、こうしたシュワルツェネッガーのキャスティングに異を唱えている。人間と半魚人との恋を描いた『シェイプ・オブ・ウォーター』(17)で、後にアカデミー賞を手中にするギレルモ・デル・トロだ。 ギレルモは当時、長編デビュー作『クロノス』(93)を完成させ、ジェームズ・キャメロン(『タイタニック』(97)『アバター』(09)監督)の米国での支援を受けながら、メジャーデビューへの糸口を探っていた。そして同作のために収集した吸血鬼の研究素材を『アイ・アム・レジェンド』に活かし、同作を企画中のワーナーに自ら監督の売り込みをかけたのだ。しかし既にシュワルツェネッガー主演で企画が検討されていることを知ったギレルモは、そのキャスティング案に違和感を覚え、マシスンの原作の精神に反するとワーナーの担当者に説いたという。彼は言う。「マシスンの原作は、普通の男が感染者たちから伝説として恐れられるところに意味を持たせている。シュワルツェネッガーの超人的なイメージは、それに合致するものとは思えないよ」(*3)  これらのリジェクト(却下された)企画に対し、実際に完成した『アイ・アム・レジェンド』以上に解説を費やした気もするが、その存在の正当性を示すには、背後に消えたものが何よりも強く声を放つことがある。とはいえジョン・ローガンの改訂稿にあった鹿の群れと遭遇する場面や、ネビルが罠に足をとられてしまう展開などは完成版でも引き継がれているし、リドリー・スコットはローガンと共に、SFに向けていた創作の熱意を古代ローマへと舵修正し、英雄史劇『グラディエーター』(00)という一大成果を生んだ。そしてギレルモ・デル・トロは、温めていた『アイ・アム・レジェンド』のアイディアを『ブレイド2』(02)に活かし、型破りで新しいヴァンパイアヒーローのさらなる洗練に成功している。そしてギレルモの危惧したネビル像は、アクションスターではあるが自然な演技感覚を持つウィル・スミスにより、理想的な形で具体化されたといっていい。 当人たちにはたまったものではないだろうが、こうしてリジェクト企画を振り返るのも、作品を知るうえで決して後ろ向きな行為ではないのだ。■

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吸血鬼を恐れぬ現代に、どんな恐怖を暗示させるのか—? 『地球最後の男 オメガマン』

尾崎一男

■チャールトン・ヘストンのディストピア三部作 『地球最後の男 オメガマン』(71)は、TVシリーズ『ミステリーゾーン』(58〜64)における数多くのエピソードや、スティーブン・スピルバーグの出世作『激突!』(71)の原作を手がけた作家リチャード・マシスンが、1954年に発表した同名長編小説の映画化だ。日本で翻訳が出版されたときの邦題が「吸血鬼」で、そのタイトルどおり、ウイルスの蔓延によって人類は夜行性の吸血鬼と化し、抗体として人間のまま生き残った主人公ロバート・ネビルが、孤独に耐えながら彼らと戦う物語だ。  もっとも「吸血鬼」は過去に3度映画化されており、『オメガマン』はその2本目にあたる。1本目は怪奇俳優として名高いヴィンセント・プライスが主演した『地球最後の男』(64)。マシスンが偽名で脚本執筆に加わっただけあって、物語は原作にきわめて忠実だ。またタイトルからもわかるように、『オメガマン』はギリシャ語アルファベットの最後となる文字「Ω(オメガ)」を用い、『地球最後の男』を婉曲的に踏襲している(ちなみに3本目の『アイ・アム・レジェンド』(07)はこちらを参照)  この『オメガマン』はネビルを演じたチャールトン・ヘストンがワーナー・ブラザースに売り込んだ企画で、その頃の彼の立ち位置を知ると動機がわかりやすい。『十戒』(56)や『ベン・ハー』(59)など、宗教啓蒙的な性質を持つ史劇大作で世界に名を広めたヘストンだが、60年代後期は俳優としての変革期にあった。そこで先述の作品で得たパブリックイメージを保たせながら、自身のキャリアに柔軟性をもたせるための、既成でない対勢力にあらがう新たなヒーロー像を模索したのだ。中でも際立ったのが、人類が猿に支配される『猿の惑星』(68)や、人間を食料加工品にする『ソイレント・グリーン』(73)といった、時代の機微に応じて製作されたディストピア(暗黒郷)SFへのアクセスである。  当時、アメリカはインフレが加速して石油価格が上昇し、景気が後退。ベトナム戦争の長期化によってNASAの宇宙開発は凍結され、社会を暗く揺れ動かしていた。これらの事象に対する動揺を反映するかのように、アメリカ映画界にはダークで終末感に満ちた作品が群発したのである。ヘストンはそんなムーブメントに対し、自らディストピアSFに活路を見出し、マシスンの原作の現代的アレンジに強い関心を示していたのだ。 ヘストンは「吸血鬼」を主演作『黒い罠』(58)の撮影時、監督のオーソン・ウェルズから勧められて手にとっている。そして原作に惹き込まれた彼は1969年11月、プロデューサーのウォルター・M・ミリッシュ(『荒野の七人』(60)『夜の大捜査線』(67))と話し合い、ワーナーと接触。翌1970年1月には『地球最後の男』にあたってアウトライン研究を始め、同年2月8日に脚本担当のジョン・ウィリアム・コリントンと、彼の妻ジョイスらと共に脚本開発に移行している。 ■作品の背後にあるゼノフォビア  コリントン夫妻は『地球最後の男』と同様、ネビルが科学者である設定を引き継ぎ、また異なるポイントとして、ウイルスの影響によって変貌した人間の描写を更新させた。『オメガマン』において彼らは黒衣をまとい、自分たちの共同体を「ファミリー」と呼び、生存権を主張する“ミュータント”に変えたのである。 映画はこうした形で、人種のカテゴリーが崩壊し、社会的優位をが脅かされていくことへの警戒心を内在させ、そこには当時すさまじい勢いでアメリカを席巻していた公民権運動(黒人が自由と平等を獲得するためにおこした運動)や、ベトナム戦争への不審が生んだカウンターカルチャー(対抗文化)の存在がうかがえる(ヘストン自身は公民権運動の支持者であり、ベトナム戦争に反対の立場をとっていた)。あるいは若い信徒を「ファミリー」と称して引き連れ、映画女優シャロン・テートの殺害に及んだチャールズ・マンソンのような、カウンターカルチャーが誘引した反社会勢力を連想させるものとなっているのだ。またウイルス感染の起因が「中ソ戦争による科学兵器の使用」と設定づけられたのも、1969年3月2日に起こった中ソ国境紛争(中国人民解放軍がダマンスキー島のソ連国境警備隊55人を攻撃した紛争)が背景にあり、そこに当時の共産主義に対するアレルギーが見え隠れしている。 他にも物語の要となるヒロインにロザリンド・キャッシュを起用し、当時のハリウッドメジャー作品としては異例の異人種間のロマンスを展開させたことで、そこに公民権運動を牽引するブラックパワーや、ウーマンリブ(女性解放運動)の影響を指摘することもできる。つまり『オメガマン』は、総じてアメリカが同時代に抱えていた「ゼノフォビア(外来恐怖症)」を反映したものになっているのである。  もっとも、こうしたゼノフォビアは原作が生まれた段階から宿命のようにつきまとっている。マシスンの「吸血鬼」が世に出た1950年代、アメリカは米ソ冷戦や共産主義への深刻な脅威にさらされ、ゼノフォビアは侵略SFという形を借りて描かれてきた。それを象徴するようにジャック・フィニィの「盗まれた街」や、ロバート・A・ハインラインの「宇宙の戦士」など侵略SFのマスターピースが発表され、また映画においては数多くのエクスプロイテーションな侵略SFものが量産されている。 マシスンは幼い頃、ベラ・ルゴシ主演のモンスター映画『魔人ドラキュラ』(31)を観たとき「個体でさえ恐ろしい吸血鬼が集団化したらどうなるのか?」という思いに駆られ、それが「吸血鬼」を手がける発端だったと語っている(*1)。多数派によるカテゴリーの侵食や崩壊がイメージの根にある本作が、映画化によってその時々のゼノフォビアに感応するのは自明の理といえるだろう。 ■原作者マシスンの『オメガマン』に対する反応  そんな『オメガマン』を、原作者であるリチャード・マシスン自身はどう思ったのか?  マシスンは後年のインタビュー(*2)において、「チャールトン・ヘストンはいい俳優だし、マンソンファミリーのようなカルトを皮肉るなど、映画は時代性をよくあらわしている。だが個人的には好ましくない映画化だ」 と述べている。製作当時、ワーナーは改変のためにマシスン本人からの権利譲渡を避けたようで、こうした先方の態度に思うところがあったのだろう。ちなみにマシスンが「吸血鬼」の映画化作品で認める姿勢を示したのは、意外なことに傍流というべき食人ゾンビ映画の嚆矢『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(68)だ。同作は「吸血鬼」をイメージソースとしており、監督のジョージ・A・ロメロは『ナイト〜』の商標権を取り戻すために動いていたときにマシスンと会い、アイディアを拝借したことを彼に白状している。そこで商標権の登録ミスにより、自分がこの映画で儲けていないことを告げると「あなたがお金持ちになっていないなら、それ(アイディアの流用)は無問題さ」とロメロに同情を寄せたという(*3)。  さいわいにも2007年の映画化『アイ・アム・レジェンド』のときは、マーク・プロトセヴィッチの手による脚色がよく出来ていると賞賛。プロモーションにも協力するなど、ワーナーとの関係を回復させて彼はこの世を去っている。  とはいえ、こうした原作者の感情がどうであれ、『地球最後の男 オメガマン』はカルト映画として支持され、恒久的にファンを獲得し続けている。それは本作が、1970年代ディストピアものとして他にはない独特の雰囲気を放ち、また前述のようなメッセージ性をはらむ作品構造が、いつの時代の社会問題にも置き換え可能だからだろう。欧州の難民問題、トランプ政権下の移民政策etc.はたして我々はいま、この映画に何を見るのだろう?■  

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