マニアック+入手困難+本邦初公開 シネマ解放区

「シネマ解放区」ラインナップのうち、ザ・シネマが独自の視点で特に推薦する“お宝作品”について、他では見れないプロによる解説や評論をつけたスペシャルコラムを毎月連載中!

2017年5月号

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文:清藤秀人

グッドナイト&グッドラック

©2005 Good Night Good Luck, LLC. All Rights Reserved.

 『シリアナ』(05)でアカデミー助演男優賞を受賞した時、壇上に上がったジョージ・クルーニーのスピーチに耳を傾ける同業者たちの、尊敬と憧れに満ちた表情が今でも忘れられない。クルーニーはこう言い切った。『映画に携わる仲間の一員であることを誇りに思う』と。場内に割れんばかりの拍手と歓声が沸き上がったことは言うまでもない。

 同年、クルーニーが2度目の監督作に選んだ『グッドナイト&グッドラック』を見ると、まさしくオスカーナイトでの言葉通り、彼が映画人としての使命にいかに忠実であるかがよく分かる。選んだネタは、1950年代のアメリカ社会で吹き荒れたマッカーシー上院議員による反共産主義活動、いわゆる赤狩りに敢然と挑み、マーカーシズムの悪夢を終焉へと導くきっかけになったTVマンたちのリアルストーリーだ。宗教や思想の自由を束縛する政治の横暴に立ち向かおうとした人々を映像で蘇らせること。それはそのまま、今のハリウッドに求められるミッションだと、彼は確信したに違いない。その決断が、10年後のまさに今の今、これほど重い意味を持つことになるとは、当時のクルーニー自身、想像だにしていなかったかも知れないが。

 物語のキーマンは、アメリカ3大ネットワークの1つ、CBSの人気ニュース番組"シー・イット・ナウ"のキャスター、エド・マローだ。ある空軍兵士が赤狩りによって不当に除隊処分されようとしている事実を掴んだマローと番組スタッフが、マッカーシー側の圧力を受けながらも、虚偽と策謀の実態を生放送の中で告発していくプロセスを、クルーニーは当時のニュースフィルムと自ら撮った映像とを交えて構成。そこまでなら、多くの監督が取ってきた既存の手段だ。1950年代にはモノクロだったTV番組を克明に再現するため、カラーで撮ったフィルムをポスト・プロダクションであえて彩度を落としてモノクロに変える方法も、さほど珍しくはない。

 監督としてのジョージ・クルーニーが同業他者と少し違うのは、その徹底した美意識だ。マローはCBS入社後、第二次大戦下のロンドンでラジオ・ジャーナリストとして番組を担当していた時、毎夜ナチスの空襲に脅えるロンドン市民に対して、番組終了間際に『グッドナイト、アンド、グッドラック』と呼びかけることで知られていた。もしかして就寝後、爆死するかも知れない人々の耳に『おやすみ、そして、幸運を祈ります』がどう届いたか?想像に難くないが、"シー・イット・ナウ"でもその決まり文句が番組の結びにも使われていたことから、クルーニーは映画のタイトルとして流用。しかし、そんなキザな文句を台詞としてかっこよく決められる俳優はそう多くない。

 そこで、発案段階から監督のファースト・チョイスだったのがデヴィッド・ストラザーンだ。映画デビュー前の数年間を舞台俳優として全米各地を巡演したこともあるストラザーンの口跡の良さを見抜いていたクルーニーは、信念を持って彼を主役に抜擢。一語一語が視聴者の心に届くようなその紳士的な抑揚と発音は、社会を覆う赤狩りの暗雲を切り裂く鋭利な刃物のようで、監督の狙いはどんぴしゃだったはず。声だけじゃない。ストラザーンの顔の輪郭、特に美しい眉と目が、本番中、左下に置かれた原稿とカメラの間をゆっくりと往復する時、観客は思わず惹きつけられて当時のTV視聴者になったような錯覚を覚えるほど。実物のマローはストラザーンとは似ても似つかぬルックスだが、左下と正面を往復する目線は全く同じ。監督が事実を忠実にコピーしていることが伺える。『シリアナ』でクルーニーと組み、後に『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(07)でオスカーに輝くカメラマン、ロバート・エルスウィットの、ストラザーンの輪郭を熟知したアングルとライティングにも注目して欲しい。

 クルーニーは脇役にもこだわった。台詞がある役には1950年代のアメリカ人らしい顔と雰囲気を持った俳優たちが集められた。番組スタッフ役のロハート・ダウニーJr(『アベジャーズ』の前は『チャーリー』(92)で赤狩りでハリウッドを追われたチャップリンを好演)、同じくパトリシア・クラークソン(『エデンより彼方に』(02)で'50年代のブルジョワ主婦役)、同じくテイト・ドノヴァン(『メンフィス・ベル』(90)で第2次大戦を戦った米軍パイロット役)、放送局幹部役のジェフ・ダニエルズ(『カイロの紫のバラ』(85)で往年の映画スター役)、そして、プロデューサー役にはクラシックビューティの権化とも言うべきジョージ・クルーニー本人という、まさにパーフェクトな布陣である。

 音楽も粋だ。シークエンスとシークエンスを繋ぐグッド&オールドなジャズナンバーを歌うのは、現役最高峰のジャズシンガーと言われるダイアン・リーヴス。劇中でリーヴスのバッグハンドを務め、映画で使われる全曲のアレンジを担当しているのは、監督の叔母で歌手兼女優だったローズマリー・クルーニー(02年に他界)のラスト・アルバムをプロデュースしたマット・カティンガブだ。

 マローが"シー・イット・ナウ"と同じくホストを務めるインタビュー番組"パーソン・トゥ・パーソン"で、伝説のピアニストでワケありのリベラーチェに白々しく結婚観を質問した直後の気まずい表情、同番組で話題に上がるミッキー・ルーニーのほぼレギュラー化していた新婚生活情報(ルーニーは93年の生涯で計8回結婚)等、クルーニーとグラント・ヘスロブが執筆した脚本には、けっこうな毒も含まれている。その最たるものは、劇中のほぼ全ショットにタバコの煙が充満している点だ。番組スタッフは四六時中タバコを吹かし、マローに至っては本番間際にプロデューサーから火を点けて貰い、カメラが回り始めても吸い続けていると言った具合だ(ストラザーンはノンスモーカーらしいが)。これには理由があって、CBSのオーナー、ウィリアム・ペイリーがタバコ会社の御曹司で、社会の喫煙には寛容だったようなのだ。

 つまり、ペイリーは反マッカーシズムを貫いた結果、スポンサー離れを招いた"シー・イット・ナウ"のスタッフを危険視しつつも、社員の健康には無頓着だったということになる。そんな、ある意味古き良き企業の矛盾を炙り出しながら、赤狩り時代のTV界をヒントに、ニュース番組の、ひいては映画産業のあるべき姿を問い質そうとしたとした監督・脚本・出演のジョージ・クルーニーは、やはり業界人にとって眩しい存在に違いないという、再び冒頭の結論に立ち戻ってしまう。
 
 結婚以来、俳優としてはどうやら一段落つき、今秋の全米公開に向けて製作中の最新監督作『Suburbicon(原題)』は、マット・デイモンを主役に迎えた初のミステリーだとか。そんなクルーニーに新たなラックが訪れることを祈りたいと思う。

グッドナイト&グッドラック

清藤秀人

アパレル業界から映画ライターに転身。著書にファッションの知識を生かした「オードリーに学ぶおしゃれ練習帳」(近代映画社刊他)。現在、TV誌、ぴあ、映画.com、Yahooニュース・個人「清藤秀人のシネマジム」等にレビューやインタビューを執筆する他、J-WAVEなどにコメンテーターとして出演。

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文:尾崎一男

フッテージ

©2012 Alliance Films(UK) Limited

■スナッフ(殺人)フィルムという誘導装置

 一家殺人事件の真相を追い、事件現場の空き家へ移り住んだノンフィクション作家のエリソン(イーサン・ホーク)。彼はある日、同家の屋根裏部屋で現像された8ミリフィルムを発見する。しかもそのフィルムには、件の一家四人が何者かの手によって、絞首刑される瞬間が写っていた……。

 スコット・デリクソン監督によるサイコロジック・ホラー『フッテージ』は、タイトルどおり「ファウンド・フッテージ(発見された未公開映像)」という、同ジャンルでは比較的ポピュラーなフックによって物語が吊り下げられている。例えば同様の手法によるホラージャンルの古典としては、1976年にルッジェロ・デオダート監督が手がけた『食人族』(80)が知られている。アマゾンの奥地へ赴いた撮影隊が現地で行方不明となり、後日、彼らが撮影したフィルムが発見される。そのフィルムを映写してみたところ、そこに写っていたのは……という語り口の残酷ホラーだ。日本ではあたかもドキュメンタリーであるかのように宣伝され、それが奏功して初公開時にはヒットを記録している。また、その『食人族』の手段を応用し「行方不明の学生が残した記録フィルム」という体で森に潜む魔女の存在に迫った『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(99)は、昨年に続編が作られたことも手伝い、このスタイルでは最も名の挙がる映画ではないだろうか。

 しかし、それら作品におけるフッテージは、あくまで本編の中の入れ子(=劇中劇)として従属するものであって、それ自体が独立した意味を持ったり、別の何かを連想させることはない。ところが『フッテージ』の場合、劇中に登場するフッテージは「スナッフ(殺人)フィルム」という、極めて具体的なものを観客に思い至らせるのである。

 スナッフフィルムとは、偶発的に死の現場をカメラが捉えたものではなく、殺人行為を意図的に撮影したフィルムのこと指す。それが闇市場において、好事家を相手に高値で売られていると、70年代を起点にまことしやかに噂されていた。実際には「殺人を犯すリスクに見合う利益が得られるのか?」といった経済的な疑点もあり、あくまでフォークロア(都市伝説)にすぎないと結論づけられているが。

 しかし、そんなフォークロアが当時、個人撮影のメディアとして主流を成していた8ミリと結びつくことで、あたかもスナッフフィルムが「存在するもの」として、そのイメージが一人歩きしていったといえる。同フォーマットならではの荒い解像度と、グレイン(粒状)ザラッとした映像の雰囲気、また個人映画が持つアンダーグラウンドな響きや秘匿性など、殺人フィルムの「いかがわしさ」を支えるような要素が揃っていたことも、イメージ先行に拍車をかけたといっていい。

 事実、こうしたイメージに誘引され、生み出された映画も存在する。タイトルもズバリの『スナッフ/SNUFF』(76)は、クライマックスで出演者の一人が唐突に殺されるという、フェイク・ドキュメンタリーを装った作りでスナッフフィルムを標榜しているし、またニコラス・ケイジ主演による『8mm』(05)は、スナッフフィルムを出所を追うサスペンスとして、劇中に迫真に満ちた当該シーンが組み込まれている。

『フッテージ』では、そんなスナッフフィルム、ひいてはアナログメディアの“残像”ともいえるものを、現実と幻想とを繋ぐ重要な接点として劇中に登場させている。殺人を写し撮ったフィルムの向こうに潜む、邪悪な存在ーー。本作がホラーとして、その表情をガラリと変えるとき、この残像は恐ろしい誘導装置となるのだ。デリクソン監督は言う、

「不条理な世界を確信に至らせるのならば、細部を決しておろそかにしてはいけない」
(『フッテージ』Blu-rayオーディオコメンタリーより抜粋)


■『フッテージ』から『ドクター・ストレンジ』へ

 もともとデリクソン監督は、こうしたフィルムメディアの「残像」を常に追い求め、自作の中で展開させている。氏のキャリア最初期を飾る劇場長編作『エミリー・ローズ』(05)は、エクソシズム(悪魔祓い)を起因とする、女子大生の死の真相を明かしていく法廷サスペンスで、その外観は『フッテージ』のスナッフ映像と同様、フィルムライクな画作りが映画にリアリティを与えている。さらに次作となる『地球が静止する日』(08)は、SF映画の古典『地球の静止する日』(51)をリメイクするという行為そのものがフィルムへの言及に他ならない。続く『NY心霊捜査官』(14)を含む監督作全てが1:2.35のワイドスクリーンフォーマットなのも、『エミリー・ローズ』でのフィルム撮影を受け継ぐ形で、デジタル撮影移行後もそれを維持しているのだ。

 そんなデリクソンのこだわりは、今や充実した成果となって多くの人の目に触れている。そう、今年の1月に日本公開された最近作『ドクター・ストレンジ』(16)だ。
 同作は『アイアンマン』や『アベンジャーズ』シリーズなど、マーベル・シネマティック・ユニバースの一翼を担う風変わりなヒーロー映画だが、その視覚体験は近年において飛び抜けて圧倒的だ。ドクター・ストレンジはスティーブ・ディトコとスタン・リーが1963年に生み出したクラシカルなキャラクターで、当時の東洋思想への傾倒やドラッグカルチャーが大きく作品に影響を与えている。その証が、全編に登場するアブストラクト(抽象的)な視覚表現だろう。VFXを多用する映画の場合、その多くは存在しないものをリアルに見せる具象的な映像の創造が主となる。しかし『ドクター・ストレンジ』は、ストレンジが持つ魔術や多元宇宙の描写にアブストラクトなイメージが用いられ、誰も得たことのない視覚体験を堪能させてくれるのだ。

 それは俗に「アブストラクト・シネマ」と呼ばれるもので、幾何学図形や非定形のイメージで画を構成した実験映画のムーブメントである。1930年代にオスカー・フィッシンガーやレン・ライといった実験映像作家によって形成され、原作の「ドクター・ストレンジ」が誕生する60年代には、美術表現の多様と東洋思想、加えてドラッグカルチャーと共に同ムーブメントは大きく活性化された。

 このアブストラクトシネマの潮流も、フィルムメディアが生んだもので、デリクソンは実験映像作家のパーソナルな取り組みによって発展を遂げた光学アートを、メジャーの商業映画において成立させようと企図したのである。

 デリクソン監督が作中にて徹底させてきたフィルムメディアの“残像”は、ここまで大規模なものになっていったのだ。


■日本版ポスター、痛恨のミステイク

 このような流れを踏まえて『フッテージ』へと話を戻すが、原題の“Sinister”(「邪悪」「不吉」なものを指す言葉)を差し置いて、先に述べた論を汲んだ邦題決定だとすれば、このタイトルをつけた担当者はまさに慧眼としか言いようがない。

 しかしその一方で、我が国の宣伝は本作に関して致命的なミスを犯している。それは日本版ポスターに掲載されている8ミリフィルムのパーフォレーション(送り穴)が、1コマにつき4つになっていることだ。

 8ミリを映写するさい、プリントを送るためのパーフォレーションは通常1コマにつき1つとなっている。しかしポスター上のフィルムは4つ。これは35ミリフィルムの規格である。つまりポスター上に写っているのは8ミリではなく、35ミリフィルムなのだ。

 まぁ、そこは経年によるフィルムメディアへの乏しい認識や、フィルムということをわかりやすく伝えるための誇張だと解釈できないこともない。しかし、単にアナログメディアを大雑把にとらえた措置だとするなら デリクソン監督のこだわりに水を差すようで、なんとも残念な仕打ちといえる。

フッテージ

尾崎一男

映画評論家&ライター。現在『チャンピオンRED』(秋田書店)、『映画秘宝』(洋泉社)、『フィギュア王』(ワールドフォトプレス)他、映画の劇場パンフレットやDVD&Blu-rayのライナーノーツなどにて連載、執筆を行う。共著に『市川 崑 大全』(洋泉社)等。また“ドリー・尾崎”の名義でシネマ芸人ユニット[映画ガチンコ兄弟]を組み、TVやトークイベントでも活躍中。日本映像学会(JASIAS)会員。

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文:高橋ターヤン

哀しき獣

© 2010 WELLMADE STARM AND POPCORN FILM ALL RIGHTS RESERVED.

 いま、世界でもっとも熱い映画を作り続けている国は、間違いなく韓国だ。

 国策として政府が映画界に公的資金援助をしているというだけでなく、才能豊かで多士多才な人材が、様々なジャンルで恐ろしいほどエンターテインメント性にあふれる作品を発表し、それが韓国国内で大ヒットを記録するという好循環が生まれている。そんな多士多才な面々の中でも、寡作ながら作る映画がすべて強烈なパンチ力で観る者をノックアウトするパワーを持つ傑作ばかりというのが『哀しき獣』のナ・ホンジン監督だ。

 ナ・ホンジン監督は1974年生まれの42歳。私立の名門・漢陽大学校から韓国芸術総合学校に入学している。ちなみに韓国芸術総合学校は国立の芸術家養成学校であり、キム・ドンウク、オ・マンソク、ユン・ソンホ、イ・ソンギュン、イ・ジェフン、チョン・ジェウンといった多くの映画人を輩出する名門校だ(映画だけでなく芸術全般をフォローする学校である)。韓国芸術総合学校を卒業したナ・ホンジンは、短編映画の制作を開始。初の短編映画は2003年の『5 Minutes』、2005年には短編『完璧な鯛料理』、2007年に短編『汗』を発表。その才能は次第に認められていく。

 そして満を持して2008年に、初の長編映画作品となる『チェイサー』を発表する。『チェイサー』は2004年に起きた“ソウル市20人連続殺人事件”をベースにした作品。この事件は、風俗嬢を中心に20人が殺された連続殺人事件(犯人は26人殺害を主張)で、元刑事でデリヘル経営者ジュンホ(キム・ユンソク)が、自店の風俗嬢が殺されたことをきっかけに連続殺人犯(ハ・ジョンウ)と対決する姿を描くアクション・スリラー。捕えても捕えても釈放されてしまう連続殺人鬼と、それを執念で追う主人公の構図はまさに21世紀の『ダーティハリー』。凄まじい残酷描写と救いの無い展開、そしてド迫力のアクションを圧倒的な映像美で描き切った『チェイサー』は、韓国で500万人以上の観客を動員するメガヒット映画となった。『チェイサー』は韓国のアカデミー賞とも言える大鍾賞の主要6部門を制覇し、大韓民国映画大賞も受賞。それと共に監督のナ・ホンジンは一躍ヒットメーカーの仲間入りを果たしたのだった。

 そんなナ・ホンジン監督の長編第2作が、今回ご紹介する『哀しき獣』である。

 中華人民共和国吉林省の東端に位置する延辺朝鮮族自治州のある街。脱北ビジネスの盛んなこの街で、タクシー運転手のグナム(ハ・ジョンウ)はひたすら麻雀にのめり込んでいた。しかし生来の博打下手であるグナムは、今日もタクシーの売上をすべてスッてしまう。グナムは妻を韓国に出稼ぎに行かせるために多額の借金を背負っていたが、借金返済目的で始めた麻雀でさらに借金が膨らむという悪循環に陥っていたのだ。さらに出稼ぎに行ったはずの妻は音信不通となり、周囲からは「妻は男を作って逃げた」と言われる始末。一人娘は祖母と暮らしている。出口の見えない無限地獄の中で苦しむグナム。ある日麻雀で負けた際に「チョーセン野郎め」と罵られて雀荘で暴れてしまう。その自暴自棄な様子をじっと見つめる男。男は延辺一帯と韓国の密入国ルートを掌握するギャング団のボスであるミョン(キム・ユンソク)だ。ミョンはグナムにある仕事を持ちかける。それは、韓国に密入国してキム・スンヒョンなる人物を殺し、殺害の証としてその親指を持ち帰るという請負殺人だった。悩んだ末に仕事を受けるグナム。ターゲットの所在を確かめ、綿密な計画を立てて殺害に臨むグナムだったが、グナムが殺害を実行しようとしたその時、別の暗殺者がスンヒョンを殺してしまう。現場に居合わせたことから殺人容疑者として全国に指名手配されたグナムは、必死で韓国からの脱出を図るが……。

 出演は前作『チェイサー』に引き続き、ハ・ジョンウとキム・ユンソク。『チェイサー』と同様に追うユンソクと追われるジョンウという構図と役割は一緒のままではあるが、視点を変えただけでここまで印象が変わるか!という目から鱗な映画になっているのだ。

 ケンカは強いがやることなすことポンコツなダメ男グナムを演じるのはハ・ジョンウ。しかしこのグナムは殺人者として韓国に密入国してから思わぬ才能を開花させ、また追われる立場になってからは、追い詰められれば追い詰められるほど過剰なまでに火事場のクソ力を発揮する様に、観客はひたすらグナムを応援せざるを得ない心理状態になってく。寡黙なグナムのセリフは極限まで削られており、表情だけで訴えるハ・ジョンウの演技は見事である。

 しかし本作で何よりも強烈なインパクトを与えるのは、キム・ユンソクが演じたミョン社長だ。初登場時は気のいいガハハオヤジのように見えるミョン社長だが、第3部では暴力の塊のようなその本性を露わに。韓国ヤクザの襲撃をたった一人で撃退し、部下を連れて韓国に乗り込んでからは縦横無尽な大殺戮ショーを繰り広げる。詳述は避けるが、クライマックス近くで(ありえない)ある武器で無双状態になる姿は観る者を唖然とさせる名シーンなので決して見逃さないように。触る者皆殺しまくるミョン社長は、『ノーカントリー』の暗殺者アントン・シガー(ハビエル・バルデム)のような、言ってみれば天災のような存在として描かれている。ミョン社長は全世界の映画史に残る最恐のヴィランと言って良いだろう。

 他にも冷徹な韓国ヤクザのキム・テウォン、殺し屋ソンナム役のイ・チョルミンなど、すべての主要登場人物について、初登場時の印象や設定が映画の進行とともに少しずつ(あるいは突然ドラスティックに)変化していくというのもポイント。追う者が追われる者となり、強気が弱気になり、生きる意味を失っていた者が最後の生を振り絞って戦いに挑む。キャラクターの意思が映画の転換点で上手く活用されており、最初から最後まで変化の無いキャラクターは一人もいないのだ。こんな映画観たことが無い。

 アクションシーンの多くは牛刀や出刃包丁、斧や鉈といった日常感溢れる、だからこそそれを使って襲われることの恐怖を身近に感じる武器を利用したもの。そしてハ・ジョンウをはじめとして登場人物が走る走る。この”逃走描写”も、ただ道路を走るだけでなく、ビルの上下への逃走、森の中の逃走、雪山の逃走、海での逃走……など書ききれないほどバラエティ豊かな”逃走描写”になっており、まったくビタ1ミリたりとも冗長感を感じることはないだろう。特にカーチェイスについては、『ブルース・ブラザース』や渡瀬恒彦の『狂った野獣』なみに大量のカークラッシュが準備されており、車が折り重なる絵面で興奮するカークラッシュマニアの諸兄も大満足するものであることを約束しよう。

 140分という長い映画であり、所々に分かりづらい部分がある作品であるのは事実。しかしそれでも、新鋭ナ・ホンジンのユーモアを交えた緩急のある演出、俳優陣の熱のこもった演技合戦、二転三転する物語、疾走感溢れる逃走劇、怒涛のカーチェイス、そして凄惨なスプラッターシーンが高次元で融合した本作は、すべての映画ファンに捧ぐ大傑作なのである。公開中のナ・ホンジン監督の新作『哭声/コクソン』(こちらも大傑作!)を観る前に、是非ご覧頂きたい逸品だ。

哀しき獣

高橋ターヤン

映画ライター、海外格闘技ライター。『映画秘宝』、『DROPKICK』などで活動中。謎の格闘技メディアコングロマリット『格闘秘宝館』主宰。 『別冊映画秘宝 TOKYO TRIBE & 世界ギャングスタ映画読本』、扶桑社ムック『俺のプロレス』などに長文記事を書いてます。

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