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PROGRAM/放送作品
泥棒を捕まえる人
チャップリン初期の短編。コメディアングループ、キーストン・コップスの一員として出演した幻の作品。
コメディアングループ、キーストン・コップスの一員として出演している作品。キーストン作品に出演した証拠もフィルムもなかったが、2010年にフィルムが再発見され、大きな話題を呼んだ幻の作品。
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COLUMN/コラム2017.07.28
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年8月】飯森盛良
8月メイン『フューリー』にあわせてティーゲルI特集。『フューリー』はとんでもない残酷描写により「戦争怖い!」という感想しか抱きようがなくする、優れた反戦映画だ。この露映画も別アプローチの優れた戦争映画。これは寓話だ。死なない露戦車兵vsモンスター的に強い独ホワイトタイガー。別に白くないのになぜに「ホワイト」と呼ばれてるのか?そういや『白鯨』って小説もあったな。そして「戦争は終わらない。消えたホワイトタイガーもいつかまた必ず現れる」と言った後、目を離した一瞬の隙に煙のように消える露戦車兵の正体とは!? 最後に、ヒトラーが「我々はあまりにもお互いをよく知りすぎた」と話しかけ戦争論を熱く語っている相手は何者なのか?顔が暗くて見えないし、そもそもこの時点でヒトラーはとっくに自殺してるはずだが…戦争の神と悪魔とが大祖国戦争の事どもに化身して織り成す寓意。さすがはロシア産戦争映画、深い!■ ©2012 Mosfilm Cinema Concern All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
(吹)チャップリンの移民
喜劇王チャップリンの傑作短編が吹替で蘇る!厳しい現実の中、力を合わせていく男女の姿を描く。
チャップリンの傑作短編が日本を代表する声優陣によって吹替で蘇る!移民船で知り合った貧しい男女が厳しい現実のなか力を合わせて生きていく様を描き、チャップリンのイメージが完成したミューチュアル期の傑作。
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COLUMN/コラム2017.07.28
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年8月】キャロル
『エターナル・サンシャイン』のミシェル・ゴンドリー監督がジャック・ブラックとダニー・グローヴァー主演で描く、ハートウォーミング・コメディ。ブロックバスター級のハリウッド映画を、ド素人がリメイクする!?というお話。手作り感満載のリメイク版は、作品の特徴をよく掴んでいて、オリジナル版を知っている人なら思わず「そうきたか(笑)!」と唸ってしまう場面もあるはず。冒頭のジャック・ブラックの“ウザキャラ”な役どころが本当にウザッたくて、観るのをやめようかと思うくらい不快感まで覚えてしまったのですが(なんて大人気ない)、気が付くと最後には“結局憎めないヤツ”になっていて・・・。そんなところに、ジャック・ブラックの俳優としてのスゴさを感じました。(実際にアメリカというデカい国にはゴロゴロいそうですしね、こういう困った人。)そして、現実ではちょっと考えられないような、無理やりな感じがするストーリー展開なのですが、最後の最後の最後で、やられたーーーーーーーーーー!まさかウルッと涙してしまうとは。これは予想外でした。ところで本作品の話題になると、必ずといっていいほど「邦題がひどいよね」と言う話が出てくるのですが(「僕らのミライへ逆回転」「邦題」でためしに検索したら、あらホント)、、、私はそんなに悪くないと思うなぁ。アナログな手段で未来を切り開いていく、みたいな含みを感じるし、温かみもあるし。映画っていいものですねぇ、と思わずにはいられない。軽いタッチでサラッと見れるけれど、製作者の映画愛が全編から伝わってくる温かい作品です。8月のザ・シネマで放送しますので、テレビをつけて偶然出会うことがありましたら、ぜひご覧になってみてください。■ © 2007 Junkyard Productions, LLC. All rights reserved.
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PROGRAM/放送作品
アルコール先生お好みの気晴らし
チャップリン初期の傑作短編。チャップリンにとって初の本格的主演作で、酒場から始まる大騒動を描く。
チャップリンにとって初の本格的な主演作となる。酔っ払い演技やスウィングドアとの格闘ギャグなど、随所にチャップリンらしい演技が見られる。人妻を演じたペギー・ピアースは当時のチャップリンの恋人だった。
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COLUMN/コラム2017.07.20
『20センチュリー・ウーマン』も公開中のマイク・ミルズ監督。監督の長編2作目もやはり彼が良く知る人物と彼自身の物語。『人生はビギナーズ』。
マイク・ミルズの長編2作目となる『人生はビギナーズ』は、彼の半生をもとにしたユニークな物語である。若い人たちにはなじみがないかもしれないけれど、 もともとマイクは90年代にビースティ・ボーイズやソニック・ユースのアートワークを手がけ、ユースカルチャーの重鎮として活躍したグラフィックデザイナー。主人公のオリヴァー(ユアン・マクレガー)の職業もグラフィックデザイナーであり、作中のオリヴァーによるドローイングはマイク自身が手がけている。75歳の父親からゲイだとカミングアウトされたのは、老いた母親をがんで亡くした半年後のことだ。 オリヴァーは父親の告白を受けて、当然だが動揺する。なのに当の父親はといえば、生まれ変わったようにうきうきとして楽しそうだ。さらにオリヴァーの心をゆさぶったのは、母親は結婚する前からその事実を知っていたらしいということだった。ユダヤ人であった母親は、すねに傷持つもの同士と思ったかどうだか、高校の同級生であったゲイの男と結婚した。いまではずいぶん時代も前進しているが(現アメリカ政権になってそうとも言えない状況になったけれど)、マイクの両親が結婚した1950年代には、まだユダヤ人に対しても同性愛者に対しても、あきらかな差別が存在していた。同性愛は法律で禁止さえされていたのだ。合意の上で結婚したわけだけれど、マイクの母親は、自分のことをまるで気にかけない夫が本当は不満だったのにちがいない。マイクいわく、父親はめったに家におらず、家族とほとんどかかわりを持たなかった。映画の中で母親は「生まれ変わったら、もっと心のあるユダヤ人と結婚する。お父さんには心がないから」と、幼いオリヴァーにこぼしている。(余談だけれどこの母親、じつは髪型やエキセントリックな仕草が、マイクの妻である人気アーティストのミランダ・ジュライにそっくりなのである。えーと、それではオリヴァーの恋人になるアナ(メラニー・ロラン)がミランダとは似ても似つかない理由は……? 答えは簡単、マイクがこの脚本を書いていた2004年当時に、まだ二人は出会っていなかったからだ。彼らの出会いは、マイクが『サムサッカー』、ミランダが『君とボクの虹色の世界』というそれぞれのデビュー作をお披露目した、翌年のサンダンス映画祭まで待たなくてはならない。) ところで、めったに家にいなかったというマイクの父親は、いったいどこで何をしていたんだろう? そこでその人物、ポール・ミルズ氏について調べていくと、だんだんとおもしろいことがわかってきた。彼はサンタバーバラ美術館の館長を’70年から’82年までの12年間つとめており(これはマイクの4歳から16歳までの時期にあたる)、アメリカ美術のコレクターとして、現在も美術館を代表する主要作品の収集に奔走していたようだ。スペインやメキシコへの出張も多く、いそがしい人であったということはまちがいなさそうだ。サンタバーバラには虹をモチーフとした有名な巨大パブリックアートがあるのだが、これもマイク父の尽力によってできたものである。そしてもうひとつ。彼は、フラッグ(旗)に異常ともとれる愛情を注いでいたことでも知られている。いまでもサンタバーバラを訪れると、防波堤にならぶ色とりどりの旗を目にすることができるだろう。氏の旗に対する情熱は、映画では花火に置き換えられて表現されている。 さあて、映画の話にもどらなくちゃ。グラフィックデザイナーであったマイクがペンをカメラに持ち替えて、自分には無縁だと思っていた長編映画に取りかかることになったのは、母親の死のショックがきっかけだったという。父親もまた、妻の死がスイッチとなり、残りの短い人生をほんとうの自分らしく生きる勇気を得たのかもしれない。だれかが死んだりなんかしなくても、もっと自分の思うように生きていいはずなのに、わたしたちはふだんそのことを忘れてしまっている。若い男を求め、素直な恋をし、初々しいよろこびを見せる魅力的なハル(クリストファー・プラマー/アカデミー賞助演男優賞受賞)よ! その姿を見ていると、複雑な思いを抱えながらもオリヴァーが父親を応援したくなった気持ちはよくわかる。 近くにいるからといって、ぼくたちはその人のことをよく知っているわけではないんだ。というのは、昔なにかのインタビューでマイクが話していたことだ。本作で晩年の父親をあたたかく見つめた彼は、最新作『20センチュリー・ウーマン』で、今度は、自分をひとりで育ててくれたハンフリー・ボガートのような母親を描くことに挑戦している。マイクにとって映画とは、自分や身近な人をとことん掘り下げて理解するための手段なのかもしれない。そして父親、母親、ときたら、その次のテーマはもしかして妻のミランダなのでは?とつい期待してしまうが、それはいつか発表されるときまで、楽しみに待つことにしよう。 ©2010 Beginners Movie, LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2017.07.10
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年7月】キャロル
原作に惚れこんだバーブラ・ストライサンドは、映画化に向けて一心不乱に邁進。ハリウッドの大手スタジオを交渉を重ねていくにつれ、製作に対する意欲が更に彷彿し、気が付いた時には、自らメガホンを取るだけでなく、主演・脚本・製作・主題歌と、なんだかんだ一人で5役も担うことになっていたのだとか。変装こそしていないものの、(今でさえも)男社会のハリウッドで、作り手として道を切り開いていく彼女の姿は、まさにイエントルそのものだなぁ、なんて思ったり。彼女がこの作品に惚れこんだ理由も分かる気がします。そのバーブラ・ストライサンドという女優ですが、結構好き嫌いが分かれるタイプなのかなぁと思います。なので、(バーブラのほぼ独壇場の映画ですから、)彼女を好きか嫌いかで本作への心象が分かれるのも仕方が無いかなと。ただ一つ言えるのは、いわゆる典型的な美女・・・ではないルックスの彼女が、作品を通して知れば知るほど美しく思えてくる不思議な魅力があるということ。正直にいうと、私にとってバーブラはちょっと苦手なタイプの女優だったけれど、イエントルと重なってか、時間が経てば経つほど目が離せなくなるというか、美しく魅力的に思えてきたことは確かなのです。本作の随所に、バーブラが歌いながら気持ちを吐露するシーンがあるのですが、その歌いっぷりがとにかくスゴイ。既に歌手としての彼女をご存知の方は「何をいまさら」と思うかもしれませんが、バーブラを全然知らなかった私は、その圧倒的な歌唱力に心震え、うっかり目に涙がジワリとしてしまったのです。こんなに歌が上手い人っているんですねぇ。歌って踊ってというミュージカルではなくて、心の内を独唱するという感じですが、イエントルの心の叫びと相まって二重に感動してしまいます。髪を切って服装を変えるだけの男装なんて甘すぎるとか、一人で歌いすぎ(他にも歌える役者がいるのに)とか、バーブラって自分のことが本当に好きなんだね!とか・・・痛いツッコミは多々あるでしょう。でもそんなの全然気にならない。だって、これは少女マンガなんですもの!女性であることを隠して生活しなくてはいけないのに、親友の男性を好きになってしまうなんて。かなわぬ恋。抑えられない気持ち。それでも勉学への欲求を優先しようとする・・・愛よりも夢を!みたいな少女マンガ的ドキドキ要素が満載なのです。ついつい、バーブラ(もとい、イエントル)に感情移入してしまって、なんとも胸がキュンキュンしてしまうところは、もしかしたらこの映画の最大の魅力なのかもしれません。 ※以下はめちゃめちゃネタバレです イエントルがついに愛するアビグドウに真実を打ち明けたとき、アビグドウも同じくずっとイエントルを愛していたことに気がつきます。しかしそれと同時に、アビグドウにとってイエントルは「女性」でしかなくなってしまい、彼女が学問を論じるのはおかしい、と思ってしまうのです。「まだ学問をしたいのか?学問は俺に任せて、女になってくれ」と・・・。そんなアビグドウの予想外の反応に私はちょっぴりショックでした。ユダヤの厳しい戒律のもと、女が学ぶことはご法度だったとしても、頭がよくて神の教えを熱心に学ぶアビグドウだからこそ、きっと先鋭的な考え方も受け入れてくれるはずだと、そう信じていたのに・・・。ちなみに、このやりとりを現在の社会に置き換えると、<男>「仕事しなくていいよ。子供生んで育てて、家族の世話をしてくれよな。」<女>「そんなのイヤ!これまで同様、ともに仕事に励んで、ともに夢を実現しようよ!それができないなら、別れよう」みたいな感じになるのでしょうかね。いやはや、そんなことを女性に言われたのなら、今の時代だと、<男>「働いてくれるの?ありがとう!共に稼ごう」という方がしっくりくるのでしょうか(笑)。ゴールデン・グローブ最優秀監督賞、作品賞を受賞の本作を、7月のザ・シネマで是非ご覧下さい。■ YENTL © 1983 LADBROKE ENTERTAINMENTS LIMITED. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2017.07.03
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年7月】飯森盛良
ジョーダナ・ブリュースター、通称ブリュっ子。今ではワイスピのヴィンディーゼルの妹役で有名だが、俺はデビュー作『パラサイト』で20年前に一目惚れ済み。こういう原哲夫か池上遼一系劇画調ハンサム顔キリっと眉イケ女んが、実はモロ好みだ(原点内田有紀)。脱いでくれた『姉のいた夏、いない夏。』も眼福だったが、ブリュっ子のベストアクトはそれでもワイスピでもなくて、本作での世界征服を目論む悪の天才役だ。それと戦う秘密諜報機関の美人ミニスカ女学生エージェントに百合目惚れしちゃったブリュっ子。敵同士でも私はスキをあきらめない。ウチはダーリンが好きだっちゃ♥ばりに一方的な押しかけ百合女房っぷり。押しかけられる側(サラ・フォスター。ヱヴァかアバターみたいな13頭身ぐらいある超絶美女)も、困惑しつつも秘めたる百合っ気に目覚めついにコクリを受け入れ、そっからLOVELOVE百合百合桃色交際スタート、という、サイコー胸キュンLGBTバカ映画だ。これ見ながら毎晩眠りに落ちたい!この世界の住人になりたい!俺はブリュっ子になりたい!以上今回はヨタった。■ © 2005 Screen Gems, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2017.07.03
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年7月】うず潮
1988年当時、フランス領であったニューカレドニアで先住民族による独立紛争事件が発生。この事件の交渉役を任された国家憲兵隊大尉の告発手記をもとに、『クリムゾン・リバー』のマチュー・カソヴィッツが監督・主演を務め、入念なリサーチを重ねて完成まで10年も費やした意欲作です。フランス本国で現職のミッテラン大統領VSシラク首相による、熾烈な大統領選のさなかに起きた紛争事件の真相を描いています。両陣営から繰り出される票集めを見据えた命令に、揺らぐ現場の臨場感をリアルに描き出しているので、まるで当事者として参加しているように、グイグイと映画の中に引き込まれていきます。「自分だったらどう判断するのか?」と問いかけずにはいられない作品です。是非ご覧頂きたい1本!■ © Nord-Ouest Films – UGC Images – Studio 37 – France 2 Cinéma
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COLUMN/コラム2017.06.30
少年たちの一夏の冒険を描くロードムービー『動物と子供たちの詩』ふきカエ版、これスタンドバイミー超えてないかい!?の巻
さあ第2部【ネタバレ編】に突入ですが、その前に。出し抜けに第2部って何!?という人もいるでしょうからご説明を。この『動物と子供たちの詩』はまごうかたなき傑作!ただしネタバレで台無しになるタイプの映画です。そこで、1部2部とご紹介しようと。未見の方に向けて第1部【ネタバレ前まで編】を、ワタクシが連載を持たせていただいております「ふきカエル大作戦!!」さんのコラムに寄稿しました。コチラです。 なので本編未見の方は、まずはそちらをお読みください。逆にここは絶対読まないで!それと営業妨害するつもりはないのですが、各有名映画データベースサイトなどでの本作の情報は、「ブルース・ウィリスは死んでた」級の致命的ネタバレをしまくってますので、検索する際はご注意ください。 では、以下、第2部【ネタバレ編】です。すでに映画を見た人に向けて、ネタバレ全開のことを書きます。映画を見た後でさらに追加で知っとくべき情報なんてあるの!? もう十分だろ!とならないよう、映画を見ただけではわからない情報も書こうと思います。第1部に引き続いてお付き合いください。 おっとその前に一つ余談が。視聴者さんがツイッター上で「三原順の漫画『はみだしっ子』にもつながった映画」とつぶやかれていました。ワタクシは無知でその作品については知りませんが、知ってる人には価値ある情報かと思われますので、ここに勝手ながら一文コピペだけさせていただきます。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 第2部【ネタバレ編】 さあ、ついに2晩目、目的地にたどり着きました。牧場のような場所で、フェンスがあります。その内側に侵入してそこでコケた過保護虚弱夜尿症少年の手に、血がベットリ着く。「バッファローの血だ…」とつぶやきます。 そこで回想シーン。彼らが、例の「銃は友達」トラッシュ指導員の車で、キャンプ場を出て遊びに行った数日前の昼間に話はさかのぼります。指導員は主人公チームのバンガローの担当なのです。着いたところはフェスティバル会場。「本物のバッファローが目の前で見られるんだぞぉ」と指導員は得意げに言います。みんな遠足ノリで浮かれ気分です。 しかし!そこで想定外の大虐殺が始まりショックを受ける。フェンスに閉じ込めたバッファローの群れを、全米ライフル協会みたいな人たちが猟銃で撃ち殺しまくるという、それは殺戮フェスだったのです!弱者の痛みを知る6人組はそんな光景見たくない。しかし指導員はニタニタしながら殺戮を見物していて、あろうことか、というか案の定、My猟銃をおもむろに取り出し、嬉々として大虐殺に加わります。 これは一体何イベントなのか?原作小説の方に詳しい説明が載っていますので引用しましょう。「彼ら若い見学者たちがたまたまやって来たその日は、アリゾナ州狩猟局が管理主催する年三回の《ハント》の二日目だった。一世紀前、アメリカ西部には六千万頭の野牛がさまよっていたが、現在は二、三千頭しか生きのこっていなかった、そしてそれは保護されるために少数の群れにして特定の場所に集められ、いろいろな州あるいは連邦政府によって管理されていた。そして、野牛の頭数の自然増加と、彼らの特殊な生息環境に適したその限定された地域とのあいだに、ある科学的な比率を維持していくため、各群れとも定期的に《間引き》というか《採集》する必要があった。アリゾナ州にはふた群れが保護されていて、他の一群はグランド・キャニオンの北部、カイバブで保護されていた。そしてこのフラッグスタッフに近い保護地区においては一年おきにだいたい百五十頭から二百五十頭の、健康で子ウシを生む雌ウシとじゅうぶん発育した雄ウシを減らしていた。その夏には一日三十頭の割合で三日間、つまり合計九十頭がアリゾナの狩猟愛好家たちによって《採集》されることになっていた。」 グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社. あくまでワタクシ個人の意見ですが、頭数管理の必要性は理解できる。ハンティングというスポーツだって否定はしない。肉も普通に喰いますし、あとプロの屠畜業者さんには常日頃から勤労感謝の念しかない。しかし、柵に閉じ込めて(もはやハンティングじゃねー)、それをシロウトがお祭り騒ぎの遊び半分で、アメリカン愛国的ブラスバンド曲をBGMでガンガンにかけながら、ビールぐびぐび射殺しまくる、とは何事か!そして、そこに一片の憐れみも無し、という底抜けの無神経さには、さすがにドン引きしますわな!「お祭り気分がもりあがってきた。狩猟はたちまちにして学校のピクニック、伝道集会、市民バーベキュー大会、愛国的儀式、そして虐殺のカーニバルと化した。視覚、聴覚、嗅覚、それに人間的品位は打ち負かされた。澄みきった空気は銃声とそのこだまでずたずたに引き裂かれ、火薬のためにしだいによごれてきた。勝利のホーン(ザ・シネマ注:車のクラクションのこと)がぷうぷう鳴りわたった。カー・ラジオが音楽とコマーシャルをがなりたてた。ビールの記念碑が建てられた。子供たちが薬莢を拾い集めるためにとびまわった。電気のこぎりがごりごり骨を切り、皮はぎ小屋の床に鮮血が流れた。」 グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社. しかも、この映画では望遠ロングショットの実際の記録映像を使うことでグロさをまだ抑えていますが、原作小説を読むと、実態は阿鼻叫喚の地獄絵図のよう。 「三十頭の野牛を殺すには六時間から七時間を要した。そのような近距離からならば、屠殺業者が畜牛をやっつけるように、耳にただ一発撃ちこむだけで瞬間的に、また人間的にそれらの野牛を殺すことができるはずであったが、しかし、老若男女を問わず、あるいは腕ききの射手、アマチュアの狩猟家を問わず、彼らアメリカ人には、彼らがあらゆる動物の中で最もアメリカ的なものに照準を定めたとたん、なにかしら不思議なことがおこるのだった。百ヤード足らずの距離から巨大な静止した標的めがけ、30~30.6口径、あるいは30~33口径といった強力な銃で撃ちながら、心理的さもなくば肉体的にどういうことになるのか、いずれにしても彼らはうまく撃ち殺すことができないのだった。 彼らは腹を撃った。 彼らは頭の角を吹きとばした。 彼らは目を見えなくさせた。 彼らはあと脚の膝やけづめのところを粉砕して、脚を不自由にさせた。 彼らは急所を射当てるまえに出血多量で殺してしまった。 彼らは無益であると同時に無慈悲にも、屠殺場にたいして縦射の位置で撃った。(ザ・シネマ注:ターゲットの前後に別のものがいる状態で射撃すること。意図せず手前のものに当たってしまったり、弾がターゲットを貫通したりターゲットを外れたりで意図せず奥のものに当たってしまう可能性がある。この状態では苦しまないよう急所を狙って1発で仕留めてあげるなんてハナから無理)」 グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社. この他にも凄惨な描写が原作では延々と続きます。どこにどう弾が命中し、どうやってもがき苦しみ死んでいくか、そして、その後どうやって解体されるかまでが文章で詳細に記されている。こんなの映像では見せられんわ! 少年たちはこの光景に戦慄します。そして、嬉々として大虐殺に打ち興じている全米ライフル協会みたいな人たちに向かって「殺し屋!」とか「お前ら人間じゃないぞ!」とか罵詈雑言を浴びせますが(ここは台本でアドリブ指示が声優さんたちに出てます)、当然、うっせークソガキ!パヨクはけえれ!ってな反応が返ってくる。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ちょうど今ウチで放送している同じく未DVD化の激レア作で、闘牛映画『真実の瞬間』という伝説の超大傑作がありまして、自分の命を賭け金にして闘牛の世界でテッペン獲ったる、という野心家青年のド貧困からののし上がりドラマです。それもまぁ闘牛シーンは十分残酷なんですけど、なぜか本作ほど非倫理的には感じられない。 まずそれは、作り手のスタンスとして、闘牛文化を批判的には取り上げておらず、道義的価値判断を込めていないから、というのが理由のひとつ。監督フランチェスコ・ロージお得意の伊ネオレアリズモ由来の乾いたドキュメンタリー・タッチで撮られているため、淡々と事実を追う、それが迫真のリアリティを生む、という趣向が凝らされていて、スタンリー・クレイマー監督が劇映画としてのドラマ性を追求し、強いメッセージ性もこめた『動物と子供たちの詩』とは、そこが大きく違っている。 ただもうひとつの理由として、闘牛では闘牛士も命懸けだから残酷であっても卑怯には見えない、という我々観客側の印象の違いも挙げられるでしょう。本物の闘牛士でもある主演俳優による「これはガチで命懸けだ、一歩間違えば死ぬ」という、どっからどう見たってヤバすぎる映像のオンパレード。実際、数メートル突き上げられて気絶したか死んだかしている人の姿も映ります。人間側もそこまでのリスク負ってんだから五分と五分で、残酷だけどまぁ許せるかな、と思えなくもない。それに比べ『動物と子供たちの詩』の「銃は友達」連中は、自分らは遠くの絶対安全圏にいて、そこからスコープで狙って飛び道具で撃っている。あまつさえビール飲みながら!そこが大違いでして、これにはちょっと、ただごとじゃない生命への冒涜感がある。あっちは許せてもこっちは許せない!あくまで個人的意見ですが。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ふきカエ再放送版ではカットされていますが、仕留めたバッファローの巨大な生首、今度こそ干し首ではなくて本当に血のしたたる生首を、ラジオフライヤー(アメリカンな赤い台車)に積んで運んでいる、同い年ぐらいのガキの全米ライフル協会員みたいな奴が出てきて、それに6人組は絡みます。その生首をトロフィーに仕立てるんだとガキは自慢してくる。第1部で言及したHunting trophyを思い出してください。1等賞のトロフィーはバッファローでしたね?あの剥製たちもこうやって斬首されたのでしょう。今、あの伏線がおぞましい形で回収されたのです。だからここも重要なシーンなのでカットは痛恨なんだけどねぇ…。 自慢に対しカイさんから「殺しは楽しい?」と思いがけないことを聞かれ、ガキは「射撃はうまくなかった。でも肉はうまいよ」とトンチンカンに答えます。射撃が上手くなかったってことは、原作にある通り、急所を外してしまい標的を苦しませながら時間をかけて死なせたのでしょう。でも肉は美味かったと。そういう話じゃねーだろ!でも「何か問題でも?」という顔でポカ~ンとしている。 彼に悪意はない。このガキ、自分が悪いことをしているとも、人によってはそれを悪と受け止めるかもしれないとも、想像さえつかない様子。6人組とこのガキには通じ合える言語すらない。返す言葉も見つからず、お互い見つめ合ってしばし黙り込むしかない。 やがて沈黙に耐えきれなくなったガキは「どうせ生きてても役に立たない」と言い訳します。非難されていることにようやく気付いたのでしょう。さすがカイさん、「役に立たない人間も多いけど殺さない」と即座に反論する。正論です。役に立たない人間とは自分たちのことでしょう。するとガキは間髪を容れず「毎日殺されてるよ。テレビをごらん」と喰ってかかる。 この映画の1971年当時はベトナム戦争最悪の泥沼期で、ナム戦はTVのニュースで米兵の死体映像が生々しく映った初の戦争でした。この心ない暴言にはミリヲタリーダーがキレます。彼の尊敬する父親は海兵隊の大尉ですから、時期的にベトナムに派兵されていてもおかしくないのです。字幕で訳されていませんがリーダーがYou little bastard!(このガキゃ!)と罵りラジオフライヤーを蹴飛ばすと、ガキは「パパは下品な言葉を使うと怒るよ!」と逆に説教タレてくる始末。汚い言葉は使うな、口を石鹸で洗うぞ、そして銃は友達だ、役立たずどもを撃ち殺して楽しく遊ぼう、と父親からこのガキは教育されてきたのでしょう。 もしくは、反戦運動に学園紛争に人種対立と、アメリカ内地でも死者が出る騒動が各地で頻発し、それが連日TVのニュースで報道されていた時代でもありましたから、あるいはリビングでの家長を囲んだ一家団欒の一コマとして、夜のニュース見ながら「ヒッピーだのサヨクだの黒人だのなんて役立たずどもは死ねばいい」みたいな会話が、日常的に交わされているようなご家庭なのでしょう。でなけりゃ年端もいかぬガキの口から「毎日殺されてるよ。テレビをごらん」なんて言葉がポンポン出てくる訳がない。“子は親の鏡”ってことですなぁ…。もはや付ける薬もないと、6人は絶望してその場を離れます。 キャンプ場に帰った後、トラッシュ指導員は子供たちを怒鳴りつけます。これが、第1部で言及した、本作でもっとも重要なトラッシュの吐く長ゼリフというやつ。以下、全文を文字起こししてご覧に入れますが、池田勝さんの文字化できない発声、ガラガラだみ声、巻き舌、巧みに忍ばせた促音などの技巧は、ぜひとも放送で、その耳で、お確かめください。文章で再現はできません。 「恥かかせやがって、前歯ヘシ折ってやりてェよ!人前でデカい声はり上げやがって!(ザ・シネマ注:子供たちがハンターを「殺し屋!」などと罵ったことをさす)死に損ないのお前らァ見てると俺だって胸が痛むさ!可哀想に、トンマなバッファローめがってな!だがもう我慢できんっ!これからは、ラジオは禁止だ。音楽も!映画も!夜のダベりもぜぇんぶ禁止だっ!監督が言ってた、お前らぁ感情的に障害があるって。感情がピンボケなんだっ!! “ハミ出し”なんだ!!!(ザ・シネマ注:“ハミ出し”は原語で「ディング」、ding。本作のキーワード。おそらくこの当時の流行語で今日ではあまり使われていない模様) “ハミ出し”って知ってるか?マトモに収まらない奴さ!どんな場所にも、どんな時にも、どんなことに対しても、お荷物になるだけで役に立たない奴さ!みんな邪魔にして始末に困ってる奴さ!だから生きてる価値がないンだ!バッファローみたいになあ!どうして撃ち殺すか知ってるか?あいつらァ“ハミ出し野郎”だからだァ!おめェらもそうだっ!奴らとおんなじだ!ここにいるぬぁ手癖の悪りィ奴、お喋り野郎、意気地なし、戦争マニヤ、乳離れしないィ奴!出来損ないばかりだィ!」 この暴言に深く傷つくと同時に、6人組はある決意をします。自分たち同様“ハミ出し”で生きる価値なしと一方的に決め付けられたバッファローを逃すことを!虐殺フェスは明日も続く。殺される順番待ちのバッファローがまだ沢山いる。あそこに戻ってフェンスを破り、バッファローを逃がそう。ただし、指導員の車で行ったフェス会場までは、子供にとってはかなり遠い。6人は、まず馬で、次いで盗難車で、最後は徒歩で、あの忌むべき場所を丸一日かけて目指してきて、いま、2晩目の真夜中に、ついにたどり着いたのです。 さあ、回想シーンから、通常のタイムラインに、いよいよ本作の大詰めに、話を戻すことにしましょう。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ フェンスの破壊を試みる6人。駄目だチェーンは思ったより頑丈だ。夜が明けてきた。カイさんがまたトラックをどこからか盗んできた。だがその間に日は完全に昇ってしまった。それでチェーンを引っ張りようやくブチ切ったものの、夜陰にまぎれてコッソリやる計画が狂い、まっぴかりの朝日の下、物陰ひとつない丸見え状態で事を運ばざるをえなくなった。いつ全米ライフル協会の奴らに見つかってもおかしくない。エンジンふかして大きな音を出しまくったし。 かてて加えて、逃したバッファローはあろうことかフェンスのすぐ外でのんびり草を食みはじめた!遠くに逃げていこうとしない!! ミリヲタリーダーはヒステリーで半狂乱に。「行けェ!もうすぐハンターがやって来て、お前たちは皆殺しにされるんだぞ!…殺されて当たり前なんだ、ウスノロのバッファローめ!図体ばかりデカくて!」 ダメだ、怒鳴ろうが大きな音で驚かそうがビクとも動かない。泣きわめき怒鳴り散らすリーダー。そうこうするうち案の定バレた!騒ぎを聞きつけ全米ライフル協会の奴らが車2台でこっちに向かってくる!先頭車両を運転するのはあのトラッシュ指導員だ。「やっぱり奴らだ!」と苦々しげに吐き捨てるので、失踪した子供たちが行くとしたらここしかないと目星を付けていた模様。 万事休す!その時、盗んだトラックの運転席に半泣きミリヲタリーダーが横っ跳びに滑り込もうとする。カイさん引き留める。「ここで諦めるのか!? 俺はヤだ!」と思い詰めた表情で絞り出すリーダーに一言カイさん「…わかった」。再度リーダー運転席に転がり込み「俺たちは最期まで闘う!クラッチは左!ブレーキは右!みんな見てろよ!行くぞぉぉ!!!!」と叫びながら無免許でトラックを出してバッファローの群れ目がけ突入!「バッファローを暴走させる気だ!」と気付くトラッシュ指導員! そこで連中信じられない行動に出る。「タイヤを狙えェ!タイヤだ!(中略)いいか、子供に気を付けろ」と車停めて降りてきて、何百メートル先を結構な速度でジグザグにオフロード走行しているトラックを、何人もでパンパン狙撃しまくる!気を付けろじゃねーよ!いちガンマニアとして言わせてもらうと、こんなのタイヤになんか当てらんねーだろ普通!ものすごく危険! バッファローを追い散らすトラック。ついにバッファローたちが走りはじめた!だが逆にトラックは停まる。ドアがバタンと開き、同時に、ケツは座ったままのリーダーの上半身がダランっと外に投げ出される。駆け寄る残り5人と全米ライフル協会。リーダーはこめかみに銃創1発、目を見開いたまま死んでいた。5人の子供たち、遺体の方からゆっくり全米ライフル協会の大人たちの方に向き直る。あんたら、いつかヤラかすと思ってたけど、とうとうヤリやがったな、と、猟銃を引っさげたまま茫然自失で突っ立っている大人たちを、人殺しを見る時の目で見つめる。全米ライフル協会とトラッシュ指導員、事ここに至ってようやく、二度と戻らぬ失われた命の重みに気付き、だんだんと顔色を失っていく…。 ここで流れはじめるラストの曲は、「♪妖精コマネチのテーマ」として日本人にもよく知られた曲。本作から5年後の1976年モントリオール五輪の際、アメリカのTV局が、人呼んで“白い妖精”、たけしでお馴染みの新体操ルーマニア代表コマネチ選手の入場テーマ曲として流用したことから、そう改題されて有名になり、シングルカットもされヒットしたのですけど、もとはと言えば本作サントラの一曲。実はミリヲタリーダーのテーマ曲だったのです!この物悲しい曲が中盤で明るく転調するのと同時に、キャメラが疾走するバッファローの群れの空撮ショットに切り替わる。果てしない原野を土ぼこり上げ逞しく駆けていくその勇姿を映しながら、この映画の幕は降ります。 ここで、第1部で引用した、例の架空の(?)偉人H.E.ポール・ドラモンドの、一見良いこと言ってるげな詩を思い出してみましょう。気合いが足らないから負けるんだ!気合いがあれば必ず勝てる!という精神論的な内容で、作り手はそれを弱者に無理強いするような教育を批判しているのではないか?と第1部では指摘しましたが、さて、ミリヲタリーダーが無謀な目標を掲げ、大冒険の末、命と引き替えにその壮挙を成し遂げるところまでを目撃してきた今の我々が、あの詩を再読すると、いかなる感慨が湧くか?「君が負けたと思ったら負けだ。負けたと思わなければ負けじゃない。どうしても勝ちたいと思って勝てなかったら、それは君の思いが足りなかったからだ。この世では成功の第一歩は諸君の意志に始まるのだ。全ては心の持ち方次第。一歩も走らずしてすでにレースの勝負は決まり、仕事を始める前、臆病者はすでに失敗している。望みが大きければ君は前進し、望みが小さければ君は脱落する。できると思えば必ず叶う。全ては心の持ち方次第。人生の勝利は常に強い者・速い者に輝くとは限らない。勝利は、勝利をつかもうとする意志と努力のある者に輝く。(中略) 人に勝ると思えば人に勝る。少年よ、常に高きを望め。常に自分の心を信じよ。勝利は必ず君のものとなる。(中略) 行く道は険しく、人生は厳しい。だが諸君は鉄のように強く逞しい。勝利を目指し死力を尽くして戦え。だがスポーツマンシップを忘れるな。諸君の旗を高く掲げて進め。ボックス・キャニオン・キャンプの少年たちよ。できる。やるのだ!やらねばならぬ!! 全ては心の持ち方次第だ」 …あなたのハートには、何が残りましたか? ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 最後に。原作の方は、結末が異なります。ラストシーンでミリヲタリーダーが命と引き替えに勝利をつかむのは同じですし、どちらも1970年前後数年に大流行していた「アメリカン・ニューシネマ」に典型的な幕引きの仕方なのも同じですが、小説版の方はさらに、具体的なある1本の傑作ニューシネマと極めて酷似しているのです。原作のオチがこちら↓「彼ら(ザ・シネマ注:残った5人)は運転席の窓から外に出された追っ手(ザ・シネマ注:リーダーのこと)の頭を見た、そして彼が叫ぶのを聞いた。「ディング!(ザ・シネマ注:「ハミだし」のこと)ディング!さあ、ディング野郎、行こうぜ!」 二頭の雄ウシが脱出の先頭を切った。塀の向こう側に出ると、断崖のへりぎりぎりのところで即座に旋回し、彼らの群れは割れた。半分は右へ、半分は左へ分かれ、群れはもともと自分たちが属していた合衆国の広大な空間の中に逃走していった。しかしトラックはまさに恐ろしいコースをとりつづけていた。 彼らはぎょっとしてつまずくようにして走りながらそのあとを追った。ブレーキが効かなくなったのか、彼がブレーキなど無視したのか、あるいは(中略)断崖のへりを忘れてしまったのか、それとも、それがりっぱに果たされ、野牛も永遠に自由になったため、もはや輝かしい行為のことなどどうでもよくなった、ただそれだけのことか、彼らはいずれともわからなかった。トラックがまるで空に舞いあがるかのように高々と上昇してつっこみ、やがて見えなくなるその瞬間、たいまつのように燃え立つ彼の赤毛が彼らの目にちらっと止まった。それですべてだった。ただ、かすかなしかし金属と岩が激突するまぎれもない音が届いた。そして、すぐそのつぎの瞬間、その意味するところはなにかという意識が、まるで彼らもまた永久に自由にしてやるといわんばかりに、彼らの心臓を押しつぶしてきた。」 グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社. リーダーが赤毛というのも映画版と違いますが、一番は、これは自殺ということなのか、とにかく全米ライフル協会に射殺されたわけではない、ということが最大の相違点です。 アメリカン・ニューシネマでは主人公は死ぬもの。お気楽バイカーコンビが田舎の保守的ヘイターに突然ショットガンぶっ放されて死亡とか、アベック強盗が警官隊に車ごと蜂の巣にされて死亡とか、強盗2人組が最後はボリビアの軍隊に包囲されやぶれかぶれ特攻に打って出て死亡とか、パトカー振り切ろうと猛スピードで車走らせ踏切ぶっちぎろうとして機関車に横から突っ込まれ爆死とか、ルームシェアしてる男娼とフロリダに行こうとしたダチの病弱ポン引きNY男が長距離バスの中でポックリ病死とか…。 主人公の死をドラマチックには描かず、逆にむしろあっけなく、極めて唐突に描く。そしてその主人公はと言うと、普通の常識的範疇にはおさまらない、世間からは白い目で見られている“ハミ出し”キャラと、相場は決まっていました。 どうしてそんなダメ人間が主人公の、救いのない結末の映画がやたらとウケたのか?自分たちアメリカ人がいかに簡単に死ぬか、ベトナム戦争でその嫌な現実をウンザリするほど見せつけられ、目を背けようにもニュースの方から付きまとってくる(ニュースから逃れるのって難しいですよね)。ヘイトクライムも頻発してヒドい世の中になりつつある。1970年前後はそんな時代だったからです。今ともちょっと通じる、“世界が崩れつつある感”、とでもいったような絶望的な雰囲気が満ち満ちていました。 そんな狂った時代には、多数派でいつづける方がむしろおかしい。そこで何の疑問もなく器用に世渡りできる奴は人として最低だ。映画の主人公はマトモだからこそ逆に“ハミ出し”て浮いてしまっているアンチヒーローでなければなりませんでした。そして彼らは、映画の主人公であっても、ある大目的を持ったドラマチックな生(と死)などは与えられず、虫ケラみたいに簡単に、突然に死ぬ。人の命なんて安いんだ。なぜなら現実がそうだから、という一群の映画が作られたのです。嫌な現実を映画がさらに誇張してみせることで批判する、それがアメリカン・ニューシネマというムーブメントでした。 ほら、『動物と子供たちの詩』って、アメリカン・ニューシネマそのものでしょう?中でもとりわけ、原作の方の結末と極めて酷似しているのが『バニシング・ポイント』です。 アメリカのほぼド真ん中・コロラド州デンバーから西海岸サンフランシスコまで車を短時間で運搬する(自分で運転して納車しに行く)仕事を請け負ったフリーの運び屋コワルスキーが、猛スピードで1970年型ダッジ・ チャレンジャーを爆走させる。当然パトカー白バイ追いかけて来る。その制止を振り切り、次々と引き離しながら西部を横断する、という映画が『バニシング・ポイント』です。 まず、西部の荒野が舞台になっているホコリっぽい見た目からして、『動物と子供たちの詩』と似ている。それとそのメインプロットの合間に、コワルスキーがこの挙に及ぶまでの様々な出来事が回想されていくという構造もまた、似ている。プロのレーサーとしての挫折、制服警官をやっていた頃に目撃した警察の腐敗、愛した女の死と、過ぎ去った幸福な日々、ベトナムでの戦争体験…個人的人生ドン詰まり感と、やっぱりここでも大きいのが、当時の“世界が崩れつつある感”です。 戦争とヘイトに満ちた時代だったんだということを大前提として鑑賞する必要があります。『バニシング・ポイント』劇中では黒人キャラが白人レイシストにリンチされるシーンも出てきますが、それはあの時期、現実のアメリカ社会でも頻発していたことですし、さらには悪を退治する存在であってほしい警察も、実際はと言うと、平等を求める黒人たちに高圧放水する、ベトナム反戦デモ隊に催涙ガスを撃つ、学園紛争の大学生を警棒で殴りつける、といったことを全米各地でやっていたのです。そんな警察に「スピード違反だから停まれ」と命令されて、誰が停まるものかよ!悪はどっちだ!! という反骨精神は、当時の観客の思いと怒りを代弁するもので、自分でそれをする勇気は無くても映画の主人公にぐらいは期待したい、胸のすく痛快な生き様だったのです。 ラスト、ブルドーザーで道をふさぎ停車させようと試みる警察の作戦に対し、コワルスキーはむしろ逆に、トップギアでアクセルを踏み込んでそのままブルドーザーの排土板に真っ正面から突っ込み、爆発!炎上!即死!そこで映画は終わります。ほら、『動物と子供たちの詩』原作の結末にソックリでしょう? 他のニューシネマの主人公が割と不可抗力で命を落としている(射殺される、事故死、病死)のに対し、この走り屋コワルスキーと『動物と子供たちの詩』原作のミリヲタリーダーの2人は自ら死を選択している。とはいえ、これって自殺なのでしょうか? いや、自殺というか、この世界から“退場”したくなってしまった、ということなのでしょう。こんな醜い、腐った世の中になんか長居したくねえよ、オレ的栄光の頂点で、皆さんお先に失礼させていただきます、ということでしょうな。パトカーをまきにまいて、どんどんスピードを上げていき、そのスピードの頂点、反逆のピークで、この世から消えていなくなろう。または、可哀想なバッファローを逃して、自分も一緒に車で伴走し、その勢いのまま、壮挙の達成と同時に、この世から消えていなくなろう。これって、自殺というのとはちょっと違う気がします。一応“勝利”エンディングですから。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 2017年の今ふたたび、“世界が崩れつつある感”が低く垂れ込めつつあるように感じているのは、ワタクシだけでしょうか?もし、残念ながらそうであるならば、そんな暗い世相を反映した、アメリカン・ニューシネマ的な映画が、また作られて流行るようになってもいいのではないか、と最近よく考えます。アメコミヒーロー映画、ワタクシも大好きです。ただ、ちょ~っと供給過多かなぁ、と思わないでもない。そして、今、我々が現実に直面している深刻な課題を考えると、ちょ~っと浮世離れしてないかなぁ、と感じなくもない。 ヘイトと暴力が世にあふれ、権力者たちが我が物顔で振る舞い、少数者の声を圧殺する、そんな寒い時代に、その醜悪さを徹底的に批判し、自由や優しさを求めて挫折し死んでいく哀しき“ハミ出し”者たちの視点に寄り添った、そんなニューシネマチックな映画の2017年版最新傑作の登場を、ワタクシ、今か今かと待望いたしております。それは今日、映画に期待されている役割でしょう。 © 1971, renewed 1999 Columbia Pictures Industries, Inc. 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