NYインディーズ界最後のイノセンス ハル・ハートリーの世界

90年代。インディーズ映画にハル・ハートリーという一陣の風が吹き抜けた。

クラウドファンド顛末記

ハートリーの想いは日本に届いたか?
クラウドファンディング顛末記

  • 《クラウドファンディング顛末記》

    2017年の6月13日。突然、ハル・ハートリーからメールが来た。いや、正確には便宜上ハートリーの名義になっているだけで、世界最大のクラウドファンディングサイト“Kickstarter”からメールが届いたのだ。

    自分は映画ライターを生業にしているが、ハートリーと仕事で関わったこともなければ面識もない。ただ、2013年にハートリーが新作『ネッド・ライフル』の製作費を募っていて、3000円ばかり出資したことがあった。その時のリストが残っていて、新しいクラウドファンディングのお知らせが来た、それだけでのことである。

    メールの概要はこうだ。『ヘンリー・フール』『フェイ・グリム』『ネッド・ライフル』から成る「ヘンリー・フール三部作」をDVDとBlu-rayでBOXセット化したい、その際にはスペイン語、フランス語、ドイツ語、日本語、英語の五カ国語字幕を付けたいので支援をお願いしたい、という。

    マジか、マジですか。『ネッド・ライフル』には出資したが完成品は観ていない。DVDがもらえるコースもあったのだが、拙い英語力では理解できなかろうとサントラCDがもらえる安いコースにしたのだ。でも今回は日本未公開の『フェイ・グリム』と『ネッド・ライフル』にも日本語字幕が付く。出す、出します。3000円なんてケチなことは言いませんよ!

    あとは首尾よくクラウドファンディングが成功して、完成したパッケージが届くのを待っていればいい……と思っていた。ただ、自動返信と思われるメールにあった文言が気になった。ハートリーの奥さんの二階堂美穂さんが翻訳されたのか、日本語で書いてある。

    「どうぞ、他の日本の方々にもこの事が伝わるように、ご協力をお願いします。 日本の多くの方々に、この映画が日本語字幕付きでご覧いただけることを、是非知って頂きたいのです」

    その通りだ。このチャンスを逃す手はないと、自分だけでなく多くのハートリーファンが思うはず。それにこのクラウドファンディングが成功しないとなによりも自分が困る。『フェイ・グリム』なんて11年も待っていたのだから。

    ところが、だ。Kickstarterのサイトは基本英語(昨年の後半には日本語化されたので、とんでもなく間が悪い時期だった)。メールには「日本の多くの方々に知って頂きたい」と書いてあるのに、知ってもらおうにもネット上に日本語の情報がどこにもないのだ!

    メールに「ハルより」と書いてあったから、ダメ元で返信してみた。「自分は映画ライターをやっていて、もしプレスリリースがあればざざっと翻訳して映画メディアにばら撒きますよ」と。するとさほど間を置かずに返事が来た。「ありがとう、ぜひやってくれ!」と、英文のプレスリリースが添付されていた。

    クラウドファンディングの〆切まで、一か月を切っていた。雑誌などの紙メディアには間に合うまい。しかしまだ甘く考えていた。90年代にあれだけ人気だったハル・ハートリーが「日本のために日本語字幕を付けてリリースしたい」と言っているのだ。そんな海外の映画監督、ほかにいた? たちまちネットのニュースになり、映画ファンに話題が広がって目標額なんて瞬く間に超えるだろう。いや、10万ドル(約1100万円)はさすがに簡単ではないかも知れない。微力ながら応援しよう。

    とりあえずリリースは訳した。クラウドファンディングの概要は個人ブログに掲載した。自分が代表を務めているサイト“ShortCuts”でハートリーのインタビューも載せた。チラシを作って東京のミニシアターに持ち込んで回った。と、やったことを列挙しだすとこの原稿はいつまで経っても終わらない。この顛末記をリクエストしてくれたザ・シネマさんの要望に沿っているかはわからないが、なるべくかいつまむと、まず最初に抱いた楽観的な目論見は、ほとんどすべて間違っていたのです!

    日本では2014年に回顧上映があったものの、長編の新作公開は1999年の『ヘンリー・フール』から途絶えている。日本における20年近い空白期は、世間がハートリーを忘れるには十分だったし、レンタルビデオからDVDへの転換に乗り遅れたことも致命的だった。このクラウドファンディングが日本で息をひそめていたハートリーファンを繋いでくれたのは確かだが、同時に「あのハル・ハートリーが!」という惹句が通用しない現実も痛感させられた。

    ハートリーには随分失礼なメールも書いた。「あなたは日本ではほとんど忘れられてしまっているから、強引にでも思い出してもらうか一から知ってもらうしかない。旧作の上映会をさせてくれ」と提案すると、「ありがとう、ぜひやってくれ!」と返事が届いた。ただし「日本語字幕の入ったマスターは持ってないから、そっちで探して出してくれれば」と但し書きが付いていたが。

    さらに端折るが、字幕入りのマスターは無事に見つかった。驚いた。快く貸してくれた方、相談に乗ったり助けてくださったみなさん、本当にお世話になりました。そしてハートリーの記事を掲載してくださったメディアと編集者のみなさん、本当にありがとうございました。結果、どこまで貢献できたかはわからないが、クラウドファンディングは目標額を上回る107,776ドルを集め、日本からの支援者はハートリーが目標にしていた100人ぴったりだったと後になって聞いた。

    目標額を達成した日、多くの人が「よかったね、おめでとう」と連絡をくれた。でも自分はただの一ファンで、ファンもハートリーも含めて「みんなおめでとう!」と言うところなのです、本当は。とはいえその日の朝はアタマが回らず、近所のマクドナルドに行って午前中いっぱい「アングリーバード2」をやって過ごした。もう足りない知恵を絞る必要もない。数か月後には完成品が届くのだから。

    そして10月1日。ハートリーからメールが来た。BOXセットは11月に発送されるはずだから、完成したよとでも教えてくれるのだろうか。「『ヘンリー・フール』の字幕翻訳があがってきて、ミホ(二階堂美穂さん)が間違いがたくさんあると言ってるんだけど、時間があったらちょっと目を通してみてくれない?」 

    添付されていたPDFファイルを開いた。青くなった。間違いどころじゃない、このままリリースされれば大惨事になる。ハートリー、「After the Catastrophe(大災害の後)」なんてタイトルのCD作ってる場合じゃないよ! ここから先は「クラウドファンディング顛末記」じゃなく「日本語字幕顛末記」になってしまうので、また別の機会がありましたら。晴れてクラウドファンディングに参加したみなさんに完成品が届き、Amazonジャパンでも買えるようになって本当によかったです。ピース!

    《クラウドファンディング顛末記~日本語字幕制作編~その1》

    2017年10月1日、ハル・ハートリーからメールが届いた。「ヘンリー・フール・トリロジー」BOXセットのクラウドファンディングが成功したのが7月。クラウドファンディングの宣伝を手伝ったこともあって、その後も数回やり取りをしたが、久しぶりのメールだった。当初の予定だとBOXセットのリリースは11月だったから、そろそろ完成したのかも知れない。ところがメールの中身はもう少し深刻なものだった。

    「『ヘンリー・フール』の字幕の翻訳があがってきたんだけど、よかったら目を通してみてくれないか。印象だけでも教えてくれると嬉しい」

    どうもハートリーの妻である二階堂美穂さんも、間違いが多いと指摘しているらしい。とりあえず添付されていたPDFファイルを開いてみた。

    ヤバい……これはヤバい!

    自分は一介のライターでしかないが、送られてきた翻訳に問題があることはすぐにわかった。まず句読点が打ってあるのだ。普段、みなさんが意識されているかどうかはわからないが、基本的に日本では映画の字幕には句読点を使わない。理由は知らない。ただ「、」や「。」が字幕で出てくると、洋画を見慣れている人はどことなく違和感を覚えるはずなのだ。

    そして日本語字幕には「1秒につき4文字」という制限がある。それ以上だと読めない、もしくは文字情報が多すぎて画面に集中できなくなる、と言われている。ところが明らかに、1秒、2秒しか表示されないセリフの字幕が2行にわたって書かれていたりするのである。

    ただの慣習なのか、本当に「1秒につき4文字」を超えると読めなくなるのかどうかはわからない。実際、テレビ番組やネット映像のテロップでは、句読点もあれば、もっと多い文字数のケースもざらにある。ただはっきり言えるのは、どこの業者に発注したにせよ(ボストンの翻訳会社だったらしい)、この業者には映画の日本語字幕を手掛けた実績がない、ということだ。

    一事が万事であり、そういう字幕のルールだけでなく、肝心の内容も自動翻訳にかけたのかと疑ってしまうほどにたどたどしい。もしこの翻訳のままの日本語字幕が付いたBOXセットが送られてきたら、クラウドファンディングに参加した人たちはガッカリするはず。いや、それ以前に、自分だったらあまりのヒドさと見づらさに途中でディスクを止めてしまうだろう。

    正直、慌てふためいた。なにせ翌月にはBOXセットが発売予定。どんなスケジュールで進んでいるのかは知らないが、残された時間はわずかだろう。しかしこの翻訳だけはボツにしてもらわなくてはならない。だが、そもそも詳しくもない日本語字幕のルールについて、自分程度の英語力で説明できるだろうか。しかも映画を作った監督本人を説得しなくてはらないのだ。

    この時ハートリーのPossible Filmsとしては、あがってきた翻訳が不完全なものだと分かった上で、日本語がわかる友人・知人に見てもらって赤入れしてもらえばいいと思っていたらしい。自分もその中のひとり、ということだろう。しかしたまにある誤訳や不自然な表現を指摘する、というレベルじゃないのである。これに赤入れを始めたら、それこそゼロから翻訳しなおすとの変わらない手間がかかるに違いない。

    まず、この翻訳は致命的に使えないシロモノだと判断せざるを得ない、とメールで伝えた。「英語字幕は話している言葉をそのままアルファベットにすればいいかも知れないけれど(いや、それも違うかも知れないが)、日本語字幕には厳しい文字数制限があってある程度の意訳をせねばならず、翻訳の中でも特殊でプロフェッショナルな作業なのです」と。

    しかし、字幕のド素人である自分が言っても、われながら説得力がない。それに自分がたまたま知っていた「句読点は使わない」「1秒4文字目安」以外にも、きっとルールがあるはずだ。「日本語字幕 入門」とググってみたら、とりあえず何冊かヒットしたので、字幕翻訳家の太田直子さんが書かれていた書籍を2冊ポチった。どうしてそれを選んだのかは覚えてないが、在庫があってすぐに配達されるからか、それとも中古本が安かったのかも知れない。

    とりあえず自宅に届いた2冊を拾い読みし、ルールらしきものを箇条書きにしてPossible Filmsに送った。日本語で。きっと二階堂美穂さんが訳してくれるだろう。しかし「日本語字幕のあるべき姿」というのは“概念”である。“概念”を、日本語と英語の微妙なニュアンスの違いをすっ飛ばして理解してもらうのは不可能に近いのではないか。そもそも受験勉強をサボったせいか、“概念”を英語でどう言うのかも思い出せない。

    とりあえず「正解」を示す必要がある、と考えた。PDFファイルに併記されている英語のセリフと珍妙な日本語訳をにらみながら、一旦は自分で翻訳をしてみようかとも思った。いや、やめておけ。字幕のイロハも知らない素人が手を出して「正解」が出せるわけがない。

    そこでハタと思い当たった。三部作のうちの『フェイ・グリム』と『ネッド・ライフル』は日本未公開だが、『ヘンリー・フール』は1999年に劇場公開されているし、VHSのソフトも販売されている。VHSさえ手に入れば、そこには「正解」がある! こういう時のTSUTAYA頼み。あった! TSUTAYA渋谷店に一本だけ在庫があったので、大慌てで神奈川の自宅から電車に乗って借りてきて、一晩徹夜して、字幕をすべてテキストに打ち直した。

    公開当時は気づいていなかったが、字幕を担当されていたのは今もベテランとして大活躍されている石田泰子さんだった。素晴らしい。「文字数に収めるとはこういうことか!」と何度も膝を打ち、それ以上にキーボードを打ちまくってNYにメールした。これで少なくとも二階堂美穂さんが見てくれれば、最初にあがってきた翻訳とは雲泥の差があって、赤入れ程度ではなんともならない状況だとわかってもらえるはず。

    ほどなくして二階堂美穂さんからもハートリーからも返信をもらった。日本語字幕をゼロから作り直してくれるという。よかった! 11月のリリース予定に間に合うかどうかはわからないが、とりあえずちゃんとした字幕が付くのだ。あとは商品が到着するのを待っていればよい……と呑気に構えていたところに、またもハートリーからメールが届いた。

    「日本語字幕はやり直すけれど、字幕の翻訳ができる人知らない?」

    知らないよ! 一介のライターですもの! てか、そっちの方が誰か知ってそうなもんでしょうに!

    (続く)

    《クラウドファンディング顛末記~日本語字幕制作編~その2》

    (前回までのあらすじ)
    発売予定は2017年11月なのに、10月に入ってから日本語字幕をゼロからやり直すことになった「ヘンリー・フール・トリロジー」BOXセット。しかも、ハートリーの個人プロダクションPossible Filmsから届いたメールには「字幕の翻訳ができる人、知らない?」と書かれていた。いや、知らないですって。しかしスケジュール的には一刻一秒を争う緊急事態。どうする!?

    ***

    一介の映画ライターでしかない自分には、残念ながら字幕翻訳の知り合いは誰一人いなかった。しかしひとつだけ心当たりがあった。この特設ページを作ってくれているザ・シネマだ。ちょうどその頃、ハル・ハートリー作品の放送権についてザ・シネマとPossible Filmsが交渉中だったのだ。

    もともとザ・シネマと自分とは、映画ライターとして仕事の繋がりがあった。「ヘンリー・フール・トリロジー」のクラウドファンディングの際に開催したハートリー作品上映会にも、ザ・シネマの飯森さんと小西さんが来てくださった。元からハートリーのファンだった小西さんはハートリー監督作の買い付けに意欲的であり、飯森さんは上映会で『シンプルメン』を観て「ずっとシャレオツないけ好かない監督だと思い込んでいたが、もっと好感が持てる作風だった」と印象を改め、ハートリー作品を放送したいという小西さんにゴーサインを出してくれたと聞いた。つまりお二人とも、ハートリーのCS放送を実現させた功労者なのである。

    またザ・シネマの母体である東北新社と言えば字幕と吹替制作の老舗。社内に優れた字幕翻訳者も抱えている。餅は餅屋とはよく言ったもので、東北新社が引き受けてくれるなら、あとは大船に乗ったつもりでいれば万事うまいこと進むに違いない。

    早速ザ・シネマの小西さんに連絡すると、赤坂にある東北新社でのミーティングをセッティングしてくださった。事情を洗いざらい話し、親身に相談に乗ってもらった。結果的にスケジュールと予算が見合わず引き受けてもらうことはできなかったのだが、ド素人の自分の質問に丁寧に答えてくださり、字幕作りについての貴重なレッスンを無料で受けたも同然だった。ありがたい。

    とりあえず分かったのは、字幕を作るには字幕翻訳者だけでなく、納品データを作る「ラボ」が必要だということ。フィルムの現像所のことを「ラボ」と呼ぶが、字幕制作の業者のことも同じように言うらしい。もちろん「ラボ」の知り合いはいない。しかし自分は映画ライターであるからして、幸い配給会社には知り合いがいる。洋画を配給する会社なら絶対に「ラボ」を知っているはずだ。

    配給会社にいる友人が、業者名をいくつか挙げてくれた。またザ・シネマの小西さんも、独自に動いて「ラボ」を探してくれていた。もちろん字幕翻訳ができる人も早急に見つけねばならない。昨今はネット配信や翻訳者の需要が高まっていて、しかも東京国際映画祭やFILMEXも間近な時期だった。スケジュールを押さえるのが大変なので、まずは翻訳者を押さえることが先決だと助言をもらったのだ。

    翻訳するのは『ヘンリー・フール』『フェイ・グリム』『ネッド・ライフル』の3本。納期に間に合わせるには、それぞれに翻訳者を見つけないと間に合わない。会う人がいれば「字幕翻訳の人知らない?」と訊ね、SNSでチャットをすれば「字幕翻訳の人知らない?」と訊きまくった。どうせ目当てなどないのだ。以前、三池崇史監督を取材した時に「『ヤッターマン』のドロンジョ役をアンジェリーナ・ジョリーにオファーしたって本当ですか?」と質問したら「しましたよ、だってダメ元で訊いても損するわけじゃなし、もしかしたらイエスっていうかも知れないでしょう」と答えてくれた。まさに正論、そして真理である。

    奇跡が起きた。まったくの別件で敏腕ベーシストの友人・かわいしのぶさんと喋っていたところ、突然「私の同級生が、映画の翻訳やってるって知ってたっけ?」と言い出したのだ。ネットでのやり取りだったが、叫ぶ勢いでキーボードを叩いた。「全然知らなかったけど、まさに今探してるところです!」

    その方は字幕ではなく吹替の翻訳がメインだったのだが、別の字幕翻訳の人を紹介してくださった。『フェイ・グリム』を担当することになる岩崎純子さんだ。一方でザ・シネマの小西さんも、知り合いづてに翻訳者を探し当ててくださった。『ネッド・ライフル』の翻訳をされた宇都宮由美さんである。

    よし、あと一人でミッション・コンプリート! いや、よくよく考えたら、『ヘンリー・フール』には1999年の劇場公開時に石田泰子さんが付けた字幕がある。今度のBOXセットで同じ字幕が流用できるなら、願ったり叶ったりではないか。ところが権利元が見つからない。『ヘンリー・フール』のVHSをリリースした会社に連絡してみたが、当時の字幕データはフロッピーディスクに保存していて、その所在も今の権利元がどこかもわからない、と言う。調べて連絡します、と言ってもらったものの、もはや電話の先の人にとっては通常業務とまったく関係のない一件であり、おずおずと催促もしたけれど、新しい情報は届かなかった。

    海外作品の場合、買い付けた会社が権利を保有し続けることはない。契約が切れると、映画配給やソフトリリースのライセンスは権利元に戻る。ただし日本語字幕の著作権は、どうやら翻訳者本人に帰属するらしい。だとしたら、もはや連絡すべき人は一人しかいない。日本語字幕界の大ベテラン、石田泰子さんだ。

    また奇跡が起きた。どうせダメ元なのだからと、自分がやっているバンド仲間に質問を投げてみた。「ところで誰か、翻訳家の石田泰子さんと知り合いだったりしない?」と。すると映画大好きなサラリーマンのベーシストが「確か知り合いの友だちだった気がするよ」と言ったのだ! 「どうかそのお知り合いに、石田泰子さんと繋いでいただけませんかとお願いしてください!」

    こうして本当に石田泰子さんと連絡が繋がった! 事情をお話しすると、「心血を注いだ字幕をまた使ってもらえるのは嬉しい、ただ20年近く前の字幕なので、見直して、必要なところは修正したい」と言っていただいたのだ。マジですか! 快く流用させていただけるだけじゃなく、新たに監修までしていただけるのですか! 女神である。世知辛いこんな浮世にも、女神は実在するのであります。

    「ラボ」探しは、予算、スケジュール、個人からの依頼は請けませんなどなど、さまざまな理由で難航したが、これまた救いの神が現れた。クラウドファンディングの時の上映会でトークゲストに来てくれた深田晃司監督が、字幕制作の「ラボ」を紹介してくれたのだ。赤貧をものともしないインディーズ映画の鬼・深田監督が紹介してくれた「ラボ」の社長さんはこう言って笑った。「予算? どうせ少ないんでしょ、深田監督の紹介だもの、いいですよ、やりますよ」

    揃った! 本当に揃った! これならギリ、Possible Filmsが伝えてきた納期に間に合うはず。契約の諸条件がまとまるまで待っていられないので、作業だけでも進めてもらうようにお願いして、NYに連絡を入れた。ところがNYから、信じられない返信がやってきた。家に帰る途中の都営三田線でメールの文面を走り読みして、もう一度ちゃんと読み直した。心臓が苦しくなった。比喩でなく本当に。足元がぐらぐらした。比喩でなく本当に。ハートリーからのメールにはこう書かれていたのだ。

    「いま別の業者と交渉中だから、そっちの話は一旦すべて止めてくれ」

    (続く)

    《クラウドファンディング顛末記~日本語字幕制作編~その3》

    (前回までのあらすじ)
    クラウドファンディングによって実現することになった「ヘンリー・フール・トリロジー」の日本語字幕化。紆余曲折がありながら、なんとか3名の翻訳者と字幕制作のラボが決定――と安心した矢先に、いきなりのNYからのストップ指令。なんでだ??

    ***

    まず、その日のできごとを整理してみる。2017年10月17日。「字幕制作の人がそろったので、ゴーサインを出していいですよね、出しますよ」と最終確認のメールを送ったところ、夜9時過ぎにハートリーから返信があった。「いま別の業者と交渉中だから、そっちの話は一旦すべて止めてくれ」と……。

    一体どういうことなのか? 少し前までは「日本語字幕もベストなものを作りたいから、今は予算の大小を問題にしている場合ではない」と言ってくれていた。こちらの進捗も報告していたはず。それにしても「別の業者」って何だ? 疑問と不安ばかりが膨らんでいく。

    とはいえ、字幕制作を依頼するのは自分ではなくPossible Filmsなのだ。ハートリーが「止めろ」と言うなら止めるしかない。しかしスケジュールを考えるとすでにギリギリの進行で、実作業はすでにスタートしている。翻訳者さんたちに動いてもらっている以上、満額はムリだとしても、自腹で迷惑料を払う覚悟だけは決めた。

    ハートリーのメールには「あと数時間待つように」とも書いてあった。数時間で答えが出るのなら、こちらの作業はまだ止めずにおこう、と勝手に判断した。もし再開できるとしても、翻訳者のみなさんや「ラボ」に別の仕事が入ったら11月のリリースなど絶望的だ。

    メールを受け取った時は日比谷の中華料理屋にいた。東宝本社で試写を観た後、打合せを兼ねて飯を食べていた。本来ならこっちが映画ライターである自分の通常業務である。気もそぞろに解散して、都営三田線の車内でノートパソコンを取り出し、スマホのテザリングでネットに繋いだ。ともかく一刻一秒を争う。あと数時間で、ようやく始動した日本語字幕のプロジェクトがご破算になるかも知れないのだ。

    慌てて何が起こったのか詳細を訊ねると、「ベルリンの会社が、もっと安い値段で請けてくれることになった。そっちで進めている話は断ってくれ。関わってくれた人たちにはありがとうと伝えて欲しい」という。

    目の前が真っ暗になった、比喩的に。心臓が苦しくなった、比喩でなく。要するに動転した。その一方で、脳内で緊急事態宣言が出され、思考回路がフル稼働を始めた。ベルリンの会社のことは聞いたことがある。BOXセットに収録されるメイキングドキュメンタリーの日本語字幕を手がけた翻訳会社だったはず。おそらく日本語だけでなく、5カ国語字幕をまとめて請ける前提でグロスの価格を提示したのだと推察された。

    Possible Films側の懸念は、予算のことだけではなかった。ヨーロッパ向けDVD用のPAL仕様の字幕データがちゃんと納品されるのかを心配しているのだ。その点でベルリンの会社なら安心だという。またBOXセットに収録するメイキング映像の字幕も同じ会社に発注してOKだったから、映画本編も任せて大丈夫だろう、とも。

    いいや、違うよ、ぜんぜん違うよ! あの翻訳は確かに、最初に送られてきたボストンの翻訳会社よりかはよかったけれど、自分や二階堂美穂さんが大量に赤入れをして、かろうじてOKということになっただけなのだ。しかも同じ翻訳者が3本すべて担当するらしい。このキツキツのスケジュールで一人で長編3本なんてムリがある。ありすぎる。

    自宅に帰るまでに、都営三田線とNY間で何通もメールが飛び交った。主に都営三田線から。ハートリーの文面だともはや「ベルリンの会社」が決定事項になっているが、なんとしても覆したい。いや覆さねばならぬ。しかし繰り返しになるが、自分とハートリーは、メール以外で会ったこともなければ話したこともない。ベルリンに在住していたハートリーが「信頼している」というベルリンの会社と、見ず知らずのお節介な日本人。さて、人はどっちを信じるでしょうか? いや、知らねえよ! なんならどっちでもいいんだよ! 幻の「ヘンリー・フール・トリロジー」にちゃんとした日本語字幕が付くんだったらな!

    ハッキリ言えるのは、こちらは経験ある字幕翻訳者と「ラボ」をそろえていて、ベルリンの会社に同じクオリティの日本語字幕を期待できるとは到底思えない、ということ。とにかく今は説得できるかやってみるしかない。ベルリンに正式発注されてしまったら、もうオシマイだ。

    頭の奥から、聞いたことがある英語のフレーズを必死で引っ張り出した。例えば「with all due respect」。日本語にすると「敬意をもって」「恐れながら」みたいなことだろうか。とにかく何かに反対するときの決まり文句だ。「ベルリンの会社に適切な日本語字幕が作れるとは思えない」理由を並べ立て、「Nothing personal(個人的な誹謗や中傷ではないのです)」と書き添えた。これもなにかの映画で覚えた表現だ。

    最後の方はもう泣き落としに近い。「日本語字幕を作り直す決断をしてくれたのは、自分が言ったことを信頼してくれたからですよね。でも今、この案件こそ、自分が本当にあなたたちの信頼を必要としているのです」

    我ながらずいぶんと芝居がかっているなと思ったが、おずおずと慎み深く、日本人の美徳をアピールしている場合ではない。ヘタクソな英語の長文メールを送り付けられて、ハートリーがどう思ったのかも知らない。こちらが書いたあれやこれやについて、特にコメントはなかったからだ。ただ自宅に帰り着いた深夜0時半頃に「PALのデータの件は重要なので、技術的な詳細を確認したい。担当のクリスから連絡が行くから」とだけ返事が戻ってきた。

    ということは、だ。つまり納品データの問題さえクリアできれば、日本語字幕は日本側で作っていい、と考えていいよね、いいんですよね! なんたる前進、なんたる進歩。わかってくれてありがとう! それにPALの件なら「ラボ」と既に話していて、多少の手間はかかっても解決できる算段は付いていた。これで、ようやく、やっと、ついに正式に日本語字幕が動き出すのだ。

    ここから先はシンプルに事務的なやり取りだ。Possible Filmsのクリスと「ラボ」の間に入って、不明な点を確認して、翌々日にはゴーサインが出た。ようやく、やっと、ついに。今思い出してもあの日ことはヒヤリとするし、心臓に感じた苦しさが蘇ってくる。おそらくあの10月17日の夜が、一連の顛末の中で最大のピンチだったと思う。とはいえ実際の字幕制作の作業は、まだまだスタートラインに立ったところなんですけれども。

    (続く)

    《クラウドファンディング顛末記~日本語字幕制作編~その4》

    (前回までのあらすじ)

    クラウドファンディングによって実現することになった《ヘンリー・フール・トリロジー》の日本語字幕化。「日本での翻訳作業をすべてストップせよ!」というNYからの恐ろしい指令をなんとか取り下げてもらい、BOXセットのリリースに向けて日本字幕の作業がようやく正式に動き出した。

    ***

    《ヘンリー・フール・トリロジー》のクラウドファディングが募集されたのが2017年6月だからほぼ3年が経った。気がつけば、この「顛末記」も前回分を入稿してから1年半が経っており、放置してしまっていて本当に申し訳ない。今回こそ、ちゃんと最終回にするつもりです!

    日本語字幕の作業については、本職の方が書かれた本がいくつも出版されているし、自分のような素人が関わったことでイレギュラーなことも多かったと思う。どうか業界標準の話ではなく《ヘンリー・フール・トリロジー》に限った話として聞いていただきたい。

    とにかく2017年11月がBOXセットのリリース予定だというのに、10月下旬時点で翻訳作業が動き出したばかり。聞きかじったところでは、劇場公開作の字幕翻訳作業にかけられる時間は一週間ほどだという。であれば、なんとか11月頭に字幕データを納品すれば11月中にリリースできるのでは、なんて考えていた。甘かった。いや、甘いなんてレベルじゃなかった。

    《ヘンリー・フール・トリロジー》の三作それぞれに字幕翻訳者が見つかり(『ヘンリー・フール』は1999年劇場公開時に字幕を手がけた石田泰子さんが直々に手直しをしてくださった)、あがってくる字幕をラボが取りまとめて、データにしてNYのポッシブルフィルムズに納品することに決まった。

    さらに字幕翻訳者とラボの二者間のやり取りだけでなく、自分も監修的な立場で関わらせてもらうことになった。最初にNYから送られてきた字幕みたいな壊滅的なクオリティにはならないだろうが、どんな正解が出るのか見届けておきたい。

    それに契約上はポッシブルフィルムズが発注元になるのだが、ポッシブルフィルムズのスタッフに日本語のニュアンスが判断はきないし、クライアント側が仕上がりをチェックしないというのも普通に考えてありえない。そこで翻訳の手配をした自分がクライアント側の代理を務めることになったのだ。

    とは言っても、翻訳する人もプロならラボのスタッフさんもプロ。素人の自分が出る幕はほとんどないと思いつつ、できるだけ観客側の目線に立って、わかりにくいと感じた箇所をおずおずと修正してもらったりもした。

    難物だったのはトリロジーの第二作『フェイ・グリム』。なにが厄介って、この映画、おそらくハートリー作品の中で最もストーリーが入り組んでおり、幾重にも陰謀が渦巻く国際スパイスリラーなのだ。どのセリフが後の展開の伏線になっているのかを把握するだけでも大仕事である。

    翻訳の岩崎純子さんから相談を受けたのも、『フェイ・グリム』のあるシーンだった。主人公のフェイは平凡なシングルマザーだが、CIAに依頼され、逃亡中だった夫ヘンリーが遺したノートを入手するためフランスに飛ぶ。

    あるシーンでは、弟のサイモンが国際電話で、ヘンリーが実は生きていて、トルコにいることをフェイに伝えようとする。しかし盗聴されているためハッキリと言うことができない。そこでサイモンは「感謝祭」と「オットマン」という言葉を会話に紛れ込ませ、言外に匂わせようとするのだが、これを字幕にするのは容易ではない。

    「感謝祭」には七面鳥が付きもので、七面鳥は英語ではTurkey。英語圏の観客ならおそらくトルコを連想できる。また「オットマン」はずっとソファーを拡張する家具だと思っていたが、本来は「オスマントルコの」という意味で、これまた英語圏の人にはトルコと結びつくワードなのだ。しかし日本人が「オットマン」や「七面鳥」から「トルコ」を連想することは難しいだろう。

    セリフ以外にもハートリーが敬愛するゴダールよろしくテロップが多用されており、全部字幕にすると画面が文字だらけになってしまう懸念もあった。試行錯誤の末にどうなったのかは本編を観ていただくとして、関わってみてハッキリとわかったことは「字幕に絶対的な正解などない」ということだった。

    それにしても字幕の翻訳とは、こういうハードルを1秒4文字という制約の中で延々とクリアしていく作業であり、プロのみなさんの仕事には本当に頭が下がる。『ネッド・ライフル』でも、軽く鳥肌が立つやりとりがあった。

    映画の序盤で、マーティン・ドノヴァン扮する神父が、娘に対して聖書にまつわるクイズを出す。聖書の言葉の出典を答えさせる。

    セリフ上では解答は「士師記」になっており、当然、字幕も「士師記」になっていた。ところがラボの社長さんから「劇中で引用されている一節の出典は「士師記」ではなく「申命記」が正しい、脚本上の間違いではないか」と指摘があったのだ。

    ラボ側からの提案は、「実際には「申命記」の引用であるのだから、字幕を「申命記」に修正する」というものだった。しかし劇中では「士師記(Judges)」とハッキリ言っているので、果たしてそこまで改変えていいものか、自分には判断がつかない。

    ところが『ネッド・ライフル』の字幕担当だった宇都宮由美さんは、「士師記」のままで行きたいと言い切った。理由は「この神父は後のシーンでもわかるように用ならないところがある人物である、だから、娘に対する問いかけも、ちゃんと答えをわかっているのか疑わしい」というのである。

    ラボの社長さんは「わかりました、では「士師記」のままで行きましょう」と折れた。監督であるハートリーに確認することもできたが、敢えてしなかった。もはや必要とは思えなかったからだ。自分はただ、字幕のプロが時に脚本すら疑いながら、いかに解釈し、どうやって日本語に落とし込むのかを惚れ惚れと見ていた。

    かくして字幕のデータが完成した。当初のスケジュールではさすがに間に合わないからと納期を再設定してもらい、無事に納品することができた。これで年内には無事にBOXセットがリリースされるだろう。日本ではVHSテープでしか観ることが叶わなかった『ヘンリー・フール』も、劇場公開もソフトリリースもない幻の作品だった『フェイ・グリム』と『ネッド・ライフル』も、ついに日の目を見ることになるのだ。それもちゃんとした日本語字幕がついた状態で。

    誤算だったのは、NYのポッシブルフィルムズにとっても(日本語を含む)五カ国語字幕をつけたBlu-rayやDVDを制作するのは初めての体験だったこと。翻訳の中身とは別に技術的な問題がいくつも発生し、BOXセットはなかなか完成しなかった。

    ようやく完成してからも、予想外の事態がいくつも起きて、発送はスムーズにはいかなかった。クラウドファンディングの支援者全員にリターンが届いてない段階でアマゾンでの販売が始まってしまった時は、申し訳なさのあまり「もうちょっとしっかりしてください!」と叱責めいたメールをNYに送ってしまった。

    そして世界中の支援者に向けた大量発送もなんとか一段落ついた時に、ふと気がついた。

    「自分もクラウドファンディングに支援したけど、ウチに届いてねえな……」

    ポッシブルフィルムのクリスにメールで問い合わせてみた。クリスはハートリーのアシスタントであり、クラウドファンディングの仕切りから雑事全般まで、会社の業務をほぼひとりでやっている人物だ。クリスはすぐに返信をくれた。

    「ごめん、忘れてた」

    正直笑った。心のどこかでホッとした。自分がBOXセットを受け取る最後の支援者なのであれば、多くの人を待たせてしまった罪悪感も少しは軽くなるというものだ。

    これで6月から続いた初めて尽くしの半年間も終わる……と思うと、肩の力がスルリと抜けて、嬉しさと虚脱感が混ざった感慨をようやく噛みしめた、というのはウソです。翌2018年には《ヘンリー・フール・トリロジー》の劇場公開があり、さらに次のクラファンとその次のクラファンがあり、それぞれに劇場公開も実現した。

    2019年には新作プロジェクト『WHERE TO LAND』が立ち上がり、四度目のクラウドファンディングのために走り回ったし、二年経ってもまだ《ヘンリー・フール・トリロジー》のBOXを受け取っていない支援者がいることが判明して顔面蒼白になったりもした。4月に撮影されるはずだった『WHERE TO LAND』はCOVID-19のせいで延期になってしまっているが、今現在もいろんなことが継続して進行している状況なのだ。

    自分は成り行きから思いがけない景色を垣間見ることができたわけですが、ハル・ハートリーとポッシブルフィルムズは、頼りないところもあるけれど本当に真剣に観客と向き合おうとしていると思っています。どうかハートリー作品の魅力が大勢の人に届きますように。そしてこの長い長い雑文を読んでくださった方々、本当にありがとうございました!

    ライター:村山章

    1971年生まれ。映像編集スタジオを経て映画ライターに。惚れ込んだ映画の広報活動 を勝手にするバンド、ウィリアム・H・メイシーズのメンバー。配信作品のレビュー サイト「ShortCuts」代表。

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