西部劇はワイラー監督の原点

巨匠ウィリアム・ワイラーが手掛けた壮大な西部劇叙事詩である。およそ45年のキャリアでアカデミー賞の監督賞に輝くこと3回。『嵐が丘』(’39)や『女相続人』(’49)のような文芸映画から『我等の生涯の最良の年』(’46)のような社会派ドラマ、『ローマの休日』(’53)のようなラブロマンスから『ベン・ハー』(’59)のようなスペクタクル史劇まで、特定のジャンルやスタイルに縛られることなく多種多彩な映画を撮り続けたワイラーは、それゆえにDirector with No Signature=署名サインがない監督、つまり「ひと目で彼の映画と分かるような特徴のない監督」と揶揄されることも少なくなかったのだが、しかしそんな彼のキャリアを語るうえで欠かすことの出来ないジャンルがある。それが西部劇だ。

1902年にユダヤ系スイス人の息子としてドイツに生を受けたワイラー。少年時代から人一倍反骨精神の旺盛な問題児だった彼は、家業の服飾品店を継ぐ気もなく職を転々としていたところ、母親の遠縁の従兄弟に当たる親戚カール・レムリからアメリカへ来ないかと誘われる。そう、あのユニバーサル映画の創業社長カール・レムリである。’20年に渡米したワイラーはユニバーサルのニューヨーク本社に勤務するものの、しかし映画監督を志して撮影所のあるハリウッドへと異動することに。現場の雑用係から徐々に経験を積んでゆき、’25年には当時のユニバーサルで最年少の映画監督へと昇進する。そんな新人監督ワイラーに与えられた仕事が、サイレント期のユニバーサルが最も力を入れていたジャンル「西部劇」だった。

‘25年から’28年までのおよそ3年間で、実に30本近くもの西部劇映画を演出したワイラー。当時アメリカの映画館では、まずニュース映像に近日公開作品の予告編、5分以内の短編アニメに30分以内の短編映画、さらに1時間以内の中編映画を経てようやくメインの長編映画を上映するというパッケージ形式が一般的だった。まだ経験の浅い新人ワイラーの手掛けた西部劇も、そうした併映用の短編・中編映画だったのである。各作品の予算は上限2000ドル。金曜日に脚本を渡されて土曜日にキャスティングや打ち合わせを行い、翌週の月曜日から水曜日までの3日間で撮影完了。追加撮影などが必要な場合は予備の木曜日を使い、金曜日にはまた新たな脚本を渡される。当時の家内工業的なスタジオシステムだからこそ可能だったスケジュールだが、こうした時間にも予算にも厳しい制約がある中での西部劇製作は、ワイラーにとって映画監督としての技術を磨く格好の修行現場でもあった。要するに、西部劇は映画監督ウィリアム・ワイラーの礎を築いた重要なジャンルだったのである。そして、巨額の予算を投じた3時間近くにも及ぶ超大作『大いなる西部』(’58)は、まさしくその集大成的な映画だったと言えるだろう。

開拓時代と近代化の狭間で揺れ動く大西部の物語

舞台は西部開拓時代も終わりに差し掛かった19世紀末、南北戦争後のアメリカ。東海岸の大都会ニューヨークから、テキサスの田舎町へとひとりの青年紳士がやって来る。海運業を営む裕福な家系の御曹司ジム・マッケイ(グレゴリー・ペック)だ。そんな彼を出迎えたのは、地元の大地主ヘンリー・テリル少佐(チャールズ・ビックフォード)の愛娘パトリシア(キャロル・ベイカー)。数か月前にニューヨークで知り合い恋に落ちた2人は、パトリシアの実家で結婚式を挙げることになったのだ。いかにも都会的な洗練された身なりのジムに好奇の眼差しを向ける住民たち。ジムもまたジムで、西部開拓時代そのままの地元住民の好戦的な価値観に戸惑いを覚える。中でも、平和を愛する非暴力主義者のインテリ青年ジムにとって受け入れ難いのは、これから義父となるテリル少佐とその宿敵ルーファス・ヘネシー(バール・アイヴス)の血で血を洗うような激しい対立だった。

豊かな牧草地帯に大豪邸を構えるテリル家と、荒涼とした山岳地帯のあばら家に暮らすヘネシー家。どちらも広大な土地と大勢の牧童を擁する地元の2大勢力なのだが、それゆえ当主であるテリル少佐とルーファスは昔から犬猿の仲で、両家はなにかにつけていがみ合っていた。ジムも到着早々にヘネシー家の長男バック(チャック・コナーズ)とその子分たちから嫌がらせを受けるのだが、一切抵抗することなくやり過ごす。余計な争いごとは起こしたくなかったからだ。しかし、それを知ったテリル少佐はジムに忠告する。この土地では力を持つ男だけが尊敬され勝ち残ることが出来る。反対に優しさは弱さと受け取られ、弱みを見せた者は引きずりおろされるのだと。この嫌がらせ事件を機にテリル家とヘネシー家の争いは本格化。安易な暴力的手段に訴える両家を強く非難するジムだったが、そんな彼の主張を婚約者パトリシアは理解できず恥だと感じ、彼女を秘かに愛する牧童頭スティーヴ・リーチ(チャールトン・ヘストン)もジムのことを女々しい腰抜けだと蔑む。

この無益な争いを終わらせるにはどうすればいいのか。思い悩むジムが着目したのは、パトリシアの親友である女教師ジュリー(ジーン・シモンズ)が所有する土地だった。亡き祖父からジュリーが相続した土地には近隣で最大の水源ビッグ・マディがあり、これがテリル家とヘネシー家が対立する大きな理由のひとつだった。テリル少佐もルーファスもビッグ・マディを自分のものにしようと狙っていたのだ。そこでジムは、自分がビッグ・マディを買い取ることを思いつく。テリル少佐でもルーファスでもない第三者の自分が水源を所有し、テリル家だろうかヘネシー家だろうが分け隔てなく平等に開放することで、争いごとの根源を絶つことが出来るのではないかと考えたのだ。ジムと同じく平和主義者のジュリーも賛成し、彼に土地を売り渡すことにするのだが、しかしこれが思いがけない波乱を招くこととなってしまう…。

トラブル続きだった撮影の舞台裏

先住民の襲来や大自然の脅威などに武器を持って立ち向かい、障害を取り除いて自分の所有地を切り拓いていく。これは、そんな暴力と略奪に根差した西部開拓時代のフロンティア精神を真っ向から否定する野心的な西部劇だと言えよう。米陸軍航空隊中佐として第二次世界大戦のヨーロッパ戦線に参加したワイラーは、戦後になると復員兵の苦悩を通して平和な日常の尊さを描いた『我等の生涯の最良の年』や、独立戦争に巻き込まれたクエーカー教徒の葛藤を描く『友情ある説得』(’56)など、たびたび反戦や非暴力主義をテーマにするようになったのだが、本作などはまさにその真骨頂と言えるだろう。本当の強さとは腕力や勇気を誇示することでもなければ、ましてや喧嘩に勝つことでもない。どこまでも己の理想と信念を貫き通すことであり、自分だけではなくみんなの幸福のため、忍耐強く粘ってでも平和と共存を目指すことである。ジムが暴れ馬を根気よく手懐けて乗りこなすようになる様子を描いたシーンなどは、まさにその象徴と言えよう。そのうえで、ジムとスティーヴの殴り合いをロングショットのカメラで淡々と描くことによって、ワイラーは厳かな眼差しで暴力の無意味さを浮き彫りにしていく。

と同時に、本作は無益な争いの本質をも炙り出した映画でもある。敵対するテリル少佐もルーファスも、我の側にこそ正義があると思い込んでいるが、しかし彼らの考える正義とは単なる己の利益とか欲とかプライドに過ぎず、そもそも初めから正義などと呼べるような代物ではない。「正義の反対は別の正義」などというのはただの幼稚な詭弁だ。本当の正義とは立場や考え方の違いに関係なく他者の権利を尊重し、困っている者があれば手を差し伸べ、争うことなく利益や恵みを分かち合い、多様な人々が共存共生していくことなのではないか。現代にも通じるこのメッセージには、恐らく本作の直前にハリウッドを吹き荒れたマッカーシズムに対する強い批判が込められているのだろう。なにしろ、ワイラーはジョン・ヒューストン監督や女優マーナ・ロイと並んで、赤狩りに抗議するリベラル映画人組織「アメリカ合衆国憲法修正第1条委員会」を立ち上げた発起人のひとりである。しかも、本作の企画を彼のもとへ持ち込んだのは、ハリウッドきっての平和主義者で人道主義者でもあった主演俳優グレゴリー・ペック。マッカーシズム的な保守主義や利己主義に対するアンチテーゼが、ストーリーの根底に流れていても何ら不思議はない。むしろ、そう考えるのが自然だ。

いわば、ハリウッドを代表するリベラルの監督と俳優がタッグを組んだ本作。ペックはプロデューサーも兼任し、まさしく二人三脚の共同プロジェクトとなったのだが、しかしその舞台裏はトラブル続きだったという。最大の問題は脚本。ドナルド・ハミルトンの原作小説に惚れ込んだワイラーとペックだったが、しかし合計で5人の脚本家が携わった脚本は満足のいくものではなく、撮影に入ってからもワイラーとペックの2人が現場で書き直しを続けたため、俳優陣は大いに混乱することとなってしまう。なにしろ、せっかく覚えたセリフも撮影時に変えられてしまうのだから。しかも、納得がいくまで何度でもリテイクを重ね、俳優には一切演技指導をしないことで有名なワイラー監督。「撮影現場は演技学校じゃない」という考え方のワイラーは、俳優が自分の頭で考えて軌道修正することを求めていたのだが、それゆえにスターと軋轢が生じることも多かった。本作の場合も、度重なる脚本の変更とリテイクで女優ジーン・シモンズがノイローゼになってしまい、ベテラン俳優チャールズ・ビックフォードも強く反発したという。さらに、キャロル・ベイカーが妊娠を理由に終盤で撮影から降板するという事態まで起きてしまった。

しかし、それらの問題以上に深刻だったのがワイラー監督とペックの不和である。その最初のきっかけは、劇中で使用する牛をプロデューサーであるペックが4000頭オーダーしたのに対し、共同プロデューサーを兼ねるワイラーが「予算の無駄遣いだ」として400頭に減らしたこと。ここから2人の意見の違いが少しずつ表面化し、主人公ジムがヘネシー家の長男バックらに嫌がらせを受けるシーンを巡って決定的となってしまった。自分の演技に不満のあったペックは撮り直しを要求したのだが、ワイラーは理由も言わず無視を決め込んだため、怒ったペックは撮影を放棄してロスの自宅へ戻ってしまったのだ。結局、残りの出番をこなすため現場復帰したペックだったが、しかしワイラー監督とは一言も喋らず、『ローマの休日』で意気投合して大親友となった2人は、本作を最後に絶縁してしまう。その後、’76年にワイラー監督がアメリカ映画協会(AFI)から生涯功労賞を授与された際、その授賞式にペックが出席したことで、ようやく拗れた関係を修復することが出来たという。

それとは反対に、本作を機にワイラーと親交を深めたのがスティーヴ・リーチ役のチャールトン・ヘストン。ちょうど『十戒』(’56)でスターダムを駆け上がったばかりのヘストンは、キャストクレジットが4番目の脇役であることを不満に思い、当初は本作のオファーを断っていた。ところが、それでもワイラー監督が「この役は君じゃないとダメだ」と諦めないことから、言うなれば根負けしてスティーヴ役を引き受けたのだという。そんな監督の期待に応えて、フロンティア精神の塊だった好戦的な男スティーヴが、反発しながらもジムの平和主義に少しずつ感化され、やがて暴力の虚しさに気付いていく姿をパワフルに演じるヘストンが素晴らしい。この演技に強い感銘を受けたワイラーが、次作『ベン・ハー』の主演に彼を起用したのも大いに納得である。そういう点でも、本作はワイラーとヘストンのキャリアにおいて重要な位置を占める作品と言えるだろう。■

『大いなる西部』© 1958 Estate of Gregory Peck and The Estate of William Wyler. All Rights Reserved.