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COLUMN/コラム2021.12.02
『マーウェン』芸術が持つ癒しの“力”
◆実在の人物を描いた半フィクション映画 『フォレスト・ガンプ/一期一会』(94)でアカデミー賞を獲得し、そしてなによりも『バック・トゥ・ザ・フューチャー』トリロジー(85〜90)で圧倒的な支持を得た、現代ハリウッドの巨匠ロバート・ゼメキス。そんな彼が2018年に発表した映画『マーウェン』は、白人至上主義者たちの暴力によって瀕死の重傷を負ったヘイトクライムの被害者、マーク・ホーガンキャンプ(スティーヴ・カレル)の実話をもとにしている。この事件のPTSD(心的外傷後ストレス障害)によって彼は名前を書くことができなくなり、自身の個人的な生活について何も覚えておらず、またアーティストとしての、絵を描く能力さえも失ってしまったのだ。 そんなマークだが、自宅の裏庭に「マーウェン」と名づけた第二次世界大戦のミニチュアの村を作り、それを写真におさめることで、芸術家としての立地点に立ち戻ろうとする。いつしかマーウェンは、現実でつらい思いをしたマークのストレスを抑える擬似コミュニティの役割を果たすようになる。それをよりどころに、マークが肉体的にも精神的にも回復をはかろうと努力する姿は、2010年に公開されたドキュメンタリー長編『Marwencol(原題)』で描かれ、多くの人に知られるところとなった。 このドキュメンタリーを観たロバート・ゼメキスは大いに感銘を受け、ティム・バートン作品の常連脚本家として知られるキャロライン・トンプソンと共にマークの半生を脚本化し、映画『マーウェン』を作り上げたのだ。しかも完全なバイオグラフィものではなく、フィギュアが配置されたミニチュアの村で、独自の世界が形成されているというファンタジックなセクションを交え、現実とフィクションが交錯する野心的な作品づくりを試みたのである。 「占領下のフランスの小さな村」という設定のマーウェンで展開されるサイドストーリーはとてもユニークで、ホーガンキャンプが自己投影したG.Iジョーのホーギー大佐が、6人のガールズ部隊と共にナチス親衛隊を討伐するというものだ。このマーウェン村の人形たちは、マークの実生活に関わりを持つ人々が投影され、ガールズ部隊はマークが出会うすべての女性のアバターである。親衛隊はマークが酔って女装していると告白したとき、悪意を持って暴力をふるった5人の男たちになぞらえている。連中は全員白人だが、そのうちの1人には鉤十字のタトゥーが彫られていたからだ。この人形世界はそう、マークがいま直面している感情的なジレンマを象徴する空間なのだ。 ◆CGアニメーション三部作の技術を応用した人形たち こうした作品の性質上、『マーウェン』はゼメキスの諸作と同様、視覚効果に重点を置かれた映画となっている。特にフィギュアが動き出す描写では、監督が『ポーラー・エクスプレス』(04)を起点とするフォトリアリスティックなCGアニメーション三部作で導入した、パフォーマンス・キャプチャー・テクノロジーが用いられている。同テクは人体のモーションを記録してCGキャラクターに反映するモーション・キャプチャーを発展させ、動きの取得範囲を顔の表情変化にまで拡げたものだ。しかしこうした表現の人工的な再現は、写実度が高まるほどに違和感や嫌悪感を覚える「不気味の谷」現象を観る者に抱かせてしまい、フィギュアへの共感を必要とする本作では再考の余地があったようだ。 そこで『マーウェン』では、じっさいの俳優の顔をCGキャラクターに合成するという手法を採用。この方法によって前述の現象を緩和させ、また個々の人形キャラクターが誰のアバターなのか、判別しやすい利点を生み出している。 しかし、フィギュアを基にしたCGキャラクターの開発は、プロダクションの早い段階からキャストを決定し、俳優たちのさまざまなデータを取得しておかねばならず、『マーウェン』は融通の利きづらい企画だったようだ。「俳優はすべて前もってキャスティングされ、スキャンされ、それに応じて人形に彫刻をほどこし、特徴や表情などを固定する必要があったんだ。そして髪の毛をデザインし、顔をペイントし、衣装を作らなければならない。通常、映画のキャスティングでは、最後の一人を確保するために、撮影の前日まで検討することができるけれど、このような映画ではそれができないからね」(*1) と、ゼメキスは開発のリードタイムが長かったことをインタビューで答えている。 ◆賛否を分けたファンタジー描写 『マーウェン』は公開後、さまざまな評価をもって迎えられた。多くの映画ファンにとっては、デジタルエフェクトの先導者であるゼメキスが、かつての『ロジャー・ラビット』(88)や『永遠に美しく』(92)の頃のようなVFX主体の作品を手がけたことに対して賞賛を贈った。しかしいっぽうで、現実の問題をファンタジーに落とし込むことにより、物事の本質から目を逸らそうとしているといった評価も散見された。米「ローリング・ストーン誌」の権威ある映画評論家ピーター・トラヴァースは「現実世界の問題が盛り上がってきたところで、ゼメキス監督はすべての女性を人形のように変えてしまい、映画は再びファンタジーに委ねられてしまう。実に残念なことだ」(*2)と述べ、また英「サイト&サウンド」誌のトレヴァー・ジョンストンは「アクション人形のような軽薄さは、風変わりな性を明確に認識している一人の男の、自己受容に向けた悩める旅を描く本作の舞台装置に過ぎない。メインストリームの作品という意味では、この映画は予想外の画期的なものだが、そのハイブリッドな性質がときに不愉快ではある」(*3)と手厳しい。 また事実と映画との違いに対する追及もあり、たとえばマークの支えとなったのは女性だけでなく、少数の善良な男性がいたことや、また彼に暴力をふるった容疑者すべてが白人至上主義やネオナチではないなど、映画化されるさいの変更点として指摘されている。またマークの祖父が第二次世界大戦中にドイツ軍の側で戦っていたために、彼はナチスに対して複雑な感情を抱いていることも映画の不足要素として挙げられている。 確かにドキュメンタリーを見る限り、それらは意図的に加工された印象を与えるが、ただ現実をあるがままに再現するのならば、そこはゼメキスを必要とするところではないだろう。この映画は、トラウマに対処する人間の回復力と創造の可能性や、芸術が持つ癒しの力に対し、視覚効果の申し子が最良のアプローチをしたのだ。それを否定するのは、ひいては創造の力や芸術そのものを否定しかねない。■ 『マーウェン』© 2018 Universal Studios, Storyteller Distribution Co., LLC and Perfect Universe Investment Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2016.03.16
40歳からの家族ケーカク
高年齢童貞を主人公にした大ヒットコメディ『40歳の童貞男』(05年)で華々しい監督デビューを果たしたジャド・アパトー。続く監督第二作『無ケーカクの命中男/ノックト・アップ』(07年)も大ヒットしたことで、ハリウッドにおける彼の評価は決定的なものとなった。しかしこの映画はとても不思議な作品でもあった。 何が不思議かというと、そのストーリーである。冒頭、主人公であるベン(演じているのはアパトーの愛弟子セス・ローゲン)は、キャサリン・ハイグル扮する美人キャスターのアリソンと、酔った勢いで一夜限りの関係を結んだ結果、妊娠させてしまう。 普通ならアリソンが中絶を考えたり、「子どもは自分だけで育てる」とベンを遠ざけたりする紆余曲折を経て、ハッピーエンドに向かうはずだ。しかしアリソンはすぐに出産を決心すると、ベンに子どもの父親としての自覚を求めるのだ。そう、映画としてのお約束を全く守っていないのである。でもその一方で妊娠中のアリソンの描写はリアルそのものだったりする。 実はこれには理由がある。『無ケーカクの命中男』はアパトー自身の体験をベースにした半自伝作だからだ。彼にとってのアリソンは女優のレスリー・マンだった。当時、アパトーは友人のベン・スティラーとジム・キャリーがそれぞれ監督と主演を務めたコメディ『ケーブル・ガイ』(96年)でプロデューサーとして働いていた。そこで彼は、映画の主演女優だったレスリーを妊娠させてしまったのだ。 その結果、彼女はあと一歩でトップ女優になれるポジションにありながら、アパトーと結婚して子育てに注力することになった。しかしそんな大きな犠牲を払われながら、アパトーはなかなかハリウッドで浮上出来なかったのである。 それ以前からアパトーの人生は挫折の連続だった。子どもの頃からお笑いマニアだった彼はスタンダップ・コメディアンとしてキャリアをスタートしている。当初は「自分以上に面白い奴なんていない」と考えていたものの、同世代の三人のコメディアンと知り合った途端、彼の自信はこなごなに打ち砕かれてしまう。 その三人とは、前述のベン・スティラーとジム・キャリー、そしてアダム・サンドラーだった。この世代を代表するコメディアンだから負けるのは仕方ないことなのだが、アパトーのショックは大きく、彼はパフォーマーの道を断念せざるをえなかったのだった。 この時期の体験もアパトーは映画にしている。『素敵な人生の終り方』(09年)がその作品だ。アダム・サンドラー扮するジョージがサンドラー自身で、仲間内でいち早く出世するジェイソン・シュワルツマン演じるマークがベン・スティラー、そして「面白いギャグを書くけどカリスマ性がない」アイラ(演じているのはまたしてもセス・ローゲン)がアパトー自身と言われている。そして彼は芽が出ない状態のまま、レスリーを妊娠させてしまったというわけだ。 アパトーの名がようやく知られるようになったのは、プロデュースと脚本を手がけた『フリークス学園』(99〜00年)によってだった。このテレビドラマで彼は少年時代を送った80年代を舞台に、イケてないグループの少年少女たちをヴィヴィッドに描いたのだった。視聴率が伸び悩んで打ち切られたものの、この作品に関わった監督のポール・フェイグやジェイク・カスダン、俳優のセス・ローゲン、ジェイソン・シーゲル、そしてジェームズ・フランコらは後年それぞれ成功を収めることになる。 高評価を得ていたものの数字がついてこなかったアパトーにようやくチャンスが巡ってきたのは、ウィル・フェレル主演作『俺たちニュース・キャスター』(04年)にプロデューサーとして参加した時だった。彼はこの作品に脇役で出演していたコメディ俳優スティーブ・カレルと知り合ったことで、彼が温めていた企画「高年齢童貞の初体験」をテーマにした映画の実現に奔走。これが『40歳の童貞男』に結実したのだった。 『俺たちニュース・キャスター』と『40歳の童貞男』には、現在『アントマン』の主演俳優として知られているポール・ラッドも出演している。アパトーとポールは、同世代で同じ年頃の子どもを持つことから意気投合して親友になった。こうした経緯もあり、ポールは『無ケーカクの命中男』にも出演している。この作品で彼が演じたのはアリソンの姉デビーの夫ピート。デビーはレスリー・マン、ふたりの娘セイディーとシャーロットはアパトーとレスリーの娘モードとアイリスが演じていた。つまりピートのモデルはアパトー自身なのだ。『無ケーカクの命中男』には過去のアパトー(ベン)と現在のアパトー(ピート)両方が登場していることになる。 このピートとデビーの一家のその後を描いた作品が『40歳からの家族ケーカク』(12年)である。夫婦の倦怠や緊張感、思春期を迎えて不機嫌になる長女、そして老いた親との付き合いなど、テーマは四十代にとってのリアルそのものだ。 ピートがカップケーキを、デビーがタバコを(見かけは)絶っていたり、デビーの「私のおっぱいは全部娘に吸われちゃった」というセリフ、家でのWi-Fiの使用禁止を言い渡されてキレるセイディーといった細かい描写も真に迫ったものがある。 一方で、ピートの経営するインディ・レコード会社が販売不振によって倒産の危機にあるという設定は、映画監督/プロデューサーとして大成功を収めているアパトーにしては謙遜しすぎの描写に見えるかもしれない。でもこれにも理由がある。アパトーの母方の祖父ボブ・シャッドは、メインストリーム・レコードというインディ・レーベルを経営していた人物なのだ。つまりこの設定もアパトーにとっては「母方の家業を継いでいたら、こうなっていたかもしれない」というもう一つのリアルな現実なのだ。 映画の中では、こうした課題の数々は完全に解決されることはない。社運を賭けた英国のベテラン・ロッカー、グレアム・パーカー(本人が好演!)のアルバムが失敗に終わって、ピート一家はマイホームを売りに出さざるをえなくなる。その過程で夫婦の想いはすれ違い、ピートはデビーからこんな問いを投げかけられてしまう。 「もし14年前にわたしが妊娠しなかったら、今でも一緒にいたかしら?」 夫婦喧嘩の最中にレスリーから絶対言われたことがあるに違いない強烈な言葉だ。その言葉の前にピートは黙り込んでしまう。おそらくアパトーも同じ反応をしたのだろう。でも人生とは選択の積み重ねであり、過去に戻ることは出来ない。それを二人が受けとめるエンディングはほろ苦くも暖かい。 『40歳からの家族ケーカク』で自分の現在を描ききったからだろうか。これ以降アパトーがひとりで脚本を書いた作品は存在しない(最新監督作『Trainwrecking』(15年)は主演のエイミー・シューマーが脚本も書いている。但し親の介護や音楽ネタには監督アパトーの影を強烈に感じさせる)。現在レスリー・マンはコメディ女優として大成功を収めており、娘のモードとアイリスもテレビドラマで両親譲りの才能の片鱗を見せはじめている。 映画作家としては徹底して個人の体験にこだわり続けるアパトーが、将来再び脚本も単独で手がけた監督作を発表することがあるなら、その作品の主人公は、成長した娘たちに旅立たれた老いた夫婦になるのではないだろうか。そしてその際に夫婦を演じるのはきっとポール・ラッドとレスリー・マンにちがいない。 ©2012 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2015.12.15
チェンジ・アップ/オレはどっちで、アイツもどっち!?
売れない俳優だけど独身生活を謳歌しているミッチと、敏腕弁護士だけど子どもの世話に追われているデイヴ。すべてが正反対だけど大親友の二人は、ひそかに互いの生活を羨んでいた。ある夜、酔っ払ってベロベロになった二人は、噴水の前で「人生を交換したい!」と同時に本音を口に出してしまう。すると一瞬あたりは真っ暗闇に。気づいた時、二人の体は本当に入れ替わっていた。元に戻ろうとしても、魔法の噴水は改修工事で撤去されて跡形もない。仕方なくミッチ(中身はデイヴ)とデイヴ(中身はミッチ)は互いになりきって生活するのだが ……。 正反対の立場のふたりの体が、不思議なパワーで入れ替わってしまうというプロットの、所謂<入れ替わりコメディ>は、お堅い母親とヤンチャな娘が入れ替わるジョディ ・フォスター主演作『フリーキー・フライデー』(77年、のちにリンジー・ローハン主演で03年に『フォーチュン・クッキー』としてリメイク)から、男女が入れ替わる大林宣彦の『転校生』(82年)まで、これまで様々な作品が作られてきた。 『チェンジ・アップ/オレはどっちで、アイツもどっち!?』はこうした伝統を受け継ぎながらも、ある種このジャンルの<究極形>とも呼べる作品だ。そう言いたくなる理由のひとつは、本作のスタッフの過去の仕事にある。 監督のデヴィッド・ドブキンは、最新作こそシリアスな裁判ドラマ『ジャッジ 裁かれる判事 』(14年)だったけど、元々は多くのコメディ映画を手がけてきた人物だ。その中の一本『ブラザーサンタ』(07年)は、あのサンタクロースにグウタラな兄貴フレッドがいたという設定のもと、彼が弟の代わりに世界中の子どもたちにクリスマス・プレゼントを届ける立場になってしまうというものだった。つまりフレッドはサンタと入れ替わるのだ。 脚本家のジョン・ルーカスとスコット・ムーアも入れ替わりコメディを手がけている。それはあの『ハングオーバー!』シリーズ(09〜13年)。この三部作の事実上の主人公は歯科医のスチュワートだが、小心者でキマジメな彼は親友の独身さよならパーティーで泥酔した翌朝、自分の歯が無くなっていることに気づく。おぼろげな記憶を辿りながらスチュワートは、自分が普段とは正反対のワイルドな一夜を過ごしたことを知る。つまりこの物語では破天荒な男が小心者と入れ替わっていたということになる。そしてスチュワートは、もうひとりの自分を知ることを通じて成熟した男へと成長を遂げるのだ。 このことでも明らかなように、別の人物と入れ替わるという体験は、他人を理解することによって本来の自分を発見する体験でもある。こうしたちょっと哲学的なテーマをギャグと一緒にイヤミなく語ってくれるところにこそ<入れ替わりコメディ>の魅力がある。このジャンルで既に十分な成果を挙げてきた作家たちが、満を持して関わった『チェンジ・アップ』では、そんな<入れ替わりコメディ>の魅力が全編に溢れている。 『チェンジ・アップ』がこのジャンルの究極形であるもうひとつの理由は、キャスティングだ。というのも、主演俳優の二人ほど<遊び人><マジメ人間>というパブリック・イメージを持っているハリウッド俳優はいないからだ。 遊び人のミッチを演じるライアン・レイノルズの劇場映画初主演作は、『アニマルハウス』の製作で知られるパロディ雑誌ナショナル・ランプーンが手がけた『Van Wilder』(02年)というコメディだった。ここで彼が扮したのは、遊びすぎで留年しまくっていたことがバレて親からの仕送りを打ち切られてしまった大学生。だが彼は長年のキャンパス生活で培った合コン・スキルを活かしてビジネスで大成功する。 このアナーキーな作品によって同性の圧倒的支持を獲得したレイノルズは、長身とマッチョなボディを武器に、『ラブ・ダイアリーズ』(08年)や『あなたは私のムコになる』(09年)といった恋愛モノで異性のファンもゲット。また『グリーン・ランタン』(11年)や『ゴースト・エージェント/R.I.P.D.』(13年)といったコミック原作の大作に次々と主演を果たし、16年には自ら企画から深く携わった『X-メン』シリーズのスピンオフ作『デッドプール』が公開予定だ。 一方のマジメ人間デイヴに扮したのはジェイソン・ベイトマンである。もともと彼は、あの伝説的なテレビドラマ『大草原の小さな家』にレギュラー出演していた天才子役だった。しかしハリウッド・スターにしてはあまりに華がない普通の顔をした大人に育ってしまったためか、成人後のキャリアはパッとしないものだった。 だが三十歳を超えて出演したテレビ・コメディ『ブル~ス一家は大暴走!』(03年〜)がベイトマンの運命を変えた。ここで彼が演じたのは、奇人変人だらけの一家にあって唯一マトモな主人公。「なんで僕だけがこんなツラい目に遭うんだ。でも僕が耐えるしかない。」そんなやるせない感情を、諦めきった表情と長いキャリアで培った演技力によって表現しきったベイトマンは一躍<普通人の代表選手>となったのだった。 この当たり役で得られた彼のキャラクターは、ハリウッドに進出して主演した『モンスター上司』(11年)や『泥棒は幸せのはじまり』(13年)といった映画においても全く変わっていない。ベイトマンの本領は、奇人変人に振り回される悲しき小市民を演じるときに最大限に発揮される。 そんなレイノルズとベイトマンだが、実は私生活でも大親友らしい。なんでも『スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい』(07年)で共演したことをきっかけに意気投合し、再共演に相応しい脚本を待っていたのだとか。ふたりの間に本当に深い交流が存在するからこそ、中盤以降の<互いになりきった演技>が破壊力満点なものになっていることは間違いない。 こうしたシーンでは前述の通り、彼らの<本来の自分>の姿が顔を覗かせているのも興味深い。いつもと正反対のハチャメチャな言動を繰り広げるベイトマンからは、長い低迷期にもメゲなかった神経の図太さが感じられるし、レイノルズのいつにない繊細な演技は、アラニス・モリセット、元妻のスカーレット・ヨハンソン、そして現夫人のブレイク・ライヴリーといった気が強そうな美女たちが何故彼にメロメロになったのかという長年の謎を解き明かすものになっている。 最後に、こうした二人に振り回されるデイヴの妻を演じたレスリー・マンについても触れておきたい。一般的には『素敵な人生の終り方』(09年)や『40歳からの家族ケーカク』(12年)といった夫ジャド・アパトーの監督作におけるヒロイン役が代表作とされている彼女だけど、『ダメ男に復讐する方法』(14年)や『お!バカんす家族』(15年)といった夫以外の監督作での脇に回って披露するキレキレのコメディ演技も素晴らしい。 そんなレスリーが、夫以外の監督作で珍しくヒロインを演じていたのが『セブンティーン・アゲイン』(09年)というティーン・コメディだった。この作品で彼女が扮していたのは、冴えない夫を家から追い出した主婦。ある日、彼女のもとに出会った当時の夫そっくりのピカピカの少年が現れる。実は彼こそが不思議なパワーで姿を替えられてしまった夫その人だったのだ。そんな事情を知らないレスリーはトラブルに巻き込まれていくことになる。そう、彼女が他人と入れ替わった夫と遭遇するのは『チェンジ・アップ』が初めてではないのだ。 © 2012 Universal Studios. All Rights Reserved.