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COLUMN/コラム2017.10.15
多重人格(?)ジョニー・トー監督の本領発揮作『MAD探偵 7人の容疑者』〜10月05日(木)ほか
香港。西九龍署のバン刑事は、人が内に秘めた人格を察知する特殊な能力を持つ刑事。さらに被害者や加害者の状況を疑似体験して事件の真相を知ることで、数々の難事件を解決してきた有名刑事である。しかしバン刑事の異常行動は、事件捜査の際だけでなく、署長退任時に自身の右耳を切り取ってプレゼントするなどエスカレート。バン刑事は、状態的に奇行を繰り返すようになっていき、ついには精神病と診断されて警察も追われてしまった。 『MAD探偵 7人の容疑者』は衝撃的かつ不可解な始まり方をする映画だ。説明が極力省略されていることで、バン刑事の周囲で起こる異常な状態と異常な行動を、観客はバン刑事の周囲の人物たちと同様に「一体何が起こっているのか?」という目線で見始めることになる。 5年後、バンのもとにホー刑事がやってくる。ホー刑事は新人刑事時代に、バンと共に殺人事件を担当し、その衝撃的な捜査スタイルが強く印象に残っており、今自身が担当している事件への協力を依頼したのだ。その事件とは“ウォン刑事失踪事件”。1年半前のある夜、同僚のコウ刑事と共に窃盗事件の捜査中だったウォン刑事は、犯人を追う中で山中で姿を消した。しかしウォン刑事の拳銃が複数の強盗事件で使用され、4人の死者も出る事態となっていたのだ。ウォン刑事の生死も不明な中で事件捜査は難航し、担当のホー刑事はバンに助けを求めたのだった。 バンはコウ刑事を見るなり、コウ刑事が内面に秘める7人の人格を察知。ウォン刑事失踪事件の犯人は、コウ刑事であることを断定する。突飛で不可解な行動を繰り返しながらも事件解決に向けて少しずつ前進するバンを理解しようと努力するホー刑事だったが、バンはホー刑事の警察手帳と拳銃を持ち去って勝手に捜査を開始してしまう事態になってしまい……。 バンの持つ能力は、サイコメトリー能力(残留思念を読み取る能力)であり、ビジュアライズされたテレパシー能力(相手の考えていることが分かる能力)。サイコメトリーと言えばデヴィッド・クローネンバーグの『デッドゾーン』(83年)を想起するが、『デッドゾーン』と違ってその能力の具体的な裏付けの説明が一切ないため、バンが超能力者なのか、実はただのサイコパスなのかは最後まで明確にされることは無いというのが特徴的な作品。 監督はジョニー・トーとワイ・カーファイのゴールデンコンビ。主役のバン役には目力が強力な野性味あふれるラウ・チンワン。バンに事件解決依頼をしたために本当にひどい目に遭うホー刑事役には、アクション映画で実力を発揮するアンディ・オン。事件の当事者であるコウ刑事役は、香港の蟹江敬三ことラム・カートン。ビジュアライズ化されたコウ刑事の7人の人格役にはラウ・カムリン、ラム・シュー、チョン・シウファイらが配役されている。 89分というタイトな映画であるが、中身がギュウギュウに詰まった映画で、ラウ・チンワンが同じ食べ物を何度も注文する食事シーンや、ラウ・カムリンの立ちションシーンなど印象的なシーンの目白押し。メキシカン・スタンドオフが炸裂するドラマティックなクライマックスと、唐突に終わる間抜けにもほどがあるラストのコントラストは衝撃的だ。 さて、本作の監督であるジョニー・トーは、もちろんご存じの通り香港を代表する世界的な監督であるのだが、筆者はトー監督もまた多重人格なのではないかと疑っている。 ジョニー・トーは1955年生まれの62歳。香港の九龍に生まれたトーは、17歳の時に香港最大のテレビ局TVBでアシスタントとしてキャリアをスタートする。翌年にはバラエティ番組のディレクターとして演出家デビュー。数々のテレビ番組やテレビドラマを演出した後、1980年には『碧水寒山奪命金』で映画監督デビュー。1989年にはチョウ・ユンファ主演の『過ぎゆく時の中で』を監督し、スマッシュヒットを飛ばす。アンディ・ラウの『raiders レイダース』(91年)やチャウ・シンチーの『チャウ・シンチーの熱血弁護士』(92年)など、若手の有望株の主演作を次々と監督し、その実力を認められたトー監督は、1993年に香港版『チャーリーズ・エンジェル』とも言うべき『ワンダー・ガールズ 東方三侠』を監督。アニタ・ムイ、ミシェル・ヨー、マギー・チャンという美女三人が大活躍するアクションコメディは大ヒットを記録し、同年中に続編も制作されている。また第二次世界大戦中の中国空軍兵のラブロマンス『戦火の絆』(96年)、ラウ・チンワンと初タッグを組んだ消防士アクション映画『ファイヤーライン』(96年)と、佳作を量産体制に入る。また1996年には、TVBでプロデューサーとして活躍していた同い年のワイ・カーファイと銀河映像を設立しており、トー監督作品はこの銀河映像で制作されることになる。 1998年、名曲『上を向いて歩こう』をバックに敵対する組織に属する殺し屋2人の絆を描く『ヒーロー・ネバー・ダイ』(98年)で、カルト的な人気が爆発。さらにヤクザの親分のボディガードたちの死闘と友情を描く『ザ・ミッション 非情の掟』(99年)で、香港電影金像奨の最優秀監督賞を受賞して完全に覚醒する。『ヒーロー~』と『ザ・ミッション』で新世代香港ノワールの旗手として完全に認識されたトー監督だったが、翌年には盟友ワイ・カーファイと共同監督した『Needing You』が香港で凄まじい大ヒットを記録する。本作はアンディ・ラウと歌手として大活躍するサミー・チェンがドタバタを繰り返しながら接近していく様子を描く胸キュンラブコメディで、トー監督が香港ノワールの監督とレッテルを貼っていたファンは度肝を抜かれることとなる。 さらにアンディ・ラウとサミー・チェンを続けて起用した、香港版『ナッティ・プロフェッサー/クランプ教授の場合』とも言うべき『ダイエット・ラブ』(01年)を発表。特殊メイクで激太りさせた主演2人のドタバタ喜劇は、またまた大ヒットしている。 香港ノワールの巨匠、ラブコメの帝王の名を欲しいままにしたトー監督だったが、その後は日本から反町隆史を招いて制作された『フルタイム・キラー』(01年)を発表。アンディ・ラウが謎日本語を駆使し、謎が謎を呼ぶ悪夢のような展開によって、ヘンテコ映画として認識されることになる。さらに2003年にはジョニー・トーのヘンテコ路線の究極系である『マッスルモンク』を発表。未見の読者には是非観て頂きたいのであるが、とにかく凄まじく変な映画で、前半のスチャラカコメディタッチのデタラメ展開から、後半のシリアス展開へのギャップも凄く、唖然とすることを請け合いの怪作である(しかし本作は香港電影金像奨で13部門にノミネートされ、最優秀作品賞を受賞するという快挙を成し遂げる……謎である)。 ここで「ジョニー・トーもすっかり変な監督になっちまったな……」と思わせておいて発表されたのが『PTU』(03年)。香港警察特殊機動部隊の一夜を描く『PTU』は、改めてトー監督の実力を満天下に知らしめる大傑作。香港電影金像奨で10部門にノミネートされ、トー監督は最優秀監督賞を受賞している。かと思えば同年には金城武主演の軽いテイストのラブコメディ『ターンレフト・ターンライト』(03年)を発表。2003年にはノワール、ラブコメ、ヘンテコの3作品を発表しているのだ(さらにSARSでパニックになった香港を励ますために『1:99 電影行動』も監督している)。 その後もヘンテコ路線として『柔道龍虎房』(04年)、『強奪のトライアングル』(07年)、『僕は君のために蝶になる』(08年)を、ノワール路線として『ブレイキング・ニュース』(04年)、『エレクション』シリーズ(04年~)、『エグザイル/絆』(06年)、『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』(09年)を、さらにラブコメ路線として『イエスタデイ、ワンスモア』(04年)、『単身男女』(11年)、『香港、華麗なるオフィス・ライフ』(15年)を監督している。 さらにこの3つのジャンルをそれぞれミックスしたようなハイブリッド作品として、『MAD探偵 7人の容疑者』(ノワール+ヘンテコ)のような作品も発表する。3つのジャンルを縦横無尽に行き来しながら年に3本も4本も映画を監督し、しかも次々と傑作・怪作・ヒット作を連発するという芸当は並みのことではない。こんな作品を発表し続けるトー監督は、やはり多重人格なのではないかと思うのだ。■ © 2007 One Hundred Years Of Film Company Limited All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2017.10.05
「ロシアSFアクション大作」を開拓した記念碑的作品『プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星』〜10月10日(火)ほか
■ロシア映画史上最大規模のSFファンタジー ロシアのSF映画で即座に思い浮かぶ作品というと、未だにアンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』(72)や『ストーカー』(80)あたりが、日本人の一般的認識として幅を利かせているような気がしてならない。もちろん、これらが歴史的名作であることは言を俟たないが、我が国におけるロシア映画の市場が先細りしている影響もあって、最近の作品があまり視野に入ってこないのも事実だ。 しかし2000年代を境に、ロシアではハリウッドスタイルのスケールの大きな映画が興隆を成し、SFジャンルも観念的でアート志向なものばかりではなく、エンタテインメントに徹した作品が量産されている。 こうしたロシアの映画事情の様変わりは、2004年製作のダークファンタジー『ナイト・ウォッチ』に端を発する。同作を手がけた監督ティムール・ベクマンベトフが、当時小さく散らばっていたロシア国内の特殊効果スタジオをひとつにまとめ、大型の作品にも対応できる製作体制を整えた。これはジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』(77)を手がけ、視覚効果スタジオの大手であるILM(インダストリアル・ライト&マジック)設立をうながし、後のSPFX映画のムーブメントを発生させたのと同じ流れである。つまり映画技術のインフラ整理によって、ロシアは「エンタテインメント大作」としてのSF映画の開発に勢いをつけたのだ。(『ナイト・ウォッチ』『デイ・ウォッチ』に関しては、今冬の「シネマ解放区」にて解説の予定) この『プリズナー・オブ・パワー』も、日本円にして約37億という、当時のロシア映画史上最高額の製作費をかけた大作SFとして公開され、国内で20億円という興行成績を記録している。「それ、赤字じゃないのか?」と思われるだろうが、本作は全世界展開を視野に入れた作りをほどこし、さらに21億円という外貨を稼いでいるのである。1シークエンスにつき1セットという豪華なセット撮影や、完成度の高いCGに支えられたVFXショットの数々。バルクールを取り入れた肉体アクションはハリウッドにも劣らぬものとして観る者の目を奪い、また音楽も当初は『ダークナイト』『パイレーツ・カリビアン』シリーズなどハリウッドアクションスコアの巨匠ハンス・ジマーが担当する予定だったというから、世界市場に打って出ようとする、その本気の度合いがうかがえるだろう。 なにより専制君主の強大な権力を打ち負かそうとする自由な主人公は、ハリウッド映画のヒーローキャラクターを彷彿とさせるものだ。この明快さこそが、本作を「ロシアSFアクション大作」たらしめる牽引力といっていい。 ■ストルガツキー兄弟の小説に最も忠実な映画化作品 しかし意外にも、この『プリズナー・オブ・パワー』、物語に関してはロシアらしいメンタリティを強く放っている。原作は同国を代表するSF文学の大家・アルカージー&ボリス・ストルガツキーの手による長編小説『収容所惑星』。ストルガツキー兄弟は前述したタルコフスキーの『ストーカー』や、2015年の「キネマ旬報」外国映画ベスト・テンで6位に選出されたアレクセイ・ゲルマン監督の『神々のたそがれ』(13)など、映画との関わりは深い。 ただ『ストーカー』や『神々のたそがれ』が原作と大きく異なるのに比べ、『プリズナー・オブ・パワー』は意外にも、原作にほぼ忠実な形で映画化がなされている。こうした大作ともなれば、原作は名義貸し程度であるかのごとく大幅に改変されるが、ストルガツキー原作映画の中でも、最もその世界観に肉薄したものとなっているのだ。 とはいえ、原作と異なる点もなくはない。たとえば主人公マクシム(ワシリー・ステパノフ)の容姿は、映画では青い目をしたブロンド髪だが、原作では黒い瞳のブルネットだ。そして彼の乗る宇宙船は、映画だと小惑星との衝突によって破壊されるが、原作では自動対空砲で撃墜されている。またマクシムは惑星サラクシの住人の言葉を自動翻訳機を通じて理解するが、原作では徐々に現地語を覚えていくのである。 他にもクライマックスでは、国家検察官ユニーク(フョードル・ホンダルチュク)が責任を回避するため自ら死を選ぶが、原作における彼の最後は不明のままになっているし、マクシムと影の統治者ストランニック(アレクセイ・セレブリャコフ/原作では〈遍歴者〉と呼称)との壮絶な一騎打ちも、原作だと淡白な話し合いにとどまり、過激なアクション展開は映画の中だけのことだ。もっとも、これらあくまでディテールの差異にすぎず、物語を大きく激変るようなアレンジではない。 それよりも原作に忠実であるがゆえに、映画も出版当時の社会主義を批判する内容となっているところに注目すべきだろう。マクシムが敵対する惑星サラクシは、政府が「防衛塔」と呼ぶ電波塔からコントロール波を流し、国民を従属させている全体主義国家だ。彼らの服装にはナチス・ドイツのような意匠が見られるが、根底にあるのは社会主義国時代のソ連の姿である。 ロシアNIS貿易会の機関紙「ロシアNIS調査月報」の連載ページ「シネマ見比べ隊」で、記事担当者である佐藤千登勢は、 「保守派政党である統一ロシアの党員である監督が、面と向かってロシア批判をするはずがない。なので惑星サラクシの独裁体制をナチス・ドイツ的に描くことで、反体制的なメッセージをカモフラージュしているのではないか?」 といった旨の考察をしている。確かにそのような考えも成り立つが、この映画の場合は単純に、ストランニックの「ドイツ語をしゃべる地球人」というキャラクター設定にリンクさせたり、また世界展開を視野に入れた作りのため、わかりやすい悪役像としてナチス・ドイツの意匠が用いられたのだと考えられる。 ちなみにこの『プリズナー・オブ・パワー』の監督を務めたフョードル・ホンダルチュクは、名作『戦争と平和』(66)『ネレトバの戦い』(69)で知られる俳優セルゲイ・ボンダルチュクの息子で、姉は『惑星ソラリス』でケルヴィン博士の妻を演じた女優、ナタリヤ・ボンダルチュクという芸能一家の出身である。『プリズナー~』以降は、スターリングラード攻防戦をソ連軍の視点から描いた戦争アクション『スターリングラード 史上最大の市街戦』(13)など、統一ロシア党員らしい作品を手がけたりしているが、『パシフィック・リム』(12)のキービジュアルを模したポスターであらぬ誤解を受けた戦争ファンタジー『オーガストウォーズ』(12)や、今年公開された侵略SF『アトラクション 制圧』など、ロシア映画のエンタテインメント大作化に寄与している監督だ。自身の政治的スタンスがいかにあれ、今いちばん評価が待たれる作家といっていいだろう。 ■「インターナショナル版」と「全長版」との違い ところで、この『プリズナー・オブ・パワー』には「インターナショナル版」と、ロシアで公開された「全長版」がある。日本で公開されたのは前者で、ザ・シネマで放送されるバージョンもそれに準ずる。後者は第一章『Обитаемый остров(有人島)』と第二章『Схватка(武力衝突)』の二部からなる構成なのだが、上映時間の総計は217分と「インターナショナル版」より97分も長い。 こう触れると、やはり気になるのは後者の存在だろう。なので両バージョンの相違をここで具体的に記したいのだが、とにかく当該箇所が多いので、大まかに触れるだけに留めておく。なんせ開巻、いきなりマクシムが惑星に不時着するオープニングからして縮められているし、他にも「全長版」はマクシムが牢獄で再会するゼフ(セルゲイ・ガルマッシュ)が収監される経緯や、ストランニックを筆頭とする高官のいびつな人間関係、あるいは政府軍の軍人だったガイ(ピョートル・フョードロフ)が支配の陰謀を知り、マクシムと共に戦おうとする改心のプロセスなどがスムーズに描かれている。加えて同バージョンでは、マクシムとガイの妹ラダ(ユーリヤ・スニギル)が互いに心を通わせていくところを丁寧に描き、捕虜となった彼女を救う意味がきちんと納得できる編集になっているのだが、「インターナショナル版」ではそのあたりが完全に削り取られ、唐突感の否めない構成になってしまっている。 他にも政府がテレビや新聞などメディア報道を徹底的にコントロールし、厳しい統制をおこなっている描写も広範囲にわたって削られているし、ミサイル攻撃を受けたマクシムとガイが政府の潜水艦に潜入し、軍のミュータント虐待を知る重要なシーンも「インターナショナル版」にはない。 このように列記していくと、「インターナショナル版」はドラマ部分をタイトにまとめ、アクションシーンに重点を置いたバージョンのように感じるだろう。しかし、そのアクションシーンも実のところ、かなり刈り込まれているのだ。特にカフェの出口でマキシムが暴漢に襲撃され、それを見事に返り討ちにするアクションシーンは、2009年の「ロシアMTVムービーアワード」で「ベストアクション賞」を獲た名場面でありながら、後半部がかなり短縮されているのだ。加えてクライマックスの凄絶な戦車戦も「全長版」より3分短かくされ、その編集の暴威はとどまるところをしらない。 放送に合わせたコラムなので、本来ならば「無駄な部分を削ぎ落としたぶん、すっきりして見やすい」とフォローしたいところだが、作品を深掘りしていく「シネマ解放区」の趣旨からすれば、正直「インターナショナル版」は短くなってしまったことで、かえって映画が分かりにくくなっている点を主張せねばならない。現状では権利の関係もあって「全長版」の放送は難しいようだが、いずれは朗報を伝えることができるかもしれない。ともあれ、ひとまず今回放送の「インターナショナル版」に優位性を指摘するならば、日本ではDVD(SD画質)でしかリリースされていない本作を、HDで観られる点にある。ハリウッド映画に拮抗するそのゴージャスな作りは、HDで観てこそ価値を放つ。その満足感たるや『惑星ソラリス』で時代が止まっていた人の、ロシア製SF映画に対する認識を一新させるに違いない。 ちなみに「全長版」にはないが「インターナショナル版」にある要素も存在しており、それがアヴァンタイトルを経て登場する、コミック調のオープニング・クレジットだ。擬音に日本語のカタカナ表記が使われているのと、ラダが日本のアニメやコミックに登場しそうな巨乳美少女に描かれているなど、いかにも海外市場に目配りしたかのような映像だが、そうではない。じつは本作、映画化に合わせてコミックスが刊行され、いわゆるメディアミックス的な展開が図られている。つまりあのオープニングタイトルの絵は、本作のコミック版なのである。序文を原作者のボリス・ストルガツキーが手がけ、映画以上に原作の精神を受け継いでいるとのこと。機会があれば、そのコミックス版も読んでみたいものだ。■ ©OOO “BUSSINES CONTACT”.2010
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COLUMN/コラム2017.10.02
ニール・ジョーダンのアイルランド愛が充満する現代のおとぎ話『オンディーヌ 海辺の恋人』には、苦い隠し味も〜10月12日(木)ほか
■かつて水の精霊を演じた女優たち オンディーヌとは、もともとドイツの作家、フリードリッヒ・フーケ(1777~1843)が書いたおとぎ話『Undine』に登場する"水の精霊"の名前。人間の世界に憧れ、年老いた漁師夫婦の養女となったオンディーヌが、騎士のハンスに恋してしまい、その恋が破綻するまでを描いたその物語は、後にフランスの劇作家、ジャン・ジロドゥの手によって戯曲化される。1954年にはそれを基にした舞台『オンディーヌ』がブロードウェーで上演され、主演のオードリー・ヘプバーンは見事トニー賞を受賞。余談だが、オードリーが『ローマの休日』(53)でアカデミー賞の主演女優賞に輝いた時、ニューヨークの授賞式会場に現れた彼女のアイメイクが異常に濃かったのは、まだ上演中だったオンディーヌのメイクを落とす時間がなかったためだと言われている。余談ついでに、それから7年後、ロンドンのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが再演した『オンディーヌ』で主役を演じたのは、レスリー・キャロン。オードリーが一躍その名を知られるきっかけになった舞台『ジジ』のミュージカル映画版で、9個のオスカーを独占した『恋のてほどき』(58)でヒロインを演じた女優である。映画界にはよくある"因縁の関係"というヤツだ。 ■脚本はほぼ100%ジョーダンのオリジナル さて、ニール・ジョーダンが脚本と監督を手がけた『オンディーヌ 海辺の恋人』は、幾多の脚色と因縁を紡いできた戯曲とはほぼ無関係の100%オリジナル。しかし!神秘的なオープニングは何やらマジカルで悲劇的なことが起きそうな予感を掻き立てる。舞台は現代のアイルランド南部、コリン・ファレル扮する漁師のシラキュースが、いつものように海中から引き上げた網に、見知らぬ美女が引っかかって来るところから始まる。彼女はシラキュースに名前を聞かれて、「オンディーヌ」と震えながら答えるのだった。 そこから始まる、過去に傷を持つ孤独で貧しいフィッシャーマンと、同じく、背後に謎めいた空気を漂わせる"水の妖精"の如き美女のラブロマンスは、ところどころに、貧困、離婚、アルコール依存、肉体のハンデ、麻薬犯罪、等々、タイトルとは縁遠い生々しい要素を書き加えつつ進んでいく。本作が2009年に世界各地で公開された際(日本ではなぜかDVDスルー、故に必見!)、多くの批評家たちが及第点を与えつつも、散らばった要素が一気に束ねられる現実的過ぎる幕切れに疑問符が付いた。それをカバーして余りあるのがジョーダンの母国アイルランドへの愛だ。 ■ロケ地を設定したプロダクション・デザインが秀逸だ シラキュースが日々船出する入江の漁港の、寂れてはいてもほのかな陽光に輝く姿と、その先に広がる灰色の海の絶妙な配色。ダークグリーンに澱んだ海中を引き摺られていく黒い網と水の泡、そして、緑濃い岬の先に立つ真っ白い灯台。すべてが中間色で統一された絵画のような風景描写は、理屈抜きに、観客を映画の世界へと引き込んで行く。映画のロケ地をアイルランド南部のコーク州に設定し、作品の成否を分けるとも言われるオープニングシーンをセッティングし、それを監督のジョーダンに託したのは、ロケ地の選択やセット作りまでをトータルで受け持つプロダクション・デザイナーのアナ・ラッカード。ラッカードが本作のプロダクション・デザインで、主演のファレル等と共にアイリッシュ・フィルム&テレビジョン・アワードにノミネートされたのも頷ける。 ■コーク州には美しい灯台がいっぱい ラッカードはコーク州内をロケハンで周遊し、大西洋に向けてエッジィな半島が何本か突き出る中の1つで、美しい漁港があるビーラ半島のキャッスルタウンベア、それを観るためにわさわざ観光客がやってくるというコーク名物の灯台の中から、ローンキャリングモア灯台、アードナキナ・ポイント灯台をロケ地としてピックアップ。灯台は映画のクライマックスでも印象的に登場する。海と灯台、半島、漁港、網漁、神話、、、それら、どこか懐かしく、それでいてワンダーランドのような世界は、同じ島国に暮らす我々日本人のノスタルジーを掻き立てもする。撮影監督として本プロジェクトに加わったクリストファー・ドイルが、同じく港町シドニーの生まれで、香港映画や日本映画でカメラを回してきたことも、作品の世界観を決定づける要因の1つだっただろう。 ■アイルランド人は基本的に魚を食べない? ニール・ジョーダンはコークとは反対側に位置するアイルランド北部の都市で、同じ入江を望むスライゴーの生まれだ。南部に美しい山々と湖水地帯を望むスライゴーの主産業は主に牧畜と漁業。画家と大学教授を両親に持つジョーダンが、少年時代に漁業と接点を持ったかどうかは定かではないが、劇中には、港町の祭でレガッタや綱引きに興じる漁師たちの逞しい姿が映し出される。それは、アイルライドでは漁業が1つの文化として今も息づいていることを証明するシーケンスだと思う。一方で、島国でありながらアイルランドでは漁業が発達できない理由があった。カトリックの教えに従い、多くの国民にとって魚は肉食を禁じられる金曜日と断食日にのみ食する肉の代用品と位置付けられ、貧しい人の食べ物という認識が浸透しているのだ。中でも、海で獲れる魚は最下層の食材と受け取られるのだとか。つまり、そもそも漁業は需要の少ない産業なのだ。国土が海に囲まれていながら。シラキュースが貧しさから酒に溺れた過去を引き摺っているのには、そのような社会的かつ宗教的背景があるのだろう。だからこそ、彼はオンディーヌとの出会いに希望を見出し、がむしゃらに絶望からの脱却を図ろうとする。そこに深く共感し、大切なプロットとして書き加えたジョーダンの思いが(脚本も兼任)、半ばファンタジーとして推移する物語に真実味をもたらしている。 ■漁師と人魚はセットの外でも恋に落ちた!! 普段、ハリウッド映画では封印しているアイリッシュ訛りの早口英語を、水を得たように流暢に操るコリン・ファレルが、本来のワイルドに回帰してとても生き生きしている。オンディーヌ役のアリシア・バックレーダはメキシコ生まれのポーランド人女優で、弱冠15歳で祖国が誇る映画界のレジェンド、アンジェイ・ワイダ監督の『Pan Tadeusz』(99)で映画デビュー後、世界へと羽ばたいた。歌手でもある彼女が劇中で人魚の歌を口ずさむシーンがある。そして、美しい裸体や下着姿で無意識という意識でコリンを誘惑する場面も。オードリー、レスリー・キャロンに続く現代のオンディーヌは、そのカジュアルさで先人たちを軽く凌駕している。 やがて、とても自然な成り行きでコリンとアリシアはセット外でも恋に落ち、アシリアはコリンの子供を妊娠→出産。コリンは生まれた息子を彼女に託して、結婚はしないまま、その後別れて現在に至っている。 ■現在、ジョーダンはダブリンで新作を撮影中です! そして、ニール・ジョーダンは2012年に同郷の女優、シアーシャ・ローナン主演で『インタビュー・ウィズ・ザ・ヴァンパイア』(94)以来の吸血鬼映画『ビザンチウム』を監督したのを最後に、新作が途絶えている。と思ってデータベースをチェックしてみたら、さにあらず。現在、若いヒロインが歳の離れた未亡人と交流するうちにミステリアスな世界に誘われていくというスリラーを、クロエ・グレース・モレッツ、イザベル・ユペール共演で撮影中であった。それも、やっぱりアイルランドの首都、ダブリンで。ジョーダンの母国愛は不滅なのだ。■ ©Wayfare Entertainment Ventures LLC 2010
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COLUMN/コラム2017.09.15
【未DVD化】バーブラ・ストライサンド執念の監督デビュー作『愛のイエントル』、完成までの長~い道のり~09月07日(木) ほか
■バーブラは高らかにビグローの名前を読み上げた! 思い出して欲しい。第82回アカデミー賞で栄えある監督賞のプレゼンターとしてステージに登壇したバーブラ・ストライサンドが、封筒を開いた途端、思わず口走った「the time has come!(遂にこの時が来たわ)」という台詞を。そうして、バーブラは誇らしげにキャサリン・ビグローの名前を読み上げたのだ。対象作は言うまでもなく『ハート・ロッカー』。オスカー史上初めて女性が監督賞を手にした瞬間だった。 DVD未発売「愛のイエントル」の苦難の道程 当夜、バーブラが手渡し役を務めたのには訳があった。と言うか、まるで予め受賞者を知っていたかのようなキャスティングだった。何しろ、バーブラにはビグローよりもずっと前に監督賞受賞の可能性があったにも関わらず、候補にすら挙がらないという苦渋を、1度ならず2度も味わっていたからだ。『サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方』(91)と、彼女の監督デビュー作である『愛のイエントル』(83)だ。今月は、日本語字幕付きVHSは国内で流通したものの、DVDは未発売の女傑、バーブラ・ストライサンドによる初監督作について、その舞台裏を簡単に振り返ってみたい。 ■思い立ったのは『ファニー・ガール』の直後 バーブラがポーランド生まれのアメリカ人ノーベル賞作家、アイザック・バシェヴィス・シンガーの短編"イェシバ・ボーイ"を読み、映画化を思い立ったのは、自ら主演したブロードウェー・ミュージカルの映画化で、巨匠、ウィリアム・ワイラーが監督した『ファニー・ガール』(68)でアカデミー主演女優賞を獲得した直後、1969年のことだった。映画化を思い立った、というのは温い表現で、資料に因ると、次は絶対これで行く!と強く確信したというのが正しいようだ。すでにグラミー賞を受賞する等、その歌手としての類い稀な才能を認められてはいたものの、『ファニー・ガール』でハリウッドデビューしたばかりの映画女優としてはまだ新人の彼女が、である。なぜか? 1904年のポーランド、ヤネブの町。学問は男の専門分野で、女はそれ以外の雑事を受け持つものと教えられていた時代に、ヒロインのイエントルは、あっけなく旅立った父が秘かに教えてくれたタルムード(ユダヤ教の聖典)に触発され、何と大胆にも、男に変装してイェシバ(ユダヤ教神学校)に入学してしまう。そうして、イエントルは性別を偽ることで、人々の偏見を巧みにかわしながらも、それ故に激しい自己矛盾に苦しむことになる。これが『愛のイエントル』のプロットでありテーマだ。 ■動機は亡き父親への熱い思いか? バーブラ自身は1942年にニューヨーク、ブルックリンでロシア系ユダヤ人の母親、ダイアナと、イエントルの父と同じくポーランド系ユダヤ人の父親、エマニュエルとの間に生まれている。しかし、高校で文法学の教師をしていたという父親は、彼女が生後15ヶ月の時に他界。その後、ダイアナは中古車セールスを生業にしていたルイス・カインドと再婚するが、継父とバーブラの折り合いは悪く、彼女の中では幼い頃に接し、薄れゆく記憶の中で生き続ける実父の面影の中に、自分の体の中に流れるユダヤ人としてのルーツを見出していく。 ■バーブラに立ちはだかった年齢の壁 自らのユダヤ人としてのアイデンティティを映像で手繰り寄せ、実感し、広く告知したい!!そう願った時から、バーブラの苦難が始まる。彼女が原作の映画化権を取得するのは前記の通り、1969年のこと。製作はバーブラがポール・ニューマンやスティーヴ・マックイーン等と共に成立したスタープロの草分け"ファースト・アーティスト"が受け持ち、原作者のシンガーが脚本を、チェコのイヴァン・パッセルが監督を各々担当することで一旦話は進むが、シンガーは当時40歳のバーブラが10代のイエントルを演じることに難色を示し、プロジェクトから退出。そこで、バーブラは当時の恋人だったヘアスタイリスト上がりのイケイケプロデューサー、ジョン・ピータースに脚本を渡すが、彼もパッセルと同じ理由で乗り気になれなかったという。厳しくもちょっと笑える話ではないか!? ■ピータースを驚愕させた荒技とは? 時は流れて1976年。ピータースと『スター誕生』を撮り終えた時、バーブラはさすがに自分がイエントルを演じるのは無理があると判断し、監督に回ることを決意する。当然、会社側は彼女の監督としての才能には懐疑的だった。2年後、遅々として進まない状況を見かねたバーブラの友人、作詩家のアラン&マーヴィン・バーグマン夫妻(『愛のイエントル』も担当。作曲はミシェル・ルグラン)は、作品をミュージカル映画にすることを提言。それならバーブラのネームバリューで企画が実現すると踏んだからだ。一方、まだイエントル役に固執していたバーブラは男装で自宅に乱入し、ソファで寛いでいたピータースを驚愕させると共に、男装なら年齢が目立たないという利点に気づかせるという荒技に出て、遂にピータースを屈服させる。 その後、一旦製作を請け負ったオライオンが『天国の門』(80/マイケル・チミノ監督によるデザスタームービーの代名詞)が原因ですべての巨額プロジェクトの中止を発表。最終的にユナイテッド・アーティストとMGMの製作で『愛のイエントル』にGOサインが出たのは、バーブラが映画化を思い立ってから13年後の1982年4月のこと。その間、20回も脚本が書き直されていた。 結果的に、バーブラは製作、監督、脚本、主演、主題歌の1人5役を兼任。イエントルが恋する学友のアヴィドールを演じたマンディ・パティンキンには、ブロードウェーのトップスターでありながら、劇中で一曲も歌わせず、歌唱シーンを独り占めしたのは、苦節を耐えて夢を実現させた彼女流の"落とし前"だったのか?恐るべき女優の執念をそこに見た気がする。 ■わがままバーブラはマッチメイカーだった!! ところで、ユダヤの世界にはマッチメイカー、日本で言う縁結び役が存在する。同じユダヤ人コミュニティが舞台の『屋根の上のバイオリン弾き』(71)でもマッチメイカーは歌に登場するほどお馴染みだ。『愛のイエントル』の編集段階でバーブラに協力したと言われているスティーヴン・スピルバーグは、それが縁で一時は関係を絶っていたエイミー・アーヴィング(アヴィドールのフィアンセ、ハダスを演じてバーブラを差し置いてアカデミー助演女優賞候補に)とよりを戻し、1985年に結婚。その後、アーヴィングと離婚したスピルバーグは『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(84)に出演したケイト・キャプショーと再婚し、今も仲睦まじい。実は、キャプショーをスピルバーグに紹介し、『魔宮の伝説』へのきっかけを作ったのもバーブラだった。場所は『愛のイエントル』の編集室。嫌味なくらい自分の希望を押し通したバーブラが、舞台裏では縁結び役を演じていたという皮肉。世紀のディーバには、そんな風に人を幸せにする才能があるのかも知れない。例え、是が非でも欲しかったアカデミー監督賞はその手をすり抜けたとしても。■ YENTL © 1983 LADBROKE ENTERTAINMENTS LIMITED. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2017.09.10
「考えるな、感じるな、ただ下らなさに笑え」香港ナンセンスコメディの正当後継映画『ドラゴン・コップス -微笑(ほほえみ)捜査線-』〜09月11日(月)ほか
おそらくほとんどの方はブルース・リーの一連の作品やジャッキー・チェンの作品のような「カンフー映画」ではなかろうか。その他にジョン・ウーの『男たちの挽歌』や『インファナル・アフェア』、ジョニー・トーの一連の作品のような「香港ノワール」を思い浮かべる方もおられるであろうし、中にはウォン・カーワイやピーター・チャンのようなアート寄りな作品を連想される方もいるのではないだろうか。 そしてそうしたジャンルと並んで、香港映画の代表的ジャンルとして今なお人気を博しているのが、コメディ映画、特にナンセンスコメディ映画なのである。 香港映画は日本の技術者の協力の下、京劇ベースの武侠映画からスタートし、キン・フーやチャン・チェのようなアクション映画に骨太な人間ドラマを持ち込んだ名監督が登場。さらにブルース・リーの登場によって、本物の武術のバックグラウンドを持つ俳優たちによる別次元のアクション映画が登場することで、最初の全盛期を迎える。ブルース・リーの急逝によってその勢いは陰りを見せるかに思えたが、ブルース・リーの遺産である「カンフー映画」というジャンルは次世代のスターを生み出せずにいた香港映画界を延命させることに成功した。 ブルース・リーによって、東アジア最大の映画会社ショウ・ブラザースと並ぶ規模に成長したゴールデン・ハーベスト社は、次なるドル箱の映画を探していた。そこで目を付けたのが、ブルース・リーと同窓で、TV番組の司会者として人気を博し、映画界に活動の場を移していたマイケル・ホイだった。 マイケル・ホイは『Mr.BOO!』シリーズ(日本の配給会社によって一連のシリーズのようなタイトルを付けられているが、それぞれが独立した作品)を立ち上げて、香港映画史上に残るメガヒットを記録。カンフーアクション映画一辺倒であった香港映画界に大きな風穴を空け、この大ヒットがジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポーらを輩出するコメディ・カンフー映画の呼び水になったことは言うまでもない。 『Mr.BOO!』の特徴は、言うまでもなくナンセンスギャグの連発、そして社会風刺の効いたストーリー展開だ(もちろん日本では吹替版の故・広川太一郎氏の絶大な貢献があるが、本稿では無関係なので泣く泣く割愛する)。これ以降、香港には様々な種類の映画が登場し、いよいよアジアのハリウッドとしての地位を確立していくことになる。マイケル・ホイの系譜は、さらに香港映画史上最大級のヒット作となった『悪漢探偵』シリーズに繋がり、ジャッキー・チェンやサモ・ハン・キンポーの『福星』シリーズや『霊幻道士』シリーズといったアクションコメディの大流行に繋がっていくことになる。 そして80年代後半になると、現在に至るまでヒットメーカーとして活躍する一人の天才監督が登場する。バリー・ウォン(ウォン・ジン)だ。芸能一家に育ち、テレビ局の脚本家から映画監督に転身したバリー・ウォンの名を一気に知らしめたのは、何と言っても『ゴッド・ギャンブラー』シリーズだろう。1989年にノワール食の強いギャンブルアクション映画『カジノ・レイダース』を撮りあげたバリー・ウォンは、同時期にナンセンスコメディ、エンタメ方向に思いっきり振り切ったギャンブルアクション映画『ゴッド・ギャンブラー』も制作。香港ノワールのハードコアで陰惨な世界に飽いていた香港の映画ファンは、笑って燃えて最後にホロリとさせる『ゴッド・ギャンブラー』の上映館に押し寄せたのだった。 バリー・ウォンは次々とヒット作の制作・監督・脚本を担当し、そのコメディ作品ではチョウ・ユンファやアンディ・ラウといった人気俳優の新たな側面を引き出すことに成功。そのため多くの有名スターが、こぞってバリー・ウォンの作品に出演するようになっていく。 しかしバリー・ウォンの最大の功績は、コメディ映画の次世代スーパースターを次々と発掘したことであろう。その中でも最大のスターに成長したのがチャウ・シンチーだ。チャウ・シンチーはバリー・ウォンのナンセンスコメディのあり方をさらに進化させて世界的な映画人へと成長していくことになるが、こちらも本稿とは直接関係は無いため割愛する。 さて、このバリー・ウォンの確立したナンセンス・コメディで大化けした俳優もいる。前述のチョウ・ユンファやアンディ・ラウだけでなく、『ドラゴン・コップス』の主役の一人を演じたジェット・リーだ。『少林寺』で大ブレイクした後、不遇な10年を経てコメディ要素を強くしたワイヤーアクション超大作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズでマネーメイキングスターの地位を確立したジェット・リー(当時はリー・リンチェイ)。『ワンチャイ』シリーズの監督ツイ・ハークと揉めてシリーズを降板した後に出演したのが、バリー・ウォンの『ラスト・ヒーロー・イン・チャイナ/烈火風雲』だった。ここで『ワンチャイ』以上にワルノリしたコメディ演技を開花させたジェット・リーは次々とバリー・ウォン作品に出演。中でも今回紹介している『ドラゴン・コップス』との類似点の多い『ハイリスク』は、香港映画マニアの好事家の間でも非常に評価の高い作品だった。しかしジェット・リーはハリウッドに進出し、再びシリアス路線に戻ってコメディ演技を封印。実に8年ぶりに本格コメディ映画に復帰したのが、この『ドラゴン・コップス』なのである。 セレブリティの連続死亡事件。死体は常に微笑んでいるという怪異な事件だ。この事件を追っていた刑事プーアル(ウェン・ジャン)と相棒のフェイフォン(ジェット・リー)、そして彼らの女性上司のアンジェラ(ミシェル・チェン)は、死んだ者たちに共通点を見出す。彼らはすべて売れない映画女優のチンシュイ(リウ・シーシー)と関係していたのだった。プーアルはチンシュイから事情を聞くが、チンシュイを迎えにきた姉のイーイー(リウ・イェン)は怪しさ満開。捜査を進めていると、死んだ者たちには保険金がかけられており、その受取人はすべてイーイーだったのだ……。 映画のビジュアル的にジェット・リー主演映画のように思えるだろうが、本作の主演はプーアル刑事役のウェン・ジャンだ。テレビ俳優としてブレイクした後、ジェット・リーがアクションを封印したヒューマンドラマ『海洋天堂』で、ジェット・リーの自閉症の息子役で本格的に映画界に進出。チャウ・シンチーの『西遊記~はじまりのはじまり~』や『人魚姫』でブレイクした若手俳優だ。実生活でもジェット・リーを「パパ」と呼ぶほど仲の良いウェン・ジャンは、共演2作目となる本作でも息の合ったコメディ演技を見せており、コスプレも厭わない自信満々なポンコツという点で前述の『ハイリスク』でのジャッキー・チュンを彷彿とさせる。 またバリー・ウォンは、自作でチンミー・ヤウのような常軌を逸したような超美人女優にムチャブリを繰り返すことで有名だったが、『ドラゴン・コップス』も負けていない。台湾で大ヒットした青春ドラマ『あの頃、君を追いかけた』でブレイクしたミシェル・チェン。本作ではアクションに挑戦したり、壁に激突したりと大活躍を見せる。そして行定勲監督の『真夜中の五分前』で双子の姉妹を演じたリウ・シーシーはワイヤーアクションにも挑戦。さらにシンガーやテレビ番組の司会者として有名で、中国の美人ランキングで1位にもなったリウ・イェンは、パブリックイメージ通りの豊満なバストを半分放り出したまま登場する。 そしてジェット・リーファンなら期待するアクションも盛り沢山。オープニングではジェット・リーとの共演は『カンフー・カルト・マスター』以来6作品というコリン・チョウは、相変わらず息の合ったアクションを展開。監督・主演を務めた映画『戦狼 II』が興行収入800億円超えという世界興行収入を塗り替える大ヒットを記録しているウー・ジンも登場。そして最後には時空を超えた人物との最終決戦が待っている。 ……改めて申し上げるが、本作はハードなバディアクションものではなく、あくまでもナンセンスコメディ映画だ。真面目な作品や、コメディタッチのアクションという期待をして観るとその落差に呆然とする類の作品である。しかしあえて言いたい。 「おれ達の好きな香港映画はこれだ!」 と。 まさにマイケル・ホイが切り開き、バリー・ウォンが再構築し、チャウ・シンチーが世界を制した香港コメディ映画の正当なスタイル。本当に下らないギャグが連発し、ヒット作のパロディが随所に取り込まれ、凄まじい人数のカメオ出演者が登場するというオールスターかくし芸大会的な、香港映画が本来持っていたサービス精神の塊のような作品。その正当後継者が、この『ドラゴン・コップス -微笑捜査線-』なのだ。■ ©2013 BEIJING ENLIGHT PICTURES CO., LTD. HONG KONG PICTURES INTERNATIONAL LIMITED ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2017.09.03
先史時代の人類にリアルに迫ったエポックメイキング『人類創世』〜09月14日(木) ほか
■立ち遅れていた「原始人もの」というジャンル 『人類創世』といえば2017年の現在、40歳代後半から上の世代にとって、かなり強い印象を与えられている作品かもしれない。「映画と出版とのミックスメディア展開」を武器に映画業界へと参入し、初の自社作品『犬神家の一族』(76)を大ヒットさせた角川書店が、その手法を活かして宣伝協力を図った洋画作品(配給は東映)だからだ。1981年の日本公開時には原作小説がカドカワノベルズ(新書)より刊行され、おそらく多くの者が、原作とセットで映画を記憶していると思う。 とりわけ文学ファンには、この原作の出版は歓喜をもって迎えられたことだろう。著者のJ・H・ロニー兄(1856〜1940)はベルギー出身のフランス人作家で、ジュール・ヴェルヌと並び「フランス空想科学小説の先駆者」ともいうべき重要人物だ。映画『人類創世』の原作である「火の戦争 “La Guerre du Feu”」は、そんな氏が1910年に発表した、先史時代の人類を科学的に考察した小説として知られている。物語の舞台は80,000年前、ネアンデルタール人の種族であるウラム族が、ある日、大事に守ってきた火を絶やしてしまう。彼らは自分自身で火を起こす方法を知らなかったため、ウラムの長は部族の若者3人を、火を取り戻す旅へと向かわせるーー。 物語はそんな3人が大陸を放浪し、恐ろしい猛獣や食人部族との遭遇といった困難を経て、やがて目的を果たすまでを克明に描いていく。日本では16年後の1926年(大正15年)に『十萬年前』という邦題で翻訳が出版されたが(佐々木孝丸 訳/資文堂 刊)、そんな歴史的な古典が、映画の連動企画とはいえ55年ぶりに新訳されたのである。 このように年季の入った著書だけに、じつは『人類創世』が「火の戦争」の初の映画化ではない。最初のバージョンは原作が発表されてから5年後の1915年、フランスの映画会社であるスカグルと、プロデューサー兼俳優のジョルジュ・デノーラによって製作されている(モノクロ/サイレント)。スカグル社は当時、文芸映画の成功によって意欲的に原作付き映画を量産していた時期で、そのうちの一本としてロニーの「火の戦争」があったのだ。ちなみに、このベル・エポック時代のサイレント版は以下のバーチャルミージアムサイト「都市環境歴史博物館」で抜粋場面を見ることができるので、文を展開させる都合上、まずはご覧になっていただきたい。 http://www.mheu.org/fr/feu/guerre-feu.htm この映像を見る限り、先ほどまで力説してきた「科学性の高い原作」からはかけ離れていると感じるかもしれない。このモノクロ版に登場するウラム族は、原始人コントのような獣の皮を着込み、戯画化された古代人のイメージを誇示している。映画表現の未熟だった当時からすれば精一杯の描写かもしれないが、それでもどこかステレオタイプすぎて、どこか滑稽に映ってしまうのは否めない。 ■二度目の映画化はミニマルに、そしてリアルに ーー監督ジャン・ジャック・アノーのこだわり この「火の戦争」を例に挙げるまでもなく、こういった文明以前の描写というのは、過去あまり真剣に取り組まれることがなかった。例外的に『2001年宇宙の旅』(68)が「人類の夜明け」という導入部のチャプターにおいて有史以前の祖先を迫真的に描いていたものの、基本的にはアニメの『原始家族フリントストーン』や『恐竜100万年』(66)、あるいは『おかしなおかしな石器人』(81)のように、いささかコミカルで陳腐な原始人像が充てがわれてきたのだ。 『人類創世』は、そんな状況を打ち破り、先史時代の人類の描写を一新させた、同ジャンルのエポックメイキングなのである。 監督は後に『薔薇の名前』(86)『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(97)で著名となるジャン=ジャック・アノー。彼は本作を出資者に売り込むさいのプレゼンで「この映画は『2001年宇宙の旅』における「人類の夜明け」の続きのようなものだ」と説き、「火の戦争」再映画化へのステップを踏んでいる。『2001年〜』を例に出さないと理解を得られない、それほどまでに前例の乏しいジャンルへの挑戦だったのだ。 さらにアノーは作品のリアリティを極めるため、原作にあった登場人物どうしの現代的な会話をオミットし、初歩的でシンプルな言語を本作に導入。それらをジェスチャーで表現するボディランゲージにすることで、あたかも文明以前の人類の会話に間近で接しているような、そんな視覚的な説得力を作品にもたらしている。 そのために専門スタッフとして本作に招かれたのが、映画『時計じかけのオレンジ』(71)の原作者で知られる作家のアンソニー・バージェスと、イギリスの動物学者デズモンド・モリスである。バージェスは先の『時計じかけ〜』において独自のスラング「ナッドサット語」を構築した手腕を発揮し、またモリスは動物行動学に基づき、ウラム族の言語と、彼らが敵対するワカブー族の言語を、この作品のために開発したのだ。 映画はこうした著名な作家や言語学者のサポートによる、アカデミックな下支えを施すことで、80,000年前の先祖たちの様子を、まるで過去に遡って見てきたかのように描き出している。 また、ウラム族をはじめとするネアンデルタール人の容姿にも細心の注意が払われ、極めて精度の高い特殊メイクが本作で用いられている。特に画期的だったのはフォームラテックスの使用で、ラバーしか使えず全身体毛に覆われた表現しかできなかった『2001年宇宙の旅』と違い、体毛を細かく配置できる特殊メイク用の新素材が導入された(本作は第55回米アカデミー賞のメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞)。他にも広大な原始の世界を活写すべく、スコットランド、ケニア、カナダなどにロケ撮影を求めるなど、古代人の放浪の旅にふさわしい、悠然たるビジュアルを提供している。 こうしたアプローチが功を奏し、本作は言語を必要としない、映像から意味を導き出すミニマルな作劇によって、人類が学びや経験によって進化を得るパワフルなストーリーを描くことに成功したのだ。 ■公開後の余波、そしてロン・パールマンはこう語った。 しかし、そのミニマルな作りが、逆に内容への理解を妨げるのではないかと危惧された。そこで日本での公開時には、地球の誕生から人類が現代文明を築くまでを解説した、短編教育映画のようなアニメーションが独自につけられた(どのようなものだったかは、当時の劇場用パンフレットに画ごと掲載されている)。こうしたローカライズは今の感覚では考えられないが、そのため我が国では、この『人類創世』を本格的なサイエンス・ドキュメンタリーとして真剣に受け止めていた観客もいたようだ。 しかし、原作が書かれた時代から1世紀以上が経過し、再映画化がなされてから既に36年を経た現在。いまの先史時代研究の観点からは、不正確と思われる描写も散見される。同時代における火の重要性、存在しない種族や使用器具etcーー。もはやこのリアリティを標榜した『人類創世』でさえ、偏見に満ちた、ステレオタイプな先史時代のイメージを与えるという意見もある。 ただそれでも、この作品の価値は揺るぎない。描写の立ち遅れていたジャンルに変革を与えるべく、意欲的な作り手が深々と対象に切り込んだことで、この映画は他の追随を許さぬ孤高の存在となったのだ。 『人類創世』以後、監督のアノーは動物を相手とする撮影のノウハウや、自然を舞台とした演出のスキルを得たことから、野生の熊の生態をとらえた『子熊物語』(88)や、同じく野生の虎の兄弟たちを主役にした『トゥー・ブラザーズ』(04)などを手がけ、そのジャンルのトップクリエイターとなった。また俳優に関しても、例えばイバカ族のアイカを演じたレイ・ドーン・チョンは本作の後、スティーブン・スピルバーグの『カラーパープル』(85)や、今も絶大な人気を誇るアーノルド・シュワルツェネッガー主演のカルトアクション『コマンドー』(85)に出演するなど、80年代には著しい活躍を果たしている。 そしてなにより、ウラム族のアムーカを演じたロン・パールマンは『ロスト・チルドレン』(95)『エイリアン4』(97)といったジャン=ピエール・ジュネ監督の作品や『ヘルボーイ』(04)『パシフィック・リム』(13)などギレルモ・デル トロ監督作品の常連として顔を出し、今も名バイプレイヤーとして幅広く活躍している。筆者は『ヘルボーイ』の公開時、来日したパールマンにインタビューをする機会に恵まれたが、そのときに彼が放った言葉をもって結びとしよう。 「(ヘルボーイの)全身メイクが大変じゃないかって? キャリアの最初にオレが出た『人類創世』のときから、特殊メイクには泣かされっぱなしだよ(笑)」■ ©1981 Belstar / Stephan Films / Films A2 / Cine Trail (logo EUROPACORP)
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COLUMN/コラム2017.08.20
ガンダム+聖書+白鯨+ワーグナー=『ホワイトタイガー ナチス極秘戦車・宿命の砲火』〜08月05日(土)ほか
この8月ブラピの『フューリー』(14)を放送しますが、ここではそれとセットでご覧いただきたいロシア映画『ホワイトタイガー ナチス極秘戦車・宿命の砲火』をご紹介します。これ、『アルゴ』と『ライフ・オブ・パイ』が競った12年度アカデミー賞で外国語映画賞にノミネートされたほどの戦争映画の傑作です。 なぜセットで見るべきか?どちらもドイツ軍が誇るVI号戦車ティーゲルⅠが敵役として無双っぷりを見せつける戦車映画だから。西部戦線の米軍M4シャーマン中戦車と、東部戦線の通称ソ連軍(当時正式には「労農赤軍」と称していましたが)の“鬼戦車”ことТ-34中戦車。左右からドイツ目指して進撃するこの主人公たちの前に、当時最強の重戦車ティーゲルが立ちはだかる、というお話。8月5日には二本立ててやりますぞ! ティーゲル、「ティーガー」とも「タイガー」とも言いますがワタクシはガキの頃から「ティーゲル」と呼んでます。プラモ作りませんでした?ド直球に格好良いのでタミヤ1:35ティーゲルとハセガワ1:450大和は男の子はみんな作る。強い!格好良い!少年の憧れ! とは言え、「俺も戦車か大和に乗って戦争してー!」と思うかというと、大人に、マニアに、なればなるほど、絶対そうは思わないものです。文章写真映像を通じて無関心な人より戦場のグロい実態も知るからです。 で、ブラピの『フューリー』。これがグロいのなんの!これ見て「俺も戦争してー!」と思う奴いません。優れた戦争映画=優れた反戦映画で、グロを見れば見るほど反戦主義者になるという“プライペート・ライアンの法則”が見事にあてはまる、近年稀に見る傑作です。 ただ逆に、虎つながりという訳でもありませんが、“ライフ・オブ・パイ方式”というのもある。見るに耐えないグロすぎる絵ヅラ。聞くに耐えない悲惨すぎる話。そんなの生のまま出されても胃が受け付けないよ…。だから象徴ほのめかし暗示メタファーという節度のオブラートに包んで観客に提示する。それが“パイ方式”です。 『ホワイトタイガー』はそっち系。おとぎ話調の不思議な戦争メルヘンとなっております。ファンタジー風味が足されることで独特のほっこりマイルドな味わいとなり、見る者の心の深層にも、逆に、忘れられない夢みたく残りやすい。 お話は、「ホワイトタイガー」の異名をとる無敵のティーゲルⅠが東部戦線のタイガで(タイガーだけにね。ププ)霧に紛れ神出鬼没に現れては赤軍に大損害を与えている。ドイツ兵捕虜を尋問しても、実在しないとか単なる噂だとか、話には聞くが現物を見たことないとか、正体は白い悪魔なんだとか、あれはドイツ精神の具現化したものだとか、ほとんど都市伝説の域。実際に目の前に現れたとき写真に収めようとしても原因不明でシャッター切れない。オカルトか!? このホワイトタイガーに乗機を撃破され、全身に普通は死んでる級の大火傷を負った赤軍Т-34操縦士が、奇跡奇蹟の復活(英語レザレクション 露語バスクレセーニエ)を遂げ、驚異的回復を見せて戦線に復帰。記憶喪失で名無しの彼が主人公です。 「俺は戦車と話せる」と電波発言をし、ホワイトタイガーのことを評して「戦車には人が乗っているが、あいつは違う」とか「あいつはすでに死んでいる」とか、ヤバい人か預言者しか言わないようなイッちゃってることを口走り、しまいには“戦車の神”のお告げが聞こえるとも主張(お前は神の子か!)。「神は天空の玉座で壊れた戦車たちに囲まれ(紅の豚か!)、金色に輝くТ-34を駆る時には雷鳴が轟く」と、言った瞬間ほんとに落雷!という奇蹟まで起こす。上官がそんな彼を心配して「記憶喪失と言ったってご両親や妻子がいて心配してるかもしれんぞ」と言ってくれても、「いや、家族がいても死亡通知受け取ったはずなのでもういいです」と答える。まぁ、神の子に妻子はいないもんですけど、それくらいホワイトタイガーを仕留めることに執着していて、糧秣(ミリメシ)も摂らず、ただ噛むだけ。 ちなみにイエスは復活した時、自分が本当に復活したことを証明するため、弟子の前で物を喰って飲み込んでみせて、生身の肉体で復活したことを見せつけるのですが(ルカによる福音書24章41~43節)、この名無し主人公は仲間と食事を共にしない。飲み込まずに噛むだけ。キリストまがい、ってこと?こいつ生身の人間なのか!? それと、ホワイトタイガーと言いながら車体がグレーな点も気になるのですが、ところで、『白鯨』(1851)という米文学がありましたな。巨大すぎるホワイトくじらに足を喰いちぎられたエイハブ船長が、小さき復讐の鬼と化して体格差数百倍のホワイトくじら退治に取り憑かれるというお話です。半分狂ってる執念の男エイハブ船長という人間像の典型を生みました。実は『フューリー』車長ブラピ大兄もまた、その典型にモロあてはまる。 それと、全編ワーグナーの曲鳴りっぱなしで、これ『タンホイザー』ですが、『タンホイザー』であることには特に意味なさそう。単なる“ナチっぽさ”の記号としてワーグナーを引用しただけかと。ワーグナーってそういう音楽。ヒットラーがどハマりしてたせいでね。変なファン付くとアーティストが迷惑するな…。 余談ながら『エイリアン:コヴェナント』でも、冒頭とラストでワーグナーが流れますが、単なる“ナチっぽさ”の記号としても機能してますけど(ファスベンダーの“メンゲレの気持ち”表現演出として)、加えて、それがどの楽劇のどの曲なのかにちゃんと意味持たせてる。さすがリドスコ深っ!すでに、いつもの通り町山智浩さんがたまむすびでその点を解説済みですので、各自それは聴いといた方がいいと思います。 閑話休題。この映画には「ニュータイプっぽい」、「ガンダムっぽい」という感想が多いのですが、それ以外にも、聖書に『白鯨』にワーグナーと元ネタがいくつもある、やたら奥が深い映画なのです。 さて、最後に、ここから先、盛大にネタバレしますので、映画を見る前には読まないでくださいね。ただ、映画見終わっても「意味わっかんねー…」という人多いと思いますが、その場合多少のヒントにはなるかと。 名無し主人公のТ-34対ホワイトタイガーのニュータイプ同士の壮絶ガチ戦車戦は劇中2回あり、本作のクライマックスなのですが、引き分けで決着つかず、次がいきなりドイツ降伏のシーンに。おいおい宿命の対決はどうすんだ!? ベルリン市内でドイツ復員将兵の列を見物した足で、上官はジープ(ГАЗ-67Бではなく本当に米軍のウイリスジープ)を転がして名無し主人公のもとを訪ねます。郊外の夢のようにのどかで美しい田園風景に、なぜか1両だけポツンと、戦い終えて“陣中また閑あり”の風情でТ-34は停車している。主人公もなぜか一人きりで、仏のような顔付きで整備にいそしんでいる。上官が話しかけます、「戦争は終わった」と。お前この先どうすんだと聞きたげな感じ。すると名無しは遠い目をして「あいつを焼き払うまで戦争は終わりません」と返す。上官「あいつはいない。もういなくなった」、名無し「あいつは待ってる。20年でも50年でも100年でも待ち続け、また現れる。焼き払わねば!」と確信に満ちて答えます。上官が物を取りに一瞬ジープに戻ってから振り返ると、もうТ-34も主人公も姿が消えている…煙のように。実際に煙が一条あとにはたゆたっているばかり。エンジンの排気煙?戦車に乗って去ったの?にしてはエンジン音聞こえなかったぞ…昇天(英アセンション 露バズニセーニエ)か!?
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COLUMN/コラム2017.08.15
みんな大好きポルノをオンライン決算で見やすくしたアダルト業界のイノベーターに肉薄〜『ミドルメン/アダルト業界でネットを変えた男たち』〜8月17日(木)ほか
■冒頭にピーウィー・ハーマンも登場する 恐らく劇中に下半身ネタが満載されているのと、スター不在のせいで、日本では劇場未公開となった『ミドルメン/アダルト業界でネットを変えた男たち』を観ると、そんなインターネット創生期のカオスがひしひしと伝わって来る。時代はまさにソーシャルメディアが劇的に変化しようとしていた1997年。例えば、それ以前にポルノ映画を自宅で鑑賞しようと思ったら、レンタルビデオ店に足を運ぶか、(海外からこっそり持ち込むか@日本)、製作元から直接取り寄せるか、しかなかったはず。よくもまあ、そんな面倒臭いことができたもんだと思う。仕方がない。みんな大好きなんだから。映画の冒頭に誰だってポルノを観ながらオ○ニーするのが大好きというコーナーがちゃんと用意されているし。コーナーの最後を飾るのは、ポルノ映画館でオ○ニーしているのが見つかって逮捕され、社会復帰後、時代に関係なく特にアメリカでは絶対×の児童ポルノ所持で再逮捕されたオ×ニー大好きセレブ、コメディアンのピーウィー・ハーマンことポール・ルーベンスだ。 ■オンライン決算のパイオニアはアダルトだった? さてそこで、立ち上がった直後のネット上にポルノ画像専門のサイトを開設し、有料での閲覧を思いつくのが、物語の言わば発起人である元獣医のウェインと元科学者のバックの2人組。堅気の人生を送るのはそもそもかなり難しい享楽的ジャンキーの2人だったが、システムに精通していたバックが"オンライン・カード決済システム"をたったの15分でプログラミングしたことで、上がりは一気に100万ドル超え。このシステムのおかげで、地球上の男たちは誰にも知られず、何ら手を煩わせることなく、ワンクリックで視聴料を決済するだけで、各々が好みの女性(または男性)、好みのプレイにアクセスできるようになったわけだ。実話にインスパイアーされたという本作だが、アダルト産業に革命をもたらした男たちの成功と、必然的に訪れる挫折のプロセスを描く上で、どこまで事実を踏襲しているかは定かではない。しかし、"オンライン・カード決済システム"を最初に導入したのはアダルト産業だったとも言われていて、着眼点は下半身を見据えている分、ある意味鋭い。同時期に公開され、比較された『ソーシャル・ネットワーク』(10)のFacebookに匹敵するメディア革命を扱った野心作、という見方だってできそうだ。 ■『ソーシャル・ネットワーク』とはここが違う その『ソーシャル・ネットワーク』は、開発したシステムがセンセーショナルで想定外の巨額マネーを生んでしまったばっかりに、若者たちの人間関係がマネーゲームに取り込まれ、破綻していく様子を描いて、そこはかとない虚しさを漂わせていたのとは違い、『ミドルメン』はアダルトだけに裏社会もの。かなり血生臭い。ユーザーからの注文でオリジナル動画を製作しようと、ロシアン・マフィアが経営するストリップ・クラブに入り浸り、そこでマフィアとの契約を破って窮地に陥った2人組を助けるために、弁護士を介してこのカオスに加わることになる実業家、ジャックを主軸に、これ以降の物語は進んでいくことになる。 ■成功依存症に二日酔いはないってか? 最初はポルノになど関わりたくなかったジャックだったが、オンラインシステムの導入でビジネスが一気に巨大化した時、顧客とポルノ業者の間を取り持つ仲介業(=ミドルメン)を発案。それが大成功を収めたためにもはや後戻りできなくなる。本来は真面目で家族思いのジャックが、金と権力と女を手にした途端、何かに憑かれたように浮き足立っていく様は、終始喧噪の中で展開する物語の中で、妙に胸に突き刺さる部分。男として望むものをすべて手に入れた状態に依存し、それが異常であることに気づかないジャックは、モノローグの中でそんな自分をこう振り返る。「この依存症に二日酔いはないのが怖い」と。成功とは、現実に直面する不快な翌朝は決して訪れない、永遠に続くかに思われる祭のようなものかも知れないと、この独白からは想像できる。本作に製作者として関わり、ジャックのモデルとも言われているクリストファー・マリックなる人物が、虚実入り乱れた物語の中に注入した数少ない真実が、もしやコレなのではないだろうか? ■プロデューサーもアダルト業界も変わった! 因みに、『ミドルメン』に引き続き、同じジョージ・ギャロ監督と組んでセルマ・ブレア主演のクライムミステリー『Columbus Circle』(12)を製作する等、映画プロデューサーとしての人生も開拓してしまったマリックは、その傍らでしっかり仲介業は続けているとか。どうやら、祭は場所と形を変えてしぶとく続いているようだ。 ところで、アダルト産業はさらに状況が変化している。レンタルDVDは勿論、PCでのオンデマンド視聴も減少の一途を辿り、今やスマホでポルノを見るのが主流になって来ている。アダルトサイトの"Pornhub"によると、女性の視聴者が年々増加しているとか。思えば、こんなジェンダーフリーの時代に、『ミドルメン』で描かれるような女性は見せる側、男性は見る側という区分は、過ぎ去った前世紀の遺物になりつつあるのだ。 ■ルーク・ウィルソンが"下ぶくれ"過ぎ ジャック役のルーク・ウィルソンを見て、それがルーク・ウィルソンだと気づく人は少ないかも知れない。そうでもないか。だが、かつて、ウェス・アンダーソン監督の『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』(01)に兄のオーウェン・ウィルソンと出演し、ドリュー・バリモアやグウィネス・パルトロウと交際していた頃のイケメンぶりはどこへやらの"下ぶくれ顔"には、正直どん引きである。だからこそ、見方を変えれば巻き込まれ型のジャックを演じるのに、彼のヌーボーとしてつかみどころのないルックは効果てきめんだったとも言えるのだが。 ■76歳のロバート・フォスターが脇で渋い!! 地味だが脇役がけっこう充実している。ジャックにハイエナの如く付きまとう初老の弁護士、ハガティを演じるジェームズ・カーンを筆頭に、FBI捜査官役のケヴィン・ポラック、ギャング役のロバート・フォスター等は、各々1960年代から2000年代にかけて、長くハリウッド映画を支えてきたベテランたちだ。世代によって、記憶を刺激する顔は違ってくると思うが、特にアメリカン・ニュー・シネマの隠れた傑作『アメリカを斬る』(69)で、人種差別の実態を追求するTVカメラマンを演じて以来、76歳の今も現役バリバリのフォスターにシビレる人は多いはず。今現在、フォスターは『アメリカを斬る』から数えて79作目になる長編映画『What They Had』で怪優、マイケル・シャノンと共演中だ。これが日本では劇場未公開にならないことを願うばかりだ。日本にもコアなファンが多いマイケル・シャノンだから大丈夫だとは思うが。■ Middle Men © 2017 by Paramount Pictures. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2017.08.03
おそロシア…実際にロシアで起きている事件をベースにした展開が散りばめられたサスペンスアクション〜『イヤー・オブ・ザ・スネーク 第四の帝国』〜8月24日(木)ほか
主に、熊が日常にいる光景や怪力の老婆といった通常我々の日常で目にすることは無いあり得ない風景、ウォッカによる泥酔者などロシアならではの牧歌的かつ非現実的な画像を指す。しかし“おそロシア”はそれだけでなく、原始的な暴力が身近にあるロシアの日常風景や、ロシアの最高権力者プーチン大統領のマッチョすぎるスナップなども“おそロシア”の代名詞となっている。そんな“おそロシア”を体現するかのごとき作品が、今回ご紹介する『イヤー・オブ・ザ・スネーク 第四の帝国』である。 1998年のロシア。高層アパートが突然の爆弾テロで崩壊する。それから13年後、ドイツ人ジャーナリストのポールは、亡父の友人であるアレクセイがロシアで発行するゴシップ誌『マッチ』のアドバイザーに就任してモスクワで働き始めた。ロシアンセレブのゴシップを追いかけながら享楽的なロシアのナイトライフを楽しむ日々を送るポールだったが、路上での殺人事件を目撃する。白昼堂々と射殺されたのは政府に批判的なジャーナリストのイジェンスキー。しかしこの暗殺はロシア中のメディアで、まるで無かったことのように扱われてしまう。ある日、『マッチ』の編集部にイジェンスキーの記事を売り込みに来て一蹴されたフリージャーナリストのカティヤに一目惚れしたポールは、カティアの気を引くために編集長に内密のままイジェンスキー暗殺の記事を『マッチ』に掲載する。カティヤに喜んでもらえると思っていたポールだったが、編集部の面々はポールと距離を置き始め、カティアとは連絡が取れない日々が続いてしまう。ある夜、久々にカティヤからの電話でパーティに誘われたポールはそこでカティヤと合流するが、カティヤを駅まで送っていった所で駅で爆弾テロが勃発。巻き込まれたポールは意識を失ってしまう。ポールが目を覚ました場所は、チェチェンの凶悪犯やテロリストを収監する刑務所。ポールはチェチェン独立派の起こしたテロの容疑者の一人として逮捕されてしまったのだった……。 映画の冒頭に「本作に登場する人物や出来事はすべてフィクションである」という断り書きから始まる本作。しかし本作のあらゆる所で、実際のロシアで起きている事件をベースにした展開が散りばめられている。 冒頭の爆弾テロは、明らかに1999年に発生したロシア高層アパート連続爆破事件だ。この事件は、1999年の晩夏の約2週間の間に、首都モスクワ、ロシア南部のロストフ州ヴォルゴドンスク、ダゲスタン共和国のブイナクスクの3都市5か所において発生した連続爆破テロ事件。合計295人の命が失われ、400人以上が負傷する大惨事となった。このテロ事件の直前に首相に就任したウラジーミル・プーチンは、この事件をチェチェン独立派武装勢力の犯行と断定。一週間後にチェチェン共和国に侵攻して、第二次チェチェン戦争が勃発することになる。しかしこの事件をめぐっては、肝心の“戦果”を上げたはずのチェチェン武装勢力の過激派指導者バサエフが関与を否定(旅客機撃墜事件や北オセチアの学校占拠事件など、他のテロについては犯行声明を出している)。元FSB(ロシア連邦保安庁)のエージェントであったアレクサンドル・リトビネンコは、この事件をチェチェン侵攻を成功させてプーチンを権力の座に押し上げようとするFSB側が仕組んだ偽装テロであることを告発(この告発の4年後にリトビネンコは暗殺される)するなど、現時点でも疑惑の多い事件であり、本作でもそれが物語のキーとなっている。 また白昼暗殺されるジャーナリストのイジェンスキーと、チェチェンに渡航して独立派を取材したというポールの父の設定は、女性ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤをベースとしているのは明白だ。ポリトコフスカヤはアメリカ生まれでロシア育ちで、アムネスティ・インターナショナルの世界人権報道賞などを受賞した世界的に評価されるジャーナリスト。タブロイド紙のノーヴァヤ・ガゼータにおいて、現地取材したチェチェン紛争の記事を執筆。さらにプーチンとFSBを告発する『プーチニズム 報道されないロシアの現実』を出版するなど、反ロシア帝国主義の急先鋒として活躍した。しかし2006年10月7日、モスクワ市内の自宅アパートのエレベーター内で射殺体で発見される。チェチェン人の犯人が逮捕されるが、さらに犯人への殺害指示を出したとしてモスクワ警察の警視ドミトリー・パブリュチェンコフが逮捕されるが、パブリュチェンコフを買収して犯行全体を指揮した人物はいまだに判明していない(ちなみに殺害された10月7日はポリトコフスカヤの誕生日であるが、プーチンの誕生日でもある)。本作でもポリトコフスカヤの人物像をイジェンスキーとポールの父という二人に分割して設定し、設定を二人に分けた意味合いも映画の中できちんと描かれているので注目してほしい。 本作はそんなロシアの“おそロシア”っぷりをこれでもかと見せ付ける115分のサスペンスアクション映画。こんな国で国家的な陰謀に巻き込まれるのは、ろくすっぽケンカすらしたことがなく、良い女を見ると声をかけずにはいられない女ったらしなドイツ人。なので、ロシア人スパイにはボコボコにされ、刑務所のチェチェンヤクザにも半殺しの目に遭いつつ、それでも必死の抵抗といくばくかの強運で何とか危機を乗り切っていく。本作を監督したデニス・ガンゼル(『メカニック:ワールド・ミッション』の監督!)自身が認めている通り、本作はシドニー・ポラック監督、ロバート・レッドフォード主演の『コンドル』(1975年)から多大なる影響を受けている作品だ。国家規模の陰謀に巻き込まれた個人が孤軍奮闘する『コンドル』との類似性は非常に多いが、本作の主人公ポールは『コンドル』のジョセフ・ターナーと異なり特に何か秀でた能力を持たず、ひたすら状況に流されるままにロシアをさまようので、ドイツ人という外国人が見たロシアという地獄めぐり感が強く、より絶望的な状況を映画を観る者と共有できる仕掛けになっている。 また本作の主人公がアーノルド・シュワルツェネッガーやブルース・ウィリスのようなマッチョなタフガイではなく、モーリッツ・ブライプトロイという気弱を絵に描いたような俳優が演じるのは大正解だ。 さらに『コンドル』ではマックス・フォン・シドー演じる謎の殺し屋とターナーの対決が映画の軸となっているが、本作でポールを貶めようとする者や殺そうとする者は、日本で公開される映画ではほとんど観たことが無いような面々ばかりであり、それがまた「こいつは敵なのか味方なのか?」感を強く感じさせることに成功している。 この映画は内容的にロシアでの撮影は非常に難しいということで、基本的にウクライナのキエフで撮影を実施。一部モスクワでの撮影パートもあるが、その際には当局の撮影許可を得るために偽の脚本を準備して提出し、何とか撮影を敢行したという。また脇役陣もポーランド人のカシア・スムトゥニアク(ショートカットが超絶似合ってて素晴らしい)やクロアチア人のラデ・シェルベッジアといった東欧系俳優が固めており、ロシア人俳優はほとんど登用されていないということから、ロシアにとって非常にセンシティブな内容になっていることが分かる。 現在の隣国が実はまだこんな状態であることを知るというだけでなく、何よりエンターテインメントとしても充分満足できる本作。モヤモヤが残るラストも含めて秀逸な作品である。■ ©2011 UFA Cinema GmbH
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COLUMN/コラム2017.07.19
『ヒロシマモナムール』にまつわる事柄あれこれ〜07月04日(火) ほか
■復興中の広島を舞台にした日仏合作映画 1958年、映画撮影のために広島を訪れたフランスの若い女優(エマニュエル・リヴァ)は、爆撃で家族を失った建築家の日本人男性(岡田英次)と夜を過ごし、被爆都市・広島の印象を男に語り聞かせる。原爆資料館で見た写真や資料、当時の映像、どれも痛ましい記録だと。だが男は「いや、君は広島で何も見なかった」と、彼女の言葉を否定する。 だが彼との逢瀬は、彼女が愛した最初の男を思い出させていく。女の恋人は23歳のドイツ兵で、フランス解放の日に殺されてしまう。そして敵兵と通じていたことから、彼女は剃髪という辱めを受ける。女もまた、戦争の犠牲者だったのだ。男はそんな彼女に憐愛の眼差しを向け、広島で一緒にいようと懇願する。 1959年に公開された本作『ヒロシマモナムール』は、『去年マリエンバートで』(60)『ミュリエル』(63)で知られるフランスの名匠アラン・レネの初長編映画であり、原爆投下後の広島を描いた日仏合作映画として、作家的にも映画史的にも重要な位置付けにある。当時としては革新的なフラッシュバック構造で、個人の戦争体験と公の戦争体験を微細に織りなし、女のフランス・ヌヴェールにおける過去とヒロシマの悲劇とが交差することで、それらは戦争の悲壮な風景として総譜のように一体化していく。 こうした構成があたかも散文詩のような雰囲気を醸し、本作は観る者に多様な解釈をうながす。そのため一般的には「難解」と受け取られがちだが、現在のように映像の読解に習熟した世代のほうが、レネや脚本を手がけたマルグリット・デュラスの意図を充分に読み解くことができるのではないだろうか。 もっとも、レネ自身に製作当初から堅強な意図があって、この『ヒロシマモナムール』が作られたわけではない。もともとはアウシュビッツ収容所を描いた『夜と霧』(56)同様、広島のドキュメンタリーを撮るという発案から始まった企画だ。レネの中では「カフェのテラスにひとり腰を下ろしている若い女性、その光景が瞬時に消えさる」というイメージをベースに、過去と現在、記憶と忘却の錯綜などを膨らませ、長編劇映画として成立させていった経緯がある。 こうしたビハインドが、散文的な本作の様式をより強く裏付けているのだ。 ■作品が生まれた背景 ーーヌーヴェルヴァーグと大映の世界戦略 そもそも、なぜ広島を舞台にしたフランス映画が出来るに至ったのか? まず監督であるアラン・レネに言及すると、当時のフランス映画界を席巻した「ヌーヴェルヴァーグ」という、大きなスタイルの変革に行き当たる。同ムーブメントは『大人は判ってくれない』(59)のフランソワ・トリュフォーや『勝手にしやがれ』(60)のジャン=リュック・ゴダールら新鋭作家が、スタジオ主導ではない、監督の個性に基づく作品を量産していった潮流のことだ。 ヌーヴェルバーグにはそんなトリュフォーやゴダールら、いわゆる映画誌「カイエ・デ・シネマ」の評論家を出発点とする「カイエ派」がおり、彼らは瑞々しい感覚による即興演出を持ち味としていた。いっぽうのレネは、カイエ派が当時20歳代の若手を主流とする中、すでに30歳半ばに達しており、社会問題や政治思想に言及する「左岸派」として、カイエ派の向こうを張る存在だったのだ。 かたや日本の映画事情に目をやると、1952年、サンフランシスコ講和条約の発効にともない、戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって行われたプレスコード(報道制限)が失効され、規制がかけられていた原爆に関する記事や報道を自由に発信できるようになった。これによって日本で最初に原爆をテーマにした作品『原爆の子』(監督/新藤兼人)が発表され、翌年には今井正による『原爆の図』(53)や、日教組プロの製作による『ひろしま』(53 監督/関川秀雄)、そして核の落とし子として誕生した怪獣の都心破壊を描いた『ゴジラ』(54 監督/本多猪四郎)など、堰を切ったように同テーマの作品が作り続けられていく。 こうして先のアラン・レネと、原爆テーマの映画を結びつける存在となったのが、日本の映画会社である大映である。当時の大映は永田雅一社長のもと、MGM作品やディズニー作品の国内配給、ならびに自社作品の大型化など、映画の海外輸出入を念頭に置いた経営をしていた。永田としては、洋画配給の利潤によって日本映画の質の向上を図る考えだったが、フランス映画配給も視野に入れた段階でアルゴス・フィルム(『ヒロシマモナムール』製作会社)との関係が生まれ、日仏合作映画製作の運びとなっていったのだ。 こうした原爆映画への流れが横線を描き、先の国内外の映画の大きなムーブメントが縦線を描いて降りていく状況下において、その二つが交わる点として本作が生まれたのである。 ■タイトルについて ーー『二十四時間の情事』から『ヒロシマモナムール』へ 『ヒロシマモナムール』には日本公開時『二十四時間の情事』という邦題がつけられ、そのタイトルで近年まで長く周知されていた。 この邦題がつけられた理由はふたつあり、ひとつは原爆投下後の広島をテーマにしているというところ、そうしたデリケートなテーマを前面に出さぬよう配慮された、といった事情によるもの。そしてもうひとつは、原題の『ヒロシマモナムール』だと興行において不利(タイトルにインパクトがない)という懸念から、センセーショナルな邦題で観客の関心を引こうとした事情が絡んでいる(残念なことに、日本で本作は全く客が入らなかったが)。 しかし時代の趨勢によって、作品の持つ価値が多様化し、今では本作も、復興していく広島の姿をフィルムに捉えた、貴重な映像資料としての性格も大きい。そのため『二十四時間の情事』という邦題も、内容にそぐわない面が出てきている。また劇中、エマニュエル・リヴァと岡田英次が出会って別れるまでの正確な時間は設定されておらず(一説には36時間とも言われている)、『二十四時間〜』と断定するにはいささか語弊がある。 こうしたことへの目配りから、今では原題カタカナ表記の『ヒロシマモナムール』を用いるケースが多いようだ。加えてエマニュエル・リヴァがプライベートで当時の広島市内を撮影した写真集『HIROSHIMA 1958』が2008年に出版され、文中において『ヒロシマ・モナムール』と表記が統一されていることや、デュラスの原作『広島、わが愛』が2014年に『ヒロシマ・モナムール』として44年ぶりに新訳が出版されたことも、こうした改題への後押しとなっている。今回の放送に関しても、ザ・シネマで同様の方針を示したといえる。 時代の機微や変化に応じて改題がなされていくのは、特に珍しいことではない。あの『スター・ウォーズ』シリーズでさえ、エピソード6『ジェダイの復讐』(83)が『ジェダイの帰還』となったケースがあるくらいだ(『ジェダイの復讐』もともと没サブタイトル“Revenge of the Jedi”を直訳したものだが、正義の騎士団であるジェダイが「復讐」などしないという観点から改題)。しかし『ヒロシマモナムール』と同じヌーヴェルヴァーグ作品の『気狂いピエロ』(65)が放送禁止用語に配慮し、テレビ放映時には『ピエロ・ル・フー』と原題カタカナ表記にされた事例があり、どうも改題にはネガティブなイメージがつきまとう。なので本作はそういったケースとは異なる改題であることを、きちんと伝えておく必要があるだろう。 ただ慣れ親しんだタイトルをオミットするのは歴史の改ざんではないかという懸念もあるし、『二十四時間の情事』として本作を認識している者には違和感を覚えさせる措置だと思う。なにより日本公開される洋画は、原題カタカナ表記がスタンダードとなった現在。邦訳、もしくは意訳ともいえる邦題が中心だった時代の名残として、ここでは『ヒロシマモナムール』と同時に『二十四時間の情事』というタイトルの重要性を力説しておきたい。■ "HIROSHIMA MON AMOUR" by Alain Resnais © 1959 Argos Films