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COLUMN/コラム2016.08.03
『荒野の用心棒』で金の鉱脈を掘り当てたレオーネ監督&イーストウッドがさらなるお宝を求めて突き進む『夕陽のガンマン』+『続・夕陽のガンマン』
1.ほんのひと握りのドルのために ― 『荒野の用心棒』 筆者が今回ここで紹介すべき映画は、『夕陽のガンマン』(65)と『続・夕陽のガンマン』(66)の2本だが、そのためにはやはりまず、両者に先立つ『荒野の用心棒』(64)にご登場願わなくては、どうにも話が進めにくい。 ほんのひと握りのドルのために。すべてはそこから始まった。 当時、全米のTV西部劇シリーズ「ローハイド」(59-66)に準主役でレギュラー出演し、お茶の間の人気を得るようになってはいたものの、番組のマンネリ路線に飽きを覚えていたクリント・イーストウッドのもとに、1本の映画への出演依頼が思いがけず外国から舞い込み、彼が半ば物見遊山でヨーロッパへと旅立ったのは、1964年のこと。 ところが、当初の別題から先述の「ほんのひと握りのドルのために」という原題に最終的に変わる、何とも素性が怪しげでいかがわしいその多国籍映画 ― 本来はアメリカの専売特許たる西部劇を、スペインの荒野をメキシコ国境の無法の町に見立てて撮影した、イタリア・ドイツ・スペインの3カ国合作による低予算の外国製西部劇で、主演のイーストウッドを除くと、イタリア人を中心にヨーロッパの連中で固められたキャスト・スタッフの大半のクレジットはアメリカ人を装った別人名義、しかも、日本の時代劇(改めて言うまでもなく『用心棒』(61 黒澤明))の物語を、著作権を正式に得ないまま勝手に翻案・盗作したせいで、やがて訴訟騒ぎにまで発展する ― 『荒野の用心棒』が、同年のイタリア映画界最大のヒット作となったのをはじめ、当事者たちすら予想だにしなかった世界的ヒットを記録して、その名も“マカロニ・ウェスタン”(外国での呼び名は“スパゲッティ・ウェスタン”)ブームに火をつけ、以後、同種の外国製西部劇が続々と生み出されるようになるのだ。以前、本欄で『黄金の眼』(67 マリオ・バーヴァ)を紹介した際にも説明したように、1960年代は、御存知『007』(62- )シリーズの登場と共に、スパイ映画が各国で作られたり、また日本でも日活の無国籍アクションが量産されたりするなど、娯楽映画における異文化間の移植培養、雑種交配=ハイブリッド化が汎世界的に同時進行しつつあった。 監督のセルジオ・レオーネと主演のイーストウッドの双方にとっても、『荒野の用心棒』は一大出世作となった。ただし、レオーネは、プロデューサーたちと事前に結んだ不利な契約のせいで、映画の大ヒットによるご褒美の分け前には一切与ることが出来ず、また、盗作問題を巡る訴訟騒ぎで同作の全米公開が1967年まで先延ばしにされたせいで、イーストウッドの方も、自らの成功をなかなか実感できずにいた。2人は再度コンビを組み、柳の下の二匹目のどじょうを狙うことになる。もう少々のドルのために、と。 2.もう少々のドルのために ― 『夕陽のガンマン』 かくして、『夕陽のガンマン』がいよいよ登場することになる。映画の製作費は60万ドルと、『荒野の用心棒』の20万ドルの3倍に跳ね上がり、イーストウッドの出演料も、前作の1万5千ドルから5万ドルプラス歩合へと大幅にアップ。前作で、薄汚れたポンチョに身を包み、無精髭のニヒルな面構えに、短い葉巻を口の端にくわえこんだ独特の風貌とスタイルで、正体不明の流れ者の雇われ用心棒をどこまでも寡黙かつクールに演じた彼は、今回もそのトレードマークをそっくり受け継いだ上で、新たな役どころに挑むことになる。「生命に何の価値もないところでは、時に死に値段がついた。“賞金稼ぎ”が現れた由縁である」と、オープニングのクレジット紹介に続いて『夕陽のガンマン』の物語世界の初期設定が字幕で示される通り、ここでイーストウッドは賞金稼ぎの主人公を演じることになるのだ。 マカロニ・ウェスタンが、本来アメリカ映画の長年の伝統と歴史を誇る西部劇を、それとはおよそ無縁なヨーロッパの地に移植して作り上げられたまがい物の産物であることは既に述べたが、そこでレオーネ監督とイーストウッドが行なった大胆不敵で革新的な実験のひとつが、高潔な正義のヒーローが悪を打ち倒すという、従来の西部劇に特有の勧善懲悪調の道徳劇のスタイルをばっさり切り捨てることだった。既に『荒野の用心棒』の主人公自体、『用心棒』からの無断借用とはいえ、従来の正統的なアメリカ製西部劇の正義のヒーローとは程遠い、ダーティなアンチ・ヒーロー像を打ち立てていたが、この『夕陽のガンマン』でイーストウッドが演じる主人公の役柄は賞金稼ぎに設定され、善悪という道徳的な価値判断や倫理観よりも、あくまで賞金目当ての欲得と打算がその行動原理の前面に据えられる。こうして、血なまぐさい暴力が支配する無法の荒野で、主人公も含めてエゴや私利私欲を剥き出しにした連中が互いに裏切り騙し合いながら相争うさまを、痛烈なブラック・ユーモアと残虐なバイオレンス描写を随所に交えながら冷笑的に描く、レオーネならではの傍若無人、問答無用の娯楽西部劇世界が、本作でより一層華麗に展開されることになる。 『荒野の用心棒』では、互いに相争う2組の悪党どもの対立を、イーストウッド演じる主人公が一層煽り、けしかけながら、双方を壊滅状態に追い込む様子を描いていたのに対し、『夕陽のガンマン』では、共に腕利きの同業者にして宿命のライバルたる2人の賞金稼ぎが、時に相争い、時には紳士協定を結んで互いに協力しながら、いずれも多額の懸賞金のついた悪党どもとその親玉を次第に追い詰めていく様子が描かれる。かくのごとく、三つ巴の戦いを映画の物語の根幹に据えることが、どうやらこの頃のレオーネのお好みのフォーマットであったことが見て取れるだろう。 イーストウッドが賞金稼ぎの主人公を、そしてジャン・マリア・ヴォロンテが『荒野の用心棒』に引き続いて悪党の親玉を演じるのに加え、今回、イーストウッドのライバルたるもうひとりの賞金稼ぎ役には、どこか猛禽類を思わせる精悍な顔立ちと眼光鋭い目つき、そして黒装束に身を包んだスレンダーな長身が印象的なリー・ヴァン・クリーフが起用され、風格に満ちた強烈な個性と存在感を存分に披露。相手との距離を充分に見極めた上で沈着冷静に標的を仕留めるその確かな銃の腕前で、映画の中盤、彼がイーストウッドと互いに相手の帽子を撃ち合いっこする場面は、今日改めて見直すと、何とも稚気丸出しのくどい演出で多少ダレるが、筆者が小学生の頃、最初にテレビで見た時は、こいつはまるでマンガみたいで面白いや、と興奮したものだっけ…。 そして、紹介の順序がすっかり後になってしまって我らが偉大なマエストロには大変申し訳ないが、これらの要素にさらに御存知エンニオ・モリコーネの比類なき映画音楽が加味されて、『夕陽のガンマン』でレオーネ独自の世界は早くも一つの完成を見ることになる。実はかつて小学校時代の同級生だったというレオーネと初めてコンビを組んで、モリコーネが『荒野の用心棒』につけたサントラ自体、口笛にギターやコーラス、そして鐘や鞭の音などを多彩に組み合わせた斬新なアレンジで、マカロニ・ウェスタンの音楽はかくあるべしと、以後の基調的なサウンドを一挙に決定づけた超絶的傑作だったわけだが、本作でモリコーネの音楽は、物語とより有機的に一体化されてドラマを情感豊かに彩ることになるのだ。 とりわけ、ヴァン・クリーフとヴォロンテの間に実は深い因縁があったことを、懐中時計から流れるオルゴールのメロディが何よりも雄弁に物語り、その印象的な旋律をバックに、彼らが宿命の対決を繰り広げるクライマックスの円形広場での決闘場面は、やはり何度見てもスリリングで面白い。ここでイーストウッドは、半ば主役の座をヴァン・クリーフに譲り、公正なレフェリー役として2人の決闘に立ち会うことになるが、レオーネ監督は、この円形広場での決闘場面を改めて自ら反復・変奏し、今度はいよいよ三つ巴の戦いの決着の場として、よりけれんみたっぷりに描き出すべく、『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』と共に3部作を成す、次なる壮大な野心作『続・夕陽のガンマン』に挑むことになる。 3.ドルは充分稼いだ。さて、しかし…マカロニ・ブームの頂点を極めたバブル巨編 ― 『続・夕陽のガンマン』 『夕陽のガンマン』が『荒野の用心棒』をも上回る大ヒットで2年連続イタリア国内の興収記録第1位に輝いたのを受けて、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』の製作費は120万ドルと、『夕陽のガンマン』の60万ドルからさらに倍増し、イーストウッドの出演料も25万ドルプラス歩合と、前作から約5倍にアップ。倍々ゲームのようにしてイケイケで駒を進めてきたレオーネ監督はここで、作品の長さも約3時間に及ぶ、マカロニ・ウェスタン史上空前のスケールの超大作を生み出すこととなった(長尺が影響したのか、『夕陽のガンマン』の興収記録には及ばなかったものの、本作もやはり大ヒットして、みごと3年連続イタリア国内の第1位に輝いた)。 映画の原題は既によく知られている通り、「いい奴、悪い奴、汚い奴」で、賞金稼ぎの「いい奴」をイーストウッド、冷酷非情な殺し屋の「悪い奴」を『夕陽のガンマン』の役柄とは好対照をなす形でヴァン・クリーフ、そして首に賞金の懸かったお尋ね者の「汚い奴」には、かのアクターズ・スタジオ出身の実力個性派イーライ・ウォラックが起用され、三者三様、互いの持ち味と個性を競い合う。ただし先にも説明したように、勧善懲悪の世界とは無縁のレオーネ映画にあって、この3人は、その呼び名の通り、善玉と悪玉などにくっきり色分けされている訳では無論なく、「いい奴」役を割り当てられたイーストウッドも含めて、いずれもひと癖もふた癖もある悪党どもばかり。そんな彼らが、ふとしたきっかけで知った某所に眠る20万ドルもの財宝をめぐって決死の争奪戦を繰り広げる様子を、レオーネ監督は、南北戦争時代のアメリカを物語の舞台に、圧倒的な物量作戦で戦闘シーンをスペクタクル風に再現したり、コヨーテの遠吠えを模したモリコーネの強烈な主題曲を織り交ぜたりしながら、どこまでも悠然としたペースで描いていく。 そして、物語の大詰め、この3人の主人公たちが、いよいよ三つ巴の決闘に挑むべく、円形広場で3方に分かれて対峙する、名高いクライマックスが訪れることになる。ここでレオーネ監督は、3人それぞれの顔の表情やガンベルトにかけた手のクロースアップを、これでもかとばかりに何度となく繰り返しクロスカッティングさせ、そこへさらにモリコーネ独特の音楽がバックにかかり、トランペットの音色やオーケストレーションが次第に高鳴るにつれ、いやがうえにも映画はドラマチックに盛り上がる……ことはまあ確かなのだが、その一方で、本来なら一瞬であるはずの決闘直前の3人の睨み合いの息詰まる緊張した時間が、どこまでもズルズルと非現実的に引き延ばされるのに付き合わされるうち、すっかりダレて疲れてしまい、一体これ、いつまで続くんだろう? とふと我に返って思いをめぐらす瞬間が訪れることも、また確かだ。 『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』は、御存知あのクエンテン・タランティーノが、オールタイム・ベストの1本としてしばしばその名を挙げて再評価が進み、公開当時よりもむしろ近年の方が、映画ファンたちの間では人気と支持が高まっている。それは無論、承知の上で、しかし筆者自身、子供の頃から何度も目にしているからこそ(2002年、フィルムセンターで開催された「イタリア映画大回顧」特集での、日本初となるイタリア語復元版でのスクリーン上映も見に行ったし、DVDのアルティメット・エディションもしっかり買って、ひと通り見ている)、あえてここで言わせてもらうならば、上記の場面が象徴的に示しているように、この映画はやはり、全体的にどうも妙に肥大化して弛緩した、バブリーで冗漫な一作、という印象はぬぐえない。もちろん、それなりに面白くて楽しめることは充分認めるんだけどね…。 『夕陽のガンマン』を手始めに、お互いにろくに言葉も通じぬままたて続けにコンビを組み、マカロニ・ウェスタン3部作を生み落としたイーストウッドとレオーネ監督だが、一作ごとに自らの野心と欲望を肥大化させ、まるでデヴィッド・リーンばりの巨匠を気取って大作路線を突き進むレオーネに次第に違和感を覚えるようになったイーストウッドは、『続・夕陽のガンマン』を最後に、ついに彼と袂を分かつことになる。そして、人気スターとなってアメリカに凱旋帰国を果たしたイーストウッドは、やがてドン・シーゲル監督という新たな師匠と出会い、より簡潔で無駄のない引き締まった演出法を彼から伝授された上で、自らも映画作家となり、さらなる高みを目指して険しい道=マルパソを歩むことになるのである。■ FOR A FEW DOLLARS MORE © 1965 ALBERTO GRIMALDI PRODUCTIONS S.A.. 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COLUMN/コラム2016.07.29
『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』公開~「このへんなようせいさんたちは、まだアイルランドにいるのです。たぶん。」~監督インタビューで迫る、「どうして“ポスト・ジブリ”と評されているのか!?」の謎
『オブ・ザ・シー 海のうた』は、日本ではまだあまり知られてはいないアイルランドのアニメーション監督の第2作だ。劇場長編デビュー作である前作は日本未公開。それでもこの監督とその最新作には、今回、日本人なら誰もが注目しておかなければならない。理由は、監督トム・ムーアと彼が創設したアニメ制作会社カートゥーン・サルーンが“ポスト・スタジオジブリ”と評されているからだ。その評判が本物だということは、2作しかない監督作がどちらもアカデミー長編アニメ映画賞にノミネートされていることで証明できる。 宮崎駿は引退した。一方のハリウッド勢、ピクサー&ディズニー、対するドリームワークスのアニメはここ十何年間か、実写も及ばないような映画の質的高みに昇りつめており、ユニバーサルもソニーも負けておらず、1作ごとに驚かされ泣かされている。だがいずれも宮さんが抜けた穴を埋めるような活躍ではない。たしかに素晴らしい傑作が矢継ぎ早に送り出されてはいるが、宮崎アニメの魅力は、それとは全く別のものだったからだ。 だがついに、ポスト宮崎駿が西の果てアイルランドから出現したというのである。それほどの監督のデビュー作が未公開で、2作目にしてようやく、字幕だけでなく吹き替えでも公開されると決まったというのだから、これは観ないわけにはいかない! 監督にインタビューするチャンスを得て、この機会に一日本人観客として迫りたかったのは、「何がどう“ポスト・ジブリ”なのか!?」という点だ。だが、そのインタビューに入る前に、まず今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』のあらすじを紹介しておこう。 【ストーリー】海辺の灯台の家で、幼いベンはお父さんお母さんと暮らしていました。ベンは大好きなお母さんから「あなたは世界一のお兄ちゃんになるわ」と褒められて、赤ちゃんが産まれてくるその日を楽しみにしていました。優しくて物知りなお母さんはベンにたくさんのお話や歌を教えてくれます。巨人のマクリルと愛犬の物語や、アザラシの妖精セルキーが歌うと妖精が家に戻れる不思議な伝説、古い言葉で綴られる美しい歌など……。 ある晩、ベンはお母さんに海の歌が聞こえる貝の笛をもらいました。うれしくて、笛を大事に抱いて眠りについたのでしたが、目を覚ますとお母さんの姿がありません! お母さんは赤ちゃんを残して、海へ消えたのです。それから今も、ベンとお父さんの心は傷ついたまま。お母さんがいなくなったのは妹・シアーシャのせいだと思っているベンは、ついつい彼女に意地悪をしてしまうのでした。 6年がすぎて、今日はお母さんの命日でもある、シアーシャの誕生日。町からお祝いにやってきたおばあちゃんは、いまだに喋らない彼女が心配でたまらないようです。その夜、シアーシャは美しく不思議な光に導かれ、お父さんが隠していたセルキーのコートを見つけ、海へ入ってしまいました。悲劇の再来を恐れたお父さんはコートを海へ投げ捨ててしまい、おばあちゃんは嫌がる兄妹を町へ連れて行くのでした。町はハロウィンでお祭り騒ぎ。居心地の悪いおばあちゃんの家から抜け出した兄妹は、愛犬クーとお父さんが待つ家へ向かいます。そんなふたりの後を妖精・ディーナシーの3人組が追いかけます。彼らはシアーシャがセルキーだと気づき、フクロウ魔女のマカとその手下のフクロウたちのせいで石にされた妖精を元通りにしてほしいと頼んできたのです。その時、4羽のフクロウがシアーシャに襲いかかり、ディーナシーたちの感情を吸い取って石に変えてしまいました。その場は逃げ切ったふたりでしたが、ベンが目を離した隙にシアーシャがいなくなってしまいました。妹を探すうちにベンは語り部の精霊・シャナキーから、マカの歪んだ愛情が妖精の国と妹の命を消しつつあると教えられます。マカの魔力に勝てるのはセルキーの歌だけ。それもハロウィンの夜が明けるまでに歌わないと、すべてが消えるというのです。ベンは、妹と妖精たちを救えるのでしょうか!? 今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』、映像がとにかく美しい。絵本が動いているような絵は、写実的なジブリというよりむしろ、デフォルメされた可愛いキャラデザととことんデザイン化された美術から、『まんが日本昔ばなし』とつい世代的にはたとえたくなってしまう。ケルト音楽バンドのKiLAによる音楽が、この絵本調の映像世界をよりいっそうフォークロリックに引き立てる。 「ジブリっぽい」というのは、そうした見た目上の表面的な部分ではなく、もっと深い、作品の魂の部分をさして言っているように個人的には感じられたが、そのことにはおいおい触れるとして、まずは監督に直接お礼を伝えたい。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 聞手:本当に美しかったです!ありがとうございました。映画を観てこんなに「きれい!」と思えたのは何年かぶりです。今回、今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』と、デビュー作『ブレンダンとケルズの秘密』も拝見しましたが、有名な絵画へのオマージュを幾つか発見したような気がしています。パウル・クレーとかクリムトとか。当たっていますか? 監督:全くその通り!当たってます。 聞手:クリムトっぽいと感じたのは、今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』にも前作にも美術の中に多用されている、渦巻き模様を見た時です。渦巻きのクルクルっと蔓が伸びるような動きを見ていてそう感じたのですが、あそこまで渦巻きにこだわって、繰り返し何度も何度も描いているのは、いったいどういう理由からなのでしょう? 監督:渦巻きや螺旋、それに幾つか重ねた円。それらはケルト人に先立つ太古の時代のピクト人*01たちが遺した装飾なのです。ピクト文化というのは、アイルランドやスコットランドに大昔あった石の文化ですね。 私の映画ではイメージ作りのため、そうした古代のデザインを取り入れています。大昔の文化と現代の芸術をつなぐということは、この映画で達成しようとしている試みにとって大変に重要でして、劇中、神話や民話のキャラクターと人間のキャラクター、2人の異なるキャラクターを、そっくりの顔に描いたり声優にも1人2役やってもらっていたり、リンクさせているのですが、それも同じ狙いからです。 この映画は、古い民話の中に私たちの芸術を見出すことはできるか?私たちの真実を民話の中に見つけることはできるか?そこにチャレンジしようとしています。古い民話を現代の観客のために描き直す、解釈し直す、ということに挑みたかったのです。 *01…今のイギリスのスコットランド辺りにいた先住民族。アイルランド人やスコットランド人、ウェールズ人の祖でもあるケルト民族の一派ともされるが、言語系統が不明で、ケルト系ではない可能性もあり、謎が多い。 そういうわけで、ピクト人が遺した様々なイメージ、石に刻まれた模様などを、アートディレクターのエイドリアン・ミリガウに見せた時です。彼が「これはパウル・クレーやカンディンスキーだ!」と言った。それらの現代美術も古代のデザインから引用していたんですね。 聞手:古代のデザインを現代美術の巨匠たちが引用し、その絵画と、そもそもの古代のデザインを、あなたは作品にさらに引用して、古代と現代をつなげる、ということを試みているわけですね。しかし、なぜ古代と現代をつなぐことがあなたにとってそこまで重要なのですか? 監督:アイルランドでは95年から07年まで「ケルトの虎」と呼ばれる高度成長期があったのですが、その時に不安を覚えたからです。昔ながらの風景を残さず、その上に舗装道路を作ろうとしたりショッピングモールを建てようとしたり。社会の表層、上の層が塗り変えられていくのと同時に、その下の層にある、いにしえの文化までもが忘れ去られようとしている。そのことに危機感を募らせたのです。 聞手:東京も同じですね。日本で高度成長というと戦後の1960年代だったのですが、我々日本人は、監督の仰る“下のレイヤー”まで東京をメチャクチャに掘り返してしまって、もう原状回復はとても無理そうです。江戸の町を思わせる遺構も文化も今ではほとんど残っておらず、残念でなりません。ダブリンはどうでしょう?原状回復できそうですか?もう手遅れですか? 監督:私は、ダブリンの中心街のどこにでも、古い時代の遺跡やその名残りみたいなものが今でも残っていると感じますね。ところで、自分はとてもラッキーだったと思っているのですが、私はキャリアの中で2つの時代を経験しているんですよ。お金はいっぱいあるけれども価値観がなかなか思う方向に行かない時代と、あまり経済は良くないけれども、その中でも芸術を大事にしていこうという時代です。まず、スタジオを99年に設立したので、当時は好景気でしたから政府の助成を受けながら映画作りを始めることができました。 やがて08年にバブルが崩壊すると、今度は、経済が危機的状況でも芸術は大切なのか?という課題に取り組むことになったのです。「ケルトの虎」が崩壊したこの経済危機の時にアイルランドが直面したのは、物質文明から脱却するにはどうしたらいいのか、という大きな課題でした。この時に人々の考え方は大きく変わりましたね。失いかけていたものを思い出し、それを大切にしようと考えるようになった。幸か不幸かアイルランドの経済成長期は先進国の中でも遅くやってきた方なので、古いライフスタイルを守っていったり蘇らせたりできる選択肢が、その時点でも私たちには残されていたのです。 しかし、一方で私は、古くからの文化というものは消そうと思ったってそう簡単に消え去るものではないとも思っていますが。私たちの世界観の中にあまりにも深く、物の見方として根付いてしまっているからです。例えば音楽ですね。 聞手:今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』の音楽を担当しているKiLAのケルティッシュ・サウンドがまさにそれですね。日本では何年か前に「トイレの神様」という曲が流行ったのですが、おばあちゃんの訓えで「トイレには神様がいるからいつも清潔にしておきなさい」といった歌でした。日本には八百万の神がいると言われています。トイレにまでいる。田舎に行くと道路脇に『千と千尋の神隠し』の冒頭に出てきたような石の祠や道祖神が、今でもそこらじゅうに建っています。宗教として信仰しているというほどのことはなくても、たとえばその祠を蹴り倒したりするのは、とても罪悪感を覚える、バチが当たったって不思議はない、と、ちょっと畏怖する程度には今でも誰もが信じています。 アイルランドではどうなのでしょう?今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』も民話の妖精たちがたくさん出てくる物語ですし、日本でも“妖精の国アイルランド”といったイメージを、貴国や欧米文化に少し詳しい人ならば抱いていますけれども、そうしたイメージ通りなのでしょうか? 監督:私の祖母の世代はトゥアハ・デ・ダナーン(Tuatha Dé Danann)*02やディーナ・シー(daoine sídhe)*03の存在を本気で信じていましたね。カトリックを信じるのと同時に妖精の存在も100%信じていて、教会に行くかたわら妖精にもお供え物をしていた。その信仰はアニミズム*04的な色合いが濃くて、自然や大地への尊敬、あるいは畏怖というものを祖母たちは持っていました。 *02…アイルランド・ケルト神話に出てくる神族。現在アイルランドに暮らす人間のケルト民族との戦いに敗れたこの神々は、塚の奥底深くや海の彼方へと逃れ隠れて暮らすようになり、キリスト教が伝来してからは体も小さく縮んで妖精(sídhe)に落魄してしまった。*03…02の神々のなれのはての妖精(sídhe)のこと。今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』にも、主人公兄妹を不思議な冒険に導くキーキャラクターとして、3人の老ディーナ・シーが登場する。*04…「精霊信仰」のこと。原始宗教の特徴とされる。例えば日本の“山の神”、“川の神”、“滝や奇岩を御神体として拝む”、“古道具に魂が宿る”といった信仰は典型的なアニミズム。 今、アイルランドもまるでアメリカの一角みたいな風景に変わりつつある中で、祖母たちのような時代は永遠に過ぎ去ろうとしている。ですが、例えば先ほどあなたが言っていた流行歌とか、そういった形でもいいので、新しい信仰の形、文字通りの信仰ではないし呪術的なものでもないけれど、そうした新しい信仰のあり方を通して、アニミズムへの思いや“何かを尊重する”ということを、現代の世代は受け入れ、引き継いでいけるのではないかと考えています。 アイルランドにエディ・レニハンという現代のシャナキー(Seanchaí)*05がいるのですが、彼が「フェアリー・ツリー」と呼ばれている1本の樹を守る運動をしていたことがありました。自分の体を樹にくくりつけ、樹を倒して道路を作ろうとしている人たちに抵抗したのです。その運動のおかげで樹は倒されず道路が樹の周りを二手に迂回して作られることになったのですが、ある時私は彼に「その樹が本当に妖精の樹だと信じていたのか?」と聞いてみたことがあるんです。すると「いや、そうは言わない。だが私にこの樹の言い伝えを聞かせてくれた人は確かにそう信じていた。樹を守る理由としてはそれで十分じゃないか」と言うのです。妖精を信じる/信じないではなく“何かを尊重する”という態度の問題なのだと私は考えています。 *05…アイルランド・ケルト人の語り部のこと。古代、ケルト人は氏族の歴史と掟を明文化せず、それらを語り部の暗唱に頼った。したがってシャナキーは氏族社会において尊敬された。現代においてはアイルランドの口承文学・伝統芸能とみなされている。 聞手:私事で恐縮ですが、うちの近所に敷地が凹型の家がありまして、へこんだところには『となりのトトロ』に出てくるような大樹が生えており、おそらく御神木か何かで切れなかったんだろうと思うのです。貴国と日本は考え方が似ていますね。今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』に出てくるセルキーの伝説も、もともとは、アザラシは毛皮を脱ぐと中身が美女で、毛皮を人間の男に隠され結婚させられるが、何年かして毛皮を見つけ出してアザラシに戻り、子供を残して海へと帰ってしまうという話だと本で読みました。これも、日本の天女の羽衣伝説にあまりにもソックリで、ビックリしています。ところで、今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』で主人公兄妹を引き取って都会に連れて行く、ちょっと偏屈そうなおばあちゃん。家中にキリストの聖画とか十字架とかを掛けていましたが、あのキャラクターだけとても宗教色強く描いている意図は? 監督:特にそういう意図では描いていません。むしろ、カトリックがアイルランド中で広く信仰されていると描こうとしていますよ。例えば、子供たちがバス停でバスに乗り込むシーンでは、あれは停留所が教会の前だったでしょう。そしてバスを降りたところから歩くと聖なる泉にたどり着きますが、そこの祠にはマリア様の像がたくさん飾られている。歴史的には聖母信仰やキリスト教は、その前のアニミズムの様々な女神たちの信仰に覆いかぶさるようにして信じられていったのです。この映画の中でも、聖なる泉の祠のシーンでは、入るとすぐにキリスト教の文化があって、そこから先、奥へ奥へ、地下へと降りていくと、深い所は偶像崇拝の異教的な世界が広がっており、そこを主人公は進んでいくことになるわけです。 聞手:2つの宗教や異文化が混ざり合う「シンクレティズム」ですね。日本でも、例の八百万の神というのを信じるアニミズム的な土着の神道と、外来の仏教という2つの宗教があって、その2つは歴史的に「神仏習合」とか「本地垂迹」とかいった混淆現象をよく起こしています。 監督:面白いですねえ。ちなみにアイルランドには聖人崇拝があります。全員キリスト教の聖人ということになってはいますが、もともとはケルトの神々だったのです。昔の神の性格を引き継ぎながらも、キリスト教の聖人として新たにフィクションとして作られたのではないかと私は考えています。あと、アイルランドと言えばセント・パトリックス・デーが有名でしょう?シンボルマークが三ッ葉のクローバーで、それはキリスト教の三位一体に由来すると一般的には信じられていますが、もっともっと古い時代の名残りではないかという説もあるのです。聖パトリック*06以前から、先史時代から、アイルランドには三位一体信仰があって、3人の女神を信仰していたとも言われているのです。私の考えでは、ある宗教が入ってきて何かを乗っ取ってしまうのではなく、土着の信仰と融合して現地化していく信仰のあり方が一番うまくいくと思います。 *06…アイルランドにキリスト教を布教したとされる聖人。その命日がセント・パトリックス・デーで、本国のみならずアメリカなどでもアイルランド系移民(および全然関係のない異民族異人種)によって祝われ、映画の中でもしばしば描かれる。 聞手:今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』で物語のメインとなるのはハロウィンの1日ですが、ハロウィンも、土着の古代ケルトの祭りが後に外来のキリスト教と混じり合ったシンクレティズムの顕著な例ですね。 監督:その通りです。ハロウィンはケルトの言葉では「サウィン(Samhain)」と呼ばれていましたが、ケルト暦では1年間でもっとも重要な日だとされていました。現実世界とそうでない世界、この2つの世界を隔てる壁がとても薄くなる日です。ディーナ・シーたちがそのままの姿で歩き回っても怪しまれない日なんてハロウィンだけです。ヒントを得たのは『E.T.』です。ほら、思い出してみてください、あの映画でも子供たちがETを連れて外に出るのはハロウィンだったでしょう?あと個人的な話ですが、忘れもしない87年の出来事で、当時私は10歳でしたけれど、ハロウィンの晩に大嵐が来たことがあって、私と妹はとても怖がったのですが、そんな時、母が「この風はシェイダン・シー(séideán-sídhe)という、妖精が家に帰る時に吹く風なんだよ」と教えてくれました。あのシーンは『E.T.』だけでなくそんな子供時代の思い出からも着想を得ているんです。今作のクライマックスには、主人公たちが家に無事たどり着けるように先導してくれる2頭の犬の精霊が出てきますが、あの犬は風が形をとっているという設定です。なので、駆け抜けていくところを、つむじ風として表現していて、民家の戸板を吹き飛ばしたりする。風とハロウィンが結びついているのは、極めて個人的な私自身の思い出から来ているんですよ」 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』(と前作)を見て、インタビューも終えた今、大いなる疑問であった、この監督と彼の制作会社の「何がどう“ポスト・ジブリ”なのか!?」が解ったような気がする。 ジブリ、というか宮崎駿は、主に『となりのトトロ』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』の3作品で、埼玉の鎮守の杜にそびえるクスノキの大樹や、粗大ゴミが不法投棄される川に今も神はいて、さかのぼって(と言ってもたかだか500年ほど前の)戦国時代の深い森には荒ぶる神々がおり、森を切り開く人間どもと生存競争をくりひろげていた、ということを描き、20世紀を生きていた当時の我々に見せつけた。そうやって日本のあまねく一般大衆に、日本はアニミズム息づく神の国なのだという事実を再発見させたのである。この世ならざる巨木や奇岩の前に立つ時、条件反射的かつ生理的に畏怖の念を覚え、それに神性すら認めてしまう我々としては、大いに納得がいったものだった。あの感覚を実感として生々しく感じた覚えのある我々日本人の前に、宮崎アニメは民俗学的説得力、宗教社会学的リアリティをもって提示され、この国には、目にはさやかに見えねども、八百万の神がいるのだと、あらためて信じさせてくれたのである。「このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん。」とはよく言ったものだ。だがいつか、マックロクロスケことススワタリのように(彼らもまた言うまでもなく神様だ)居づらくなったからとコッソリ出て行かれたりしないよう、我々日本人はこれからも、トトロ神やニギハヤミコハクヌシにお供え物を絶やさず、その神域をいつも清め(トイレの神様にそうするように)、お祀りしなければならないのである。 続いては、世界がニッポンを再発見する番だった。一方で仏教といういわゆる“高等”宗教(または普遍宗教)を持ちながら、あわせて、このような古代からの宗教観(いわゆる“原始”宗教または民族宗教)も持っている日本人。それが、その精神構造のままで、当時世界第2位の経済大国にまで昇りおおせている。最先端のテクノロジーを使い倒している。その現実の、途方とてつもないギャップたるや!ファミコンを作り『AKIRA』を作り半導体を作り低燃費高性能な自動車を作りながら、同時に、クスノキの神や川の神を信じてもいる日本民族。宮崎アニメは世界にその超絶ギャップも再発見させ、激しくギャップ萌えさせたのだった。なんと摩訶不思議な民族なのだろう、日本人という連中は! トム・ムーア監督とカートゥーン・サルーン社の作品を観ると、あの当時と同じ発見がある、驚きが蘇る、ということなのだろう。確かに“ポスト・スタジオジブリ”である。ジブリに、とりわけ宮崎アニメに、なかんずく『トトロ』、『もののけ』、『千と千尋』の3本の偉大さに、極めて近いところまで迫っている、と強く感じさせる魅力がある。 カトリックという普遍宗教を奉じながら、太古の神々のなれのはてである妖精たちの存在を今なお心のどこかで信じているアイルランドの人々。そんな精神風土の過去と現在をつないで作品に描くアニメ作家の出現に、世界は再び驚嘆し、映画的な幸福をかみしめながら次作を待望している。「ヨーロッパ文明の一角に、しかも西欧圏に、原始アニミズムを信じる民族がいた!」 かつてイエイツらによるケルト復興運動によって19世紀に一度は再発見されたその魅力も、リバイバルから百年以上が経過して推進力が落ちつつあった。いま三たび、世界は不思議の国アイルランドを驚きをもって発見したのである。 その驚きと、豊かで自由なアイルランドの精神風土への憧れが、2本しかないトム・ムーア監督の作品にどちらも、アカデミー長編アニメ映画賞ノミネートという高い評価を与えさせたのだろうう。彼の映画を観る時間、観客は、どこの国のなに人であったとしても、赤毛にそばかすのアイルランドの子供になるという疑似体験ができる。現地を旅したってせいぜい旅人気分しか味わえない。その文化の“中の人”だけが本来有している民族の目を持てる、というこのことは、すぐれて映画的な体験だ。まさに宮崎アニメがそうだったように。 であるのだから、03年に宮崎駿の『千と千尋の神隠し』がそうなったように、トム・ムーア監督作品もアカデミー賞受賞の栄誉に輝く日が、遠からず来るのではないかと感じる。■ 監督:トム・ムーア 出演:デヴィッド・ロウル、ブレンダン・グリーソン、リサ・ハニガン、ルーシー・オコンネル 脚本:ウィル・コリンズアートディレクター&プロダクションデザイン:エイドリアン・ミリガウ音楽:ブリュノ・クレ、KiLA 2014年/93分/アイルランド・ルクセンブルク・ベルギー・フランス・デンマーク合作/カラー/ビスタサイズ/DCP/5.1ch/原題:SONG OF THE SEA /日本語字幕:山内直子・高崎文子 ©Cartoon Saloon, Melusine Productions, The Big Farm, Superprod, Nørlum 提供:チャイルド・フィルム、ミラクルヴォイス、ミッドシップ配給:チャイルド・フィルム、ミラクルヴォイス宣伝:ミラクルヴォイス 後援:アイルランド大使館 2016年8月20日(土)、YEBISU GARDEN CINEMA他全国公開!http://songofthesea.jp/
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COLUMN/コラム2016.07.25
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年8月】キャロル
8月のザ・シネマは、『ハリー・ポッター』4作一挙放送!毎週土日に1作品ずつ放送します。 今、巷ではハリー・ポッター旋風が巻き起こっていることをご存知の方は多いはず。2017年に第1作目『ハリー・ポッターと賢者の石』刊行から20周年という節目を向える同シリーズは、今年から既に盛り上がりを見せています。7月にはユニバーサル・スタジオ・ジャパンで大人気の『ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター』がオープン3周年を向え、さらにシリーズ続編となる新作『ハリー・ポッターと呪われた子』が本国イギリスで刊行、舞台化もされ20周年イヤーに向けて上演開始。またさらに11月には『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』が劇場公開。2011年のシリーズ完結からひと段落して、2016年のいま、いよいよハリー・ポッターは第2のフェーズへと動き始めています! 「実は第2作目までしか観てないんだよね・・・」という方は(たいがい皆さんそう仰います)、是非この機会に大人向けダーク・ファンタジーとしてのハリーポッターを体験してみて。 「実はいまだに観たことがないんだよね・・・」という方も(大丈夫!たくさんいます)、子供向けといって侮れないサスペンス満載の巧みなストーリーを味わって。また言わずとしれた数々の名優たちが、いつもと違う姿で熱演するのも楽しんで。 「なんで今ハリポタなの?」なんて思ったならばアナタは既に乗り遅れてる!さあ危機感を持って(汗)、ザ・シネマでハリポタシリーズ4作を観ましょう!基礎を学びしっかりと準備して、記念すべき節目を共に迎えようではありませんか。 TM & © 2001 Warner Bros. Ent. , Harry Potter Publishing Rights © J.K.R.TM & © 2002 Warner Bros. Ent. , Harry Potter Publishing Rights © J.K.R.TM & © 2004 Warner Bros. Ent. , Harry Potter Publishing Rights © J.K.R.TM & © 2005 Warner Bros. Ent. , Harry Potter Publishing Rights © J.K.R.
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COLUMN/コラム2016.07.19
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年8月】タラちゃん
ホラー映画といえば、「ジェイソン」(『13日の金曜日』シリーズ)、「チャッキー」(『チャイルド・プレイ』シリーズ)など、数多くの名キャラクターを生み出してきましたが、本シリーズの主役である「フレディ」もその一人です。1984年に制作された『エルム街の悪夢』は、公開されるや否や話題を呼び大ヒット、合計7本の続編が作られ、2003年には『フレディvsジェイソン』として、二大悪役の対決も実現しました。そんなホラー映画の金字塔的作品をリブート(再映画化)したのが、本作です。 監督はシリーズの生みの親であるウェス・クレイブンからミュージック・ビデオを手掛けてきたサミュエル・ベイヤーへ、フレディ役もロバート・イングランドからジャッキー・アール・ヘイリー(『リトル・チルドレン』、『ウォッチメン』)にバトンタッチ。第1作から30年の時を超え、発達したCG技術で殺りくシーンはよりリアルに、よりグロテスクに…!オリジナルの原型を保ちつつ新たな描写やストーリーを盛り込んでいます。フレディ誕生のルーツも確認でき、オリジナルとは若干異なるので、シリーズのファンの方も、初めての方でも十分楽しめる作品です。今を時めく女優ルーニー・マーラ(『ドラゴン・タトゥーの女』『キャロル』)が主人公のナンシーを務めているのも要チェック! 人の夢の中に現れ、襲い掛かるフレディ。ホラー映画を観ていると「人のいるところへ逃げて!」「助けを求めて!」と画面の人物に向かってつい叫びたくなりますよね。しかし、そんなものは通用しません。レストランであろうが、学校の教室であろうが、恋人と眠るベッドの中であろうが、眠ってしまえばたちまち夢の中、あいつが襲い掛かってきます!眠れずに、どんどん目の下にクマができ、憔悴しきってゆく主人公たちに感情移入せずにはいられません。観終わった後に、不眠症になった方も多いのでは…?この〈絶対に逃げられない、誰も助けられないコワさ〉こそが、本作の最大の魅力なのです。ご覧になる前に十分な睡眠をとってから(笑)ザ・シネマでご堪能ください! TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2016.07.15
【未DVD化】伝説の未DVD化作品、そのあまりにも衝撃的な終わり方は、実はニューシネマの文脈にのっとったものだった〜『ミスター・グッドバーを探して』〜
【注】このテキストは解説の必要上、本作品のラストシーンと、それを構成する細部について触れています。ネタバレを憂慮される方は、観賞後にお読みになられることをお勧めします。 ■ハリウッドが「女性の自主性」に迫った革命的作品 修士号を得るために真面目に勉強するかたわら、夜は男を求めて独身男性の集う酒場「ミスター・グッドバー」に足を運び、情交を重ねる女子大生テレサ(ダイアン・キートン)ーー。現在、この1977年製作の映画『ミスター・グッドバーを探して』に触れるとき、我々は身近に起こったひとつの出来事を、好悪の感情にかかわらず照らし合わせしまう。その出来事とは、1997年に国内を騒然とさせた「東電OL殺人事件」だ。 大手企業の女性社員が花街に身を投じ、アパートの一室で何者かに絞殺されたこの未解決事件。世間の関心は誰が彼女を殺害したのかという真実以上に、満ち足りたエリートが夜な夜な売春行為を繰り返す、容易には理解しがたい二面性の謎へと注がれた。こうした被害者の境遇が奇しくも『ミスター・グッドバーを探して』の主人公・テレサのそれと酷似していたことから、以降、本作を同事件の予見者であるかのように捉えた評をよく目にする。さらには我が国において本作がDVD化されないことも、事件の異質さとネガティブに結びつけられる傾向にあるようだ(国内未リリースは、単に権利上の問題なのだが)。 もっとも、この『ミスター・グッドバーを探して』も、実際の事件をもとに描いた小説が原作である。ジュディス・ロスナーによって執筆された同著(小泉喜美子訳、ハヤカワ文庫:現在廃刊)は、ろうあ児施設の女性教師を務めていたローズアン・クインが何者かに殺害されるという、1973年にニューヨークで起きた殺人事件から着想を得たものだ。そのためこの映画が、現実の出来事と関連づけられるのは宿命といえるかもしれない。 しかし、本作は決して実録事件簿のような、覗き見的な好奇心を満たすものではない。ハリウッドが「女性の自主性」について言及した初期の意欲作として、映画史において非常に重要な位置に立っている。 女性が運命を耐え忍び、恋に身を焦がすメロドラマ構造を持った「女性映画」は、1930年代のハリウッド黄金期から作り続けられてきた。しかし、女性の自立や自主性に言及した作品は、男性主権がまかりとおるメジャースタジオの特性も手伝い、積極的に発信されることはなかったのである。 だが1960年代半ばから、アメリカではウーマン・リブ(女性解放運動)の波が大きな高まりを見せ、映画における女性の立場や、それを観る女性客の反応といったものに、ハリウッドも無関心ではいられなくなっていたのだ。 社会のしがらみから我が身を解放させ、カジュアルセックスに没頭する奔放な女性像を、はたして同性はどう受け止めているのかーー? 本作の監督であるリチャード・ブルックスは、原作を読んでいた約600人の女性に対してインタビューをおこない、得たデータを映画にフィードバックすることで、女性の心情に寄り添う作品の成立に寄与している。 ブルックス監督はこの映画で、現代的な女性像に肉薄しようと試み、それに成功したのだ。 ■トラウマを与える衝撃的なラストシーンの真意 しかし、このような作品の成り立ちを説明してもなお、本作に対する好奇先行の見方を容易には修正できない。 その最大の原因は、衝撃をもって観る者を絶望の深淵に沈めるラストシーンにある。テレサが行きずりの男性ゲーリー(トム・ベレンジャー)に刺殺されてしまうあっけない幕引きは、観た者の多くに「トラウマ映画」と言わしめるほど、あらゆる要素にも増して突出しているのだ。 この衝撃のラスト、じつはロスナーの原作小説に準じたものではない。原作ではテレサの殺害は序文で詳述され、物語はその結末へとたどりつく「ブックエンド形式(始めと終わりを同一の事柄で挟む構成)」になっている。来るべき主人公の死が読者の念頭に置かれることで、悲劇がゆっくり時間を経て増幅されることを、作者であるロスナー自身がもくろんでいるのだ。 映画版はそれとは対照的で、テレサの死の描写をクライマックスのみに一点集中させることにより、あたかも自分が唐突な事故に遭ったかのような、無秩序な恐怖感やアクシデント性を受け手に与えるのである。 そんなラストシーンのインパクトをより高めているのが、過剰なまでに明滅の激しい照明効果だろう。 ハリウッドを代表する撮影監督のインタビュー集『マスターズ・オブ・ライト/アメリカン・シネマの撮影者たち』(フィルムアート社:刊)の中で、本作の撮影を手がけたウィリアム・フレイカーが、このラストシーンの撮影を細かく振り返っている。氏によると、同シーンはブルックス監督が考案したもので、ストロボライトのみを光源とする実験的な手法が試みられている。結果、明滅の中でかろうじて認識できる流血や凶器、あるいはテレサの意識が遠のいていくさまを暗喩する闇の広がりや、フラッシュ効果の不規則なリズムなど、これらが観る者の不安をあおり、場面はより凄惨さを醸し出しているのである。 ブルックス監督は実在の殺人事件をベースにしたトルーマン・カポーティ原作の『冷血』(67)でも、窓ガラスをつたう雨水が実行犯ペリー(ロバート・ブレーク)の顔に重なり、あたかも彼が涙を流して告解するかのようなシーンを演出するなど、技巧派の一面を強く示していた。 こうした創作意識の高い職人監督による、映画ならではのアプローチが、件のクライマックスを必要以上に伝説化させているといえるだろう。 しかし、本作のラストがインパクトだけをいたずらに狙ったものかといえば、決してそうではない。映画は随所で鋭利なナイフの存在を象徴的に散らつかせ、最後への布石が周到に敷いてあることに気づかされるし、なによりもあの破滅型のラストシーンは、当時ハリウッドに大きな流れとしてあった「アメリカン・ニューシネマ」の韻を踏んだものに他ならない。 1960年代の後半から70年代にかけて巻き起こった、アメリカ映画の革命であるアメリカン・ニューシネマ。それまでのハリウッドは、映画会社の年老いた重役が実権を握り、ミュージカルや恋愛ものや史劇大作など、古い価値観に基づく映画が作り続けられていた。そのため高額の製作費とスタジオ設備の維持費がかさんで赤字となり、またテレビの普及によって観客は減少し、経営は悪化。メジャーの映画会社は次々とコングロマリット(複合企業)に買収されていったのだ。 なによりも、こうした保守的なハリウッド作品に、観客は興味を示さなくなっていた。60年代当時のアメリカは変革の波が国に及び、公民権運動やウーマン・リブ、ベトナム戦争による政府への不信感から若者がデモを起こしたりと、反体制の気運が高まっていたのだ。彼らにとってハリウッドが作る甘美な夢物語など、そこに何の価値も見出せなかったのである。 しかし、1950年代から頭角を現してきた独立系のプロダクションが、ピーター・ボグダノヴィッチやデニス・ホッパー、フランシス・コッポラやマーティン・スコセッシなど、水面下で新たな才能を育てていたのだ。そんな彼らが後に『俺たちに明日はない』(67)や『イージー・ライダー』(69)といった、登場人物が体制に反旗をひるがえし、若者たちが社会からの疎外や圧迫を共感できる作品を発表していく。 『ミスター・グッドバーを探して』は、そんなアメリカン・ニューシネマの文脈に沿い、同ムーブメントをおのずから体現している。自由意志のもとに行動する主人公も、抵抗の果てに力尽きて散るラストも、その証としてこれほど腑に落ちるものはない。 いっぽうでブルックス監督はこうしたアプローチを「現実的でリアルなものではなく、あくまで幻想的なもの」として実践していると、先の『マスターズ・オブ・ライト』でフレイカーが語っている。劇中、ときおり映画はテレサの心象風景とも回想ともつかぬイメージショットを多用し、物語を撹乱することで、観る者の意識を巧みにミスリードしていく。テレサが殺されるシーンにも先述の手法が施されていることから、本作は全体的にリアルを標榜しているというよりも、どこか幻想的な趣が感じられてならない。 そのため、このドラマのクライマックスは多様な解釈を寛容にする。受け手によっては、テレサの死は彼女のただれた生活を道徳的に戒める「因果応報」のようなものだと厳しく解釈することもできるし、また「死によってテレサはさまざまな苦悩から解放されたのだ」とやさしく受け止めることもできるのだ。 国内でDVD化が果たされず、センセーショナルな印象だけが先行している『ミスター・グッドバーを探して』。だが、ザ・シネマで作品に触れる機会が得られたことで、本作が単なる実在事件の追体験ではないことを、多くの映画ファンに実感してほしい。■ COPYRIGHT © 2016 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2016.07.15
ステイ・フレンズ
ニューヨーク。人材スカウトのジェイミーは、ロサンゼルスで生まれ育ったアートディレクターのディランを雑誌「GQ」のためにヘッドハントすることに成功する。これをきっかけに飲み友達になる二人だったが、互いに恋人と別れたばかりなことを知って「恋愛関係には絶対ならない」ことを条件にセフレに。だがそれぞれが沸き起こる感情を否定しようとしたことから、二人の仲はこんがらがりはじめてしまい……。 大勢の人が集まる大都会。でも皆忙しいから恋人を見つけることは難しい。そして恋愛がいつか終わりを告げることを考えると、そうした関係はなかなか面倒臭いものである。でもセックスはしたい ……。こうした現代の恋愛事情を、フラッシュ・モブやアプリといった今どきのツールを交えて描いたロマンティック・コメディが『ステイ・フレンズ』だ。 監督は、『小悪魔はなぜモテる?!』(10年)のヒットによって、新世代のコメディ作家と目されるようになったウィル・グラック。エマ・ストーンが映画冒頭でディランを振るガールフレンドとして特別出演しているのは、彼女が『小悪魔』の主演女優だからだ。こんな小さな役でもスターのエマが出演してくれるということは、グラックに「この人と仕事を続けたい」と思わせる才能と人間的な魅力が備わっているのだろう。本作でもグランド・セントラル駅やタイムズスクエアといったニューヨークの名所の風景や、水上ボートの疾走シーンを盛り込んで映像にメリハリを付けているところに彼の才能を感じる。 とはいえ、プロットの関係上、ベッドシーンが多くを占める本作において、最も重要なのは主演のふたりだ。しかも大画面に耐える美しいボディを備えながら、ユーモラスに見せなければいけないのだから、下手な文芸大作よりも演じるのが難しい。この難しい役に抜擢されたのがジャスティン・ティンバーレイクとミラ・クニスだった。 音楽活動におけるスーパースターのイメージの方が断然強いティンバーレイクだけど、レコーディングやツアーの合間に俳優活動も精力的に行っている。『TIME/タイム』(11年)や『ランナーランナー』 (13年)といった主演作のほか、『ブラック・スネーク・モーン』 (06年)や『ソーシャル・ネットワーク』 (10年)、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』 (13年)などでは脇で光るキャラを演じたりと、シンガーの余技を超えた演技力を持つ男だ。 コメディへの取り組みも「イケメンがちょっとふざけてみました」というレベルを遥かに超えている。ティンバーレイクはこれまで老舗お笑い番組『サタデー・ナイト・ライブ(SNL)』で5回司会を担当しているのだが、40年以上の歴史で16人しかいない「司会を5回以上務めたスター」の中で80年代以降に生まれたのは彼だけだ。 この番組を通じて、レギュラー出演者だったアンディ・サムバーグ(ミラ・クニスを振る男として本作冒頭にゲスト出演していのが彼だ)とは親友となり、ふたりで演じたデジタルショート(ビデオ撮りのネタ)の数々は名作として『SNL』の歴史に輝いている。 また『SNL』出身のレジェンドであるマイク・マイヤーズとは、『シュレック3 』(07年)と『愛の伝道師 ラブ・グル 』(08年)で共演。ここで伝授された笑いのノウハウを、元カノのキャメロン・ディアスとリユニオンした『バッド・ティーチャー』 (11年)では全開させていたりと、「安心してコメディを任せられる」俳優としてハリウッドで認められているのだ。本作でも仕事が出来るイケメン設定でありながら、スイカを食べて下痢したり、数字の計算が超苦手というキャラをイヤミなく演じてのけている。 そんなティンバーレイクに対するヒロインを演じているのがミラ・クニスだ。彼女のことを知ったのがナタリー・ポートマンのライバルを演じたダーレン・アロノフスキー監督のバレエ映画『ブラック・スワン』(10年)という映画好きは多いはずだ。世界的にもそうした認識だったのか、この作品でミラは第67回ヴェネツィア国際映画祭で新人賞にあたるマルチェロ・マストロヤンニ賞を受賞しているのだが、この快挙にアメリカ人は笑い転げたはずだ。 というのも、彼女は70年代を舞台にしたレトロ調テレビ・コメディ『ザット'70sショー』(98〜06年)で人気者になってから既に10年以上のキャリアを誇っていたからだ。同じ頃始まったアニメ『Family Guy』(99年〜)に至っては、一家の長女メグの声優を今なお務め続けている。 この番組のクリエイターだったのがセス・マクファーレン。彼が映画進出作『テッド』(12年)のヒロイン役にミラを指名したのは、長年の共演から得た彼女のコメディ・センスへの信頼感ゆえだったのだ。そのセンスは本作以外でも、ジェイソン・シーゲル(今作の劇中映画に特別出演している)と共演した『寝取られ男のラブ♂バカンス』(08年)や『デート & ナイト』(10年)といったコメディでも十二分に発揮されている。 このふたりを中心に、ウディ・ハレルソンやパトリシア・クラークソン、リチャード・ジェンキンズといったオスカー受賞/ノミネート俳優たちが周辺に配され、それぞれ同性愛者、恋愛依存症、アルツハイマー病患者を演じることによって、映画には重層的な視点が加わっている。それによって映画では人生を謳歌する術としてのセックスが語られる。だから本作、下ネタ満載でエッチではあるけど全然いやらしくはないのだ。 とはいえ、本作を観ても、セフレから本当の恋人になるなんて、映画の中だけの絵空事と思うかもしれない。でも実際にそうしたことが起きるのだ。その証拠に格好の具体例を挙げてみよう。 『ステイ・フレンズ』と同じ年に、ベテランのアイヴァン・ライトマンが監督した『抱きたいカンケイ』というやはりセフレを題材にしたロマンティック・コメディが公開されている。主演は、ミラがライバル役を演じた『ブラック・スワン』(10年)の主演女優ナタリー・ポートマン、そしてアシュトン・カッチャーだった。 カッチャーは、日本では『バタフライ・エフェクト』(04年)や『ベガスの恋に勝つルール』(08年)、伝記映画『スティーブ・ジョブズ』(13年)で知られている俳優だけど、元々の出世作はミラと同じ『ザット'70sショー』である。しかもそこで彼が演じていたマイケルは、ミラ扮するジャッキーとくっついたり別れたりを繰り返していたのだった。ふたりの相性があまりに良かったことから、番組のファンは私生活でも付き合って欲しいと願っていたそうだが、この時点ではふたりは単なる仲の良い友人同士だった。 ところが『ステイ・フレンズ』と『抱きたいカンケイ』が公開された翌年、ふたりの関係は急展開する。ある授賞式でふたりは久しぶりに再会。ミラが長年交際していた『ホーム・アローン』の名子役マコーレー・カルキンと別れたばかり、カッチャーが05年に結婚したデミ・ムーアと破局したばかりなことを知ったふたりは、「昔から知ってる仲間だから友情が壊れることもない」とセフレになったのだ。でも映画同様、ふたりとも相手が別の人間とデートするのを嫌がるようになり、12年には真剣交際を開始。ウィル・グラックが監督したリメイク版『ANNIE/アニー』に揃ってカメオ出演した14年には婚約および第一子が誕生。15年には正式に結婚している。現在ミラはカッチャーとの第二子を妊娠中だ。セフレから生まれる真実の愛は実在するのである。 Copyright © 2011 Screen Gems, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2016.07.09
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年8月】にしこ
サスペンスの王様、アルフレッド・ヒッチコックのごく初期の初期の作品。もちろん期待に応えます!スピーディーな展開で最後までハラハラさせるサスペンスです。 19世紀末のロンドン。火曜の夜にブロンド女性が殺されるという連続殺人事件が発生。ロンドンの街は恐怖のどん底に!下宿屋を営む夫婦にもキュートなブロンドの一人娘デイジーがおり、夫婦は気をもんでいたがデイジーに思いを寄せる男、刑事のジョーは彼女の両親に「自分がいるから大丈夫」アピール。ある日、マントに身を包んだ不気味な男が部屋を貸してほしいと夫婦が営む下宿を尋ねてくる。夫婦は怪しく思いながらも彼に部屋を貸すが、彼が火曜の夜に家を抜け出していくのを不審に思い始める。さらに一人娘のデイジーがその男と段々親密になってきて…!! ぎーやぁーーーーー!!! という感じでして、70分強の作品なのですがこれが最後まで犯人がわからずひやひやします。さらに言うとこの作品、サイレントなんです!!最低限のセリフと本当に最低限の状況描写だけがテロップでたまーに出てくるだけで、あとは全て画作りで観客に内容を理解させ、さらにハラハラまでさせるんですから、「ヒッチコック、鬼やべぇ」のひとことです。 下宿人がいかに怪しげな男かを演出する為に、いろんな飛び小道具でサスペンスフルに仕立てているのもお見逃しなく。監督自身が観客を怖がらせようと楽しんで作ったのが感じられる素敵な1本です。
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COLUMN/コラム2016.07.08
“高尚な趣味のOL”御用達の退屈文芸監督と思ったら大間違い。ジョー・ライト監督、その異常ともいえる美意識の高さと、狂気じみた映像へのこだわり〜『アンナ・カレーニナ』〜
ジョー・ライトという監督がマニアックに語られることが少ないのはなぜなのか。長編デビュー作がジェーン・オースティンの恋愛小説が原作の『プライドと偏見』(2005)であったり、『つぐない』(2007)、『アンナ・カレーニナ』(2012)と文芸路線が多いことから高尚な趣味のOL御用達だと思われているのだろうか(高尚な趣味のOLという存在自体がもはやファンタジーだが)。 『プライドと偏見』は2000年代でも屈指の「衝撃デビュー」だったと思うのだが、日本公開時の宣伝は完全に女性に向けたラブストーリー扱いで、ジョー・ライトの狂気じみた映像へのこだわりは語られることが少なかった。 いや、もちろん『プライドと偏見』はラブストーリーとしても素晴らしい。その一方で、映画好きなら垂涎の映像表現や演出が詰まっていることが伝わらないままスルーされてしまった印象がある。 ジョー・ライトの最大の個性は、あらゆることを「画と音」で伝えようという強迫観念に似た執念である。『プライドと偏見』は出会った瞬間からそりが合わない男女の恋を描いたラブコメの原典だが、18世紀当時のイギリスの階級社会や文化が登場人物の思考や立ち位置を決定づけている。ライトが試みたのは、コミュニティのヒエラルキーの全容と男女の誤解、にもかかわらず芽生える恋心のはじまりをひっくるめて、舞踏会のワンシーンだけで表現してしまうことだった。 映画序盤でかなりの尺をもって描かれる舞踏会は長回しのカメラと出演者の演技が緻密に振り付けられ、シーンまるごとが壮大な群舞となった。これほどの情報量をビジュアルの力で伝えきった豪腕に「天才監督あらわる!」と興奮したことが忘れられない。 監督二作目の『つぐない』は幼い少女の誤解によって引き裂かれてしまう恋人たちを描いたメロドラマだが、第二次世界大戦の激戦「ダンケルクの撤退」を描いた5分半もの長回しで語り草になった 英仏33万人の将兵がドーバー海峡を渡ってイギリスに退却した最前線での混沌を圧倒的な物量で描いた壮麗なワンショットは、映画全体のトーンからハミ出ているがゆえに運命を翻弄する「戦争」の巨大さを象徴していた。 長回しといえばデ・パルマ、最近ではキュアロンかイニャリトゥの名前が挙がるのが通例だが、ライトは『つぐない』に限らずどの監督作でも凝りに凝った長回しを披露している。本人が「ひけらかすのが好きなんだ」と自嘲まじりに笑い飛ばすトレードマークであり、シーンのメイキングだけでも一冊の本ができてしまいそうである。 また「音楽」への執着もジョー・ライト作品の特徴だ。前述の舞踏会は言うに及ばず、『つぐない』の恋文を打つタイプライターがビートを刻みテンションを高めていくモダンさは、ありふれた「文芸映画」のイメージを軽々と飛び越える。『路上のソリスト』(2009)はまさに音楽家の物語だったし、成功作とは言えないにせよ『PAN~ネバーランド、夢のはじまり~』(2015)でニルヴァーナをぶっ込んだ遊び心も強烈だった。 現時点でのジョー・ライトの最高傑作を決めるつもりはないが、『アンナ・カレーニナ』はジョー・ライト的映画術がこれでもかと詰め込まれた、集大成と呼ぶべき濃密作であることは間違いがない。 原作はロシアの大文豪トルストイの代表作。タイトルだけは誰もが聞いたことがあるはずだが、知名度のわりに概要を知っている人は少ないので簡単に説明しておこう。 舞台は1870年代の帝政ロシア。ざっくり言えば上流階級の貞淑な若妻アンナ(キーラ・ナイトレイ)が、イケメン将校ヴロンスキー(アーロン・テイラー・ジョンソン)との不倫愛にのめり込み破滅へと突き進んでいく悲劇である。 若い農場主リョーヴィン(ドーナル・グリーソン)と若い娘キティ(アリシア・ヴィキャンデル)の純朴な恋模様や、アンナの兄の浮気騒動といったサブプロットもが同時進行するが、基本はアンナと愛人と夫の三角関係の愛憎劇。ただし当時のロシア社会への批判、トルストイの理想と現実にまつわる考察が込められていて、当然ながらただの不倫メロドラマではない。 トルストイの原作自体が文学史上の傑作とされており、過去にはグレタ・ガルボ、ヴィヴィアン・リー、ソフィー・マルソーらの主演で何度も映像化されている。言わばさんざん手垢が着いているからこそ、ライトは前代未聞のアプローチを見つけ出した。240に上るシーンの大半を、たったひとつのセットで撮ってしまったのだ。 企画当初はロシアで撮影しようとロケハンにも行ったが、現地で「ここで『アンナ・カレーニナ』を撮るのは7本目ですね」と言われて方針を180度変えた。朽ちかけた劇場のセットを建てて、シーンの違いを舞台装置によって表現しようというのだ。 むろん劇場での演劇をそのまま撮影するわけではない。ひとつの建物がまるごと、アンナたちが暮らしているロシア社会に見立てられているのである。ステージや客席は華やかな社交や場となり、天井裏はうらぶれた路地や貧者の家になる。スケートリンクから競馬のパドックまで、衣装の早替えのようにシーンが移り変わっていく様はまるで魔法を見ているかのようである。 セットを「劇場」にしたのには明快な理由がある。登場人物の誰もが社会という枠に押し込められて、与えられた役割を演じながら生きているから。アンナは虚飾に満ちた世界から逃れるようにヴロンスキーとの逢瀬にすがりつくが、もがけばもがくほど世間の反感を買って生きるスペースが狭まっていく。劇中に「観客」が登場しないのは、彼らは出演者であると同時にお互いを見張る観客でもあるからだ。 ギミックを凝らした過剰さに眩暈を起こす人もいるかも知れないが、映像や美術の端々に込められた深い寓意には戦慄すら覚える。例えばアンナの息子の寝床はまるで額縁の中のようにデザインされていて、兄の家の子供たちの部屋は大きなドールハウスだ。まるで大人の都合で観賞用に閉じ込められた「箱の中の箱」である。 ライトがインスピレーションを得たのは子供の頃に夢中だった人形劇だそうだが、誰もが大きななにかに操られていると感じさせることでミニマムな空間からマクロな視点が生まれる。さらに盟友ダリオ・マイアネッリの音楽とシディ・ラルビ・シェルカウイの振付が加わり、流麗で饒舌な映像美に昇華されているのだ。 『プライドと偏見』をさらに進化させた舞踏会のダンスシーンは本作の白眉だが、直接ダンスが絡まない場面での手や首の優雅な動きにも目を凝らして欲しい。自然体とは対極にある誇張された動きだが、いかに雄弁に気持ちを語っていることか。本音をぶちまけることが許されなかった時代背景が、異常ともいえる美意識の高さに昇華されていて息が詰まるほどだ。 とはいえ同じことを現代劇でやるのは難しかっただろう。こういう形で演劇を取り入れた先例として木下恵介の『楢山節考』(1958)、エリック・ロメールの『聖杯物語』(1978)、ラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』(2003)などが挙げられるが、いずれも時代物であり、虚構性を高めることで寓話としての強度を高めている。 『アンナ・カレーニナ』がそれらの先達と違うとすれば、キャラクターを戯画化していないことではないか。ひとりひとりをシンボライズするのでなく、矛盾に満ちたグレーな人間としてリアルに描く。しかしビジュアルや演技は徹底的にアンリアルという倒錯感を、ジョー・ライトという才気あふれる映画監督の気概と一緒に楽しんでいただきたいと思う。■ ©2012 Focus Features LLC
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COLUMN/コラム2016.07.02
フレンチ・リビエラの海岸でジーン・セバーグの太股が揺れる!! アメリカ人には不向きだったアナニュイな夏〜『悲しみよこんにちは』〜
ユベール・ド・ジバンシーと言えばオードリー・ヘプバーン。映画ファッション史に名を刻む2人のトレンドセッターが最初にコラボしたのは『麗しのサブリナ』(54)だが、時系列的にはそれから約4年後、『昼下りの情事』(57)でアリアンヌ役のオードリーか着る数点のドレスをデザインし終えた直後あたりに、ジバンシーが非オードリー作品に衣装デザイナーとして駆り出される。それが『悲しみよこんにちは』(58)だ。 映画はまるでジバンシー、もしくはジバンシー的ミニマリズムのオンパレード。彼が衣装を担当したどのオードリー映画より、オードリーがいない分、むしろジバンシー色が強いと言っても過言ではない程だ。なので、ここで衣装の解説に少し字数を割きたい。 冒頭でジーン・セバーグ演じるヒロインのセシルが着て現れる黒いベアトップのカクテルドレスは、もろ『麗しのサブリナ』でオードリーが着ていた"デコルテ・サブリナ"のアレンジ。両肩のリボンストラップを首元に移行させてはいるが、タイトな上半身と膨らんだパニエのドラマチックな対比、モノクロを意識したミニマルなシルエットは、どちらもジバンシーならでは。『悲しみ~』はストーリー展開に伴いカラーとモノクロをカットバックで切り替える手法だ。因みに、セシルやデボラ・カー扮するアンヌが身に付けるジュエリー類は、パリのハイブランド、カルティエとエルメスから提供されている。 セシルとデヴィッド・ニーブン演じる富豪でプレイボーイの父親、レイモンが夜な夜なパリの街に繰り出し、パーティに明け暮れる刹那的な冒頭シークエンスから、父娘が夏を過ごした1年前のフレンチ・リビエラに時間が巻き戻ると、画面は一転、モノクロからカラーにシフト。ここでカラフルなジバンシーファッションが一気に炸裂する。レイモンに招待されてコテージに現れる、後のフィアンセで、セシルにとっては継母になるはずだったアンヌがセシルにプレゼントする、胸にフローラル刺繍が施されたドレスを筆頭に、セシルと、レイモンまでが多用する(アンヌもやってる)シャツの裾結びとショートパンツの組み合わせ、セシルが履く楽ちんそうなバレエシューズ等々、否が応でもサブリナやアリアンヌを連想させる服と着こなしは、ジバンシー本人と、衣装コーディネーターのホープ・ブライスが場面毎にデザインまたは用意した品々。ブライスは本作の監督、オットー・プレミンジャー夫人で、夫が監督した計9作で衣装コーデを手がけている。ジバンシーのセンスとブライスの統括力のお陰で、映画はさながらジバンシーによるビーチリゾート・ファッションショーの趣きだ。 さて、ここらでファッションから映画の背景に話題を移そう。『悲しみよこんにちは』はフランソワ・サガンがブルジョワのアンニュイな生活と孤独を綴って作家デビューを飾ったベストセラー小説の映画化。これにインスパイアされたサイモン&ガーファンクルが、名曲"サウンド・オブ・サイレンス"を発表したとも言われる。確かに、父親の愛を繋ぎ止めるために、何の罪もないアンヌに惨い制裁を加えてしまうセシルが引き摺る後悔と、永遠に逃れられない孤独との共存を意味する映画のタイトルは、"S.O.S"の歌い出し"hello darkness my old friend~"と符合する。プレミンジャーは小説の世界観に魅せられ、映画化を決意。そして、完成した作品は、ヒッチコックの『泥棒成金』(55)と同じ ゴート・ダ・ジュールの海岸線や、オープンカーでのドライブ、ラグジュアリーなリゾートファッション等で共通するし、映画史的に見ると、1950年代のハリウッドではこの種のヨーロッパを舞台にした観光映画がちょっとしたブームだった。『ローマの休日』(53/ローマ)然り、『愛の泉』(54/同じくローマ)然り、『旅情』(55/ベニス)然り。 それは、当時のアメリカ人にとってヨーロッパはまだまだ遠く、いつか訪れてみたい憧れの地だったからだろう。そのため、作られた映画はほぼ間違いなく、旅には付きもののラブロマンスと決まっていたものだ。でも、『悲しみよこんにちは』は少しテイストが異なる。南仏でのバカンスを無邪気に楽しむレイモンとセシルが、遊びの延長でアンヌを排除してしまった罪悪感が、風景の彩度と反比例して、観客の気持ちまでアンニュイにするからだ。その刹那でデカダンなムードが映画の魅力とも言えるし、レイモンとセシルは毎夏リビエラに南下して来るパリ在住のブルジョワ。外国人が異国の地で萌える他のハリウッド映画とはそもそもキャラ設定が違う。だからだろうか、公開当時、アメリカメディアの評価は芳しくなかった。反面、原作者サガンの母国フランスでは映画人たちが絶賛。ジャン=リュック・ゴダールは1958年のベストンワンに選び、エリック・ロメールは"シネマスコープで撮られた最も美しい映画"と評している。 オットー・プレミンジャー自身も"自作中最も好きな映画"と自画自賛する本作で、誰よりも幸運を手にしたのは、言うまでもなく主演のジーン・セバーグだっただろう。トランジスターグラマーなボディライン(160センチ)から溢れ出る若々しさと、"セシルカット"と呼ばれたブロンドのショートヘアは一種のムーブメントとなり、特にそのヘアスタイルは、女優がイメージチェンジする際の必須アイテムとして定着。パーマネントが必要な"ヘプパーンカット"と比べてナチュラルな分、より一般的、普遍的に広がっていった。そして、ジバンシーがデザインしたリゾートウェアも、もしかして、スリムな体型に恵まれたオードリーより、むしろ、セバーグを通して女性たちの着るハードルを低くしたのかも知れない。太い太股や足首を隠そうともせず、リビエラの海岸をゴム毬のように走り抜けるセシルを見て、改めてそう思う。 そんなセシル=セバーグに魅了されたジャン=リュック・ゴダールは、彼にとっての初監督作『勝手にしやがれ』(59)のヒロインにセバーグを抜擢。その際、セバーグは個人的にもお気に入りだった"セシルカット"を続行し、そのヘアにマッチしたボーダーのカットソーと黒のロングスカートは、ジバンシーによるセシルのリゾートウェア以上に強烈なトレンドとなる。結局、セバーグのたった15年にも満たなかった女優人生(映画出演は1957〜71。1979年、パリ郊外で遺体で発見される)で、『悲しみよこんちには』は『勝手にしやがれ』と並ぶ彼女の代表作として記憶されることとなる。 ところで、タイトルシーケンスを飾る人が涙を流すグラフィックデザインは、プレミンジャーの『カルメン』(54)以来、ヒッチコックの『めまい』(58)等、数多くの映画でアートワークを手がけた伝説的なデザイナー、ソール・バスの手によるもの。また、劇中に登場するペインティング類は、日本人洋画家、菅井汲(すがいくみ。1919〜1966)の作品だ。本作にスタッフとして正式に参加した彼の名前がタイトルロールでもちゃんと紹介されるので、是非目を懲らして欲しい。■ Copyright © 1958, renewed 1986 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2016.07.02
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年8月】うず潮
『地獄の黙示録』で脚本に参加したジョン・ミリアスが監督・脚本を手がけた、70年代のサーフィン映画の名作。カリフォルニアの海で伝説の波「ビッグ・ウェンズデー」を待ち焦がれる若者たちの人生を軸に、ベトナム戦争への出兵に悩む若者たちの描写は秀逸。主演はジャン=マイケル・ヴィンセント。本作の出演をきっかけに人気俳優の仲間入りし、TVシリーズ「超音速攻撃ヘリ・エアーウルフ」(懐かしい~)の主人公ヘリパイロット・ホーク役で日本でもスターに。 脇を固めるのは、『沈黙の戦艦』(裏切った副官役)でウザイ悪役がハマるゲイリー・ビューシイとTVシリーズ「アメリカン・ヒーロー」で主人公を演じたウィリアム・カット。フレッシュ感満載で3人ともマジに若い!特にゲイリー・ビューシイは、本作でもヤンチャな若者役でウザ臭がほんのり出ていて、芸風の蕾感が垣間見れます(笑)。 一番の見どころはなんといっても大迫力の波乗りシーン。伝説のプロサーファー、ジェリー・ロペス(本人役で出演!セリフをしゃべってほしかった…)の若い頃のキレキレのライディングを始め、ロングボードでのチューブ・ライディング(波のトンネルを潜る技)などサーフィンの華麗な技を堪能できます。さらに凄腕撮影スタッフによるオンライドでの水上映像美は、まるで本当に波乗りしてるような錯覚に!また、今ではなかなか見れないレトロなフォルムのアメ車や劇中に流れる「ロコモーション」などのヒットナンバー、サーファーファッションも見どころのひとつ。劇中に出てくるBEARロゴついた白Tシャツは、「あっ」と思う人も多いはず。 また、ザ・シネマでは、「特集:素晴らしき夏映画」と題して、本作に加え『旅するジーンズと16歳の夏』『旅するジーンズと19歳の旅立ち』『イルカと少年』など夏が舞台となった映画8作品を特集放送!ザ・シネマで夏に夏映画をご堪能ください! TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.