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COLUMN/コラム2019.10.01
その存在自体が、スキャンダラス…。 「アラン・ドロンの時代」の問題作 『ショック療法』
今年の8月、齢83となったアラン・ドロンが、脳卒中のため入院中というニュースが流れた。2年前=2017年にすでに引退を表明していたドロンだが、今年5月には「カンヌ国際映画祭」で、映画への長年の貢献を称えられて“名誉パルムドール”が贈られ、元気な姿を見せたばかり。 子どもの頃から親しんできたスターの老齢化やリタイアといった話題は、そのまま自分自身の、寄る年波を実感させられる。長く映画を観続けるというのは、そういうことでもある。 さて改めて、1964年生まれの筆者の少年期に、“二枚目”“美男子”と言えば、イコールでアラン・ドロンだった。「アラン・ドロン=二枚目」という認識が、その頃どれほど一般的だったかを説明するには、私が中1の時=1977年のヒットCMと歌謡曲を、例に挙げるのがわかり易い。 当時若手俳優として、人気上昇中だった水谷豊が出演した、「S&Bポテトチップ」のコメディ仕立てのCM。インタビュアーに「ライバルは?」と問われた水谷が、スター気取りで「アラン・ドロンかなぁ~?」と答えながら、コケてみせる。 その年にアイドル歌手としてデビューした榊原郁恵が、「日本レコード大賞」の新人賞を獲った際に披露したのは、「アル・パシーノ+(たす)アラン・ドロン<(より)あなた」。森雪之丞作詞・作曲によるこの楽曲、「アル・パシーノのまねなんかして ちょっとニヒルに 笑うけど…」と始まる。ハリウッドスターとして全盛期で、女性人気も高かったアル・パチーノ(当時はパシーノ表記が一般的だった)に続き、歌詞に登場するのが、フランスの大スターであったアラン・ドロン。 「アラン・ドロンのふりなんかして甘い言葉 ささやくけど…」 こんな風にアイドル歌謡に登場して、聴く者がすぐにイメージできるほど、「アラン・ドロン=二枚目」だったわけである。 因みに当時は、各民放が毎週ゴールデンタイムに劇場用映画を放送していた、TVの洋画劇場の全盛期。その頃確実に視聴率を取れる“四天王”と言われたのが、スティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジュリアーノ・ジェンマ、そしてアラン・ドロンであった。 “四天王”と言いつつ、中には出演作がそれほど多くない者も居るし、放送権料の問題もある。つまるところ、最もコンスタントにオンエア出来て「数字が取れる」のが、アラン・ドロンの主演作品だった。 ドロンの出世作と言えば、もちろんルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960)。この作品をはじめ、1960年代から70年代はじめまで、ドロンの主演作には、数多の名作・人気作が並ぶ。 イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(60) 『山猫』(63)、フランスのスターとして大先輩の、ジャン・ギャバンと共演した、『地下室のメロディー』(63) 『シシリアン』(69)、ロベール・アンリコ監督による青春映画の金字塔『冒険者たち』(67)、フランス製フィルム・ノワールの最高峰『サムライ』(67)、未だに高いカルト人気を誇る『あの胸にもう一度』(68)、現代の視点からは、チャールズ・ブロンソンとのBL映画とも言える『さらば友よ』(68)、ドロンと共にフランスが誇る二大スターと称されたジャン=ポール・ベルモンドが共演の『ボルサリーノ』(70)等々。1964~66年に掛け、ハリウッド進出を試みて失敗に終わるという“蹉跌”はありながらも、豪勢なラインアップと言えよう。 しかし実は70年前後から、ドロン主演作には、ちょっと微妙な作品が増えてくる。プレイボーイとしても知られるドロンだが、かつての婚約者ロミー・シュナイダーと共演した、『太陽が知っている』(68)、当時の愛人ミレーユ・ダルクとの同棲生活を再現したような、『栗色のマッドレー』(70)、5年間の結婚生活の末69年に離婚した元妻ナタリー・ドロンと意味深に共演した、『もういちど愛して』(71)等々。ドロンの私生活を彷彿させる、スキャンダラスな作品群である。 これにはドロンが巻き込まれた、「マルコヴィッチ事件」の影響があるとも言われる。68年10月、ドロンのボディガードで近しい存在だった、ステファン・マルコヴィッチという男が、射殺体で発見された。ドロンと当時の妻ナタリーは、重要参考人として捜査当局に召喚され、特にドロンは52時間もの尋問を受けることとなった。 その最中に、様々な醜聞が噴出。ドロンとマフィアの癒着、ドロン夫妻とマルコヴィッチの“三角関係”、マルコヴィッチが経営していた上流階級相手の“社交場”に、大統領夫妻が常連客として出入りしていた等々である。結局真犯人は不明のまま、事件は迷宮入りとなったが、ドロンへの疑惑は残った。スターとして、致命的なダメージを負ってもおかしくなかったのである。 そこでドロンが打った手は、疑惑の渦中にあった自らを晒すかのように、本人を想起させるスキャンダラスな舞台設定の作品に、次々と出演することだった。そして事件に巻き込まれる以前の作品よりも、多くの観客動員を得ることに、成功したという。 ドロンの70年代前半、その他の出演作をざっと眺めれば、三船敏郎、ブロンソンと共演した『レッド・サン』(71)をはじめ、『暗殺者のメロディ』(72)『高校教師』(72)『リスボン特急』(72)『スコルピオ』(73)『燃えつきた納屋』(73)ビッグ・ガン』(73)『暗黒街のふたり』(73)『個人生活』(74)『愛人関係』(74)『ボルサリーノ2』(74)…。個々の作品の評価はさて置き、やはり粒揃いの60年代と比べると、見劣りするラインアップと言えよう。 そんな中に位置して、しかも飛び切りのスキャンダラスな内容と言えたのが、72年に製作されて本国フランスで公開、日本では73年夏の封切となった本作、『ショック療法』である。 この作品の実質的な主役は、かつて名作『若者のすべて』でドロンの相手役を務めた、アニー・ジラルド。それから12年経って本作では、日々の生活に疲れてしまったアラフォーのキャリアウーマン、エレーヌを演じている。 エレーヌは男友だちの薦めで、リフレッシュのため、海辺のサナトリウムに滞在することになった。そこの主な患者は、社会的な地位が高く、金銭的に余裕がある中高年の男女。そしてサナトリウムの医院長ドクター・デビレを演じるのが、アラン・ドロンである。 海遊びやサウナ、海藻療法などで十分リラックスした後、患者たちが受けるのが、デビレの処方による、“奇跡の注射”。正体不明の注射によって、患者たちは若さと生気を取り戻す。エレーヌもその例外ではなかった。 しかしサナトリウムの職員である、ポルトガルの青年たちが次々と倒れ、中には失踪する者も居て、エレーヌの疑念が募る。更にはここを彼女に紹介したゲイの男友だちが謎の死を遂げるに至って、エレーヌは真実の究明に乗り出す。 世にも魅力的なデビレとベッドを共にし、その隙を見て真相を探る彼女は、やがてサナトリウムの恐ろしい秘密を知る。そんな彼女に、デビレの魔の手が…。 「弱い者を、強い者が喰う」そんな“弱肉強食”思想が描かれているこの作品だが、実は最大のセールスポイントとなったのは、天下の二枚目ドロンのオールヌードであった。製作された72年は、「コスモポリタン」誌に、かのバート・レイノルズが、熊の毛皮に全裸で横たわったヌード写真が掲載されて、センセーショナルな話題になった年。それに負けじと…だったかはわからないが、時流に乗って本作では、患者たちの全裸での海遊びに誘われたドロンが、すべてを脱ぎ捨てて、フルチンで走るシーンがある。 筋肉質で均整の取れたドロンの裸体は、とても美しい。しかし当時の日本では、男性器をそのままスクリーンに映し出すことは、不可能。肝心の部分は、ボカしが掛かった状態でのお披露目となった。 そして劇場公開から4年経ち、水谷豊のCMや榊原郁恵の歌謡曲が話題になった77年の秋に、『ショック療法』はフジテレビの「ゴールデン洋画劇場」で初オンエア。その際も「売り」として押し出されたのは、ドロンのフルチン姿。もちろんボカし入りの…。 77年は、春先に最新主演作『友よ静かに死ね』(77)の公開キャンペーンで、ドロンが久々に来日したことも、大きな話題となっていた。日本のお茶の間的には、ドロン人気が相当に盛り上がった年であった。 しかし実のところで言えば、本国フランスでは、長年ライバルと目されたジャン=ポール・ベルモンドに、人気面で大きく水を開けられるようになっていた。また日本では70年代前半、「東宝東和」や「日本ヘラルド」などの洋画配給会社間で、ドロン主演作の争奪戦が繰り広げられて、上映権料が高騰。それに見合うほどの配給収入が上がらなくなってきていた。 トドメを刺したのが、札束で「東宝東和」「ヘラルド」を出し抜いた、「東映洋画」が配給した、『ル・ジタン』(75)『ブーメランのように』(76)2作の不振。続く「東宝東和」配給の『友よ静かに死ね』公開時のドロン来日は、そんな状況に危機感を抱いてのことだったと思われる。しかしお茶の間の盛り上がりの一方で、やはり興行の方は、思わしい成績を上げられなかった。 ちょうどドロン作品の主な買い手だった「東宝東和」は『キングコング』(76)など、「ヘラルド」は『カサンドラ・クロス』(76)といった“大作路線”に、買い付けの舵を切り始めた頃。「ヘラルド」配給の『チェイサー』(78)を最後に、日本ではドロン主演作が、鳴り物入りで公開される時代は終わったのである。 それから40年以上、いま80代のドロンの近況を耳にしながら、「アラン・ドロンの時代」に想いを馳せてみる。『ショック療法』のような作品は、その内容とはそぐわないが、私のように映画館とTVの洋画劇場の薫陶を受けて育った世代には、もはや甘酸っぱい思い出とも言える。■ 『ショック療法』© 1973 STUDIOCANAL - A.J. Films - Medusa Distribuzione S.r.l.
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COLUMN/コラム2019.04.30
巨匠ルネ・クレマンと俳優アラン・ドロンのターニング・ポイントとなった犯罪ミステリー
※下記レビューには一部ネタバレが含まれます。本作を未見の方はご注意ください。 ヌーヴェルヴァーグの波が大きなうねりとなって席巻した、’50年代末から’60年代のフランス映画界。旧世代の巨匠・名匠たちの多くが、第一線を退いたり低迷を余儀なくされる中、この過渡期を見事に切り抜けた数少ない戦前・戦中派の一人がルネ・クレマンだった。映画監督になるためには助監督として長いこと修業を積むのが当たり前だった時代、既に学生の頃から16ミリフィルムで実験映画を撮っていた彼は、’34年に映画界入りしてからも下積みの経験は殆どなく、すぐに短編ドキュメンタリーの監督として実績を積むようになる。そして、ナチス占領下のフランスにおける鉄道員たちのレジスタンス活動をセミ・ドキュメンタリー・タッチに描いた長編処女作『鉄路の闘い』(’45)でカンヌ国際映画祭の監督賞と国際審査員賞を獲得。カンヌでの受賞時は33歳。同世代の映画監督に比べると10年は早い最初の成功だった。 さらに、『鉄格子の彼方』(’49)ではカンヌの監督賞を再び獲得し、米アカデミー賞の外国語映画賞も受賞。『禁じられた遊び』(’52)でも2度目のオスカーに輝き、ヴェネツィア国際映画祭のグランプリ(金獅子賞)まで受賞するなど、40歳を前にしてフランスを代表する世界的な巨匠の仲間入りを果たす。しかし、’54年に後のヌーヴェルヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォーが映画雑誌『カイエ・ドゥ・シネマ』に掲載した論文「フランス映画のある種の傾向」が、クレマンのキャリアと名声に少なからず暗い影を投げ落とす。この論文でトリュフォーは、当時の旧態依然としたフランスの商業映画を厳しく批判し、ジャン・ルノワールやジュリアン・デュヴィヴィエ、クロード・オータン=ララ、マルセル・カルネといった巨匠たちを否定した。その中に、彼らよりひと回り以上も若いクレマンも含まれていたのだ。 以降も『しのび逢い』(’54)や『居酒屋』(’57)などの作品をヒットさせたクレマンだったが、しかしその一方で、若い世代の映像作家や観客からは時代遅れな旧世代の監督と見なされるようになる。そんな彼が汚名挽回とばかりに、詩的リアリズムの伝統を受け継いだそれまでの作風から脱却し、高度経済成長期のヨーロッパに蔓延する虚栄と退廃、快楽主義と物質主義の世相を、ヌーヴェルヴァーグの時代に相応しいモダンなセンスで描いた犯罪ミステリー。それが『太陽がいっぱい』(’60)だったと言えよう。 原作はアメリカの女流ミステリー作家パトリシア・ハイスミスが’55年に発表した、代表作トム・リプリー・シリーズの第1弾『リプリー』。貧しい労働者階級のアメリカ人青年トム・リプリー(アラン・ドロン)は、大富豪の御曹司である友人フィリップ・グリーンリーフ(モーリス・ロネ)をアメリカへ連れ戻すため、フィリップの父親に雇われてイタリアのローマへ向かう。しかし、ヨーロッパで放蕩三昧の生活を楽しむフィリップに帰国の意思はなく、いつまでもトムを連れ回して遊びほうけるばかり。このままでは5000ドルの報酬にありつけない。なんとか彼のご機嫌を取ろうとするトム。しかし自分のことを雑用係も同然に扱うフィリップの尊大な態度に業を煮やした彼は、やがてある計画を思いつき実行に移す。それは、フィリップを殺して彼に成りすまし、その莫大な財産を横領するという大胆不敵な完全犯罪だった。 第二次世界大戦で本土が一度も戦場とならなかったアメリカが、未曽有の経済的繁栄を享受した’50~’60年代。そのアメリカによる経済援助のおかげもあって、激しい戦火に見舞われた西欧主要国も当時は奇跡的な高度経済成長期を迎えていた。まさしく『甘い生活』(’60)の時代である。ただ、その物質主義的で退廃した狂乱の世相を、フェリーニが傍観者であるジャーナリストの目から俯瞰して描いたのに対し、ほぼ同時期に作られた本作では「持てる者と持たざる者の格差」に焦点を当てつつ、今も昔も社会の大多数を占める「持たざる者」の若者トム・リプリーによる屈折した復讐劇が展開していく。 たまたま富裕層に生まれただけのフィリップがいい思いをして、なぜ自分ばかりがこき使われ辱めを受けなければならないのか。美しくも野心的で計算高い若者トムは必ずしも好人物とは言えないものの、しかしその一方で、親の財力を笠に着て我がまま放題に振舞うフィリップに対する彼の不満と憤りは、観客の共感を呼ぶに十分な説得力があると言えるだろう。 このトム・リプリー役を演じるアラン・ドロンが素晴らしい。まるで彫刻のように完璧な美貌と少年のように無邪気な笑顔の裏に、動物的な狡猾さと歪んだナルシシズムを秘めた危険な若者。灼熱の太陽のもと、地中海の洋上に浮かぶヨットの上でフィリップを躊躇することなく殺害した彼は、その後も良心の呵責に苛まれることなど一切なく、淡々と冷静沈着に完全犯罪計画を実行していく。かといって悪人というわけでもない。計画に気付いたフィリップの友人フレディ(ビル・カーンズ)を衝動的に殺した直後、平然とオーブンから取り出したチキンの丸焼きを夢中で貪り食うその姿は、善悪の概念に縛られることのないアンチヒーローという意味において、ゴダールの『勝手にしやがれ』(’60)のジャン=ポール・ベルモンドと双璧だ。 そんな主人公トムの本能的な残酷さと冷徹さを、ルネ・クレマンは肯定も否定もすることなく描いていく。ラストに彼を待ち受ける運命についても、恐らく警察に捕まって罰を受けるであろうことを匂わせつつ、しかしあえて解釈の余地を残して幕を閉じる。なにしろ、それまでも動物的な生存本能で危機的な局面を幾度も切り抜けてきた彼のこと、いくらでも逃げ切る可能性はあるだろう。事実、原作のトムは罪に問われることなく完全犯罪を成し遂げ、クレマンも当初はトムがギリシャへと逃げおおせる結末を想定していた。しかし、さすがにそれでは観客が納得しないだろうと、製作者アキム兄弟の助言によって、とりあえずギリギリでモラルの境界線を守った完成版のエンディングに落ち着いたらしい。これはこれで賢明な判断だと思うが、もう一つのエンディングも見てみたかった気がする。 そのアキム兄弟の推薦で脚本に参加したのが、当時クロード・シャブロルの『二重の鍵』(’59)で注目されていたポール・ジェゴフ。撮影監督にはシャブロルやトリュフォー、ルイ・マルの作品でお馴染みのアンリ・ドカエが起用された。この面子だけでも、クレマンとアキム兄弟がヌーヴェルヴァーグ世代を強く意識していたことは明らかだろう。 それだけでなく、クレマンは本作でヌーヴェルヴァーグ的な即興演出も多用している。例えば、フィリップ殺害後にトムが死体を処分しようとしたところ、急な天候の悪化でヨットが強風に見舞われるシーン。これは撮影中にたまたま天候が急変したことから、ああいう形になったという。激しい波と強風に煽られながら、トムが懸命になってヨットを操縦するロングショットは、アラン・ドロン一人だけを船上に残して撮影されたもの。クルーと共に大型船へ避難したクレマンは、無線を通して「とにかくヨットを転覆させるな」とドロンに指示した。撮影後のドロンは、ひどい船酔いで倒れてしまったそうだ。なお、ヨットの船室シーンは全て、ロケ地であるイスキア島で見つけた映画館の廃墟にセットを組んで撮影されている。 かくして、本作の世界的な大ヒットによって若い世代のファン層を獲得し、米仏合作の戦争超大作『パリは燃えているか』(’66)の演出を任されるなど、第二の全盛期を迎えることになったルネ・クレマン。主演のアラン・ドロンもこれが出世作となり、一躍フランスを代表するスーパースターへと躍り出た。ちなみに、ドロンが起用されることになった経緯について諸説あるが、クレマン監督によると当初のトム・リプリー役は別の俳優(当時ブリジット・バルドーの夫だったジャック・シャリエと言われる)が予定されていたという。 一方のフィリップ役を探している際、当時ドロンのエージェントだったオルガ・オルスティッグから熱心な売り込みがあり、クレマンは参考にするため彼の出演作『学生たちの道』(’59)を見に行った。監督曰く、ドロンの演技自体はパッとしなかったものの、何か特別に感じるものがあったという。そこで、クレマンはエージェントを交えてドロンと直に面談。その時点でトム役はモーリス・ロネに決まっていたが、直接会ったドロンの方がトムのイメージに合っていると判断し、2人の役柄を入れ替えたのだそうだ。これがドロンにとって、俳優人生を変える最大の当たり役となったのだから、人の運命というのは面白いものである。■
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COLUMN/コラム2014.06.03
映画の中のリゾートガイド
■『マンマ・ミーア!』 『マンマ・ミーア!』は、伝説のポップグループABBAの大ヒットナンバーでつづられた、最高にハートフルなミュージカル映画!結婚式を目前に控えた20歳の娘・ソフィと、メリル・ストリープ演じる母親のドナ、そして父親を名乗る3人の男性が繰り広げる騒動を描いた作品です。 舞台は、ギリシャの架空の小島・カロカイリ島。撮影の多くはエーゲ海に浮かぶ美しいリゾート地・スコペロス島で行われました。澄み切った海と白い砂、松やオリーブの木にいだかれたこの美しい島は、隠れ家的なリゾートとして、世界中の人々に愛されている場所。ソフィや婚約者のスカイたちが砂浜で激しく踊るシーン、ドナの親友・ターニャと島の若者のダンスシーンなど、美しい海辺の場面が撮られたのは、島の西側にあるカスタニビーチ。透明な海に浮かぶ印象的な桟橋は、撮影時に特別に作られたということです。ギリシャの青い空と海、そしてさんさんと降り注ぐ明るい太陽の下で繰り広げられる名シーンの数々は、見ているだけでハッピーな気分になれること請け合いです! ※『マンマ・ミーア!』桟橋シーン ※スコペロス島の風景 ▼「スコペロス島」プチ情報スコペロス島は、エーゲ海北西部のスポラデス諸島にあるギリシャの島。スコペロスはギリシャ語で「岩」の意味だが、肥沃な土地で緑も多く、アーモンドの産地として知られている。島内には350もの教会が点在している。 ▼アクセス方法日本からは、ヨーロッパの都市を経由してアテネへ向かい、国内線でスキアトス島へ。スキアトス島からスコペロス島へは船で1時間。(ほかに、ヨーロッパの都市からスキアトス島への直行便もある)ギリシャ中央に位置する港町・ヴォロスからスコペロス島へは船で2時間ほど。 ■『食べて、祈って、恋をして』 『食べて、祈って、恋をして』は、ジャーナリストとして活躍するヒロインが、離婚と失恋の後に、自分を見つめ直すために出かけた旅の日々を描いた作品です。 おいしい料理を堪能したイタリア、ヨガと瞑想に励んだインド…そしてジュリア・ロバーツ演じる主人公のリズが旅の最後に訪れたのが、「神々の島」と呼ばれるインドネシアのバリ島。彼女が過ごしたのが、バリ島の文化の中心地でもある山あいのリゾート地・ウブドです。ウブドでは稲作が盛んで、あちこちで青々とした美しいライステラス(棚田)を見ることができます。さらにはジュリアが颯爽と自転車で通り抜けるヤシの林、野生の猿が200匹も生息するという自然保護区「モンキーフォレスト」など、あふれる豊かな自然が人々を癒してくれるんです。パワフルなウブドの生活を肌で感じたければ、村のランドマーク、お土産や雑貨が揃う「パサール・ウブド」もはずせません! 見ているだけでリゾート地・バリ島の空気を満喫出来る、オススメの一本です! ※『食べて、祈って、恋をして』美しいライステラスシーン ※バリ島 ▼「ウブド」プチ情報ウブドは、バリ島中部にある古くからのリゾート地であり、バリ文化の中心地。ガムラン、バリ舞踊、バリ絵画、木彫り、石彫り、銀細工など、あらゆるバリの芸能・芸術を堪能出来る。豊かな自然でも知られ、素朴な田園風景や渓谷も大きな魅力。 ▼アクセス方法日本からはバリ島・デンパサール国際空港へ。空港から車で1時間。南部のリゾートエリアのクタまで車で1時間。さらにヌサドゥアから車で1時間半。 ■『黒いオルフェ』 『黒いオルフェ』は、ギリシャ神話の悲劇「オルフェウス伝説」を、現代のブラジルによみがえらせ、カンヌ国際映画祭でグランプリに輝いた名作です。舞台は、今年2014年、サッカーワールドカップが開催される情熱の街・ブラジルのリオデジャネイロ。作品では、この地で行われる世界最大の真夏の祭典・リオのカーニバルを軸での出来事が描かれています。 カーニバルは世界各地で行われていますが、その中でリオのカーニバルはもっとも熱狂的といわれています。年に一回、2月から3月上旬、土曜日から火曜日にかけての4日間にわたって繰り広げられるこのカーニバルには、世界中から観光客が押し寄せます。お目当ては、ほかでは体験できないダイナミックな音楽とリズム、そして華やかな衣装であふれるパレード!この作品では、随所に実際のカーニバルの映像が使われ、サンバのリズムに合わせて歌い、踊る人々の熱気がスクリーンから伝わってきます。地球の裏側で行われる華麗なカーニバルの気分を楽しむにはもってこいの映画です。 ※『黒いオルフェ』リオのカーニバルシーン ※リオのカーニバル ▼「リオデジャネイロ」プチ情報リオ・デ・ジャネイロは、サン・パウロに次ぐブラジル第二の都市。華やかなカーニバル、ビーチリゾート、世界三大美港のひとつと言われるグアナバラ湾の景観などで知られる観光地。2014年のサッカーワールドカップ、2016年の夏季オリンピックの開催地にも選ばれた。 ▼アクセス方法日本からはアメリカやカナダ、ヨーロッパの都市を経由してリオデジャネイロ国際空港へ。所要時間は25〜30時間ほど。 ■『マレーナ』 『マレーナ』は、第二次大戦中のシチリア島を舞台に、悲劇的な運命をたどる女性・マレーナの生き様を、彼女に恋する少年の目を通して描いた人間ドラマです。撮影の多くが行われたのは、地中海のリゾート・シチリア島にあるシラクーサ。美しいリゾート地として知られると同時に、3000年以上の歴史を持つ古都の魅力も持ち合わせています。随所に見られるギリシャ・ローマ時代の遺跡の多くは、2005年、世界遺産にも登録されました。シラクーサは、大きな橋をはさんで、新市街と旧市街のオルティージャに分かれています。オルティージャは、町の発祥の地といわれ、石造りの建物が立ち並ぶ風情あふれる場所です。オルティージャの中心にあるのが、街のシンボル・ドゥオーモ広場です。バロック様式の荘厳なドゥオーモが見下ろすこの広場は、少年がモニカ・ベルッチ演じるマレーナの思い出を心に刻み付ける印象的な場所として登場します。ゆったりとした時間が流れるロマンチックなリゾート・シラクーサを、作品を通じて味わってみては? ※『マレーナ』のワンシーン ※シラクーサ ドゥオーモ広場 ▼「シラクーサ」プチ情報シラクーサは、イタリアのシチリア島南東部に位置する都市。古代ギリシャ時代にアテネと共に繁栄を誇ったと言われ、数学者アルキメデスの生地でもある。太宰治の『走れメロス』の舞台としても知られる。ギリシャ・ローマ時代の遺跡が数多く残り、世界遺産にも認定された。 ▼アクセス方法日本からはローマ、ミラノ経由でシチリア島のカターニャ空港へ。空港からシラクーサへはバスで1時間20分ほど。 ■『フレンチ・キス(1995)』 『フレンチ・キス(1995)』は、旅先で恋に落ちた婚約者を追いかけて、フランスをめぐるアメリカ人女性を描いたロマンチック・コメディです。メグ・ライアン演じる主人公・ケイトが、詐欺師のリュックと一緒に婚約者を追いかけた先は、南仏のカンヌ。国際映画祭が開催される街としても世界的に知られています。カンヌをふくむ地中海に面した一帯は「コート・ダジュール」=「紺碧海岸」と呼ばれ、その名の通り、紺碧の海に明るい太陽がふりそそぐ、ヨーロッパ随一のリゾート地!ケイトが大騒動を巻き起こすのが、カンヌの中心にそびえ立つセレブ御用達の豪華なリゾートホテル、インターコンチネンタル・カールトン・カンヌ。映画祭の開催期間中は著名な映画人がこぞって宿泊するとか。美しい建物とビーチ。その明るく開放的な空間が、ケイトとリュックの距離を急速に縮める大きな役割を果たしていると言えそうです。恋も実る憧れのリゾート、コート・ダジュール。あなたもぜひ一度、映画で体験してください。 ※『フレンチ・キス(1995)』様子を伺うメグ・ライアン ※コート・ダジュール ▼「カンヌ」プチ情報カンヌは、フランス南東部の地中海に面する都市のひとつ。もともとは小さな漁港だったが、今ではヨーロッパ有数のリゾート地として知られる。毎年5月のカンヌ国際映画祭の開催地として世界的に有名。 ▼アクセス方法日本からは、ヨーロッパの都市を経由してニース・コート・ダジュール国際空港へ。空港からカンヌへは車で1時間程度。 ■『太陽がいっぱい』 『太陽がいっぱい』は、アラン・ドロン演じる貧しい青年・トムが大富豪の放蕩息子・フィリップをねたんで犯罪を計画、彼になりすまして財産を奪おうと画策するサスペンス映画です。フィリップが住むというモンジベロは架空の町。撮影の多くは、ナポリ湾に浮かぶイスキア島で行われました。イスキア島は、青い海と輝く太陽、そしてリラックスを求める人々でにぎわう大人気のリゾート地です。この島に来たらはずせないのが、地中海の豊かな自然を満喫できるクルージング!トムとフィリップもヨットで美しい海へと繰り出しますが、眩しく明るい陽光と、その下で行われる恐ろしい犯罪が、見事な対比を生み出しています。魚市場の場面は、「ナポリを見て死ね」と言われるほど風光明媚な港町・ナポリで撮影されています。人々の活気と彩りに満ちた市場で、アラン・ドロンの持つ影と、憂いを帯びた美しさが際立つ名シーンが生まれました。スリリングな犯罪と一緒に味わう地中海の明るい大自然、いつもとひと味違うリゾート体験ができるのでは? ※『太陽がいっぱい』ヨットのワンシーン ※イスキア島 ▼「イスキア島」プチ情報イスキア島は、イタリア・ナポリ湾内で一番大きな島。火山活動で出来た島で、別名「緑の島」と呼ばれるほど自然が豊か。至る所にわく温泉でのんびりできるほか、ビーチも楽しめる人気のリゾート地。 ▼アクセス方法日本からは、ローマやミラノ経由でナポリ・カポディキーノ空港へ。ナポリ港からイスキア島へは高速船で50分ほど。 『マンマ・ミーア!』© 2008 Universal Studios. All Rights Reserved.『食べて、祈って、恋をして』© 2010 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.『黒いオルフェ』ORFEU NEGRO ©1959 Dispat Film. All Rights Reserved.『マレーナ』© 2000 Medusa Film spa—Roma『フレンチ・キス(1995)』FRENCH KISS ©1995 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved『太陽がいっぱい』© ROBERT ET RAYMOND HAKIM PRO. / Plaza Production International / Comstock Group
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COLUMN/コラム2012.01.01
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2012年1月】銀輪太郎
コンコルドファン必見の飛行機アクション映画。2003年にその使命を終えたコンコルドであるが、1970年代は夢の超音速旅客機であった。兎にも角にも、この映画の主役はコンコルドである。その流線型の美しい機体。そしてマッハ2を誇る超音速スピード。離陸時に機首を下方に曲げる(ドループ・ノーズ)シーンもバッチリと本編に収められている。ストーリーは「コンコルド VS 無人ミサイル」の攻防にハラハラする展開となるが、それ以上にコンコルド美に胸踊る映画である。 © 1979 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.