ユネスコの「世界の記憶」にも登録済み!


ハリウッド映画史上、最も大衆から愛されてきた作品のひとつと呼んでも差し支えなかろう。カンザスの田舎に住む平凡な少女ドロシーが、愛犬トトと一緒に竜巻で飛ばされて魔法の国オズへと迷い込み、そこで親しくなった案山子やブリキ男、ライオンと共に大冒険を繰り広げるミュージカル仕立てのファンタジー映画『オズの魔法使』。1939年の全米初公開を皮切りに世界中へ配給され、これまでに幾度となくリバイバル公開もされてきた。一説によると、全世界で10億人以上が本作を見たとも言われている。

アメリカの映画業界誌バラエティが選んだ「史上最高の映画100選」では、アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』(’60)に次いで堂々の第2位。アメリカ映画協会が米国映画誕生100年を記念して発表した「アメリカ映画ベスト100」でも第6位にランクされている。主演女優ジュディ・ガーランドの歌うテーマ曲「虹の彼方に」はスタンダード・ソングとなり、日本を含む世界中のアーティストにカバーされ、全米レコード協会が中心となって選出された「20世紀の名曲」では第1位。『オズの魔法使』は見たことないけど「虹の彼方に」なら知っている!という人も少ないだろう。2007年にはユネスコの「世界の記憶」(旧称・記憶遺産)に登録。映画作品の登録はフリッツ・ラングの『メトロポリス』(’27)やルイス・ブニュエルの『忘れられた人々』(’50)など、他にないわけではないが非常に稀だ。

また、1995年には本作の世界観を踏襲しながらその前日譚を描くブロードウェイ・ミュージカル『ウィキッド』が上演されて評判となり、2024年に公開された映画版『ウィキッド ふたりの魔女』も大ヒットしてシリーズ化された。そうそう、同年テレビ放送されたアメリカの国民的オーディション番組『アメリカン・アイドル』のシーズン22では、番組の広告キャンペーンに『オズの魔法使』のコンセプト・イメージが使われていたっけ。どうやら、封切りから90年近くを経た今もなお、『オズの魔法使』の「魔力」はまるで衰えることを知らぬようだ。


作られたきっかけはディズニーの『白雪姫』だった!?


ご存知の通り、アメリカの児童文学作家L・フランク・ボームが1900年に発表し、新大陸アメリカで最初のお伽噺とも称される名作文学「オズの魔法使い」の映画化。黄金期のハリウッドで最大の映画会社だったMGMの社長ルイス・B・メイヤーが、ディズニー初の長編カラー・アニメ映画『白雪姫』(’37)の大成功に触発され、大物製作者サミュエル・ゴールドウィンが所有していた「オズの魔法使い」の映画化権を買い取ったのがそもそもの始まりだったという。実は当時、パラマウント映画が社運をかけて作ったオールスター・キャストの特撮ファンタジー映画『不思議の国のアリス』(’33)が大コケしたことから、ハリウッドでは「子供向けのお伽噺は当たらない」と言われていた。そのジンクスを『白雪姫』が覆したことから、商才に長けたメイヤー社長は当時すでにアメリカ国内で100万部以上を売り上げていた国民的お伽噺「オズの魔法使い」に着目したのである。

実際に映画化の陣頭指揮を任されたのは、’38年にワーナー・ブラザーズから移籍してきたばかりだったマーヴィン・ルロイ。実は、メイヤー社長が絶大な信頼を置いていた伝説的なMGM制作本部長アーヴィング・タルバーグが、’36年に37歳という若さで急逝してしまった。マーヴィン・ルロイといえば『哀愁』(’40)や『若草物語』(’49)の監督として有名だが、しかし当時はプロデューサーとしても次々とヒットを出しており、その才能を高く買ったメイヤー社長によって、タルバーグの後任としてワーナーから引き抜かれたのだ。また、後にMGMミュージカルの黄金時代を築くことになる製作者アーサー・フリードが、ルロイの助手を務めることに。メイヤー社長に『オズの魔法使』のプロデュースをやりたいと最初に申し出たのはフリードだったが、映画製作の経験に乏しいため助手に回された…という伝説もあるのだが、真偽のほどは定かでない。

いずれにせよ、アメリカ人の誰もが知る名作児童文学を、いかにしてファンの期待を裏切ることなく映画化するのか…というのは大変な挑戦だったはずだ。実際、完成するまでに少なくとも14名の脚本家と5名の監督が携わっている。そこでまずは、映画版『オズの魔法使』のストーリーを簡単におさらいしてみよう。


主人公の少女ドロシー(ジュディ・ガーランド)は、カンザスの農場でエムおばさん(クララ・ブランディック)にヘンリーおじさん(チャールズ・グレープウィン)、愛犬のトトと一緒に暮らしている。農場ではハンク(レイ・ボルジャー)とヒッコリー(ジャック・ヘイリー)、ジーク(バート・ラー)という3名の農夫が働いており、ドロシーは日頃から彼らにも可愛がられていた。そんなある日、意地悪な地主のガルチさん(マーガレット・ハミルトン)がドロシーに因縁をつけ、凶暴なトトを警察で殺処分してもらうと言って連れて行ってしまう。大きなショックを受けたドロシーは、隙を見て逃げてきたトトを連れて遠くの見知らぬ土地へ行こうとするのだが、しかしその途中で出会った占い師マーベル教授(フランク・モーガン)に「エムおばさんが心配している」と諭されて家へ戻ったところ、そこへ来襲した大きな竜巻に家ごと巻き込まれてしまう。

ドズン!という大きな音と共に地上へ落下した家。幸いにも無事だったドロシーがトトを抱いて、恐る恐る扉を開けて外へ出てみると、そこは色とりどりの花で埋め尽くされた不思議な魔法の国オズだった。すると、物陰から現れた小さな住人マンチキンたちから英雄のように扱われるドロシー。北の良い魔女グリンダ(ビリー・バーク)によると、マンチキンの町を支配していた東の悪い魔女が、ドロシーの家の下敷きになって死んだのだという。思いがけぬ歓迎ムードに喜ぶドロシーだったが、しかし一刻も早くカンザスの農場へ戻ってエムおばさんを安心させたい。そんな彼女にグリンダは西の悪い魔女が履いていたルビーの靴を与え、「黄色いレンガの道を辿ってエメラルドの都へ行き、そこで偉大なオズの魔法使いに会ってお願いすれば、カンザスへ帰ることが出来る」と教えてくれる。

グリンダの助言に従って、エメラルド・シティへ向かって歩き始めたドロシー。その途中で彼女は、ハンクによく似た知恵のない案山子(レイ・ボルジャー2役)、ヒッコリーによく似た心のないブリキ男(ジャック・ヘイリー2役)、ジークによく似た勇気のないライオン(バート・ラー2役)と仲良くなり、それぞれオズの魔法使いに会って、案山子は知恵を貰うため、ブリキ男は心を貰うため、ライオンは勇気をもらうため、ドロシーと一緒にエメラルドの都を目指すことになる。

その道すがら、姉である東の悪い魔女を殺されて復讐に燃える西の悪い魔女(マーガレット・ハミルトン2役)の妨害を受けながらも、なんとかエメラルドの都へ到着した一行。期待を胸にオズの魔法使いと謁見した彼らは、願いをかなえたければ西の悪い魔女のホウキを持ってくるよう命じられる。勇気を振り絞って魔女の住む城へと向かうドロシーたちだったが…?


プロデューサー主導で作られた映画の舞台裏


「虹の彼方」にある見知らぬ世界に憧れる多感な少女ドロシーが、実際に遠く離れた夢の国で大冒険を繰り広げ、やっぱり愛する人たちのいる我が家が一番だと気付くというお話。土台となるアウトラインを書いたのは、ルロイの製作助手だったウィリアム・H・キャノンである。。それをもとに、ハーマン・J・マンキーウィッツやノエル・ラングレー、オグデン・ナッシュなど複数の脚本家たちに個別で発注され、それぞれが書いた草案を切り貼りしながらひとつの脚本にまとめていったようだ。その中で原作では銀だったドロシーの靴をルビーに変えたり、オズの国に出てくるキャラのソックリさんをカンザスに登場させたり、ラストを夢落ちにしてドロシーに「やっぱり、お家が一番」と悟らせるなど、映画版において最も重要な部分の脚色を手掛けたのが、当時まだ26歳だったラングレー。さらに、一度出来上がった脚本も制作陣や別の脚本家陣によってブラッシュアップされ、最終的にラングリーとフローレンス・ライアーソン、エドガー・アラン・ウルフの3人だけが、脚本家としてスクリーンにクレジットされたのである。

当初、監督として起用されたのは『黒騎士』(’52)や『ゼンダ城の虜』(’52)などの史劇大作で知られるリチャード・ソープだったが、しかしドロシー役のジュディ・ガーランドにブロンドのウィッグを被らせて厚化粧を施すなど、目指す作品の世界観があまり相応しくないと制作陣に判断され、撮影開始から2週間で解雇されることに。そこで、当時MGMが取り組んでいたもうひとつのブロックバスター映画『風と共に去りぬ』(’39)の撮影を控えていた名匠ジョージ・キューカーが本作の現場へ入り、ドロシーをはじめとする登場人物たちのメイクや衣装を変えさせるなど、完成版の土台となる重要な改変を行った。そのうえで、プロデューサーのルロイは後任監督として「男性映画の巨匠」と目されていたヴィクター・フレミングを起用。自他ともに硬派で知られたフレミング監督が本作の演出を引き受けたのは、自分の娘たちに愛や夢のある美しい映画を見せたかったからなのだそうだ。

こうして撮影の再開した本作は、その大部分をフレミング監督が演出。ところが、完成間際になってMGMは、フレミング監督を別の現場へ異動させることを決める。というのも、『風と共に去りぬ』の現場でキューカー監督と主演俳優クラーク・ゲーブルが衝突し、それが原因で撮影に支障をきたしてしまったため、公私共にゲーブルと仲の良かったフレミング監督が呼ばれたのである。フレミング監督の代打として白羽の矢が立ったのは、『ビッグ・パレード』(’25)や『ラ・ボエーム』(’26)など、サイレント映画の時代から数々の傑作を世に送り出してきた巨匠キング・ヴィダー。さらに、撮影終了から数か月後に行われた追加撮影をマーヴィン・ルロイが演出し、ようやく完成したというわけだ。

ちなみに、本作のように映画本編ではクレジットされていない監督や脚本家が何人も関わっているというケースは、古くよりハリウッド映画では決して珍しいことではなく、特に監督もスタッフもキャストもみんなが映画会社の専属で、それゆえ簡単に首をすげ替えることが出来たスタジオ・システムの時代は、それこそ日常茶飯事だったと言えよう。なにしろ、ノークレジットで脚本の書き直しを担当するスクリプト・ドクターなる職業が存在する業界だ。先に触れた『風と共に去りぬ』だって。3人の監督に加えて少なくとも5人の脚本家が携わっているそうだが、しかしスクリーンにはそれぞれ1人ずつしかクレジットされていない。それをひとつの作品としてまとめ上げるのはプロデューサー。今も昔も、ハリウッドではプロデューサーが最も強い権限を持っているのだ。


音楽にもカメラにも特撮技術にもハリウッドの職人技が光る


MGM首脳陣がドロシー役に強く希望したのが、当時4年連続でハリウッドのマネーメイキング・スター(最も集客力のあるスター)のランキングで1位に輝いた天才子役シャーリー・テンプル。しかし非公式オーディションでテンプルの歌声を聴いたルロイとフリードは、さすがに天才少女でもこの役は荷が重いと感じたらしい。そのうえ、テンプルは20世紀フォックスの所属であったことから、最終的にMGM所属で当時人気急上昇中だったジュディ・ガーランドに落ち着いた。また、案山子役のレイ・ボルジャーは当初ブリキ男役だったが、しかし「案山子役は自分以外にありえない!」と考えてメイヤー社長に直談判。妻と一緒に粘り強く交渉した結果、見事に案山子役を勝ち取ったのである。おかげで案山子役からブリキ男役に変更されたのが、ミュージカル俳優として人気だったバディ・イブセン。ところが、当初ブリキ男のメイクに使われていたアルミのパウダーを肺に吸い込んでしまい、呼吸不全に陥ったイブセンは病院へ救急搬送されてしまう。結局、治療のため6週間に渡って入院する羽目となり、そのためMGMは代役としてジャック・ヘイリーを起用。イブセンが降板した経緯についてヘイリーは全く知らされていなかったらしく、問題のアルミのパウダーも秘かに練り粉へ変えられていたそうだ。

一方、ディズニーのアニメ『白雪姫』が美しい継母で成功したことから、ルロイは西の悪い魔女役にグラマラスな美人女優を起用してはどうかと提案。そこで選ばれたのが、当時『風雲児アドヴァース』(’36)でアカデミー助演女優賞を獲得したばかり、演技力も美貌も申し分ない名女優ゲイル・ソンダーガードだったのだが、しかしこれにアーサー・フリードが「やはり悪い魔女は醜くないと!」と猛反発。両者の板挟みになったソンダーガードは本人の希望で役を降りることとなり、代わりにマーガレット・ハミルトンが登板する。北の良い魔女グリンダを演じたビリー・バークは、ブロードウェイの伝説的な興行師フローレンツ・ジーグフェルドの妻であり、彼が製作した人気レビュー・ショー「ジーグフェルド・フォリーズ」の看板スターも務めた往年の舞台女優。撮影当時54歳とは思えぬ若々しさと美しさだ。ちなみに、レイ・ボルジャーやバディ・イブセンも「ジーグフェルド・フォリーズ」に出演経験がある。

充実したキャスト陣に加えて、本作の魅力を語る上で欠かせないのがハロルド・アーレンの作曲、E・Y・ハーバーグの作詞によるミュージカル・ナンバーの数々であろう。先述した「虹の彼方に」はもちろんのこと、「黄色いレンガの道をたどって」や「オズの魔法使いに会いに行こう」など、長年に渡って歌い継がれてきた名曲が盛りだくさん。アーレン一流のキャッチーなメロディと、ハーバーグが得意とする韻の踏み方の絶妙な歌詞の組み合わせは素晴らしい。誰もが簡単に覚えられて簡単に口ずさめる。実にキャッチー!これらの楽曲がなければ、本作の魅力は間違いなく半減していたはずだ。

もちろん、創意工夫を凝らしたカラフルで華やかなオズの国の美術セットや、魔女や猿が空を飛んだり竜巻が吹き荒れたりといったシンプルだが極めてクオリティの高い特撮、今の我々が見ても舌を巻くほど良く出来た案山子やライオンの特殊メイクなど、ハリウッドにおける職人技の粋を集めたような見どころばかり。中でも、セピア色のモノクロ映像で撮影されたカンザスの世界にいたドロシーが、扉の向こうに広がるカラフルなオズの国へワンカットで足を踏み入れていくシーンは何度見ても新鮮かつ衝撃的である。筆者も最初に見たときは「いったいどうやって撮影したんだ!?」と驚いたが、実はこれ、扉を開ける直前のシーンで既にモノクロ・フィルムからカラー・フィルムへ切り替わっており、扉の内側のセットを予めセピア色のペンキで着色し、同じくセピア色の衣装を着たジュディ・ガーランドの代役に扉を開けさせる…という極めてシンプルな方法で撮影されている。で、実際に扉を開けるとまずはカメラが先にフルカラーのオズの国へと入っていき、その間にカラフルな衣装を着たジュディが代役と入れ替わる…という寸法。実に見事なアイディアである。

こうして完成した『オズの魔法使』は、1939年8月より全米各地で順次公開。ニューヨークで行われたプレミアにはジュディ・ガーランドと、当時MGMが彼女とコンビで売り出していた青春映画スター、ミッキー・ルーニーが舞台挨拶に登壇。ルーニーはこの年から3年連続で、シャーリー・テンプルに代わってマネーメイキング・スターの1位に君臨していた。なので、2人がカリフォルニアから列車で到着したニューヨークのセントラル・ステーションには1万人のファンが集まり、ニューヨーク市警の警官250名と刑事25名が警備に当たるという事態に。さらに、プレミア会場となったブロードウェイのキャピトル・シアターには1万5千人がチケットを求めて行列し、辺り一帯が騒然となったのだそうだ。いずれにせよ、同年末に封切られた『風と共に去りぬ』にしてもそうだが、今から90年近くも前にこれだけのスケールでこれだけの完成度を誇る、もはや見事としか言いようのない娯楽大作映画が作られていたという事実に、改めて感嘆を禁じ得ない。こういう映画を何本も作れるほどの国力を持った豊かな国に、我が日本はその数年後、無謀な戦争を仕掛けていくことになるわけだ。

ちなみに、本作が日本で封切られたのは’54年のこと。戦争のせいで15年も公開が遅れてしまった。筆者が初めて見たのは、確か大学生だった’80年代末頃だろうか。銀座の映画館でリバイバル上映が行われたのだ。その際に、日本封切時の劇場パンフレットの復刻版を手に入れたのだが、北の良い魔女グリンダを「北の仙女グリンダ」と表記していたり、登場人物の名前も「ドロシイ」だの「ヒッコリイ」だの「ヘンリイ伯父さん」だのと綴られており、いろいろと時代を感じさせるような記述が多くて誠に面白い。■

『オズの魔法使』(C) Warner Bros. Entertainment Inc.