◆欲望の入口と、取り消せない過ち
2013年公開の『悪の法則』は、成功者が“ほんのささやかな選択”によって破滅へ転落する過程を、冷酷に描いた作品である。主演のマイケル・ファスベンダーが演じるのは、テキサスで成功を収めた弁護士。美しい婚約者ローラ(ペネロペ・クルス)との結婚を控え、裕福で洗練された生活を送っている。社会的地位も愛も手にした彼が、なぜ破滅へと向かっていったのかー? その発端はあまりに軽率で、あまりに人間的な欲望によるものだった。
すべてにおいて満ち足りていたはずの弁護士は、さらなる富を求め、彼はクラブ経営者ライナー(ハビエル・バルデム)の口利きで、メキシコからのコカイン密輸計画に出資する。仲介人ウェストレイ(ブラッド・ピット)は、「麻薬ビジネスに手を出した時点で後戻りはできない」と繰り返し警告する。だが皮肉にも、人に助言を与える立場の弁護士自身が、その忠告を聞き入れなかった。自分だけは例外だと信じ、成功者特有の合理性と自信が、危険を過小評価させていったのだ。

本作の脚本を手がけたのは、『ノーカントリー』(2007)『ザ・ロード』(2009)の原作者として知られるコーマック・マッカーシー。初のオリジナル脚本となる本作でも、彼は一貫して「選択と結果」というテーマを突きつける。登場人物たちは延々と哲学的な対話を重ねるが、その言葉の意味はすぐには回収されない。観客は物語の終盤、すべてが崩れ落ちたあとで、彼らの警句がいかに正確だったかを思い知ることになる。
物語の歯車は、コカインを運んでいたバイカーが国境付近で殺され、積み荷が消えたことで狂い始める。弁護士は直接関与していない。それでも“関わった”という事実だけで、麻薬カルテルの報復対象となる。この世界では、法的な無罪も倫理的な弁明も意味を持たない。重要なのは、危険な世界に足を踏み入れたという一点だけだ。
監督のリドリー・スコットは、カルテルを意思疎通の不可能な存在として描く。彼らの会話には字幕が付かず、観客は言葉の意味を理解できない。そこにあるのは理屈も交渉も通じぬ“絶対的な他者”としての恐怖だ。清潔で贅沢な弁護士の生活と、屎尿収集車で麻薬や死体を運ぶカルテルの世界。そのコントラストは残酷なまでに明確だ。だが両者は無関係ではなく、一本の投資契約がその距離を一瞬で消し去っていく。
こうした恐怖の関係性を象徴するのが、“ポリート”と呼ばれる機械仕掛けのワイヤーによるウェストレイの処刑場面だ。整然とした都市空間で突如として行われる公開処刑は、暴力が遠い異国の出来事ではなく、選択次第で日常に侵入してくることを描いている。物語の終盤、カルテルの首領は弁護士にこう告げる、
「君は自分で選んだ世界にいる」
と。そこに同情はなく、彼は破滅を望んだわけではない。ただ入口を選んだだけだ。だがこの物語において、入口とはすでに出口を内包した決定なのである。
『悪の法則』は犯罪スリラーでありながら、欲望の合理化がいかにして倫理を侵食し、取り消し不能の地点へ人を運ぶかを描いた哲学性を内包する。人生で充分な成功を得ながら、なお“もう少し”を求めてしまう人間の性、そしてその欲望こそが最大の悲劇を呼び込んでいく。そして映画は静かに問いかけるのだ、
“あなたの選択は、本当に安全圏にあるのか?”とー。

◆作品を支配する喪失の“影”
2012年8月20日、ロンドンで『悪の法則』の撮影に入っていたリドリー・スコットは、ロサンゼルスからの一本の電話を受ける。それは弟トニーの妻から、夫が行方不明だという知らせだった。のちにトニー・スコットはヴィンセント・トーマス橋から身を投げ、自ら命を絶っていたことが判明する。突然の死、そして明確な理由のない別れ。スコットは後年、「人生最悪の週末の始まりだった」と、このことを振り返っている。
トニーは『トップガン』(1986)や『クリムゾン・タイド』(1995)など娯楽性に富んだ作品で知られる、ハリウッド屈指のヒットメーカーだった。兄にとって彼は単なる家族ではなく、映画人生を並走してきた同志でもあった。若き日、霧の立ちこめる丘陵地帯でロッククライミングをしたとき、運動神経に優れた弟が先に崖を登り、ロープを垂らして兄を引き上げたという思い出を、スコットは静かに語っている。力尽きかけた兄を、弟は摩擦で傷ついた手を顧みず支えた。その記憶は、二人の関係そのものを示している。
トニーが遺したメモには、明確な理由が記されていなかったという。数年来、病気と闘っていたことが後に明らかになるが、それが死に直結するものではなかった。なぜ彼が死を選んだのか、兄はいまも完全には受け止めきれていない。
それでもスコットは、9月3日に撮影現場へ戻ることを選んだ。創作を続けること。それが悲嘆と向き合う唯一の方法だったのかもしれない。『悪の法則』は“選択と結果”を描く物語だが、その製作過程もまた選択を余儀なくされた。喪失に沈むのか、映画を完成させるのか……。スコットは後者を選んだ。
本作の脚本を書いたコーマック・マッカーシーは、人間の運命を容赦なく見つめる作家である。スコットは以前から彼の熱烈なファンで、『ブラッド・メリディアン』の映画化を試みたこともあったが、そのあまりの残虐性に断念した経緯を持つ。やがてマッカーシー側から『悪の法則』の脚本が送られてくると、スコットは一気に読み終え、即座に映画化を決意した。構造の緻密さや台詞の力、そして救いのない虚無。それは彼にとって挑むべき世界だったのである。
だが完成した本作は公開後、評価は真っ二つに割れた。難解だ、感情移入できない、まるでフランケンシュタインの怪物のようだ、と苛烈な批評も浴びた。いっぽうで、その冷酷さと哲学性を支持する声もあった。後年は再評価の機運が高まり、本作はネオ・ノワール的な「神話」として捉えられるようになったのである。
前述したように、喪失を抱えたまま完成した本作には、世界を突き放す視線が宿る。劇中、登場人物たちはひっきりなしに語り続けているが、お互いを本当に理解することはない。言葉は交わされても、救済がもたらされることはない。それはあたかも、理由のわからない死に直面した者の“心象風景”を見るかのようだ。
弁護士の選択が破滅を招いたように、現実でも人は選択を迫られる。しかし人生には、理由の説明されない出来事がある。そこに因果を見出せないとき、人はどう振る舞うのか。スコットは創作を続けることを選んだ。映画という虚構を通じて、理不尽と対峙する道を。

◆逃れられない“悪の法則”
『悪の法則』はこうして公開当初、戸惑いと反発をもって迎えられた。会話は多いが物語は断片的で説明は省略され、感情的な救済もない。だが時間の経過とともに、この作品は再評価の波にさらされることになる。たとえばギレルモ・デル・トロは本作を「分子レベルで愛している」と語り、作家ドン・ウィンズロウは自作「ザ・カルテル」の映像化に際して監督にリドリー・スコットを指名した(企画自体は実現しなかったが、シリーズは後にドラマ化される)。一部の批評家は本作を犯罪映画ではなく、倫理と運命をめぐる思索の寓話として読み替え始めたのである。
マッカーシーの文学的資質は、まさしく本作で濃密に息づいている。彼の世界において善悪は対立する概念ではない。暴力は特異な逸脱ではなく、人間存在に内在する現象として捉えられている。それは『ノーカントリー』における殺し屋シガーのように、理屈の通じない存在が世界を横断し、人々の倫理観を無力化していく。本作のカルテルもまた、自然災害のような不可抗力だ。
君は自分で選んだ世界にいるー。先に挙げたこの台詞は、作品全体をつらぬく命題だ。人は選択の自由を持つ。だが選択した瞬間から、結果の連鎖は避けられない。弁護士は恋人のためにダイヤの指輪を買い、より豊かな未来を夢見ただけだった。しかし欲望は常に別の欲望を呼び込む。合理化は倫理を侵食し、やがて取り返しのつかない地点へと達していく。

また本作にはブラック・コメディ的な側面もある。ライナーの饒舌さや、ファム・ファタール(悪女)として機能するマルキナ(キャメロン・ディアス)の過剰なまでの象徴性、そして至妙に哲学的な会話劇。だがその滑稽さはやがて凄惨な現実へと呑み込まれていく。ウェストレイの公開処刑、恋人の無残な運命。観客は物語的な正義を期待するが、提示されるのは因果の冷徹な帰結だけだ。
思えばこの映画の製作過程そのものが、因果の物語だった。撮影中に弟を失いながらも、スコットは完成へと舵を切った。理由なき死と向き合いながらも、なお物語を語り続ける。その姿勢は、作品に漂う虚無と響き合う。世界は理解を拒み、善意を裏切り、理屈を超えて動く。それでも人は選択し続けるしかない。
『悪の法則』はフィクションだ。しかし、そこに描かれる麻薬戦争の残酷さや非情な報復の暴力は、現実世界の延長線上にある。司法も正義も届かない領域が存在するという事実を、本作は過剰なまでに可視化する。観る者は本能的にその世界を拒絶するだろう。しかし同時に、自らの日常が決して無縁ではないことに気づくはずだ。。
甘美な夢だけが映画体験ではない。優れた映画は、私たちの倫理観を揺さぶり、見たくない現実を突きつける。『悪の法則』は、バッドテイストをエンターテインメントとして消費させることなく、むしろ悪の構造を剥き出しにし、その中に私たち自身の影を映し出す。最後に残るのは救済ではなく選択の重さであり、人は自由であるがゆえに結果から逃れられない。その冷厳な真理こそが、本作が到達した“悪の法則”である。■

『悪の法則』(C) 2013 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.

