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近い将来、本当に起きうる?AI搭載ハイテク少女人形の大暴走!『M3GAN/ミーガン』
2025.09.29
なかざわひでゆき
ハリウッドの2大ヒットメーカーが贈るキラー・ドール系ホラー
『パラノーマル・アクティビティ』(’07~’21)シリーズに『パージ』(’13~)シリーズ、『ハッピー・デス・デイ』(’17~)シリーズに『ハロウィン』(’18~’22)シリーズ、さらには『ゲット・アウト』(’17)や『透明人間』(’20)、『ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ』(’23)などのホラー映画を次々と大成功させてきた映画製作者ジェイソン・ブラムと、映画監督のみならず製作者としても自身が生んだ『ソウ』(‘04~)シリーズや『死霊館』(‘13~)ユニバースをフランチャイズ化させ、『ライト/オフ』(’16)や『THE MONKEY/ザ・モンキー』(’25)などの話題作をプロデュースしているジェームズ・ワン。そんな21世紀のハリウッド・ホラー映画を牽引する2大ヒットメーカーが製作を手掛け、世界興収1億8000万ドル超えのスマッシュヒットを記録した作品が、AIを搭載したハイテク人形の暴走を描いた『M3GAN/ミーガン』(’22)である。
これまでにも、ワンが1作目と2作目を演出した『インシディアス』(’10~)シリーズや、ブライス・マクガイア監督の『ナイトスイム』(’24)でもタッグを組んだ2人。本作はジェームズ・ワンの製作会社アトミック・モンスターの企画会議で提案された無数のアイディアの中から、ワン自身がピックアップしてジェイソン・ブラムの製作会社ブラムハウスに持ち込んだ企画だったという。テーマはキラー・ドール(殺人人形)。人間を楽しませ癒してくれる玩具の人形が、反対に人間を襲って殺してしまう。そのルーツはトッド・ブラウニング監督の『悪魔の人形』(’36)ともイギリスのオムニバス映画『夢の中の恐怖』(’45)とも言われているが、しかしジャンルとしてポピュラーになったのは’80年代に入ってからのことだ。
口火を切ったのはスチュアート・ゴードン監督の『ドールズ』(’87)。殺人人形の群れが人間を血祭りにあげるという、どこか寓話めいたホラー・ファンタジー映画の佳作だった。同作をプロデュースしたチャールズ・バンドは、殺人人形軍団というコンセプトをそのまま受け継いだ『パペット・マスター』(’89)を製作し、現在までにシリーズ映画15本が作られたばかりか、フィギュアなどの関連グッズも販売されるというフランチャイズ・ビジネスを展開。この成功に味を占めたバンドは、さらなる二番煎じの『デモーニック・トイズ』(‘92~)シリーズもプロデュースしている。
とはいえ、’80年代に興隆したキラー・ドール系ホラー映画の金字塔といえば、間違いなくトム・ホランド監督の『チャイルド・プレイ』(’88)であろう。殺人鬼の魂が乗り移った人形チャッキーはホラー・アイコンとなり、こちらも現在までに8本の映画と1本のテレビシリーズ、さらにはゲームにフィギュアにアトラクションにと関連ビジネスを拡大してきた。そもそもジェームズ・ワン自身、『デッド・サイレンス』(’07)というキラー・ドール映画を撮っているし、代表作『死霊館』シリーズにおいてもアナベルというインパクト強烈な恐怖人形を描いている。ただ、従来のキラー・ドールが主に呪術や魔力で動くスーパーナチュラルな存在だったのに対し、本作に登場するミーガンは人間の少女ソックリに作られた等身大のAI人形。要するにアンドロイドである。
人間に仕えるべく開発されたAIやアンドロイドが、生みの親である人間に対して牙をむく。行き過ぎた科学の発展に警鐘を鳴らすコンセプトは、古くよりサイエンス・フィクションの世界で好まれ多用されてきた。そういう意味において、本作はキラー・ドール系ホラーであると同時に、マイケル・クライトン監督の『ウエストワールド』(’73~’76)シリーズおよびそのテレビリメイク『ウエストワールド』(‘16~’22)、ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』(’84~)シリーズなどの系譜に属するSFスリラー映画でもあるのだ。
持ち主を守るというミーガンの強い使命感が狂気へと…!
主人公は大手玩具メーカーに勤務し、最先端のハイテク技術を駆使した子供向けのオモチャを開発する技術者ジェマ(アリソン・ウィリアムズ)。目下のところ彼女が秘密裏に取り組んでいるのは、史上初の完全自律型ロボット人形となる「第3型生体アンドロイド(Model 3 Generative ANdroid)」、略してM3GAN(ミーガン)である。しかし、この極秘プロジェクトを知った上司デヴィッド(ロニー・チェン)は激怒。目先の利益にばかり囚われた彼は、ライバル企業との価格競争に打ち勝つべく廉価商品の開発を最優先させ、成功するかどうか定かでない高額なミーガンの研究開発を中止させてしまう。
そんな折、ジェマの姉夫婦がスキー旅行中に交通事故で死亡。ひとりだけ生き残った幼い姪ケイディ(ヴァイオレット・マッグロウ)をジェマが引き取ることとなる。動物や子供はどちらかというと苦手。そもそも人付き合いが得意ではなく恋愛とも縁遠いジェマは、寝ても覚めてもオモチャのことで頭がいっぱいの仕事人間だ。大好きだった姉の代わりにケイディを育てたいという気持ちは強いが、しかしどうやって彼女と接していいのか分からないし、仕事だって山積みである。仕方なくケイディにタブレットを与えて仕事するジェマだが、しかしそれは育児放棄も同然。少なからず罪悪感は拭えない。
そこで彼女に問題解決の糸口を与えてくれたのが、大学時代に開発した遠隔操作型ロボット、ブルースである。仕事部屋に飾ってあったブルースを見つけ、こんなオモチャがあったら他のオモチャなんて一生要らない!と喜ぶケイディ。そこでジェマは一念発起してミーガンの開発を再開。部下のコール(ブライアン・ジョーダン・アルバレス)やテス(ジェン・ヴァン・エップス)の協力を得て、いよいよ念願のAI人形ミーガンを完成させる。頑丈なチタン素材で骨組みが形成され、人間とソックリなシリコン製の肌で覆われたミーガンは、生体工学チップを搭載した高度な知能を持つ人型ロボット。自ら物事を考えて喋ったり行動したりする能力を持つばかりか、学習機能によって常に進化と成長を続けていく。その役割は子供にとって最良の友となり、親にとって最大の協力者となること。子供の世話やしつけをミーガンに任せることで、親は仕事や家事に専念できるのだ。
試作品に与えられた使命はケイディを守ること。両親の死後ふさぎ込んでいたいたケイディはミーガンのおかげですっかり明るくなり、肩の荷が下りたジェマはプロジェクトの成功を確信。上司デヴィッドや経営陣も賛同し、全社を挙げてミーガンの売り出しに力を注ぐことになる。だがその一方で、あまりにも密接なケイディとミーガンの間柄に、児童セラピストのリディア(エイミー・アッシャーウッド)は「このままだとケイディはミーガンをオモチャではなく保護者だと見なしてしまう」と警鐘を鳴らし、部下のテスも「ミーガンは親の支援役であって代役じゃない。子供との触れ合いが減るのは危険だ」と危惧する。
実際、ケイディは周囲の大人よりもミーガンを信頼して精神的に頼り切るようになり、ミーガンもまたケイディを守るという使命を全うするべく極端な行動に出ていく。やがて、ケイディの周辺で相次ぐ不可解な死亡事故。大切なケイディを傷つけようとする相手を、ミーガンが文字通り「排除」していたのだ。そのことに気付いたジェマは、ミーガンの危険な暴走を止めようとするのだが…?
CGをなるべく排したミーガンの特殊効果にも要注目
監督に起用されたのは、世界各国のホラー&ファンタジー系映画祭で受賞したニュージーランド産ホラー・コメディ『ハウスバウンド』(’14)のジェラード・ジョンストーン監督。『マリグナント 狂暴な悪夢』(’21)や『死霊館のシスター 呪いの秘密』(’23)でも組んだ脚本家アケラ・クーパーと原案を書いたジェームズ・ワンは、当初より恐怖とユーモアの要素を併せ持つブラック・コメディ路線を意図しており、その点においてジョンストーン監督は理想的な人材だったという。確かに、ミーガンが突然ミュージカルのように歌い始めたり、クネクネとした奇妙な動きで踊ったり飛び回ったりするシュールな演出はかなりオフビート。だいたい、主人公ジェマが勤める玩具メーカーのファンキという社名だって、実在するアメリカの有名な玩具メーカー、ファンコの明らかなパロディだ。ジェマが開発したファンキのヒット商品ペッツが、昨今世界中でブームのラブブになんとなく似ているのは、まあ、奇妙な偶然みたいなものであろう。
そのジョンストーン監督曰く、本作は「21世紀の子育てについての倫理を問う物語」だという。我が子の相手をしている余裕のない多忙な保護者が、決して教育に良くないと分かっていながらも、ついついスマホやタブレットを与えてしまうのと同じように、お友達AI人形のミーガンを姪っ子ケイディに与えてしまうジェマ。本来ならば子供と向き合って成長を促すべきは、保護者であるジェマの大切な役割であるはずなのだが、しかし忙しさにかまけてその任務を怠ったがために、とんでもなく手痛いしっぺ返しを食らってしまうことになる。
あくまでもテクノロジーは人間の生活を便利に支えるもの。そこに依存してしまうことで様々な弊害が生じることは想像に難くない。ましてや、現実世界の様々な場面で既にAIが活用されている昨今、昔であれば空想科学の領域に過ぎなかったハイテク人形の暴走も、21世紀の現在では「そう遠くない未来に起きうる脅威」として強い説得力を持つ。そう、我々は既にSFの世界を生きているのだ。そういう意味で、ちょっとシャレにならない物語。だからこそ、ブラックなユーモアの要素が必要だったのかもしれない。
もちろん、己の使命に忠実すぎるがゆえに災いを招いていく狂気のAI人形、ミーガンの強烈なキャラクターも本作が成功した大きな要因であろう。もちろん、完全自律型の人型ロボットなどまだ現実には存在しないので、本作に出てくるミーガンも特殊効果の賜物。ただし、監督や製作陣の方針としてプラクティカル・エフェクトにこだわっており、アナログとハイテクを組み合わせたアニマトロニクスの技術が駆使されている。CGは主にワイヤーなど余計なものを除去するため使用。シーンごとにミーガンの上半身や腕など幾つものパーツが用意され、それを技術者たちが手動装置や無線機を用いて操作している。なので、表情の変化や目の瞬きなどもCG加工ではなく機械操作。ただし、ミーガンが飛んだり跳ねたり踊ったりする場面は、物理的にアニマトロニクスでは表現が不可能であるため、撮影当時11歳の子役兼ダンサー、エイミー・ドナルドがミーガンのマスクやカツラを被って演じている。
主演はアメリカで一世を風靡したHBOの女性ドラマ『GIRLS/ガールズ』(‘12~’17)でブレイクし、映画では『ゲット・アウト』のヒロイン役で知られる女優アリソン・ウィリアムズ。しかし圧巻なのは、予期せぬ事故で両親を失った少女ケイディを演じている子役ヴァイオレット・マッグロウだ。もともと「型にはまらない子供」であるため、両親の判断で学校へ通わず自宅学習していたケイディ。ただでさえ繊細で気難しい性格の少女が、両親の死による深いトラウマと悲しみを抱え、それゆえ全てを受け入れてくれる「親友」のミーガンに依存してしまう。その複雑な心情を演じて実に見事だ。■
『M3GAN/ミーガン』© 2023 UNIVERSAL STUDIOS. All Rights Reserved.
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トッド・フィールド16年振りの監督復帰作にして、ケイト・ブランシェット史上最高傑作!『TAR/ター』
2025.09.17
松崎まこと
映画監督のトッド・フィールドが、そのオファーを受けたのは、新型コロナのパンデミックが始まった頃だった。それは、クラシック音楽や指揮者を題材とするものであれば何でもいいという、至極漠然とした内容の依頼だった。 フィールドには、ずっと考えていたキャラクターがあった。それは、「子どもの頃に何が何でも自分の夢を叶えると誓うが、叶った途端、悪夢に転じる」という人物。クラシックの指揮者ならば、「ピッタリ」と思えた。 脚本を書き始めると、ある女優の顔がいつも思い浮かぶようになった。そして毎朝、椅子に座って執筆を進める際には、呟いた。「ハイ!ケイト、おはよう」と。彼の意中の人は、ケイト・ブランシェットだった。 ブランシェットは、『アビエイター』(2004)でアカデミー賞の助演女優賞、『ブルージャスミン』(13)で主演女優賞のオスカーを獲得している、現代の大女優。フィールドとは10年ほど前に出会って、主演作の企画を進めたが、諸般の事情で実現に至らなかった。 その際の打合せで、フィールドは知った。ブランシェットは一俳優のレベルを遥かに超えて、映画全体を理解する、フィルムメイカーのような視点を持っていることを。フィールドは彼女のことを、「我々の時代の偉大な知識人の一人」であると認識した。 フィールドは、元々は俳優。ウディ・アレンやスタンリー・キューブリックの作品に出演後、21世紀に入って監督デビューした。 第1作は『イン・ザ・ベッドルーム』(2001)、続いては、『リトル・チルドレン』(06)。この2作でフィールドは、アカデミー賞脚色賞にノミネートされた。 しかしそれから十数年。映画化を試みた企画は数々あれど、すべてが流れてしまっていた。 今回の脚本は、3ヶ月で書き上げた。しかし、ブランシェットが主役を受けてくれなかったら、きっと「作ることはなかった」と言う。 届いた脚本を読んだブランシェットからは、即座に「出演OK」との連絡が来た。こうしてフィールドの、映画監督としての空白期間が、更に伸びることは避けられたのだった。 ブランシェットが演じる主人公の名前を、そのままタイトルにした、本作『TAR/ター』(2022)は、こうしてトッド・フィールド16年振りの新作として、世に放たれることになった。
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リディア・ターは、もうすぐ50歳。世界的な交響楽団ベルリン・フィル初の女性首席指揮者を務め、“マエストロ”と呼ばれる 彼女は、“EGOT”。テレビのエミー賞、音楽のグラミー賞、映画のオスカー(アカデミー賞)、舞台のトニー賞のすべてを受賞している、数少ない人物の内の1人である。 ベルリン・フィルで唯一録音を果たせていない、マーラーの「交響曲第5番」を、遂にライブ録音し発売する予定が控える。自伝の出版も、間もなくだ。 多忙なターを、公私共に支えるのは、オーケストラのコンサートマスターでヴァイオリン奏者のシャロン。彼女はターの同性の恋人で、養女を一緒に育てている。 ターのアシスタントは、副指揮者を目指すフランチェスカ。ターの厳しい要求に、懸命に応えていた。 そんな時に、ターがかつて指導した若手指揮者クリスタが自殺を遂げる。彼女はターに性的関係を強要され、去って行った者だった。ターはクリスタが指揮者として雇用されるのを妨害するメールを、各所に送っていた。それらのメールは素早く消去したが、時同じくしてターは、夢とも現ともつかない、幻聴や幻影に襲われるようになる。 そんなターは新たに、ロシア人の新人チェロ奏者オルガに心惹かれるようになる。彼女を取り立てるような、ターの言動や行動に、周囲はザワつく。 忠実だと思われたフランチェスカだったが、新たな副指揮者に選ばれなかったことから、ターを裏切る。そしてターのセクハラやパワハラがマスコミで取り上げられ、ネットで炎上するようになる。 クリスタの両親からは告発され、パートナーのシャロンは、養女と共に去っていく。ターは窮地に追い込まれるが…。
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フィールドは、クラシック音楽界に実在する人物や団体、実際の事件や根深い権威主義、性差別をベースにして、脚本を執筆した。監修を務めたのは、高名な指揮者のジョン・マウチェリ。「指揮者は何を考えているか」の著者で、レナード・バーンスタインと親交が深かったことでも知られる。バーンスタインは、アメリカを代表する“マエストロ”で、本作ではターの師匠だったという設定になっている。 準備期間は、コロナ禍の真っ最中だったことから、逆に十分な余裕ができた。実際に撮影に入る9ヶ月前から、フィールドとブランシェットは、ディスカッションを行った。「脚本に登場する人間関係はどれほど取引的なものなのか?」「登場人物全員が力構造に対して無言を貫いているのではないか?」「人は偉大な人物の物語を見るのは好きだが、その人たちが転落していく姿も同じくらい楽しめるものなのか?」等々。こうして、リディア・ターの人物像が、鮮明になった。 フィールド曰くターは、「…芸術に人生を捧げた結果、自分の弱みや嗜好をさらけ出すような体制を築き上げてしまったことに気づく。彼女はまるで全く自覚がないかのように、周囲に自分のルールを強要する」。しかし、「自覚していたとしても、非道は許されない」というわけだ ブランシェットが、役作りの本格的準備に入ったのは、2020年9月。実在の女性指揮者たちに関する文書や映像を、漁った。それと同時に、ターはベルリン・フィルで指揮するアメリカ人という設定なので、オーストラリア出身のブランシェットは、ドイツ語とアメリカ英語のマスターに、勤しんだ。 ピアノと指揮は、プロフェッショナルから本格的に学んだ。ブランシェットは子どもの頃に、ピアノを習っていた。10代半ばに練習をサボったのがバレた際、ピアノの先生から、「あなたはピアニストではなく、俳優だと思う」と言われたことがあったという。ピアノについては、「いつかまた」と思ってはきたが、結局はこの機会まで「映画のためでないと」できなかったというのも、まさに“俳優”と言えるかも知れない。本作に登場するすべての演奏シーンは、ブランシェット本人が演じている。
クランク・インまで、1年足らず。実はその間、『TAR/ター』とは別に、2本の出演作の撮影があった。 ブランシェットは、昼間にそれらの撮影を終えた後、夜になると、フィールドに電話を掛けてくる。そしてその後、役作りのための各レッスンに挑んだのだった。フィールドが言うように、彼女は「独学の達人」であり、ターが「25年かけて身に付けたであろう見事な技術」を、1年足らずで「やってのけた」わけである。 ブランシェットは、夫で劇作家のアンドリュー・アプトンと共に、母国オーストラリアで最も権威がある劇団「シドニー・シアター・カンパニー」の芸術監督を務めていたことがある。こうした権力の座に就いた経験も、ターの役作りに寄与する部分が、少なくなかったという。 2021年8月、遂にクランク・イン!ブランシェットは、オーケストラを指揮するシーンから、撮影に入った。コンサートホールは、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地で撮影。ロケ地は、ベルリン、ニューヨークと、東南アジア。 ブランシェットの“独学”は続き、1日の撮影が終わると、「ピアノに直行するか、ドイツ語とアメリカ英語の指導を受けに行くか、あるいは指揮棒の振り方を教わりに」出向いた。また撮影がない日には、スタントマンが運転する8台の車に囲まれながら、時速100キロで滑走する練習を積んだ。
ターの私生活のパートナーで、ヴァイオリン奏者のシャロン役には、ドイツからニーナ・ホス。ターのアシスタント、フランチェスカ役は、フランス人のノエミ・メルランが演じた。 映画の後半、ターの心を泡立たせる存在となる、ロシア人チェロ奏者オルガ役に、フィールド監督は、「ロッテ・レーニャとジャクリーヌ・デュ・プレを合わせたような人」を望んだ。 ロッテ・レーニャは、1920年代から30年代にかけて、ナチス台頭前のドイツのミュージカル舞台で活躍し、「ワイマール文化の名花」と謳われた、オーストリア出身の歌手で女優。映画ファンの中には、『007』シリーズ第2作『ロシアより愛をこめて』(1963)で彼女が演じた、強烈な悪役ローザ・クレッブを思い浮かべる方が少なくないだろう。 ジャクリーヌ・デュ・プレは、国民的な人気を得ながら、不治の病のため早逝したイギリスの女性チェロ奏者。伝記映画『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』(1998)では、エミリー・ワトソンが演じている。 オルガ役のオーディションには、多数の演奏家と俳優が参加した。選ばれたのは、実際にチェロ奏者として活動し、本作が俳優デビューとなる、ソフィー・カウアー。ロンドン郊外に住む、中流家庭出身の19歳だった。 フィールドは彼女のことを当初、オルガとは似ても似つかないと感じたが、演技を始めると、「彼女こそオルガだった」という。 イギリス人のカウアーは、ロシア訛りをYouTubeでマスターして、オーディションに臨んだ。そして役に選ばれた後も、演技への理解を深めるために、YouTubeを活用。名優マイケル・ケインの指導映像を参考にした。また彼女は、これ以上にない手本である、ニーナ・ホスやブランシェットの演技を、自分の撮影がない時もセットに来て、ずっとウォッチしていた。
ブランシェットはター役について、「…もうすぐ50歳で、人生において物理的にも抽象的な意味でも重要な変換期にいます。また、どの指揮者も未だかつて成し遂げたことのない野望も成し遂げようともしていますが、その時点でアーティストであり続ける唯一の方法は、そこから降りることだと悟ります」と語っている。 実際に様々なトラブルや軋轢が噴出することで、ターは名門ベルリン・フィルのTOPの座から降りざるを得なくなる。未見の方にはネタバレにもなるので詳しくは触れないが、ラスト、アジア某国でターが指揮する、ある趣向の演奏会の描写を観て、彼女が栄光の座から滑り置ちた象徴的なシーンと捉える方も少なくないだろう。 ブランシェットも脚本で初めて読んだ時、そのラストを、「なんて悲しいシーンなのか」と思った。しかしいざ撮影してみると、想像していたのとまったく逆で、「生命力にあふれた高揚感」を味わった。そして、「この結末こそ始まりである」と感じたという。 監督の解釈も、ブランシェットと同様で、ターはまだ、「自分の“楽器”を持っている」というものだった。
さてトッド・フィールドの16年振りの監督作となった『TAR/ター』は、完成してみると、「ケイト・ブランシェット史上最高傑作」と絶賛を集め、彼女に4度目となるゴールデン・グローブ賞、ヴェネチア国際映画祭女優賞、全米・ニューヨーク、ロサンゼルスの各批評家協会賞等々をもたらした。 アカデミー賞では、主演女優賞はもちろん、作品賞・監督賞・脚本賞・撮影賞・編集賞の計6部門でノミネートされた。しかしこの年のアカデミー賞は「エブエブ」旋風が吹き荒れ、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022)が、7部門もの大量受賞。その煽りを喰らって、ブランシェットもフィールドも、残念ながらオスカーを手にすることはできなかった。 しかし『TAR/ター』は、クラシック最高峰の楽団指揮者を最高の俳優が演じる、極上の音楽物であり、人間心理の“闇”を暴いた、背筋も凍るサイコ・サスペンスとして、観る者を強く揺さぶる作品。文字通りの「ケイト・ブランシェット史上最高傑作」として、一見の価値ありなのは、間違いない。■
『TAR/ター』© MMXXII Focus Features LLC. All rights reserved.
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『ドミノ』=ハイコンセプトな心理スリラーの成立
2025.08.08
尾崎一男
「この作品のストーリーとタイトルは、ヒッチコック監督の『めまい』から着想を得ている。『ドミノ』のアイデアは、ロバートが“ヒッチコック風の映画を作りたい”と言ったことから始まったんだ。彼は“もしヒッチコックのキャリアが続いていたら、次にどんな作品を手がけていただろう”と考えたんだ」(※1)
レヴェル・ロドリゲス(『ドミノ』作曲家。ロバート・ロドリゲスとプロデューサーの実子)
◆SF大作から、ウェルメイドな特殊能力映画へ
ハリウッドが持つ資本力と高度なテクノロジーを最大限に活かし、日本の人気コミックを原作とする『アリータ:バトル・エンジェル』(2020/以下『アリータ』)を手がけた監督ロバート・ロドリゲス。ジェームズ・キャメロン(『アバター』シリーズ)が長年抱え続けてきた企画を実現させ、デジタルシネマの第一人者としてキャメロンの希求に応えたロドリゲスだったが、そんな彼が次回作に選んだ本作『ドミノ』は、『アリータ』とはじつに対照的な、小規模で実写ベースの心理スリラーだ。
だがプロットと物語は、かなりツイストの利いたものになっている。ベン・アフレック演じるオースティン警察の刑事ダニー・ロークは、3年前に7歳の娘ミニーが行方不明になり、自責の念を抱え続けていた。 ある日、そんな彼のもとに銀行強盗が計画されているというタレコミが入り、ダニーはその捜査に加わる。だが、現場に現れた謎の男(ウィリアム・フィクナー)を主犯と断定して追い詰めると、同行した警官が暗示をかけられたようにお互いを撃ち殺し、男は屋上から飛び降り姿を消してしまうー。
ダニーは逃走した人物の素性を知るべく、タレコミを入れた占術師ダイアナ(アリシー・ブラガ)に助けを求める。高度な読心能力を持つ彼女によれば、その謎の男はレブ・デルレーンといい、「ヒプノティクス」と呼ばれる精神操作で他者を意のままに操る、ダイアナと同じ秘密政府機関に所属していたというのだ。
映画はこうした出だしに始まり、ダニーは特殊能力で人を操る、脅威的な犯罪者との戦いを強いられていく。その過程で現実と錯覚の境界を揺さぶる世界へと踏み込み、彼は「現実そのものが仕組まれた幻なのでは?」という疑念へと追いやられていく。
◆『めまい』に触発されて生まれた企画
本作のアイディアは、ロドリゲスがアルフレッド・ヒッチコックの古典的ミステリー『めまい』(1958)の1996年復元版を観たことが着想の起点だと語っている。同作は高所恐怖症の元刑事が、死んだ恋人とそっくりな女性に執着し、現実と虚構の狭間で憔悴していくサスペンスのマスターピースだ。ロドリゲスは35mmフィルム2倍の撮像領域を用いて高画質を得る「ヴィスタヴィジョン」を再現した高精細映像バージョンで『めまい』に触れ、創造力を大いに刺激されたのだ。
事実、『ドミノ』は『めまい』と、テーマやドラマ構造において似た点を持つ。主人公の認識の歪みや、幻想と現実の錯綜、失った愛する者への執着など、まさしく同じものを共有している。 しかしいっぽうで、『ドミノ』はロドリゲスらしさを強く主張する。たとえばストーリー前半の展開が後半にかけ、展開が意外な方向へと転じていく本作の構造は、彼が1996年に発表した『フロム・ダスク・ティル・ドーン』を彷彿とさせるものだ。本作も前半が犯罪スリラー、そして後半が吸血鬼ホラーとジャンルを越境していくサスペンスアクションで、『ドミノ』成立の布石として関係性を指摘できる。さらに視野を拡げれば、限られた制作条件をアイディアと表現力でカバーする姿勢は、7000ドルという低予算で制作された快作アクション『エル・マリアッチ』(1992)に通底するものだ。
なにより現実と見紛うバーチャル領域に誘導し、主人公を翻弄するこの映画の世界観そのものが、デジタルのマジックで我々をあざむくロドリゲスの演出スタイルを換言したものといえるだろう。
◆ヒッチコックの嫡流、デ・バルマと共有する世界
それにしても、この『ドミノ』の、巧妙に人をサプライズへと導く手の込みようは尋常ではない。主役のダニー・ローク刑事を演じるベン・アフレックは、今やバットマン/ブルース・ウェインを当たり役に持つ人気俳優であり、おそらく誰もが本作で、彼は悲壮なヒーローを最後までまっとうするものと信じて疑わないだろう。いっぽうダニーを翻弄するトリックスターとして存在感を放つウィリアム・フィクナーは、『ダークナイト』(2009)でジョーカーにシマを荒らされるマフィアの構成員(表向きは銀行マン)が印象的で、その風体にはやがうえにもヴィランのタッチが染み付いている。こうした俳優のパブリックイメージも『ドミノ』の、物語を反転させる高等トリックの成立に一役買っているのである。
さらに面白いことに、『ドミノ』はヒッチコックはもとより、氏の嫡流であるサスペンスの巨匠ブライアン・デ・パルマの諸作と似たテイストを共有している。たとえば娘を誘拐されたことに脅迫観念を抱くダニーのキャラクター像は、デ・パルマが『めまい』に触発されて手がけた『愛のメモリー』(1976)の主人公マイケル(クリフ・ロバートソン)に同種の傾向が見られるし、政府の秘密機関が特殊能力者を手札にしようとたくらむ本作の中心的プロットは、デ・パルマが名優カーク・ダグラス主演で撮った超能力スリラー『フューリー』(1992)と異曲同工な印象を与える。むろんロドリゲスがこれらのテイストを拝借したのではなく(引用の意図は少なかれあったのかもしれないが)、ヒッチコックを創造の親とする彼らの作品が同じ轍を踏むところ、それは宿命的であり、作品がそう深掘りできる要素を含んでいるのを指摘したまでのことだ。
また前述でフィクナーの名を出す関係上『ダークナイト』に触れたが、同作の監督クリストファー・ノーランがハイコンセプトな諸作を連投してきたことが、ロドリゲスの先鋭的なたくらみに観客がすんなりと入り込めるベースを作っている。時間をさかのぼる編集で事件の真相に迫っていく『メメント』(2000)や、順行時間と逆行時間勢力の衝突を描いたタイムSF『TENET テネット』(2020)など、こうした先行者たちの野心的な試みが、奇異極まる『ドミノ』の存在を正当化させるのだ。偶然にも時空の歪みを捉えた同作の視覚表現が、夢の争奪戦を描いたノーランのスパイアクション『インセプション』(2010)のいくつかを連想させ、前掲のような論証への展開をうながしていく。
◆なぜ『ドミノ』なのか?
ちなみに、この映画の原題は先に触れた、人の心を操る「ヒプノティクス」(催眠)が本来のタイトルで、『ドミノ』は日本で独自につけられたものだ。ポスタービジュアルではベン・アフレックの背後にドミノ倒しの画像があしらわれており、それが影響して『ドミノ』が原題だと思っている人も少なくない。ご丁寧にも、このドミノ倒しの映像は劇中にも登場し、相手の心を圧倒的な能力で支配するヒプノティックを、ドミノ効果を持ち出して解説までしている。
しかも、このドミノは物語のサプライズ的な要素を含んでおり(それに関してここでは詳述を控えたい)、原題のわかりにくさをカバーする目的とはいえ、じつに秀逸な邦題だ。 なにより、この『ドミノ』というタイトルは、文頭のレヴェル・ロドリゲスが語るところの、本来のタイトルの目的を破壊することなく換言している。いわく、
「ヒッチコックは常に印象的な一語タイトルを得意としていた。『白い恐怖“Spellbound”』(1945)『めまい“Vertigo”』『サイコ“Psycho”』(1960)のようにね。「ヒプノティクス“Hypnotic”」というタイトルは彼にとって、すぐに浮かんだ素晴らしいアイデアだった。ただ問題は、ロバートがそのタイトルが何を意味するのか、それを必死に考えなければならなかった点だ」(※2)
(※1)(※2)“Hypnotic” Composer Rebel Rodriguez on Scoring The Robert Rodriguez/Ben Affleck Head-Trip Thriller(https://www.motionpictures.org/2023/05/hypnotic-composer-rebel-rodriguez-on-scoring-the-robert-rodriguez-ben-affleck-head-trip-thriller/)
『ドミノ』©2023 Hypnotic Film Holdings LLC. All Rights Reserved.
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現代の巨匠イーストウッド、監督生活50年のメモリアル『クライ・マッチョ』
2025.07.25
松崎まこと
ハリウッドの生きる伝説、クリント・イーストウッド。今年5月で、95歳となった。 俳優デビューは1955年。もう、70年も前の話だ。 暫し不遇の時を過ごした後、TVの西部劇シリーズ「ローハイド」(59~65)でブレイク。その後はヨーロッパに渡って、セルジオ・レオーネ監督の“マカロニ・ウエスタン”『荒野の用心棒』(64)『夕陽のガンマン』(65)『続・夕陽のガンマン』(66)の、いわゆる“ドル箱3部作”で、主演俳優の座に就く。 ハリウッド帰還後は、ドン・シーゲル監督の薫陶を受け、最大の当たり役でシリーズ化された『ダーティハリー』(71)などへの出演で、押しも押されぬ大スターとなる。 そして、『ダーティハリー』に主演する直前には、サイコスリラーである、『恐怖のメロディ』(71)で、監督デビューを飾った。 監督として“巨匠”と称されるようになるのは、『許されざる者』(92)以降。この作品と12年後の『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)で、2度に渡って、アカデミー賞の作品賞・監督賞を受賞している。 監督生活50年にして、40本目の監督作(別の監督名がクレジットされているが、実質はイーストウッドが演出した作品やTVドラマなども含めると、40数本とカウントされる場合もある…)と謳われたのが、主演も兼ねた、本作『クライ・マッチョ』(2021)である。
実はこの作品が、イーストウッドの監督・主演作として世に出るまでには、長きに渡る紆余曲折があった。 はじまりは1970年代前半。N・リチャード・ナッシュが執筆した、「マッチョ」というタイトルの脚本だった。しかし売り込み先の映画会社に相手にされず、ナッシュはやむなく、「クライ・マッチョ」というタイトルに変えて小説化。75年に出版した。 これを読んで感銘を受けたのが、プロデューサーのアルバート・S・ラディ。『ゴッドファーザー』(72)などで知られる彼が、映画化権を獲得するに至った。 ラディが最初に、イーストウッドの元に『クライ・マッチョ』の企画を持ち込んだのは、1980年頃のこと。イーストウッドは、「登場人物の人間関係」や主人公であるマイク・マイロの「落ちぶれ具合」が気に入り、そんな主人公が、人生を取り戻すチャンスを得るのに、惹かれたという。 しかしこの役を演じるには、50歳の自分はまだ若すぎると、判断。自らは監督に専念して、主演にロバート・ミッチャム(1917~97)を迎えることを、提案した。しかしこのプランは、やがて立ち消えに。 その後『クライ・マッチョ』は、91年にロイ・シャイダー(1932~2008)主演で製作を開始したが、頓挫。2011年には、カリフォルニア州知事の任期を終えたアーノルド・シュワルツェネッガー(1947~ )の俳優復帰作として準備が進められるも、シュワちゃんの不倫・隠し子スキャンダルが祟って、中止の憂き目となった。
それでも映画化が諦めきれなかったラディの元に、1本の電話が入ったのは、2019年。「あの脚本、まだ手元にある?」その声の主は、イーストウッドだった。 最初のオファーから40年が経って、齢90を迎えんとしていた、イーストウッド。「今ならこの役を楽しんで演じられる」と、思ったのだという。 イーストウッドの監督・主演で、遂に映画化が実現することとなった。オリジナル脚本をできるだけ活かすという判断がされ、それ故にメインの時代設定が、1980年となった。 とはいえ、監督の意向を汲んでの、ある程度のリライトは必要となる。オリジナルを書いたナッシュは、2000年に87歳で亡くなっていたため、白羽の矢を立てられたのが、ニック・シェンク。 イーストウッド組には、『グラン・トリノ』(08)『運び屋』(18)に続いて、3度目の参加となるシェンク。彼は期せずして(?)、イーストウッドが自らの監督作で“老人”を演じた、非公式な三部作の、共通の書き手となってしまった。
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1980年のアメリカ・テキサス。 かつてロデオ界のスターだったマイク・マイロは、競技本番での落馬や妻子の事故死など、重なる不幸もあって、いまや落魄の身。孤独な独り暮らしを送っていた。 そんな時マイロは、かつての雇い主で牧場経営者のハワードから、頼まれごとをする。今はメキシコに住む、別れた妻レタに引き取られた14歳の息子ラフォを、テキサスまで連れて来て欲しいという内容だった。 一歩間違えば、“誘拐犯”。しかしハワードに恩義のあるマイロは、断ることができなかった。 ラフォは、男の出入りが激しい母から逃れ、闘鶏用のニワトリ“マッチョ”と、ストリートで生活していた。そんな経緯から、猜疑心や警戒心が強く、迎えに来たマイロに対して、なかなか心を開かない。 そんな2人の、テキサスへの旅が始まった。国境へと向かうも、警察の検問を避け、レタの放った追っ手を躱すために、田舎町へと立ち寄る。 暫しこの地に身を隠すことを決めた2人は、食堂を営む女性マルタと知り合う。そして、何かと世話を焼いてくれる彼女とその家族と、交流を深める。 この町でマイロは、野生の暴れ馬を馴らす仕事を得る。彼は馬の調教を通じて、自分の知識と経験を、ラフォへと惜し気もなく伝える。2人の絆は、ぐっと深まっていった…。 このままこの地に落ち着くのも、悪くない。そんな気持ちも芽生えた2人が、国境を超える日は?
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一言で表せば、「老人と少年のロードムービー」である本作は、イーストウッドの様々な過去作を、想起させる作りとなっている。 まずは中年のカントリー歌手とその甥の旅を描く、『センチメンタル・アドベンチャー』(82)。年輩の者が若者に教えを施す、師弟関係を描いた作品としては、『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』(86)『ルーキー』(90)など。血の繋がりのない寄る辺なき者たちが集って、“疑似家族”を構成していく物語としては、『アウトロー』(76)や『ブロンコ・ビリー』(80)。 “師弟もの”と“疑似家族”のミクスチャーである、『ミリオンダラー・ベイビー』(04)『グラン・トリノ』(08)は、もちろんだ。特に白人の年配者がエスニックの若者を鍛える構図は、『グラン・トリノ』が最も近いかも知れない。 付け加えれば、旅の男マイロと田舎町に暮らすマルタにロマンスが芽生える辺りには、『マディソン郡の橋』(95)を思い起す向きもあるだろう。 マイロがこんなセリフを吐くのにも、イーストウッド過去作とのリンクを感じる。「マッチョってやつは過剰評価されている。人生にはそれより大事なものがある。それに気づいた時には遅すぎるんだ」 イーストウッドは、かつて一線級のアクションスターとして、“マッチョ”に類した役どころを散々演じてきた。しかし歳を重ねるにつれて、それを裏返したような作品を、多く手掛けるようになった。このセリフは、そんな本人の述懐のようで、実に味わい深い。 因みに本作は、イーストウッドが亡きドン・シーゲルとセルジオ・レオーネに捧げた“最後の西部劇”『許されざる者』以来という、“乗馬シーン”がある。実際に馬に跨るのは30年振りだったという、イーストウッドだが、「あぶみに足をかければ、感覚は戻ってくるものだよ」と、悠然たる構えでチャレンジしている。 とはいえ、このシーンの撮影初日には、スタッフ全員が興奮したというのも、無理はない。ファンにしてみても、「感涙もの」である。
主人公マイロと旅をする14歳の少年ラフォ役に抜擢されたのは、長編映画出演は初めてだった、エドゥアルド・ミネット。はるばるメキシコシティからやって来て、何百人も参加したオーディションを勝ち抜いた。 ミネットは、乗馬の経験はなかったが、トレーニングを受けて、あっと言う間にマスターしたという。 マイロの元雇い主で、息子を連れてくることを頼むハワード役には、高名なカントリー歌手で、映画出演も多いドワイト・ヨーカム。イーストウッド曰くヨーカムには、「馬の扱いに慣れている雰囲気がある」とのこと。 田舎町の食堂の女主人マルタには、メキシコ人女優のナタリア・トラヴェンが、起用された。 タイトルロールである、ニワトリのマッチョは、11羽の調教された雄鶏が演じている。それぞれに得意技があり、あるトリは人の手に乗るシーン、あるトリは、合図と共に襲いかかるシーンといった風に、使い分けられた。 撮影はコロナ禍真っ最中の、2020年後半。イーストウッド組の常連スタッフを集め、あらゆる感染対策を講じて、行われた。ニューメキシコ州をメキシコに見立てた、ロケ撮影がメインだった。 そんな中で、イーストウッドと言えば…の“早撮り”で事は進められた。プロデューサーも兼ねるイーストウッドとしては、“早撮り”は、予算を安く上げるという効果もあるが、それ以上に撮影現場に於いて、「勢いを殺ぎたくない」「やる気やエネルギーを絶やしたくない」という、イーストウッド一流の演出術である。 ラフォ役のミネットはイーストウッドに、「監督の希望通りに演技する」と伝えたという。しかしそれに対する回答は、「いや、君の好きなように、心地良いと思う方法でやってくれ」というものだった。メキシコの新人俳優は“巨匠”から、自分自身でラフォ役を掘り下げる自由を与えられたのだ。 ドワイト・ヨーカムはイーストウッドについて、「…撮り直しを好まないと聞いていたけど、僕のアドリブや思い付きを大歓迎してくれた」と、コメントしている。
・『クライ・マッチョ』撮影中のクリント・イーストウッド監督
本作は逃走劇でもある筈なのに、追っ手が間抜けで弱すぎることもあって、サスペンスはほぼゼロ。またイーストウッド作品には付き物だった、暴力もほとんど登場しない。 食い足りなさを感じる向きもあるかも知れないが、イギリスの「アイリッシュ・タイムズ」紙に掲載された、次の評論が本質を言い表している気がする。「ほとんどなにもせずにすべてを表現できる彼の才能は、年齢を追うごとに磨きがかかっている」 本作が最後の作品かと言われたイーストウッドだったが、94歳の昨年、本作とはガラっとタッチを変えて、これも十八番と言える“絶望シネマ”調のサスペンス『陪審員2番』(2024)を発表した。今度こそ引退と言われているが、まだまだ嬉しい“裏切り”を待ちたい。■
『クライ・マッチョ』© 2021 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved
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『フェイブルマンズ』と3人の映画監督
2025.07.02
尾崎一男
◆スピルバーグの半自伝作品
2022年にハリウッド最大のヒットメーカー、スティーヴン・スピルバーグが発表した映画『フェイブルマンズ』は、彼の長い監督生活の起点に触れる“自伝的要素“を含んだ作品であり、それを支えた家族の物語だ。スピルバーグのアバターともいえる主人公サミー・フェイブルマン(ガブリエル・ラベル)は、母ミッツィ(ミシェル・ウィリアムズ)から買い与えられた8ミリキャメラで、小規模ながらも映画を手がけていく。そして夢を支援する彼女と、現実的な父バート(ポール・ダノ)との間で板挟みになりながら、サミーはさまざまな人との出会いや経験、そして創作活動を経て成長していくのだ。両親の離婚問題や、自身のルーツに依拠する不当ないじめなど深刻なエピソードを交えながら、単なるパーソナルな成功談ではない、ひとりの青年の青春ストーリーとして、映画は広い共感性へと通じていく。もちろん、その過程においてドラマチックな瞬間があり、映画は151分と長尺ながら、ひとときも観る者を飽きさせることはない。
◆ジョン・フォードとの邂逅
稀代の天才監督は、なぜムービーキャメラを手にして映画の世界を目指したのか——? 作品はあくまでフィクションを建て前にしているが、ストーリーの軌跡や人物関係はスピルバーグの実人生に極めて忠実なものだ。ただその中で、あたかも創作であるかのようなエピソードが、本作のクライマックスとして置かれている。それが偉大な映画監督、ジョン・フォードとの出会いだ。
(以下『フェイブルマンズ』の結末に言及するので、鑑賞後にお読みいただくのが望ましい)
映画業界での働き口を求め、売り込みの手紙をありとあらゆるスタジオに送りつけたサミーは、CBSテレビジョンからの返信を頼りに『OK捕虜収容所』(第二次大戦中のナチス捕虜収容所を舞台にしたシットコム・コメディ)の共同製作者であるバーナード・ファイン(グレッグ・グランバーグ)に会いに行く。そして彼から、第三助手として雇おうかと打診されるのだ。ところが、やや反応が鈍かったサミーにファインは、「本当は映画がやりたんだろ。そうだ、向かいの部屋に史上最高の映画監督がいる」 と伝え、彼をその部屋へと通していく。
いったい「史上最高の映画監督」が誰なのか、サミーは釈然としないまま座って待機していると、背後にあるフレーム入りのポスター群が、その人物をゆっくりと特定していく。『駅馬車』…『我が谷は緑なりき』…『男の敵』…『捜索者』…『三人の名付親』…『静かなる男』…『怒りの葡萄』…『黄色いリボン』そして『リバティ・バランスを射った男』…。
それらを目で追い、高揚するサミーの気持ちを寸断するかのように、アイパッチを目にあてた男が入ってくる。そう、ジョン・フォードだ。秘書はサミーに向かって、「(会話は)5分ならいいそうよ、1分で終わるかもしれないけど」とうそぶき、フォードとの対面を急かす。
そのときのフォードは葉巻を吸い、威嚇的な態度でサミーを一瞥するが、壁にかかっている自作のスチールを指して「地平線はどこにある?」とサミーに質問する。すると彼は「下です」と回答し、別のスチールを指して同様の質問をしたフォードに「上です」と答える。するとフォードは、
「いいか、よく憶えておけ。地平線をいちばん下に置けば面白い画になる。そして地平線を上に置いても面白い画になる。だが地平線を真ん中に置いたら、クソつまらない画になるんだ。わかったか? わかったらとっとと出ていけ!」
と、手荒に助言を放ったのだ。
この『フェイブルマンズ』における印象的なやりとりは、同作において極めて突飛で、フィクション性を強く感じさせるエピソードだ。ところが、じつは全てが事実だというのだから驚かされる。スピルバーグは2011年、イマジン・エンターテインメントのオフィスでおこなわれた映画『カウボーイ & エイリアン』のプロモーションで、同作プロデューサーのブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、そして監督のジョン・ファヴローらと会談し、ジョン・フォードとの最初の出会いを語った。
それによると、スピルバーグはフォードと実際に遭遇したさい、彼は酔って顔全体にキスマークをつけ、オフィスに入って来たところを秘書が慌てて追い、ティッシュで拭き取ったという。そしてフォードは机の上に足をおろし、スピルバーグに「それで、キミは映画監督になりたいと聞いたが?」と訊ね、壁に飾られた絵画から地平線を見つけるよう要求したという。この一連の流れから明らかなように、フォードとの邂逅は、ほぼ映画でそのままに再現されていることがわかるだろう。
ただし細部で違いがあり、スピルバーグがフォードと会ったのはサミーと同じ18歳ではなく、15歳のときであり、さらにそれはファインの紹介によるものではなく、自身のいとこの一人が、たまたま彼の友人の友人の友人であったことから、このありそうもない出会いを得たという。 そもそもスピルバーグの業界入りは、『フェイブルマンズ』で描かれたように正統な手順を踏んでおらず、彼を語る上で伝説化されている。映画監督を志望していたスピルバーグは、ユニバーサル・ピクチャーズの観光ツアーに参加した後、トイレ休憩のときにバックロットに潜入し、半年以上そこで働いているふりをしたという。そのことが布石となり、後年に彼はユニバーサル映画の社長だったシド・シャインバーグに自作の短編映画『アンブリン』(1968)を気に入られ、テレビ監督として同スタジオと契約を交わしたのだ。
◆デヴィッド・リンチ出演の背景
こうしたジョン・フォードとの出会いをさらに説得力あるものにしているのが、異例ともいる配役だ。スピルバーグはフォード役に、カルト映画の帝王デヴィッド・リンチをオファーしたのだ。
もともとスピルバーグは、フォードのキャスティングに友人のベテラン俳優をあてようと考えていた。しかし脚本を担当したトニー・クシュナーの夫がリンチの起用を提案し、それをスピルバーグは素晴らしいアイディアだと称賛したのである。そして自らリンチに連絡をとり、実現の運びとなったのだ。ところがリンチは自作以外の出演には消極的だったため、スピルバーグはリンチと共通の友人である女優ローラ・ダーンに救いを求め、リンチの説得にあたった。その狙いが功を奏し、リンチはスナック菓子のチートスと、衣装の撮影2週間前からの提供など変わった条件と共に出演を承諾。こうして、あの示唆に富む最後の5分間が誕生したのである。
リンチは英「エンパイア」誌の電話インタビューにおいて、オファーを受けた理由を以下のように語っている(※1)。出演を渋ったことに対しては、「わたしは演技に関して、意図的に距離を置いてきたんだ。ハリソン・フォードやジョージ・クルーニーのような俳優たちに、キャリアのチャンスを与えるべきだと考えていたからね」 とし、それでも出演した決め手を訊かれると、当該シーンが本当に気に入ったからだと述懐している。「ジョン・フォードなら、若い才能に指導をほどこすために、さまざまな知識や経験を活用できただろう。しかし彼は「地平線」のレクチャーを選んだんだ。じっさい画面中央に地平線があるのは、本当にクソつまらない画になるからね」
残念なことに、このインタビューから約一年後 リンチは78歳でこの世を去り、『フェイブルマンズ』は彼の最後のスクリーン出演となった。訃報が遺族からSNSを通じて発表された後、スピルバーグはアンブリン エンターテインメントを通じ、リンチへの感謝を込めた以下の追悼文を発表している(※2)。
「私はデヴィッドの作品の大ファンでした。『ブルー・ベルベット』『マルホランド・ドライブ』そして『エレファント・マン』――。これらは、手作り感あふれる独特の世界観で、彼が唯一無二のヴィジョンを持つ夢想家であることを証明しました。『フェイブルマンズ』でジョン・フォード役を演じてもらったとき、私は彼と知己を得たんです。私のヒーローの一人であるデヴィッド・リンチが、私の別のヒーローを演じる――。それはとても現実離れした、まるで彼自身の映画の一場面のような不思議な体験だったんです。世界はこれほどまでに独創的で、ユニークなヴォイスを失うことになってしまいました。しかし彼の映画は既に時代を超えて生き残っており、これからもずっとそうあり続けるでしょう」
スピルバーグはフォードを崇拝すると同時に、同業者としてリンチに関心を寄せていた。その証として、両者の共同作業ともいえる「地平線」のシーケンスに、スピルバーグは二人を立てるようなオチを添えている。フォードに映画制作のヒントをもらったサミーはオフィスを後にすると、意気揚々とした態度でスタジオのバックロットを歩き出す。そのときの彼を捉えたショットが、なんとフォードが「クソつまらない画」と非難しリンチが共感した、真ん中の地平線を捉えていたのである。そしてキャメラは、それに気づいたかのようにあたふたと、地平線が下に来るようフレーム修正の動きを見せるのだ。 この一連の演出には、スピルバーグらしいユーモアと謙遜の姿勢、そして未熟なサミーが失敗を繰り返しながら、先達から学んだことを糧にして映画界での成功を得る、そんな暗示が機能している。ひるがえってそれは、ジョン・フォードという偉大な映画人に尊崇の念を示しているのだ。
そしてデヴィッド・リンチは、そんなフォードが醸す神秘性と威圧的な存在感を、この『フェイブルマンズ』で見事に体現し、「地平線」のエピソードをじつに説得力あるものにした。それにも増して、ガブリエル・ラベルがスティーヴン・スピルバーグを投影したサミーを演じ、リンチがフォードを演じ、それをスピルバーグ本人が演出するという、巡るようなメタ構造を持つシチュエーションとして、本作を“自伝作品”以上の“映画的価値”を持つものへと発展させたのである。■
(※1)https://www.empireonline.com/movies/news/david-lynch-interview-john-ford-fabelmans-exclusive/
(※2)https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1028510489321633&id=100064880730053&set=a.634279698744716
『フェイブルマンズ』© 2022 STORYTELLER DISTRIBUTION CO., LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
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