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グレタ・ガーウィグが、 ファッションドール『バービー』の映画化作品で 謳い上げた、多様性とフェミニズム!
2026.03.13
松崎まこと
1959年に、アメリカのマテル社から発売された、“バービー”人形。現在世界150カ国以上で販売され、これまでに、10億体以上が出荷されている。 “バービー”は、マテル社の創始者のひとり、ルース・ハンドラーという女性が、自分の娘が遊んでいるのを見たことが、きっかけとなって生まれた。娘は、大人の女性を象った紙人形に、自分の将来の姿を想像して、着せ替えを行っていたのである。 これをヒントにルースは、女の子たちが未来の自分を投影できるファッションドールのリリースを思いついた。人形の名は、娘のバーバラの愛称だった、“バービー”とした。“バービー”は、“革命”だった!女児向け人形と言えば、乳幼児型の“ミルク飲み人形”であるという、それまでの常識を、打ち破ったのだ。
本作『バービー』(2023)のオープニングでは、この“革命”が起こる瞬間を、戯画化して描き出す。スタンリー・キューブリック監督の不朽の名作、『2001年宇宙の旅』(1968)にオマージュを捧げる形で。
実は、そうした本作に辿り着くまでには、ハリウッドのご多分に漏れず、短くない歳月を要している。映画化の話は、まずは2009年、ユニヴァーサル・ピクチャーズが発表。それから5年後=2014年に、ソニー・ピクチャーズへと権利が移る。ソニーでも、プロジェクトは遅々として進まず。脚本家や監督が何度も変更される中、バービー役の候補に挙がったのは、コメディアンのエイミー・シューマーや女優のアン・ハサウェイだったと言われる。2018年に、今度はワーナー・ブラザースに映画化権が渡る。そこで、プロデューサーとして参加が決まったのが、マーゴット・ロビー。バービー役に、『ワンダーウーマン』(17)などのガル・ガドットを据える案もあったというが、結局ロビー自身が主演することになった。
そんなロビーが、脚本執筆のオファーを行ったのが、グレタ・ガーウィグ。ガーウィグはその時、監督作『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(19)の編集作業中にして、長男を出産したばかりのタイミングだったという。 ガーウィグはパートナーのノア・バームバックと共に、脚本に取り掛かることとなった。やがて監督も、彼女に決まる。
***** 定番のステレオタイプ・バービーをはじめ、マーメイドバービーや大統領バービー、変てこバービーまで、様々なタイプや職種のバービーが暮らす、“バービーワールド”。あらゆるタイプのケンも居て、彼らはバービーに気に入られたい一心で、日々競っていた。 物語の主人公は、ステレオタイプ・バービー(演;マーゴット・ロビー)。完璧で夢のような毎日を送っていたが、ある時急に“死”を意識し、肌にセルライトができたのに、気付く。 人形である自分の持ち主の女の子に会うことが、問題解決の鍵になると、バービーは知る。人間の暮らす現実世界へと向ったバービーに、定番のケン(演;ライアン・ゴズリング)が、呼んでもないのに同行する。
バービーは、自分の持ち主の女の子サーシャを探し当てる。しかし彼女から、バービー人形がいかに時代遅れなおもちゃであるかを説かれ、ショックを受ける。実はサーシャの母グロリアが、娘のバービー人形で遊ぶようになったことが、バービーに異変が起こった原因だった。バービーの発売元であるマテル社に勤める彼女は、加齢や娘との関係などに不安を抱え、それがバービーへと、伝染したのだった。 一方ケンは、現実世界はバービーワールドとは真逆に、男性が権力を持つ社会であることを知り、影響を受ける。バービーに先んじて、バービーワールドに戻った彼は、そこも男性優位な社会に、変えてしまおうとする。 現実世界でバービーは、マテル社へと招かれる。マテル社もまた、TOPをはじめ重役はすべて、男性が占めていた。 バービーの逃亡を、グロリア母娘が助ける。果してバービーの運命は!?そしてバービーワールドは、一体どうなるのか!?*****
母親がバービーを好きではなかったため、少女時代に、買ってもらうことはなかったという、ガーウィグ。近所の子たちから、お下がりのバービーをもらって遊ぶのが、楽しみだった。 そんな彼女が、ノア・バームバックと脚本を書くに当たって、与えられたネタは、人形だけ。ガーウィグ曰く、料理番組に出演して、「このスニーカーを使っておいしい料理を作ってください」と言われるようなもので、「途方に暮れた」という。 様々なタイプのバービーやケンたちを描くというアイディアが生まれたのは、マテル社との最初のミーティングだった。ガーウィグが、異なるキャラクターについて話し始めると、マテル社側から、「異なるキャラクターはいないよ。女性全員がバービーなんだ」と、言われた。そこでガーウィグは、「もし女性全員がバービーなら、バービーは女性全員ということですよね?」と確認を行い、「Yes」の返事を貰ったのだという。 これは、マテル社がブランドとして、どういう変化を遂げたのかに、大きく関わってくる話。定番の“バービー”人形は、白人で金髪の女性であり、プロポーションが非現実的なことが、折りに触れては批判されてきた。そこでマテル社は、時代に応じる形で路線変更。あらゆる人種の、あらゆる体型の、多様性に満ちたバービーを、次々とリリースする方向へと進んだ。 医師やサッカー選手、宇宙飛行士、消防士、そして大統領等々、職種的にもバリエーションに富み、近年では、車椅子のバービーやダウン症のバービーなども、登場している。
いわば、アメリカの歴史を反映しながら進化してきたとも言える、バービーの世界を“映画化”するということは、必然的に多様性やフェミニズムを描く作品になる。そうした意味で、『レディ・バード』(17)や『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』で、女性の成長や自立を描いてきたグレタ・ガーウィグは、まさに適任であった。ガーウィグは、メインのケン役には、ライアン・ゴズリングがぴったりだという自信があった。そこで彼に、当て書きをした。ゴズリングには、2人の娘がいて、バービー人形で遊んでいるのは、よく目にしていたという。娘たちに、「ケンの人形は持ってないのかい?」と問うと、「どこかにあるはず」と、適当に返事をされた。そしてその後、庭の腐ったレモンの下に、ケンが転がっているのが、見つかった。そこでゴズリングは、決意した。「僕がケンの物語を伝えないといけない!」と。
ガーウィグは、本作を監督するに当たって、ピーター・ウィアー監督に電話を掛けた。ウィアーの監督作で、ジム・キャリーが主演した『トゥルーマン・ショー』(98)は、主人公の生活の場が、すべて映画のセットのようになっているという、非現実的な世界。それを本作の参考にしたいと、思ったからである。ウィアーは撮影技術について、アドバイスしてくれた。2022年3月のクランク・インに向かって、バービーランドのセットはすべて、ロンドンのワーナー・ブラザース・スタジオ・リーブスデンに組まれた。ガーウィグは、バービーが誕生した1959年に因んで、バービーランドで繰り広げられるダンスは、50年代=ハリウッド黄金時代のミュージカルを彷彿とさせるものにしたいと考えた。そこでデザインは、当時のスタイルを踏襲。手描き風の、敢えて人工的な背景を用意した。 バービーランドは、あらゆるものがピンクという世界。そのセットを組むために、一時的に世界規模で、ピンクの塗料が品薄になるという事態を引き起こした。バービーの住むドリームハウスに関しては、マテル社製の現物を研究。壁も窓もなく、外から丸見えとなっている。 ガーウィグはセットに関して、大人っぽいデザインになりそうになると、「もっと子どもが考えそうな、夢の中みたいな感じにして」とダメ出し。軌道修正を図ったという。
撮影現場は和やかに、楽しいムードに包まれていたというが、マーゴット・ロビーが、プロデューサー兼主演として、マテル社に対して、譲らなかったことがある。それは、マーゴット演じるバービーの呼称。マテル社は、「ステレオタイプ・バービー」という呼び方に難色を示し、「オリジナル・バービー」に変えるよう、申し入れてきた。このリクエストを、マーゴットは拒否。「ステレオタイプ」という、否定的なニュアンスが込められている呼称にこそ、重要な意味があるとして、これを通したのである。グレタ・ガーウィグも、あるシーンに関して、自分の主張を断固通した。それは、現実世界にやって来たバービーが、老女と出会うエピソード。着せ替え人形のバービーは、基本的に歳を取ることはない。年齢を重ねた人間の女性と初めて出会って、「美しい」と心の底から感動する。唐突に挟まれるこのシーンが、「他のどのシーンにも繋がらない」ので、尺調整のために切っても問題ないと考えた映画会社は、「カット」を、提案した。それに対してガーウィグは、カットしたら、「この映画が何についての作品なのかわからなくなってしまう」と、主張。監督として、「映画の核心」だったこのシーンを、守り抜いたのである。因みに老女を演じたのは、2度のアカデミー賞に輝く、衣裳デザイナーのアン・ロス。当時90歳を超えた伝説的人物に、バービーが対峙して心を動かすシーンには、ハリウッドの歴史に対するリスペクトも籠められていた。 バービーは、2023年7月に全米公開となり、この年最大のヒット作となった。全世界興行収入は、10億ドルを突破!女性監督の作品としては、史上初の快挙となった。 マーゴット・ロビーとグレタ・ガーウィグ。2人の女性映画人は名実ともに、現在のハリウッドをリードする存在となった。■
『バービー(2023)』(C) 2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved
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選択の代償を問う、ネオ・ノワールの臨界点――『悪の法則』
2026.02.25
尾崎一男
◆欲望の入口と、取り消せない過ち
2013年公開の『悪の法則』は、成功者が“ほんのささやかな選択”によって破滅へ転落する過程を、冷酷に描いた作品である。主演のマイケル・ファスベンダーが演じるのは、テキサスで成功を収めた弁護士。美しい婚約者ローラ(ペネロペ・クルス)との結婚を控え、裕福で洗練された生活を送っている。社会的地位も愛も手にした彼が、なぜ破滅へと向かっていったのかー? その発端はあまりに軽率で、あまりに人間的な欲望によるものだった。
すべてにおいて満ち足りていたはずの弁護士は、さらなる富を求め、彼はクラブ経営者ライナー(ハビエル・バルデム)の口利きで、メキシコからのコカイン密輸計画に出資する。仲介人ウェストレイ(ブラッド・ピット)は、「麻薬ビジネスに手を出した時点で後戻りはできない」と繰り返し警告する。だが皮肉にも、人に助言を与える立場の弁護士自身が、その忠告を聞き入れなかった。自分だけは例外だと信じ、成功者特有の合理性と自信が、危険を過小評価させていったのだ。
◆作品を支配する喪失の“影”
2012年8月20日、ロンドンで『悪の法則』の撮影に入っていたリドリー・スコットは、ロサンゼルスからの一本の電話を受ける。それは弟トニーの妻から、夫が行方不明だという知らせだった。のちにトニー・スコットはヴィンセント・トーマス橋から身を投げ、自ら命を絶っていたことが判明する。突然の死、そして明確な理由のない別れ。スコットは後年、「人生最悪の週末の始まりだった」と、このことを振り返っている。
トニーは『トップガン』(1986)や『クリムゾン・タイド』(1995)など娯楽性に富んだ作品で知られる、ハリウッド屈指のヒットメーカーだった。兄にとって彼は単なる家族ではなく、映画人生を並走してきた同志でもあった。若き日、霧の立ちこめる丘陵地帯でロッククライミングをしたとき、運動神経に優れた弟が先に崖を登り、ロープを垂らして兄を引き上げたという思い出を、スコットは静かに語っている。力尽きかけた兄を、弟は摩擦で傷ついた手を顧みず支えた。その記憶は、二人の関係そのものを示している。
トニーが遺したメモには、明確な理由が記されていなかったという。数年来、病気と闘っていたことが後に明らかになるが、それが死に直結するものではなかった。なぜ彼が死を選んだのか、兄はいまも完全には受け止めきれていない。
それでもスコットは、9月3日に撮影現場へ戻ることを選んだ。創作を続けること。それが悲嘆と向き合う唯一の方法だったのかもしれない。『悪の法則』は“選択と結果”を描く物語だが、その製作過程もまた選択を余儀なくされた。喪失に沈むのか、映画を完成させるのか……。スコットは後者を選んだ。
本作の脚本を書いたコーマック・マッカーシーは、人間の運命を容赦なく見つめる作家である。スコットは以前から彼の熱烈なファンで、『ブラッド・メリディアン』の映画化を試みたこともあったが、そのあまりの残虐性に断念した経緯を持つ。やがてマッカーシー側から『悪の法則』の脚本が送られてくると、スコットは一気に読み終え、即座に映画化を決意した。構造の緻密さや台詞の力、そして救いのない虚無。それは彼にとって挑むべき世界だったのである。
だが完成した本作は公開後、評価は真っ二つに割れた。難解だ、感情移入できない、まるでフランケンシュタインの怪物のようだ、と苛烈な批評も浴びた。いっぽうで、その冷酷さと哲学性を支持する声もあった。後年は再評価の機運が高まり、本作はネオ・ノワール的な「神話」として捉えられるようになったのである。
前述したように、喪失を抱えたまま完成した本作には、世界を突き放す視線が宿る。劇中、登場人物たちはひっきりなしに語り続けているが、お互いを本当に理解することはない。言葉は交わされても、救済がもたらされることはない。それはあたかも、理由のわからない死に直面した者の“心象風景”を見るかのようだ。
弁護士の選択が破滅を招いたように、現実でも人は選択を迫られる。しかし人生には、理由の説明されない出来事がある。そこに因果を見出せないとき、人はどう振る舞うのか。スコットは創作を続けることを選んだ。映画という虚構を通じて、理不尽と対峙する道を。
また本作にはブラック・コメディ的な側面もある。ライナーの饒舌さや、ファム・ファタール(悪女)として機能するマルキナ(キャメロン・ディアス)の過剰なまでの象徴性、そして至妙に哲学的な会話劇。だがその滑稽さはやがて凄惨な現実へと呑み込まれていく。ウェストレイの公開処刑、恋人の無残な運命。観客は物語的な正義を期待するが、提示されるのは因果の冷徹な帰結だけだ。
思えばこの映画の製作過程そのものが、因果の物語だった。撮影中に弟を失いながらも、スコットは完成へと舵を切った。理由なき死と向き合いながらも、なお物語を語り続ける。その姿勢は、作品に漂う虚無と響き合う。世界は理解を拒み、善意を裏切り、理屈を超えて動く。それでも人は選択し続けるしかない。
『悪の法則』はフィクションだ。しかし、そこに描かれる麻薬戦争の残酷さや非情な報復の暴力は、現実世界の延長線上にある。司法も正義も届かない領域が存在するという事実を、本作は過剰なまでに可視化する。観る者は本能的にその世界を拒絶するだろう。しかし同時に、自らの日常が決して無縁ではないことに気づくはずだ。。
甘美な夢だけが映画体験ではない。優れた映画は、私たちの倫理観を揺さぶり、見たくない現実を突きつける。『悪の法則』は、バッドテイストをエンターテインメントとして消費させることなく、むしろ悪の構造を剥き出しにし、その中に私たち自身の影を映し出す。最後に残るのは救済ではなく選択の重さであり、人は自由であるがゆえに結果から逃れられない。その冷厳な真理こそが、本作が到達した“悪の法則”である。■
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撮影監督ロジャー・ディーキンス、伝説に挑む ―『ブレードランナー 2049』
2026.01.20
尾崎一男
◆続編を引用しない設計――『ブレードランナー 2049』撮影思想の出発点
『ブレードランナー 2049』の撮影設計において、同作の撮影監督であるロジャー・ディーキンス(ASC, BSC)が最初に確立したのは、この続編を1982年版『ブレードランナー』の視覚的延長として扱わないという明確な方針だった。連続性がある以上、オリジナル作品のビジュアル言語を参照することは避け難いが、ディーキンスはそれを意識的に排除し、「2049年という時間を新たに構築する」ことを優先している。
この判断はスタイル論ではなく、制作工程全体に関わる設計思想といえるだろう。オリジナルがフィルム撮影や実景合成、ミニチュアや光学処理によって成立していたのに対し、『ブレードランナー 2049』は完全なデジタル撮影とVFX統合を前提とした時代の産物だ。ディーキンスは両者を無理に接続することを拒み、技術的条件の異なる映画を、視覚的ノスタルジーによって結びつけることを回避した。
プリプロダクション段階では、監督であるドゥニ・ヴィルヌーヴ、プロダクションデザイナーのデニス・ガスナーと密に連携し、建築物を中心としたリファレンス収集が行われた。北京の高密度都市、ロンドンのブルータリズム建築、バービカン・センタやサウスバンク・センターといった実在の構造物は、未来的造形のヒントというより、管理社会における空間の圧迫感と人間の孤立を可視化するためのモデルとして機能している。
ディーキンスの過去作を振り返ると、『ノーカントリー』(2007)では風景が暴力を語り、『プリズナーズ』(2013)では閉塞した郊外空間が心理的圧力として作用し、『ボーダーライン』(2015)では国境地帯の地形そのものが物語の緊張を生成していた。いずれも共通しているのは、環境を説明的に撮るのではなく、フレーミングと光によって物語構造を支えるという姿勢だろう。
『ブレードランナー 2049』においてもその方法論は踏襲されているが、スケールは飛躍的に拡張されている。未来都市を俯瞰するショットは必要最低限に抑えられ、人物に対する中距離〜近距離のショットが視覚構造の中心を占めている。巨大な建築物は背景として存在するものの、それはスペクタクルを誇示するものではなく、キャラクターを囲い込み、分断する装置として機能している。
このように『ブレードランナー 2049』の撮影設計は、続編でありながら過去作を参照とせず、ディーキンス自身が長年培ってきた「空間と人物の関係性を撮る」という思想を、最大規模のSF映画に適用する試みとして出発している。本作の革新性は、技術的選択以前に、この設計段階での明確な切り分けにあったと言えるだろう。
◆撮影主導型ワークフロー――フォーマット選択と照明設計の実際
『ブレードランナー 2049』の撮影における最大の特徴は、VFX比率の高い大作でありながら、ポストプロダクションに主導権を委ねない撮影主導型ワークフローが徹底されている点にある。ロジャー・ディーキンスは本作においても、撮影段階で画調と質感を確定させるという原則をいっさい崩していない。
カメラシステムにはArri Alexa XT Studio、Alexa Plus、Alexa Miniが併用され、すべてオープンゲートで収録された。一般的な2.39:1前提の撮影とは異なり、本作では1:1.55のフルフレーム比率を基準とし、IMAX版(1:1.70〜1:1.90)への展開を内包したフレーミングが行われている。これは単なる上映フォーマット対応ではなく、画面内の垂直方向情報を積極的に活用するための設計であり、巨大建築と人物のスケール差を強調する効果を生んでいる。
Arri 65の使用も検討されたが、最終的には見送られている。ディーキンスは、センサーサイズの大きさがもたらすスペクタクル性よりも、被写体との距離感、レンズ運用の自由度、機動性を優先した。レンズにはArri/Zeiss Master Primeが選択され、絞りを開きすぎないことで被写界深度を一定以上に保ち、セットの空間構造を画面内に残している。これは人物を背景から切り離すのではなく、環境に埋め込むという本作の視覚方針と直結している。
照明設計においては、美術セットと一体化した建築的ライティングが採用された。ウォレス社内部のシークエンスでは、10kWフレネルを円環状に配置した回転式照明装置、あるいは水面反射やディマーチェイサー制御を組み合わせることで、無窓空間に擬似的な太陽光の移動を再現している。光源は常にフレーム外に存在し、壁面や床に投影される反射と影のみが画面に現れる。この設計により、巨大空間に時間軸とリズムが与えられ、単調さが回避されている。
DIT(デジタル・イメージング・テクニシャン)の運用においても、ディーキンスは過度な柔軟性を排している。使用されたLUT(ルックアップテーブル)は『ボーダーライン』で構築したものを基礎とし、コントラストと彩度を抑えた状態で現場モニターに反映された。これにより、撮影・照明・美術・VFXの各部門が完成形に近い画を共有しながら作業を進めることが可能となった。ポストプロダクションでのカラーグレーディングは補正的な役割にとどまり、ルックの再構築は行われていない。
このように『ブレードランナー 2049』の撮影プロセスは、デジタル技術を前提としながらもフィルム時代的な「現場完結型」の思想を高度にアップデートしたものだと言える。ディーキンスは本作において、最新の撮影環境を用いながら、撮影監督が映像設計の最終責任者であるという立場を明確に示しているのだ。
◆空間と色彩の統合設計――VFX最小化思想と『1917 命をかけた伝令』への技術的連続
『ブレードランナー 2049』におけるロジャー・ディーキンスの最大の成果は、VFX依存度の高いSF大作において、実写空間を最終成果物として成立させる統合設計を完成させた点にある。本作のビジュアルは撮影・美術・照明・VFXが並列に存在するのではなく、撮影を基軸として厳密に階層化されている。
ディーキンスは一貫して、グリーンスクリーン使用の最小化を主張した。ラスベガスの荒廃都市に巨大彫像群、ウォレス社内部やKのアパートといった主要ロケーションの多くは、物理的セットや実景背景幕、そして実照明を基礎として構築されている。CGは主に建築物の延長、遠景の補完、ホログラム表現といった不可避領域に限定され、光源としての役割はほとんど担っていない。この方針により、VFXは撮影された光を拡張する存在に留まり、光そのものを生成する立場から排除されている。
色彩設計においても、ポストでの自由度は意図的に狭められた。ラスベガス・シークエンスにおける極端なアンバー〜オレンジ支配は、照明用ゼラチン(Moroccan Pink、Golden Amber等)とレンズ前フィルターによって撮影段階で決定されている。ディーキンスはこの画調を完成形として現場で確定させ、カラーグレーディングでは輝度と階調の整理にとどめた。これはデジタル撮影時代において極めて異例なアプローチであり、撮影監督の判断をポスト工程よりも上位に置く明確な意思表示でもある。
ホログラム表現、とりわけジョイ(アナ・デ・アルマス)の存在感は本作のVFX思想を象徴している。ディーキンスは透明度や発光量を極限まで抑え、「存在しないことがわかる程度」に留める設計を選択した。実際の女優をセット内で撮影し、背景プレートとの合成を前提にすることで、照明条件の一致と質感の統一が確保されている。これは、後年におけるデジタル・スティッチングにも通じる考え方であり、VFXを成立させるために撮影を合わせるのではなく、撮影の論理にVFXを従属させる姿勢が一貫している。
この思想は『1917 命をかけた伝令』(2019)において、さらに先鋭化する。疑似ワンショット/ワンテイク構造を成立させるために、照明、カメラワーク、そして美術や演出が完全に同期する必要があった同作では、ディーキンスはVFXを縫合装置としてのみ使用した。『ブレードランナー 2049』で確立された、現場で完結する露出管理や色彩決定、照明リズムの設計がなければ、『1917 命をかけた伝令』の撮影は成立しなかったと言っていい。
『ブレードランナー 2049』は、ディーキンスのキャリアにおける到達点ではない。フィルム的な思考をデジタル環境で再定義し、撮影監督の職能を再び映画制作の中核へ引き戻したという点で、本作は明確な転換点である。視覚的な壮観さの背後には、徹底した工程管理と撮影という行為への揺るぎない信念が存在している。それこそが、本作が単なる続編ではなく、21世紀映画撮影の指標として語り継がれる理由なのだ。■
『ブレードランナー 2049』(C) 2017 Alcon Entertainment, LLC. All Rights Reserved.
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騎士道精神の不都合な真実と家父長制の理不尽を描く巨匠リドリー・スコットの傑作歴史ドラマ『最後の決闘裁判』
2025.12.25
なかざわひでゆき
中世ヨーロッパに存在した「決闘裁判」
今となっては俄かに信じ難い話かもしれないが、かつて中世のヨーロッパには「決闘裁判」なるものが存在した。証人や証拠が足りないために通常の裁判では解決困難な告訴事件の判定を、原告と被告による生死を賭けた決闘に委ねようというのだ。もちろん、統治者のお墨付きを得た正式な裁判である。その背景にあったのは、「真実を知っているのは神だけであり、神は必ずや正しい者に味方をする」というキリスト教の概念だ。なので、決闘の勝敗=神の審判。勝てば正義と栄誉と神の祝福を得られるが、しかし負けた方はたとえ一命を取りとめても死罪は免れない。冷静に考えれば、なんとも理不尽な裁判システムである。それゆえ、中世後期になるとカトリック教会やフランス国王、神聖ローマ皇帝が相次いで決闘裁判を否定し、14世紀以降はほとんど姿を消すことになる。
フランスで最後に決闘裁判が行われたのは1386年12月29日のこと。由緒正しい名家出身の騎士ジャン・ド・カルージュの妻マルグリットが、夫の旧友にして領主の覚えめでたい家臣ジャック・ル・グリに強姦されたと訴えたのである。予てよりル・グリの分不相応な出世に腹を立てていたカルージュは、なんとしてでも彼に罪を償わせようと告訴するも、ル・グリ本人は頑なに否定しており、なおかつ決定的な証拠も証人にも事欠く。そのうえ、領主のピエール伯爵がル・グリの味方に付いていた。通常の裁判では勝ち目がない。そこでカルージュはフランス国王シャルル6世に直訴し、当時すでに形骸化していた決闘裁判の実施を願い出たのだ。果たして、名家の貴婦人は本当に凌辱されたのか、それとも単なる虚偽なのか。そのセンセーショナルな事件の性質とも相まって、当時のフランスで一大スキャンダルになったという「最後の決闘裁判」を映画化した作品が、巨匠リドリー・スコットの手掛けた歴史ミステリー『最後の決闘裁判』(’21)である。
14世紀フランスで実際に起きたレイプ事件、その真相とは…?
決闘裁判へと至るまでのあらましを、ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)と妻マルグリット(ジュディ・カマー)、ジャック・ル・グリ(アダム・ドライヴァー)という当事者たち3人の、それぞれの視点から多角的に描いていく本作。つまり、バージョンは3つだが基本的な物語はひとつだ。まずは、その土台となる物語の流れを振り返ってみよう。
イングランドとの百年戦争(1337年~1453年)の真っ只中にあったフランス王国。リモージュの戦い(1370年)でお互いに助け合った貴族ジャン・ド・カルージュとジャック・ル・グリは、ル・グリがカルージュの息子の名付け親になるほど親しい間柄だった。祖父の代からベレン要塞の長官を務める由緒正しい名門一族出身のカルージュと、地位も名誉もない家柄ゆえ一度は聖職に就こうと考えたル・グリ。しかし恵まれた生い立ちのカルージュは妻子を病のため相次いで失い、そのうえ折からの凶作が原因で財政もひっ迫してしまう。反対に新たな領主・ピエール伯爵(ベン・アフレック)に気に入られたル・グリは宮廷内で順調に出世。このままでは自らの立場が危ういと考えたカルージュは、コタンタン半島への出征に参加して武勲を立て、若くて聡明で美しい貴族の娘マルグリットと再婚する。
マルグリットの父親ロベール・ド・ティボヴィル(ナサニエル・パーカー)は、かつてイングランド側についたことのある裏切り者。それゆえ、フランス国王に絶対的な忠誠を誓った誇り高き従騎士カルージュと娘の結婚は汚名を削ぐにうってつけだ。反対にカルージュにとっても、莫大な持参金が付いてくる裕福なマルグリットは理想の結婚相手だった。ところが、その持参金に含まれているはずだった土地の一部が、以前に借金のかたとしてピエール伯爵に取り上げられ、あろうことかル・グリに褒美として与えられていたことを知ったカルージュは激怒し、母親ニコル(ハリエット・ウォルター)の忠告にも耳を貸さず土地を取り戻すためピエール伯爵に対して訴訟を起こす。だが、相手はフランス国王とも親戚関係にある領主。当然ながらカルージュは敗訴してしまい、以前から折り合いの悪かったピエール伯爵との関係はさらに悪化、親友だったル・グリとも疎遠になってしまう。
1382年にカルージュの父親が亡くなると、ピエール伯爵の指名でル・グリがベレム長官に就任。憤慨したカルージュは再びピエール伯爵を訴えるも、またもや敗訴してしまった。1384年にカルージュの友人クレスパン(マートン・チョーカシュ)に息子が誕生。妻マルグリットを伴って祝宴に駆け付けたカルージュは、そこで再会したル・グリと友情を確かめ合ったことで両者の緊張関係は解消。さらに、彼はスコットランド遠征でナイトの称号を授かり、マルグリットと共に母親ニコルが暮らすカポメスニルの城を訪れる。
それは1386年1月18日。カルージュが遠征の給金を受け取るためパリへ向かい、義母ニコルも所用のため召使たちを連れて外出、マルグリットがひとりで留守番をしていたところへ、従僕ルヴェルを伴ったル・グリがカポメスニルの城へやって来る。クレスパンの祝宴で初めて会って以来、マルグリットに横恋慕していたル・グリは、カルージュの留守を狙って彼女に会おうと考えたのである。知り合いゆえル・グリを城の中へ入れたマルグリット。そんな彼女をル・グリは無理やり強姦する。当時の貴族社会では名誉と面子が何よりも重要。女性が性暴力被害に遭っても口をつぐむのが常だったが、しかし泣き寝入りを拒んだマルグリットは帰宅した夫に事実を告白。だが、十分な証拠もなければ有力な証人もいないことから、カルージュは決闘裁判を求めて動き始める…。
3つの異なる視点から浮かび上がる男たちのエゴと踏みにじられる女性の尊厳
以上が、決闘裁判へと至る客観的な流れだ。第1章ではジャン・ド・カルージュの目から見た真実、第2章ではジャック・ル・グリの目から見た真実、そして第3章ではマルグリットの目から見た真実が描かれ、いずれも事の次第は上記の通りで一緒なのだが、しかし視点が変わることで細部のニュアンスにも変化が生じ、結果として受ける印象が大きく異なってくる。例えば、カルージュ自身の目から見た本人は、真面目で高潔で曲がったことの嫌いな正義の人。若くて美しい妻マルグリットを心より愛し、なかなか後継ぎを授からないことを気に病む彼女を慰める寛大な夫でもある。反対にル・グリは出世のためなら恩を仇で返すような人物。これがそのル・グリの視点となると、カルージュは頑固で嫉妬深くて冗談の通じない愚か者の堅物。騎士たちの間でも人望のない嫌われ者であり、そんな彼を必死で擁護したにも関わらず逆恨みされるル・グリは遊び人だが友情に厚い好人物である。そう、お互いに相手に対する印象と自己認識がまるっきり正反対なのだ。
さらに、マルグリットの視点に移るとカルージュは愛妻家を自負する身勝手で自己中な偽善者、ル・グリは自身の優れた容姿を鼻にかけた軽薄なナルシストにしか過ぎない。それゆえ、マルグリットに横恋慕したル・グリは彼女もまた自分に気があると勝手に勘違いし、それこそ「嫌よ嫌よも好きのうち」のノリでマルグリットをレイプする。人妻の貴婦人ゆえ嫌がるフリをしただけ、本当は彼女だって俺を求めていたはずだと。そして、妻が凌辱されたことを知って激怒したカルージュは、貶められたマルグリットの名誉のためと称して決闘裁判へ挑むわけだが、しかし自分が負ければ妻であるマルグリットも偽証罪で生きたまま火あぶりの刑になることを彼女に隠していた。妻の不名誉を自身の名誉挽回に利用しようとしただけだったとも言えよう。結局のところ、どちらの男性もマルグリットを大切にしているつもりで全く大切にしていない。それどころか、彼らが決闘裁判に挑んだ最大の動機は自らの名誉や自尊心や虚栄心であり、被害者であるマルグリットの存在はすっかり置き去りにされてしまうのだ。
原作は2004年に出版されたカリフォルニア大学教授エリック・ジェイガーのノンフィクション本「決闘裁判 世界を変えた法廷スキャンダル」。600年を経た今もなお真相が不明瞭であり、歴史研究者の間でも諸説ある「最後の決闘」の顛末を、ジェイガーは10年間に渡って詳細にリサーチ。当時の記録文書や年代記ばかりか、財産証明書や建築設計図、古地図などに至るまで、文字通りありとあらゆる歴史的な記録をくまなく調査し、最も真実に近いと思われる仮説を導き出したという。これを読んで映画化しようと考えたのがマット・デイモン。本作は『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』以来となるマット・デイモン&ベン・アフレックの共同脚本作品であり、2人は製作総指揮と出演も兼ねている。
◆『最後の決闘裁判』撮影中のリドリー・スコット(中央)
デイモンが当初より監督に想定し、実際にオファーしたのがリドリー・スコット。なにしろ、デビュー作『デュエリスト/決闘者』(’77)からしてヨーロッパ貴族の決闘ものだったし、アカデミー賞作品賞に輝く『グラディエーター』(’00)や『キングダム・オブ・ヘブン』(’05)、『エクソダス:神と王』(’14)など歴史劇は彼が最も得意とするジャンルのひとつである。しかも、『エイリアン』(’79)や『G.I.ジェーン』(’97)など強い女性を描くことにも定評があり、なおかつ『テルマ&ルイーズ』(’91)を筆頭としてフェミニスト的な視点を持つ作品も少なくない。中世ヨーロッパの封建社会にあって、男性の所有物として扱われた女性の痛みや悲しみや怒りに寄り添った本作の監督として、確かに彼ほど適した人物は他にいないかもしれない。
さらに、デイモンとアフレックは3人目の脚本家として『ある女流作家の罪と罰』(’18)で全米脚本家組合賞などに輝いたニコール・ホロフセナーを起用。黒澤明監督の『羅生門』(’50)をヒントに三つの視点から脚本が構成され、3人の脚本家がそれぞれカルージュ、ル・グリ、マルグリットの視点を担当したのだそうだ。なるほど確かに、男性と女性では普段から見えている世界が違う。女性であるホロフセナーがマルグリットの目に映る真実を描くことは、そういう意味で極めて理に適っていると言えよう。物語の焦点となるのは「誰の言うことが信用されるのか」ということ。そこを軸にして権力と財力がものをいう封建社会の不公平な構造が詳らかにされ、真実よりも名誉や建前が尊重される騎士道精神の不都合な真実が暴かれ、女性の尊厳と人権がないがしろにされる家父長制の理不尽が糾弾される。そして、そうした悪しき伝統の痕跡が、少なからず現代社会にも残っていることに観客は気付かされるはずだ。■
『最後の決闘裁判』(C) 2021 20th Century Studios. All rights reserved.
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まさかのトランプ2期目を予見!?『シビル・ウォー アメリカ最後の日』
2025.11.21
松崎まこと
“シビル・ウォー=Civil War”という言葉は、アメリカでは、奴隷制度廃止などを巡って、1861年から65年に掛けて行われた内戦“南北戦争”を指す。近未来のアメリカが再び、血みどろの“内戦”に突入したという設定の本作『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(2024)の、脚本・監督を担当したのは、イギリス人のアレックス・ガーランド。 彼にとっては、4本目の長編監督作品に当たる本作は、2016年にその発想のオリジンがある。この年アメリカでは、ドナルド・トランプが大統領に当選。イギリスでは、ボリス・ジョンソンらの扇動で、ブレグジット=EU離脱が、国民投票で可決されてしまった。 ジョンソンは後年、イギリス首相の座に就く。それ以外にも、イスラエルのネタニヤフやブラジルのボルソナーロなど、世界各国で強権的なポピュリスト政治家が台頭するようになっていった。 こうした世界の変化に思いを巡らせたガーランドは、2020年頃に本作の脚本を執筆。製作・配給会社のA24に諮ると、すぐに映画化が決まったという。
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強権的な大統領の下で分断が進んだ、アメリカ合衆国。連邦政府から19の州が離脱し、テキサス州とカリフォルニア州の同盟からなる“西部勢力”と、“政府軍”の間で、“内戦”が勃発した。 戦闘は長期化したが、やがて西部勢力がワシントンD.C.への侵攻を窺う情勢となり、大統領が率いる政府軍の敗色は、日に日に濃くなっていく。 戦場カメラマンのリーと相棒の記者ジョエルは、もう14ヶ月間もマスコミの前に姿を現してない大統領への単独取材の計画を立てる。ニューヨークからD.Cまで1,379㌔。リーの恩師である黒人ジャーナリストのサミーと、リーに憧れる若手カメラマンのジェシーを乗せて、車の旅が始まった。 戦火が渦巻くアメリカで、過酷な“内戦”の実相を目撃していく一行。折々危険に曝され、遂には仲間の1人を失ってしまう。 そうした中で、大統領が立て籠もるホワイトハウスに、西部勢力の攻勢と共に、足を踏み入れる瞬間がやってくるが…。
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ガーランドは政治漫画家の息子で、子どもの頃は、父の友人のジャーナリストに囲まれて育った。彼の名付け親も、その内のひとり。 少年時代の経験から、当初はジャーナリストになることを夢見たガーランドは、20歳の頃、世界各地を旅して特派員の真似事をした。彼はそこで見聞きしたことを、ルポルタージュにまとめることを試みたが、失敗。ジャーナリストになることをあきらめた経緯がある。 方向性を変えたガーランドは、小説を執筆。その小説がダニー・ボイルによって、『ザ・ビーチ』(2000)として映画化されたことが縁となって、映画界に身を投じた。ボイル監督の『28日後…』(02)で脚本家デビューを果し、2015年には『エクス・マキナ』で、監督としてもスタートを切った。 そんなガーランドが、日頃強く感じていたのが、「政府とジャーナリズムは本来、両方ともバランスをとる役割があるけれど、共に今は正常に機能していない」ということ。 自由な国には自由な報道が絶対的に必要なのに、今やジャーナリズムには、昔のような力はなくなった。ジャーナリストたちも、必要な存在と見なされなくなってきている。 1970年代には、「ワシントン・ポスト」紙の2人の記者が、“ウォーターゲート事件”の真相を暴いたことによって、ニクソン大統領を、任期途中での辞任に追い込んだ。しかし今や、ニクソンなどより遥かに多くの悪事を為しているであろうトランプに、報道がトドメを刺すことなど、極めて困難な事態となっている…。
本作では、テキサス州とカリフォルニア州が組んで、大統領の圧政=ファシズムに対抗するという構図になっている。アメリカ政治の知識がある方には自明だが、テキサスはいわゆる“赤い州”。現在トランプが支配している共和党が、圧倒的に強い地域。一報カリフォルニアは“青い州”で、トランプと敵対する、野党民主党の金城湯池である。 というわけで現状に鑑みれば、テキサスとカリフォルニアが組んで、ファシズムに対抗するなどという事態は、非常に想像しにくい。ガーランドが敢えてこうした設定にしたのは、観客に特定のイデオロギーを感じさせないためだたったと思われる。 とはいえ強権的な大統領の振舞いは、イヤでもアメリカの現状を想起させる。本作では“内戦”が起こった原因は、直接的には描かれていないが、大統領が何をやったかは、端的に語られる。 まず注目すべきは、この大統領は、現在“3期目”を迎えているということ。アメリカの憲法では、大統領の任期は“2期=8年”までと、明確に定められている。ということは、何らかの手段を以て、憲法を無視する挙に出て、大統領の椅子に居座り続けているということである。 またこの大統領は、FBI=アメリカ連邦捜査局の解体に踏み切っている。即ち政府の暴走や大統領の犯罪的行為を取り締まる機関が、存在しなくなったというわけだ。また連邦国家であったアメリカに於いて、州を跨いでの犯罪捜査が不可能になってしまい、治安の悪化にも繋がっている。 そしてこの大統領は、アメリカ市民への空爆を実施したことが、語られる。アメリカの三権分立は空文化し、大統領が己の保身と抵抗勢力を踏み躙るためには、「何でもあり」の状態になってしまっているのだ。 この作品がアメリカで公開されたのは、昨年=2024年4月。トランプが大統領選2度目の勝利を収める、7ヶ月も前のこと。元々トランプは、“3期目”を目指すことを、折りに触れては滲み出していたが、今年1月に正式に大統領の座に返り咲くと、FBI長官に己の意のままになる者を就け、大幅な人員削減に着手。トランプ関連の捜査を行っていた、スタッフの首切りを実施している。 そしてトランプは、“治安維持”をお題目に、ロサンゼルスやメンフィス、首都ワシントンなど、野党民主党の勢力が強い都市に、次々と州兵を送り込んでいる…。 恐ろしいほどに、トランプ2期目の今のアメリカと、情勢が重なってくるのだ!
本作の主役と言えるのは、戦場カメラマンの2人の女性。ベテランのリー・スミスと、新人のジェシー・カラン。この2人の名は、ガーランドが尊敬する2人の戦場カメラマン、リー・ミランとドン・マッカランに因んでいる。 キルスティン・ダンストは「(本作の)脚本を読んでドキドキ」し、翌日には監督とミーティングを行っている。そしてリーの役を、「絶対に演じたい」、リスペクトするガーランドと「仕事をしたい」と、強く思ったという。 ジェシー役に抜擢されたのは、ガーランド監督のTVシリーズ「DEVS/デヴス」などに出演していた、若手女優のゲイリー・スピーニー。 ガーランド監督は、ジャーナリストを目指していた頃の若き日の自分を、ジェシーのキャラクターに反映。リーのモデルとなったのは、その当時にガーランドが親しくしていた、経験豊富なジャーナリストだという。 撮影現場では、ダンストとスピーニーは、本作に於けるリーとジェシーのように、日々を絆を深めていった。過酷な撮影の中で、スピーニーはダンストの家に行っては、その家族との交流の中で、癒されていたという。 ダンストにとってスピーニーは、「妹のような存在」となり、ある時に友人であるソフィア・コッポラ監督に紹介。それがきっかけとなって、スピーニーはコッポラの『プリシラ』(23)で、プリシラ・プレスリーを演じることとなった。 リーの相棒ジョエル役には、TVシリーズ「ナルコス」で、実在の麻薬王パブロ・エスコバルを演じた、ワグネル・モウラ。黒人の老ジャーナリスト、サミー役は、スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソンが演じた。 さて1シーンだけの出演だが、強烈な印象を残すのは、“虐殺”を主導する正体不明の民兵を演じるジェシー・プレモンス。 彼が放つ一言「What kind of American are you?(お前はどういう種類のアメリカ人だ?)」は、本作を象徴する強烈な名台詞となっているが、一体どんなシチュエーションで吐かれるかは、観てのお楽しみとしておきたい。 実はプレモンスの役は、当初別の俳優が演じることになっていたが、直前に降板。代役に思い悩むガーランド監督に、ダンストが、自分の夫であるプレモンスを、推挙したという流れだった。 撮影5日前に急遽出演が決まったプレモンスは、限りある時間で徹底的にリサーチ。兵士の話を聞きまくったという。因みに彼が掛けている赤いサングラスは、自ら用意した10種類ぐらいのメガネから、現場でピタッとハマったものを選んだという。
ガーランドは、絵コンテなどは用意せず、現場で起こることに即応して、撮影を進めていくタイプの監督。本作では小さな手持ち撮影のカメラを多用したという。 本作の軍事顧問を務めたのは、アメリカ海軍の特殊部隊ネイビー・シールズ出身のレイ・メンドーサ。彼の指導の下、画面に登場する兵士たちは、実際に従軍経験のある者ばかりだった。 クライマックスのホワイトハウス突入のシーンで、監督として兵士役の者たちに伝えたのは、カメラのことは気にしないで「普段通りに行動して」ということだけだったと。セリフも、兵士同士の普段の会話のため、ガーランドは、ドキュメンタリーを撮っているような感覚に陥ったという。 サウンド・デザインで銃器の怖ろしさを表現する工夫を施した本作は、アメリカでは163年前に“南北戦争”が勃発した、2024年の4月12日を選んで、公開。製作・配給のA24作品史上、最高のオープニング興収を樹立し、2週連続で興行ランキング1位を獲得する大ヒットとなった。 日本では大統領選直前の10月に公開となったが、それから1年余。現実を鑑みると、いま観た方が、更にゾッとする展開になっている。■
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』© 2023 Miller Avenue Rights LLC; IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.
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