映画監督のトッド・フィールドが、そのオファーを受けたのは、新型コロナのパンデミックが始まった頃だった。それは、クラシック音楽や指揮者を題材とするものであれば何でもいいという、至極漠然とした内容の依頼だった。
 フィールドには、ずっと考えていたキャラクターがあった。それは、「子どもの頃に何が何でも自分の夢を叶えると誓うが、叶った途端、悪夢に転じる」という人物。クラシックの指揮者ならば、「ピッタリ」と思えた。
 脚本を書き始めると、ある女優の顔がいつも思い浮かぶようになった。そして毎朝、椅子に座って執筆を進める際には、呟いた。「ハイ!ケイト、おはよう」と。彼の意中の人は、ケイト・ブランシェットだった。
 ブランシェットは、『アビエイター』(2004)でアカデミー賞の助演女優賞、『ブルージャスミン』(13)で主演女優賞のオスカーを獲得している、現代の大女優。フィールドとは10年ほど前に出会って、主演作の企画を進めたが、諸般の事情で実現に至らなかった。
 その際の打合せで、フィールドは知った。ブランシェットは一俳優のレベルを遥かに超えて、映画全体を理解する、フィルムメイカーのような視点を持っていることを。フィールドは彼女のことを、「我々の時代の偉大な知識人の一人」であると認識した。
 フィールドは、元々は俳優。ウディ・アレンやスタンリー・キューブリックの作品に出演後、21世紀に入って監督デビューした。
 第1作は『イン・ザ・ベッドルーム』(2001)、続いては、『リトル・チルドレン』(06)。この2作でフィールドは、アカデミー賞脚色賞にノミネートされた。
 しかしそれから十数年。映画化を試みた企画は数々あれど、すべてが流れてしまっていた。
 今回の脚本は、3ヶ月で書き上げた。しかし、ブランシェットが主役を受けてくれなかったら、きっと「作ることはなかった」と言う。
 届いた脚本を読んだブランシェットからは、即座に「出演OK」との連絡が来た。こうしてフィールドの、映画監督としての空白期間が、更に伸びることは避けられたのだった。
 ブランシェットが演じる主人公の名前を、そのままタイトルにした、本作『TAR/ター』(2022)は、こうしてトッド・フィールド16年振りの新作として、世に放たれることになった。

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 リディア・ターは、もうすぐ50歳。世界的な交響楽団ベルリン・フィル初の女性首席指揮者を務め、“マエストロ”と呼ばれる
 彼女は、“EGOT”。テレビのエミー賞、音楽のグラミー賞、映画のオスカー(アカデミー賞)、舞台のトニー賞のすべてを受賞している、数少ない人物の内の1人である。
 ベルリン・フィルで唯一録音を果たせていない、マーラーの「交響曲第5番」を、遂にライブ録音し発売する予定が控える。自伝の出版も、間もなくだ。
 多忙なターを、公私共に支えるのは、オーケストラのコンサートマスターでヴァイオリン奏者のシャロン。彼女はターの同性の恋人で、養女を一緒に育てている。
 ターのアシスタントは、副指揮者を目指すフランチェスカ。ターの厳しい要求に、懸命に応えていた。
 そんな時に、ターがかつて指導した若手指揮者クリスタが自殺を遂げる。彼女はターに性的関係を強要され、去って行った者だった。ターはクリスタが指揮者として雇用されるのを妨害するメールを、各所に送っていた。それらのメールは素早く消去したが、時同じくしてターは、夢とも現ともつかない、幻聴や幻影に襲われるようになる。
 そんなターは新たに、ロシア人の新人チェロ奏者オルガに心惹かれるようになる。彼女を取り立てるような、ターの言動や行動に、周囲はザワつく。
 忠実だと思われたフランチェスカだったが、新たな副指揮者に選ばれなかったことから、ターを裏切る。そしてターのセクハラやパワハラがマスコミで取り上げられ、ネットで炎上するようになる。
 クリスタの両親からは告発され、パートナーのシャロンは、養女と共に去っていく。ターは窮地に追い込まれるが…。

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 フィールドは、クラシック音楽界に実在する人物や団体、実際の事件や根深い権威主義、性差別をベースにして、脚本を執筆した。監修を務めたのは、高名な指揮者のジョン・マウチェリ。「指揮者は何を考えているか」の著者で、レナード・バーンスタインと親交が深かったことでも知られる。バーンスタインは、アメリカを代表する“マエストロ”で、本作ではターの師匠だったという設定になっている。
 準備期間は、コロナ禍の真っ最中だったことから、逆に十分な余裕ができた。実際に撮影に入る9ヶ月前から、フィールドとブランシェットは、ディスカッションを行った。「脚本に登場する人間関係はどれほど取引的なものなのか?」「登場人物全員が力構造に対して無言を貫いているのではないか?」「人は偉大な人物の物語を見るのは好きだが、その人たちが転落していく姿も同じくらい楽しめるものなのか?」等々。こうして、リディア・ターの人物像が、鮮明になった。
 フィールド曰くターは、「…芸術に人生を捧げた結果、自分の弱みや嗜好をさらけ出すような体制を築き上げてしまったことに気づく。彼女はまるで全く自覚がないかのように、周囲に自分のルールを強要する」。しかし、「自覚していたとしても、非道は許されない」というわけだ
 ブランシェットが、役作りの本格的準備に入ったのは、2020年9月。実在の女性指揮者たちに関する文書や映像を、漁った。それと同時に、ターはベルリン・フィルで指揮するアメリカ人という設定なので、オーストラリア出身のブランシェットは、ドイツ語とアメリカ英語のマスターに、勤しんだ。
 ピアノと指揮は、プロフェッショナルから本格的に学んだ。ブランシェットは子どもの頃に、ピアノを習っていた。10代半ばに練習をサボったのがバレた際、ピアノの先生から、「あなたはピアニストではなく、俳優だと思う」と言われたことがあったという。ピアノについては、「いつかまた」と思ってはきたが、結局はこの機会まで「映画のためでないと」できなかったというのも、まさに“俳優”と言えるかも知れない。本作に登場するすべての演奏シーンは、ブランシェット本人が演じている。


 クランク・インまで、1年足らず。実はその間、『TAR/ター』とは別に、2本の出演作の撮影があった。
 ブランシェットは、昼間にそれらの撮影を終えた後、夜になると、フィールドに電話を掛けてくる。そしてその後、役作りのための各レッスンに挑んだのだった。フィールドが言うように、彼女は「独学の達人」であり、ターが「25年かけて身に付けたであろう見事な技術」を、1年足らずで「やってのけた」わけである。
 ブランシェットは、夫で劇作家のアンドリュー・アプトンと共に、母国オーストラリアで最も権威がある劇団「シドニー・シアター・カンパニー」の芸術監督を務めていたことがある。こうした権力の座に就いた経験も、ターの役作りに寄与する部分が、少なくなかったという。
 2021年8月、遂にクランク・イン!ブランシェットは、オーケストラを指揮するシーンから、撮影に入った。コンサートホールは、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地で撮影。ロケ地は、ベルリン、ニューヨークと、東南アジア。
 ブランシェットの“独学”は続き、1日の撮影が終わると、「ピアノに直行するか、ドイツ語とアメリカ英語の指導を受けに行くか、あるいは指揮棒の振り方を教わりに」出向いた。また撮影がない日には、スタントマンが運転する8台の車に囲まれながら、時速100キロで滑走する練習を積んだ。


 ターの私生活のパートナーで、ヴァイオリン奏者のシャロン役には、ドイツからニーナ・ホス。ターのアシスタント、フランチェスカ役は、フランス人のノエミ・メルランが演じた。
 映画の後半、ターの心を泡立たせる存在となる、ロシア人チェロ奏者オルガ役に、フィールド監督は、「ロッテ・レーニャとジャクリーヌ・デュ・プレを合わせたような人」を望んだ。
 ロッテ・レーニャは、1920年代から30年代にかけて、ナチス台頭前のドイツのミュージカル舞台で活躍し、「ワイマール文化の名花」と謳われた、オーストリア出身の歌手で女優。映画ファンの中には、『007』シリーズ第2作『ロシアより愛をこめて』(1963)で彼女が演じた、強烈な悪役ローザ・クレッブを思い浮かべる方が少なくないだろう。
 ジャクリーヌ・デュ・プレは、国民的な人気を得ながら、不治の病のため早逝したイギリスの女性チェロ奏者。伝記映画『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』(1998)では、エミリー・ワトソンが演じている。
 オルガ役のオーディションには、多数の演奏家と俳優が参加した。選ばれたのは、実際にチェロ奏者として活動し、本作が俳優デビューとなる、ソフィー・カウアー。ロンドン郊外に住む、中流家庭出身の19歳だった。
 フィールドは彼女のことを当初、オルガとは似ても似つかないと感じたが、演技を始めると、「彼女こそオルガだった」という。
 イギリス人のカウアーは、ロシア訛りをYouTubeでマスターして、オーディションに臨んだ。そして役に選ばれた後も、演技への理解を深めるために、YouTubeを活用。名優マイケル・ケインの指導映像を参考にした。また彼女は、これ以上にない手本である、ニーナ・ホスやブランシェットの演技を、自分の撮影がない時もセットに来て、ずっとウォッチしていた。


 ブランシェットはター役について、「…もうすぐ50歳で、人生において物理的にも抽象的な意味でも重要な変換期にいます。また、どの指揮者も未だかつて成し遂げたことのない野望も成し遂げようともしていますが、その時点でアーティストであり続ける唯一の方法は、そこから降りることだと悟ります」と語っている。
 実際に様々なトラブルや軋轢が噴出することで、ターは名門ベルリン・フィルのTOPの座から降りざるを得なくなる。未見の方にはネタバレにもなるので詳しくは触れないが、ラスト、アジア某国でターが指揮する、ある趣向の演奏会の描写を観て、彼女が栄光の座から滑り置ちた象徴的なシーンと捉える方も少なくないだろう。
 ブランシェットも脚本で初めて読んだ時、そのラストを、「なんて悲しいシーンなのか」と思った。しかしいざ撮影してみると、想像していたのとまったく逆で、「生命力にあふれた高揚感」を味わった。そして、「この結末こそ始まりである」と感じたという。
 監督の解釈も、ブランシェットと同様で、ターはまだ、「自分の“楽器”を持っている」というものだった。


 さてトッド・フィールドの16年振りの監督作となった『TAR/ター』は、完成してみると、「ケイト・ブランシェット史上最高傑作」と絶賛を集め、彼女に4度目となるゴールデン・グローブ賞、ヴェネチア国際映画祭女優賞、全米・ニューヨーク、ロサンゼルスの各批評家協会賞等々をもたらした。
 アカデミー賞では、主演女優賞はもちろん、作品賞・監督賞・脚本賞・撮影賞・編集賞の計6部門でノミネートされた。しかしこの年のアカデミー賞は「エブエブ」旋風が吹き荒れ、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022)が、7部門もの大量受賞。その煽りを喰らって、ブランシェットもフィールドも、残念ながらオスカーを手にすることはできなかった。
 しかし『TAR/ター』は、クラシック最高峰の楽団指揮者を最高の俳優が演じる、極上の音楽物であり、人間心理の“闇”を暴いた、背筋も凍るサイコ・サスペンスとして、観る者を強く揺さぶる作品。文字通りの「ケイト・ブランシェット史上最高傑作」として、一見の価値ありなのは、間違いない。■

 

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