ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2024.12.05
ティム・バートンとジョニー・デップ アメリカ映画史に残る、パートナーシップの始まり『シザーハンズ』
幼き日から、古いホラー映画が大好き。漫画を描き、ゴジラの着ぐるみを纏う俳優になることを夢見る少年だった。元マイナーリーグの野球選手だった父は、そんな内向的な息子のことが、理解できなかった。 ティーンエージャーの頃、誰とも心を通い合わせることができず、長続きする関係が持てなかった。それはもちろん、家族を含めて。彼は孤独だった。 20代。ディズニー・スタジオのアニメーターになった彼は、ストップモーションアニメや、モノクロ実写のダークファンタジーの短編作品を監督。それがきっかけとなって、26歳の時、実写の長編作品の監督デビューを果す。 その作品『ピーウィーの大冒険』(1985/日本では劇場未公開)は、製作費700万㌦の低予算ながら、4,000万㌦以上の興収を稼ぎ出した。彼=ティム・バートンは、一躍注目の存在となった。 2歳年上の作家、キャラロイン・トンプソンに出会ったのは、次作『ビートルジュース』(88)に取り掛かる、少し前。トンプソンは、『ピーウィーの大冒険』がお気に入りだった。そしてバートンは、彼女が書いた、中絶された胎児が甦る内容のホラー小説に、魅了された。 バートンは、自分の考えていることを他者に伝えることが、至極苦手だった。しかしトンプソンは、そんなバートンが発する曖昧な言葉から、彼の想いを易々と汲み取ってみせた。波長がぴったり合う2人は、姉と弟のような関係になった。 ある時バートンは、バーでトンプソンに、自分が10代の頃に描いた、「手の代わりにハサミを持つ若者」の話をした。骸骨のように痩せた身体で、くしゃくしゃの髪。全身を黒い革で包み、指の代わりに付いた長く鋭いハサミの刃で、近づく者を皆、傷つけてしまう。その目に深い悲しみをたたえた、孤独な若者の話を…。 明らかに、バートン本人が投影されたキャラクターだった。そう感じると同時に、これは映画になると考えたトンプソンは、帰宅するとすぐに、70頁に及ぶ準備稿を書き上げた。 それが本作『シザーハンズ』(90)のベースとなった。 ***** 寒い冬の夜、ベッドに眠る孫娘を、寝かしつける老女。「雪はなぜ降るの?」と孫に聞かれた老女は、「昔々…」と、ある“おとぎ話”を始めた…。 郊外の住宅地に住む主婦ペグは、化粧品のセールスレディ。ある日思い立った彼女は、町はずれの山の上に在る、古城のような屋敷へとセールスを掛ける。 そこに居たのは、両手がハサミの若者エドワード。彼は、以前この屋敷に住んでいた発明家が生み出した、人造人間だった。年老いた発明家は、エドワードの手の完成直前に急逝。それ以来彼は、ひとりぼっちだったのだ。 ペグはエドワードを、不憫に思った。そして我が家へと、連れ帰る。 手がハサミの彼は、食事も思い通りにいかない。しかしそのハサミで、植木を美しく整えたり、ペットのトリミングを行ったり、主婦たちの髪を独創的にカットするなどしている内に、町の人気者となっていく。 エドワードは、ある女性に恋心を抱くようになる。それはペグの娘で、高校ではチアリーダーを務めるキムだった。 アメフト部のスターであるジムと付き合っていたキムは、当初はエドワードのことを疎ましく思う。しかしその優しさに触れる内に、段々と心惹かれていく。 ある時エドワードは、ジムに泥棒の濡れ衣を着せられる。逮捕されても、キムに累が及ばないよう、彼は真実を語らなかった。 それをきっかけに、町の人々はエドワードを避けるようになる。やがて事態はエスカレート。誤解も重なって“怪物”扱いされた彼は、逃亡を余儀なくされ、古城へと帰る。 後を追ったのは、今や彼を愛するキム。そして嫉妬に狂い、銃を携えたジムだった…。 ***** トンプソンは、バートンが青春時代に味わった苦しみを、寓話へとアレンジ。その際には、一応は現代を舞台としながらも、“おとぎ話”の手法を用いた。 “おとぎ話”であるならば、本来は「あり得ない」と突っ込まれたり批判されかねない描写も、問題なく盛り込める。 例えば、郊外の住宅地のすぐそばに、なぜ大きな古城が在るのか?人造人間は一体、どんな仕組みで動いているのか?そしてエドワードは、彫刻に使う氷を一体どこから調達したのか? バートン曰く、「おとぎ話は不条理を許容する。だが、ある面では現実より現実的だ」 先にも記した通りエドワードは、バートン自身が投影されたキャラクター。トンプソンに言わせれば、「現実の世の中にフィットしないアーティストのメタファー」である。 そしてバートンはこのキャラクターに、フランケンシュタインやオペラ座の怪人、ノートルダムのせむし男にキング・コング、大アマゾンの半魚人等々といった、彼が少年時代から愛して止まなかった、モンスターたちを重ね合わせた。彼らは愛を乞うているだけなのに、“怪物”として駆逐されてしまう…。 物語の舞台は、バートンが幼い頃に暮らした、郊外の町バーバンクがモデル。バートン曰く「芸術をたしなむ文化が欠落している」ような場所だ。 トンプソンは脚本執筆のため、バーバンクの住宅地の片隅に住み込み、そこで経験したことを、脚本へと盛り込んだ。例えば、ちょっとした事件が起きると、みんながいちいち家から出てきては見物する描写などが、それである。 バートンは本作を当初、ミュージカル仕立てにしようと考えた。脚本も準備稿の段階では、劇中歌まで書き込まれていたという。結局そのアイディアは放棄されたが、本作は15年後=2005年に、イギリスのコンテンポラリーダンス演出家で振付師のマシュー・ボーンによって、ミュージカルとして舞台化されている。『ビートルジュース』が大ヒットとなり、その後の『バットマン』(99)のクランクインが近づく頃、バートンは本作を製作する映画会社探しを、本格化。トンプソンの脚本のギャラを数千㌦に抑えれば、800~900万㌦ほどの製作費でイケると見込んだ。 バートンは、候補に決めた映画会社に、オファー。その際には、『バットマン』の製作過程での様々な苦闘を教訓に、映画製作に関する決定権が、すべてバートンにあるという条件を付けた。返答の期限は、2週間後。『ビートルジュース』『バットマン』を製作したワーナーは、先買権を持ちながらも、本作の映画化を拒否した。結局この話に乗ったのは、20世紀フォックス。 しかし『バットマン』製作中に、フォックスの経営陣が一新され、本作の製作を決めた者が居なくなってしまうというハプニングが起こる。ところがこれが、幸いする。 新たにフォックスのTOPとなったジョー・ロスが、この企画に前経営陣以上の熱意を示したのだ。彼曰く、「エドワードはフレディ・クルーガー(『エルム街の悪夢』シリーズに登場する殺人鬼)の手をしたピノキオであり、『スプラッシュ』や『E.T.』のように新しい世界に合わせようとして苦しむ人間のかたちをした訪問者だ」 そして本作の製作費は、当初の800万㌦からその2.5倍にアップ。2,000万㌦が用意された。 最初に決まったキャストは、キム役のウィノナ・ライダー。『ビートルジュース』でバートンのお気に入りとなった彼女だが、ブロンドのカツラを付けてのチアリーダーのキムは、学生時代にそうした華やかな存在のクラスメートに悩まされた、オタク気質のウィノナにとっては、非常に演じにくい役であった。 このことが象徴するように、キャスティングは、すべてが意図的にズラされている。キムと付き合うアメフト部員のジム役には、アンソニー・マイケル・ホール。『すてきな片想い』(84)『ときめきサイエンス』(85)など、80年代中盤からハリウッドを席捲した、ジョン・ヒューズ監督の青春もので売り出した俳優である。本作での彼はいつもと真逆で、飲んだくれのろくでなし。凶暴性も秘めた役どころだった。 エドワードを我が家に連れ帰るペグには、ダイアン・ウィースト、その夫にはアラン・アーキンと、名脇役をキャスティングした。 エドワードの生みの親である老発明家役には、ロジャー・コーマン監督によるエドガー・アラン・ポー原作ものをはじめ、数多のホラー作品に出演し、バートンが少年時代から憧れの人だった、ヴィンセント・プライス。 バートンは初監督作で6分の短編『ヴィンセント』(82)で、プライスにナレーションを務めてもらって以来、彼との友情を温めてきた。本作の後には、プライスの一生を綴った伝記映画を準備していたが、彼は93年に他界。結果的に本作が、遺作となった。 一向に決まらなかったのが、肝心の主演。エドワード・シザーハンズ役だった。 フォックスが推したのは、トム・クルーズ。バートンのイメージには合わなかったが、人気絶頂の若手スターを起用して大ヒットを狙うフォックス側の気持ちも理解できたので、何度かミーティングを行った。しかし回を重ねる毎に、クルーズの方も違和感を抱くようになって、この話はポシャった。 他には、ウィリアム・ハートやトム・ハンクス、ロバート・ダウニー・Jr、更にはマイケル・ジャクソンの名まで挙がった。しかしいずれも、バートンにはしっくり来なかった。 候補のリストには名前が載っていなかった、TVドラマの人気シリーズに主演する若手俳優から、バートンに「会いたい」という連絡があった。バートンはそのドラマ「21ジャンプストリート」(87~90)を観たことがなかったし、その俳優ジョニー・デップに関しても、ティーンのアイドルで、気難し屋という噂ぐらいしか知らなかった。 そんなこともあって気乗りしなかったが、まだエドワード役のメドが立っていなかったので、とりあえず会うことにした。 エージェントから渡された『シザーハンズ』の脚本を読んで、「赤ん坊のように泣いた」というデップ。この役を絶対手に入れたいと思い、バートンとコンタクトを取った。そして面会が決まると、バートンの過去作をすべて鑑賞。本作出演への思いを益々強くして、その日に臨んだ。 デップはバートンの顔などまったく知らなかったが、面会の場に赴くと、テーブルに並んだ中に、「色白でひょろっとした、悲しい目の男」を見つけて、すべてを理解した。エドワード・シザーハンズは、「バートン自身なんだ!」と。 初対面だったにも拘わらず、バートンとデップは、まるで旧知の友のようだった。2人は“はみだし者”談義で大いに盛り上がり、意気投合した。 バートンはデップが、大いに気に入った。しかし踏ん切りがつかず、デップの直前の主演作『クライ・ベイビー』(90)の編集室に、その監督のジョン・ウォーターズを訪ねた。そこでデップが映るフィルムを何時間も見つめて、遂に心を決めた。 面会から数週間後、デップに電話が掛かる。バートンの声だった。「ジョニー、君がエドワード・シザーハンズだ」 これが『エド・ウッド』(94)『チャーリーとチョコレート工場』(2005)等々に続いていく、現代アメリカ映画を代表する、監督と俳優のパートナーシップの始まりだった。 エドワード役は主演ながら、主要出演者の中で、最もセリフが少ない。デップは、バートンが起用する決め手になったという“目の演技”や“身体を使った演技”を駆使。そのために、サイレント映画時代からの代表的な喜劇王チャールズ・チャップリンの演技を研究したという。 また演技をしている間は、「昔飼っていた犬の顔を思い浮かべていた……」。家に帰るとルーティンにしたのが、25㌢のハサミの刃を手に付けて、ぎこちなく日々の雑事をこなすことだった。 先にも紹介した通り、バートンは自分の考えを他者に伝えることが至極苦手で、撮影現場での指示も、尻切れトンボのようになってしまう。俳優陣は、激しく腕を振り回すバートンの、支離滅裂な思い付きによる、ほぼ直感的な演出に対応しなければならない。デップはそんなバートンの言を、まるで第六感でもあるかのように、あっさりと読み解いた。 因みにデップも、ヴィンセント・プライスに対して、バートンのようなリスペクトの念を抱いた。デップはプライスから、この世界の厳しさを聞き、「型にはまった役者にはなるな」と諭された。ホラー俳優のイメージがあまりにも強く、それが悩みの種だったプライスからの、自分を反面教師にしろというアドバイスだった。 その当時、デップはウィノナ・ライダーと熱愛中だった。ウィノナは本作の直前に、『ゴッドファーザーPARTⅢ』(90)を、体調不良で降板したのだが、実はジョニー・デップと共演するためだったというゴシップ記事が流れた。先にも記した通り、本作ではウィノナの方が先に出演が決まっていたので、これは根も葉もないデタラメだったが。 バートン曰く、「スペンサー・トレイシーとキャサリン・ヘプバーンを不良にしたようなカップル」だったデップとウィノナは、悲しいラブストーリーを演じ切った。 ゴシック様式の古城のような屋敷は、20世紀フォックスの撮影所敷地内に建てられたが、メインのロケは、町のモデルとなったバーバンクからは遠く離れた、フロリダ州パスコ郡デイドシティの郊外に在る50世帯の協力を得て、行われた。 実際の住人には3カ月間、近くのモーテルに仮住まいしてもらい、借り受けた家々には、様々なパステル調の彩色や、窓を小さくするなどの加工を行った。そしてそれらの庭には、エドワードが刈ってデザインしたという設定の、恐竜、象、バレリーナ、馬、人間などを象った、風変わりな植木を搬入した。こうして、どの時代のどの場所にも属さないような、郊外の町が創り出された。 日中の気温が43度まで上がり、酷い湿気がまるで糊のようにまとわりつくこの地で、スタッフやキャストが悲鳴を上げたのは、虫の大量発生だった。時には空を黒く埋め尽くし、撮影ができなくなるほどだったという。虫が嫌いではないバートンは、まったく平気の平左だったというが。 ギレルモ・デル・トロ監督が、『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017)で人間と半魚人の恋を描き、アカデミー賞の作品賞や監督賞を獲った時に、遂にこんな時代がやって来たと感銘を受けた。思えばその先鞭をつけたのが本作、ティム・バートンの『シザーハンズ』だった。 バートンのキャリアの中では、『バットマン』ほどの大ヒットを記録したわけではない。しかし彼の代表作と言えば、必ずこの作品の名が挙がる。製作から30数年経って、その輝きは年々増すばかりの傑作である。■ 『シザーハンズ』© 1990 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.11.06
センセーションを巻き起こした!アメリカ映画最高のヒーローの“死に様”。『11人のカウボーイ』
19世紀後半のアメリカ西部。牧場主のウィル・アンダーソン(演:ジョン・ウェイン)は、1,500頭の牛を売るため、640㌔離れた街まで移動させる、“キャトル・ドライヴ”の必要に迫られていた。 しかし、必要な助っ人を得ることができない。近隣で金が出たという話が広がり、男たちは皆そちらに行ってしまったのである。 ウィルは友人の勧めから、教会の学校に通う少年たちをスカウトすることにしたが…。 ****** 本作『11人のカウボーイ』(1972)は、“デューク(公爵)”ことジョン・ウェイン(1907~79)の主演作。フィルモグラフィーを眺めると、“戦争映画”などへの出演も少なくないが、“デューク”と言えばやっぱりの、“西部劇”だ。 ジョン・フォード監督の『駅馬車』(39)でスターダムに上り、その後長くハリウッドTOPスターの座に君臨したウェインだが、64年に肺癌を宣告されて片肺を失う。しかし闘病を宣言して俳優活動を続け、60代に突入してからの主演作『勇気ある追跡』(69)で、念願のアカデミー賞主演男優賞を受賞! 本作に主演した頃は、まだ意気軒昂であった。しかし『11人のカウボーイ』は、ジョン・ウェイン主演の“西部劇”としては、明らかに異彩を放つ作品である。 ウェインは本作に関して、「私の映画生活で記念すべきチャレンジ…」と発言している。この「チャレンジ」とは、多分監督に関しても含まれる。本作のメガフォンを取ったのは、ニューヨーク派の新鋭マーク・ライデル(1934~ )だった。 ライデルは俳優出身で、60年代にTVシリーズの監督で頭角を現した。その後劇場用映画として、『女狐』(67)『華麗なる週末』(69)で評判を取ったが、“西部劇”に関しては、長寿TVシリーズの「ガンスモーク」を10話ほど手掛けてはいたものの、劇場用作品としては、本作が初めて。 後に『黄昏』(81)で、当時70代のヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンにオスカーをもたらすなど、ベテラン俳優の手綱さばきも評価されたライデル。しかしこの頃はまだまだ、“若造”であった。 ***** ウィルの下に集まった11人は、みんな10代。厳しい訓練を行い、やがてコックとして雇った黒人のナイトリンガー(演:ロスコー・リー・ブラウン)も携えて、“キャトル・ドライヴ”は出発の日を迎えた。 過酷な道程で、11人はそれぞれに、厳しいウィルへの不満を抱く。しかしその想いや愛情に触れて、一同はやがて彼に対し、尊敬の念を深めていく…。 ***** ジョン・ウェインにとって、ハワード・ホークス監督の『赤い河』(48)への出演が、キャリアの転換点となったのは、自他共に認めるところ。それまで彼を「でくのぼう」扱いしていた、恩師のジョン・フォードにも、ちゃんと演技が出来ることを知らしめたのだ。『赤い河』は、“キャトル・ドライヴ”の道中を通じて、ウェインとモンゴメリー・クリフトが演じる、血の繋がらない父子による、相克と和解の物語である。『11人のカウボーイ』でウェインの演じるウィルは、2人の息子を若くして失っている。そんなウィルが、11人の少年カウボーイたちを率いて、“キャトル・ドライヴ”に挑む。ここにはやはり、“疑似父子”関係が見出せる。名作『赤い河』への目配せは、作り手の側には当然あったように思われる。 ライデル監督の苦労は、“ウェインの息子たち”11人のカウボーイを選ぶところから始まった。何百人もの少年を面接したが、乗馬と芝居の両方を経験している者は、ゼロ。 選んだ11人の内、6人は荒馬や荒牛を乗りこなすロデオ経験者だったが、他の5人は俳優で、馬に乗ったことがなかった。そこでクランク・イン前は、ロデオと演技の特訓。各々に自分のできること、即ち、乗馬と演技の見本を示すようにと指導を行い、やがて馬に乗れなかった者も、馬上に跨って牛を捕縛する投げ縄などを、マスターしていった。 そして、撮影開始。ライデルにとっては、少年たちを演出する以上の難物が控えていた。“デューク”である。 ***** ウィルと少年たちの“キャトル・ドライヴ”を追ってきた、牛泥棒の一団がいた。ある夜彼らが、襲撃を掛けてきた。 ウィルは少年たちに手を出させないよう、牛泥棒のリーダー格であるロング・ヘア(演:ブルース・ダーン)に、素手での1対1の闘いを挑んだ。ロング・ヘアはその闘いに敗れると、卑怯にも拳銃を取り出し、ウィルを背後から撃ち殺すのだった。 今際の際のウィルの言葉を受けて、ナイトリンガーは少年たちを故郷に送り届けようとする。しかし目の前でウィルを殺害されてしまった、少年たちの想いは違っていた。 彼らは誓った。ロング・ヘアたちへの復讐を果し、1,500頭の牛を取り戻す…。 ***** 当時のインタビューで、マーク・ライデルはこんなことを言っている。「政治的見解では両極にある私とデュークだ。彼の政治的立場を私は嫌悪する。しかし、俳優として彼ほど魅力のある男を私は知らなかった…」 当時はアメリカによるベトナムへの軍事介入に対して、“反戦運動”が盛り上がっていた頃。“リベラル派”に属するライデルにとって、かつて“赤狩り”を支援し、“ベトナム戦争”に対しては、アメリカ政府の立場を全面的に支持する作品『グリーン・ベレー』(68)を製作・監督・主演で作り上げた、“タカ派”の大御所ウェインは、政治的には唾棄すべき存在だった。しかし俳優としてのキャリアは、リスペクトに値する…。 本作は1971年4月5日にクランクイン。ニューメキシコ州のサン・クリストバル牧場やコロラドのパゴサ・スプリングスなどでロケを行った後、カリフォルニアのバーバンク撮影所へと戻った頃には、7月になっていた。 長きに渡ったロケで、実は撮り終えてない野外シーンが1つあった。それは、ウェインと敵役であるブルース・ダーンの対決。作品の流れで言えば、長年ハリウッド随一のタフなヒーローだったウェインが、エンドマークが出るまでまだ20分もあるのに、殺害されてしまうシーンであった。 それまでのウェインは、例えば『アラモ』(60)で実在の人物であるデイヴィー・クロケットを演じた時のように、劇中で英雄的な死を迎えることは幾度かあった。しかし本作のような無残な殺され方は、前代未聞のことだった。 これまでのジョン・ウェイン主演作でも、殴り合いのシーンは、各作にルーティンのように存在する。従来の“西部劇”は「悠揚として迫らざる」、ゆったりとして落ち着いた描写をモットーに撮られている。 しかし時代的には、セルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』(64)をはじめとしたマカロニ・ウエスタンや、サム・ペキンパー監督の『ワイルドバンチ』(69)などが、“西部劇”の世界を席捲。決闘シーンはより荒々しく、血生臭い傾向が強くなっていた。 ダーンは、ウェインとの対決の後のシーンでは、鼻を折られたという設定で、付け鼻を付けている。そんな激しい闘いで、いくら天下のジョン・ウェインであっても、無傷なのはおかしいと、ライデルは考えた。リアリズム風の格闘で、ウェインとダーンは共に血まみれにならなければ…。 しかしウェインは、“西部劇”に於いてそうしたリアルな描写には、ずっと反対し続けてきた。あるインタビューでは、「幻想(イリュージョン)を描くかわりに、何もかも“リアリズム”にしようとしている…それで、電気装置をつかって……血が噴き出るように仕掛けたりする…」などと、嫌悪感を露わにしている。登場人物すべてが血みどろの戦いの末に果てていく、『ワイルドバンチ』のサム・ペキンパー演出を、明らかに意識し揶揄していた。 ライデルは本作に於ける“最大のチャレンジ”に挑むため、当時撮影現場に於いてウェインの最側近と言える存在だった、デイヴ・グレイソンと、相談を重ねた。グレイソンはプロのメイクアップ係で、60年代からはウェインの全作品のメイクを担当した人物。ウェインは40代からカツラを装着していたため、グレイソンとは、公私ともに身近な関係だった。 しかし現代的な“西部劇”の作り方に対し、「…幻想を映画から追い出そうとしている」と反発するウェインを、果して説得などできるのか!? 問題のシーンの撮影日の朝、グレイソンがライデルから呼び出されると、その場には5~6人のスタッフが集まっていた。議題は、いかにウェインを血だらけにするか。「デュークがいいと言ったら、出来ますよ。でも、男のメーキャップ係が四人要ります」「どうして四人掛かりなんだね?」「三人は彼を押さえ付けておく係です」 そんなやり取りの末に、スタントディレクターが、ウェインの説得役を買って出た。しかしいざウェインのトレイラーに向かうと、挨拶と雑談だけで終わって、これから撮るシーンのことをまったく切り出せなかった。 結局は同行したグレイソンが、口を開くしかなかった。「ねぇ、デューク、みんなは今度のシーンであんたを血だらけにさせたがっているんだが、恐くて言い出せないでいるんだ」 それに対してウェインは、「下らん!」と一喝。しかしちょっと間を置いてから「まあ、いいだろう。やってくれよ。血糊とやらを塗りたくってくれ」 ウェインは個人的には好まないながらも、時代の変化の中で観客の嗜好が変わってきたことは、理解していたのである。と言っても、彼が言うところの「傷口がバックリ開いて、肝臓(レバー)がこっちに飛んで来る」ような、極端な残酷描写だけは、決して許そうとしなかったが。 この対決シーンに、大酒飲みのウェインはほろ酔い状態で臨んだ。酔いに任せて、撮影の合間はジョークを飛ばしたり陽気に振る舞ったという。 対決相手を演じたブルース・ダーン(1936~ )は、本作出演後、『ブラック・サンデー』(77)『帰郷』(78)などの話題作・問題作に出演。年老いてからは、『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』(2013)で、カンヌ国際映画祭男優賞を受賞し、アカデミー主演男優賞にもノミネートされた名優である。ローラ・ダーンの父親としても知られる彼だが、本作出演時は、若手俳優の1人に過ぎなかった。 そんなダーンに、ウェインはこんなアドバイスを贈った。「悪役を演じるときは手加減するな、よい俳優になりたければいじめられたほうがよい」 そんなウェインの助言が実ったというべきか?「ジョン・ウェインを撃った男」として悪名を馳せたダーンの元には、本作公開後に脅迫状が届き、リンチの警告まで受けるに至った。 ジョン・ウェインが背後から撃ち殺されてしまうということが、どれだけセンセーショナルな事態であったか! 例えば本邦を代表する映画評論家の1人、山田宏一氏も当時、次のように記している。 ~…『11人のカウボーイ』には、幻滅を感じ、いや、それどころか、怒りを禁じえないのだ。…ぼくらファンにことわりもなしにージョン・ウェインをあっさり殺してしまったのである!~ 山田氏はマーク・ライデル監督への悪罵を尽くした挙げ句、西部劇の不滅のヒーローであり、アメリカ国民の夢であるジョン・ウェインに無残な死をもたらした、本作『11人のカウボーイ』について、~ほとんど犯罪だ。~と断じている。 ジョン・ウェインは本作の4年後、『ラスト・シューティスト』(76)で、末期がんで余命いくばくもないガンマンを演じ、ならず者たちとのガンファイトで、再びスクリーン上での“死”を演じてみせた。そしてそれを遺作に、79年6月11日、再発した胃がんのために72歳でこの世を去った。 今日考えるに本作『11人のカウボーイ』は、「悠揚として迫らざる」タッチの西部劇の終焉を象徴する、歴史的な1本であったのだ。■ 『11人のカウボーイ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2024.11.05
“香港ノワール”の巨匠ジョン・ウー、ハリウッド時代の最高作!『フェイス/オフ』
ジョン・ウーは、1946年中国・広州生まれ。幼き日に家族で香港へと移り住んだ。少年時代から親しんだ映画の世界へと飛び込み、『カラテ愚連隊』で監督デビューを飾ったのは、73年のことだった。 その後様々なジャンルの作品を手掛けたが、所属する映画会社とのトラブルから、一時台湾に“島流し”状態に。そんな紆余曲折もあったが、86年に香港に戻ると、『男たちの挽歌』を監督。この作品が記録破りの大ヒットとなり、社会現象を起こした。 それまでコメディやカンフー映画が中心だった香港映画界に、ウーは、“英雄片”日本で言うところの“香港ノワール”というジャンルを確立。そして90年代初頭まで、このムーブメントをリードする存在として、ほぼ1年に1本ペースで作品を発表した。「スローモーションを駆使した二丁拳銃でのガンファイト」「メキシカン・スタンドオフ~同時に拳銃を向け合う2人の男」「画面に舞い飛ぶ白い鳩」等々。“ジョン・ウー印”と言うべき、斬新でスタイリッシュなアクション演出の評判は、狭い香港内に止まらなかった。 折しも97年の中国本土への返還を、目前に控えた頃。香港の映画人の多くは、海外マーケットを睨み、そこに活路を見出そうという志向が強くなっていた。 ウーに最初に声を掛けたハリウッドの映画人は、オリヴァー・ストーン。それは91年のことだったが、香港で撮る次回作が決まっていたので、話はまとまらなかった。 ウーのハリウッド・デビューは、93年。ジャン=クロード・ヴァンダム主演の『ハード・ターゲット』。続いて96年に、主演にジョン・トラヴォルタ、クリスチャン・スレイターを迎えた、『ブロークン・アロー』が公開されて、1億5,000万㌦の興収を上げる、大ヒットとなった。 それらに続いて、ハリウッド入り後の劇場用映画第3作となったのが、本作『フェイス/オフ』(97)である。 元々の脚本は91年に、当時大学生だった、マイク・ワーブとマイケル・コリアリーのコンビが執筆したもの。200年後の世界が舞台というSFで、激しく敵対する2人の男の顔が入れ替わって、更に戦いがエスカレートしていくという内容だった。 早々に権利は売れて、当時人気絶頂の2大筋肉スター、アーノルド・シュワルツェネッガーとシルベスター・スタローンの共演作として映画化を進める動きとなった。しかしその企画は流れ、その後も再三映画化の試みはあったものの、なかなか実現に至らなかった。 やがてこの脚本は、ウーのところに持ち込まれる。善と悪を象徴する、2人の男の顔が入れ替わるという設定には心惹かれたウーだったが、SF仕立てであることに気が乗らず、一旦は断っている。 他での話もまとまらず、再びウーの元に、この企画は戻ってくる。そこでウーは、現代のアメリカ社会を舞台にした物語に、脚本をリライトしてもらうことを条件に、本作『フェイス/オフ』の監督を、引き受けることを決めたのである。 ***** FBI捜査官のショーン・アーチャーは、遊園地でテロリストのキャスター・トロイに狙撃される。銃弾はアーチャーの身体を貫通し、彼が抱いていた、幼い息子の命を奪った。 それから6年。アーチャーはキャスターを追い続け、彼が弟のポラックスと空港から逃亡を図るという情報を摑んだ。死闘の末、アーチャーはキャスターを取り押さえる。 その際に植物状態になったキャスターが、ロサンゼルスに細菌爆弾を仕掛けていたことが判明。場所を知るのはポラックスだけだが、その在処を吐こうとはしなかった。 そこで、奇想天外な作戦が発動した。昏睡するキャスターの顔を、最新技術で剥ぎ取り、アーチャーに移植。キャスターになりすましたアーチャーが刑務所に入り、先に収監されているポラックスから情報を聞き出すというものだった。ごく数人を除いて、FBIの仲間や家族にも極秘での決行だった。 アーチャーは、爆弾を仕掛けた場所を聞き出すのに成功し、任務は完了…と思いきや、驚くべき人物が面会に現れる。それは、アーチャーの顔をしたキャスターだった。 植物状態から目覚めた彼は、配下を呼び寄せ、医者らを脅して手術をさせた上、アーチャーの任務を知る者を、すべて抹殺したのである。呆然とするアーチャーを獄に残し、キャスターはポラックスを釈放させ、自ら仕掛けた爆弾を解除。英雄となった。 自分の顔や地位、家族までも奪われてしまった…。アーチャーはキャスターへの復讐のため、刑務所内に騒乱を起こし、脱獄する。 それぞれが最も憎悪する男の顔を纏った2人。その対決の行方は!? ***** ハリウッド入り後、『フェイス/オフ』に取り掛かる前の2作、ウーは香港時代とは勝手が違う、映画会社主導による製作体制に、散々苦しめられた。『ハード・ターゲット』では、公開前のモニター試写の結果として、暴力描写や“ウー印”のスローモーションやクロスカッティングなどの多くが、カットされてしまう。更には、主演のジャン=クロード・ヴァンダムの意向が強く働き、完成版は、彼のアクション中心に編集されてしまったのだ。 ハリウッド的な作劇に於いてヒーローは、「泣いてもいけないし、もちろん死んでもいけなかった」。それまでのウー作品の登場人物とは、ほど遠いと言える。 悪に対する扱いも、「情け容赦は無用」の香港映画とは大違い。ハリウッドでは、「善と悪が鉢合わせしたとき、ヒーローの弾丸は、敵がナイフか棍棒を拾い上げるまで。当たることはない…」と、ウーは吐き捨てるように述懐している。 撮影現場で、俳優からセリフを変更したいという注文が出ても、監督には修正する自由が与えられていないのも、ありえない話だった。ウーは香港時代、俳優の要望によるものと脚本通りの2ヴァージョン撮ってみることが多かった。演じる本人の意見に従った方が良い結果が出ることを、経験として学んでいたのである。 思い通りに仕切れなかった、『ハード・ターゲット』そして『ブロークン・アロー』を経て、ウーは、ハリウッドで撮りたいものを撮ろうと思ったら、政治力が必要なことを思い知った。そしてそうした“力”を、『ブロークン・アロー』のヒットによって、遂に手にすることが出来たのである! ウーがハリウッドで、撮影現場での自由裁量権やファイナルカットの権利を得て初めて臨んだのが、本作『フェイス/オフ』だった。先に挙げた、俳優からのセリフ変更の要望などにも即応できるよう、脚本家も現場に帯同。提案があると、すぐに書き換えに応じてもらえる態勢を取ったという。 “善”と“悪”、激しく敵対する、『フェイス/オフ』の2人の主役。キャスティングされたのは、ジョン・トラヴォルタとニコラス・ケイジ。 FBI捜査官ショーン・アーチャー役のトラヴォルタは、ウーの前作『ブロークン・アロー』に続いての主演となった。トラヴォルタは20代前半に、『サタデーナイト・フィーバー』(77)『グリース』(78)という、当時のメガヒット作に連続主演。時代の寵児となりながらも、その後長く低迷した過去がある。 彼が復活を遂げたのは、クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(94)。それをきっかけに、40代で第2の全盛期に突入していた。そんなトラヴォルタにジョン・ウーを引き合わせたのも、タランティーノだった。 タランティーノにとってジョン・ウーは、「ものすごいヒーロー」であり、ウーが手掛けた“香港ノワール”に関しては、「セルジオ・レオーネ以来最高のもの」と称賛を惜しまなかった。タランティーノの長編初監督作『レザボア・ドッグス』(92)で、ギャングたちが揃いの黒スーツで現れるのは、ウーの『男たちの挽歌』の影響と言われる。 そんなタランティーノが、ウーとトラヴォルタ双方に、それぞれの凄さを吹聴。更に試写室でフィルムを見せるなどして、2人の間を取り持ったのである。 ウーは自作2本で主演を務めたトラヴォルタのことを、「謙虚で控えめだが自信に満ちている」と称賛。彼こそ「本物の男だ」と言い切っている。 テロリストのキャスター・トロイに、ニコラス・ケイジが選ばれたのは、トラヴォルタの希望もあってのこと。当時のケイジは、30代前半。『リービング・ラスベガス』(95)でアカデミー主演男優賞を受賞後、『ザ・ロック』(96)『コン・エアー』(97)とアクション大作への主演が続き、ノリにノッていた。 ケイジは元々、ウー作品の大ファン。香港時代の作品もしっかりチェックしていた。冒頭でアーチャーを狙撃するトロイに口ひげがあるのは、ウー監督“香港ノアール”の1本、『狼 男たちの挽歌・最終章』(89)のチョウ・ユンファを意識してのことだったという。 アーチャーの妻イヴ役には、金髪でノーブルなイメージのあるジョアン・アレン。FBI捜査官の夫を支えながらも、顔が入れ替わったキャスターとも、その正体を知らずに、“夫婦”として関係してしまうという役どころである。 映画会社は、もっと若くてキレイな女優をキャスティングしようとした。しかしウーは、オリヴァー・ストーン監督の『ニクソン』(96)で大統領の妻を演じたアレンを観て、彼女に決めた。イヴ役には、抑制された演技が必要だと思っていたからである。 ウーはクランク・イン前に、トラヴォルタ、ケイジと、入念にコミュニケーション。“善”の象徴であるショーン・アーチャー、“悪”の権化であるキャスター・トロイ、それぞれのキャラを表現するために、シンボリックなポーズや振舞いを決めた。 例を挙げれば、ケイジ特有のブラつくような歩き方や口調を緩めてはっきりと発音する話し方を、キャスターの特徴に採用。トラヴォルタは顔が入れ替わった後の演技のために、これらをマスターしなければならなかった。 冒頭トラヴォルタ演じるアーチャーは、愛する人の顔を優しく撫でる仕草を見せる。これが伏線となって、物語の後半イヴは、我が子の命を奪った憎きキャスターの顔を持つ男が、実は自分の夫であることに気付くのである。 トラヴォルタとケイジが別々に登場するシーンは、撮影した日の内に編集。翌日には相手の演技をチェックできるようにした。アーチャーの息子が殺されるシーンを見たケイジは、すぐにトラヴォルタに電話を入れて、こう言ったという。「ジョン、挑戦は受けたぜ。君のシーンを見て泣けたよ。感謝している。この映画の演技のレベルを君が決めてくれたんだから」 手術を受けてキャスターの顔になったアーチャーは、鏡に写った己の顔を激情の余り叩き割ってしまう。このシーンでケイジは、ウーが思わず涙を流すほど、迫真の演技を見せた。 ジョアン・アレンは、トラヴォルタとケイジが、互いの身体の位置や身振り、声のリズムからパターンまで、完コピし合うのを、間近で目撃。そのクオリティの高さに、舌を巻いたという。 ウーの作品世界にぴったりハマった、トラヴォルタとケイジ。こうしたキャストの力も借りて、仰々しいまでのアクション演出に、家族愛や仁義の世界を塗して放つ、香港時代のウーが完全に帰ってきた。 ・『フェイス/オフ』撮影中のジョン・ウー監督(左)とニコラス・ケイジ。 2時間18分の上映時間の中で、度々壮絶なアクションが繰り広げられる本作だが、そんな中でも印象深いのが、キャスターの顔をしたアーチャーが、脱獄後に潜伏先で、アーチャーの顔のキャスターと対決するシーン。マフィアとFBIを交えた大銃撃戦が展開されるのだが、アーチャーはその場に居合わせた幼い子どもを恐怖から守るために、ヘッドフォンを掛けさせて、名曲「虹の彼方に」を聞かせる。このメロディが、ウー印のスローモーション撮影でのガンファイトを、美しく彩るのである。 この「虹の彼方」は、オリビア・ニュートン=ジョンが歌うヴァージョンだったのだが、映画会社は、楽曲使用料の支払いを拒否。しかしウーは、自腹を切ってまで、断固としてこの曲の使用にこだわった。後に会社側も、そのこだわりの意味を認めて、ウーに楽曲使用料を支払ったという。製作費8,000万㌦であった本作が、2億5,000万㌦近い興収を上げる大ヒットとなったことを考えれば、当たり前と言えるが…。 ウーは93年から2003年まで、ハリウッドで長編劇映画6本をものした。「この10年間のハリウッドのアクション映画をみれば、ウーの影響がいかに大きいかわかる」 これは本作の後にウーを、大ヒットシリーズの第2弾『M:I-2 ミッション:インポッシブル2』(2000)の監督に招いた、トム・クルーズの言である。 ハリウッド製6本の内、ボックスオフィスのTOPを飾ったのは、『ブロークン・アロー』『フェイス/オフ』『M:I-2』の3本。中でも評価と人気が高いのが、本作『フェイス/オフ』である。 ニコラス・ケイジの近作に、自身のキャリアをパロディにしたコメディアクション作品『マッシブ・タレント』(22)があるが、その中で『フェイス/オフ』をネタにした場面も登場する。ケイジも本作が、大のお気に入りというわけだ。 5年ほど前からは、『ゴジラvsコング』(2021)などのアダム・ウィンガード監督によって、続編の企画が進められている。巷間伝わってくる話によると、アーチャーとキャスター、宿敵同士の2人だけの物語ではなく、それぞれの成長した子どもたちを交えた、4人の物語になるという。 昨年=2023年に起きた、「WGA=全米脚本家組合」のストライキの影響もあって、現在は製作に遅れが出ている状態だというが、果して!?ジョン・ウーが監督するわけではないことも含めて、本作のファンとしては、観たいような観たくないような…。■ 『フェイス/オフ』© 1997 Touchstone Pictures. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.10.07
ニューマン&レッドフォード+ジョージ・ロイ・ヒル!名トリオが放った、これぞ“ニューシネマ”!!『明日に向って撃て!』
“アメリカン・ニューシネマ“の時代。1960年代後半から70年代に掛けて、反体制的・反権力的な若者たちや数多のアウトローが、アメリカ映画のスクリーンに躍った。 そんな中で、屈指の人気キャラクターに数えられるのが、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド。 “ニューシネマ”第1弾の作品が、主役の犯罪者カップルの名前を取った「ボニーとクライド」という原題だったのを、『俺たちに明日はない』(67)という邦題にして、当たりを取ったのに倣ったのであろう。1969年製作の「ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド」は、『明日に向って撃て!』というタイトルで、翌70年に日本公開となった。 ***** 1890年代のアメリカ西部。「壁の穴」強盗団のリーダーで頭が切れるブッチ・キャシディと、その相棒で名うての早撃ちサンダンス・キッドは、絶対的な信頼で結ばれていた。 ある時強盗団は、同じ列車の往路と復路を続けて襲うという大胆な計画を実行。往路は見事に成功し、2人は馴染みの娼館でくつろぐ。 サンダンスは一足早く抜け、恋人の女教師エッタ・プレイスの元へ。翌朝合流したブッチは、新時代の乗り物と喧伝される自転車をエッタと相乗りし、安らぎの一時を過ごす。 強盗団は予定通り、復路の列車強盗も敢行。しかし鉄道会社が雇った凄腕の追っ手に、仲間の何人かは射殺され、ブッチとサンダンスも、執拗な追跡を受ける。 命からがら、エッタの元に帰還。これを機に、ブッチが以前から口にしていた新天地に、3人で向かうことにする。 ニューヨークでの遊興を経て、夢に見た南米ボリビアに到着。しかしそこはまるで想像と違った、貧しい国だった。 今度はエッタの協力も得ながら、銀行強盗を重ねる。しかしこの地でも追っ手の影を感じたブッチとサンダンスは、足を洗うことに。そして、錫鉱山の給料運搬の警護を行う。 ところがその最中、山賊団が襲撃。ブッチは生まれて初めて、人を殺してしまう。 行く先に暗雲が垂れ込める中、「2人が死ぬところだけは見ない」と、かねてから言っていったエッタは、ひとりアメリカへ帰国。 ブッチとサンダンスは、再び強盗稼業に舞い戻る。しかし仕事後、ある村で休息していたところを、警官隊に包囲されてしまう。 応戦しながらも手傷を負い、追い詰められていく、ブッチとサンダンスだったが…。 ***** 脚本のウィリアム・ゴールドマンは、8年掛けて、ブッチ・キャシティとサンダンス・キッドという、実在した2人の伝説的アウトローについてリサーチ。彼らの生涯を扱った脚本を書き上げた。 軽妙なタッチで笑えるシーンも多々ありながら、そこで描かれるのは、かつてはジョン・ウェインのようなヒーローが闊歩した、西部の荒野は、今はもう存在しない。ブッチやサンダンスのような、時代遅れのアウトローたちは、ただただ滅んでいくという世界だった。 ゴールドマンが執筆時に想定していたキャストは、ブッチ・キャシディはジャック・レモン、サンダンス・キッドにはポール・ニューマン。そして実際に、ニューマンが映画化に向けて動き出すこととなる。 脚本に付いた値段は、当時としては最高値の40万㌦。ニューマンの記憶によると、当初は彼とスティーヴ・マックィーンが、この脚本料を折半して、2人の本格的な共演作として、取り組む予定だったという。 マックィーンは脚本を気に入りながらも、このプロジェクトから退いた。その理由は、ライバルであるニューマンとのクレジット順、即ち主演としてどちらの名前を先に出すかや、ブッチとサンダンスどちらの役を演じるかで軋轢があった等々、諸説あるが、はっきりとしたことは、今となってはわからない。 結局ポール・ニューマンのプロダクションが、20世紀フォックスと組んで、本作『明日に向って撃て!』の映画化を進めることとなった。 監督候補として、これまでにニューマンと組んで成果を上げた者たち、マーティン・リット、スチュアート・ローゼンバーグ、ロバート・ワイズらの名が挙がった。しかしそれぞれオファーに対して、芳しい返事はもらえなかった。 ニューマンとプロダクションを共同経営するジョン・フォアマンが推薦したのが、ジョージ・ロイ・ヒルだった。ロイ・ヒルは映画監督としては、61年にデビュー。これまでに、『マリアンの友だち』(64)『モダン・ミリー』(66)等のコメディやミュージカルを手がけ、その現代的な感覚が評価されていた。 監督に正式に決まったロイ・ヒルが、ニューマンと打合せをすると、どこか話が噛み合わない。ニューマンが自分が演じるのは、サンダンス・キッドと思い込んでいたのに対し、ロイ・ヒルは、ブッチ役こそニューマンにふさわしいと考えていたからだった。 はじめはロイ・ヒルの提案に、ニューマンは首を縦に振らなかった。ブッチ役には喜劇的要素が必要だが、自分にはその素養は無いと、考えていたのである。 それに対しロイ・ヒルは、コメディ・タッチなのは設定であって、役そのものではないと、説得。それを受けたニューマンは、脚本を読み直し、ブッチ役を演じることを受け入れた。 ニューマンの相棒の候補となったのは、マーロン・ブランドやウォーレン・ベイティ。マックィーンの名が挙がったのも、実はこの段階になってからだったという説もある。 ロイ・ヒルは、ブランドやマックィーンのような、わがままなトラブルメーカーと組むのはまっぴら御免だった。そんな彼が強く推したのが、ロバート・レッドフォード。 その頃のレッドフォードは、30代はじめ。主演作こそあったが、大きなヒットはなく、ブランドやベイティ、マックィーンとは比べるべくもない。まだスターとは呼べない、ただの二枚目俳優だった。 ロイ・ヒルは、過去作のオーディションでレッドフォードと邂逅。その後も彼が舞台に立つ姿を見て、印象が良かったのである。 このオファーに関して、ロイ・ヒルとレッドフォードは、改めて面会。その時の印象についてレッドフォードは、「どっちもドス黒いアイリッシュの血を引いていて、お互いに腹の中が読めた」と語っている ニューマンはレッドフォードにまだ会ったことがなく、特に彼を推す理由もなかった。一方で、最初にサンダンス役にレッドフォードをと言い出したのは、妻のジョアン・ウッドワードだったなどとも、後年言っている。 この辺も何が真実だか、曖昧模糊とした話だが、とにかくロイ・ヒルは、レッドフォードにこだわった。20世紀フォックスの製作部長だったリチャード・ザナックから、レッドフォードを起用するぐらいならば、「この企画を流す」と宣告までされたが、最終的にはニューマンや脚本のゴールドマンまで味方につけて、粘り勝ちを収めた。 レッドフォードは、ロイ・ヒルを信じて、しばらくの間は他の仕事を入れずに待っていた。そして、生涯の当たり役を摑むことになった。 エッタ・プレイス役には、ジャクリーン・ビセットやナタリー・ウッドも候補に挙がったが、『卒業』(67)で注目の存在となっていた、キャサリン・ロスが決まる。その後目覚ましい活躍をしたとは言い難いロスだが、『卒業』『明日に向って撃て!』という、“アメリカン・ニューシネマ”初期の代表的な2本で、忘れがたいヒロインを演じた女優として、日本でも長く人気を集めた。 因みにニューマンは、エッタの存在については、「たいして重要ではない」と発言したことがある。彼曰く本作は、「これはじつは、二人の男の恋愛を描いたもの」だからである。 しかしそこが強調されてしまうと、当時はまだまだ観客の耐性がなく、居心地の悪い思いをさせてしまうことになる。そこでロイ・ヒルは、ブッチ、サンダンス、エッタの3者を、三角関係のように描くことにした。本作の中で最もロマンティックなのが、サンダンスの恋人であるエッタとブッチの自転車二人乗りのシーンであるのは、実はこうした流れに沿ってのことと思われる。 本作は、メキシコ、ユタ、コロラド、ニュー・メキシコでロケを行った後、ロサンゼルスのスタジオで撮影が続いた。その間にはっきりとしたのは、12歳の差がある、ニューマンとレッドフォードの、共通点と相違点。 共にアウトドア派で、政治的にはリベラル。そして、ハリウッドの金儲け主義を嫌悪していた。 メキシコロケの際は、現地の水で体調を崩したくないというのを表向きの理由にして、2人ともビールなどアルコール類しか口にしなかった。そんなこともあってか、打ち解けるのが早かったという。 一方で、演技のスタイルは正反対。ロイ・ヒル曰く、「ニューマンは撮影する場面を徹底的に、頭の中で分析する。その間、レッドフォードはただそこに立って、しかめっ面をしている…」 レッドフォードは、リハーサルをすると、無理のない自然さが失われてしまうと考えていた。しかし本作に関しては、「ニューマンがやりたがっていたから」という理由で、リハーサルに臨んだ。 アクターズ・スタジオなどで学んだ、メソッド俳優であるニューマンは、準備が出来ていても、とことん話し合って、納得がいくまでは撮影に入るのを嫌がった。それに対しレッドフォードは、必要もないのにグズグズしているのを見ると、イライラ。 現場では折々、ニューマンとレッドフォードの意見の衝突が起こった。2人ともエキサイトはすれども、決して険悪にはならず、ロイ・ヒルはそれを、スポーツ観戦のように楽しんだという。 ニューマンとロイ・ヒルは、時間にはうるさい人間だった。それに対して、レッドフォードは遅刻魔。ニューマンは、レッドフォードの利き腕が左手なのに引っ掛けて、本作のタイトルを、『レフティ(左利き)を待ちながら』に変えたいと思ったほどだと、ジョークを飛ばしている。そしてわざわざ、「約束の時間を守るのが礼儀の基本」という格言を縫い込んだレースを、レッドフォードにプレゼントしている。 ニューマンは、本作及びブッチとサンダンスのキャラクターについて後年、「嬉しい想い出。二人とも映画の中でいつまでも活躍してほしい好漢だった」と語っている。そんなことからもわかるように、笑い声が絶えない撮影現場だったという。 撮影初日に、ニューマンはレッドフォードに、こんな風に声を掛けた。「四千万ドルの興収を上げる映画に初めて出演する気分はどうだい?」 レッドフォードは内心、「自信過剰だ」と思ったというが、本作が69年9月に公開されると、ヴィンセント・キャンビー、ポーリン・ケイル、ロジャー・エバートといった、著名な映画評論家たちにディスられながらも、爆発的な大ヒットとなった。興収は4,000万㌦どころではなく、1億200万㌦まで伸びた。 アカデミー賞では、作品賞、監督賞など7部門にノミネート。その内、脚本、主題歌、音楽、撮影の4部門で受賞となった。 その直後から、ニューマンとレッドフォード、再びの顔合わせを望む声は、引きも切らなかった。71年にはニューヨーク市警に蔓延する汚職を告発した刑事の実話の映画化『セルピコ』で、レッドフォードが主役の刑事役、ニューマンが同僚の警官役で再共演という話が持ち上がった。 こちらの話は流れて、73年にシドニー・ルメット監督、アル・パチーノ主演で実現したが、その同じ年にニューマン&レッドフォードに加えて、ジョージ・ロイ・ヒル監督というトリオが、復活!その作品、1930年代を舞台に、詐欺師たちの復讐劇を描いたクライム・コメディ『スティング』は、『明日に向って撃て!』を超える大ヒットとなった上、アカデミー賞でも10部門にノミネート。作品賞、監督賞など7部門を獲得する、大勝利を収めた。 その後も度々、ニューマン&レッドフォード&ロイ・ヒルのトリオ、或いはニューマン&レッドフォードのコンビによる作品製作が模索されたが、ロイ・ヒルが2002年に80歳で亡くなり、ニューマンも07年に83歳で逝去したため、遂に実現には至らなかった。 80代を迎えたレッドフォードも18年に、『さらば愛しきアウトロー』を最後の出演作に、俳優業を引退。 いま改めて振り返れば、本作『明日に向って撃て!』で、60年代アメリカ映画を代表する二枚目俳優、ポール・ニューマンの薫陶を受け、レッドフォードは、一挙にスターダムにのし上がった。その後70年代ハリウッドを代表する大スターへと成長していったのは、多くの方がご存じの通りである。 彼はサンダンス・キッド役のギャラで、ユタ州のコロラド山中に土地を購入して、サンダンスと命名。その地に「サンダンス・インスティチュート」を設立して、若手映画人の育成を目的とする、「サンダンス映画祭」の生みの親となった。 そうした事々を考えると、『明日に向って撃て!』は、“アメリカン・ニューシネマ”の名作という位置付け以上に、映画史に残した影響が、非常に大きな作品なのである。■ 『明日に向って撃て!』© 1969 Twentieth Century Fox Film Corporation and Campanile Productions, Inc. Renewed 1997 Twentieth Century Fox Film Corporation and Columbia Pictures Industries, Inc. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.09.30
「すべて本当にあったこと」を描いた、ロマン・ポランスキー畢生の傑作は今…。『戦場のピアニスト』
実話ベースの本作『戦場のピアニスト』(2002)の原作本に、ロマン・ポランスキーが出会ったのは、1999年のこと。パリで監督作『ナインスゲート』がプレミア上映された際に、友人から渡されたのである。 一読したポランスキーは、長年待ち望んだものに出会った気持ちになった…。 ***** 1939年9月、ポーランドの著名な若手ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンはいつものように、首都ワルシャワのラジオ局でショパンを演奏していた。しかしその日、ヒトラー率いるナチス・ドイツが、ポーランドに侵攻。シュピルマンの人生は、大きく変転する。 老父母や弟妹など、家族と暮らしていたシュピルマン。ユダヤ系だったため、街を占領したドイツ軍の弾圧対象となる。 ナチスがポーランド各地に作ったユダヤ人ゲットーへの移住が命じられ、住み慣れた我が家から強制退去。移った先では、ドイツ兵による“人間狩り”や“虐殺”が横行する。 42年8月、ゲットーのユダヤ人たちの多くが、強制収容所に送られることになった。しかし列車へ乗り込まされる直前、シュピルマンは、ユダヤ系ながらナチスの手先となった友人から、家族と引き剥がされ、この場を去るように促される。 家族で唯一人、収容所行きを免れたシュピルマンは、ゲットーに戻り、肉体労働に従事。このままではいつか命を落とすと考え、脱出を決行する。 ナチスに抵抗する、旧知の人々らの協力を得て、隠れ家を移りながら、命を繋ぐ。 44年、ワルシャワ蜂起が始まり、戦場となった街が、灰燼と帰していく。そんな中で必死に生き延びようとする、シュピルマンの逃走が続く…。 ***** 33年パリで生まれたポランスキーは、3歳の時に、家族でポーランドに移り住んだ。青年時代にウッチ映画大学で監督を志し、やがて長編第1作『水の中のナイフ』(62)で、国際的な評価を得る。 その後は海外へ。イギリスで、『反撥』(65)『袋小路』(66)『吸血鬼』(67)を成功させると、ハリウッドに渡って『ローズマリーの赤ちゃん』(68)を監督。更に声価を高めた。 しかし69年、妊娠中だったポランスキーの若妻シャロン・テートが、カルト集団に惨殺されるという悲劇に見舞われる。強いショックを受けた彼は、一時ヨーロッパへと移るが、『チャイナタウン』(74)の監督依頼を受けて、アメリカに戻る。 ところが77年、ポランスキーは13歳の少女を強姦するという事件を起こし、アメリカ国外へと逃亡。以降は主にフランスをベースに、監督作品を発表し続けている。 紆余曲折ある彼の監督人生の中で、ずっと胸に抱いていたこと。それは、いつかポーランドの「痛ましい時代の出来事を映画化したい」という思いだった。 ユダヤ系であるポランスキーは、ナチスの占領下で過ごした少年時代に、ゲットーでの過酷な暮らしを経験。その後両親と共に、強制収容所へ送られそうになる。寸前に、父の手で逃がされた彼は、終戦を迎えるまで、幾つもの預け先を転々とすることになった。 戦後になって、父とは再会。しかし母は、収容所で虐殺されていた…。 自分が経験した、そんな時代に起こった事々を作品にしたい。しかしながら、自伝的な内容にはしたくない…。 ポランスキーは、スティーヴン・スピルバーグから、『シンドラーのリスト』の監督オファーを受けながら、断っている。その舞台となるクスクフのゲットーが、実際に自分が暮らした地であり、描かれることが、自身の体験にあまりにも近かったためだ。「ふさわしい素材」を得て、「映画監督として、しっかりとした」ヴィジョンを持って臨まねばならない。そう心に秘めて待ち続けたポランスキーが、60代後半になって遂に出会ったのが、ウワディスワフ・シュピルマンの回想録である、「戦場のピアニスト」だったのだ! ポランスキー曰く、シュピルマンの体験と自分の間に、「ほどよい距離があった」。自分の住んでいた街とは舞台が違い、自分が知っている人間は、誰1人登場しない。それでいながら、「自分の知る事柄が書かれていた」。自らの体験を活かしつつも、客観的な視点で物語を紡ぐのに、これほど相応しいと思える原作はなかったのである。 シュピルマンの著書は、「ぞっとさせられる反面、その文章には前向きなところもあり、希望が満ちていた」。また、「加害者=ナチス/被害者=ユダヤ人」という単純な図式に陥ることなく、シュピルマンの命を救うのが、同胞から恐れられていた裏切り者のユダヤ人だったり、ナチスの将校だったりする。ナチスにも善人が存在し、ユダヤ人にも憎むべき者がいたという、原作の公平な視点にも、いたく感心したのだった。 ポランスキーは、戦後はポーランド音楽界の重鎮として後半生を送っていたシュピルマン本人と面会。映画化を正式に決めた。残念ながらその翌2000年、製作の準備中に、シュピルマンは88年の生涯を閉じたのだが…。 ポランスキーが、ポーランドで映画を撮るのは、『水の中のナイフ』以来、40年振り。資金はヨーロッパから出ており、アメリカの俳優は使わないという条件だった。 それでいながらセリフは英語とするため、ロンドンでオーディションを行うことになった。1,400人もの応募があったが、ポランスキーはその中からは、“シュピルマン”を見つけることはできなかった。 結局ポランスキーが白羽の矢を立てたのは、アメリカ人俳優。1973年生まれで、まだ20代後半。ニューヨーク・ブルックリン育ちのエイドリアン・ブロディだった。 シュピルマンに、風貌が似ていたわけではない。しかしポランスキーはブロディの出演作を数本観て、「彼こそ“戦場のピアニスト”」と思ったのだという。ポランスキーが「思い描いていた通りの人物になりきることのできる」俳優として、ブロディは選ばれたのである。 アメリカ人のブロディを起用するため、スポンサーを説得するのには、1カ月を要した。その上で、製作費の減額を余儀なくされた。 そこまでポランスキーが執心したブロディは、本作以前にスパイク・リーやケン・ローチなどの監督作品で主要な役を演じながらも、まだまだ新進俳優の身。ポランスキーの心意気に応え、戦時に大切なものをことごとく失ったシュピルマンになり切るため、住んでいたアパートや車、携帯電話など、すべてを手放して、単身ヨーロッパへと渡った。 ブロディの父は、ポーランド系ユダヤ人で、ホロコーストで家族を失った身。母は少女時代、ハンガリー動乱によって、アメリカに逃れてきた難民だった。ブロディ家では子どもの頃から、戦争のことやナチスの残虐さが、いつも話題になっていた。 クランク・インまでの準備期間は、6週間。部屋に籠りきりで行ったのは、まずはピアノの練習。少年時代にピアノを習った経験が役立ったものの、毎日4時間ものレッスンを受けた。 同時に進められたのが、ダイエット。摂取するものが細かく指示されて、体重を10数㌔落とした。撮影中に遊びに来たブロディのガールフレンドが、彼を抱き上げてベッドに運べるほど、瘦身になったという。 他には、ヴォイストレーニングや方言の練習、演技のリハーサルが繰り返される毎日を送った。 本作でもう一方の“主役”と言えるのが、1939年から45年に掛けての、ワルシャワの市街。しかしゲットーの在った地をはじめ、ほとんどの場所は戦後に再建されており、撮影に使えるような場所は、ほとんど残っていなかった。 そのためポランスキーは、広範なリサーチと自分自身の記憶を頼りに、美術のアラン・スタルスキと共に、ワルシャワとベルリン周辺で、数ヶ月のロケハンを敢行。本作の100を超える場面に必要な撮影地を、探し回った。 最終的には、ベルリンの撮影所の敷地内に、ワルシャワの街並みを建造。また、同じくベルリンに在った、旧ソ連兵舎を全面的に取り壊して、広大な廃墟を作り上げた。これは、全市の80%が壊滅したと言われるワルシャワ蜂起の、すさまじい戦禍を再現したものだった。 本作の撮影は、この廃墟が雪に覆われたシーンからスタートした。ブロディ演じるシュピルマンが、壁を上って、その向こう側に行くと、どこまでも荒涼たる光景が広がっている。「これが自分の住む街だったら」と思うと、ブロディは自然に涙がこぼれたという。 ワルシャワでは、屋内・屋外ロケを敢行。様々なシーンの撮影を行った。 ロケ地探しで至極役立った、ポランスキーの記憶力。ナチの軍服や兵士たちの歩き方、ゴミ箱の大きさに至るまで、当時の再現に、大いに寄与した。記憶でカバーできない部分は、終戦直後の46年に書かれた、シュピルマンの原作に頼った。 戦時のワルシャワで起こった様々な事件を再現するためには、多くのリサーチが行われた。クランク・イン前には、歴史家やゲットーの生存者の話を聞き、スタッフには、ワルシャワ・ゲットーについてのドキュメンタリーを何本も観てもらった。 ポランスキーは本作に、当時彼自身が体験したことも、織り込んだ。その一つが、シュピルマンが、収容所に送られていく家族からひとり引き離されるシーン。 原作ではシュピルマンは、その場から走って逃げたと記している。しかしポランスキーは、歩いて去るように、変更した。 これはポランスキーがゲットーを脱出した際に、ドイツ兵に見つかった経験が元になっている。そのドイツ兵はみじろぎひとつせずに、「走らない方がいい」とだけ、ポランスキーに言った。走るとかえって、注意を引いてしまうからである。 そんなことも含めて、本作で描かれているのは、「すべて本当にあったこと」だった。 撮影は、2001年2月9日から半年間に及んだ。その期間中、ポランスキーは当時の辛かった思い出の“フラッシュバック”に、度々襲われることになる。しかし撮影前のリサーチ段階での苦痛のほうが大きかったため、憔悴するには至らなかった。 本作のクライマックス。シュピルマンが隠れ家とした場所でナチスの将校に見つかり、ピアニストであることを証明するためピアノを演奏する、4分以上に及ぶシーンがある。 こちらはドイツのポツダムに在る、住宅街の古い屋敷でのロケーション撮影。画面から伝わってくる通りの寒さの中で、カメラが回された。 スタッフが皆、分厚いコートを来ている中で、ブロディは着たきりのスーツだけ。しかし監督は画作りのため、すべての窓を開け放しにした。ブロディは死ぬほどの寒さの中で、演技をしなければならなかった。 このシーンに登場する、トーマス・クレッチマンが演じるドイツ国防軍将校の名は、ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉。シュピルマンを連行することなく、隠れ家の彼に食事や外套を提供して、サバイバルを手助けする。 本作で詳しく描かれることはなかったが、実在したこの大尉は、ナチスの方針に疑問を抱き、迫害に遭ったユダヤ人らを、実は60人以上も救っている。シュピルマンを助けたのは、偶然や気まぐれではなかったのである。 不運にも彼はワルシャワから撤退中に、ソ連軍の捕虜となった。そしてシベリアなどの捕虜収容所に、長く拘置されることになる。 シュピルマンは戦後、自分を助けてくれたドイツ人将校を救おうと、手を尽して行方を捜索。収容所に居ることがわかると、当時はソ連の衛星国家だった、ポーランドの政界に解放を働きかけた。しかしホーゼンフェルトが自由の身になることはなく、52年に心臓病のため57歳で獄死してしまう…。 さて6ヶ月間、本作に打ち込んだエイドリアン・ブロディは、シュピルマンの“孤立感”を体感しようと試み、飢えをも経験する中で、感じ方や考え方に変化が生じた。そのため撮影が終わってから、何と1年近くも、鬱状態から抜け出せなかった。 一方でブロディは、本作に出たことによって、俳優としての自分がやりたいことが何なのか、はっきりと自覚することができたという。 ちなみにブロディがレッスンを経て、楽譜を見ずにピアノを弾けたようになったことを、ピアノ教師が絶賛。この後も続けるように勧められたが、本作が撮了するとモチベーションを保てず、やめてしまったという。 監督のポランスキー、主演のブロディが報われたのは、まずは2002年5月の「カンヌ国際映画祭」。そのコンペ上映で15分間のスタンディング・オヴェーションを得て、最高賞のパルムドールに輝いた。そして翌03年3月には「アカデミー賞」で、ポランスキーに“監督賞”、ブロディに“主演男優賞”が贈られた。 それまでは、“鬼才”という呼称こそがしっくりくる感があったポランスキー。件の事情で国外逃亡中の身だったため、オスカー授与の場に立つことはなかったが、本作『戦場のピアニスト』によって、紛うことなき“巨匠”の地位を得たのである。 しかしそれから歳月を経て、90を超えたポランスキー、そして本作への評価も、今や安泰とは言えない。 2017年に大物プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる数多くの性加害が告発されて以降、大きな高まりを見せた#MeToo運動。その文脈の中では、少女を強姦してアメリカ国外へ逃亡したポランスキーの、“巨匠”としての地位も、揺るがざるを得ない。 ポランスキーに性的虐待を加えられたと告発する者は、他にもいる。アカデミー賞受賞後、彼のアメリカ入国を認めさせようという機運が一時高まったが、もはや取り沙汰されることはない。 そして現在、イスラエルが、ガザ地区で戦争を続けている。 ナチスに母を、カルト集団に妻子を奪われた“被害者"である一方、レイプで女性の人生を狂わせた“加害者”であるポランスキー。 ナチスのジェノサイドの犠牲者であるユダヤ民族が作った国家イスラエルは、国際的な批判の高まりを無視して、パレスチナの民への攻撃を行っている。『戦場のピアニスト』は、製作から20年以上経った今観ても、衝撃的且つ感動的な作品である。ポランスキーが意図した通り、「ナチス=悪/ユダヤ=善」という単純な図式を回避したからこその素晴らしさがある。 しかしながら、2024年の今日。そんな作品だからこそ、複雑な気持ちを抱きながら観ざるを得なくなってしまったのも、紛れもない事実である。■ 『戦場のピアニスト』© 2002 / STUDIOCANAL - Heritage Films - Studio Babelsberg - Runteam Ltd
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COLUMN/コラム2024.09.20
ティム・バートンが作り上げた、今日まで連なる“アメコミ”ムービーの原点『バットマン』
長らく「子どもの読み物」と揶揄されることが多かった、“アメコミ/アメリカン・コミック”の映画化作品で、最初に大きな成功を収めたのは、リチャード・ドナー監督、クリストファー・リーヴ主演の『スーパーマン』(1978)である。 1938年に生まれた、最古参の“アメコミ”ヒーロー「スーパーマン」を大スクリーンに乗せるこのプロジェクト。脇にマーロン・ブランド、ジーン・ハックマン等々といった大物スターを配した超大作映画として製作され、世界的な大ヒットとなった。 この成功に乗じて、「スーパーマン」と並ぶ「DCコミックス」の人気ヒーロー、「バットマン」を映画化しようという動きも、早速起こる。マイケル・E・ウスランとベンジャミン・メルニカーという2人のプロデューサーが、79年に「DC」から、その権利を買い取ったのである。 当初は『スーパーマン』のシナリオを書いたトム・マンキーウィッツが雇われたが、脚本化は不調に終わる。結局「バットマン」が、実際にその雄姿をスクリーンに躍らせるまでには、それから10年もの歳月を要することになった。 81年、この企画の軸となるプロデューサーが、ピーター・グーバーとジョン・ピーターズへと移る。2人はワーナー・ブラザース映画と契約を結び、製作費1,500万㌦でこの企画を進めることとなった。この予算は83年には、倍の3,000万㌦にまで膨らむ。 そうした中で、新たな脚本家が、雇われては消え雇われては消え…。その数は10人に達したという。 また監督としては、ジョー・ダンテやアイヴァン・ライトマンなどが取り沙汰された。しかしこちらも、なかなか正式決定には至らなかった。 ティム・バートンの名が挙がったのは、長編初監督作品だった『ピーウィーの大冒険』(85/日本では劇場未公開)の成功を受けてのこと。ちょうどその次作である『ビートルジュース』(88)をワーナーの撮影所で準備中だったバートンと会った、プロデューサーのピーターズは、「バットマン」の映画化に対するバートンの情熱と考え方を聞いて、1958年生まれでまだ20代だった彼を、最有力候補とした。 “オタク”出身の代表的な監督のように言われるバートンだが、実は“アメコミ”に夢中になったことは、ほとんどなかった。そんな中で「バットマン」は、バートンが共感できる、ただ1人のコミック・ヒーローだったという。「バットマン」の主人公は、表では大富豪で著名な慈善家であるブルース・ウェインだが、裏では日々“自警活動”で悪を制裁するバットマンであるという、2つの人格を持つ複雑なキャラクター。こうした点に強く惹かれた少年時代のバートンは、アダム・ウェスト主演のTVシリーズ「怪鳥人間バットマン」(66~68)を観るために、放送日は大急ぎで学校から帰宅したという。 また80年代に刊行された、「バットマン」をシリアスでダークな存在として描く、2つのシリーズものコミックには、強く影響を受けた。フランク・ミラーの「ダークナイト・リターンズ」(86)、アラン・ムーアの「ザ・キリング・ジョーク」(88)である。 これらの作品でも描かれる通り、バートンは、ヒーローである“バットマン”と、シリーズを通じて最強のヴィランである“ジョーカー”は、「ワンセット」で、「この2人は基本的に2つのおとぎ話。光と影」であると考えた。そしてそうした解釈に基づいて、「バットマン」の“映画化”にチャレンジしようと決めたのである。 しかし39年の初登場以来、半世紀もの間、大きな人気を得てきた“アメコミ”ヒーローを映画化するには、並大抵ではない覚悟が要る。 バートンは、78年にサンディエゴで開かれたコミコンに参加した際、ショッキングな光景を目の当たりにしていた。公開前の『スーパーマン』について、雄弁に語るリチャード・ドナー監督に対し、熱狂的なファンが、「あんたたちが伝説をぶち壊しにしてるとみんなに言いふらしてやる!」と罵声を浴びせたのである。しかもそれに対し、場内は割れんばかりの拍手喝采で沸きあがった。 そんな体験もあって、「バットマン」の映画化に挑むのは、イコールで「途方もない問題を抱え込むことになる」ことに、自覚的にならざるを得なかった。その上で、あくまでも自分の発想に忠実な映画を作ろうという、決意を固めたのであった。 バートンは、それまでに書かれたシナリオはすべて却下し、ジェリー・ヒックソンによる31頁の準備稿に基づいた新たなシナリオの執筆を、サム・ハムに依頼。『ビートルジュース』製作中にも拘わらず、週末にはハムと会って、脚本についての話し合いを進めたという。 しかしながらこの時点ではまだ、ティム・バートンを監督に据えることに、ワーナー・ブラザースは正式にはOKを出してしていなかった。88年3月、『ビートルジュース』が公開され、予想を超える大ヒットとなった時点で、ようやくGOサインとなったのである。 そしてその年の暮れ、本作『バットマン』(89)は、クランクイン。メインの撮影地は、イギリスのパインウッド・スタジオで、その95エーカーの用地と18のサウンドステージを駆使して、舞台となるゴッサム・シティが建造された。製作費は、3,500万㌦となっていた。 ***** 暴力がはびこる大都市ゴッサム・シティ。しかしこの街のギャングたちの間で、ある噂が囁かれていた。犯罪現場には巨大な蝙蝠の装いをした“バットマン”が現れ、犯罪者たちに制裁を加えては去っていくと…。 その噂を信じて取材を続ける新聞記者ノックスと女性カメラマンのヴィッキー・ベールは、調査の過程で大富豪のブルース・ウェインと出会う。ヴィッキーは謎めいたウェインの佇まいに惹かれるが、孤独な影を持つウェインは、彼女になかなか心を開けない。ヴィッキーが追う“バットマン”の正体が自分であることも、もちろん明かせなかった。 一方でゴッサムの裏社会を仕切るグリソムの右腕ジャック・ネーピアは、ボスの愛人に手を出したことがバレて、罠にハメられる。化学工場で警官隊に追い詰められたジャックの前に、“バットマン”が出現。ジャックは“バットマン”を拳銃で撃つが、強力なバットスーツに跳ね返され、逆に化学薬品のタンクへと突き落とされる。 警察の手を免れて、逃げおおせたジャック。しかし化学薬品の作用で肌は真っ白となり、顔面は極端に引きつった笑い顔に固定され、まるでトランプのジョーカーのようになってしまう。 ジャックは、自ら“ジョーカー”を名乗る。そして、グリソムをはじめ、暗黒街の大物を、次々と血祭りに上げる。 “ジョーカー”は恐るべき犯罪で街を支配。「市政200年記念祭」を乗っ取り “バットマン”に果たし状を叩きつける。ウェインは、“ジョーカー”との過去の因縁に気付き、復讐心を燃やしながら、対決に臨む…。 ***** “バットマン”役の候補となったのは、チャーリー・シーンやメル・ギブソン、ピアース・ブロスナンなど。しかしバートンは、いかにも“ヒーロー”然とした俳優を起用する気は、端からなかった。 “バットマン”が、例えばアーノルド・シュワルツェネッガーのような体格だったとしたら、それを隠すためのスーツなど着る必要はあるまい。バットスーツは、身体を保護するだけでなく、心を守る鎧でもある。そしてその外見に隠された、“人間性”を表せる俳優を求めた。 バートンが最初に思いついたのは、ビル・マーレイ。しかしプロデューサーのピーターズから、別の俳優を提案されると、即座にそちらに切り替えた。それは前作『ビートルジュース』で組んだばかりの、マイケル・キートンだった。 キートンならば、“バットマン”のマスクから覗く眼で、“狂気”を表現してくれるに違いない!彼の身長が175㌢で、筋骨隆々とは遠かったのも、ポイントが高かった。 しかし『ビートルジュース』以前は、『ラブ IN ニューヨーク』(82)や『ミスター・マム』(83)などで“コメディアン”としての印象が強かったキートンの抜擢には、ある意味想定通りのリアクションが起こった。従来の「バットマン」ファンから、ブーイングの嵐が寄せられたのだ。 キートンは原作のようにはアゴが尖ってない上、頭髪も薄いし背も高くない。コミックに引っ掛けて、これこそ究極の「キリング・ジョーク」だなどと嘲られ、抗議の手紙が5万通以上も届いたという。 一方“ジョーカー”役には、クリスチャン・スレイター、デヴィッド・ボウイ、ウィレム・デフォー、ロビン・ウィリアムズなどの名も挙がったが、ジャック・ニコルソンこそ“ジョーカー”に相応しいという声が、当初から高かった。スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(80)で彼が演じた、狂気に陥る主人公とイメージが重なるのも、大きかったと見られる。実際バートンも、ニコルソン以外の“ジョーカー”を考えたことはなかったという。 ニコルソンのギャラは、製作費の6分の1以上を占める600万㌦に加えて、興行収入からの歩合。その上で、仕事時間を自分で決められるという条件付きだった。 監督のバートンを何よりも悩ませたのが、クランク・イン直前になっても出来上がらない、“脚本”だった。固まってないシークセンスが山のようにある中で、ワーナーが土壇場で脚本を書き直すと決定。エンディングは、何度もリライトされることとなった。 因みに脚本の初期段階では、コミックやTVシリーズではお馴染みの、バットマンの相棒ロビンも登場したという。配役としては、エディ・マーフィが候補だったというが、混乱の中でいつしかその存在は消えていった。 撮影開始2日前に、ヴィッキー・ベール役に決まっていたショーン・ヤングが、落馬して鎖骨を折り、出演不能になった。そこで急遽、代役としてキム・ベイシンガーがキャスティングされた(ショーン・ヤングは本作の続編『バットマン リターンズ』(92)で、ヴィランの“キャットウーマン”役を巡ってトラブルを起こすのだが、それはまた別の話)。 クランクイン後にバートンを大混乱に陥れたのは、何と、プロデューサーのジョン・ピーターズだった。撮影現場を訪れては、勝手に脚本の改訂やスタッフの解雇を繰り返すという暴挙に出たのである。 本作クライマックスで、“ジョーカー”はヴィッキー・ベールを人質に取って、鐘楼を上がっていく。この撮影の際ニコルソンがバートンに、「どうして私は階段を上がらなければならないんだ?」と尋ねる一幕があった。それに対してバートンは、「どうしてかな…。とにかく上がってくれ。そこで話し合おう」としか答えられなかったという。 とはいえニコルソンは、バートンに対して寛大な態度を守った。撮影中は、「君の必要としているもの、望んでるものを手に入れろ。そしてただ進み続けるんだ」と、励まし続けた。稀代の名優ニコルソンが、毎日2時間のメイク時間を経て現場に臨むと、6回の演技で6通りの異常者を演じてみせた。バートンはニコルソンに対し、リスペクトの念を強く抱いた。 ・『バットマン』撮影中のティム・バートン監督(左)とジャック・ニコルソン(右) マイケル・キートンに対しては先に記した通り、外部からのプレッシャーが大きかったが、それとは別の意味で、現場では悪戦苦闘の連続だった。基本的に彼は即興的な演技を得意としてきたのに、内向的な役柄とバットスーツで、それらを封印せざるを得なかったからだ。しかもシナリオが絶えず書き換えられ、撮影現場のムードは、ただただ重苦しかったという。「孤独」を強く感じたというキートンは、結果的にそれが“バットマン=ブルース・ウェイン”というキャラを演じる上で「幸いした」と後に述懐している。しかし撮影中はそんな考えに至るわけもなく、何とか眠れるように、「へとへとになるまで夜のロンドンを走った」のだという。 こうしたバートンやキートンの“悪戦苦闘”は、89年6月に本作が公開になると、空前の大ヒットという形で報われた。アメリカでの興収は10日間で1億㌦を超えた初めての映画となり、最終的な興行成績も、当時としては史上5番目にまで達した。 この作品以降、“アメコミ”出身のキャラクターでも、その性格を“人間ドラマ”として重層的に描くことが、「当たり前」となった。その流れは、それから35年経って、“アメコミ”映画が隆盛を極める今日まで続く。 さてバートンはと言うと、映画会社が当然のように望んだ、本作の続編にすぐに取り掛かることはなかった。大ヒットこそしたものの、自分の思い通りにいかなかった本作の内容に、大きな不満が残ったからである。 結局バートンが再びマイケル・キートンを主役に、『バットマン リターンズ』に臨んだのは、本作の3年後。その際は本作の体験に懲りて、要らぬ口出しをハネつけられるように、自ら製作にも当たった。そしてその後は多くの監督作品で、プロデューサーを兼ねるようになったのである。■ 『バットマン』BATMAN and all related characters and elements are TM and © of DC Comics. © 1989 Warner Bros. 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COLUMN/コラム2024.09.06
主役は神に遣わされた“名無しの男”。イーストウッド1980年代唯一の西部劇『ペイルライダー』
「私たちのオリジナルと呼べるようなアメリカ固有の芸術形式はほとんどないと言っていい。たいていはヨーロッパから来たものばかりだ。わずかに例外と言えるのが西部劇とジャズまたはブルースだ」 これは1985年、本作『ペイルライダー』公開を前に、インタビューに応えた際の、クリント・イーストウッドの言。ヨーロッパ文化へのリスペクトと同時に、TVの西部劇シリーズ「ローハイド」(1959~65)で注目を集める存在となり、セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』(64)『夕陽のガンマン』(65)『続・夕陽のガンマン』(66)の“ドル箱3部作”を機に、“映画スター”の座に就いたイーストウッドの、“自負心”が伝わってくる。『ペイルライダー』は、イーストウッドにとっては、『アウトロー』(76)以来9年振りの西部劇にして、11本目の監督作品。そして結果的には、彼が80年代に撮った、唯一の西部劇となった。 この企画は、『アウトロー』公開から間を置かない、1977年頃から始まっていた。発案は、イーストウッドが監督・主演した刑事アクション『ガントレット』(77)の脚本を書いた、マイケル・バトラーとデニス・シュリアック。日頃から「西部劇が好き」と言っていたこの2人と、イーストウッドはネタ出しを行うことにした。 そのプロセスで、脚本家2人がゴールドラッシュの時代について調査を進めると、鉱夫たちと強力な独占企業の間で対立があったことがわかった。そしてこの事実を手がかりに、本作の前身となる、最初の脚本ができたのだという。 しかしこの企画は暫し、引出しの中で眠ることになる。当時イーストウッド付きだったプロデューサーのフリッツ・マーネイズ曰く、「…ウエスタンに客が入らない時代だし、これより凄いウエスタンが現れて、先を越される心配もなかったから、少し様子を見ようということになった…」。 そうこうする内に1980年、ハリウッドを震撼させる“大事件”が起きる。騒動の主役は、かつてイーストウッド主演の『サンダーボルト』(74)で監督デビュー後、『ディア・ハンター』(78)でアカデミー賞作品賞・監督賞を獲得したマイケル・チミノ。彼が鳴り物入りで完成させた超大作西部劇『天国の門』(80)が、大コケ。製作したユナイテッド・アーティスツが、経営危機に追い込まれてしまったのである。 新たな西部劇を作るタイミングは、益々遠のく。しかし1984年になって、ある晴れた日、イーストウッドはふと思った。「西部劇が見たいな」と。 イーストウッドの作る映画のすべてには、共通する規則があるという。それは、「自分がスクリーンで見たいと思ったものを作る」ということだった。また、すごく魅力的に思える脚本があって、テーマがはっきりと掴めている場合、「他の人にそれを説明するのがめんどう」だと、彼は迷わず自らが監督することを決めるのだという。「機を見るに敏」という言葉があるが、イーストウッドの場合は、「機を待つに敏」とでも言うべきか?彼は眠っていた脚本を引っ張り出して、本作『ペイルライダー』の映画化に取り掛かった。 ***** ゴールド・ラッシュ時代のカリフォルニア、カーボン峡谷。鉱夫たちとその家族が居を構え、金の採掘に挑んでいるが、周辺一帯を仕切り、この峡谷の採掘権も得ようとするラフッド(演:リチャード・ダイサート)の一派の嫌がらせが続いている。 15歳の少女ミーガン(演:シドニー・ペニー)は、母のサラ(演:キャリー・スノッドグレス)と暮らしていたが、ラフッドの手下に愛犬を撃ち殺されてしまう。神に祈りを捧げ、救いを願うミーガン…。 峡谷のリーダー的存在であるハル(演: マイケル・モリアーティ)は、町に物資の調達に出向いた際、ラフッドの手下たちに、襲われる。しかしその場に、見知らぬよそ者の男(演:クリント・イーストウッド)が現れ、鮮やかな手際で、手下たちを叩きのめす。危機を救われたハルは、白馬に乗って去ろうとする男を、自分たちの集落へと誘う。 ミーガンはその男を、“神の使い”だと直感する。ならず者と夕食を共にしたくないと反発したサラも、男が牧師=プリーチャーの服装をしているのを見て、態度を一変する。 “プリーチャー”と呼ばれるようになった男は、お礼参りにやってきた、ラフッドの息子ジョッシュ(演:クリストファー・ペン)と、連れの大男(演:リチャード・ギール)も、軽く一蹴。集落から頼りにされる存在となる。 プリーチャーを懐柔し、集落を買収しようとしたラフッドだったが、交渉は決裂。連邦保安官を務めながら悪名高い、ストックバーン(演:ジョン・ラッセル)とその副官たちを呼び寄せ、一気に蹴りをつけようとする。 ストックバーンの名を聞いて表情をこわばらせたプリーチャーは、一旦峡谷から姿を消す。そして拳銃を携えて、戻ってくる…。 ***** “ドル箱3部作”で演じた“名無しの男”以来、イーストウッドの十八番とも言える、一匹狼の流れ者。本作でもヒゲをたくわえ、目を鋭く光らせるという、お馴染みのスタイルである。 しかし先に記した“ネタ出し“に於いて、聖書の話との対比を広げてゆく内に、イーストウッドの意向として、「…超自然的側面を少しばかり強調してしまうことになった」という。 少女ミーガンが、救いを求める祈りとして暗唱するのは、聖書の中の黙示録第4章。 ~そこで見ていると、見よ、蒼白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者(ペイルライダー)の名は“死”と言い、それに黄泉が従っていた~ イーストウッド曰く、それは「…一種の大天使、神話的人物…」。そして彼が演じる“プリーチャー”は、白い馬に乗って現れることとなった。 “プリーチャー”が着替える際、ハルがその背中に、6つの弾痕があるのを目撃する。イーストウッドは脚本家たちに“プリーチャー”が、「敵役の保安官と過去に関わりがあったようにする方がいい」との示唆もした。それによって“プリーチャー”のキャラクターに奥行が出て、黙示録の騎士というイメージにもぴったり合うという考えだった。 以前から、聖書の話の神話性と西部劇のつながりに、「興味があった」というイーストウッド。本作にそうした側面を盛り込むことによって、今まで沢山の西部劇を観てきた観客が、本作は「一味違う」と感じることを望んだ。その一方でそうした観客が好む、「ノスタルジックなところ」も併せ持つようにすることも忘れなかった。 流れ者が、世話になった一家を救い、殺し屋たちを倒して去って行くストーリーの構造。これはまさに、ジョージ・スティーヴンス監督、アラン・ラッド主演の名作西部劇『シェーン』(53)へのオマージュと言える。 本作のキャスティングで特徴的、というかイーストウッドらしいのは、“プリーチャー”の出現を好ましく思わなかったのに、やがて愛してしまうサラ役に、キャリー・スノッドグレスを起用したこと。イーストウッド曰く、「ジェシカ・ラングやサリー・フィールドやシシー・スパイセクだけが女優じゃない。彼女たちに負けないぐらい才能がある女優が、そこいら中にいる」 本作から40年近く経った今となってはピンと来ないかも知れないが、要はハリウッドが、「今いちばん人気がある俳優ばかり追い回している」ことへの批判である。スノッドグレスのような、「名前を知られていなくても腕のある俳優」を起用するのが、イーストウッド流というわけである。 因みに本作に起用されたことに小躍りしたのは、悪役であるラフッドの息子を演じた、クリストファー・ペン。ショーン・ペンの弟で、当時売り出し中の若手俳優だったが、子どもの頃から西部劇に出たいと思っていた彼にとって、出演作を全部観るほどファンだったイーストウッドとの共演は、まさに夢の実現。憧れの西部劇ヒーローである“名無しの男”に対し、「この町を出ていけ」というセリフを吐くのは、至福の体験だったのである。 撮影は、1984年9月にスタート。アイダホ州サンヴァレーを中心にロケ撮影を行い、イーストウッド流早撮りで、40日足らずでクランク・アップとなった。 80年代中盤は、映画作家としてのイーストウッドの評価が、フランスなどヨーロッパで高いものになりつつあった頃。本作は85年の「カンヌ国際映画祭」の“監督週間”に出品され、大評判となった。『ペイルライダー』は、やはりイーストウッドの監督・主演作である『荒野のストレンジャー』(73)と表裏一体の作品という解釈が、広く為された。『荒野の…』主人公が、死霊≒悪魔を象徴するキャラクターであるのに対し、本作の“プリーチャー”は、神に遣わされた復讐者ということからである。 本国アメリカでは、その年の6月に公開。10日間で2,150万㌦を売り上げ、最終的には興収4,000万㌦を突破する大ヒットとなった。 実は本作に取り掛かる頃、イーストウッドの元には、もう1本西部劇の脚本が届いていた。その中味を気に入ったイーストウッドは、映画化権を取得したが、『ペイルライダー』の製作を優先したため、そちらは一旦ペンディングとなった。 それが日の目を見たのは、7年後の92年。それまで無縁だった、アカデミー賞の作品賞・監督賞をイーストウッドにもたらした、『許されざる者』である。1930年生まれの彼がその主役、足を洗った老齢のガンマンを演じるのに適した、60代になってからの映画化だった。 イーストウッドはまさに、「機を待つに敏」な男である。■ 『ペイルライダー』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2024.08.08
『スピード』が、キアヌ・リーヴス“アクションスター”への道を切り開いた!
1964年生まれ。今年還暦を迎えたキアヌ・リーヴスの、俳優としてのイメージを問われれば、代表作に『マトリックス』シリーズ(1999~2021)や『ジョン・ウィック』シリーズ(2014~23)等がある、“アクションスター”というのが、大勢だろう。 母はイギリス人、父は中国人とハワイアンのハーフ。東洋系を感じさせる風貌もあって、映画俳優として台頭し始めた20代中盤から、日本ではいち早く人気者となった。しかしその頃のキアヌには、“アクション”のイメージは、ほとんどない。 フィルモグラフィーを覗けば、ロックスターを夢見るおバカ高校生役の『ビルとテッドの大冒険』(89)、親友のリヴァー・フェニックスと共演し、男娼を演じた『マイ・プライベート・アイダホ』(91)、フランシス・フォード・コッポラ監督が手掛けたクラシックホラー『ドラキュラ』(92)、ベルナルド・ベルトルッチ監督の演出の下、仏教の開祖役にチャレンジした『リトル・ブッダ』(94)等々。彼がその頃に出演した中で、“アクション映画”と言えるのは、FBIの潜入捜査官を演じた、『ハートブルー』(91)ぐらいだ。 若き日のキアヌは、エッジが利いた、個性的な役どころを好んで演じていたのである。 そんなキアヌとアクションのイメージを強く結び付け、本人にとっても、恐らく開眼するきっかけになったと思われるのが、本作『スピード』(94)である。 ***** ロサンゼルス。オフィスビルのエレベーターに爆弾が仕掛けられ、乗客達が閉じ込められた。ロス市警SWAT隊員のジャック(演:キアヌ・リーヴス)は、相棒ハリーと、危機一髪で爆弾を除去。乗客達を救出した。 ジャックらは更に、犯人の爆弾魔(演:デニス・ホッパー)を追い詰める。ところが爆弾魔は、強烈な爆発と共に、姿を消す。 数日後、ジャックの眼の前で、知り合いが運転する路線バスが、大爆発。爆弾魔は生きていた。彼はジャックに直接電話を寄越し、別の路線バスにも爆弾を仕掛けた旨を伝え、370万㌦の身代金を要求する。 その爆弾は、バスが時速80㌔を超えると、起爆装置のスイッチが入り、その後は、時速80㌔を下回ると、大爆発を起こす…。 該当するバスに追いつき、ジャックが乗り移ると、すでに起爆装置のスイッチはオンに。更に予想外のアクシデントから、ドライバーが負傷。スピード違反で免停中のため、バス通勤していたアニー(演:サンドラ・ブロック)に、ハンドルを託すことになる。 次から次へとあわや爆発のピンチが訪れる。ジャックは、乗客たちの助けを借りて、危機を何とか乗り越えていく。 爆弾魔の正体が、警察に恨みを抱く元警官で爆発物処理班員だったハワード・ペインと判明。ハリーが逮捕に向かうが、ペインの罠に嵌って命を落とす。 危機を共に乗り越えていく中、ジャックとアニーは、お互いに好感を抱くようになる。 アニーがジャックに言う。「極限状況で始まった恋は長続きしない」 果して、止まれないバスの運命は!? ***** 速度を落とすと、乗り物に仕掛けた爆弾が爆発するという設定。『スピード』の日本公開時、海外公開もされた日本映画『新幹線大爆破』(75)に酷似していることが、大きな話題になった。 しかし脚本を書いたグレアム・ヨストによると、元ネタは別。「世界のクロサワ」こと黒澤明監督が、ハリウッド進出作として1960年代後半に準備していた、「暴走機関車」だという。「暴走機関車」は、ブレーキ系統のトラブルによって止める術がなくなり、猛スピードで突っ走り続ける機関車を主軸にした物語。ヘンリー・フォンダが主演する予定だったが、諸事情から頓挫した。 この「暴走機関車」に、ヨストの父が関わっていた。そこで彼はアウトラインを知り、後にシナリオを目にしたのだという。 因みにこのシナリオを原案にして、1985年にアンドレイ・コンチャロフスキー監督、ジョン・ボイド主演の『暴走機関車』が製作されている。オリジナルに様々な改変を加えたこちらの作品については、ヨストは特に参考にすることはなかったという。 それまでTVシリーズの製作や百科事典の執筆などを手掛けていたヨストにとって、『スピード』は、初めて書いた映画の脚本。まずパラマウントに持ち込むものの、ペンディングとなって、最終的に20世紀フォックスに拾われた。 いざ映画化となって、監督候補が何人かいた内から決まったのが、オランダ出身のヤン・デ・ポン。それまでには、『ダイ・ハード』(88)『ブラック・レイン』(89)『氷の微笑』(92) 『リーサル・ウェポン3』(92)等々、多くのアクション映画で撮影を務めてきた。 とはいえ、監督するのは初めてであるヤン・デ・ポンに依頼したことからもわかる通り、本作『スピード』に関してフォックスは、他の映画の穴埋めをするような、小さなB級作品として扱う心積もりだった。当初組まれた予算は、2,600万㌦。最終的には3,000万㌦程度になったが、当時の大作の製作費は、6,000万から6,500万㌦ほど。 更に言えばフォックスは、本作と同じ年に、ジェームズ・キャメロン監督、アーノルド・シュワルツェネッガ―主演の『トゥルーライズ』に、1億2,000万㌦もの製作費を投じていた。それと比べれば、僅か4分の1である。 本作『スピード』主役のジャック役の有力候補だったのは、ジョニー・デップ。しかしデップは、脚本に魅力を感じないという理由で、オファーを蹴る。 その他にも何人かの若手スターが候補になる中で浮上したのが、キアヌ・リーヴス。キアヌは、ストーリーには凄く惹かれながらも、「筋肉ひとつない自分には、到底この役は務まらない」と思ったという。ちょうど前の主演作『リトル・ブッダ』で、ガウタマ・シッダールタ=若き日のお釈迦様を演じた際に、断食をして体力を落としていたタイミングでもあった。 ヤン・デ・ポンは、キアヌの運動能力に不安を感じていた。そこで、それまでのキアヌの出演作で、ほぼ唯一のアクション作品『ハートブルー』(91)での演技をチェック。サーフィンにガンアクション、アメフトにスカイダイビング等々、ほとんどノースタントでこなしたキアヌの姿を見て、「イケる」と判断を下した。 正式にジャック役に決まると、まずは2か月間ジムに通って、ウェイト・トレーニング。と言ってもヤン・デ・ポンは、当時の流行りだった、スタローンやシュワルツェネッガーのような、巨大な筋肉をつけたアクション俳優になって欲しかったわけではない。身体の均整と運動能力を高めるためのトレーニングを課したのである。 キアヌはSWAT隊員を演じるに当たって、本物の警官に会ったり、ビデオを見たりしてその仕事ぶりを研究するのと同時に、ヘアスタイルは、頭皮が見えるくらいまで刈り上げて、監督の前に現れた。それは少々短すぎたが、その時点から撮影まで2週間あったので、ちょうど良い塩梅の、クルーカットになったという。 ヤン・デ・ポンが思い描いた主人公は、観客が感情移入できる、リアルで等身大のアクションヒーロー。鍛えた胸の筋肉を晒すこともなく、悪人をバタバタと殺していくわけでもない。イメージ的には、ヒッチコック作品に於けるケーリー・グラントや、ウィリアム・ホールデンだったという。 ヤン・デ・ポンは、ヨストの脚本にはあった、主人公の暗い過去などはすべてカットした。観客はそんなものを観たいと思ってないし、そもそもキャラクターについて知りたいことは、その行動を見ていれば、「すべてわかるはず」という考えだ。主人公だけでなく、犯人も含めて主要キャラすべての背景や心理状態など、敢えて描かなかったという。 アニー役のサンドラ・ブロックは、1967年生まれ。本作出演時は20代後半で、まだまだ売り出し中の頃。キアヌとのやり取りもフレッシュに映え、一躍ブレイクに至る。因みに彼女は、役のためにバス専用の運転免許を取得したという。 本作のヴィランは、デニス・ホッパー(1936~2010)。監督・主演したアメリカン・ニューシネマ『イージー・ライダー』(69)で天下を取りながら、その後ドラッグ漬けで低迷。『ブルー・ベルベッド』(86)で奇跡の復活を遂げて以来、改めて俳優・監督・写真家として活躍中だった。ホッパーの怪演は、キアヌとのコントラストも良く、インパクト大である。 本作は15週間の撮影スケジュールの内、7週間は大掛かりなバスの走行シーンに費やされた。ロスの空港近くから28㌔に渡って走る、開通前の新しいハイウェイでは、大規模なロケが行われた。 フリーウェイの朝の交通渋滞を再現するため、車に乗った400人のエキストラが集められた。まだ建設中だったため、作業員がコンクリートを流し込んだり、標識を立てている傍で、撮影スタッフが仕事をすることも多々あったという。 そんな中で、バスの走行シーンは通常4~6台のカメラを使用。特に複雑なスタントシーンには、カメラ、照明の他にも様々な機材を装備した、12台の車両を使って撮影が行われた。 メインの舞台はバスだが、この映画のアクションの舞台は3段構え。エレベーターの中で繰り広げられるオープニング・アクション用には、フォックスの敷地内に、地上5階の高さで、実際にエレベーターと、4本のエレベーターシャフトが入ったセットを組んだ。 バスが一段落した後は、爆弾魔が乗っ取った地下鉄で大アクションが繰り広げられる。こちらは、当時新しく完成したメトロレール・レッドラインでロケを行った。 15週に渡る撮影のまさに中盤、8週目に大きなアクシデントが襲った。本作と直接関係ないが、キアヌの親友であるリヴァー・フェニックスが、薬物の過剰摂取のため、23歳の若さで命を落としたのだ。 キアヌのショックを考えて、スケジュールの調整などが行われた。しかしヤン・デ・ポンは、キアヌのことを考えると、逆に忙しくしておくのが最良と考え、撮影を中断せずに、続行した。 ポスト・プロダクション。フォックスの重役たちは大した期待はせずに編集に立ち会って、本作の出来の良さに吃驚した。それまで出し渋っていた、SFXの仕上げに掛かる追加費用を、ポンと手渡すほどに。また公開日も、より良い日程にするため、早めることとなった。『スピード』は1994年6月、アメリカで公開されると、TOPを独走。シーズン最大のヒットとなり、国内で1億2,000万ドル、全世界で3億5,000万ドルの興行収入を上げた。その年の12月に正月映画として公開された日本でも、大ヒット。配給収入45億円は、現在で言えば100億円興行と言っても良いだろう。 フォックスの失態は、本作契約時、続編がある場合の継続契約に、キアヌにサインさせるのを怠っていたこと。そのため、ヤン・デ・ポン監督とサンドラ・ブロックは続投した『スピード2』(97)に、キアヌは出演することなく、同時期に製作された『ディアボロス/悪魔の扉』(97)で、アル・パチーノと共演することを選んでいる。 仕方なく『スピード2』では、本作のセリフ「極限状況で始まった恋は長続きしない」を伏線(?)として、アニーはジャックとすでに別れている設定に。アニーの新たな恋人として、ジェイソン・パトリックが演じる別のSWAT隊員が登場した。 キアヌはこうした経緯について、「サンドラには悪いことをした…」と述懐している。サンドラの方はというと、本作の撮影終盤、ハイな状態が続いてストレスをすごく感じていた時にキアヌだけが、「…黙って隣に座って、そっと背中をなでてくれた」ことなどもあって、根に持つようなことはなかった模様。後に韓国映画のラブストーリーをリメイクした『イルマーレ』(2006)で、2人は再共演を果している。 さて本作に関して当時、「アクション・ヒーローになるつもりはないよ。ジャックのキャラクターもアクション重視の性格ではないからね」などと言ってたキアヌ。『マトリックス』や『ジョン・ウィック』を経た、現在の彼の在り方を考えると、これは恐らく「若気の至り」が言わせたセリフだったのだろう。■ 『スピード』© 1994 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.08.02
若き天才デイミアン・チャゼルが、『ラ・ラ・ランド』で成し遂げたこと
1985年生まれの、デイミアン・チャゼル。ハイスクール時代はミュージシャンを目指してジャズを学ぶが、ハーバード大学に進む頃には、幼き日の夢だった映画監督への想いが甦る。チャゼルは貪るように古今東西の映画を観まくったというが、そんな中でも、“ミュージカル映画”に夢中になった。 本作『ラ・ラ・ランド』(2016)のアイディアが浮かんだのは、ハーバード在学中。チャゼルは学友で、その後共に歩むことになる、作曲家ジャスティン・ハーウィッツと、ストーリーを練り始めた。 そのハーウィッツと共に、ハーバードの卒業製作として作り上げたのは、16mmフィルムで撮影した、全編モノクロのミュージカル『Guy and Madeline on a Park Bench』(2009)。ジャズに執心する主人公Guyのキャラクターは、チャゼルのその後の作品にも、引き継がれていく。 この卒業製作が評判となり、小規模ながら劇場公開に至った。ちょうどその頃、2010年にチャゼルは、『ラ・ラ・ランド』の脚本初稿を書き上げる。 プロデューサーを雇っての売込みに、『ラ・ラ・ランド』に興味を持つ製作会社が現れた。しかし、主人公が愛する音楽をジャズでなくてロックに変更することや、オープニングの曲の差し替え等を求められたため、プロジェクトは頓挫する。 チャゼルは、方針を転換。商業映画デビュー作としては、『ラ・ラ・ランド』よりは低予算でイケる、『セッション』(14)に、取り組むことにした。 ハイスクール時代の自身の経験も多く盛り込んだという『セッション』は、名門音楽学校に入学した若きドラマーと伝説の鬼教師の攻防を、息も突かせぬド迫力で描いた作品。 330万ドルの製作費に対し、世界中で5,000万ドルの興行収入を上げ、またその年度のアカデミー賞で、5部門にノミネートされた。結果として、作品賞及びチャゼルがノミネートされた脚色賞は逃したものの、鬼教師を演じたJ・K・シモンズに助演男優賞、更に編集賞、録音賞の計3部門での受賞となった。『セッション』をリリースした際、まだ30歳になる前だったチャゼルは、「若き天才」との呼称を恣にする。ここに、『ラ・ラ・ランド』映画化の機は熟した。製作会社のライオンズゲートに提案すると、製作費3,000万㌦を掛けて、チャゼルが思い描いた通りの内容で撮れることになったのだ。 当初主役のカップルには、エマ・ワトソンと、『セッション』の主演だったマイルズ・テイラーの名が挙がった。しかしワトソンは、ディズニーの実写版『美女と野獣』(17)ヒロインのオファーを選ぶ。そしてテイラーとの交渉も不調に終わったため、新たなキャスティングが進められることとなった。決まったのは、同じエマでも、エマ・ストーン、そしてライアン・ゴズリングである。 ***** クリスマスが近くても暑い、冬のロサンゼルス。 女優になる夢を叶えるためこの街に来たミア(演:エマ・ストーン)は、映画スタジオ内のコーヒーショップに勤めながら、様々なオーディションを受ける日々。 ある日、ピアノの音色に誘われて足を踏み入れたレストランで、その奏者に感動を伝えようとする。しかし当のピアニスト、セブことセバスチャン(演:ライアン・ゴズリング)は、店長の指示に従わず、勝手な曲を演奏したため、その場でクビに。セブは近寄ってきたミアを無視し、店外へと消えた…。 春が訪れ、ミアとセブは再会。偶然の出会いが続き、2人は言葉を交わすようになる。「時代遅れ」と揶揄されるようなジャズをこよなく愛するセブの夢は、いつか好きな曲を好きなだけ演奏する、自分の店を持つこと。お互いの夢を熱く語り合う内に、2人は惹かれ合い、やがて結ばれる。 夏が来る頃には、ミアとセブは同棲。互いの夢を支え合い、幸せの絶頂にいた。 生活のための術が必要と考えたセブは、かつての音楽仲間が組んだバンドに、キーボード奏者として参加。その楽曲は、セブが愛するフリージャズとはかけ離れており、ライヴに出向いたミアは、戸惑いを覚える。 しかしバンドは大人気となり、セブはツアーやレコーディングで多忙に。2人は、会えない時間が多くなる…。 秋。ツアーを抜け出して、ミアにサプライズを仕掛けたセブ。しかしミアのちょっとした一言から、大喧嘩となってしまう。 そんな折り、ミアがセブの勧めで書き上げたひとり芝居が、幕を開ける。しかし客席はガラ空き。公演後には酷評が耳に届く。打ちのめされたミアは、仕事のため公演に間に合わなかったセブに、「何もかも終わり」と告げ、故郷に帰ってしまう。 数日後、ひとり残されたセブの元に、ミアを探す配役事務所から電話が入るが…。 ***** ミア役のエマ・ストーンは、ブロードウェイでミュージカル「キャバレー」に出演。評判になったのを受けてのキャスティングだった。 チャゼルは、セブ役にライアン・ゴズリングを得たことを、本作の「製作の長いプロセスのキーになった」ポイントとして、挙げている。 ストーンとゴズリングの共演は、『ラブ・アゲイン』(11)『L.A. ギャング ストーリー』(13)に続いて、本作で3度目。そのすべてでカップルを演じている2人の相性が、フレッド・アステア&ジンジャー・ロジャース、ハンフリー・ボガート&ローレン・バコール、マーナ・ロイ&ウィリアム・パウエルといった、ハリウッドの伝説のカップルのように、「しっくり合っている」と、チャゼルには感じられたのだ。 撮影前の準備期間、ゴズリングはジャズ・ピアノを、3ヶ月練習。その成果として、本作では全編、本人による演奏が見られる。手元のクローズアップでも、代役は使っていない。 セブが加入するバンドのリーダーを演じた、ミュージシャンのジョン・レジェンドは、ゴズリングのあまりの習得の早さに驚愕。嫉妬すら覚えたという。 ピアノと同時に、ゴズリングはエマ・ストーンと、ダンスの練習にも励んだ。ストーン曰く、2人は売れないアーティストの役なので、圧倒的な歌唱力やダンスといったものは、「求められなかった」という。2人の関係がある意味では未熟に見えることを、チャゼルが望んだが故である。 さて本作のタイトル『ラ・ラ・ランド』は、チャゼルによると、ロサンゼルスを「からかうような感じで呼ぶとき」に使うという。それに加えて、空想にふけるという意味もあり、夢を見るのはすてきなことだというメッセージも籠めたのである。 そんな『ラ・ラ・ランド』は、40日間掛けて、グリフィス天文台から歴史あるジャズクラブまで、ロサンゼルスの各所でロケ撮影が行われた。 チャゼルが愛する、1930年代から50年代に掛けての、アステア&ロジャースやジーン・ケリーが主演したミュージカルは、スタジオにセットを組み、先に歌声を録音した楽曲を流しながら、ダンスシーンを撮った。しかし本作は、ロケ地で演者が歌って踊り、生歌を同時に録音する方式で、撮影が行われた。 しかもすっかりデジタル撮影が主流になっていたこの時代に、フィルムを使用。並大抵の準備では、済まなかった。 オープニングのつかみとなる、ハイウェイの大渋滞を縫っての群舞シーン。警察の協力で、高速道路を封鎖して、ロケが行われた。 驚異のワンカット撮影を、限られた時間で行わなければならないため、スタジオの駐車場に、作り物の分離帯や車を沢山置いて、丁寧にリハーサル。いざ本番は、気温が43度という猛暑の中で行われた。 一発OKとはいかないため、撮影が終わる度にダンサーたちはアシスタントに抱えられて、スタート地点に戻る。そして汗を拭き取り予備の衣装に着替えてから、リテイクに臨んだという。 因みに本作の振り付けを担当したのは、TVのミュージカルドラマ「glee/グリー」で評判をとった、マンディ・ムーア。高速道路のシーンでは、撮影中に写り込んでしまうことを避けるため、車の下に隠れて指示を出したという。 ハリウッドの丘の上で、ストーンとゴズリングが踊るシーンも、現地ロケ。日没直後のマジックアワーを狙ったため、撮影のチャンスは、2日間で30分ほど。そんな中で2人は、長回しのダンスシーンを、繰り返し撮影した。 先に記した、ハリウッド黄金期のミュージカル以上に、チャゼルが影響を受けたのは、実はフレンチ・ミュージカル。ジャック・ドゥミー監督、ミシェル・ルグランが音楽を担当した『シェルブールの雨傘』(1964)こそが最大級の意味で、「僕を成長させてくれた映画」と、語っている。そして当然のように本作でも、オマージュが捧げられている。 その一方でチャゼルが腐心したのは、ノスタルジックや演劇的になり過ぎないようにすること。曰く、「ミュージカルには他のジャンルにない楽しさ、高揚感があるけれど、同時に現実的で正直なストーリーが必要だ。ファンタジーとリアルがね」 ファンタジーとリアル/夢と現実が一体となった、新しいミュージカル映画のスタイルを作り出すための一助となったのが、マーティン・スコセッシ監督のボクシング映画『レイジング・ブル』(80)。この作品では、カメラをボクシングのリング内に持ち込んで、常にボクサーの動きに焦点を合わせる形で、撮影が行われている。スコセッシは、リング上では観客がボクサーの眼を持ち、殴られているのは自分だという意識を持たせるために、この手法を考案した。 これを「表現主義的なカメラワーク」と言うチャゼルは、スコセッシがリングの中にカメラを置いたように、自分はダンスの中にカメラを置きたかったと語っている。 スコセッシ作品からの影響という意味では、『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)も忘れてはいけない。この作品でカップルを演じたのは、ライザ・ミネリとロバート・デ・ニーロ。ミネリは無名の俳優からハリウッドの大スターに、デ・ニーロは売れないサックス奏者からジャズ・クラブのオーナーへと成功の道を歩みながら、別れ別れとなっていく。『ラ・ラ・ランド』のミアとセブの軌跡は、『ニューヨーク・ニューヨーク』の2人の歩みと、ほぼほぼカブる。 さて本作『ラ・ラ・ランド』の別れた2人は、ラスト近くになって、5年振りに再会。そこで実際にはそうならなかった、2人が添い遂げる人生が、イメージの中で展開する。 チャゼルが「ただの夢じゃない」と語るこのシーン。たとえ今は別々の人生を送っていても、あの時2人で愛し合った、素晴らしき時間があったからこそ、今の自分たちがある。「あり得た人生」を想うのは、単なる後悔ではなく、希望ともなる…。 『ラ・ラ・ランド』はクランクアップから、編集に1年掛けて完成。まずは2016年秋の「ヴェネチア映画祭」オープニング作品として、大きな話題をさらった。 その後本国アメリカで大ヒットを記録すると同時に、各映画賞で受賞ラッシュとなる。その本命と言うべき、2017年2月に開催されたアカデミー賞では、史上最多タイの14ノミネート。監督賞、主演女優賞など6部門で受賞を果したが、それ以上に前代未聞のアクシデントに巻き込まれたことが、大ニュースとなった。 この年の“作品賞”のプレゼンター、ウォーレン・ベイティが受賞作品の封筒を開け、『ラ・ラ・ランド』と発表を行った。しかし受賞スピーチが始まった直後に、これがスタッフのミスによる封筒取り違えと判明。改めて『ムーンライト』(16)に“作品賞”が与えられるという、大珍事が起きてしまったのだ。 “作品賞”という大魚を逃しながらも、それ以上にインパクトの残る形で、記録や記憶に残った、『ラ・ラ・ランド』。それもまたデイミアン・チャゼル、当時の「若き天才」ぶりに贈られた、勲章のようにも思える。■ 『ラ・ラ・ランド』© 2017 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved. Sebastian (Ryan Gosling) and Mia (Emma Stone) in LA LA LAND. Photo courtesy of Lionsgate.
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COLUMN/コラム2024.07.18
巨匠リドリー・スコットが描く、よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な物語『ハウス・オブ・グッチ』
知らぬ者は居ないであろう、イタリア発のファッションブランド、「グッチ」。 1921年にグッチオ・グッチが、フィレンツェに開いた靴屋が、その始まり。世界進出はその息子の代で、三男のアルド・グッチが父親の反対を押し切って成功させたもの。「グッチ」の有名なアイコンデザイン「GG柄」も、商才溢れるアルドが考案した。 アルドの後も、「グッチ」のTOPは、グッチ家の者が務め、その王国は引き継がれていく筈だった。しかし21世紀の今、「グッチ」の経営陣には、グッチ家の者はいない…。 2000年に出版されたサラ・ゲイ・フォーデンの著書「ハウス・オブ・グッチ」は、原題のサブタイトルが、「A Sensational Story of Murder, Madness, Glamour, and Greed(殺人、狂気、魅力、そして強欲のセンセーショナルな物語)」。この書籍でグッチ家の30年間を描いた彼女は、「グッチの話はいろいろな意味で、私のつくり話よりもずっととんでもない話だと思った」としている。 その「とんでもない話」に魅了され、ほぼ20年間、映画化を模索し続けたのが、プロデューサーのジャンニーナ・スコット。監督や出演者の候補には、様々な名前が浮かんでは消えた。結局メガフォンを握ることになったのは、ジャンニーナの夫で現代の巨匠、リドリー・スコットだった。 リドリーは、グッチ家はまるで「ファッション界のイタリア王室」のようで、その興亡には、「ボルジア家やメディチ家」を想起させられたという。即ちこの題材は、「面白くならないわけがない!」と。 2019年11月、リドリーの監督就任と時を同じくして、主演も決まった。”歌姫”にして、『アリー/スター誕生』(2018)で演技者としても一流なことを証明したばかりの、レディー・ガガである。 翌夏=2021年8月、アカデミー賞受賞者やノミネート経験者がズラリと並ぶ、豪華キャストが発表された。そして本作『ハウス・オブ・グッチ』は、2021年2月から5月まで主にイタリアで撮影を敢行。その年の11月に、公開に至った。 ***** 1970年、父がオーナーの運送会社で働くパトリツィア(演:レディ・ガガ)は、弁護士を目指すマウリツィオ(演:アダム・ドライバー)と知り合い、交際を始める。彼は有名ブランド「グッチ」の、創業者一族だった。 マウリツィオは父ロドルフォ(演:ジェレミー・アイアンズ)から結婚を認められず、パトリツィアの実家へと転がり込む。2人はゴールインし、やがて娘が生まれる。 ロドルフォがこの世を去ると、彼の兄で「グッチ」の屋台骨を支えるアルド(演:アル・パチーノ)は、甥のマウリツィオを「グッチ」へと呼び寄せる。 アルドは、息子パオロ(演:ジャレッド・レト)の無能さに、悩んでいた。その一方で、高齢にも拘わらず、TOPを後進に譲る素振りを見せない。パトリツィアは夫が軽視されていることや、自分を「グッチ」の一員と認めないことに、不満を溜めていく。 パトリツィアは一計を案じ、パオロを味方とし、アルドの脱税を告発させる。アルドは獄中の人となり、またパオロも追放して、マウリツィオは、「グッチ」のTOPとなる。 しかし妻の振舞いに、徐々に嫌気がさしてきたマウリツィオは、家を出て、別の女性と暮らすようになる。パトリツィアは、もはや夫の愛情を取り戻すことはできなかった。 怪しげな女占い師のピーナ(演:サルマ・ハエック)に傾倒したパトリツィアは、彼女の力を借りて、夫を殺害する計画を立てる。一方で経営の才覚がなかったマウリツィオは、親の代からの腹心の部下の裏切りに遭って、社長の座を追われる。 1995年、マウリツィオは自宅の前で銃撃されて、命を落とす。悲劇の未亡人を装うパトリツィアだったが…。 ***** 脚本家の1人に起用されたのは、イタリア育ちのロベルト・ベンティヴェーニャ。母がデザイナーだったこともあって、彼には馴染みのある世界だったという。 リドリー・スコットはベンティヴェーニャとの打ち合わせに際し、登場人物たちをシェイクスピアのキャラクターに例えた。マウリツィオは、悩める王子ハムレット。パトリツィアは、奸計を巡らすマクベス夫人。そしてパオロは、道化だと。 実際に起こった事件をベースにした本作だが、『プロメテウス』(2012)以降、リドリー・スコット作品のカメラを任されている撮影監督のダリウス・ウォルスキーは、この作品はドキュメントドラマというよりも、「よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な惨事」だと語っている。 こうした世界観の中で、俳優陣は躍った。“カメレオン俳優”の名を恣にするアダム・ドライバーは、世間知らずの青年マウリツィオが、パトリツィアとの庶民的な生活に喜びを見出しながらも、名門ブランドTOPの地位を得て、己を見失っていく姿を的確に演じた。 ジャレッド・レトは、「グッチ」TOPのアルドの頭痛の種である、ボンクラ息子パオロ・グッチを演じるに当たって、自らのアイディアで、白髪交じりのハゲ頭で小太り体型に、特殊メイクで変身。毎日6時間のメイク時間は、集中してキャラクターについて瞑想するには、「最高の時間」だったという。 アル・パチーノ、ジェレミー・アイアンズの両ベテランも、それぞれの持ち味を生かしながら、見事に実在の人物を演じてみせた。 しかし本作で特筆すべきは、何とも言ってもパトリツィアを演じた、レディー・ガガであろう。 役作りのために、イタリア語なまりの英語を半年もの間訓練。パトリツィアについての文献を読み漁り、映像を見まくったというが、その際には、パトリツィアが実在の人物で、インタビューではよく嘘をつくことがあったため、ジャーナリストのような視点が必要だったという。ガガは正体を隠して、イタリアの街頭に立って、彼女のイメージの聞き込みまで行った。 役作りに於いては、3種類の動物をイメージした。30年近くに及ぶ物語の中で、20代前半の若き日々は、飼い猫。中盤は、遊び心を持って狩りをするキツネ。そして終盤は、獲物を引きつけてから飛び掛かる、ヒョウを観察して、パトリツィア像を作り上げた。 因みに稀代の悪女のイメージが強いパトリツィアだが、ガガはそうした既成のイメージからも距離を置いた。曰く「彼女がマウリツィオ・グッチと結婚したとき、彼は自分の一族全員に見放されたので、お金のために結婚したわけではなかった」。そして彼を殺害した時には、二人はすでに離婚しており、「金銭的なことが懸かっていたわけでは全くなかった」。即ち凶行に至ったのは、「彼女の心が傷ついたから、そして愛のために違いない」という解釈で、パトリツィアを演じているのである。 本作でパトリツィアは、「グッチ」の経営に参画したいと考え、自分にはその能力があると思っていたのに、“部外者”扱いされ、男性社会の中で疎外され続けた女性として描かれる。この辺りは、『エイリアン』(1979)のリプリーにはじまり、『テルマ&ルイーズ』(91)や近作『ゲティ家の身代金』(2017)『最後の決闘裁判』(21)等々、“男性優位社会”の現実に抗する女性像を描き続けてきた、リドリー・スコットの面目躍如でもある。 撮影に際し、ガガのためには、ウィッグが15種類用意された。それはパトリツィアの各時代の実際の髪のレプリカで、髪を染める化学薬品も、それぞれの時代のものを使用したという。 ファッション業界の物語の中で、ガガはシーン毎に衣装を変えた。劇中で披露したその数は、全部で54ルック。衣裳担当のジェンティ・イエーツによると、シーン毎に4~5着の候補を持ち寄ると、ガガからその組合せの提案が返され、コーディネートを「完璧に」仕上げていった。 こうして内面及び外見で、パトリツィアになり切ったレディー・ガガ。劇中に登場する「Father, Son, and House Of Gucci (父と子とグッチ家の御名において)」というセリフは、脚本にはなく、ガガが現場で放ったアドリブだったという。 2021年11月、本作が公開されると、アルド・グッチの子孫らは、本作では、グッチ家の人々が、「悪党で無知で無神経な者たち」として描かれ、事実が捻じ曲げられていると、異議を唱えた。パトリツィアが、「男性的でマッチョな企業文化」を乗り越えようとした「被害者」として描かれていることが「不愉快だ」とも、述べている。 それに対してリドリー・スコットは、「グッチ家の一人が殺され、もう一人が脱税で刑務所に入ったことを忘れてはならない」と、こうした異議を一蹴している。 因みにパトリツィアは、本作についてどんなリアクションを示しているのか?彼女は1998年、裁判で有罪判決を受け、29年の懲役を宣告されたが、2016年には出所。現在はミラノに住み、ペットのオウムを肩に乗せて街を歩いている姿が、よく目撃されているという。 70代となった彼女は、レディー・ガガが自分の役を演じることに対して、「…腹立たしいと思っている」と不快感を示している。ガガが自分に会いにも来なかったことが、いたく不愉快だったようだ。ついでにパトリツィアは、自分をモデルにした映画からは、1銭たりとも収益がもたらされないことも、明らかにした。 これに対してガガは、パトリツィアに会わなかったのは、「この女性はこの殺人を美化されたがっていて、犯罪者として記憶されたがっているとすぐに分かったから」だと語っている。演じるに当たって、そうした危険を察知。敢えて本人との面会を避けたわけである。「よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な惨事」を描いた『ハウス・オブ・グッチ』。スキャンダラスなヒロインのモデルと、演じた“歌姫”を巡る、インサイド・ストーリーである。■ 『ハウス・オブ・グッチ』© 2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.