ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2024.09.06
主役は神に遣わされた“名無しの男”。イーストウッド1980年代唯一の西部劇『ペイルライダー』
「私たちのオリジナルと呼べるようなアメリカ固有の芸術形式はほとんどないと言っていい。たいていはヨーロッパから来たものばかりだ。わずかに例外と言えるのが西部劇とジャズまたはブルースだ」 これは1985年、本作『ペイルライダー』公開を前に、インタビューに応えた際の、クリント・イーストウッドの言。ヨーロッパ文化へのリスペクトと同時に、TVの西部劇シリーズ「ローハイド」(1959~65)で注目を集める存在となり、セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』(64)『夕陽のガンマン』(65)『続・夕陽のガンマン』(66)の“ドル箱3部作”を機に、“映画スター”の座に就いたイーストウッドの、“自負心”が伝わってくる。『ペイルライダー』は、イーストウッドにとっては、『アウトロー』(76)以来9年振りの西部劇にして、11本目の監督作品。そして結果的には、彼が80年代に撮った、唯一の西部劇となった。 この企画は、『アウトロー』公開から間を置かない、1977年頃から始まっていた。発案は、イーストウッドが監督・主演した刑事アクション『ガントレット』(77)の脚本を書いた、マイケル・バトラーとデニス・シュリアック。日頃から「西部劇が好き」と言っていたこの2人と、イーストウッドはネタ出しを行うことにした。 そのプロセスで、脚本家2人がゴールドラッシュの時代について調査を進めると、鉱夫たちと強力な独占企業の間で対立があったことがわかった。そしてこの事実を手がかりに、本作の前身となる、最初の脚本ができたのだという。 しかしこの企画は暫し、引出しの中で眠ることになる。当時イーストウッド付きだったプロデューサーのフリッツ・マーネイズ曰く、「…ウエスタンに客が入らない時代だし、これより凄いウエスタンが現れて、先を越される心配もなかったから、少し様子を見ようということになった…」。 そうこうする内に1980年、ハリウッドを震撼させる“大事件”が起きる。騒動の主役は、かつてイーストウッド主演の『サンダーボルト』(74)で監督デビュー後、『ディア・ハンター』(78)でアカデミー賞作品賞・監督賞を獲得したマイケル・チミノ。彼が鳴り物入りで完成させた超大作西部劇『天国の門』(80)が、大コケ。製作したユナイテッド・アーティスツが、経営危機に追い込まれてしまったのである。 新たな西部劇を作るタイミングは、益々遠のく。しかし1984年になって、ある晴れた日、イーストウッドはふと思った。「西部劇が見たいな」と。 イーストウッドの作る映画のすべてには、共通する規則があるという。それは、「自分がスクリーンで見たいと思ったものを作る」ということだった。また、すごく魅力的に思える脚本があって、テーマがはっきりと掴めている場合、「他の人にそれを説明するのがめんどう」だと、彼は迷わず自らが監督することを決めるのだという。「機を見るに敏」という言葉があるが、イーストウッドの場合は、「機を待つに敏」とでも言うべきか?彼は眠っていた脚本を引っ張り出して、本作『ペイルライダー』の映画化に取り掛かった。 ***** ゴールド・ラッシュ時代のカリフォルニア、カーボン峡谷。鉱夫たちとその家族が居を構え、金の採掘に挑んでいるが、周辺一帯を仕切り、この峡谷の採掘権も得ようとするラフッド(演:リチャード・ダイサート)の一派の嫌がらせが続いている。 15歳の少女ミーガン(演:シドニー・ペニー)は、母のサラ(演:キャリー・スノッドグレス)と暮らしていたが、ラフッドの手下に愛犬を撃ち殺されてしまう。神に祈りを捧げ、救いを願うミーガン…。 峡谷のリーダー的存在であるハル(演: マイケル・モリアーティ)は、町に物資の調達に出向いた際、ラフッドの手下たちに、襲われる。しかしその場に、見知らぬよそ者の男(演:クリント・イーストウッド)が現れ、鮮やかな手際で、手下たちを叩きのめす。危機を救われたハルは、白馬に乗って去ろうとする男を、自分たちの集落へと誘う。 ミーガンはその男を、“神の使い”だと直感する。ならず者と夕食を共にしたくないと反発したサラも、男が牧師=プリーチャーの服装をしているのを見て、態度を一変する。 “プリーチャー”と呼ばれるようになった男は、お礼参りにやってきた、ラフッドの息子ジョッシュ(演:クリストファー・ペン)と、連れの大男(演:リチャード・ギール)も、軽く一蹴。集落から頼りにされる存在となる。 プリーチャーを懐柔し、集落を買収しようとしたラフッドだったが、交渉は決裂。連邦保安官を務めながら悪名高い、ストックバーン(演:ジョン・ラッセル)とその副官たちを呼び寄せ、一気に蹴りをつけようとする。 ストックバーンの名を聞いて表情をこわばらせたプリーチャーは、一旦峡谷から姿を消す。そして拳銃を携えて、戻ってくる…。 ***** “ドル箱3部作”で演じた“名無しの男”以来、イーストウッドの十八番とも言える、一匹狼の流れ者。本作でもヒゲをたくわえ、目を鋭く光らせるという、お馴染みのスタイルである。 しかし先に記した“ネタ出し“に於いて、聖書の話との対比を広げてゆく内に、イーストウッドの意向として、「…超自然的側面を少しばかり強調してしまうことになった」という。 少女ミーガンが、救いを求める祈りとして暗唱するのは、聖書の中の黙示録第4章。 ~そこで見ていると、見よ、蒼白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者(ペイルライダー)の名は“死”と言い、それに黄泉が従っていた~ イーストウッド曰く、それは「…一種の大天使、神話的人物…」。そして彼が演じる“プリーチャー”は、白い馬に乗って現れることとなった。 “プリーチャー”が着替える際、ハルがその背中に、6つの弾痕があるのを目撃する。イーストウッドは脚本家たちに“プリーチャー”が、「敵役の保安官と過去に関わりがあったようにする方がいい」との示唆もした。それによって“プリーチャー”のキャラクターに奥行が出て、黙示録の騎士というイメージにもぴったり合うという考えだった。 以前から、聖書の話の神話性と西部劇のつながりに、「興味があった」というイーストウッド。本作にそうした側面を盛り込むことによって、今まで沢山の西部劇を観てきた観客が、本作は「一味違う」と感じることを望んだ。その一方でそうした観客が好む、「ノスタルジックなところ」も併せ持つようにすることも忘れなかった。 流れ者が、世話になった一家を救い、殺し屋たちを倒して去って行くストーリーの構造。これはまさに、ジョージ・スティーヴンス監督、アラン・ラッド主演の名作西部劇『シェーン』(53)へのオマージュと言える。 本作のキャスティングで特徴的、というかイーストウッドらしいのは、“プリーチャー”の出現を好ましく思わなかったのに、やがて愛してしまうサラ役に、キャリー・スノッドグレスを起用したこと。イーストウッド曰く、「ジェシカ・ラングやサリー・フィールドやシシー・スパイセクだけが女優じゃない。彼女たちに負けないぐらい才能がある女優が、そこいら中にいる」 本作から40年近く経った今となってはピンと来ないかも知れないが、要はハリウッドが、「今いちばん人気がある俳優ばかり追い回している」ことへの批判である。スノッドグレスのような、「名前を知られていなくても腕のある俳優」を起用するのが、イーストウッド流というわけである。 因みに本作に起用されたことに小躍りしたのは、悪役であるラフッドの息子を演じた、クリストファー・ペン。ショーン・ペンの弟で、当時売り出し中の若手俳優だったが、子どもの頃から西部劇に出たいと思っていた彼にとって、出演作を全部観るほどファンだったイーストウッドとの共演は、まさに夢の実現。憧れの西部劇ヒーローである“名無しの男”に対し、「この町を出ていけ」というセリフを吐くのは、至福の体験だったのである。 撮影は、1984年9月にスタート。アイダホ州サンヴァレーを中心にロケ撮影を行い、イーストウッド流早撮りで、40日足らずでクランク・アップとなった。 80年代中盤は、映画作家としてのイーストウッドの評価が、フランスなどヨーロッパで高いものになりつつあった頃。本作は85年の「カンヌ国際映画祭」の“監督週間”に出品され、大評判となった。『ペイルライダー』は、やはりイーストウッドの監督・主演作である『荒野のストレンジャー』(73)と表裏一体の作品という解釈が、広く為された。『荒野の…』主人公が、死霊≒悪魔を象徴するキャラクターであるのに対し、本作の“プリーチャー”は、神に遣わされた復讐者ということからである。 本国アメリカでは、その年の6月に公開。10日間で2,150万㌦を売り上げ、最終的には興収4,000万㌦を突破する大ヒットとなった。 実は本作に取り掛かる頃、イーストウッドの元には、もう1本西部劇の脚本が届いていた。その中味を気に入ったイーストウッドは、映画化権を取得したが、『ペイルライダー』の製作を優先したため、そちらは一旦ペンディングとなった。 それが日の目を見たのは、7年後の92年。それまで無縁だった、アカデミー賞の作品賞・監督賞をイーストウッドにもたらした、『許されざる者』である。1930年生まれの彼がその主役、足を洗った老齢のガンマンを演じるのに適した、60代になってからの映画化だった。 イーストウッドはまさに、「機を待つに敏」な男である。■ 『ペイルライダー』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2024.08.08
『スピード』が、キアヌ・リーヴス“アクションスター”への道を切り開いた!
1964年生まれ。今年還暦を迎えたキアヌ・リーヴスの、俳優としてのイメージを問われれば、代表作に『マトリックス』シリーズ(1999~2021)や『ジョン・ウィック』シリーズ(2014~23)等がある、“アクションスター”というのが、大勢だろう。 母はイギリス人、父は中国人とハワイアンのハーフ。東洋系を感じさせる風貌もあって、映画俳優として台頭し始めた20代中盤から、日本ではいち早く人気者となった。しかしその頃のキアヌには、“アクション”のイメージは、ほとんどない。 フィルモグラフィーを覗けば、ロックスターを夢見るおバカ高校生役の『ビルとテッドの大冒険』(89)、親友のリヴァー・フェニックスと共演し、男娼を演じた『マイ・プライベート・アイダホ』(91)、フランシス・フォード・コッポラ監督が手掛けたクラシックホラー『ドラキュラ』(92)、ベルナルド・ベルトルッチ監督の演出の下、仏教の開祖役にチャレンジした『リトル・ブッダ』(94)等々。彼がその頃に出演した中で、“アクション映画”と言えるのは、FBIの潜入捜査官を演じた、『ハートブルー』(91)ぐらいだ。 若き日のキアヌは、エッジが利いた、個性的な役どころを好んで演じていたのである。 そんなキアヌとアクションのイメージを強く結び付け、本人にとっても、恐らく開眼するきっかけになったと思われるのが、本作『スピード』(94)である。 ***** ロサンゼルス。オフィスビルのエレベーターに爆弾が仕掛けられ、乗客達が閉じ込められた。ロス市警SWAT隊員のジャック(演:キアヌ・リーヴス)は、相棒ハリーと、危機一髪で爆弾を除去。乗客達を救出した。 ジャックらは更に、犯人の爆弾魔(演:デニス・ホッパー)を追い詰める。ところが爆弾魔は、強烈な爆発と共に、姿を消す。 数日後、ジャックの眼の前で、知り合いが運転する路線バスが、大爆発。爆弾魔は生きていた。彼はジャックに直接電話を寄越し、別の路線バスにも爆弾を仕掛けた旨を伝え、370万㌦の身代金を要求する。 その爆弾は、バスが時速80㌔を超えると、起爆装置のスイッチが入り、その後は、時速80㌔を下回ると、大爆発を起こす…。 該当するバスに追いつき、ジャックが乗り移ると、すでに起爆装置のスイッチはオンに。更に予想外のアクシデントから、ドライバーが負傷。スピード違反で免停中のため、バス通勤していたアニー(演:サンドラ・ブロック)に、ハンドルを託すことになる。 次から次へとあわや爆発のピンチが訪れる。ジャックは、乗客たちの助けを借りて、危機を何とか乗り越えていく。 爆弾魔の正体が、警察に恨みを抱く元警官で爆発物処理班員だったハワード・ペインと判明。ハリーが逮捕に向かうが、ペインの罠に嵌って命を落とす。 危機を共に乗り越えていく中、ジャックとアニーは、お互いに好感を抱くようになる。 アニーがジャックに言う。「極限状況で始まった恋は長続きしない」 果して、止まれないバスの運命は!? ***** 速度を落とすと、乗り物に仕掛けた爆弾が爆発するという設定。『スピード』の日本公開時、海外公開もされた日本映画『新幹線大爆破』(75)に酷似していることが、大きな話題になった。 しかし脚本を書いたグレアム・ヨストによると、元ネタは別。「世界のクロサワ」こと黒澤明監督が、ハリウッド進出作として1960年代後半に準備していた、「暴走機関車」だという。「暴走機関車」は、ブレーキ系統のトラブルによって止める術がなくなり、猛スピードで突っ走り続ける機関車を主軸にした物語。ヘンリー・フォンダが主演する予定だったが、諸事情から頓挫した。 この「暴走機関車」に、ヨストの父が関わっていた。そこで彼はアウトラインを知り、後にシナリオを目にしたのだという。 因みにこのシナリオを原案にして、1985年にアンドレイ・コンチャロフスキー監督、ジョン・ボイド主演の『暴走機関車』が製作されている。オリジナルに様々な改変を加えたこちらの作品については、ヨストは特に参考にすることはなかったという。 それまでTVシリーズの製作や百科事典の執筆などを手掛けていたヨストにとって、『スピード』は、初めて書いた映画の脚本。まずパラマウントに持ち込むものの、ペンディングとなって、最終的に20世紀フォックスに拾われた。 いざ映画化となって、監督候補が何人かいた内から決まったのが、オランダ出身のヤン・デ・ポン。それまでには、『ダイ・ハード』(88)『ブラック・レイン』(89)『氷の微笑』(92) 『リーサル・ウェポン3』(92)等々、多くのアクション映画で撮影を務めてきた。 とはいえ、監督するのは初めてであるヤン・デ・ポンに依頼したことからもわかる通り、本作『スピード』に関してフォックスは、他の映画の穴埋めをするような、小さなB級作品として扱う心積もりだった。当初組まれた予算は、2,600万㌦。最終的には3,000万㌦程度になったが、当時の大作の製作費は、6,000万から6,500万㌦ほど。 更に言えばフォックスは、本作と同じ年に、ジェームズ・キャメロン監督、アーノルド・シュワルツェネッガ―主演の『トゥルーライズ』に、1億2,000万㌦もの製作費を投じていた。それと比べれば、僅か4分の1である。 本作『スピード』主役のジャック役の有力候補だったのは、ジョニー・デップ。しかしデップは、脚本に魅力を感じないという理由で、オファーを蹴る。 その他にも何人かの若手スターが候補になる中で浮上したのが、キアヌ・リーヴス。キアヌは、ストーリーには凄く惹かれながらも、「筋肉ひとつない自分には、到底この役は務まらない」と思ったという。ちょうど前の主演作『リトル・ブッダ』で、ガウタマ・シッダールタ=若き日のお釈迦様を演じた際に、断食をして体力を落としていたタイミングでもあった。 ヤン・デ・ポンは、キアヌの運動能力に不安を感じていた。そこで、それまでのキアヌの出演作で、ほぼ唯一のアクション作品『ハートブルー』(91)での演技をチェック。サーフィンにガンアクション、アメフトにスカイダイビング等々、ほとんどノースタントでこなしたキアヌの姿を見て、「イケる」と判断を下した。 正式にジャック役に決まると、まずは2か月間ジムに通って、ウェイト・トレーニング。と言ってもヤン・デ・ポンは、当時の流行りだった、スタローンやシュワルツェネッガーのような、巨大な筋肉をつけたアクション俳優になって欲しかったわけではない。身体の均整と運動能力を高めるためのトレーニングを課したのである。 キアヌはSWAT隊員を演じるに当たって、本物の警官に会ったり、ビデオを見たりしてその仕事ぶりを研究するのと同時に、ヘアスタイルは、頭皮が見えるくらいまで刈り上げて、監督の前に現れた。それは少々短すぎたが、その時点から撮影まで2週間あったので、ちょうど良い塩梅の、クルーカットになったという。 ヤン・デ・ポンが思い描いた主人公は、観客が感情移入できる、リアルで等身大のアクションヒーロー。鍛えた胸の筋肉を晒すこともなく、悪人をバタバタと殺していくわけでもない。イメージ的には、ヒッチコック作品に於けるケーリー・グラントや、ウィリアム・ホールデンだったという。 ヤン・デ・ポンは、ヨストの脚本にはあった、主人公の暗い過去などはすべてカットした。観客はそんなものを観たいと思ってないし、そもそもキャラクターについて知りたいことは、その行動を見ていれば、「すべてわかるはず」という考えだ。主人公だけでなく、犯人も含めて主要キャラすべての背景や心理状態など、敢えて描かなかったという。 アニー役のサンドラ・ブロックは、1967年生まれ。本作出演時は20代後半で、まだまだ売り出し中の頃。キアヌとのやり取りもフレッシュに映え、一躍ブレイクに至る。因みに彼女は、役のためにバス専用の運転免許を取得したという。 本作のヴィランは、デニス・ホッパー(1936~2010)。監督・主演したアメリカン・ニューシネマ『イージー・ライダー』(69)で天下を取りながら、その後ドラッグ漬けで低迷。『ブルー・ベルベッド』(86)で奇跡の復活を遂げて以来、改めて俳優・監督・写真家として活躍中だった。ホッパーの怪演は、キアヌとのコントラストも良く、インパクト大である。 本作は15週間の撮影スケジュールの内、7週間は大掛かりなバスの走行シーンに費やされた。ロスの空港近くから28㌔に渡って走る、開通前の新しいハイウェイでは、大規模なロケが行われた。 フリーウェイの朝の交通渋滞を再現するため、車に乗った400人のエキストラが集められた。まだ建設中だったため、作業員がコンクリートを流し込んだり、標識を立てている傍で、撮影スタッフが仕事をすることも多々あったという。 そんな中で、バスの走行シーンは通常4~6台のカメラを使用。特に複雑なスタントシーンには、カメラ、照明の他にも様々な機材を装備した、12台の車両を使って撮影が行われた。 メインの舞台はバスだが、この映画のアクションの舞台は3段構え。エレベーターの中で繰り広げられるオープニング・アクション用には、フォックスの敷地内に、地上5階の高さで、実際にエレベーターと、4本のエレベーターシャフトが入ったセットを組んだ。 バスが一段落した後は、爆弾魔が乗っ取った地下鉄で大アクションが繰り広げられる。こちらは、当時新しく完成したメトロレール・レッドラインでロケを行った。 15週に渡る撮影のまさに中盤、8週目に大きなアクシデントが襲った。本作と直接関係ないが、キアヌの親友であるリヴァー・フェニックスが、薬物の過剰摂取のため、23歳の若さで命を落としたのだ。 キアヌのショックを考えて、スケジュールの調整などが行われた。しかしヤン・デ・ポンは、キアヌのことを考えると、逆に忙しくしておくのが最良と考え、撮影を中断せずに、続行した。 ポスト・プロダクション。フォックスの重役たちは大した期待はせずに編集に立ち会って、本作の出来の良さに吃驚した。それまで出し渋っていた、SFXの仕上げに掛かる追加費用を、ポンと手渡すほどに。また公開日も、より良い日程にするため、早めることとなった。『スピード』は1994年6月、アメリカで公開されると、TOPを独走。シーズン最大のヒットとなり、国内で1億2,000万ドル、全世界で3億5,000万ドルの興行収入を上げた。その年の12月に正月映画として公開された日本でも、大ヒット。配給収入45億円は、現在で言えば100億円興行と言っても良いだろう。 フォックスの失態は、本作契約時、続編がある場合の継続契約に、キアヌにサインさせるのを怠っていたこと。そのため、ヤン・デ・ポン監督とサンドラ・ブロックは続投した『スピード2』(97)に、キアヌは出演することなく、同時期に製作された『ディアボロス/悪魔の扉』(97)で、アル・パチーノと共演することを選んでいる。 仕方なく『スピード2』では、本作のセリフ「極限状況で始まった恋は長続きしない」を伏線(?)として、アニーはジャックとすでに別れている設定に。アニーの新たな恋人として、ジェイソン・パトリックが演じる別のSWAT隊員が登場した。 キアヌはこうした経緯について、「サンドラには悪いことをした…」と述懐している。サンドラの方はというと、本作の撮影終盤、ハイな状態が続いてストレスをすごく感じていた時にキアヌだけが、「…黙って隣に座って、そっと背中をなでてくれた」ことなどもあって、根に持つようなことはなかった模様。後に韓国映画のラブストーリーをリメイクした『イルマーレ』(2006)で、2人は再共演を果している。 さて本作に関して当時、「アクション・ヒーローになるつもりはないよ。ジャックのキャラクターもアクション重視の性格ではないからね」などと言ってたキアヌ。『マトリックス』や『ジョン・ウィック』を経た、現在の彼の在り方を考えると、これは恐らく「若気の至り」が言わせたセリフだったのだろう。■ 『スピード』© 1994 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.08.02
若き天才デイミアン・チャゼルが、『ラ・ラ・ランド』で成し遂げたこと
1985年生まれの、デイミアン・チャゼル。ハイスクール時代はミュージシャンを目指してジャズを学ぶが、ハーバード大学に進む頃には、幼き日の夢だった映画監督への想いが甦る。チャゼルは貪るように古今東西の映画を観まくったというが、そんな中でも、“ミュージカル映画”に夢中になった。 本作『ラ・ラ・ランド』(2016)のアイディアが浮かんだのは、ハーバード在学中。チャゼルは学友で、その後共に歩むことになる、作曲家ジャスティン・ハーウィッツと、ストーリーを練り始めた。 そのハーウィッツと共に、ハーバードの卒業製作として作り上げたのは、16mmフィルムで撮影した、全編モノクロのミュージカル『Guy and Madeline on a Park Bench』(2009)。ジャズに執心する主人公Guyのキャラクターは、チャゼルのその後の作品にも、引き継がれていく。 この卒業製作が評判となり、小規模ながら劇場公開に至った。ちょうどその頃、2010年にチャゼルは、『ラ・ラ・ランド』の脚本初稿を書き上げる。 プロデューサーを雇っての売込みに、『ラ・ラ・ランド』に興味を持つ製作会社が現れた。しかし、主人公が愛する音楽をジャズでなくてロックに変更することや、オープニングの曲の差し替え等を求められたため、プロジェクトは頓挫する。 チャゼルは、方針を転換。商業映画デビュー作としては、『ラ・ラ・ランド』よりは低予算でイケる、『セッション』(14)に、取り組むことにした。 ハイスクール時代の自身の経験も多く盛り込んだという『セッション』は、名門音楽学校に入学した若きドラマーと伝説の鬼教師の攻防を、息も突かせぬド迫力で描いた作品。 330万ドルの製作費に対し、世界中で5,000万ドルの興行収入を上げ、またその年度のアカデミー賞で、5部門にノミネートされた。結果として、作品賞及びチャゼルがノミネートされた脚色賞は逃したものの、鬼教師を演じたJ・K・シモンズに助演男優賞、更に編集賞、録音賞の計3部門での受賞となった。『セッション』をリリースした際、まだ30歳になる前だったチャゼルは、「若き天才」との呼称を恣にする。ここに、『ラ・ラ・ランド』映画化の機は熟した。製作会社のライオンズゲートに提案すると、製作費3,000万㌦を掛けて、チャゼルが思い描いた通りの内容で撮れることになったのだ。 当初主役のカップルには、エマ・ワトソンと、『セッション』の主演だったマイルズ・テイラーの名が挙がった。しかしワトソンは、ディズニーの実写版『美女と野獣』(17)ヒロインのオファーを選ぶ。そしてテイラーとの交渉も不調に終わったため、新たなキャスティングが進められることとなった。決まったのは、同じエマでも、エマ・ストーン、そしてライアン・ゴズリングである。 ***** クリスマスが近くても暑い、冬のロサンゼルス。 女優になる夢を叶えるためこの街に来たミア(演:エマ・ストーン)は、映画スタジオ内のコーヒーショップに勤めながら、様々なオーディションを受ける日々。 ある日、ピアノの音色に誘われて足を踏み入れたレストランで、その奏者に感動を伝えようとする。しかし当のピアニスト、セブことセバスチャン(演:ライアン・ゴズリング)は、店長の指示に従わず、勝手な曲を演奏したため、その場でクビに。セブは近寄ってきたミアを無視し、店外へと消えた…。 春が訪れ、ミアとセブは再会。偶然の出会いが続き、2人は言葉を交わすようになる。「時代遅れ」と揶揄されるようなジャズをこよなく愛するセブの夢は、いつか好きな曲を好きなだけ演奏する、自分の店を持つこと。お互いの夢を熱く語り合う内に、2人は惹かれ合い、やがて結ばれる。 夏が来る頃には、ミアとセブは同棲。互いの夢を支え合い、幸せの絶頂にいた。 生活のための術が必要と考えたセブは、かつての音楽仲間が組んだバンドに、キーボード奏者として参加。その楽曲は、セブが愛するフリージャズとはかけ離れており、ライヴに出向いたミアは、戸惑いを覚える。 しかしバンドは大人気となり、セブはツアーやレコーディングで多忙に。2人は、会えない時間が多くなる…。 秋。ツアーを抜け出して、ミアにサプライズを仕掛けたセブ。しかしミアのちょっとした一言から、大喧嘩となってしまう。 そんな折り、ミアがセブの勧めで書き上げたひとり芝居が、幕を開ける。しかし客席はガラ空き。公演後には酷評が耳に届く。打ちのめされたミアは、仕事のため公演に間に合わなかったセブに、「何もかも終わり」と告げ、故郷に帰ってしまう。 数日後、ひとり残されたセブの元に、ミアを探す配役事務所から電話が入るが…。 ***** ミア役のエマ・ストーンは、ブロードウェイでミュージカル「キャバレー」に出演。評判になったのを受けてのキャスティングだった。 チャゼルは、セブ役にライアン・ゴズリングを得たことを、本作の「製作の長いプロセスのキーになった」ポイントとして、挙げている。 ストーンとゴズリングの共演は、『ラブ・アゲイン』(11)『L.A. ギャング ストーリー』(13)に続いて、本作で3度目。そのすべてでカップルを演じている2人の相性が、フレッド・アステア&ジンジャー・ロジャース、ハンフリー・ボガート&ローレン・バコール、マーナ・ロイ&ウィリアム・パウエルといった、ハリウッドの伝説のカップルのように、「しっくり合っている」と、チャゼルには感じられたのだ。 撮影前の準備期間、ゴズリングはジャズ・ピアノを、3ヶ月練習。その成果として、本作では全編、本人による演奏が見られる。手元のクローズアップでも、代役は使っていない。 セブが加入するバンドのリーダーを演じた、ミュージシャンのジョン・レジェンドは、ゴズリングのあまりの習得の早さに驚愕。嫉妬すら覚えたという。 ピアノと同時に、ゴズリングはエマ・ストーンと、ダンスの練習にも励んだ。ストーン曰く、2人は売れないアーティストの役なので、圧倒的な歌唱力やダンスといったものは、「求められなかった」という。2人の関係がある意味では未熟に見えることを、チャゼルが望んだが故である。 さて本作のタイトル『ラ・ラ・ランド』は、チャゼルによると、ロサンゼルスを「からかうような感じで呼ぶとき」に使うという。それに加えて、空想にふけるという意味もあり、夢を見るのはすてきなことだというメッセージも籠めたのである。 そんな『ラ・ラ・ランド』は、40日間掛けて、グリフィス天文台から歴史あるジャズクラブまで、ロサンゼルスの各所でロケ撮影が行われた。 チャゼルが愛する、1930年代から50年代に掛けての、アステア&ロジャースやジーン・ケリーが主演したミュージカルは、スタジオにセットを組み、先に歌声を録音した楽曲を流しながら、ダンスシーンを撮った。しかし本作は、ロケ地で演者が歌って踊り、生歌を同時に録音する方式で、撮影が行われた。 しかもすっかりデジタル撮影が主流になっていたこの時代に、フィルムを使用。並大抵の準備では、済まなかった。 オープニングのつかみとなる、ハイウェイの大渋滞を縫っての群舞シーン。警察の協力で、高速道路を封鎖して、ロケが行われた。 驚異のワンカット撮影を、限られた時間で行わなければならないため、スタジオの駐車場に、作り物の分離帯や車を沢山置いて、丁寧にリハーサル。いざ本番は、気温が43度という猛暑の中で行われた。 一発OKとはいかないため、撮影が終わる度にダンサーたちはアシスタントに抱えられて、スタート地点に戻る。そして汗を拭き取り予備の衣装に着替えてから、リテイクに臨んだという。 因みに本作の振り付けを担当したのは、TVのミュージカルドラマ「glee/グリー」で評判をとった、マンディ・ムーア。高速道路のシーンでは、撮影中に写り込んでしまうことを避けるため、車の下に隠れて指示を出したという。 ハリウッドの丘の上で、ストーンとゴズリングが踊るシーンも、現地ロケ。日没直後のマジックアワーを狙ったため、撮影のチャンスは、2日間で30分ほど。そんな中で2人は、長回しのダンスシーンを、繰り返し撮影した。 先に記した、ハリウッド黄金期のミュージカル以上に、チャゼルが影響を受けたのは、実はフレンチ・ミュージカル。ジャック・ドゥミー監督、ミシェル・ルグランが音楽を担当した『シェルブールの雨傘』(1964)こそが最大級の意味で、「僕を成長させてくれた映画」と、語っている。そして当然のように本作でも、オマージュが捧げられている。 その一方でチャゼルが腐心したのは、ノスタルジックや演劇的になり過ぎないようにすること。曰く、「ミュージカルには他のジャンルにない楽しさ、高揚感があるけれど、同時に現実的で正直なストーリーが必要だ。ファンタジーとリアルがね」 ファンタジーとリアル/夢と現実が一体となった、新しいミュージカル映画のスタイルを作り出すための一助となったのが、マーティン・スコセッシ監督のボクシング映画『レイジング・ブル』(80)。この作品では、カメラをボクシングのリング内に持ち込んで、常にボクサーの動きに焦点を合わせる形で、撮影が行われている。スコセッシは、リング上では観客がボクサーの眼を持ち、殴られているのは自分だという意識を持たせるために、この手法を考案した。 これを「表現主義的なカメラワーク」と言うチャゼルは、スコセッシがリングの中にカメラを置いたように、自分はダンスの中にカメラを置きたかったと語っている。 スコセッシ作品からの影響という意味では、『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)も忘れてはいけない。この作品でカップルを演じたのは、ライザ・ミネリとロバート・デ・ニーロ。ミネリは無名の俳優からハリウッドの大スターに、デ・ニーロは売れないサックス奏者からジャズ・クラブのオーナーへと成功の道を歩みながら、別れ別れとなっていく。『ラ・ラ・ランド』のミアとセブの軌跡は、『ニューヨーク・ニューヨーク』の2人の歩みと、ほぼほぼカブる。 さて本作『ラ・ラ・ランド』の別れた2人は、ラスト近くになって、5年振りに再会。そこで実際にはそうならなかった、2人が添い遂げる人生が、イメージの中で展開する。 チャゼルが「ただの夢じゃない」と語るこのシーン。たとえ今は別々の人生を送っていても、あの時2人で愛し合った、素晴らしき時間があったからこそ、今の自分たちがある。「あり得た人生」を想うのは、単なる後悔ではなく、希望ともなる…。 『ラ・ラ・ランド』はクランクアップから、編集に1年掛けて完成。まずは2016年秋の「ヴェネチア映画祭」オープニング作品として、大きな話題をさらった。 その後本国アメリカで大ヒットを記録すると同時に、各映画賞で受賞ラッシュとなる。その本命と言うべき、2017年2月に開催されたアカデミー賞では、史上最多タイの14ノミネート。監督賞、主演女優賞など6部門で受賞を果したが、それ以上に前代未聞のアクシデントに巻き込まれたことが、大ニュースとなった。 この年の“作品賞”のプレゼンター、ウォーレン・ベイティが受賞作品の封筒を開け、『ラ・ラ・ランド』と発表を行った。しかし受賞スピーチが始まった直後に、これがスタッフのミスによる封筒取り違えと判明。改めて『ムーンライト』(16)に“作品賞”が与えられるという、大珍事が起きてしまったのだ。 “作品賞”という大魚を逃しながらも、それ以上にインパクトの残る形で、記録や記憶に残った、『ラ・ラ・ランド』。それもまたデイミアン・チャゼル、当時の「若き天才」ぶりに贈られた、勲章のようにも思える。■ 『ラ・ラ・ランド』© 2017 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved. Sebastian (Ryan Gosling) and Mia (Emma Stone) in LA LA LAND. Photo courtesy of Lionsgate.
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COLUMN/コラム2024.07.18
巨匠リドリー・スコットが描く、よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な物語『ハウス・オブ・グッチ』
知らぬ者は居ないであろう、イタリア発のファッションブランド、「グッチ」。 1921年にグッチオ・グッチが、フィレンツェに開いた靴屋が、その始まり。世界進出はその息子の代で、三男のアルド・グッチが父親の反対を押し切って成功させたもの。「グッチ」の有名なアイコンデザイン「GG柄」も、商才溢れるアルドが考案した。 アルドの後も、「グッチ」のTOPは、グッチ家の者が務め、その王国は引き継がれていく筈だった。しかし21世紀の今、「グッチ」の経営陣には、グッチ家の者はいない…。 2000年に出版されたサラ・ゲイ・フォーデンの著書「ハウス・オブ・グッチ」は、原題のサブタイトルが、「A Sensational Story of Murder, Madness, Glamour, and Greed(殺人、狂気、魅力、そして強欲のセンセーショナルな物語)」。この書籍でグッチ家の30年間を描いた彼女は、「グッチの話はいろいろな意味で、私のつくり話よりもずっととんでもない話だと思った」としている。 その「とんでもない話」に魅了され、ほぼ20年間、映画化を模索し続けたのが、プロデューサーのジャンニーナ・スコット。監督や出演者の候補には、様々な名前が浮かんでは消えた。結局メガフォンを握ることになったのは、ジャンニーナの夫で現代の巨匠、リドリー・スコットだった。 リドリーは、グッチ家はまるで「ファッション界のイタリア王室」のようで、その興亡には、「ボルジア家やメディチ家」を想起させられたという。即ちこの題材は、「面白くならないわけがない!」と。 2019年11月、リドリーの監督就任と時を同じくして、主演も決まった。”歌姫”にして、『アリー/スター誕生』(2018)で演技者としても一流なことを証明したばかりの、レディー・ガガである。 翌夏=2021年8月、アカデミー賞受賞者やノミネート経験者がズラリと並ぶ、豪華キャストが発表された。そして本作『ハウス・オブ・グッチ』は、2021年2月から5月まで主にイタリアで撮影を敢行。その年の11月に、公開に至った。 ***** 1970年、父がオーナーの運送会社で働くパトリツィア(演:レディ・ガガ)は、弁護士を目指すマウリツィオ(演:アダム・ドライバー)と知り合い、交際を始める。彼は有名ブランド「グッチ」の、創業者一族だった。 マウリツィオは父ロドルフォ(演:ジェレミー・アイアンズ)から結婚を認められず、パトリツィアの実家へと転がり込む。2人はゴールインし、やがて娘が生まれる。 ロドルフォがこの世を去ると、彼の兄で「グッチ」の屋台骨を支えるアルド(演:アル・パチーノ)は、甥のマウリツィオを「グッチ」へと呼び寄せる。 アルドは、息子パオロ(演:ジャレッド・レト)の無能さに、悩んでいた。その一方で、高齢にも拘わらず、TOPを後進に譲る素振りを見せない。パトリツィアは夫が軽視されていることや、自分を「グッチ」の一員と認めないことに、不満を溜めていく。 パトリツィアは一計を案じ、パオロを味方とし、アルドの脱税を告発させる。アルドは獄中の人となり、またパオロも追放して、マウリツィオは、「グッチ」のTOPとなる。 しかし妻の振舞いに、徐々に嫌気がさしてきたマウリツィオは、家を出て、別の女性と暮らすようになる。パトリツィアは、もはや夫の愛情を取り戻すことはできなかった。 怪しげな女占い師のピーナ(演:サルマ・ハエック)に傾倒したパトリツィアは、彼女の力を借りて、夫を殺害する計画を立てる。一方で経営の才覚がなかったマウリツィオは、親の代からの腹心の部下の裏切りに遭って、社長の座を追われる。 1995年、マウリツィオは自宅の前で銃撃されて、命を落とす。悲劇の未亡人を装うパトリツィアだったが…。 ***** 脚本家の1人に起用されたのは、イタリア育ちのロベルト・ベンティヴェーニャ。母がデザイナーだったこともあって、彼には馴染みのある世界だったという。 リドリー・スコットはベンティヴェーニャとの打ち合わせに際し、登場人物たちをシェイクスピアのキャラクターに例えた。マウリツィオは、悩める王子ハムレット。パトリツィアは、奸計を巡らすマクベス夫人。そしてパオロは、道化だと。 実際に起こった事件をベースにした本作だが、『プロメテウス』(2012)以降、リドリー・スコット作品のカメラを任されている撮影監督のダリウス・ウォルスキーは、この作品はドキュメントドラマというよりも、「よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な惨事」だと語っている。 こうした世界観の中で、俳優陣は躍った。“カメレオン俳優”の名を恣にするアダム・ドライバーは、世間知らずの青年マウリツィオが、パトリツィアとの庶民的な生活に喜びを見出しながらも、名門ブランドTOPの地位を得て、己を見失っていく姿を的確に演じた。 ジャレッド・レトは、「グッチ」TOPのアルドの頭痛の種である、ボンクラ息子パオロ・グッチを演じるに当たって、自らのアイディアで、白髪交じりのハゲ頭で小太り体型に、特殊メイクで変身。毎日6時間のメイク時間は、集中してキャラクターについて瞑想するには、「最高の時間」だったという。 アル・パチーノ、ジェレミー・アイアンズの両ベテランも、それぞれの持ち味を生かしながら、見事に実在の人物を演じてみせた。 しかし本作で特筆すべきは、何とも言ってもパトリツィアを演じた、レディー・ガガであろう。 役作りのために、イタリア語なまりの英語を半年もの間訓練。パトリツィアについての文献を読み漁り、映像を見まくったというが、その際には、パトリツィアが実在の人物で、インタビューではよく嘘をつくことがあったため、ジャーナリストのような視点が必要だったという。ガガは正体を隠して、イタリアの街頭に立って、彼女のイメージの聞き込みまで行った。 役作りに於いては、3種類の動物をイメージした。30年近くに及ぶ物語の中で、20代前半の若き日々は、飼い猫。中盤は、遊び心を持って狩りをするキツネ。そして終盤は、獲物を引きつけてから飛び掛かる、ヒョウを観察して、パトリツィア像を作り上げた。 因みに稀代の悪女のイメージが強いパトリツィアだが、ガガはそうした既成のイメージからも距離を置いた。曰く「彼女がマウリツィオ・グッチと結婚したとき、彼は自分の一族全員に見放されたので、お金のために結婚したわけではなかった」。そして彼を殺害した時には、二人はすでに離婚しており、「金銭的なことが懸かっていたわけでは全くなかった」。即ち凶行に至ったのは、「彼女の心が傷ついたから、そして愛のために違いない」という解釈で、パトリツィアを演じているのである。 本作でパトリツィアは、「グッチ」の経営に参画したいと考え、自分にはその能力があると思っていたのに、“部外者”扱いされ、男性社会の中で疎外され続けた女性として描かれる。この辺りは、『エイリアン』(1979)のリプリーにはじまり、『テルマ&ルイーズ』(91)や近作『ゲティ家の身代金』(2017)『最後の決闘裁判』(21)等々、“男性優位社会”の現実に抗する女性像を描き続けてきた、リドリー・スコットの面目躍如でもある。 撮影に際し、ガガのためには、ウィッグが15種類用意された。それはパトリツィアの各時代の実際の髪のレプリカで、髪を染める化学薬品も、それぞれの時代のものを使用したという。 ファッション業界の物語の中で、ガガはシーン毎に衣装を変えた。劇中で披露したその数は、全部で54ルック。衣裳担当のジェンティ・イエーツによると、シーン毎に4~5着の候補を持ち寄ると、ガガからその組合せの提案が返され、コーディネートを「完璧に」仕上げていった。 こうして内面及び外見で、パトリツィアになり切ったレディー・ガガ。劇中に登場する「Father, Son, and House Of Gucci (父と子とグッチ家の御名において)」というセリフは、脚本にはなく、ガガが現場で放ったアドリブだったという。 2021年11月、本作が公開されると、アルド・グッチの子孫らは、本作では、グッチ家の人々が、「悪党で無知で無神経な者たち」として描かれ、事実が捻じ曲げられていると、異議を唱えた。パトリツィアが、「男性的でマッチョな企業文化」を乗り越えようとした「被害者」として描かれていることが「不愉快だ」とも、述べている。 それに対してリドリー・スコットは、「グッチ家の一人が殺され、もう一人が脱税で刑務所に入ったことを忘れてはならない」と、こうした異議を一蹴している。 因みにパトリツィアは、本作についてどんなリアクションを示しているのか?彼女は1998年、裁判で有罪判決を受け、29年の懲役を宣告されたが、2016年には出所。現在はミラノに住み、ペットのオウムを肩に乗せて街を歩いている姿が、よく目撃されているという。 70代となった彼女は、レディー・ガガが自分の役を演じることに対して、「…腹立たしいと思っている」と不快感を示している。ガガが自分に会いにも来なかったことが、いたく不愉快だったようだ。ついでにパトリツィアは、自分をモデルにした映画からは、1銭たりとも収益がもたらされないことも、明らかにした。 これに対してガガは、パトリツィアに会わなかったのは、「この女性はこの殺人を美化されたがっていて、犯罪者として記憶されたがっているとすぐに分かったから」だと語っている。演じるに当たって、そうした危険を察知。敢えて本人との面会を避けたわけである。「よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な惨事」を描いた『ハウス・オブ・グッチ』。スキャンダラスなヒロインのモデルと、演じた“歌姫”を巡る、インサイド・ストーリーである。■ 『ハウス・オブ・グッチ』© 2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.07.03
サム・ライミの『死霊のはらわた』シリーズ第3弾!なぜか邦題は、『キャプテン・スーパーマーケット』
“アクション”“SF”“恋愛”“コメディ”“ホラー”…云々。映画のジャンルを大別すると、例えばこのような区分けが為されるのが、一般的だ。 一方で、そんな真っ当なジャンル分けを、無効化してしまうようなジャンルもある。“ジョーズもの”“マッドマックスもの”“エイリアンもの”“ランボーもの”“ターミネーターもの”“ジュラシック・パークもの”…。メガヒット作など大きな話題になった映画の後を追って作られた、バッタもん、パチもん度が強い作品群だ。 “ホラー映画”に於いては、例えば“エクソシストもの”や“悪魔のいけにえもの”等々が存在する。今や真っ当な映画ジャンルに育ってしまった“ゾンビもの”は、元々はジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)や『ゾンビ』(78)のパチもの群がスタートだったのは、誰も否定できまい。 サム・ライミ監督の記念すべき長編デビュー作『死霊のはらわた』(81)は、ロメロの影響を受けた“ゾンビもの”の一端を担いながらも、新たに“死霊のはらわたもの”というジャンルを生んだ、記念すべきオリジンと言える。この作品以降、森の奥深い山小屋を舞台に、そこを訪れた者たちが死霊に憑依され、スプラッタ描写満載の惨劇が繰り広げられるホラーが、どれほどの数この世に送り出されたことか。 元々は「ホラーは苦手」だったというサム・ライミ。大学時代からの映画仲間ロバート・タパートに、「世に出るなら、低予算のホラーだ」と説き伏せられたことから、様々なホラー作品に触れて研究を重ね、『死霊のはらわた』を生み出すこととなった。 製作費は35万㌦という超低予算のこの作品は、国内外で話題となり、多くのシンパが誕生した。「ホラーの帝王」スティーヴン・キングは応援団長となって、大物プロデューサーであるディノ・デ・ラウレンティスを、ライミたちに紹介。その結果生まれたのが、前作の10倍=350万㌦の製作費を掛けた続編、『死霊のはらわたⅡ』(87)だった。「僕は8ミリ映画時代から、観客にウケさえすれば続編を作って来たからね」というライミだが、同じことをやるのは嫌だった。そこで『Ⅱ』では、ライミの高校時代からの親友であるブルース・キャンベルが前作で演じたアッシュというキャラが、中世ヨーロッパにタイムスリップし、そこで死霊憑きの軍団と戦うという内容を考えた。 しかし、この構想に乗る者はなかった。ラウレンティスからは、「前作と同じテイスト」をと、事実上の「リメイク」を求められ、「中世編」のアイディアは、お蔵入りとなった。 結果的に生まれた『死霊のはらわたⅡ』は、第1作の粗筋をなぞりつつ、ライミがこよなく愛するスラップスティック・コメディ「三ばか大将」風のギャグが満載された内容となった。観客層を広げるために、残酷描写は前作より抑えたが、その分レイ・ハリーハウゼン風のモデルアニメーションを導入したり、片腕を失ったアッシュが、“チェンソー”を装着して死霊と戦うなど、サービス精神も旺盛な、エンタメ作品に仕上がっている。『Ⅱ』のラストでは、アッシュが中世へとタイムスリップ。その時代の民に、“死霊ハンター”の英雄として迎えられる。このように、棚上げされた「中世編」のネタまで盛り込んだのは、映画作家としてのライミの意地と言うべきか? この『死霊のはらわたⅡ』が興行的な成功を収めたことによって、更にその続編に、ラウレンティスが製作資金を提供することになった。今度は好きな内容をやっても良いということだったので、ライミは『Ⅱ』のエンディングの続き、1度は棚上げになった、「中世編」のプロットを本格的に復活させることにした。 そして製作されたのが本作、『死霊のはらわた』シリーズ第3作となる、『キャプテン・スーパーマーケット』(93)である。 ***** スーパーの店員だったアッシュは、死霊との戦いの末に、中世イングランドへとタイムスリップ。その地を治めるアーサー王に、敵のヘンリー王一味と間違われて、死霊の巣喰う穴へと放り込まれる。 あわやの瞬間に彼を救ったのは、“片腕チェンソー”とライフル銃。民衆は掌を返したように、アッシュを“英雄”として迎える。 街の娘シーラと恋に落ちたアッシュ。民衆を死霊たちから守り、自らは元の時代に戻るためには、「死者の書」が必要なことを知る。「死者の書」を求めて、死霊の巣食う墓地へ向けて旅立つアッシュ。死霊に襲われ、逃げ込んだ風車小屋の中で、自分にそっくりの姿をした小人の悪霊の一団と戦うが、その1人に体内へと入り込まれた挙げ句、分身として“悪霊のアッシュ”が誕生してしまう。 アッシュはその分身を、ライフルで倒しチェンソーでバラバラにして埋葬する。そして遂に、「死者の書」の元へと辿り着く。 しかしアッシュは、「死者の書」を手に取る際に必要な呪文を忘れてしまっており、適当に誤魔化しながら持ち出したため、死霊軍団が復活。そのリーダーの座には、一旦は葬った筈の分身、“悪霊のアッシュ”が就く。 死霊軍団がアーサー王の城へと迫るも、アッシュは、自らが元の時代に戻ることしか頭にない。しかしシーラが死霊にさらわれると、一転。戦いの先頭に立つ決意をするが…。 ***** 開巻間もなく、前作の内容をダイジェスト風に紹介。その際に死霊に身体を乗っ取られる、アッシュの恋人リンダを、当時若手俳優として人気が高かった、ブリジット・フォンダが演じている。 実はブリジットは、『死霊のはらわたⅡ』の大ファン。僅かな出番ではあるが、シリーズを通じて最もネームバリューの高いスターの出演は、本人が熱望して決まったものだったという。 本作の原題は、「Army of Darkness」。『死霊のはらわた』の原題である、「Evil of Dead」が入っていない。これは、配給を担当したユニヴァーサルが公開タイトルを、「Evil of Dead Ⅲ」とすることに反対したためである。ライミは「Evil of Dead 中世編」とすることも考えたようだが、結局はユニヴァーサルの意向によって、シリーズの第3弾だとは、まったくわからないようなタイトルになってしまった。 因みに日本での公開タイトルが、アッシュがスーパーの店員という設定ぐらいしか由来がない、『キャプテン・スーパーマーケット』になってしまったのも、極めて不可解。実際に当時多くの映画ファンが、『死霊のはらわた』シリーズだとは気付かないままに、公開されている。 因みに後にサム・ライミのプロデュースで、ハリウッド映画を撮った清水崇監督によると、ライミにもこの邦題が伝わっていたという。その上で、「日本人はクレイジーだ」と面白がっていたそうな。 それにしても「Evil of Dead=死霊のはらわた」を外したタイトルになったのは、本作が前2作と違って、“ホラー”要素が極めて薄かったからなのか? 実際に本作では、「臆病で自惚れ屋でほら吹き」というアッシュのキャラの方向性が定まり、前作以上に、「三ばか大将」に影響を受けた笑いの要素が強くなっている。アッシュは1人でバカ騒ぎをして、酷い目に遭うギャグが繰り返される。 演じるブルース・キャンベルは、先にも記した通り、サム・ライミの高校時代からの親友。8㎜フィルムでインディーズ映画を撮ってきた仲間である。 演技を学ぶために大学に進学するも、『死霊のはらわた』を作るために退学し、アッシュを演じることとなった。そして彼は、最後まで生き残るファイナルガールならぬ“ファイナルボーイ”として、シリーズ全般で主役を演じることとなった。 『死霊のはらわた』第1作の後には、ライミが「エンバシー・ピクチャーズ」という、名の通った映画会社と初めて組んだ作品『XYZマーダーズ』(85)で主演する筈だった。しかし、無名の俳優は主役には据えられないという、「エンバシー」からの“口出し”によって、脇役に回る憂き目に遭う。『死霊のはらわたⅡ』の後には、ライミ初のハリウッドメジャー作品『ダークマン』(90)の蹉跌が待ち受けていた。こちらも主演にキャンベルを当てる構想が、ユニヴァーサルの意向によって、リーアム・ニーソンへと差し替えられたのだ。この作品のラストでは、ニーソンが変装したキャラの顔がキャンベルその人で、そのままストップしてエンドロールが流れる。これはライミとキャンベルによる、ユニヴァーサルへの意趣返しとしては、痛快ではあったが…。 インディーズ出身の監督が、出世していくプロセスで、その頃からの主演俳優をそのまま使っていくのが、いかに難しいことであるか。そうした意味で本作『キャプテン・スーパーマーケット』は、それまでに散々踏みにじられてきたライミとキャンベルの親友コンビにとって、メジャー作品でありながらその組合せが守られた、待望の作品だったわけである しかし本作でも、『ダークマン』に続いて、アメリカ国内配給を担当したユニヴァーサルによる、ポスト・プロダクションでの介入が行われた。ユニヴァーサルの意見は、「長すぎるし、最後が暗い」。そこで本作は15分カットされた上、アッシュが元の時代に戻る、事の顛末が大きく改変された。 ユニヴァーサルの命によって追加撮影されたヴァージョンでは、アッシュはスーパーの店員として平凡な日常に戻るも、その際にまたも呪文を唱え間違えたせいか、その場に死霊が出現。対決したアッシュは、見事に勝利を収め、拍手喝采を浴びる。 ご丁寧にもこの追加撮影分には、ブリジット・フォンダが再び出演しているが、今回放送されるヴァージョンは、ライミによるディレクターズ・カット版。ユニヴァーサルに「暗い」と断じられたラストが、どのようなものかは、その目で確かめて欲しい。 ラウレンティスとユニヴァーサル間のトラブルもあって、公開時期が遅くもなった本作。そうしたドタバタが続いたものの、「目指すのはエンターテイメント」「皆が笑ったりビックリするような映画を撮りたい」という、ライミの本領が見られる作品となっている。 因みに『死霊のはらわた』シリーズ以降のブルース・キャンベルは、ライミ作品に関しては、本編のどこかにちょこっと特別出演するような形が多い。例えば『スパイダーマン』3部作(2002~07)などは、全作違う役で出演している。 そしてドラマシリーズとしてライミがプロデュース、第1話を監督した、「死霊のはらわた リターンズ」(2015~18)には、30年後のアッシュ役で主演。再び、「臆病で自惚れ屋でほら吹き」ぶりを、たっぷりと見せてくれたのである。■ 『キャプテン・スーパーマーケット』© 1993 Orion Pictures Corporation. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.06.12
デ・パルマ“ギャング映画3部作”の最終便!円熟の業が光る『カリートの道』
『キャリー』(1976)『殺しのドレス』(80)など、ホラーやサスペンス作品のヒットを放ち、70年代後半からそうしたジャンルの旗手のように謳われた、ブライアン・デ・パルマ監督。 “スプリット・スクリーン”“360度パン”“スローモーション”…。華麗な技巧を駆使する彼を指して、「映像の魔術師」などと称賛する、熱烈なファンが生まれた。それと同時に、「ヒッチコックのエピゴーネン(亜流/模倣)」とディスる向きも、決して少なくはなかった。 80年代以降、そんなデ・パルマの新たなキャリアを切り開いたと言えるのが、“ギャング映画3部作”である。 その第1弾は、『スカーフェイス』(83)。キューバ移民の青年トニー・モンタナが、コカインの密売でのし上がるも、やがて自滅していくまでの物語。アル・パチーノを主演に迎え、ヒット作となるも、批評家の評価は高くなかった。しかしやがてカルト作として、熱狂的に支持されるようになる。 第2弾は、『アンタッチャブル』(87)。禁酒法時代のシカゴを舞台に、暗黒街の帝王アル・カポネを摘発しようとする、エリオット・ネスら捜査官たちの戦いの日々を描いた。 デ・パルマは、『ボディ・ダブル』(84)『Wise Guys』(86/日本では劇場未公開)といった作品が不振だったため、キャリアのピンチを迎えていたが、『アンタッチャブル』が大ヒットとなり、“信用”を取り戻す。 しかしその“信用”も、続く『カジュアリティーズ』(89)『虚栄のかがり火』(90)両作の大コケで、雲散霧消。その後、ある意味先祖返りのようなサイコ・サスペンス『レイジング・ケイン』(92)で、まあまあの興行成績と評価を得たが…、というタイミングで手掛けたのが、本作『カリートの道』(93)。デ・パルマの“ギャング映画”第3弾だった。 ***** 時は1970年代中盤。かつては、プエルトリコ系ギャングの出世頭だった、カリート・ブリガンテ。麻薬の密売で30年の刑期を喰らったが、親友の弁護士クラインフェルドの尽力によって、僅か5年で釈放され、生まれ育ったニューヨークのスパニッシュ・ハーレムへと帰還する。 カリートはすぐ、麻薬取引に絡むいざこざに巻き込まれ、手を血で染めてしまう。しかし足を洗うという覚悟は、揺るがなかった。 カリートは、ディスコの経営に勤しみながら、やがてバハマのパラダイス・アイランドに渡って、レンタカー屋を営むことを夢見る。そんな時、5年前に別れた恋人ゲイルと再会。ブロードウェイのダンサーを目指していた彼女は、ストリッパーに身を落としていたが、2人は再び愛し合うようになる。 夢の実現に邁進するカリートの行く手に、暗雲が差し込む。かつての仲間が、検事の手先となってカリートをハメようとしたり、のし上がってきたチンピラが、彼に挑発的な態度を取ったり…。 そんな時、クラインフェルドがカリートに救いを求めてきた。マフィアのボスの脱獄を手伝ってくれというのだ。 躊躇するも、自分を獄から放ってくれた親友の頼みを、断れない。カリートは、ゲイルの制止も振り切って、クラインフェルドの手助けをすることを決めたのだが…。 ***** 本作の原作者は、エドウィン・トレス。ニューヨークはスパニッシュ・ハーレムで生まれ育った、プエルトリコ系アメリカ人だが、法曹界に進み、地方検事補、弁護士を経て、ニューヨーク州最高裁判事にまでなった。 トレスは、厳しい判決を下す裁判官として名を馳せながら、小説家としてもデビュー。自らの出身地を主な舞台に、実際に会った人物や自らの目で見たものを書いたのが、「カリートの道」「After Hours」という、本作の原作となった2作である。 若き主人公カリート・ブリガンテが、麻薬ビジネスに足を踏み込んでから、伝説の麻薬王になり逮捕されるまでを描いたのが、「カリートの道」。投獄後、不当裁判で無罪を勝ち取ったカリートが、出所してから最期を迎えるまでのストーリーが、「After Hours」である。 カリートのキャラで、その生い立ちに関しては、トレス自身が投影されている部分もある。しかしカリートは、犯罪者。主要な要素は、トレスが友人たちからいただいたもので、名前を明かせない3人のモデルがいるという。 これらの小説には、発表後に直ぐ映画化の話が持ち上がる。プロデューサーのマーティン・ブレグマンの元に、脚本化されたものを持ち込んだのは、アル・パチーノだった。 ブレグマンは元々は、パチーノのエージェント。そうした関係性もあって、『セルピコ』(73)『狼たちの午後』(75)そして『スカーフェイス』(83)等、パチーノ主演作の製作を行ってきた。 今となっては誰が書いたかも知れない、この時点での脚本は、2つの小説「カリートの道」「After Hours」 を折衷したような、酷い仕上がりだったという。それを読んだブレグマンは、全くやる気が湧かなかったが、パチーノが主人公のカリートに惚れ込んでいた。やむなく原作に触れてみると、そこに描かれた、ストリートの生々しい雰囲気に、惹かれたという。 ブレグマンは、『ジュラシック・パーク』(93)の脚色が評判になっていたデヴィッド・コープに、仕事を依頼。原作に対するコープの第一印象は、「映画化するには分量が多すぎる」というものだった。 コープは、自分が70年代のスパニッシュ・ハーレムについて何も知らないのも気掛かりだった。この点は原作者のトレスの助力を得てリサーチし、クリアーしたという。 分量的な問題は、当時50代前半だったパチーノの年齢を考慮し、20代後半から30代前半のカリートが活躍する「カリートの道」ではなく、それ以降の物語である「After Hours」を軸に脚色することで、解決した。それなのにタイトルが『カリートの道』になったのは、マーティン・スコセッシ監督の『アフター・アワーズ』(85)があったからである。 ブレグマンは、かつて『スカーフェイス』で組み、成果を出したブライアン・デ・パルマに監督をオファー。しかしデ・パルマの当初のリアクションは、芳しいものではなかった。「ラテン系ギャングの話」は、もうやりたくなかったのだ。 彼が考えを変えたのは、コープの脚本を読んでから。パチーノと再び仕事ができるのも、決め手になったという。かくて『スカーフェイス』から10年振りに、ブライアン・デ・パルマとアル・パチーノが組んだ、“ギャング映画”が誕生することとなった。 デ・パルマは原作者のトレスに、スパニッシュ・ハーレムを案内してもらった。ここで誰が撃たれ誰が刺された等々、事件の現場を巡りながら、スペイン系ギャングの生態をウォッチング。デ・パルマはそこで、彼らが持つ家族愛や宗教心、更には独自のラテン音楽などを見出した。 そしてクランク・イン。ロケは、原作者の生まれた場所にごく近い地域などで行われた。『スカーフェイス』でお互いのやり方を心得ていた、デ・パルマとパチーノのコミュニュケーションは、スムースだった。パチーノは、彼の動作の美しさを捉え、その演技を際立たせるようなデ・パルマ演出を、至極気に入っていたという。 本作は冒頭、駅で撃たれたカリートが搬送されていくさなかに、彼のモノローグによって回想が始まり、ここに至るまでの日々が描かれていく。これは“フィルム・ノワール”、代表的な例としては、プールに浮かぶ死体の回想から始まる、『サンセット大通り』(50)などで用いられた手法の、援用と言える。 そのような形で語られる物語には、数々の個性的な人物が登場する。中でも強烈な印象を残すのが、カリートの親友で、コカイン中毒の弁護士クラインフェルド。原作者がこれまでに会ってきた、ろくでもない弁護士たちの集合体で、悪の世界にどっぷりと浸かっているキャラクターである。 演じるショーン・ペンは、初監督作品『インディアン・ランナー』(91)が絶賛され、監督業に専念することを真剣に検討していたのを翻しての、本作への出演。それだけ、この役に入れ込んでいたのだろう。薄毛のカーリーヘアという、あまりにもインパクトの強い外見は、ペン本人のアイディア。この見た目を作るのに、自毛をかなり抜いたのだという。 後にアカデミー賞主演男優賞を2度受賞する、メソッド俳優の面目躍如であるが、ペンの執拗なリテイク要求が、デ・パルマをげんなりさせる局面もあったという。とはいえ両者の関係は、概ね良好に運んだ。 カリートが愛するゲイルには、ペネロープ・アン・ミラーがキャスティングされた。『レナードの朝』(90)『キンダガートン・コップ』(90)『チャーリー』(92)など、話題作・ヒット作への出演が続き、彼女への注目が高まっていた頃だった。 カリートが共に“楽園”に行こうとする、天使のように理想化された存在でありつつ、バストトップを曝しての、70年代っぽいストリップのシーンなども印象的である。 パチーノが作品の肝としてこだわったのは、クラインフェルドの裏切りが露見し、カリートとの関係が、決定的に断絶に至るシーンだった。そのシーンには、25ものパターンを用意。更には、脚本家のコープが撮影に立ち会ったのは、パチーノのリクエストだった。 最終的には、コープが撮影直前に書き直した脚本で、決まりとなった。カリートは負傷したクラインフェルドが入院する病室を訪ね、彼なりのやり方で落とし前をつける。因みにパチーノが訪れる病院の外観は、彼が出世作『ゴッドファーザー』(72)で、マーロン・ブランドを見舞ったのと同じ場所が使われた。 本作は、クライマックスの地下鉄を使っての逃走劇や、それに続くグランド・セントラル・ステーションのエスカレーターでの銃撃戦など、さすが「映像の魔術師」デ・パルマと思わせるシーンも、随所にある。しかし全般的には、これ見よがしな技巧に走り過ぎたりは、決してしていない。日本の任侠物などにも通じる“仁義の世界“の住人故に、足を洗い切れなかった男の悲劇が、鮮烈且つ抑制的に描かれている。 公開当時、大きな成果を上げることはなかった。またパチーノ×ブレグマン×デ・パルマの前作、『スカーフェイス』のようなカルト人気を得ることも叶わなかった。しかし、当時53歳。デ・パルマのフィルモグラフィーの中でも、彼の円熟したスキルが、最も楽しめる1本に仕上がっている。 そしてデ・パルマは、次作『ミッション:インポッシブル』(96)で再びデヴィッド・コープの脚本を得て(ロバート・タウンと共同)、彼のキャリアの中で最大のヒットをものする。■ 『カリートの道』© 1993 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.05.31
「いまつくらねば!」2017年のスピルバーグが『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』を撮った重み。
1971年6月。「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」、後に“ペンタゴン・ペーパーズ”と呼ばれることになる、アメリカ政府の機密文書の存在を、「ニューヨーク・タイムズ」が、スクープした。 それはトルーマンからアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソンといった、歴代の大統領とその政権が、泥沼化するベトナム戦争に関して、アメリカ国民に嘘をつき続けていたことを明らかにする内容だった。正義も勝算もない戦争に、多くの若者たちを兵士として送り、多大な犠牲を出してきたのである。「ワシントン・ポスト」編集主幹のベン・ブラッドリーは、「タイムズ」と同じ文書を手に入れ、この報道に参戦しようと、躍起になる。 しかし時のニクソン政権は、「タイムズ」を機密保護法違反で訴え、その続報は差し止められてしまう。ブラッドリーたちもスクープの後追いをすると、政府を敵に回し、「ポスト」も同じ憂き目に遭う可能性が高い。 折しも「ポスト」は株式公開に向けて、社主のキャサリン・グラハムはその準備に、余念がなかった。ブラッドリーたちの企ては、「ポスト」の経営を揺るがしかねないと、社の上層部や法律顧問から、猛反対を受ける。 報じるか否か、すべては社主のキャサリンに委ねられた。果して、彼女の決断は!? ***** 「いますぐこの映画をつくらなければいけない…」 実話に基づき実在の人物達を主人公にした、本作『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(2017)の脚本を読んでそう考えたのは、巨匠スティーヴン・スピルバーグ。彼の動きは、果断だった。 製作中だったSF映画『レディ・プレイヤー1』(18)の撮影を、イタリアで終えると、アメリカに帰国。可能な限りスピーディに、本作を完成・公開するプロジェクトに取り組んだ。 彼をそうさせたのは、2017年1月の、トランプ政権の誕生。都合の悪い報道は、「フェイクニュース」と口汚く罵り、圧力を掛けることを辞さない新大統領と、メディアの関係は、極端に悪化していた。 スピルバーグはこうした状況に、強い危機感を覚えていた。その時に、「報道の自由」を高らかに謳い上げる、本作の脚本に出会ったのである。 元々この脚本はリズ・ハンナという、その時点ではまだ映画化作品がない、女性脚本家が執筆。「ブラックリスト」に登録したものだった。 この「ブラックリスト」とは、優れた脚本やその書き手を発掘するために、2005年にスタートしたシステム。登録された脚本は、限られた映画関係者だけがアクセスできるウェブサイトで公開される。 2016年に登録されたこの脚本を読んで、その年の10月に映画化権を獲得したのは、プロデューサーのエイミー・パスカル。そしてパスカルはこの脚本を、スピルバーグへと委ねたのだ。 元の脚本は、執筆したリズ・ハンナ曰く、「ソウルメイトたちのラブストーリー」。“ペンタゴン・ペーパーズ”の報道を巡って、「ワシントン・ポスト」の社主であるキャサリン・グラハムと編集主幹のベン・ブラッドリーの関係が培われ、育っていく。それが2人の、そして「ポスト」の強みになっていく様を描いている。 スピルバーグが「すぐに撮りたい」と思ったほどの脚本だったが、十全を期してブラッシュアップを図った。筆を加えたのは、やはり実話ベースで2015年度のアカデミー賞作品賞と脚本賞を受賞した、『スポットライト 世紀のスクープ』のジョシュ・シンガー。 彼の役割は、キャサリンが決断を下すまでの数日間を描く中で、観客が、舞台となった“1971年”に没入し、その時代に身を置けるようにすること。そこで、「歴史的な要素と時代背景」を書き加えるために、当時を知る多くの者に、リサーチを行った。 本作は、2017年5月30日にニューヨークでクランク・イン。メインの撮影は50日間で終了し、11月6日には作品が完成していた。 1993年には、革新的なVFX技術を用いたエンタメ超大作『ジュラシック・パーク』と、ナチスによるユダヤ人虐殺を描いた社会派作品『シンドラーのリスト』という、映画史に残る2本をほぼ並行して製作・監督するなど、「早撮り」で知られるスピルバーグであるが、本作は、彼が脚本を読んでから僅か9カ月での完成。その偉大なフィルモグラフィーの中でも、最も短期間で仕上げた作品となった。 そして『ペンタゴン・ペーパーズ』は、先行して製作していた『レディ・プレイヤー1』より3か月も早く、その年=2017年12月には、公開となったのである。 このハリウッド大作としては極めて短期間のプロジェクトに、主演として請われたのは、メリル・ストリープとトム・ハンクス。ハンクスがスピルバーグとタッグを組むのは、5度目だったが、メリルとスピルバーグ監督作の縁は、過去に『A.I.』(01)で声優を務めたことのみ。実質的には、スピルバーグ組への初参加と言えた。またメリルとハンクスの共演も、初めてのことだった。 メリルが演じたキャサリン・グラハム(1917~2001)は、期せずして「ワシントン・ポスト」の社主となった女性である。「ポスト」は元々、彼女の父が1933年に買収。46年にその娘婿、つまりキャサリンの夫であるフィル・グラハムが後を継いで、成長させた新聞社だった。 しかしフィルが、現在で言うところの双極性障害を悪化させて、63年に自殺。それまで4人の子どもを育てる“専業主婦”だったキャサリンは、46歳にして父と夫の会社を守るため、周囲の反対を押し切って、経営者の座に就いたのである。 アメリカの主要紙では初の女性TOP、しかもその手腕は未知数ということもあって、軽んじられることも少なくなかったというキャサリン。本作はそんな彼女が大きな決断を下し、成長していく物語と言える。 メリルは、キャサリン・グラハム自身が朗読した、自伝の録音を聴くなどして、撮影前の準備を行った。その際にキャサリンの、「エネルギー、知性、思いやり、ユーモア、そして謙虚さ」に、すっかり魅了されてしまったという。 ハンクスが演じたベン・ブラッドリー(1921~2014)は、キャサリンが「ニューズウィーク」誌から引き抜いて、「ポスト」の編集主幹に据えた人物。有能で仕事熱心なジャーナリストであったが、その強引さから“海賊”と異名を取ってもいた。 スピルバーグは生前のブラッドリーと近所付き合いがあり、何度も話した経験があった。またハンクスもブラッドリーとは、90年代に何度か夕食会で会った間柄だった。 メリルとハンクスの役作りは、例によって完璧だった。キャサリンやブラッドリーを知る識者たちが撮影現場を訪れた際、「ミセス・グラハムそのまま」「彼そのもの」と折り紙を付けるほど、精緻を極めていたという。 そんな2人の名優を擁した現場でのスピルバーグ演出は、初顔合わせだったメリル曰く、「即興的な撮り方」で、リハーサルもなかったため、彼女をとても吃驚させた。スピルバーグから、“次は違うふうに”などと、色々な撮り方を試されたメリルは、それにアドリブを交えながら応えた。 そんな彼女の即応力に、スピルバーグ組ベテランのハンクスも、「メリルは共演者を決められた演技に誘導するのではなく、最高の演技を一緒に引き出そうとする」と感服。彼女との共演を、「素晴らしい経験だった」と、称賛を惜しまなかった。 メリルが初体験だった、この「とても自由な感じ」の撮影は、「すぐに始まり、すぐに終わった」印象だったという。 本作のキャストで、いわゆる“大スター”はメリルとトムだけだったが、脇を固める俳優陣も、こうしたスピルバーグ演出の下、素晴らしい演技を見せている。 さて細かいことは観てのお楽しみとするが、本作はメインのストーリー展開が終わって1年後の1972年6月、当時野党だった民主党本部に5人の男が不法侵入し逮捕された事件を映し出して、幕となる。世に言う、“ウォーターゲート事件”である。 後にこの犯罪行為に、ニクソン大統領の「再選委員会」が関わっていることが判明。結果的にニクソンは、辞任へと追い込まれる。 この件をスクープしたのが、本作ではハンクスが演じたベン・ブラッドリーの部下で、「ワシントン・ポスト」の若き記者、ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタイン。そしてその顛末を映画化したのが、アラン・J・パクラが監督し、ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンが共演した『大統領の陰謀』(1976)である。 つまり本作のエンディングは、41年前の名作『大統領の陰謀』のプロローグになっているという仕掛けだ。この特ダネの報道に挑むブラッドリーのチームを全面的にバックアップしたのも、キャサリン・グラハムだったが、残念ながら今から半世紀近く前に映画化された『大統領の陰謀』は、ほぼ完全に“男社会”の作品。彼女の名前は、触れられる程度に終わっている。 1976年の『大統領…』と2017年の『ペンタゴン・ペーパーズ』。製作年度の、彼我の差という他はない。 さてトランプ大統領の誕生が、スピルバーグに本作の製作を決意させた旨は、冒頭で記した通りである。それから7年経った現在、「もしトラ」~1度は野に下り、数々の犯罪行為で訴追されているトランプが、大統領に復帰する可能性が、喧伝される事態となっている。トランプ復帰が現実のものとなった場合、再びメディアとの対決姿勢を打ち出すのは、疑いあるまい。 一方で我が国の現状を鑑みると、「世界報道自由度ランキング」の2024年版では、前年の68位から順位を下げ、70位。G7では、最下位という体たらくである。長期政権とメディアの癒着や緊張関係のなさが、危機的状況を招いている。 本作『ペンタゴン・ペーパーズ』では、「報道の自由」を保証する、「アメリカ合衆国憲法修正第1条」が再三言及される。それに基づき、本作のクライマックスで連邦最高裁が下す判決の中にある一文が、これほどまでに重く響く時代になるとは…。「報道機関は国民に仕えるものであり、政権や政治家に仕えるものではない」■ 『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』© 2017 Storyteller Distribution Co., LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.05.15
リドリー・スコット失地回復の1作『ブラック・レイン』でその“生き様”を輝かせた男
マイケル・ダグラスは、ノリに乗っていた。 元は『カッコーの巣の上で』(1975)などで、プロデューサーとしてその名を轟かせたが、80年代中盤以降は、俳優としても成功。1987年には、『危険な情事』が大ヒットとなり、続く『ウォール街』では、大スターの父カーク・ダグラスが生涯手にすることがなかった、アカデミー賞主演男優賞の獲得に至る。 そんな絶好調の彼に、1冊の脚本が届けられた。それは元々、エディ・マーフィ主演の『ビバリーヒルズ・コップ2』(87)のために書かれたものだったが、諸般の事情で没に。 その後その脚本は、『ビバリーヒルズ…』とは別企画の刑事アクションとして、映画化が模索された。ダグラスの元に辿り着くまでに、主演候補として、メル・ギブソンやカート・ラッセル、スタローンやシュワちゃん、ブルース・ウィリスやハリソン・フォード、ルトガー・ハウアーなどの名が挙がったという。 この脚本が気に入ったダグラスは、『危険な情事』のプロデューサーだった、スタンリー・R・ジャッフェとシェリー・ランシングの元に持っていく。かくて本作『ブラック・レイン』(89)は、製作費3,000万㌦=約59億円の、当時としてはビッグバジェットで、映画化されることとなった。 監督には、『ロボコップ』(87)でヒットを飛ばしたポール・ヴァーホーヴェンが、一旦決まる。しかし彼は『トータル・リコール』(90)のプロジェクトへと鞍替えし、降板。そこでジャッフェ&ランシングがオファーしたのが、リドリー・スコットだった。今日では“巨匠”として揺るぎない地位を築いているスコットだが、当時の立ち位置は、極めて微妙なものだった。 長編監督第2作にして、ハリウッド進出作だった『エイリアン』(79)で大成功を収めるも、後には伝説的な作品として語り継がれることになる『ブレードランナー』(82)は、初公開時は大コケ。続く『レジェンド/光と闇の伝説』(85)『誰かに見られてる』(87)も不発に終わっていた。『ブレードランナー』以降スコットは、プロデューサー的な役割も兼ねて作品作りを行ってきた。しかしそんな状態だったため、『ブラック・レイン』へは、純然たる“雇われ監督”として参加が決まる。 ■『ブラック・レイン』撮影中のマイケル・ダグラス(左)とリドリー・スコット監督 製作準備期間中スコットは、『ブラック・レイン』メインの舞台となる日本を、何度も訪問。ロケハンを行うと、もっと独特のものがあると思っていた日本の都市が、「近代的で合理的」であることに気付かされた。 そんなこともあって、東京をメインの舞台にするという、当初のプランは取りやめ。成田空港や銀座、新宿歌舞伎町などでロケを行うには、撮影許可を得るのが至極困難であるというのも、ロケ地変更へと繋がった。 日本を離れて香港で撮影するアイディアも検討されたが、最終的には大阪で大々的にロケーションが行われることとなった。東京よりは「融通が利く」という見込みからの決定だったが、これが大間違いで、後に撮影チームは、地獄を見ることとなる…。 ***** ニューヨーク市警の刑事ニック(演:マイケル・ダグラス)。内務調査班から汚職の疑いを掛けられ、なじみの店で相棒チャーリー(演:アンディ・ガルシア)に、愚痴をこぼす。 その時その店で、マフィアと日本のヤクザが商談を行っているのが、目に入る。そこに手下を引き連れ、横入りするように現れたのが、新興ヤクザの佐藤(演:松田優作)だった。 その荒っぽい振舞いを、年配のヤクザが揶揄すると、佐藤は鋭利な刃物で喉元を引き裂いて殺害。ニックとチャーリーは、逃亡を図る佐藤を追跡し、死闘の末に取り押さえる。 2人は逮捕した佐藤を、日本へと護送。空港到着と同時に、現れた警官隊に佐藤を引き渡し、任務完了の筈だったが、それは佐藤の配下が扮した、ニセ警官だった。 大阪府警からお目付け役に、閑職の警部補・松本(演:高倉健)を付けられ、厄介者扱いされる2人のアメリカ人刑事。しかしニックは一連の事態が、佐藤とその元親分の菅井(演:若山富三郎)との間の、偽ドル紙幣の原板を巡る抗争であることを突き止める。ニックは菅井が経営するクラブミヤコの外国人ホステス(演:ケイト・キャプショー)の協力を得て、佐藤の逮捕に執念を燃やす。 そんな時チャーリーが、佐藤の罠によって、ニックの眼前で惨殺される。その怒りと悲しみが、ニックと松本を結び付け、2人は共同で捜査に取り組む。 アメリカと日本。異なる文化をバックボーンに持つ2人の刑事は、果して佐藤を追い詰めることが出来るのか? ***** 本作のタイトル“ブラック・レイン=黒い雨”の由来は、日本ヤクザの大ボス菅井が、ニックに毒づく内容で示される。少年時代にアメリカ軍による空襲を経験した菅井は、その直後“黒い雨”に打たれる。日本は敗戦と共に、やって来た進駐軍に価値感を押しつけられ、それが今どきの、仁義もへったくれもない、佐藤のような奴らを創り出したのだと。 主演のマイケル・ダグラスは本作のクランク・イン前、ニューヨーク市警の刑事と行動を共にした。その際ハーレムの暴動現場に駆けつけたり、警官2人が殺害された現場の調査に加わったりして、リサーチ。しかし日本に行くことは、敢えて避けたという。初めて日本を訪れるニック刑事と、できるだけ同じ状況で撮影に臨もうとしたのである。 外国人ホステスを演じたケイト・キャプショーは、役作りのため、大阪の会員制クラブに勤務。「男性とダンスをしたり、甘えさせてあげたり、背中を撫でてやったり、お酒をついだり……、彼らの冗談に笑ったり」といった経験をした。 日本人キャストの多くは、大々的なオーディションによって、決められた。押しも押されぬ日本のTOPスターで、『燃える戦場』(70)『ザ・ヤクザ』(74)など、ハリウッド映画に出演経験のある“健さん”こと高倉健も、例外ではなかったようだ。高倉が亡くなった際、彼が演じた松本警部補役のオーディションを、泉谷しげるも受けていたことを明らかにしている。 一説によるとリドリー・スコットは、出世作『エイリアン』を撮る際にも、高倉の出演を望んだと言われている。そうした意味では健さんは、“特別枠”だった可能性もあるが。 本作の強烈なヴィラン佐藤役には、ジャッキー・チェンの名前も挙がったというが、どう考えても柄ではない。本人もそう思ったらしく、直々に断ったと言われる。 数多の有名俳優が佐藤役の獲得に挑んだ中で、最終的に勝ち残ったのが、松田優作だった。キャスティング・ディレクターが松田に興味を持ったのは、『家族ゲーム』(83)『それから』(85)といった、森田芳光監督作品を観てのこと。またリドリー・スコットは松田のことを、痛快な日本のテレビドラマ(「探偵物語」のことと思われる)で知られる、「本質的にはコメディ俳優」と認識していた。 そんなこんなで、松田の起用が決まった時点では、アクションができることは、さほど期待されていなかったようである。彼を世に出した刑事ドラマ「太陽にほえろ」や、角川映画などの村川透監督作に触れてきた我々としては、吃驚するような話であるが…。 1988年10月28日、『ブラック・レイン』は、当時の大阪府庁のビルを、大阪府警に見立ててのシーンから、撮影開始。アメリカ側45人、日本側100人という大所帯のクルーは、続いて京橋地区の野外シーンや道頓堀地区のナイトシーン等々に取り組んでいく。しかしこれらの街頭撮影は制約が厳しく、困難を極めることとなった。 撮影許可が下りた筈だったのに、突然取り消されたり、建物内の撮影をしようとすると、それを監視する関係者が現れたり。 見物客にも、手を焼いた。通行人が平気でカメラの前を横切るわ、高倉健にサインを求めるギャラリーが殺到するわ。マイケル・ダグラスが、人々が高倉に接する様について、「アメリカでは、ブルース・スプリングスティーンの時だけだよ。あんなに尊敬される姿を見れるのは」とコメントしているが、これは半ば皮肉だったのかも知れない。 このような状況にストレスをためた撮影監督は、途中で降板。ピンチヒッターとして、後に『スピード』(94)などを監督する、ヤン・デ・ボンが呼ばれた。「日本社会というものを理解していなかった」そして「日本での撮影がどれだけ高くつくかもわかっていなかった」と悔やんでも、後の祭り。リドリー・スコットは後年、「二度と日本では撮らない!」と、コメントしている。 当初年の瀬近くまで予定していたロケは、12月上旬には切り上げ。結局大阪での撮影は、予定の半分もこなせなかった。 その後ニューヨークロケを済ませた後、撮れなかった日本のシーンは、ロスやカリフォルニア周辺で撮影。クライマックスは、ナパ・ヴァレーに在るブドウ農園を、コメの栽培地に作りかえ、そこで大物ヤクザたちの会合シーンや、ニックと佐藤のバイク・チェイスを撮り上げた。 1989年3月14日に、本作の主要な撮影は終了。ロケ地としての日本の評判は、本作で地に墜ちたと言えるが、その逆に高い評価を受けたのが、松田優作だった。 先にも記した通り、アクション面では期待されていなかった松田だが、いざ撮影に臨むと、スタントなしで自在に演じられることを知らしめた。そして撮影が進むにつれ、作品に対する発言権と信頼を得ていったのだ。 リドリー・スコットは松田を、「じつに良いやつ」「正真正銘の、ナイスガイ」とべた褒め。マイケル・ダグラスはアメリカでの撮影の合間に、松田を映画会社の重役に引き合わせ、今後ハリウッドで仕事をする際は、すべての面倒を見ると、太鼓判を捺した。 そして本作『ブラック・レイン』は、1989年9月22日に全米公開。№1ヒットとなると、キャスティング・ディレクターの元には、「ユーサク・マツダとは何者だ?」と問い合わせが殺到した。10月頭には具体的に、松田憧れの俳優、ロバート・デ・ニーロの主演作からオファーがあったという。 しかしその申し出が届いた際、松田は深刻な状況に陥っていた。実は本作への出演が決定した88年秋、松田は、膀胱がんの診断を受けていたのだ。ところが彼は、「“映画の父の国”で映画をやってみたかった」という、長年の夢を優先。本作の撮影に臨んだ。 それから1年…。松田は、10月7日の本作日本公開の頃には入院。がんの転移もあって、予断を許さない状態だった。そしてほぼ1か月後の11月6日には、この世を去ってしまう。享年40。 松田の身体ががんに侵されているのは、本作関係者のほとんどが知らされていなかった。その役どころとは正反対に、撮影中に松田と“親友”になった、チャーリー刑事役のアンディ・ガルシアは、『ゴッドファーザーPARTⅢ』(90)撮影中に松田の訃報を耳にした。ガルシアは真っ青になって、言葉も出なかったという。 本作は、監督のリドリー・スコットにとっては、失地回復の1作となった。そして次作では、プロデューサーを兼任。代表作の誉れ高い、『テルマ&ルイーズ』(91)を放つこととなる。 本作の撮影中、渾身の演技を見せた松田優作はスコットに、こんなことを言ったという。「これで俺は永遠に生きられる」■ 『ブラック・レイン』TM & Copyright © 2024 by Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.05.02
“香港映画”最後の輝き!? 新世紀の警察映画『インファナル・アフェア』三部作
香港では現実でも、潜入刑事によるおとり捜査が頻繁に行われていたという。そのためもあってか、香港のアクション映画やノアール=犯罪映画では、“潜入捜査官”ものが数多く製作されてきた。 刑事がその正体を隠して、黒社会=マフィアの一員となり、犯罪組織を追い込んでいく。リンゴ・ラム監督、チョウ・ユンファ主演の『友は風の彼方に』(86)などは、あのクエンティン・タランティーノが、長編デビュー作『レザボア・ドッグス』(92)で、丸パクリしたことでも有名である。 20世紀の終わり近くに、この“潜入捜査官もの”を、新たな切り口で再生することを思いついたのが、アラン・マック。しかしそのアイディアを売り込んでも、香港製警察映画としては、銃撃戦もアクションも「少なすぎる」と、多くの映画会社やプロデューサーから難色を示された。 2001年になって、アンドリュー・ラウの元に持ち込んでから、この企画は大きく動き出す。ラウは、ウォン・カーウァイ監督作『恋する惑星』(94)の撮影で注目を浴び、監督としても『欲望の街/古惑仔』シリーズ(95〜00)や『風雲/ストーム・ライダース』(98)といったヒット作がある。そのラウが、マックのアイディアに惚れ込んで、プロデューサーを買って出たのだ。 そこに映画会社のメディアアジアが乗った。製作に正式にGOサインが出たのだ。 ラウとマック、そしてメディアアジアの目標は、決まっていた。それは従来とは一味違った、「新世紀の警察映画」を作ることだった。 パクり対策もあって脚本は作らない、撮影現場では、その日の撮影分だけをコピーして配るなどと言われてきた香港映画としては、異例の製作準備が行われた。リサーチも含めると脚本の執筆に、3年もの歳月が掛けられたのだ。 こうして2002年に撮影・公開されることとなったのが、『インファナル・アフェア』の“第1作”である。中国語での原題は、「無間道」。最も辛い地獄である、絶え間なく続く“無間地獄”を行くという意味である。 ***** 黒社会のボス、サムの配下であるヤンは、くたびれ果てていた。彼は10年前、警察学校の生徒だった時、その能力を見込んだウォン警視によって、“潜入捜査官”の役割を与えられ、マフィアに潜り込んでいたのである。いつ終わるとも知れないスパイの使命に、ヤンは心身を蝕まれていた。 一方警察官のラウは、ヤンとは逆に、サムから警察に送り込まれた、“潜入マフィア”だった。捜査情報を流しながらも、警察内で順調に出世の階段を上っていくラウは、愛する婚約者も得て、今ある地位と名誉を、手放したくなくなっていた。 ある時の麻薬取引をきっかけに、ウォン警視とサムは、自分の組織の中に内通者がいることを、共に気付く。その炙り出しの命を受けたのは、それぞれ当事者である、ヤンとラウだった。 お互いの正体を知らない2人の運命が、大きくクロスしていく…。 ***** “潜入捜査官”と“潜入マフィア”。対称となる存在を配置して、両者の地獄の苦しみを、等分に描いていく。従来の“潜入捜査官”ものの枠を超えた、「新世紀の警察映画」の企画段階から製作に携わった大スターが、アンディ・ラウだった。脚本にも「全面的に参加」したという。 アンディを含めて、どうせならメインキャストを、“影帝”で固めようということになった。“影帝”とは、主要映画賞での主演男優賞受賞経験者を指す。 こうして、“潜入マフィア”ラウ役には、アンディ、“潜入捜査官”ヤンには、トニー・レオン、サムにはエリック・ツァン、ウォン警視には、アンソニー・ウォンが決まる。マスコミからは、「破天荒な共演」と騒がれた「4大影帝」の揃い踏みだったが、いずれも脚本を送ったら、即出演OKだったという。 9年振りの共演ということも話題になった、アンディとトニーに関わる女性キャラとしてキャスティングされたのは、歌手としても活躍する、サミー・チェンとケリー・チャン。また台湾の歌姫エルバ・シャオが、ヤンが別れた恋人役として1シーンのみだが、重要な役で出演している。 主人公2人の若き日を演じる俳優を選出するのには、大々的な新人オーディションを行った。結果としては、すでに若手スターとして注目の存在だった、エディソン・チャンとショーン・ユーが決まる。 当時の香港映画界きっての“オールスター映画”となって、当初アラン・マックが単独で監督する予定が、実績のあるアンドリュー・ラウとの共同監督へと変わった。役割分担としては、マックは俳優の演出や、共同脚本のフェリックス・チョンと共に、シナリオをブラッシュアップする方向に尽力。撮影も兼ねたラウは、ヴィジュアル面に力を注いだことになっている。 しかしアンディ・ラウの証言では、現場では主にマックがモニター前に陣取るのに対し、ラウは俳優に指示を出すなど、実質的な演出を担当。また意見が割れた時の最終決定権は、プロデューサーも兼ねたラウにあったという。 トニー・レオンはヤン役を演じるに当たっては、かつてジョン・ウー監督の『ハード・ボイルド/新・男たちの挽歌』(92)で演じた“潜入捜査官“役と変わらないとしながらも、もうこれ以上続けたくない悩んでいる感じを出し、退廃的に演じてみたという。 一方アンディ・ラウは、観客は黒社会の手先だとわかっているのに、劇中では警察として、同僚らにまったく怪しまれることなく自然に振舞うという役作りに腐心した。因みに、事前に警察を取材するなどの準備はしなかった。仮に“潜入マフィア”が居たとしても、取材しようがないのだから、確かに事前リサーチは不要であっただろう。 ダニー・パンとパン・チンヘイによる、ハイテンポの編集もピタッとハマった『インファナル・アフェア』は、2002年最大のブロックバスター作品として、クリスマス・シーズンに公開。興収5,000万香港㌦を超え、2002年度の香港映画全体の売上げの17%を占めるメガヒットとなった。 こうなると当然、“続編”の動きが持ち上がる。第1作の製作期間からその後日談を描いた脚本が、執筆されていた。それに対してメディアアジアグループの会長ピーター・ラムが、大きく過去に遡る話の映画化を提案。ヤンとラウは、人生のスタートの地点で、いかにして“潜入捜査官”“潜入マフィア”となったのか?ウォン警視とサムは、はじめはどんな仲で、なぜお互いの命を狙うような敵対関係になってしまったのか? この構想は具体化。第1作よりも10年遡り、主人公たちの若き日を描く『II』、第1作の前後の顛末を詳らかにする『III』が、第1作とほぼ同じスタッフによって、続けて製作されることとなった。 第2作である『インファナル・アフェア 無間序曲』(03)のラウとヤン役には、第1作でその若き日を演じた、エディソン・チャンとショーン・ユーが、そのまま起用された。アンソニー・ウォンとエリック・ツァンは続投。そのまま10年若返ってみせた。 新たに加わったのは、フランシス・ンとフー・ジュン。それにカリーナ・ラウ。 フランシス・ンは、最大マフィアの若き後継者にして、ヤンの腹違いの兄であるハウ役。ヤンはこうした血筋故に、警察学校に居られなくなり、尚且つ“潜入警察官”として白羽の矢を立てられたのだった。 フー・ジュンは、ウォン警視の同僚にして親友役。彼に降りかかった災厄があってこそ、ウォン警視のマフィアへの憎悪は深まることとなる。 そしてカリーナ・ラウは、サムの愛妻にて、若きラウの想い人役。彼女への愛故に、ラウは“潜入マフィア”に志願し、また折々の“裏切り”や“殺し”に対して、躊躇のない者となってしまう。 この作品の舞台となったのは、1991年、95年、そして香港が、長年の統治者イギリスから中国へと返還される、97年。香港の黄金時代であると同時に、返還を前にした激動の時代である。そんな時の流れの中で、それぞれのキャラクターが負った“業”が複雑に絡み合って、数々の悲劇が生まれていく。 中国への返還を機に、黒社会から表の世界へと移り住むことを企てるも、夢破れて命を落とすハウが、象徴的と言える。死の間際に、信頼していた“弟”ヤンが、“裏切者”だと気付く。フランシス・ンが見事な表情、見事なキャラ造型で見せてくれる。 “プリクエル=前日譚”として、まるで当初から構想されたとしか思えない、素晴らしい完成度!『インファナル・アフェア 無間序曲』は、2003年10月の公開と共に大評判となり、多くの観客を集めた。 そしてその2カ月後、第1作の公開からちょうど1年を経て公開されたのが、『インファナル・アフェアIII 終極無間』。“三部作”の完結編である。 ネタバレになるが、そもそも“第1作”で、アンディ・ラウの“潜入マフィア”以外の主要キャラは、すべて命を落としている。“前日譚”はともかく、その続きなどどうやって描くのか?それが大いに注目された。 かつての香港映画ならば、大ヒット作『男たちの挽歌』(86)で命を落としたチョウ・ユンファが、その続編『男たちの挽歌Ⅱ』(87)では、「双子の弟」という設定で、シレッと戻ってきたりする。 もちろん緻密な構成で編まれた『インファナル・アフェア』シリーズでそんなことをするわけはなく、ヤン、ウォン警視、サムらは、“第1作”に至る数ヶ月前からの攻防に登場。生き残ったラウはそれに加えて、“第1作”の事件の後始末に追われる中で、精神の平衡を崩していく。 ここで“潜入マフィア”ラウは、自らの合わせ鏡のような存在だった、今は亡き“潜入捜査官”ヤンへと同化していく。ラウの妄想の中で、アンディとトニーの競演が行われる仕掛けだ。そしてラウは、自らの“マフィア”としての本性を消し去り、“警察官”として「善人でいたかった」と思うがあまり、“破滅”へと向かって行くのである。 この『III』の脚本には、「統括する形で携わっている」という、アンディ・ラウ。精神的にバランスが崩れたラウを演じるに当たって、「3カ月程度」様々なリサーチを行い、その細かい描写に関しては、自らのアイディアに基づいて演じている。 しかしラウの迎える“結末”は、アンドリュー・ラウ監督が考えたもの。「なんて、残忍な監督なんだろう」と、演じるアンディは思ったという。 『III』で新たに登場するのは、冷徹なエリート刑事役のレオン・ライと、中国本土から香港に来る麻薬商人役のチェン・ダオミン。この2人が、“生前”のヤン、そして狂っていくラウと関わる、重要な役割を果す。 記憶や時制を、混乱しかねないスレスレのつながりで積み上げて構成された、『インファナル・アフェアIII』。“三部作”の完結編として、「見事」という他ない仕上がりとなった。そして当然のように、公開と共に大ヒットを記録した。 『インファナル・アフェア』のリメイク権は、当時としての最高記録で、ハリウッドに売れたのは、あまりにも有名なエピソード。レオナルド・ディカプリオとマット・デイモンの主演、マーティン・スコセッシの監督で『ディパーテッド』(06)というタイトルで映画化され、アカデミー賞の最優秀作品賞・監督賞・脚色賞・編集賞と、4部門を制した。 また日本でも、西島秀俊と香川照之共演で「ダブルフェイス」(12)というタイトルでドラマ化された。 “三部作”の製作・公開当時は、中国返還の前後から元気がなくなっていた香港映画の「復活の狼煙」のようにも評された。しかし20年余経って振り返れば、これが「最後の輝き」となってしまった感が強い。 2003年SARS=重症急性呼吸器症候群によって、大打撃を受けた香港経済。当然映画界の被害も大きく、これ以降に『インファナル・アフェア』並みの製作規模やオールスターキャストを実現するためには、中国本土での公開を前提とした“合作”というスタイルを取る必然性が生じた。 そうなると中国共産党の検閲の下、いわゆる「表現の自由」が大きく狭められる。“黒社会”に属する主人公が、警察や公安を相手に勝利を収めるような作品は、一切許可が下りなくなったのである。 そうこうする内に、習近平政権による、昨今の弾圧である。香港から、『インファナル・アフェア』のような、ビッグバジェット且つ革新的作品が生まれるのは、完全な“夢物語”となってしまった。 付記すれば本作の出演者でも、エリック・ツァンが、ジャッキー・チェンなどど同様に、今や“親中派”の代表的な俳優となったのに対し、アンソニー・ウォンは、2014年の雨傘運動=香港反政府デモを支持して以降は、メジャー作品からは締出されたような形となっている。 様々な意味で、『インファナル・アフェア』三部作は、香港の「今は昔」のレクイエムのような作品と言えるかも知れない。■ 『インファナル・アフェア』© 2002 Media Asia Films (BVI) Ltd. All Rights Reserved『インファナル・アフェアII 無間序曲』『インファナル・アフェアIII 終極無間』© 2003 Media Asia Films (BVI) Ltd. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2024.04.10
ブライアン・デ・パルマ復活!ケヴィン・コスナーをスターに押し上げた“西部劇”『アンタッチャブル』
アメリカに禁酒法が敷かれていた、1920年代から30年代はじめ。悪名高きギャングのアル・カポネは、酒の密造と密輸で莫大な利益を上げ、シカゴで「影の市長」と呼ばれるほどの権勢を誇っていた。 警察や議会、裁判所までがカポネの影響下に置かれる中、孤独な戦いを始めた男が居た。財務省から派遣された若き捜査官、エリオット・ネスである。 ネスは意気盛んに、密造酒摘発に乗り出す。しかし配下の警官は買収されており、捜査情報の漏洩で、初陣は大失敗に終わる。 世間の失笑を買ったネスは、初老の警官マローンと偶然知り合う。彼が信頼に値する男だと見定めたネスは、カポネに対抗するためのチーム作りへの協力を依頼する。 躊躇するマローンだったが、ネスのまっすぐな正義感に打たれ、警官の本分を通すことを決意。 マローンの指導の下、新人警官のストーン、財務省から派遣された簿記係のウォレスという仲間を得たネスは、大掛かりな摘発を成功させる。早速カポネの側から買収や脅迫などが仕掛けられるが、ネスは断固はねのけるのだった。 賄賂や脅しに決して屈しない4人のチーム“アンタッチャブル”と、カポネの築いた帝国は、血で血を洗う戦いへと、突入していく…。 ***** 「アンタッチャブル」というタイトルは、元々は本のタイトル。その内容は、実在の財務省捜査官だったエリオット・ネスが、アル・カポネ逮捕までの顛末を語ったインタビューを元に、構成されたものである。 この本によると、ネスたち“アンタッチャブル”は、デスクワーク中心の捜査官。銃を撃ったなどという話は、登場しない。 ところがこれを原作にしたTVシリーズの「アンタッチャブル」(1959~63/全118話)では、事実を大幅に脚色。ロバート・スタック演じるネスは、FBIの捜査官とされ、彼とその部下が毎回のように銃撃戦に臨んでは、ギャングを射殺するシーンが登場した。このシリーズはアメリカだけではなく、日本でも大人気となり、70年代頃までは度々再放送が行われていた。 TVシリーズの制作から、時は流れて20年余。1980年代中盤になって、このTVシリーズの放映権を持っていたハリウッドメジャーのパラマウントが、自社の75周年を記念する企画として、「アンタッチャブル」の“映画化”に取り組むことを決めた。 担当となったのは、パラマウントの契約プロデューサーだった、アート・リンソン。しかし彼は、原作となったTVシリーズを見ていなかった。 そんな彼が脚本を依頼したのは、デヴィッド・マメット。映画の脚本は、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(81)『評決』(82)を担当。後者ではアカデミー賞にノミネートされている。それ以上に評価されていたのは、劇作家として。「アメリカン・バッファロー」(76)「グレンガリー・グレン・ロス」(84)などを手掛け、後者ではピューリッツァー賞やトニー賞を受賞している。「アンタッチャブル」のTVシリーズは、リアルタイムで見ていたというマメット。シカゴ育ちで故郷をこよなく愛し、また“禁酒法”の時代に関しては、「マニア」と自負するほど詳しかった。 マメットはリンソンと打ち合わせながら、脚本の執筆を始める。実在の“アンタッチャブル”のメンバーが10人だったのを、4人に絞るのは、TVシリーズに倣いながらも、2人は端から、TVの映画版にする気はなかった。「75周年作品」にも拘わらず、パラマウントは1,500万㌦という、当時としても“大作”とは言えない製作費しか提供しなかった。そんな状況でリンソンが監督として声を掛けたのは、スローモーションや長回し、360度回転カメラ等々、技巧を凝らした映像美で熱狂的なファンを持っていた、ブライアン・デ・パルマ。 サイコサスペンスの『キャリー』(76)『殺しのドレス』(80)、ギャング映画の『スカーフェイス』(83)などではヒットを飛ばしたデ・パルマだが、その頃はちょうどキャリアの曲がり角。敬愛するヒッチコックにオマージュを捧げた『ボディ・ダブル』(84)、初のコメディに挑戦した 『Wise Guys』(86/日本では劇場未公開)が続けて大コケしたため、メジャーヒットを欲していた。 そんなデ・パルマが本作『アンタッチャブル』(87)の監督を引き受ける決め手となったのは、マメットが8か月掛けて書いた、その時点では第3稿となる脚本。これまで自分が手掛けてきた作品と違って、例えばジョン・フォード作品のような「伝統的なアメリカ映画の流れ」を汲んでいると感じたのである。 デ・パルマはこの作品を、“ギャング映画”ではなく、『荒野の七人』のような“西部劇”だと捉えた。実際マメットは、「老いたガンファイターと若いガンファイターの物語」としてストーリーを組み立てたと語っている。「神話的なアメリカのヒーローにまつわるスケールの大きな話」。これがプロデューサーのリンソン、脚本のマメット、監督のデ・パルマの間で一致した、本作の方向性となった。 主役のエリオット・ネスは、かつてなら、ゲーリー・クーパー、ジェームズ・スチュアート、ヘンリー・フォンダが演じたような役柄。望まれるのは、理想主義と強さを合わせ持つ、良い意味でクラシックな個性だった。 まずメル・ギブソンの名前が挙がったが、『リーサル・ウェポン』(87)の撮影が重なっていた。続いてウィリアム・ハートやハリスン・フォードなど、当時の売れっ子俳優が候補となった。 しかし、予算が折り合わない。そこで浮上したのが、売り出し中ではあったが、かなり知名度が落ちる、ケヴィン・コスナーだった。 コスナーの起用に懐疑的だったデ・パルマは、監督仲間のローレンス・カスダンとスティーヴン・スピルバーグに相談したという。 カスダンは、『再会の時』(83)でコスナーを起用しながらも、上映時間の関係で彼の出番を全カット。その後西部劇『シルバラード』(85)で正義のガンマンの役を与えている。スピルバーグは、プロデュースしたTVシリーズ「世にも不思議なアメージングストーリー」(85~87)の中で、自分が監督した一編で、コスナーを主役にしている。「彼はクリーンかつ素直で将来性がある」2人の監督のコスナーに対する評価は、まったく同じもので、デ・パルマもコスナー抜擢の踏ん切りがついた。 ネスの仲間のキャスティングも、重要だった。カポネを脱税で摘発することを提案する経理のエキスパート、ウォレス役には、『アメリカン・グラフィティ』(73)で知られた、チャールズ・マーティン・スミス。彼はこの「真面目でおかしな男」を、「漫画チックにしてはならない」と、肝に銘じながら演じたという。 アンディ・ガルシアは当初、カポネの用心棒で殺し屋のフランク・二ティ役の候補だった。しかし本人の希望もあって、新人警官ストーンのセリフを読んだらハマったため、“正義”の側に身を置くこととなった。 さてベテラン警官のマローンである。何とか“大作”の装いにしたいと考えたデ・パルマは、かねてからファンだった、元祖ジェームズ・ボンド俳優のショーン・コネリーにオファーした。「初めて脚本を読んだ時は“まるで天の啓示”のように感じた…」という、当時50代後半のコネリー。コスナーとの組み合わせは、まさに「老いたガンファイターと若いガンファイター」であった。 コネリーに対して、「いつも遠くから彼の仕事は素晴らしいと思っていた」コスナーは、この共演について、「プロの俳優としての、そして個人としての彼のスタイルには影響されたし、そこから学ぶこともあった」と語っている。まさに役の上での、ネスとマローンの関係に重なる。コスナーにとってコネリーは「特別な人」となり、後に自らの主演作『ロビン・フッド』(91)に、特別出演してもらっている。 コスナーはメソッド式で、ネスの役作りを行ったという。カポネについて、あらゆる文献を読み漁り、財務省関係、FBIなどで実際にネスを知っていた人々から話を聞いた。その中には実際の“アンタッチャブル”の、その時点でただ一人の生存者も含まれている。 ただマメットが、ネスのタフガイのイメージを和らげようと、守るべき愛する家族を持つ男としたことに関しては、役作りは容易だった。コスナーには当時、3歳と1歳の子どもがいたからである。 本当はデスクワークが似合う男なのに、成り行きで深みにはまっていく。シカゴの暗黒街の現実を知るにつれ、段々とタフになっていく。コスナーの役作りで、そんなエリオット・ネス像が出来上がっていった。それはデ・パルマによるネスのイメージ、「下水に落ちた白い騎士」と、正に合致していた。 「白い騎士」に対抗して、“悪”を体現するアル・カポネ役に、デ・パルマが切望したのは、ロバート・デ・ニーロだった。1960年代末、無名時代の2人は何度も組んでいたが、それから15年以上。アカデミー賞を2度受賞して、すでに名優の誉れ高かったデ・ニーロを起用するには、僅か2週間の拘束で、製作費の1割に当たる150万㌦も払わなければならなかった。 デ・パルマは、渋る映画会社の重役たちに、己の降板まで仄めかして起用を承諾させた。しかしデ・ニーロ本人から、なかなか出演のOKが届かない。 宙ぶらりんの状態でデ・パルマが頼ったのが、ボブ・ホスキンス。『モナリザ』(86)の演技で、カンヌ国際映画祭やゴールデングローブ賞で俳優賞を受賞して波に乗っていた彼にデ・パルマは、「もしデ・ニーロがやらなかったら、やってくれるか?」と、失礼を承知でオファーを行ったのである。 結局デ・ニーロが出演に応じ、デ・パルマはホスキンスに謝罪の電話を入れることとなった。数週間後、ホスキンスには詫び料として、20万㌦の小切手が届いたという。 正式な契約の日に、デ・ニーロに初めて会ったアート・リンソンは、酷いショックを受けた。出演していたブロードウェイの舞台の出で立ちで現れたデ・ニーロが、「七十キロもなくて、ポニーテイルをしている上に、三十歳ぐらいにしか見えない」状態で、ろくに口をききもしなかったのだ。カポネは太っていて四十歳、騒々しい男なのに…。 リンソンはデ・パルマを罵った。「あんな奴のためにボブ・ホスキンスを断ったなんて!もうおしまいだ」 そんなリンソンをデ・パルマはなだめながら、太鼓判を押した。次に会う時のデ・ニーロは、別人のようになっていると。 それから5週間。現れたデ・ニーロは、すっかり変わっていた。彼は契約後、すぐにイタリアに飛び、そこでパスタやポテトやピザ、ビール、牛乳を詰め込んで11㌔増量。更にカポネの出身地、ナポリ風のアクセントを身に着けて帰ってきたのだ。いわゆる“デ・ニーロアプローチ”だ。 更には古いニュースを見て、本物のカポネそっくりの声と動作、癖を身に付けた。外見的にも、髪の生え際を剃ることで、カポネの月のように丸い顔を作り上げた上、撮影中はローマから来たメイクアップ・アーティストが毎日3時間掛けて、顔の左側にカポネの有名な古傷を再現。更にはボディ・スーツを着込むことで、万全を期した。 本作の衣裳は、ジョルジョ・アルマーニが担当したが、デ・ニーロはリトル・イタリーの洋服屋に頼み、もっと本物らしくリメイク。更には画面には映らないにも拘わらず、絹の下着を、カポネが注文していた店に発注。それに加えて、カポネ愛用ブランドの葉巻や靴も手に入れた。 リンソンは、これらの経費の請求書に肝を冷やしながらも、デ・ニーロの役作りに関しては、不安を抱くことはなくなっていった。 本作のクランクインは、1986年の8月上旬。13週間の撮影で、使用されたロケ地は25以上。その多くが30年代前半には、カポネ行きつけの場所だったという。 クライマックスで、カポネの脱税の証拠である、帳簿係を拘束するための銃撃戦が撮影されたのは、シカゴのユニオン駅。20人のスタッフが2週間掛けて準備を行い、照明のために、電力会社が一時的に駅への電気の供給を増やした。 ここでデ・パルマは、映画史に残る『戦艦ポチョムキン』(1925)の“オデッサの階段”を引用。赤ん坊の乗ったベビーカーが階段を滑り落ちていく中で、激しい銃撃戦をデ・パルマの十八番、スローモーションで捉える。 実はこのシーンは、本作が“大作”の装いながら、製作費が抑えられたための、“代案”だった。本来は、列車に乗った帳簿係を車で追った上に、列車に乗り移って銃撃戦が繰り広げられる筈だったのが、予算の都合で実現不可能。代わりに撮られたこのシーンが、結果的にデ・パルマらしさが横溢する、本作を代表する名シーンとなったのである。 新旧問わずデ・パルマ作品には、“映像美”に走る反面、ストーリーがおざなりになる傾向がある。しかし本作は、マメットのストレート且つ説得力のある脚本によって、そうした欠点を解消。更には、デ・パルマが以前から仕事をしたかったという、エンニオ・モリコーネ作曲のスコアも素晴らしい響きを見せ、1987年に作られた“西部劇”としては、これ以上にない仕上がりとなった。 当初予定されていた製作費1,500万㌦はオーバーして、2,400万㌦が費やされたが、87年6月に公開されると、北米だけで7,500万㌦を稼ぎ出した。その秋に公開された日本でも、配給収入が18億円に達する大ヒットとなった。 アカデミー賞では、ショーン・コネリーに助演男優賞が贈られた。そしてケヴィン・コスナーはこの後、『フィールド・オブ・ドリームス』(89)『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(90)『JFK』(91)『ボディガード』(92)等々、ヒット作・話題作への出演が続く。特にプロデューサーと監督を兼ねた『ダンス・ウィズ…』では、アカデミー賞作品賞と監督賞の獲得に至り、大スターの地位を手にした。 監督のデ・パルマは、本作のヒットでせっかく取り戻した“信用”を、続く『カジュアリティーズ』(89)『虚栄のかがり火』(90)両作の大コケで無化する。次に復活するのは、やはり人気TVドラマシリーズを、オリジンを軽視して映画化するという、本作のパターンを踏襲した、『ミッション:インポッシブル』(96)となる。■ 『アンタッチャブル』™ & Copyright © 2024 by Paramount Pictures Corporation. 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