ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2023.01.17
映画史に刻まれた、セルジオ・レオーネのモニュメント!『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ【完全版】』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』日本でのお披露目は、1984年10月6日。旧日劇跡地に建設された、有楽町マリオン内の東宝メイン館「日本劇場」こけら落しの作品として、華々しくロードショー公開された。 ~世界映画史に刻み込む空前の映像モニュメント~ ~アメリカ・激動の世紀―愛する者の涙さえ埋めて男たちは心まで血に染めて生きた~ ~「モッブス」――それは誰も語らなかった男たちの巨大な結社!~ これらは配給の東宝東和が、仰々しく打ち出した惹句の数々だが、本編を観ると、アメリカを動かすほどの“巨大な結社”である筈の「モッブス」とは一体!?…となる。俗に「東宝東和マジック」などと言われる、ゼロから100を生み出す、大嘘宣伝、もとい、十八番とした誇大広告である。 インターネット普及後は、あり得ない手法と言える。しかし当時の東宝東和は、ホラー映画を中心に、この手のプロモーションで、次々と成果を上げていたのだ。 そんなムード作りもあって、大学受験に失敗して二浪の秋を迎えていた私も、「これだけは見逃すまい」という気持ちになっていた。“マカロニ・ウエスタン”の伝説的な巨匠セルジオ・レオーネ監督と、我らがロバート・デ・ニーロの“最新作”というのも、当時の映画少年にとっては、大いなる引きだった。 期待が膨らむ一方で、私は映画雑誌などから得た情報で、不安も大きくなっていた。『ワンス・アポン…』は、4時間近い長尺の作品として完成。「カンヌ国際映画祭」で絶賛を浴びたのに、製作国であるアメリカでは90分近くカットされた、2時間半足らずの再編集版で公開。評判が芳しくなかったという。 では日本では、一体どちらのバージョンが公開されるのか?受験勉強も手に付かなくなるほど心配になった私は、思いあまって、東宝東和に電話で問い合わせてみた。「日本では、3時間を超える長い方をやりますよ」 それが、受話器の向こう側の宣伝部の男性の答だった。気付くと私は、「ありがとうございます!」と、礼を伝えていた。 実際の“日本公開版”は、3時間25分。それまでにヨーロッパなどで公開し、今日では一般的に【完全版】と言われるバージョン=3時間49分からは、細かく削って、20分強短縮している。完全に日本独自の、再編集版であった。 しかし、構成は【完全版】に準じたこのバージョンが観られたことは、当時の日本の観客たちにとっては、幸運なことと言えた。実際問題として“アメリカ公開版”=2時間19分が日本でも採用されていたら、『ワンス・アポン…』が、この年の「キネマ旬報」ベスト10で、洋画の第1位に輝くことはなかったであろう。 ***** 1933年、ニューヨーク。ユダヤ系ギャングの一員だったヌードルス(演:ロバート・デ・ニーロ)は、仲間を警察に密告した。それはリーダー的存在のマックス(演:ジェームズ・ウッズ)の無謀な企てを諦めさせて、彼の命を救うためだった。だがその思惑は、裏目に。マックスはじめ、少年時代からの仲間たち3人は、警察隊に射殺される。 裏切り者として追っ手が掛かったヌードルスは、ニューヨークから逃げ延びる…。 ユダヤ人街で生まれ育ったヌードルスが、マックスと出会ったのは、1923年、17歳の時。目端の利く者同士、仲間たちの力も借りて、裏の仕事で稼げるようになる。しかし、出し抜かれた街の顔役が、ヌードルスたちを襲撃。仲間の1人を殺されたヌードルスは、無我夢中で顔役を刺し殺す。 6年の刑期を経て、ヌードルスがシャバに戻ってきたのは、1931年。禁酒法の時代、マックスたちはもぐり酒場を経営すると共に、強盗や殺しなども請け負っていた。 少年時代から憧れだったデボラ(演:エリザベス・マクガバン)のために海辺のホテルを借り切り、2人きりの時を過ごそうとする、ヌードルス。しかしデボラは、ハリウッドに発って女優になるという。 凶暴な欲望に襲われたヌードルスは、デボラを車中で、無理矢理犯してしまう…。 デボラに去られたヌードルスは、次第にマックスのやり方についていけないものを、感じ始める。そして、「彼のため」と思って行ったタレ込みが、最悪の結果を招く…。 それから、長い月日が流れた。1968年、老境に差し掛かったヌードルスは、何者かにニューヨークへと呼び戻される。 マックスたち殺された仲間は、ヌードルスが建てたことになっているが、彼にはまったく身に覚えがない立派な墓所に葬られていた。そしてそこに置かれた1本の鍵が、ヌードルスを、35年前の“真相”へと導く…。 ***** 冒頭以外ほぼ時の流れの順に、ストーリーを記したが、実際は1968年を基軸にしながら、ヌードルスの回想が巧みに織り交ぜられ、それが謎解きミステリーでもある構成となっている。 セルジオ・レオーネ監督曰く、「私が描きたいのはノスタルジーだ」 老いたヌードルスのあいまいな記憶そのままに、幾つかの時代のシーンを、イメージの連鎖で繋いでいく。それはノスタルジーに縛られた、ヌードルスの彷徨そのものである。 先に記した通り、“アメリカ公開版”は、90分近くの大幅カットが為された。しかもそれは、レオーネが考えに考えた構成を無視して、物語を時系列に並べてしまったという代物だった。 本作は、デボラとのシーンに流れる「アマポーラ」、68年のシーンに流れる「イエスタデイ」など、名曲の使い方が印象的であるが、それと同時にノスタルジックで詩情豊かな、エンニオ・モリコーネの楽曲も、素晴らしい。ところが“アメリカ公開版”は、モリコーネの音楽も響いてこないと言われる。 はっきり言って、「台無し」だ。だがこんな酷いことが起こり、しかも上映時間に幾つものバージョンが存在することになったのには、本作の製作過程も、大いに関係している。 原作は、ハリー・グレイの自伝的作品である、「THE HOODS=ヤクザたち」。1953年アメリカで出版。レオーネ監督の母国イタリアでは、60年代半ばにペーパーブック版がリリースされたという。 64~66年に掛けて、クリント・イーストウッド主演の“ドル箱3部作”を手掛けて、世界的な“マカロニ・ウエスタン”のムーブメントを巻き起こしたレオーネが、この原作と出会ったのは、67年頃。終生アメリカという国に魅了され続けた彼にとって、ユダヤ系ギャングたちが躍動するこの物語を読んで、憧れの国を舞台に、矛盾とパラドックス、更にはバイタリティに溢れた、大人の寓話が描けると踏んだのであろう。 レオーネは、ヘンリー・フォンダらの主演で撮った『ウエスタン』(68)のプロモーションについて話し合いのため渡米した際、ハリー・グレイとの接触に成功。以降折りあるごとに面会を重ね、友人関係になったという。 しかし「THE HOODS」の映画権は、すでに売られてしまっていたことが、判明。その権利を得るための、悪戦苦闘が始まる。 70年前後、レオーネはフランス人のプロデューサーたちと、原作権を獲得するための算段を立てた。この頃想定されたのは、マックスの若き日をジェラール・ドパルデュー、その50~60代はジャン・ギャバンというキャスティングだった。 結局原作権が入手できない内は、動くに動けず、この話はお流れとなる。 75~76年、再び話が動いた。この時はドパルデューが、ヌードルス役の有力候補に。マックス役は、リチャード・ドレイファスだった。 そして77年頃。ようやく映画化権が、レオーネの元に、巡ってきた。レオーネはプロデューサーとして別の監督を立てることも考えたようで、ミロス・フォアマンやジョン・ミリアスと接触している。 そんな中で脚本を、アメリカのノンフィクション小説の革新者と呼ばれた、ノーマン・メイラーに依頼することとなる。しかし彼が書き上げたものは「満足のゆくものではなかった」ため、結局イタリアで「最も才能ある」脚本家たちに書いてもらうこととなった。 その中心となったのが、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(72)などのフランコ・アルカッリ、『地獄に堕ちた勇者ども』(69)などのエンリコ・メディオーリ。レオーネを含めて、6名の脚本家チームによって、82年に300頁近い脚本が完成した。 プロデューサーも、紆余曲折の末、レオーネが80年に出会った、イスラエル出身のアーノン・ミルチャンに決まる。 一方、その頃のキャスティングは、迷走を極めていた。ヌードルス役は、トム・ベレンジャーに若い頃を演じさせ、年老いたらポール・ニューマンになるというアイディアがあった。マックス役の候補に挙がったのは、ダスティン・ホフマン、ジョン・ヴォイト、ハーヴェイ・カイテル、ジョン・マルコヴィッチ等々。 ヒロインのデボラ役には、ライザ・ミネリが有力だったこともある。 そんな中でミルチャンは、ラッド・カンパニー及びワーナー・ブラザーズに話を付け、配給の契約を結ぶ。この時ワーナーは、160分の作品を作る契約をしたと思い込んでいた。しかしレオーネが考えていたのは、4時間を超える作品であった。 82年1月クランクインの予定が延びて、6月のスタートとなる。そしてミルチャンの仲立ちで、レオーネはロバート・デ・ニーロと“再会”する。レオーネは以前、『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)撮影中のデ・ニーロと会って、本作の説明をしたことがあったのだった。 デ・ニーロの出演が決まって、同じ人物の青年期と老年期を、違う俳優が演じるというアイディアを、レオーネは棄てた。そしてデ・ニーロに、ヌードルスとマックス、どちらを演じたいかの、選択権を与えた。 熟考の末、ヌードルス役を選んだデ・ニーロ。早速“デ・ニーロアプローチ”による、役作りへと入る。この役に関しては、ユダヤ系の家族と生活を共にするなどの、アプローチを行った。 老齢期の役作りも、バッチリ。その撮影中は、夜中の3時に起きて、6時間のメイクに取り組んだ。レオーネはそうしたデ・ニーロを見て、「…歳をとる薬でも飲んだのか?」とつぶやいた。 さてヌードルスにデ・ニーロが決まったことによって、彼と共通のアクセントを持った、ニューヨーク出身の俳優を選ぶ必要が生じた。デ・ニーロは友人の俳優たちを、次々とレオーネに紹介したという… そんな中では、例えば宝石店商の妻から、マックスの愛人に転身するキャロル役には、チューズデイ・ウェルドが決まった。この役は、レオーネの『ウエスタン』主演だった、クラウディア・カルディナーレが熱望していたのを抑えての、決定だった。 デ・ニーロは本作に、ジョン・ベルーシに出てもらうことも考えていた。そのため会いに行った翌日、ベルーシはドラッグの過剰摂取で急死。デ・ニーロは、スキャンダルに巻き込まれる結果となった。『レイジング・ブル』でデ・ニーロの弟役をやったジョー・ペシには、プロデューサーのミルチャンが、マックス役を約束してしまった。レオーネは、ペシにはこの役には合わないという理由で、別の役を与えることとなる。 結局マックス役には、200人がオーディションを受けた中から、レオーネが、「成功の一歩手前の性格俳優」であるジェームズ・ウッズを抜擢する。 ウッズは、「世界一の俳優」であるデ・ニーロと相対するのに、覚悟を決めた!「よし、どのシーンでもデ・ニーロと向き合っていこう。そうすれば、彼と同じぐらい骨のある俳優だという証明になるのだから」と、自分に言い聞かせたという。 それが結果として、レオーネ言うところの「同じコインの表と裏」、愛情と壮絶な競争意識を抱いている、マックスとヌードルスの関係を醸し出すことに繋がった。デ・ニーロとウッズは、2人の間に流れる緊張感を獲得するために、アフレコでなく同時録音を提案し、レオーネを説得した。 デ・ニーロが最後まで不満だったと言われるのが、デボラ役のエリザベス・マクガバン。彼女はイリノイ州出身だったため、ニューヨークのアクセントが出せないというわけだ。しかしその少女時代を演じたジェニファー・コネリーと合わせて、ヌードルスが思慕して諦めきれない女性を、見事に演じきっている。 さてこうしたキャストを擁して行われた撮影では、ニューヨーク市のロウアー・イーストサイドの3区画を借りる契約を市側と結び、1920年代の街並みを再現した。店の一軒一軒から消火栓、ポスト、階段まで細かい作り込みを行ったため、そこに住む者たちは数か月の間、通り沿いの窓を塞がれたまま生活することとなった。 しかしその契約期間だけでは、到底撮影が終わりそうもない。そのためそっくり同じセットを、ローマ郊外にも建設したという。他にも、過去のアメリカに映る場所を求めて、ロケはモントリオール、パリ、ロンドン、ヴェネチアなどでも行われた。 当初は20週の撮影で、製作費は1,800万㌦の見積もりだった。しかしスケジュールがどんどん伸びるのに伴って、製作費も3,000万㌦以上まで膨らむ。 そうして上がったフィルムのOKカットを繋ぐと、はじめは10時間にも及んだという。当然それでは公開出来ないので、どんどんハサミを入れていき、最終的には、“3時間49分”の【完全版】にまで辿り着く。 しかしこの「最終的には」は、あくまでもレオーネにとってでしかなく、先に記した通り、その長さを嫌ったアメリカの配給元の主導で、2時間19分のダイジェスト紛いのバージョンまで行き着いてしまったわけである。『ワンス・アポン…』のバージョン違いとして知られるのは、主に5つ。レオーネが最初に完成させたという、“オリジナル版”4時間29分。そして【完全版】、それに準じた“日本公開版”、そして“アメリカ公開版”。更に2012年「カンヌ国際映画祭」で初めて上映され、日本では19年「午前十時の映画祭」で公開された、“ディレクターズ・カット版”4時間11分。 この最新版とでも言うべき、“ディレクターズ・カット版”は、現存しない“オリジナル版”を修復する試みで、レオーネの遺族とマーティン・スコセッシのフィルム・ファウンデーションが、カットされたシーンの復元を、可能な限り行ったものである。 84年公開以来、私が観たことがあるのは、3バージョン。順に挙げれば、「日本劇場」で鑑賞した“日本公開版”、日本ではDVDや放送、配信などでしか観られなかった【完全版】、そして“ディレクターズ・カット版”である。 私見としては、レオーネが望んだ形に最も近い筈の“ディレクターズ・カット版”は、ほぼ全ての辻褄が合うように出来てはいるが、やはり長すぎるし、そこまで説明は要らないという印象が残る。 そういった意味では、今回「ザ・シネマ」で放送される【完全版】が、やはり最高と言えるのではないだろうか? この作品に精力を注ぎ込んだレオーネは、撮影中の82年冬に心臓病を発症。その後ストレスを避けろと医者に忠告されるも、本作の公開を巡って訴訟沙汰となる中、病状は悪化していく。 そして本作公開から5年後の89年、新作の準備中だったにも拘わらず、60歳の若さでこの世を去った。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』が、遺作となってしまったのである。 東宝東和発の本作惹句の中で~世界映画史に刻み込む空前の映像モニュメント~というのは、結果的に誇大広告ではなくなったんだなぁと、しみじみ思ったりもする。■ 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ【完全版】』Motion Picture © 2002 Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2023.01.10
1990年!“カルトの帝王”は“トレンド・リーダー”だった‼『ワイルド・アット・ハート』
そのフィルモグラフィーから、「カルトの帝王」と異名を取る、デヴィッド・リンチ監督。 1946年生まれの彼の初長編は、『イレイザーヘッド』(1977)。リンチが20代後半から1人で、製作・監督・脚本・編集・美術・特殊効果を務め、5年掛かりで完成させた。 見るもおぞましい、奇形の嬰児が登場するこの作品は、シュールで理解不能な内容のために、悪評が先行した。しかし、独立系映画館で深夜上映されると、一部で熱狂的な支持を集めるようになり、やがて“カルト映画”の代名詞的な作品となった。 続いてリンチが手掛けたのが、『エレファント・マン』(80)。生まれつきの奇形のために“象男”と呼ばれた、実在の青年の数奇な人生を描いた作品である。『エレファント・マン』はアカデミー賞で、作品賞をはじめ8部門にノミネート。リンチ自身も監督賞候補となり、大きな注目を集めた。因みに81年に公開された日本では、その年の№1ヒット作となっている。『エレファント・マン』は、感動作の衣を纏っていたため、多くの誤読を招いたことも手伝っての高評価だったのは、今となっては否めまい。この作品のプロデューサーだったメル・ブルックスは、リンチの特性をもちろん見抜いており、彼のことをこんな風に評している。「火星から来たジェームズ・スチュアート」と。 健康的なアメリカ人そのものの出で立ちで、いつも白いソックスを履き、シャツのボタンは、必ず一番上まで留めて着る。そんな折り目正しい外見のリンチが、実は他に類を見ないような“変態”であることを表した、ブルックスの至言と言えよう。 ・『ワイルド・アット・ハート』撮影中のデヴィッド・リンチ監督 その後リンチは、ディノ・デ・ラウレンティスによって、当時としては破格の4,000万㌦という製作費を投じたSF超大作『デューン/砂の惑星』(84)の監督に抜擢される。しかしこの作品は、興行的にも批評的にも散々な結果となり、リンチのキャリアにとっては、大きな蹉跌となる。『デューン』に関しても、リンチ一流の悪趣味な演出を、カルト的に愛するファンは存在する。しかし、いかんせんバジェットが大きすぎた。因みに、この作品の出演者の1人、ミュージシャンのスティングはリンチについて、「物静かな狂人」とコメントしている。 深刻なダメージを受けたリンチだったが、その後の製作姿勢を決定づける、大いなる学びもあった。それは今後の作品製作に於いては、“ファイナル・カット権”即ち最終的な編集権を己が持てないものは、作らないということ。粗編集の段階で4時間以上あった『デューン』を、無理矢理半分ほどの尺に詰められて公開されたことに、リンチは強い憤りを覚えていたのである。 そんなことがあって次の作品では、大幅な製作費削減と引き換えに、“ファイナル・カット権”を得て、思う存分腕を振るった。それが、『ブルー・ベルベット』(86)である。この作品でリンチは、ジャンルを問わず様々な題材を多く盛り込むという、独特の作風を確立。『ブルーベルベット』は、興行的にも批評的にも成功。後に「カルトの帝王」と呼ばれるようになる、足掛かりとなった。 そんなリンチであるが、まさかの“トレンド・リーダー”的存在として、崇められた時期がある。ピンポイントで言えば、それは1990年のこと。 この年、彼が製作総指揮・監督・脚本を務めたTVシリーズ「ツイン・ピークス」が大ヒット!それと同時に、マンガ、ライヴの演出やジュリー・クルーズのアルバムのプロデュース、CMの制作等々、八面六臂の大活躍を見せ、時代の寵児となったのである。 リンチの劇場用長編新作だった本作『ワイルド・アット・ハート』も、この年のリリース。そして、「カンヌ国際映画祭」で見事、最高賞=パルム・ドールを勝ち取ったのだ。 この作品の企画がスタートしたのは、89年の4月。プロデューサーのモンティ・モンゴメリーが、自分が監督するつもりで、バリー・ギフォードが書いた小説の映画化権を獲得したことにはじまる。 モンゴメリーはリンチに、製作総指揮などやってもらえないかと依頼した。ところが、リンチがその小説を読むと、自分が監督をやりたくなってしまったのである。その希望を、モンゴメリーは快諾。リンチは早速脚本化に取り掛かり、僅か8日間で第1稿を書き上げる。 撮影開始は、その4ヶ月後の8月。ロス市内や郊外の砂漠を含む周辺の町で8週間。 加えてニューオリンズ、フレンチクォーターでロケを行った。 ***** セイラー(演:ニコラス・ケイジ)は、恋人のルーラ(演:ローラ・ダーン)の目の前で、黒人の男にナイフで襲われる。それは明らかに、ルーラに偏執狂的な愛情を注ぐ、その母親マリエッタ(演:ダイアン・ラッド)の差し金。セイラーは返り討ちで、男を殺してしまう。 22ヶ月と18日後、刑務所を仮釈放となったセイラーは、ルーラを連れて、車でカリフォルニアへの旅に出る。情熱的な歓喜に満ちた2人の道行きだったが、マリエッタにより、追っ手が掛かる。 まずはマリエッタの現在の恋人で、私立探偵のジョニーが、2人を追跡する。しかしなかなか足取りを追えないことに苛立ったマリエッタは、かつての恋人で暗黒街の住人サントスにも相談。2人を見つけ出し、セイラーを殺害することを依頼するが、サントスはその条件として、追っ手のジョニーも殺すことになると、告げる。 セイラー殺し、ジョニー殺しのため、危険な殺し屋たちが、集められる。そして、彼らの手でジョニーは、無残に殺されてしまう。 旅の最中、セイラーはルーラに、今まで秘密にしていたことを明かす。火事で亡くなったルーラの父を、セイラーは生前から知っていた。そして、自分はかつてサントスの運転手を務めており、ルーラの父が焼け死ぬ現場の見張りを命じられていたのだ。ルーラの父は、マリエッタとサントスが共謀して、殺害したのであった。 次第に手持ちの金がなくなっていく中、ルーラの妊娠が発覚する。セイラーとルーラ、激しく愛し合う2人の行く手には、何が待ち受けているのか!? ***** リンチは脚色の際、原作にかなり手を入れた。そして、彼の言葉を借りれば、「…ロードムーヴィーだし、ラヴストーリーでもあり、また心理ドラマで、かつ暴力的なコメディ…」に仕立て上げた。 最も顕著な改変は、『オズの魔法使い』(39)の要素を入れたこと。竜巻に襲われて魔法の国オズに運ばれてしまった少女ドロシーの冒険を描くこの作品の、恐怖と夢が混在するところに、リンチは初めて観た時から心を打たれていたという。 具体的には、ルーラに執着する母親のマリエッタを、『オズの…』に登場する“悪い魔女”に擬して描いたり、ドロシーが赤い靴のヒールをカチッと合わせる有名なシーンを、ルーラに再現させたり。 挙げ句はラスト近く、ルーラの元を去ろうとするセイラーの前に“良い魔女”が現れて、物語を大団円へと導く。 実は脚本の第1稿では、セイラーがルーラを棄ててしまうという、原作通りの暗い結末を迎えることになっていた。ところがリンチの前作『ブルーベルベット』でヒロインを演じ、その後リンチと交際していたイザベラ・ロッセリーニが脚本を読んで、こんな悲惨な映画には絶対出演しないと言い出した。 そこでリンチは再考した結果、『オズの…』に行き着く。そして本作を、現代のおとぎ話としてのラヴ・ストーリーという形で展開することに決めたのである。その甲斐あってか、ロッセリーニも無事、キャストの1人に加えることができた。 こうした改変を、原作者のギフォードは称賛。映画版の『ワイルド・アット・ハート』を、「…ブラックユーモアのよく利いた、ミュージカル仕立てのコメディ…」と、高く評価した。 そんな本作の、キャスティング。リンチは原作を読んだ瞬間から、ルーラはローラ・ダーン、セイラーにはニコラス・ケイジといったイメージが浮かんだという。『ブルーベルベット』ではウブな少女役だったダーンを、それとは対照的にホットなルーラに当てることを、意外に受け止める向きも少なくなかった。しかしリンチに言わせれば、原作のルーラの台詞から、ダーンの声が聞こえてきたのだという 本作のクライマックス近く、場を浚うのが、“殺し屋”ボビー・ペルー役のウィレム・デフォーだ。黒ずくめで細いヒゲを生やし、歯は歯茎まですり減っているという、異様な外見。レイプ紛いの言葉責めで、ルーラを追い詰める等々、とにかく強烈な印象を残す。 リンチは彼をキャスティングした理由を尋ねられた際、「だってクラーク・ゲーブルは死んでしまったからね」と、彼一流の物言いで返答。それはさて置き、デフォーにとって本作の撮影は、本当に楽しいものだったようだ。 曰く、「…監督にいろんな提案をすると、必ず『じゃあ、やってみよう』と言ってくれたからね」 そんなことからもわかる通り、リンチの演出は、即興的なインスピレーションに支えられている。スラムのような場所でロケした際は、実際のホームレスを急遽エキストラとして集めたりもした。 因みにマリエッタ役には、ルーラ役のローラ・ダーンの実の母親、ダイアン・ラッドがキャスティングされた。リンチはラッドと、夕食を一緒に取った際のインスピレーションで、彼女に決めたという。 奇しくも『ブルーベルベット』の時、ローラ・ダーンをキャスティングしたのも、レストランでの出会いがきっかけだった。 リンチはスタッフに、ラッドとダーンが実の母娘だと知らせてなかった。そのため、撮影が始まってしばらく経った時に、「君たち二人は顔までそっくりになってきたね。怖いぐらいだ」と、ラッドに言いに来たスタッフが居たという。 さて本作のラスト、セイラーは愛するルーラと我が子に向かって、『ラヴ・ミー・テンダー』を歌い上げる。このシーンは、演じるニコラス・ケイジの趣味嗜好を押さえておくと、より楽しめる。 ケイジはエルビス・プレスリーの熱烈なファンで、その関連グッズのコレクター。本作から12年後=2002年に、プレスリーの遺児であるリサ・マリーと結婚した際などは、ケイジのプレスリーコレクションとして、「最大の得物をゲットした」と揶揄されたほどである。まあこの結婚は、すぐに破綻したのだが…。 そんなケイジが演じるセイラーが、「俺の女房になる女にしか歌わない」と劇中で宣言していた、プレスリーの代表的なラヴソングをド直球に歌い上げて、本作はエンドとなる。ケイジはさぞかし、気持ち良かったであろう。 当時リンチのミューズであった、イザベラ・ロッセリーニは、撮影現場でのリンチのことを、こんな風に語っている。「…俳優たちと付き合うのが大好きで、撮影で一緒に遊んでる感じ…」「…まるでオーケストラの指揮者がバイオリン奏者を指揮するように演出する…」 そんな監督だからこそ、『ワイルド・アット・ハート』の、感動的且つ爆笑もののラストが生まれたのかも知れない。■ 『ワイルド・アット・ハート』© 1990 Polygram Filmproduktion GmbH. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.12.14
こだわりの“色彩”に映える、グリーナウェイの反骨と諧謔精神『コックと泥棒、その妻と愛人』
1942年イギリスのウェールズに生まれた、ピーター・グリーナウェイ。「最初に恋した芸術は絵画だった」という彼は、画家になりたくて美術学校に通うが、その在学中、スウェーデンの巨匠イングマル・ベルイマン監督の『第七の封印』(1957)を観て、「人生が変わった」。それはグリーナウェイ、17歳の時だった。 強く映画に惹かれながらも、卒業後は絵を描いて暮らそうと考えた。しかし生活が成り立たなかったため、映画の編集の仕事をすることに。そこで様々な、カメラテクニックを学んだという。 66年に、5分の実験映画を製作。それ以降は、数字やアルファベットをコラージュした幾何学的な実験映画を次々と製作し、次第に評判となっていく。 初めての劇映画は、『英国式庭園殺人事件』。この作品は82年、グリーナウェイ40歳の時に公開され、ヨーロッパでは、カルト映画として熱狂的に支持される。 因みに日本では、続く『ZOO』(86)『建築家の腹』(87)『数に溺れて』(88)等々の作品を、先に公開。『英国式…』は、91年まで待たなければならなかった。 グリーナウェイはかつて撮った実験映画をバージョンアップするかのように、『ZOO』ではアルファベット、『数に溺れて』では数字に過剰にこだわった演出を見せた。その作風や様式美は、日本でも熱烈なシンパを生み出したが、その時点ではまだ、“カルト映画”の範疇に過ぎなかった。 そうした作家性を損なうことなく、それでいて、ストーリー自体はわかり易く展開。知的なエンタメとして楽しめることを実現し、多くの映画ファンの支持を集めたと言えるのが、本作『コックと泥棒、その妻と愛人』(89)である。 ***** 高級フランス料理店「ル・オランデーズ」。一流シェフであるリチャード(演:リシャール・ポーランジェ)を擁するこの店に、毎夜オーナー気取りで訪れるのは、泥棒のアルバート(演:マイケル・ガンボン)と、その妻ジョージーナ(演:ヘレン・ミレン)。そしてアルバートの手下ミッチェル(演:ティム・ロス)ら。 盗んだ金で贅沢三昧。傍若無人な態度で、他の客にも迷惑を掛けまくるアルバートに、リチャードはうんざりしながらも、追い出すことはできない。ジョージーナも夫の卑しさに辟易しながら、彼の凶暴さをよく知ってるため、逃げ出せなかった。 そんなある時ジョージーナは、常連客の紳士マイケル(演:アラン・ハワード)と目が合い、何かを感じた。示し合わせたようにトイレの個室に向かい、愛し合おうとする2人。 その日は妻の戻りが遅いと、アルバートが追ってきて、未遂に終わる。しかしそれからは毎夜店を訪れる度、ジョージーナとマイケルはリチャードの計らいで、厨房の奥や食材庫などで、情事に耽るようになる。 アルバートが妻の不貞に、遂に気付く。愛し合う2人は、マイケル宅へと逃げのびた。 誰に憚ることなく抱き合い、リチャードの差し入れを食しながら、幸せに震える2人。しかし至福の時は、あっという間に終わる。 隠れ家を、アルバートが発見。マイケルは、残忍な方法で殺害された。 涙を流すジョージーナは、夫への復讐を誓い、リチャードの協力を求める。彼女が実行した、世にもおぞましいその方法とは? ***** 映画が製作された80年代終わりは、飽食の時代と盛んに言われた頃。グリーナウェイは、消費社会のメタファーとして、“レストラン”という舞台を選んだ。 彼曰く、「人はそこで、豪華なものを食べ、食べているところを見られ、見られるから着飾り、マナーに従い、スノッブな会話を楽しむ。自己PRの場としてのレストランは、突き詰めれば悪の根源でもあるのだ」 グリーナウェイは本作を、自分のフィルモグラフィーで、唯一の政治的な映画かも知れないとも語っている。そもそも本作の企画をスタートさせたのは、時のイギリス首相マーガレット・サッチャーによる、新自由主義に基づいた政策“サッチャリズム”への非難からだった。 凶悪な泥棒のアルバートは、富裕層と貧困層の格差を広げる、“サッチャリズム”を信奉する者を表している。その傲慢さや無神経さ、貪欲ぶりを、「絶対的な悪」として描くのが、本作のモチーフのひとつであった。 ではグリーナウェイはそうしたことを、どんな手法を用いて描いたのだろうか? 元は画家志望だった彼は、「カメラを使って絵を描いている」と言われるように、画作りに於いて、“シンメトリー=左右対称”にこだわる。そしてこのシンメトリーは、キャラ設定などにも及ぶ。 本作の場合は、1人の女を巡る、2人の男というシンメトリー。その1人は、野卑な泥棒であり、もう1人は、学者で教養人という、対照的な2人である。 グリーナウェイは、文学にも惹かれ、言語そのものにも大いなる興味を持っている。結果的に絵画や文学など、西欧文化の古典からの引用が、頻繁に為されることとなる。そもそも『コックと泥棒、その妻と愛人』というタイトル自体、イギリスの伝承童謡である、「マザー・グース」からの引用だという。 グリーナウェイは自らを、フィルムメーカーとは思っていない。「映画という媒体に身をおいた画家であり、また、小説家」だと、自負しているのだ。 「映画という媒体に身をおいた画家」としては、“オランダ・バロック美術”への傾倒がよく知られる。本作ではレストランと店外に、17世紀の画家ハルスによる、「聖ゲオルギウス射手組合の士官たちの会食」が飾られている。まさに“オランダ・バロック”の特徴のひとつである、写実的な「集団の肖像画」だ。12人もの士官たちが、各々くつろぎ、生き生きとした表情で描かれている。 そしてこの絵画で士官たちが着る服が、レストランに集う、泥棒たちの衣装のモデルとなっているのである。本作は、世界的なデザイナーである、ジャン=ポール・ゴルチエが、初めて映画の衣裳を担当した作品でもある。 絵画的という意味では、本作で最も特徴的なのが、“色彩”である。登場する部屋ごとに、象徴的な色で統一を行っているのだ。レストランは“赤”、厨房は“緑”、トイレは“白”等々といった具合に。ジョージーナがレストランからトイレに入る時には、ドレスの色が赤から白に変わったりする。 こうした色にはそれぞれ意味合いがあり、例えばレストランの“赤”は、暴力の場であることを表す。厨房の“緑”は、神聖な場という意味。そこでは食べ物が生み出され、また、人が逃げて潜むことができる。そしてトイレの“白”は、天国を表現。ジョージーナとその愛人マイケルにとっては、初めての逢瀬の場であった。 本作では他にも、“青”“白”“黄”“金”といった色が使われている。かのピカソは、「色は物から離れて、自由になることができる」と考えて、自らの作品で実践した。グリーナウェイは、それと同じ野心的なチャレンジを行い、色は非常に装飾的な上、そこに感情を盛り込めることを、示そうとしたのだ。 こうした、グリーナウェイの用意したステージの上で踊った俳優陣も、見事である。特に「悪の化身」とでも言うべき、泥棒アルバート役のマイケル・ガンボン。グリーナウェイ言うところの、「どんな魅力もない絶対的な悪人」に対して、観客は不快感を募らせつつも、その存在感が圧倒的で、目が離せない。 妻のジョージーナ役は、今や名優の名を恣にしているヘレン・ミレン。当時40代半ばに差し掛かろうという頃だが、愛人役のアラン・ハワードと共に、全裸で画面内を右往左往し続ける。 本作は公開時から、典型的な「ポスト・モダン」だと言われた。「ポスト・モダン」を簡単に説明すると、芸術・文化の諸分野で、モダニズム=近代主義の行き詰まりを打ち破ろうとする動きである。建築やデザインに於いては、装飾の比重が高まり、過去の様式が自由に取り入れられるところに特色がある。 先にも記したことだが、グリーナウェイ作品は、西欧文化の古典からの引用が頻繁に成されるのが、特徴のひとつ。“色彩”で装飾的な試みを行ったことも含めて、まさに「ポスト・モダン」と合致している。 それ故に本作は、鑑賞しただけですべてがわかるような映画ではない。多岐に亙るサブテキストを学習しなくては、理解を深めることが困難な代物とも言える。 そんな作品が、日本でも大きな注目を集めた。それはまさに、“時代”の賜物と言える。 1980年代中盤から2000年代はじめ頃まで、日本の映画興行には、「ミニシアターの時代」があった。単館興行でロングランし、1億から2億もの興行収入を叩き出すような作品も珍しくなかった。 そんな中で「シネマライズ」という映画館は、86年にオープン。渋谷のミニシアター文化の中核を担った。 デヴィッド・リンチの『ブルーベルベット』(86製作/87日本公開)、レオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』(91製作/92日本公開)、ダニー・ボイルの『トレインスポッティング』(96製作/同年日本公開)や、テーマ曲「コーリング・ユー」が印象的な『バグダッド・カフェ』(87製作/89日本公開)、マサラ映画人気に火を点けた『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95製作/98日本公開)等々、「シネマライズ」は数々のヒット作をリリースした。『コックと泥棒、その妻と愛人』は、興行に於いて、それらに連なる存在感を放った作品なのである。 1990年の8月4日に公開し、11月30日まで、ほぼ4カ月のロングラン。流行の最先端を発信する街に集う、いわゆる“渋谷系”の若者たちも、多く集客した。 若者の映画離れが懸念されて久しい今となっては、まさに隔世の感である。その舞台となった「シネマライズ」も、2016年に閉館。30年の歴史に、ピリオドを打った。「ポスト・モダン」に関して、「ただの流行りものだった」と、後に辛辣な批評も行われている。では『コックと泥棒…』やグリーナウェイの集めた注目も、その時期の「流行りもの」に過ぎなかったのか? そんなことは、ないだろう。些か古びた部分はあれど、グリーナウェイの試みは、いま観ても十分に刺激的で、鮮烈な魅力が溢れている。『コックと泥棒、その妻と愛人』は、“サッチャリズム”から30~40年も遅れて、今更新自由主義に傾倒。深刻な格差を生み出している我が国に於いては、シャレにならない作品とも言える。 泥棒アルバートのような輩が横行しているのを、我々の多くは今まさに、目の当たりにしている筈だ。■ 『コックと泥棒、その妻と愛人』© NBC Universal All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2022.12.09
1980年代韓国の“闇”を斬り裂いた!№1監督ポン・ジュノの出世作!!『殺人の追憶』
1960年代生まれで、80年代に大学で民主化運動の担い手となり、90年代に30代を迎えた者たちを、韓国では“683世代”と呼んだ。そしてこの世代は、政治経済から文化まで、その後の韓国社会をリードしていく存在となる。『パラサイト 半地下の家族』(2019)で、「カンヌ国際映画祭」のパルム・ドールと「アカデミー賞」の作品賞・監督賞などを受賞するという快挙を成し遂げた、韓国№1監督ポン・ジュノも、まさにこの世代。本人は69年生まれで、88年に大学に入ったので、あまり実感がなく、その分け方自体が「好きではない」というが。 確かに90年代、“韓国映画ルネッサンス”と言われる潮流が起こった時、彼はまだ長編監督作品を、ものしてなかった。そして2000年になって完成した第1作『ほえる犬は噛まない』は、一部で高い評価を得ながらも、興行的には振るわない結果に終わっている。 しかしプロデューサーのチャ・スンジェは、『ほえる…』の失敗をものともせず、ポン・ジュノに続けてチャンスを与えた。彼が取り掛かった長編第2作が、本作『殺人の追憶』(2003)である。 題材は、“華城(ファソン)連続殺人事件”。86年から91年に掛け、ソウルから南に50㌔ほど離れた華城郡台安村の半径2㌔以内で起こった、10件に及ぶ連続強姦殺人事件である。180万人の警察官が動員され、3,000人の容疑者が取り調べを受けたが、犯人は捕まらないまま、10年余の歳月が流れていた。 この事件はすでに演劇の題材となっており、「私に会いに来て」というタイトルで、1996年に上演されていた。ポン・ジュノはこの演劇を原作としながら、事件を担当した刑事や取材した記者、現場近隣の住民に会って話を聞き、関連資料を読み込んだ。 そして自分なりに事件を整理してみたところ、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」という。この作業に半年掛けた後、脚本の執筆は、1人で行った。 因みに63年生まれで、ポン・ジュノよりは6歳ほど年長ながら、同じ“386世代”で、すでに『JSA』(00)でヒットを飛ばしていたパク・チャヌク監督も、「私に会いに来て」の映画化を考えていた。しかしポン・ジュノが取り組んでいることを知って、あきらめたという。 “華城連続殺人事件”には、“386”の代表的な監督たちの興味を強く引く、“何か”があったのだ。 未解決の連続殺人事件を映画化するということで、スタッフとキャスト全員で追悼式を行ってからクランクインした本作。事件から10数年経って、華城は当時の農村風景が残る環境とはかなり様相が変わっており、また住民の感情も考慮して、事件現場よりも更に南部の全羅道でロケが行われた。 製作費は、30億ウォン=3億円。通常の韓国映画より、少し高い程度のバジェットであった。 ***** 1986年、華城の農村で連続猟奇殺人が発生する。被害者の若い女性は、手足を拘束され、頭部にガードルを被せられたまま、用水路などに放置されていた。 担当のパク・トゥマン刑事(演:ソン・ガンホ)は、「俺は人を見る目がある」と豪語するが、捜査は進まない。そんなある日、頭の弱い男クァンホが、被害者の1人に付きまとっていたという情報を得る。トゥマンは相棒のヨング刑事と共に、拷問や証拠の捏造まで行って、クァンホを犯人にしようとするが、うまくいかない。 そんな時にソウルから、ソ・テユン刑事(演:キム・サンギュン)が派遣されてくる。テユンは、「書類は嘘をつかない」と言い、各事件の共通性として「雨の日に発生した」こと、「被害者は赤い服を着ていた」ことを見つけ出す。更に彼の指摘通り、失踪していた女性が、死体となって発見される。 やり方が正反対のトゥマンとテユンは、対立しながら、捜査を進める。しかし有力な手掛かりは見つからず、犠牲者は増えていく。 雨で犯行の起こる日、必ずラジオ番組に「憂鬱な手紙」という曲をリクエストしてくる男がいることがわかる。その男ヒョンギュ(演:パク・ヘイル)は、連続殺人が起こり始めた頃から、村で働き始めていた。 有力な容疑者と目星を付け、現場に残された精液とヒョンギュのDNAが一致するか検査を行うことになる。しかし当時の韓国には装備がなく、アメリカに送って鑑定が返ってくるまで、数週間待たねばならない。 一日千秋の思いで結果を待つ刑事たちだったが、その間にまた犯行が起きて…。 ***** 本作の内容は、事件の実際と、それを基にした演劇と、更にはポン・ジュノの想像を合わせたものだという。例えば、被害者の陰部から、切り分けた桃のかけらが幾つも見付かったことや、捜査に行き詰まった刑事たちが霊媒師を訪ねたこと、頭の弱い容疑者が、尋問後に列車に飛び込み自殺したことなどは、“事実”を採り入れている。 有力な容疑者のDNA鑑定は、実際には、日本に検体を送って行われた。これをアメリカに変更したのは、当時の米韓の対比を描きたかったからだという。 容疑者がラジオ番組に歌をリクエストするというのは、まったくのフィクション。この設定は、原作の演劇にもあったが、その曲はモーツァルトの「レクイエム」であった。ポン・ジュノはそれを、「1980年代の雰囲気が重要」と、当時の歌謡曲である「憂鬱な手紙」に変えたのである。 因みに原作の「私に会いに来て」で、主人公の相棒の暴力刑事を演じたキム・レハと、頭の弱い容疑者役だったパク・レシクは、そのまま本作で、同じ役どころを与えられている。 本作を、典型的な“連続殺人事件もの”として作ったり、最初はいがみ合っている刑事たちが、やがて力を合わして捜査に取り組んでいく、“バディもの”として描くことも可能であった。しかし先に記した通り、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」というポン・ジュノは、韓国社会が通ってきた80年代の暗部を描くのを、メインテーマとした。 事件当時の新聞には、88年に開催が迫った「ソウルオリンピック」が大見出しとなっている下に、「華城でまた死体発見」という小さな記事が載っている。ポン・ジュノはそれを見て、妙な気がした。そして「…これは不条理ではないかと思った」という。「華城事件」で10人の女性が殺された86年から91年は、ちょうど全斗煥大統領による軍事政権に対する民主化要求運動が、全国的な広がりを見せた時代である。そしてこの頃の警察は、ド田舎の村の人々を守ることよりも、政権を守るためにデモを鎮圧することの方を、重視していた。 本作の中では、機動隊がデモ隊を取り締まるために出動している間に、事件が起こる描写がある。また夜道を歩いていた女子学生が犯人に襲われる場面は、政府の灯火管制により、村のあちこちで消灯したり、シャッターが下ろされたりして、人為的に暗闇が訪れていくのと、執拗にカットバックされる。政府が作り出した暗闇が、罪のない女子学生の命を奪う犯人を、サポートしてしまうのだ。 これぞポン・ジュノ言うところの「不条理」。「時代の暗黒が殺人事件の暗黒を覆う…」わけである。 高度成長期でもあるこの時期、稲田や畑ばかりだった農村に、工場が建てられる。それまでは村全体が一つの大家族のような繋がりだったのに、縁もゆかりもない、見も知らぬ労働者が大挙して移り住んでくることによって、“事件”が起こるという構図も、まさに時代が生んだ殺人事件と言える。 因みに我が国でも、64年の東京オリンピック前年には、5人連続殺人の“西口彰事件”や、4歳の子どもを営利誘拐目的で殺害した“吉展ちゃん事件”などが起きている。奇しくも日韓共に、五輪が象徴する時代の転換期には、猟奇的な事件が発生しているわけだ。 “西口彰事件”については、それをモデルにした、今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(79)という有名な邦画がある。本作の演出に当たってポン・ジュノは、この作品を非常に参考にしたという。 本作の邦題『殺人の追憶』は、原題の直訳だ。これはデビュー作『ほえる犬は噛まない』で、「フランダースの犬」(原題)という意に沿わぬタイトルを映画会社に付けられてしまい、結果的に内容と合わないことも、興行の失敗に繋がったという反省から、ポン・ジュノ自らが付けたもの。「殺人」の「追憶」という連なりには、組合せの妙を感じる。「追憶」という言葉を使ったのは、80年代の韓国、その“暗黒”を、積極的に振り返るという、ポン・ジュノの想いが籠められているのである。 そうした想いを、具現化していくための演出も、半端なことはしない。この規模の作品では、通常3~4ヶ月の撮影期間となるが、本作は半年間。これは「冒頭とラストだけ晴で、後は曇りでなくてはダメ」という、監督のこだわりによって掛かった。特に件の女子学生が犠牲になるシーンでは、理想的な曇天を待つために、1か月を要したという。 本作は先に挙げたように、“連続殺人事件もの”“バディもの”といった、ジャンル映画に括られることから逃れているのも、特徴だ。ポン・ジュノは毎作品、「ジャンルの解体」を目指しているという。 これに関しては、『岬の兄弟』(2019)『さがす』(22)などの作品で注目を集めた片山晋三監督が、興味深い証言をしている。片山は『TOKYO!/シェイキング東京』(08)『母なる証明』(09)という2作で、日本人ながら、ポン・ジュノ監督作品の助監督を務めている。「…ジャンルを意識しないで一カット、一カットごとに映画の見え方がホラーだったりコメディだったりサスペンスだったりに変わっても成立すること、むしろその方が面白いと気づいたのが僕にとっての収穫です」 この言から、片山の『さがす』も、確かに「ジャンルの解体」を目指した作風になっていることに思い当たる。 さてここで、ポン・ジュノの期待に応えた、本作の出演者についても、触れねばなるまい。本作に続いて、『グエムル‐漢江の怪物‐』(06)『スノーピアサー』(13)そして『パラサイト 半地下の家族』(19)といったポン・ジュノ作品に主演。「最も偉大な俳優であり、同伴者」と、ポン・ジュノが称賛を惜しまない存在となっている、ソン・ガンホも、本作のトゥマン刑事役が、初顔合わせ。『反則王』(00)『JSA』(00)といった主演作で大ヒットを飛ばし、すでにスター俳優だった彼が、駆け出しの監督の作品に主演したのは、『ほえる犬は噛まない』を観て、笑い転げたことに始まる。「ポン監督に自分から電話をかけて関心を示した情熱が買われ、キャスティングされた」のだという。いち早く監督の才能を、見抜いていたわけだ。またガンホが無名時代にオーディションに落ちた際、その作品の助監督だった、ポン・ジュノに励まされたというエピソードもある。 いざクランクインし、序盤の数シーンを撮ってみると、アドリブも多いガンホに対して監督は、「野生の馬」という印象を抱く。そして彼をコントロールする方法としては、「ただ垣根を広く張り巡らしておいて、思いっきり駆け回れるようにしたうえで、放しておこう」という考えに至った。「…優れた感性と創造力、作品に対する理解力を持ち合わせている」芸術家と、認めてのことだった。 キム・サンギョンを起用したのは、ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』(02)を観てのこと。サンギョンは本作の脚本を読んで、テユン刑事に感情移入。「同じ気持ちになって猛烈に腹が立った」という。 有力な容疑者として追及されるヒョンギュ役は、パク・ヘイル。ポン・ジュノは脚本の段階から、彼の特徴的な顔を、思い浮かべていた。 ラスト、未解決に終わった事件から歳月が経ち、今や刑事を辞めて営業マンになったトゥマンが、殺人のあった現場を訪れ、自分の少し前に犯人らしき男が、同じ場所を訪れていたことを、その場に居た女の子から聞いて愕然とする。そして観客を睨みつけるような彼の顔のアップとなって、終幕となる。 これは「俺は人を見る目がある」「目を見れば、わかる」などと、本作の中で容疑者の肩を摑んでは、その顔を見つめる行為を続けてきた、トゥマンの最後の睨みである。ポン・ジュノの、「観客として映画を見るかもしれない真犯人の顔を俳優の目でにらみつけたかった」という想いから、こうしたラストになった。 実はこのシーンは、クランクインから間もなく撮られたもので、監督はガンホに、「射精の直前で我慢しているような表情でやってほしい」と演出を行った。監督曰く、ガンホは本当にあきれた顔を向けたというが、実際は何度も耳打ちで注文してはリテイクする監督を見て、「この人はこのシーンに勝負をかけているんだな」と理解。渾身の力を、注ぎ込んだという。 さて本作は公開されると、韓国内で560万人を動員。2003年の№1ヒット作となり、数多の賞も受賞した。紛れもなくポン・ジュノの出世作であり、国際的な評価も高い。20年近く経った今でも、彼の「最高傑作」であると、主張する向きが少なくない。 ここで“華城事件”の終幕についても、触れたい。2019年になって、真犯人が浮上した。その時56歳になっていた、イ・チュンジェという男。 94年に、妻の妹を強姦殺害した罪で、無期懲役が確定し、24年もの間服役中だった。改めてのDNA鑑定の結果、彼が真犯人であることが確定したが、一連の事件はすべて「時効」が成立していた。 ここで改めて注目されたのが、警察の杜撰な捜査。容疑者の中には自殺者が居たことも記したが、特に酷かったのは、10件の殺人の内、1件の犯人として逮捕され、20年もの間収監されていた男性が居たことである。 本作『殺人の追憶』が、事件の解決には役立ったのかどうかは、明言できない。しかし、あの時代の“闇”を、紛れもなく斬り裂いていたのだ。■ 『殺人の追憶』© 2003 CJ E&M CORPORATION, ALL 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COLUMN/コラム2022.11.09
ジョン・マルコヴィッチしか考えられなかった…。“カルト映画”の傑作『マルコヴィッチの穴』
本作『マルコヴィッチの穴』(1999)の原題は、“Being John Malkovich”。当代の名優とも怪優とも評される、ジョン・マルコヴィッチがタイトルロールを…というか、マルコヴィッチ自身を演じる。 日本ではアメリカから遅れること、ちょうど1年。2000年9月の公開となった。私はその頃、TBSラジオで「伊集院光/日曜日の秘密基地」という番組の構成を担当していたが、パーソナリティの伊集院氏がこの作品のことを、生放送前後の打合せや雑談などで、よく話題にしていたことを思い出す。かなりのお気に入りで、翌10月から始まった新コーナーに、「ヒミツキッチの穴」というタイトルを付けたほどだった。「ジョン・マルコヴィッチってのが、良いんだよな~」と、伊集院氏は言っていた。そして、「日本の俳優でやるとしたら、誰なんだろう?“大地康雄の穴”とかになるのかな」とも。 この例え、当時個人的には「絶妙」だと思った。今となっては、まあわかりにくいかも知れないが…。 私的にはそんな思い出がある『マルコヴィッチの穴』とは、どんな作品か?まずはストーリーを紹介しよう。 ***** 才能がありながらも認められない、人形使いのグレイグ(演:ジョン・キューザック)は、妻のロッテ(演:キャメロン・ディアス)から言われ、やむなく定職を求める。 新聞の求人欄から彼が見付けたのは、小さな会社の文書整理係。そのオフィスは、ビルのエレベーターの緊急停止ボタンを押してから、ドアをバールでこじ開けないと降りられない、7と1/2階に在った。そしてそこは、かがまないと歩けないほど天井が低い、奇妙なフロアーだった。 書類の整理に勤しむグレイグは、ある日書類棚の裏側に、小さなドアがあるのを見付ける。興味本位でドアを開け、その中の穴に潜り込むと、突然奥へと吸い込まれる。 気付くとグレイグは、著名な俳優ジョン・マルコヴィッチの脳内へと入り、彼になっていった。しかし15分経つとグレッグに戻って、近くの高速道路の脇の草っ原へと放り出される。 興奮した彼は、同じフロアーの別の会社のOLで、一目惚れしながらも相手にされなかったマキシン(演:キャスリーン・キーナー)に、この秘密を話す。マルコヴィッチ自体を知らなかった彼女だが、この体験=穴に入ってマルコヴィッチに15分間なる=を、1回200㌦でセールスすることを提案。グレイグと共にビジネスを始めると、深夜の7と1/2階には、行列が出来るようになる。 しかしこれはまだ、グレイグ&ロッテ夫妻とマキシーン、そして俳優ジョン・マルコヴィッチを巡る、不可思議な物語の入口に過ぎなかった…。 ****** ジョン・マルコヴィッチ。1953年12月、アメリカ・イリノイ州生まれで、間もなく69歳になる。『マルコヴィッチの穴』の頃は、40代半ばといったところ。 若き日に、仲間のゲイリー・シニーズらと立ち上げた劇団で評判を取り、やがてブロードウェイに進出。『True West』や『セールスマンの死』などに出演し、オビー賞など数々の賞を手にした。 映画初出演は、ロバート・ベントン監督の『プレイス・イン・ザ・ハート』(84)。主演のサリー・フィールドに2度目のオスカーをもたらしたこの作品で、盲目の下宿人を演じたマルコヴィッチは、いきなりアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。 以降は、主役から脇役まで幅広い役柄で、数多くの作品に出演。悪役やサイコパス役に定評があり、またヨーロッパのアート作品にも、度々出演している。 演技も風貌も、いわゆる「クセの強い」俳優であるが、プライベートでの言動や行動も、そのイメージを裏付ける。今ではその発言自体を否定しているが、「一般大衆に認識されているものはクソだ。彼らの考えにも吐き気がする。映画は金のためだけにやっている」などと、言い放ったことがある。 また、ニューヨークの街角で絡んできたホームレスに激怒し、大型のボウイナイフで脅したり、オーダーメードのシャツの出来上がりが遅れたテーラーに怒鳴り込んだり、バスが停車しなかったことに腹を立て、窓を叩き割る等々の、暴力的な振舞いが度々伝えられた。 その一方で、映画デビュー作の共演者サリー・フィールドが、「ただただ彼を敬愛している」と言うのをはじめ、共演者たちの多くからは称賛されている。初めてブロードウェイの舞台に立った『セールスマンの死』の共演者である名優ダスティン・ホフマンは、「彼との仕事は、私のキャリアの中でも貴重な経験だった」としている。 そんなマルコヴィッチをネタにした、摩訶不思議な本作のストーリーを書いたのは、チャーリー・カウフマンという男。それまでTVのシットコムの脚本を生業としていた彼にとっては、映画化に至った、初の長編脚本である。 本作の脚本は、「特に戦略を持たずに書き始めた」ということで、最初は「既婚者の男が恋をする」というアイディアだけだった。そこに後から、「穴を通って別人の脳内に入る」という発想が加わって、他者になりすまして名声を得たり、生き長らえようとする者たちや、逆にそうした者たちに自由を奪われて、己を失っていく者が登場する物語になったのである。『マルコヴィッチの穴』は、誰が観ても、「アイデンティティがテーマ」の作品だと、理解される。しかしカウフマンが書き始めた当初は、そんなことは考えてもいなかったわけである。 脳内に入られる人物に関しては、「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」という。マルコヴィッチがブロードウェイの舞台に立った時のビデオを観て衝撃を受けたというカウフマン。曰く、「彼がステージに立つと目が離せない」ようになった。そして本作の物語を編んでいくに際して、「彼は不可知な存在で、作品にフィットすると思った」と語っている。「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」のは、その「微妙な知名度」も、ポイントだったように思われる。映画・演劇業界の周辺では、誰も知る実力の持ち主であるが、万人にとってのスーパースターというわけではない。本作の中でマキシンが、マルコヴィッチと聞いても、誰かわからなかったり、タクシーの運転手が、マルコヴィッチ本人がやってもいない役柄で「見た」と話しかけてきたりするシーンがわざわざ設けられていることからも、作り手のそうした意図が、読み取れる。 因みにマルコヴィッチ自身は8歳の頃、“トニー”という名のもうひとりの自分を作り出していたという。その“トニー”とは、クロアチア系の父親とスコットランド及びドイツ系の母親から生まれたマルコヴィッチとは違って、スリムなイタリア人。至極人当たりがよく、首にスカーフを巻くなど、おしゃれで粋なキャラだった。 マルコヴィッチが“トニー”になっている時は、大抵ひとりぼっちだった。しかしある時はなりきったまま、野球の試合でピッチャーマウンドに上がったこともあったという。 そのことに関してマルコヴィッチは、「…たぶん多くの人が今とは別の人生を送りたいと願っているだろう…」と語っている。カウフマンが執筆当時、そんなことまで知っていたとは思えないが、そうした意味でも、本作の題材にマルコヴィッチをフィーチャーしたのは、正解だったかも知れない。役柄的には、逆の立場であるが…。 しかし、カウフマンの書いた『マルコヴィッチの穴』の脚本は、業界内で非常に評判になりながらも、なかなか映画化には至らなかった。内容が特殊且つ、エッジが立ち過ぎていたからだろう。 ジョン・マルコヴィッチ本人も、その脚本の完成度には唸ったものの、こんな形で俎上に載せられるのには臆したか、「自分を題材にしないことを条件に監督やプロデューサーを引き受ける」とカウフマンに提案。話がまとまらなかった。 もはや映画化は、不可能か?カウフマンも諦めかかった頃に、本作の監督に名乗りを上げる者が現れる。それが他ならぬ、スパイク・ジョーンズだった。 当時ジョーンズは、ビースティ・ボーイズやビョーク、ダフト・パンクなど数多の人気ミュージシャンのMVを演出した他、CMでも国際的な賞を受賞。写真家としても成功を収め、まさに時代の寵児だった。映画監督としては、短編を何本か手掛けて、やはり好評を博しており、長編デビューの機会を窺っていた。 そんな彼が「…とにかく、脚本が本当に良かった」という理由で、『マルコヴィッチの穴』に挑むことになったのである。当時の彼の妻ソフィア・コッポラの父、『ゴッドファーザー』シリーズなどのフランシス・フォード・コッポラ監督の後押しもあったと言われる。 その後ジョーンズとカウフマンで、映画化に向けての作業が進められる中で、件の経緯もあったせいか、ホントに“ジョン・マルコヴィッチ”が適切であるかどうか、2人の間で迷いが生じることもあった。このタイミングだったかどうか定かではないが、トム・クルーズの名が挙がったりもしたという。 しかし結局は、他の人物では満足できず、マルコヴィッチで行きたいということになった。マルコヴィッチの方も、スパイク・ジョーンズという希有な才能に惹かれたということか、「…あまりに途方もなくとんでもないストーリーだから、自分の目で見届けたくなった…」と、出演がOKになったのである。 完成した『マルコヴィッチの穴』は、「ヴェネツィア国際映画祭」で国際批評家連盟賞を受賞したのをはじめ、内外の映画祭や映画賞を席捲。一般公開と共に“カルトムービー”として人気を博し、アカデミー賞でも、監督賞、脚本賞、助演女優賞の3部門でノミネートされた。 この時はオスカーを逃したカウフマンとジョーンズだったが、2人とも本作が高く評価されたことから、監督、脚本家、プロデューサーとして地位を築いていくことになる。後にカウフマンは『エターナル・サンシャイン』(04)で、ジョーンズは『her/世界でひとつの彼女』(13)で、それぞれアカデミー賞脚本賞を受賞している。 因みにジョン・マルコヴィッチに関しては2010年、その軌跡を振り返る試みを、映画批評サイトの「Rotten Tomatoes」が実施。「ジョン・マルコヴィッチの傑作映画」という、ベスト10を発表した。 その際、第1位に輝いたのは、デビュー作の『プレイス・イン・ザ・ハート』。そこに、ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『家路』(01)、盟友ゲイニー・シニーズの監督・主演作『二十日鼠と人間』(92)等々が続く。そんな中で本作『マルコヴィッチの穴』(99)は、堂々(!?)第6位にランクインしている。 しかしこのベスト10以上に、本作のインパクトが、大きく残っていることを感じさせる出来事が、2012年にあった。それはマルコヴィッチが出演した、iPhone 4SのCM。この中で「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」というセリフが繰り返されるのだが、これは『マルコヴィッチの穴』に登場する、最もヴィジュアルイメージが強烈なシーンを、明らかに模したもの。 ではその元ネタとなったのは、果してどんな場面なのか?それはこれから観る方のために、この稿では伏せておこう。 「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」■ 『マルコヴィッチの穴』© 1999 Universal City Studios Productions LLLP. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.11.02
1人の男の情熱が、“インドへの道”を開いた!『ムトゥ 踊るマハラジャ』
あなたは“インド映画”と聞くと、どんなイメージが湧くだろうか? アクション、コメディ、ロマンス、そして歌って踊ってのミュージカル!3時間に迫る長尺の中に、こうしたエンタメのオールジャンル、ありとあらゆる娯楽の要素がぶち込まれて、これでもか!これでもか!!と迫ってくる。インド料理で使用する、複数のスパイスを混ぜ合わせたものを“マサラ”と言うが、それに因んで、「マサラ・ムービー」と呼ばれるような作品を、思い浮かべる方が、多いのではないだろうか? だが日本に於いて、“インド映画”がこのようなイメージで捉えられるようになったのは、1990年代も終わりに近づいてから。それ以前、日本でかの国の映画と言えば、ほぼイコールで、サダジット・レイ監督(1921~92)の作品を指していた。 レイは、フランスの巨匠ジャン・ルノワールとの出会いや、イタリアのヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(48)を観た衝撃で、映画監督になることを決意した。『大地のうた』(1955)『大河のうた』(56)『大樹のうた』(59)の「オプー三部作」などで、カンヌ、ヴェネチア、ベルリンの3大映画祭を席捲。国際舞台で高く評価され、最晩年にはアメリカのアカデミー賞で、名誉賞まで贈られている。 そんなレイの諸作は、日本ではATG系や岩波ホールで上映された、いわゆる“アート・フィルム”。これが即ち、日本に於ける“インド映画”のパブリック・イメージとなっていたわけである。 それを一気に覆して、件の「エンタメてんこ盛り」の“マサラ・ムービー”のイメージを日本人に植え付け、“インド映画”ブームを巻き起こしたのが本作、K・S・ラヴィクマール監督による『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95)!そしてその主演、“スーパースター”ラジニカーントである。 ***** 大地主のラージャに仕えるムトゥ(演:ラジニカーント)は、親の顔も知らない、天涯孤独の身の上ながら、いつも明るく頼りになる男。主人の信望が厚く、屋敷の使用人たちのリーダー的存在であり、また近隣住民からの人気も高かった。 ある日ラージャのお供で旅回りの一座の芝居を観に行ったムトゥは、退屈で居眠りをし、大きなくしゃみを何発もして、一座の看板女優ランガ(演:ミーナ)の怒りを買う。その一方でそんなランガの美貌に、ラージャが心を奪われる。 数日後、再びランガたちの芝居を観に行ったラージャとムトゥは、公演の邪魔をしに来た地元の顔役一味と、大乱闘。ラージャの指示で、ランガと馬車で脱出したムトゥは、激しい馬車チェイスの末、何とか逃げ切る。 しかしまったく知らない土地に迷い込んでしまい、言葉も通じないため、ムトゥは困惑。そんな時にランガのイタズラ心がきっかけで、2人は熱いキスを交わし、激しい恋に落ちる。もちろんご主人様のラージャの、ランガへの想いなど、つゆも知らず…。 ムトゥは屋敷にランガを連れ帰り、ラージャに彼女も雇ってくれと頼む。自分のプロポーズが受け入れられたと勘違いしたラージャは、大喜びでランガを受け入れる。 そんなこんなで、恋愛関係は混戦模様。その一方でラージャの悪辣な叔父が、甥の財産を乗っ取ろうと、恐ろしい計画を進める。 危険が、刻一刻と近づく。そんな中でムトゥ本人も知らなかった、彼の出生の秘密が明かされる…。 ***** 映画の開巻間もなく、「スーパースター・ラジニ」と文字が画面いっぱいに広がって仰天する。これは『007』シリーズのオープニングを意識して作成された“先付けタイトル”。本作ではタイトルロールのムトゥを演じた、ラジニカーント(1950~ )主演作の多くで、使用されているものだ。 日本ではとても主役になることはない濃さを感じるラジニカーントであるが、貧しい家の出でバスの車掌出身という親しみ易さもあって、“インド映画界”では、紛れもないスーパースター。いやもっと厳密に言えば、“タミル語映画界”で主演作が次々と大ヒットとなった、押しも押されぬスーパースターである。 広大で人口も多いインドでは、地域ごとに言語も違っている。本作でムトゥが知らない村に着いたら、言葉が通じないというのは、決して誇張された表現ではない。 公用語だけでも20前後あるインドでは、各地域ごとにその地域の言葉を使って、映画が製作されている。年間の製作本数は、多い年では長編だけで1,000本近くと、アメリカを楽々と上回るが、それはこうした各地域で作られているすべての作品をトータルした本数である。 “インド映画界”を表すのには、よくハリウッドをもじった、「ボリウッド」という言葉が言われる。これは正確には、インドで最も話者人口が多い、ヒンディー語で製作される映画の拠点である、ムンバイ(旧名ボンベイ)のことを指す。 ムンバイが、インド№1の映画都市であり、“インド映画”全般のトレンドリーダーなのは間違いないが、本作『ムトゥ』のような“タミル語映画”は、それに次ぐ規模で製作されている。その拠点は、南インドの都市マドラスに在る、コーダムバッカムという地区。そのためこちらは、「ボリウッド」ならぬ「コリウッド」などとも言われている。 ラジニカーントは、そんな“タミル語映画界=コリウッド”の大スターというわけである。 ラジニカーントのムトゥの相手役ランガを演じたのは、本作製作当時は19歳だった、ミーナ(1976~ )。目がパッチリした、ポッチャリめの美女である彼女は、子役出身で、本作の頃は、1年間に7~8本もの作品に出演する、超売れっ子だった。活動の中心は“タミル語映画”だが、他にもマラヤーラム語、テルグ語、カンナダ語が話せるため、それぞれの言語を使った作品からオファーされ、出演していた。 ラジニカーントとミーナの年齢差は、実に26歳であるが、『ムトゥ』以外にも、何度も共演している。 さて、そんな2人が軸で繰り広げられる、大娯楽絵巻!ムトゥは、首に巻いた手ぬぐいや馬車用のムチを、まるでブルース・リーのヌンチャクの如く使いこなす。彼に叩きのめされた敵は、空中を回転したり、壁をぶち抜いたりしながら、次々と倒されていく。追いつ追われつの激しい馬車チェイスでは、追っ手の人間、馬、馬車が、壮絶にコケては吹っ飛んでいく。一体何人のスタントマンが、怪我を負ったことか? この映画世界では、ガチのキスシーンは、御法度。その代わりに、川でずぶ濡れになりながら、ムトゥとランガの恋の炎は燃え上がる。 そして、ことあるごとに大々的に展開される、群舞のミュージカルシーン。大人数のダンサーを従えたムトゥとラーガは、目も鮮やかな衣装を取っ替え引っ替えしながら、歌い、そして踊りまくる。因みに“インド映画”の常で、2人の歌声は、“プレイバックシンガー”と呼ばれる、専門のプロ歌手によって吹き替えられているのであるが。 忘れてならないのは、音楽を担当した、A・R・ラフマーン。当時すでに海外からも注目される存在だったが、この後にダニー・ボイル監督の『スラムドッグ$ミリオネア』(2008)の音楽で、アカデミー賞の音楽賞に輝き、世界的な存在になっている。 こうした、典型的且つド派手な“マサラ・ムービー”である本作は、95年に本国でヒットを飛ばしてから3年後、98年6月に、東京・渋谷の今はなきシネマライズで、まずは単館公開。これが半年近くのロングランとなり、興行収入が2億円を突破した。 評判が評判を呼び、最終的に本作は全国で100以上の映画館で上映。先陣を切ったシネマライズを含めて、トータルの観客動員数は25万人、累計興行収入は、4億円にも達す、堂々たる大ヒットとなった。 その後発売された映像ソフト=VHS・レーザーディスク・DVDの販売本数は、6万枚を突破!これまた、異例の大当たりと言える。 それにしても、本国では絶大なる人気を博しながら。それまでまったく日本に紹介されることがなかった、“マサラ・ムービー”である。一体どういった経緯で、突然上映されることになったのか? それは、ひとりの“映画評論家”の家族旅行がきっかけだった。その男、江戸木純氏がプライベートでシンガポールを訪れたのは、1996年の6月。 散歩がてら、インド人街を歩いていた時に、何の気なしにビデオとCDを売るお店へと立ち寄った。そこに並ぶ、観たことのない“インド映画”のパッケージに興味を持った彼は、店員に「今一番人気のあるスターの映画は?」と尋ねた。その時に薦められて購入したのが、ラジニカーントであり、その主演作『ムトゥ』であった。 お店で一部を観ただけで大いに心惹かれた江戸木氏だったが、その際に購入した『ムトゥ』のソフトを、帰国してから全編観て、大いにハマってしまった。そして毎日のように、本作の歌と踊りのシーンを観る内に、「これを映画館の大画面で見たい」という想いを抱き、遂には日本での上映権の購入に至った。 その後江戸木氏は、公開に向かって手を挙げてくれた配給・宣伝会社と連携。公開の戦略を練った結果、まずは「東京国際ファンタスティック映画祭」で『ムトゥ』を上映し、爆笑と拍手の渦をかっ攫った。 この大評判から、多くの問い合わせを受け、新たな提携も得たことから、劇場公開に向かって、大いに前進。遂には『ムトゥ』と出会ってからちょうど2年後の98年6月に、シネマライズでの上映を実現させたわけである。 そして沸き起こった、“第1次インド映画ブーム”!続々と“インド映画”の輸入・公開が続いたが、こちらはかの地の映画会社との契約の難しさなどでトラブルが続出し、ブームは早々にしぼんでしまう。 しかしこの時に、“インドへの道”が開けたのは、確かであろう。『ムトゥ』が起こしたムーブメントがなければ、その後の“インド映画”の紹介は、ずっと難しかった可能性がある。『きっと、うまくいく』(09)や、『バーフバリ』シリーズ(15~17)などの成功も、『ムトゥ』あってこそと言って、差し支えないだろう。 因みにラジニカーントは、齢七十を超えた今も、“タミル語映画界=コリウッド”の輝けるスーパースターである。■ 『ムトゥ 踊るマハラジャ【デジタルリマスター版】』(C) 1995/2018 KAVITHALAYAA PRODUCTIONS PVT LTD. & EDEN ENTERTAINMENT INC.
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COLUMN/コラム2022.10.03
現代韓国映画黎明期に清新の風を吹かせた1本『八月のクリスマス』
日本で韓国映画ブームに火を付けた作品と、一般的に認識されているのは、『シュリ』(1999)だろう。当時韓国で人気№1スターだった、ハン・ソッキュが主演。南北分断という朝鮮半島の政治情勢をベースに、韓国と北朝鮮の諜報員同士の悲恋を織り込んだアクション大作である。 2000年1月に、日本公開。興行収入18億5,000万円を上げる、前代未聞の大ヒットとなった。 しかしながら、その前年=1999年の6月に日本公開されて静かに人気を集めた、もう1本のハン・ソッキュ主演作がある。その作品こそが、現代韓国映画の存在を、日本の観客に最初に印象づけた作品であると、指摘する声も多い。 本作、『八月のクリスマス』(98)のことだ。 ***** 静かな街で小さな写真館を営んでいる、30代の青年ジョンウォン(演:ハン・ソッキュ)。 8月、夏の盛りに急逝した友人の葬式から帰ると、若い女性が急ぎの現像のため、写真館が開くのを待っていた。不躾な応対になってしまったことを詫びて、アイスキャンディを渡すジョンウォン。 それから女性は、頻繁に写真館を訪れるようになる。彼女はこの地域の駐車違反の取締員である、タリム(演:シム・ウナ)。 タリムはジョンウォンを、「おじさん」と呼ぶ。2人は他愛ないおしゃべりを重ね、やがてお互いに惹かれるものを感じ始める。 家族や友人と過ごし、そして写真を撮りに来るお客たちの応対をしながら、ジョンウォンはごく平凡な日常を送っている。しかしタリムに対して、打ち明けられない秘密を抱えていた。彼は重病で、余命幾ばくもなかったのだ。 初デートで楽しい時を過ごした2人だったが、タリムは異動になり、この地域から離れなければならない。そこでジョンウォンに会いに行くが、写真館の電気は消えていた。 病状の進んだジョンウォンは、緊急入院していたのだ。そうとは知らないタリムは、「おじさん」への想いを手紙にしたため、写真館の入口に挟んでおくのだったが…。 ***** 1963年生まれのホ・ジノ監督は、大学卒業後に韓国映画アカデミーに進んだ。その後パク・クァンス監督作品の助監督や共同脚本を担当。『八月のクリスマス』は、30代中盤にして撮った、初めての長編作品である。 スタートは、ホ・ジノが韓国の有名な男性歌手の葬式を、TVで見ていた時に浮かんだ構想。その歌手の遺影が笑顔だったことに、ホ・ジノは感動を覚えた。それが発展して、自らの遺影を笑顔で撮影する写真屋の物語が生まれたのである。 リサーチとして、実際に死にゆく者の介護をした経験がある人たちへのインタビューを行った。そこでそういった人たちが、「死んでゆく人に対しては、ある程度の距離を置いて静かに見つめる視線を次第に持つようになる」ことを聞いた。 ホ・ジノ自身が、ものごとに接する時は、抑え目に距離を保って見つめるタイプ。本作は無理矢理に観客の感情を揺らしたりしない、淡々と抑制された静かな語り口となった。 端的には、説明的な描写やセリフを、徹底的に排す。これが作品の叙情性を高め、観る者の想像力を膨らませることで、自然と観客の心を揺さぶる成果を得た。 ホ・ジノは、自分で書くと客観的になれないという理由で、まず自らの考えを脚本家に伝え、上がってきたものに目を通すというやり方で、脚本を作っていく。これは師であるパク・クァンスから、学んだやり方だという。 しかし、そうやって一旦形となった脚本も、決定稿とはならない。「映画が完成するまで変わっていくもの」と捉えている。 映画で撮るキャラクターには、「三つの要素」があるという。脚本上のキャラクター、役者本人のキャラクター、監督自身の中にあるキャラクター。これも師譲りの手法だというが、ホ・ジノはこの中で、「最も自然なものを選んでいく」。 そんなこともあって、リハーサルで俳優の動きを決めたりはしない。そして撮影現場では、俳優に具体的な指示は出さず、質問を投げかける形で、演出を行う。セリフも動きも、現場を一番大切にして、その日の俳優の動きによっては、カメラの位置を変えることも辞さない。 主役のジョンウォンは、常に笑みを絶やさない。ホ・ジノは、ハン・ソッキュと相談。ジョンウォンは死を目前にして、暗くて悲しい気分に違いないが、明るいときもあるだろうという話になった。 介護経験のある者へのインタビューからも、「死期の近い者は、ものの見方が明るくなる」という話を得ていた。ジョンウォンは、いつも笑顔を浮かべながら、その笑みの中には、大きな哀しみも抱えているキャラクターとなった。 一時、「韓国映画界のあらゆるシナリオはハン・ソッキュを通過する」と言われていた大スターは、エンディングに流れる主題歌まで担当した。そんな本作はソッキュにとって、キャリアの上での代表作の1本となった。 本作が本格的な主演デビューだったシム・ウナは、最初にホ・ジノに会った時、「監督の指示通りに演じます。自発的なことは求めないでください」と言ってきた。ところが実際は件の演出方法のため、撮影初日から困惑して大泣き。「ソウルに帰る」と騒いだという。またしばらくの間は、「この監督とは相性が悪い」と、周囲に愚痴っていた。 しかし途中から、自分の役割を見付けた彼女は、アドリブを入れるようになり、演技が良くなっていった。そのため脚本では役割が小さかったタリムの役どころは、どんどん大きくなっていく。本作が最終的に、ジョンウォンとタリムの“ラブ・ストーリー”の色が強い作品になったのは、シム・ウナの演技が素晴らしかったからと言える。『八月のクリスマス』というタイトルの意味は、まずは本作が八月からクリスマスまでの物語であるということ。ホ・ジノは本作で、生活の中での哀しみと笑いがぶつかり合って生まれる情緒を狙ったというが、それが、「夏の八月とクリスマスとが遭遇した感じ」だと語っている。 さて冒頭で紹介した通り、日本でも多くのファンの心を摑んだ、『八月のクリスマス』。本国韓国では大ヒットと共に、映画界に劇的な局面を作った作品の1本に数えられた。 1999年4月に開催された、「大鐘賞」。韓国のアカデミー賞と言われるセレモニーだが、その時“監督賞”にノミネートされたのが、『スプリング・イン・ホームタウン』(98)のイ・グァンモ、『シュリ』(99)のカン・ジェギュ、『美術館の隣の動物園』(98)のイ・ジョンヒャン、『カンウォンドの恋』(98)のホン・サンス、そしてホ・ジノの5人。その内ホ・ジノを含めた3人が監督デビュー作で、残りの2人も監督第2作。そして5人全員が、1960年代生まれの30代だった。 長く続いた軍事独裁政権の時代を経て、80年代の韓国では民主化の流れが強くなった。映画関係でも、シナリオの事前検閲は撤廃され、許可制だった映画会社の設立も、自由にできるように。また外国映画の輸入自由化も進んだ。ビデオや衛星放送などが大きく広がったのも、この頃である。 60年代生まれは、この時代に多感な20代を送って、国内外の映像を浴びるように鑑賞した世代。様々な規制が強かった、それ以前の世代とは、明らかに違った感性の持ち主が、多く育っていたのである。 この世代は当時からしばらくの間、“386世代と言われた。即ち1990年代に30代で、80年代の民主化運動に関わった60年代生まれの者という意味。政治経済から文化まで、その後の韓国社会をリードしていく存在になる。 話を戻して、その時=1999年の「大鐘賞」では、本作『八月のクリスマス』は、“審査員特別賞”と“最優秀新人監督賞”に輝いた。因みにシム・ウナも、本作の次に出演した『美術館の隣の動物園』(98)で、“最優秀主演女優賞”を受賞している。 さて今回当コラム執筆に当たって、参考にした日本の文献では、本作の出現に対して、従来の韓国映画のイメージを覆したことなどが、高く評価されている。その一方で気になったのが、韓国映画に対しての、“上から目線”を感じること。まだまだ、「日本映画の方が上」と思われる時代であったのだろう。 20数年経って現況を考えると、この歳月はあっと言う間であると同時に、まさに「隔世の感」がある。■ 『八月のクリスマス』© SIDUS PICTURES
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COLUMN/コラム2022.09.30
イラク戦争を観客に体感させる!キャスリン・ビグロー渾身の一作『ハート・ロッカー』
2003年3月、時のアメリカ大統領ブッシュの、ほぼ言いがかりのような形で口火を切った、イラク攻撃。「イラクの自由作戦」の名の下、4月には首都バグダッドが制圧され、5月にはブッシュによる、「大規模戦闘終結宣言」が行われた。 しかし、事態が泥沼化したのは、この後だった。アメリカ側が開戦の根拠とした、イラクの大量破壊兵器は結局存在せず、更にはイラク国内の治安悪化が、深刻な問題となっていく。 侵攻した米軍に対して抵抗を続ける武装勢力は、当初小火器で闘いを挑んだ。しかし、圧倒的な戦力の差により歯が立たないと知るや、即席爆弾「IED=Improvised Explosive Device」による攻撃に、戦略を切り替えた。 ガスボンベ、地雷、迫撃砲、榴弾などの爆発物に、簡単な起爆装置を取り付けたもので、移動中の米軍車両や兵士を待ち伏せし、起爆させる。「IED」による米軍の被害は甚大で、ある時期など戦死者の6割近くが、この即席爆弾によるものだった。 そのため大きな役割を果すことになったのが、米陸軍の“爆発物処理班”である。「IED」が発見されると、昼夜を問わず呼び出されては、他の兵士たちが後方に退く中、危険極まりない爆弾の処理に挑む。 2004年に、そんな彼らの任務に同行取材を行ったのが、ジャーナリストで脚本家のマーク・ポール。イラク戦争の現実を暴いた、トミー・リー・ジョーンズ主演作『告発のとき』(2007)の原案者である。 結局は、2011年暮れまで続くことになる、イラク戦争。その初期に、要となる役割を担っていたにも拘わらず、知られざる存在だった“爆発物処理班”の仕事を、世に知らしめたい。そう考えたマーク・ポールが書いたのが、本作『ハート・ロッカー』(2008)の脚本である。因みにこのタイトルは、「行きたくない場所/棺桶」を意味する、兵隊用語である。 ポールとの交流から、メガフォンを取ることになったのが、女性監督のキャスリン・ビグロー。それまで『ハートブルー』(1991)『K-19』(02)などの、緊迫感溢れるアクション演出で知られたビグローは、ポールと共に、観客を“爆発物処理班”と同じ場所に誘うような、強烈な体験をさせることを目標に、本作の製作に取り掛かった。 ***** 2004年夏、イラク駐留米軍のブラボー中隊に属する、3人の“爆発物処理班”は、「IED」の処理作業に取り組んでいた。いつもと変わらぬ作業の筈が、ちょっとしたトラブルがきっかけで、大爆発に巻き込まれる。その際“処理班”の頼れるリーダーだった、トンプソン軍曹が命を落とす。 残されたサンボーン軍曹とエルドリッジ技術兵の前に、新たな班長として赴任したのは、ジェームズ二等軍曹。ルールを無視しながらも、見事に爆弾の処理をやってのけるジェームズに対し、サンボーンとエルドリッジは、戸惑いを覚えた。 今までに873個もの爆弾を処理したという、ジェームズ。その後も防護服を脱ぎ捨てて起爆装置を解除するなど、無謀で突発的な振舞いを続ける。 サンボーンは折に触れ、ジェームズのやり方に反発。また若いエルドリッジは、予期せぬ戦闘に巻き込まれて敵兵を射殺したり、彼を心配して任務に同行した軍医が、爆弾によって吹き飛ばされるのを目の当たりにしたことなどから、次第に精神の平衡を崩していく。 そんな中で、テロリストによって“人間爆弾”にされた死体を見付けたジェームズは、その亡骸を、親しくしていたイラク人の少年であると、認識。怒りを爆発させ、軽挙妄動に走ってしまう。 イラクでの任務が間もなく終わり、帰国まであと僅か。ブラボー中隊の3人の運命は? ***** ポールの脚本は、17回の改稿を経て、ビグローのOKが出た。そのテーマ面では、元戦争特派員のクリス・ヘッジスの著書「戦争の甘い誘惑」から大きな影響を受けている。本作冒頭に登場する「戦闘は人を強力で致命的な中毒に追いやる。戦争は麻薬だ」というフレーズは、「戦争の甘い誘惑」からの引用である。 これは“イラク戦争”の時の米兵が、かつての“ベトナム戦争”などと違って、徴兵された者は居ずに、自ら入隊を選んだ“志願兵”から構成されていることと、深く関わっている。ある者にとっては戦争、そして戦地に赴くことには、強烈な魅力があるというわけだ。 本作の主人公ジェームズ二等軍曹は、任務に対する強い使命感やイラクの民に対す贖罪意識の持ち主であるのと同時に、もはや平時には生きられない、圧倒的な“戦争中毒”であることが描かれる。彼は正に、本作のテーマを象徴するキャラクターと言えるだろう。 そんなジェームズと、彼とチームを組むサンボーン、エルドリッジのキャスティングに当たってビグローは、「比較的無名の俳優」を選ぶことにこだわった。主役にスターを起用してしまうと、「映画の終わりまで死なない」とわかってしまう。いつ誰にでも死が訪れる可能性がある戦争を描くのに、それは邪魔になるという判断からだった。 主役のジェームズに起用されたのは、ジェレミ-・レナー。今日では“MCU”のホークアイ役や『ミッション:インポシッブル』シリーズなどで知られるレナーも、当時はまだこれからの存在だった。 続けて、サンボーンにはアンソニー・マッキー、エルドリッジにブライアン・ジェラティが決まった。 本作の製作費は、ハリウッド製戦争映画としては、圧倒的に低予算と言える、1,100万㌦。ビグローが奔走して、かき集めたという。 題材的にメジャーの映画会社からの出資は望めず、また大口のスポンサーも得られなかった。ビグロー曰く、これは「最悪」でありつつ、「いい知らせ」でもあった。「…自由に創造することができて、枠にはまらない仕事」をすることが、可能になったからだ。 ロケ地に決まったのは、イラクと国境を接し、気候と地形も似ているヨルダン。実際の戦地から、車で数時間の所でも撮影した。 またヨルダンには、戦火を逃れて逃げてきたイラク人が100万人も居て、その中にはプロの俳優も数多かったことから、様々な役を演じてもらった。米軍の捕虜役に起用した俳優から、実際に米軍の捕虜になった経験があると聞いた時には、さすがのビグローも、「…本物に近づくためとはいえ、もしかしたらちょっとやりすぎたかもしれない」と思ったという。 レナーたち俳優は、アメリカ国内の軍の訓練所でトレーニングを受けた後に、ヨルダン入り。ビグローは、軍内の親密な仲間意識を生み出すために、彼らを全員、地面の上に立てた簡素な共同テントに住まわせた。 そして撮影は、気温55度を超える猛暑の中で行われた。サンボーン役のアンソニー・マッキーは、「頭の中で脳が煮えていると感じるほど」だったと、その暑さを語っている。 一方レナーは、「俳優としての仕事は楽になった」と言う。ロケ地の過酷な環境の中で、本当の汗、本当の痛みの涙を得ることができたからである。 そんな彼らの演技をカメラに収めたのは、イギリスの社会派ケン・ローチ監督作品の撮影で知られる、バリー・アクロイド。ちょうどその頃は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロでハイジャックされた航空機の運命を描いた『ユナイテッド'93』(06)に於ける、彼の臨場感あふれる撮影が評判となっていた。本作では4台の手持ちカメラを、同時に回したという。 週6日体制で44日間というハードスケジュールで、撮影は終了。ポスト・プロダクションで大活躍だったのが、音響デザイナーのポール・N・オットソンである。 ロケ地で録音した何千もの素材を、幾十にも重ねる作業を行った。その際に合成音は使わず、現実音だけで全体をまとめることにこだわった。それこそが、現地のリアルを伝え、観客が実際の戦地に居るような感覚にさせるという狙いだったが、オットソンは、見事に成功させたのである。 こうしてビグローが「とことんリアリズムを追及した」本作は、完成。2009年6月という、賞を狙うにはほど遠い時期に公開されながらも、その後ジワジワと評価を高め、その年の賞レースのTOPランナーとなった。 そして「第63回アカデミー賞」で本作は、ビグローの元夫であるジェームズ・キャメロン監督の『アバター』(09)などを下して、作品賞など6部門を制覇。ビグローはアカデミー賞史上初めて、“監督賞”を手にした女性となった。 栄光の一方で、本作に対しては、批判もあった。米軍の兵士たちの心情は細かく描かれているが、一方で、その米軍に侵攻されたイラクの人々の描き方は「おざなりである」「結局は“テロリスト”扱いだ」等々。 しかしながら、デタラメな情報を元に侵攻を主導したブッシュ政権下では、「報道が極めて少なかった」という“イラク戦争“の、ある側面を描き出すだけでも、2008年に映画化される意義は、強くあった。また今日観ても、爆弾処理のシーンに漂う、ただならぬ緊張感など、特筆すべき作品である。■ ◆撮影中のキャスリン・ビグロー監督(左) 『ハート・ロッカー』© 2008 HURT LOCKER, LLC ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2022.09.08
原作者と主演俳優の人生を大きく変えた、「反戦映画」の名作。『西部戦線異状なし』
本作『西部戦線異状なし』(1930)の原作者、エリッヒ・マリア・レマルクは、1898年に、ドイツの都市オスナブリュックに生まれた。 1916年、18歳の時に学徒志願兵として、軍に入隊。時は第一次世界大戦下。激戦地である、ベルギー・フランドル地方の西部戦線へと送られる。 1914年に勃発した第一次大戦は、日露戦争と並んで、20世紀に特有の“新たな戦争”だったと言われる。毒ガス、機関銃、戦車、飛行機、潜水艦等々、新兵器が続々と登場し、それまでとは比べものにならない、大量殺戮と大量破壊を伴う総力戦が行われるようになったのである。 レマルクは工兵として、塹壕掘りや有刺鉄線を敷く任務を与えられたが、戦場に入って2ヶ月ほどで、砲弾の破片を受けて負傷。病院送りとなった。 幸い、怪我は深刻なものではなかった。レマルクは病室で負傷兵同士、この“新たな戦争”に於ける、お互いの戦場での体験談を話し合った。この時耳にした話が、後に彼の創作の糧となる。 1918年、20歳になった彼は退院。軍に復帰するが、間もなく大戦は終結。ドイツは、悲惨な敗北を喫した。 終戦後レマルクは、小学校の代用教員やジャーナリストなどの職に就きながら、小説を執筆。1929年、30代に突入していた彼が発表した渾身の作が、自分や戦友達の経験をベースにした、「西部戦線異状なし」だった。 当時レマルクの友人の1人だったのが、後にアメリカに亡命し、ハリウッドで名匠の名を恣にする、ビリー・ワイルダー。彼はレマルクが、10年前に終結した第一次世界大戦についての小説を執筆していると聞くと、「何てこった、いまさら?!…前の世界大戦なんぞに誰が興味ある?」と、忠告したという。 他の者たちからも、同様の指摘をされたレマルクだったが、蓋を開けてみれば、そんなことはなかった。小説「西部戦線異状なし」は、ドイツ国内で空前のベストセラーになったのである。 反響を呼んだのは、本国だけではなかった。イギリス、フランス、ソ連、イタリア、アメリカなどで、次々と翻訳出版された。日本でもその年の内に、発売されている。後々まで含めるとこの小説は、少なくとも45言語以上に翻訳され、総計部数は2,000万部以上と言われている。 映画化の企画も、すぐに動き始めた。レマルクから権利を買ったのは、ドイツにとっては第一次大戦では敵陣営だった国家、アメリカのユニバーサル・ピクチャーズ。監督には、ルイス・マイルストンが決まった。 マイルストンはロシア生まれで、ベルギーのヘント大学に留学。母国が第一次大戦に参戦したため、徴兵逃れでアメリカに帰化した。 結局アメリカも参戦したため、兵役に就くのだが、陸軍の写真部門などに配属されたため、前線に送られることはなかった。この時に新兵のための教育映画に携わり、その経験から、除隊後はハリウッド入りとなった。「アカデミー賞」の記念すべき「第1回」、『美人国二人行脚』(1927)で、マイルストンは“喜劇監督賞”を受賞。続く作品として、警察と行政の腐敗を描いた『暴力団』(28)を手掛け、リアルなギャングの描写が注目された。 「西部戦線異状なし」の映画化に当たっては、プロデューサーはレマルクに脚本の執筆を依頼するも、小説に集中したいからという理由で、断わられる。そのため脚本家4人掛かりで、脚色を進めることになった。 主人公のポールは、作者の分身ということもあって、一時期レマルク本人に演じさせることも、検討された。しかし彼は、これも断り、当時ほぼ新人だった、21歳のリュー・エアーズが抜擢されることになった。 ドイツ軍の兵営を、ユニバーサルの屋外セットで再現するなど、撮影はアメリカ国内で行われた。戦場シーンは16万平方㍍の農場を使って、ドイツ軍やカナダ軍の元兵士たちの助言を受けながら、撮影されたという。 ****** 第一次大戦のさなか、街の教室では老教師が、若者たちに愛国心を説く。煽られたポールとその仲間は、次々と入隊を志願した。 彼らの訓練係は、街で郵便配達を行っていた男。人の良い郵便屋の面影はなく、執拗に冷酷な振舞で過酷な教練を行い、若者たちの出征前の熱狂は打ち砕かれていく。 西部戦線に送られた彼らを迎えたのは、古参兵たち。その中のカチンスキーという男が、人間的な温かみと共に、戦場で生き延びる術を、色々と教えてくれた。 初めての戦闘で、ポールたちはいきなり、仲間の1人を失う。その後日々の激戦の中で、1人また1人と、戦死者が続く。 ある日の戦闘。塹壕に実を潜めていたポールに、フランス軍の兵士が襲いかかる。彼を銃剣で突き刺したポール。瀕死の状態ながら、なかなか息絶えない兵士と一晩を過ごし、頭がおかしくなりかける。 やがて、ポールも負傷。傷病兵が次々と死んでいく病院で、何とか回復すると、休暇を貰って、故郷に一時帰休となった。 姉と病床の母の歓迎には、心が和らぐ。しかし、戦場の実態を知らずに勝手な戦争論をブチ上げる、父や街の有力者たちには辟易。更には相変わらず、教え子を戦場に送ろうとする老教師に憤りを覚える。居たたまれなくなったポールは、休暇を早めに切り上げる。 戦地に戻ったポールは、今や父のように慕うカチンスキーと再会。喜びを覚えたのも束の間、爆撃により、不死身に思えた古参兵は、あっけなく命を落とす。 もはや寄る辺もないポールは、戦場での日々を、ただただ重ねていくが…。 ****** 戦闘場面を撮るのには、長いクレーンの先端にカメラを複数台載せた。俯瞰し、時には地を這うようなカメラワークは、当時としては、至極斬新なチャレンジだった。 ハリウッドは、ちょうどサイレントからトーキーへの移行期。当初サイレント映画として企画された本作だったが、時勢に合わせて、トーキーでの製作に切り替えられた。 マイルストン監督は、砲弾の炸裂音や機関銃の連射音、兵士たちの叫び声などを盛り込んだ。これが革新的な移動撮影との相乗効果で、観る者に、戦争の悲惨さをリアルに伝えることに成功したのである。 マイルストン監督が、最も腐心したというのが、ラストシーン。主人公のポールが、遂に落命するのだが、原作では次のように記されている。 ~…前に打伏して倒れて、まるで寝ているように地上にころがっていた。躰を引っくり返してみると、長く苦しんだ形跡はないように見えた…あだかもこういう最後を遂げることを、むしろ満足に感じているような覚悟の見えた、沈着な顔をしていた。~ このままでは、映像化しようがない。あまりにも有名なラストシーンではあるが、ポールの戦死の様をいかにマイルストンが演出したかは、実際に目撃していただきたい。 実はポールが休暇で帰郷した際に、実家の自室に入るシーンで、ラストへの伏線が張られていたのを、今回の執筆用の再鑑賞で、初めて認識した。いかに細心の注意を以て、綿密に組み立てられたラストであったことか! こうして映画史に残る「反戦映画」となった本作は、大ヒットを記録。「アカデミー賞」でも、作品賞と監督賞を受賞した。 一方で、本作が製作された1930年という時代から、アメリカ以外での公開に当たっては、その国の事情によって、シーンが大幅にカットされる憂き目に遭った。例えば日本では、「全面反戦思想」と捉えられる部分が、大幅に削られ、また、ポールたちがフランス女性と一夜を共にするシーンが、「風俗上の見地」から除かれた。 最も物議を醸したのは、レマルクの本国ドイツであった。原作小説出版時も議論の対象となった、「政治性」が再び大きくクローズアップされたのである。 時のドイツは、折しもヒトラー率いるナチ党が支持を伸ばして、選挙での躍進が顕著になっていた頃。彼らは本作のプレミア上映を襲い、「ユダヤ人の映画だ」「ユダヤ人ども出て行け」などと叫びながら混乱を引き起こし、上映を中止に追いやった。これがきっかけとなって本作は、「…ドイツ国防軍の声望を貶め、外国における全ドイツ人の声望をも傷つけるものがそこに存する」という理由で、国内での上映が禁止となってしまう。 ベストセラー作家として、富と名誉を得たレマルクだったが、ナチが台頭する中で、そうした勢力からは、「ユダヤ人である」などのデマを飛ばされるなど、確実に攻撃の対象となっていく。特に1933年、ヒトラー政権が成立して以降は。「西部戦線異状なし」は、「厭戦気分をあおる売国的書物」として、焚書の対象となり、レマルクはやがて、国籍を剥奪されるまでに至る。スイスなどに逃れていた彼だが、1939年、ドイツによって第2次世界大戦の口火が切られたのと前後して、アメリカへの亡命を、余儀なくされた。 レマルクは、「西部戦線異状なし」を著したことによって、激動の生涯を送ることになった。一方で、その映画化作品である本作に関わったことで、人生が大きく変わったのが、主演のリュー・エアーズだった。 本作出演で、根強い「反戦思想」の持ち主となったエアーズは、1930年代半ば頃からは、聖書に没頭し始め、ベジタリアンとなった。そして第二次大戦が起こった際には、兵役を拒否している。 こうした彼の姿勢には、非難の声が殺到。映画会社は彼を締出し、各劇場は彼の出演作の上映を、拒否するようになった。 エアーズは改めて、良心的兵役拒否宣言を行うと、看護兵として南太平洋の戦線に赴いた。そして3年半の間、粛々と兵士の手当を続けたのである。報酬はすべて寄付したというエアーズが、捕虜の日本兵に手当を行う写真が、当時の有名誌に掲載されている。 こうした自分の活動について、エアーズはこんな風に表現している。「破滅的な状況で、建設的な仕事をするんだ」 彼は戦地から戻った後、ハリウッドに復帰するが、1996年88歳で亡くなるまで、戦争映画への出演を、拒否し続けたという。■
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COLUMN/コラム2022.09.02
歴史的事実をベースに、まさに“韓国の至宝”のための脚色!?『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』
1979年10月26日。韓国で朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が、側近によって暗殺された。 最近ではイ・ビョンホン主演の『KCIA 南山の部長たち』(2020)でも描かれたこの事件で、16年間に及ぶ“軍事独裁政権”は終焉を迎え、それまで弾圧されていた、“民主派”の人々が表舞台へと現れた。いわゆる、「ソウルの春」である。 しかし、それから2ヶ月も経たない12月12日、暗殺事件の戒厳司令部合同捜査本部長だった軍人の全斗煥(チョン・ドファン)が、“粛軍クーデター”を起こして、全権を掌握。翌年=80年5月17日には全国に戒厳令を発布し、野党指導者の金泳三(キム・ヨンサム)氏や金大中(キム・デジュン)氏らを軟禁し逮捕した。 強権的な“軍事独裁”の再来に対して、学生や市民は抵抗。金大中氏の地元全羅南道の光州(クァンジュ)市でも、学生デモなどが行われたが、戒厳軍は無差別に激しい暴力で応じ、21日には実弾射撃に踏み切った。そして27日、光州市は完全に制圧された。 一連の過程の中で、市民や学生の中には、死傷者が続出。これが世に言う、“光州事件”のあらましである。 本作『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』(2017)は、ノンポリの傍観者だった小市民が、偶然の出来事から、韓国近現代史の重要な節目となったこの事件に、対峙せざるを得なくなる物語である。 ***** キム・マンソブは、11歳になる娘を男手一つで育てている、ソウルの個人タクシー運転手。出稼ぎ先のサウジアラビアで重労働に従事したこともある彼は、業務中にデモ行進による渋滞などに巻き込まれると、「デモをするために大学に入ったのか?」「この国で暮らすありがたみがわかってない」などと、舌打ちするような男だった。 家賃や車の修理代にも事欠くマンソプは、ある日タクシードライバーの溜まり場である飲食店で、これから外国人客を乗せ、光州と往復すれば、10万ウォンもの報酬が得られるという話を耳にする。マンソプは依頼を受けた運転手になりすまし、クライアントのドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーターを車に乗せる。 サウジで覚えた片言以下の英語でヒンツペーターとやり取りしながら、光州に向かったマンソプ。厳しい検問を訝しく思いながら、口八丁手八丁で何とか掻い潜り、市内へと入っていく。 ヒンツペーターの目的が、光州での軍部の横暴をフィルムに収めることと知ったマンソプは、巻き込まれるのは御免と、何度もソウルに戻ろうとする。しかし光州の学生や市井の人々と親しくなると同時に、共に行動するヒンツペーターの、ジャーナリストとしての矜持に触れ、彼の中の“何か”も変わっていく…。 ***** ドイツ人俳優トーマス・クレッチマンが演じたユルゲン・ヒンツペーターは、実在のジャーナリストで、1980年の5月20日から21日に掛けて。光州市内の取材を敢行。軍事独裁政権による強力な報道規制が敷かれる中で彼がカメラで捉えた“真実”は、22日に母国ドイツの放送局で放送され、翌日以降は各国で、ニュースとして報じられた。 彼がその後制作した、“光州事件”を扱ったドキュメンタリーは、全斗煥政権が続く韓国にも、密かに持ち込まれた。そして公的には「北朝鮮による扇動」「金大中が仕掛けた内乱」などと喧伝された事件の真相を、少なくない人々に知らしめる役割を果したのである。 韓国で1,200万人もの観客を動員する大ヒットとなった本作『タクシー運転手』は、長く厳しい闘いを経て、“民主化”を遂げた現在の韓国社会に、“光州事件”の記憶を呼び起こした。そして映画公開の前年=2016年1月に78歳で亡くなったヒンツペーターと、彼の協力者だった“タクシー運転手”の存在に、スポットライトを浴びせたのだ。 本作を“エンタメ”として成立させるために、チャン・フン監督ら作り手が、些か…というか、事実よりもかなり「盛った」描写や設定の改変を行っているのは、紛れもない“真実”である。誤解のないよう付記しておくが、私はそれを批判したいのではない。歴史的事実を活かし、時には知られざるエピソードを詳らかにしながら、血塗られた近現代史を堂々たる“社会派エンタメ”に仕立て上げる、韓国映画の逞しさや強かさには、心底驚嘆している。 詳細は観てのお楽しみとするが、本作クライマックス、光州脱出行のカーチェイスは、どう考えても「ありえない」。事実をベースにした“社会派エンタメ”の最新作、リュ・スンワン監督の『モガディシュ 脱出までの14日間』(2021)でも同様な描写が見られたが、ここまで踏み切ってしまう、その果断さが、逆に「スゴい」とも言える。 そんな本作で最も劇的な脚色が行われているのは、実は主人公である“タクシー運転手”の設定である。ソン・ガンホが演じるマンソプのモデルとなったのは、キム・サボクという人物。ヒンツペーターが2003年に韓国のジャーナリスト協会から表彰された際などに、“運転手”の行方探しを呼び掛けながらも、見付からず、生涯再会が果たせなかったのは、紛れもない事実である。 しかし本作に於ける、“タクシー運転手”が、偶然耳にした情報から客を横取りして、その目的も知らないままに光州へ向かったという描写は、映画による完全な創作。本作の大ヒットによって、サボク氏の息子が名乗り出て明らかになったのは、サボクとヒンツペーターは、“光州事件”取材の5年前=1975年頃から知り合いで、“同志的関係”にあったという事実だった。 またサボクは、マンソプのようなノンポリの俗物ではなく、“民主化”の波に参加するような人物であったという。そして、ヒンツペーターの呼び掛けにも拘わらず、サボク本人が見付からなかった背景には、“光州事件”そのものがあった。 現場を目の当たりにしたサボクは、「同じ民族どうしが、どうしてこうも残忍になれるのか」と言いながら、1度はやめていた酒を、がぶ飲みするようになったという。そして“事件”取材の4年後=84年に、肝臓癌で亡くなっている。 サボク氏の息子は本作を観て、「喜びと無念が交錯した」という。自分の父が“民主化”に無言で寄与したことが知られたのは嬉しかったが、前記の通り、マンソプのキャラが、父とはあまりにもかけ離れていたからだ。 息子さんの「無念」は理解しつつも、この“脚色”を、私は積極的に支援したい。それは、ソン・ガンホの主演作だからである。 “韓国の至宝”であり“韓国の顔”とも謳われるソン・ガンホ。出演する作品のほとんどが、代表作と言えるような俳優であるが、歴史的史実をベースにした作品も、彼の得意とするところだ。 時代劇では、『王の運命 -歴史を変えた八日間-』(15)『王の願い ハングルの始まり』(19)のように、朝鮮王朝に実在した君主を演じる“王様”俳優でもあるが、近現代を舞台にした作品こそ、印象深い。『大統領の理髪師』(04)『弁護人』(13)『密偵』(16)そして本作である。『大統領の理髪師』は1960年代から70年代を舞台に、ひょんなことから“独裁者”の大統領(朴正煕をモデルとする)の理髪師となってしまった、平凡な男が主人公。否応無しに、政府の権力争いに巻き込まれていく。『弁護人』では、後に“進歩派”の大統領となる、盧武鉉(ノ・ムヒョン)の弁護士時代をモデルにした役を演じた。政治には興味がない金儲け弁護士が、時の全斗煥政権による学生や市民への弾圧に憤りを覚え、“人権派”に変貌を遂げていく。『密偵』は、日帝の植民地時代が舞台。日本人の配下にある警察官が、スパイとして独立運動の過激派組織に近づきながら、やがて彼らの考え方に共鳴していく。こちらは、実在した組織「義烈団」が、1923年に起こした事件をモデルとしている。 ここに本作を並べてみれば、どこにでも居るような男が、歴史の大きなうねりに翻弄されて、変貌を遂げていくといった流れが浮かび上がる。時代劇の中でも、朝鮮王朝時代のクーデター事件をモチーフにした『観相師 -かんそうし-』(13)で演じた役どころなどは、この系譜と言えるだろう。 本作に関してチャン・フン監督は、シナリオを読んだ瞬間に、ガンホの顔が思い浮かんだという。そしてオファーを受けたガンホは、一旦は断わったものの、時間が経過してもその内容が頭から離れず、結局は引き受けることになった。それはこの役を演じるのに、他の誰よりも自分が適役であることを、感じ取っていたからではないのか? さて今生で再び相見えることは叶わなかった、本作登場人物のモデルである、ドイツ人ジャーナリストと、韓国人“タクシー運転手”。本作大ヒットの翌々年=2019年に、約40年振りの再会を果すこととなった。 その舞台は、光州事件の犠牲者を追悼、記憶するために設立された「国立5.18民主墓地」。その中に設けられた、ヒンツペーター氏の爪と髪が埋葬されている「ヒンツペーター記念庭園」に、サボク氏の遺骨が改葬されたのである。 これもまた、韓国のダイナミックな“社会派エンタメ”作品がもたらした、ひとつの果実と言えるだろう。■ 『タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜』© 2017 SHOWBOX AND THE LAMP. ALL RIGHTS RESERVED.