ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2020.09.28
トム・クルーズ30代の代表作!『ザ・エージェント』で発掘したものとは!?
1997年5月12日のこと。日本公開が迫った、『ザ・エージェント』の劇場試写会が、有楽町マリオンの、今はなき「日劇東宝」で開かれた。 当時の私は、映画業界との接点はほとんどなかったので、多分何かのプレゼントで当たったのだろう。妻と共に客席で上映を待っていると、「開映に先立ちまして、今日は素晴らしいゲストにご来場いただいています」とのアナウンスがあった。 事前には何も告知されてなかったので、今流で言えば「サプライズ・ゲスト」といったところか。場内が大きくどよめいた。多分観客のほとんどが、「まさかトム・クルーズが!」と思ったのだろう。しかし続くゲストの紹介アナウンスは、「『ザ・エージェント』で主役のジェリー・マクガイアを支えるドロシー・ボイドを演じた、レニー・ゼルウィガーさんです!」 紹介されて登場した女性は、遠い異国で数百人もの観客に迎えられて、上気しているようだった。しかし場内には、明らかに落胆の色が浮かんだ。 それはそうだ。当代ハリウッドの人気№1スターが現れるかと期待したのに、出てきたのは、当時の日本ではまったく無名の存在だった女優。後に日本語表記が、“レニー”から“レネー”に変わる彼女が、その後オスカーを2度も受賞する大スターに成長するなど、その時の会場に居た誰ひとりとして、想像もつかなかったであろう…。 日本ではその試写の5日後、97年5月17日の公開だった『ザ・エージェント』は、アメリカではその5カ月前、96年12月に封切り。大ヒットを記録すると共に、作品的にも高く評価され、その年度の賞レースに絡む作品となった。 アカデミー賞では、作品賞、主演男優賞など5部門で候補に。そして、「Show me the money!=金を見せろ!」という、アメリカ映画史に残る名セリフを吐いた、キューバ・グッディング・Jrが、助演男優賞を手にした。 因みにこの年のアカデミー賞は、12部門でノミネートされた、アンソニー・ミンゲラ監督の『イングリッシュ・ペイシェント』が、作品賞、監督賞など9部門を制している。しかしながら四半世紀近く経った今となっては、いまだに人々の思い出に残り、口の端に上る作品としては、『ザ・エージェント』に軍配が上がるだろう。 スポーツ業界最大手のエージェント会社「SMI」に勤め、数多くの有名アスリートを顧客に持つ、ジェリー・マクガイア(演:トム・クルーズ)。選手の所属チームとの交渉で、いかに大金や長期の契約を引き出すか、いかにビッグなCM出演をまとめるか、携帯電話を片手に全米を飛び回る、ハードな日々を送っていた。 しかしある日、担当するアイスホッケー選手が大怪我をして、再起不能となってしまう。その選手の幼い息子から罵声を浴びせられたジェリーは、利益を最優先する会社のやり方に疑問を抱き、初心を取り戻す。そして一夜にして、理想に溢れる提言書を書き上げる。 ~人々に夢を与える選手たちの支えとなるべき、この仕事の本当の在り方とは、より少数のクライアントに、金ではなく、心を配ることである~ 提言書は、職場の仲間たちから、賞賛を以て迎えられたかに見えた。しかしその1週間後、ジェリーは会社から突然解雇される。それは企業の方針に盾突いた、報いだった。 ジェリーを頼っていた筈の顧客のアスリートたちとの契約も、彼にクビを言い渡した同僚に、ごっそりと攫われてしまう。たった1人残ったのは、落ち目のアメフト選手ロッド(演:キューバ・グッディング・Jr)。そして「SMI」の社員でジェリーについていったのは、提言書に感銘を受けた、シングルマザーのドロシー(演:レネー・ゼルウィガー)だけだった。 職を失ったジェリーは婚約者にも去られ、失意のどん底に落ちる。しかしドロシーに支えられて新たな会社を興し、周囲の予想を裏切る活躍を見せるロッドと友情を育てていく中で、本当に大切なことは何かを、知っていくことになる…。 簡単にまとめれば、理想を掲げた者が一敗地に塗れながらも、愛や友情を支えに再び立ち上がり、勝利に向かう物語である。ハリウッド映画としてかなりクラシカルな展開だが、“スポーツ・エージェント”という、それまで大々的には取り上げられていなかった世界を舞台にしたことが新味となって、本作を成功に導いた。 折しも日本では、95年に近鉄バファローズの野茂英雄投手が、アメリカのメジャーリーグ挑戦に当たって、“エージェント”が介在したことが大きな注目を集めた。そしてその存在が、一般化し始めた頃の公開であった。 『ザ・エージェント』の監督・脚本を担当したのは、キャメロン・クロウ。「リサーチの鬼」と言われる彼は、数多くのスポーツ・エージェントやアスリートたちに取材を敢行。多くのフットボールの試合を観戦し、チームと一緒に旅もした。 金儲けだけを追求しているかのように見える、スポーツ・エージェントの世界で、「誠実であるとはどういうことなのか?」「選手が炭酸飲料みたいに売り買いされる世界で、本当のヒーローとは何なのだろう?」などと考えながら、3年もの歳月を掛けて、脚本を完成させた。本作の中でジェリーがエージェントの初心に戻って記す、27頁にも渡る提言書は、その内容が映画のプログラムなどにも採録されているが、キャメロン・クロウが実際に、一晩掛けて書き上げたものだという。 この脚本を読んだトム・クルーズは、すぐに主役のジェリーに同化。自ら進んで本読みを志願するなど、「…これこそ本当にやりたい役…」と、出演を熱望したという。そしてクロウが吃驚するほどの情熱を持って、本作に臨んだ。 その成果として本作は、1962年生まれのトムにとっては、30代のピークと言うべき作品となった。アカデミー賞主演男優賞のオスカー像こそ、オーストラリア映画『シャイン』のジェフリー・ラッシュに譲り、ノミネート止まりだったが、現在に至るキャリアの中でも『ザ・エージェント』は、代表作の1本に挙げられるだろう。 以前本コラムで『レインマン』(88)を取り上げた時にも触れたことだが、トムは、『タップス』(81)『アウトサイダー』(83)など、青春映画の脇役で注目された後に、初めて主演した『卒業白書』(83)が大ヒット。更には世界的なメガヒットとなった『トップガン』(86)で、当時の20代若手スターのトップに躍り出た。 その後『ハスラー2』(86)でポール・ニューマン、『レインマン』でダスティン・ホフマンという、“ハリウッド・レジェンド”たちと共演。尊敬する彼らと固い絆を結び、演技者としての薫陶を受けた。この両作は、ニューマンとホフマンにオスカーをもたらしたが、共演したトムの演技が、そのアシストになったことも見逃せない。 続いて出演した、オリバー・ストーン監督の反戦映画『7月4日に生まれて』(89)では、ベトナム戦争の戦傷で車椅子生活を余儀なくされる、実在の帰還兵ロン・コーヴィックを熱演。この役で初めて、アカデミー賞主演男優賞の候補となる。 そして迎えた30代前半は、まさにトムの黄金期。『ア・フュー・グッドメン』(92)『ザ・ファーム 法律事務所』(93)『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(94)、初めてプロデューサーも兼ねた『ミッション:インポッシブル』(96)、そして『ザ・エージェント』と、史上初めて、主演作が5作続けて全米興行収入1億ドルを突破するという、快挙を成し遂げたのである。 本作はそんな、輝きがマックスの頃のトム・クルーズを観るだけでも、価値がある作品になっている。しかし、現時点で振り返る際に忘れてはいけないのは、レネー・ゼルウィガーを世に出した作品であるということだ。■ レネーは1969年4月25日生まれということだから、「日劇東宝」で挨拶に立った時は、まだ28歳だったか。彼女が女優を志したのは、テキサス大学在学中に、選択科目で「演劇」を受講したのがきっかけだったという。 まずは地元で活動し、CMやインディペンデント映画に出演。ロスアンゼルスに移り、メジャー作品で初めて大役を得たのが、本作だった。彼女は尊敬するトムとスクリーン・テストを受けた際は、「これって現実?私、本当にここにいるの?」と自問せずにいられなかったという。 一方でトムはその時のことを、「彼女が出ていった後、キャメロンとブルックス(プロデューサーを務めた、ジェームズ・L・ブルックスのこと)と僕は思わずお互い目を合わせて、ドロシーが見つかったな、と確信したんだ」と語っている。彼女の「善良さと飾り気のなさ」が、ドロシー役にぴったりと、見初めたのである。 グウィネス・パルトロウやミラ・ソルヴィーノなど、その当時活躍中の若手女優たちも、ドロシー役の候補に挙がっていたという。そんな中で、当時ほとんど無名だったレネーが、大抜擢となった。 その後レネーは、『ブリジット・ジョーンズの日記』シリーズ(2001~2016)などで人気が爆発。『コールド マウンテン』(03)でアカデミー賞助演女優賞を、『ジュディ 虹の彼方に』(19)で主演女優賞を受賞したのは、ご存知の通り。 レネーは『ジュディ…』で「SAG=映画俳優組合」の主演女優賞を受賞した際、スピーチでトムに謝辞を述べている。 「トム・クルーズ、あなたが撮影現場でのプロ意識と最高を目指す姿勢のお手本になってくれたこと、親切と無条件の優しさに感謝します」 トムのプロデューサーとしての慧眼、ここに極まれりである。 その一方で俳優としてのトムが、アカデミー賞主演男優賞の候補になったのは、実は本作『ザ・エージェント』が最後。助演男優賞の候補になった『マグノリア』(99)からも、もう20年以上の時が経ってしまっている。 近年は『ミッション:インポッシブル』シリーズを軸に、すっかり“アクション俳優”のイメージが強くなってしまっているトム・クルーズ。それももちろん悪くはないのだが、いま60代に手が届かんとする彼が、自分が発掘したレネーと四半世紀ぶりに再共演を果たして、オスカー戦線を騒がすような主演作も、また観たい気がする。■ 『ザ・エージェント』© 1996 TriStar Pictures, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.10.05
スピルバーグ念願の“劇場用映画”第1作!『続・激突!/カージャック』
スティーヴン・スピルバーグが監督した、伝説的なTVムービー『激突!』は、1971年11月にアメリカで放送。高視聴率と高評価を勝ち取った。 気を良くした製作会社のユニヴァーサルは、海外では『激突!』を、“劇場用映画”として展開することを決定。フランスで開かれた「第1回アボリアッツ国際ファンタスティック映画祭」ではグランプリを受賞するなど、大評判となった。 1946年12月生まれ。20代中盤だったこの時期のスピルバーグにとって、『激突!』のようなTVムービーの転用ではない、初めての“劇場用映画”を手掛けるという、念願の瞬間は刻一刻と近づいてきていた。しかし『激突!』が好評だったからといって、一気呵成に夢が実現したわけではない。 『激突!』の翌年=72年は、2本目のTVムービーとして、オカルトものの『恐怖の館』、73年にはシリーズ化を想定した90分のパイロットフィルム『サヴェージ』を演出している。 そうしている間にも、“劇場用映画”の準備を並行。脚本家ジョゼフ・ウォルシュと9カ月掛けて練ったギャンブルものの『スライド』は、実現のメドが立たず、やがてスピルバーグは、プロジェクトから離れた。この脚本は後にロバート・アルトマン監督の手で、『ジャックポット』(1974/日本未公開)という作品になる。 スピルバーグが脚本を書いた、クリフ・ロバートソン主演の『大空のエース/父の戦い子の戦い』(1973/日本未公開)。この作品では結局、“原案”としてクレジットされるに止まった。 当時人気急上昇だった、バート・レイノルズ主演の『白熱』(73)。スピルバーグは、ロケハン、キャスティング等々、製作準備に追われて3カ月ほど過ぎたところで、監督を降板した。 この件に関して彼は、「職人監督の道を歩みたくなかった。もう少し独自のものをやりたかったんだ」などと発言しているが、友人兼仕事仲間の一団を従えて撮影に関与してくるレイノルズとの仕事を、うまく裁く能力も興味もなかったからだとも言われる。結局『白熱』は、ジェゼフ・サージェントがメガフォンを取って、完成した。 そうした紆余曲折を経て、最終的に実現に向かったのが、本作『続・激突!/カージャック』だった。日本語タイトルは、『激突!』を受けて、その続編の体裁となっているが、内容は全くの無関係。1969年5月にテキサス州で実際に起こり、全米の耳目を集めた事件をベースに、スピルバーグが、友人のバル・バーウッド、マシュウ・ロビンスという2人の脚本家と共に、物語を編んだ。 テキサス州立刑務所に、ケチな窃盗事件の犯人として収監されていたクロービス(演:ウィリアム・アザ―トン)は、面会に来た妻のルー・ジーン(演:ゴールディ・ホーン)の手引きで脱獄する。刑期をあと4か月残すのみだったのに、敢えて危険を冒すハメになったのは、裁判所命令で取り上げられていた2人の幼い息子が、福祉協会を通じて養子に出されてしまうことがわかったからだった。 最初は脱獄に消極的だったクロービスだが、ルー・ジーンから「息子を取り戻さないと、離婚よ」と迫られ、渋々妻の計画に従うことに。他の囚人の面会に来ていた老夫婦を騙してその車に同乗し、我が子が引き取られた家庭がある、“シュガーランド”の町へと向かう。 その途中、スライド巡査(演:マイケル・サックス)のパトカーに呼び止められたことから、逃走を図った2人は、成り行きからパトカーを“カージャック”。人質にしたスライドを脅迫し、引き続きシュガーランドへと針路を取った。 やがてこの事実が明らかになり、タナー警部(演:ベン・ジョンソン)が指揮を執る、警察の追跡が始まった。狙撃による、犯人の射殺も検討されたが、夫婦が凶悪犯ではないことを知った警部は、躊躇する。 やがてマスコミの報道から、事件を知った野次馬も大挙して押し掛け、夫婦を英雄扱いする者まで現れる。人質のスライド巡査も夫婦に、友情のような気持ちを抱くようになる。 はじめはただ我が子を取り戻したかっただけなのに、騒ぎが過熱していく。クロービスとルー・ジーン、彼ら2人に訪れる結末とは!? 無責任に2人を煽って騒動を大きくしていく、マスコミや野次馬への批判的視点も盛り込まれた本作だが、スピルバーグがこの物語で重視したのは、父親と母親が不都合を顧みず、我が子を遠路はるばる取り戻しに行くストーリーだったと言われる。少年期に経験した両親の不和と離婚を、フィルモグラフィーに反映し続けた、スピルバーグの原点と言える。 そんな本作の企画ははじめ、スピルバーグと関係の深いユニヴァーサルに持ち込まれたものの、にべもなく断られて宙に浮く。他社への売り込みを図らなければならなくなったところで登場したのが、リチャード・D・ザナックとデヴィッド・ブラウンのコンビだった。 ザナック&ブラウンは、映画会社には属しない独立プロデューサーとしての活動を始め、ちょうどユニヴァーサルと提携したばかり。『ザ・シュガーランド・エクスプレス(本作の原題)』の脚本を読んで気に入ったものの、この企画が1度、自分たちの提携先に却下されていることを知って、知恵を絞った。 そして2人は、本作の企画を、他のプロジェクトの一群に紛れ込ませるという荒業を使って、通してしまったのである。但しメインキャストの3人の中に、名前が通った“スター”を入れるのが、絶対条件であった。 スピルバーグはまず主演男優に、『真夜中のカーボーイ』(69)や『脱出』(72)などのジョン・ヴォイトを据えようとした。しかし、そのために設けた会食の席でヴォイトは、新人監督の作品に出ることをリスキーと考えたらしく、本作への出演を断った。 ザナック&ブラウンは主演女優として、『サボテンの花』(69)でアカデミー賞助演女優賞を受賞しているゴールディ・ホーンを提案。一説にはユニヴァーサルが、「ゴールディ・ホーンが出なければ映画は作らない」と主張し続けたとも言われている。 ホーンは、本作が自分の新生面を引き出してくれることを期待して、オファーを快諾。『続・激突!/カージャック』の製作に、GOサインが出た。 「予算180万ドル」「準備期間3カ月」「撮影60日」。実際に起きた事件をベースにしていることから、事実にできるだけ即するため、ロケはすべてテキサスで行われることとなった。 クランクインは、1973年1月8日。ザナックはその撮影初日から、スピルバーグに唸らされたといいう。 「…ほんの青二才がそこでは周囲に海千山千のクルーを大勢従え、大物女優を引き受けている。それも何か簡単なシーンからスタートするのではなく、あの男ときたら複雑なタイミングを山ほど必要とする、やたらこみ入ったシーンから手をつけたよ。そして、それが信じられないほどうまく進行しているときた…あの男ときたら映画の知識を身につけて生まれてきたかのよう、自在にやってのけていたよ。あの日以来、私は彼に驚かされっ放しなんだ」 このザナックの現場での実感は、「ニューヨーカー」誌の著名な映画評論家ポーリン・ケイルが、本作公開後に記した批評にも通じる。 「技術的安定が観客にもたらす娯楽という点から見て、これは映画史においても最も驚異的なデビュー作である」 本作は撮影隊がテキサス州を移動するのに合わせ、州内各地の町で5,000人のエキストラが雇われ、車240台が使われた。撮影は完全な“順撮り”。台本通りの順番で行われた。これは本作で、主人公たちを追跡する警察や自警団、野次馬などの車が、徐々に多くなっていく展開だったためである。製作費の関係上、日数計算でレンタル料を払わなければならない車両を、撮影に使わない日まで借りている余裕がなかったのだ。 余談であるが、テキサスでのロケに当たっては、現地の警察がパトカーを出してくれるのを期待していたが、それはすげなく断られた。その少し前に同地で撮影された、サム・ペキンパー監督の『ゲッタウェイ』(72)のスタッフが、酒場で喧嘩騒ぎを起こしたり、警察が貸した車両から、警察無線が消えたりしたことが原因だった。ペキンパー組の煽りを喰って、本作ではパトカーを競売で25台、落札するハメとなった。 しかしながら、ロケは順調に進んだ。この処女作の撮影で、スピルバーグが得たものは、非常に大きかったと言える。 主演のゴールディ・ホーンについてはスピルバーグ曰く、「…最初の映画を撮るぼくにとって驚くべき女優だった。彼女は完全に協力的で、数えきれないほどの名案を出してくれた」ということである。 そして彼女の役どころは、その後のスピルバーグ映画によく登場する、「あまり身だしなみに気を使わない女性」の先駆けとなった。『未知との遭遇』(77)のメリンダ・ディロン、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81)のカレン・アレン、『E.T.』(82)のディー・ウォレス、『オールウェイズ』(89)のホリー・ハンター、『ジュラシック・パーク』(93)のローラ・ダーン等々のオリジナルが、本作にある。 因みにゴールディ・ホーンは本作の撮影について、「こんなに楽しいロケは初めてだというスタッフが何人もいたわ」と語っている。地元の女性と結婚したスタッフが、4人もいたのだという。 本作の撮影を担当したのは、ヴィルモス・ジグモンド。1956年に共産圏だったハンガリーから亡命し、“アメリカン・ニューシネマ”の時代になると、気鋭の若手監督の作品を多く手掛け、めきめきと頭角を現していた。彼はスピルバーグに、「視点を持つこと」の大切さを教えた。 スピルバーグが、あるシーンを車のガラス窓越しに撮影するようジグモンドに伝えると、「誰の視点なんだ?」との問いが返ってきた。そこでスピルバーグが、「僕の、監督の視点だ」と答えると、ジグモンドは、「そいつは賢い。だが効果はないね」。 カメラは監督の客観的な“神の目”から覗くのではなく、登場人物の視点から覗かなければならないということ、カットは映像的に素晴らしいだけでは不十分で、何かを意味しなければならないことを、ジグモンドは教授したわけである。 撮影中は意見が衝突することも少なくなかったというが、スピルバーグは後に、『未知との遭遇』(77)で再びジグモンドを起用。 『未知との…』の素晴らしいカメラには、アカデミー賞の撮影賞が贈られた。 スピルバーグにとって特に大きな収穫と言えたのは、音楽を担当したジョン・ウィリアムズとの出会い。本作を皮切りにもはや半世紀近く、「スピルバーグ作品と言えば、ジョン・ウィリアムズの音楽」である。 スピルバーグがジョージ・ルーカスに紹介したことが、ウィリアムズが『スター・ウォーズ』の音楽を手掛けることにも、繋がった。正にお互い、映画業界の第一人者の地位を、その協力関係によって築き上げたと言える。 スピルバーグには実りが多かった本作だが、1974年4月5日からのアメリカ公開は、興行的には不発であった。しかし先に挙げたポーリン・ケイルをはじめ、批評的には素晴らしい評価をされ、その年の5月開催の「カンヌ国際映画祭」では、脚本賞が贈られた。 スピルバーグを喜ばせたのは、尊敬するビリー・ワイルダー監督からの絶賛。「この作品の監督はこれから数年以内にすばらしい才能を発揮するようになるはずだ!」 本作のラッシュを見た段階でスピルバーグの才能を確信したザナックとブラウンは、監督第2作に取り組ませることにした。まず提案したのは、『マッカーサー』。敗戦後の日本の統治を行ったことなどで知られる、アメリカの英雄的な軍人の伝記映画である。 しかしスピルバーグは、「2年もの間10カ国で働き、それぞれの国で下痢をする」のは嫌だと断った。因みにこの作品は、『激突!』の出演を断ったグレゴリー・ペックの主演で映画化され、77年に公開している。『白熱』でスピルバーグの代役となったジョゼフ・サージェントが、またも監督を務めたのは、“運命の皮肉”と言うべきか。 『マッカーサー』を断り、では次回作を何にするかを考えている時、スピルバーグはデヴィッド・ブラウンのデスク上に、ザナック&ブラウンが出版前の段階で映画化権を押さえた、小説のゲラ刷りが積んであるのが目に入った。彼は何気なく、一番上にあるものを手に取り、ブラウンの秘書に許可を貰って、自宅に持ち帰って読むことにした。 そのゲラ刷りの表紙に記してあったのは、『JAWS=ジョーズ』というタイトルだった。■ 『続・激突!/カージャック』© 1974 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.10.28
“時”に囚われし男ビギニング『メメント』
左手が持つ、ポラロイド写真。そこには後頭部を撃たれて、倒れている者の姿が映っている。写真がせわしなく振られると、なぜか写っている者の姿が消えていく。 真っ白になった写真をポラロイドカメラの前面に差すと、本体へと吸い込まれながら、ストロボが光り、シャッターが切られる。カメラを持つのは、返り血を頬に浴びたらしい、細身で金髪の男(演;ガイ・ピアース)。 床には血が流れ、眼鏡が落ちている。そして写真の構図通りに、後頭部を撃たれて倒れている者が映る。 金髪の男の手元に、足元から吸い寄せられるように拳銃が収まり、転がっていた薬莢は拳銃本体へ。と同時に、倒れていた者の顔に眼鏡が戻り、銃声が鳴り響くと、弾が発射される前の瞬間に時間は逆行。眼鏡の男(演;ジョー・パントリアーノ)は振り返りながら、絶叫する…。 これが『メメント』の、2分ほどのファーストシーンである。これから本作が何を描こうとしているのかを、端的に表しているオープニングと言える。 金髪の男が、眼鏡の男の後頭部を撃って、殺害した。それは一体、なぜなのか?これから時間を逆行させながら、解き明かしていきます!クリストファー・ノーラン監督が、そのように宣言を行っているのである。 このオープニングに続いては、暫しモノクロのシーンとカラーのシーンが、交互に登場する。このモノクロのシーンの時制ははっきりとしないが、金髪の男=主人公のモノローグによって、彼のプロフィールが説明される。 彼の名は、レナード。元は保険調査員だったが、妻を目の前で強盗に殺された過去を持つ。その際に頭を強打され、“前向性健忘”=「新しい記憶が10分しかもたない」という、脳障害を持つ身となってしまった。そしてそれ以来、妻を殺した犯人への復讐を目的に生きている男であることが、わかる。 一方でカラーのシーンは、現在から過去へと遡っていくタイムラインとなっている。このカラーのパートが、レナードが「新しい記憶が10分しかもたない」ということを表現するのに、実に効果的な役割を果している。 カラーの各シーンは、大体3~5分程度の長さ。つまりそのシーンでの行動に関して、レナードはなぜそのように振舞うに至ったか、常に記憶が維持できずに、忘れてしまっている。 例えばこんなシーン。いきなり、レナードが走っている。でも何で全力疾走しているのか、自分でわからなくなっている。気付くと、離れて並走している男がいる。「この男を追っているのか?俺が追われているのか?」 そう思いながら、その男へと接近する。すると男はいきなり拳銃を取り出し、レナードに向けて発砲する。「俺の方が、追われていたんだ」 このシーンの場合、なぜその男に追われていたかということが、モノクロを挟んで、次のカラー、即ち時間的に逆行したシーンに進んで(=戻って)から、説明される。それまでは主人公が、どんな理由で誰に追われていたのか、観客にもわからない仕組みになっているのである。 映画の冒頭で、レナードはなぜ眼鏡の男=テディを殺害したのか?彼こそがレナードの妻殺しの犯人だったのか?この謎は、過去へと逆行する中で、徐々に明らかになっていく。そして最後に観客の前に、すべての真相が提示される。 そこには、それまで時制がはっきりしなかったモノクロのシーンも大きく絡んでくる。この辺り、正にアッと驚く仕掛けになっている。本作をこれから初見の方は、是非カラーとモノクロの使い分けにも、大いに注目いただきたい。 さて先に記したように、『メメント』は興行・評価両面で大成功!この後ノーランは、彼の才能を高く買ったスティーヴン・ソダーバーグらの協力で、アル・パチーノ主演、製作費4,600万㌦の『インソムニア』(02)を手掛け、その後には「ダークナイト・トリロジー」の第1作で製作費1億5,000万㌦の『バットマン・ビギンズ』(05)を監督した。製作費的には倍々ゲーム以上の勢いで、ブロックバスター監督への道を猛進していったのである。 その後の活躍はご存知の通りであるが、今に至るそのフィルモグラフィーのほとんどで、ノーランは「時間をどう操るか」にこだわり続けている。『インセプション』(10)『インターステラー』(14)『ダンケルク』(17)…。最新作『TENET テネット』(20)の“時間逆行”シーンを観て、『メメント』のファーストシーンを想起した方も少なくないだろう。 こうした趣向は、ノーランがこよなく愛する“探偵小説”“ハードボイルド小説”の影響が大きいと、指摘する向きがある。フラッシュバックや時間の移行に関して様々な仕掛けを使う、こうしたジャンルへのこだわり故に、ノーランは、“時系列”を自由に入れ替える「ノンリニア」な作風へと導かれたというわけだ。 出発点はそこにあるのだろうが、今のノーランは、「時間をどう操るか」にこだわるというよりは、もはや「囚われている」かのようにも映る。それが映画的な躍動に繋がっていかないという、批判の声も出てきてはいる。ノーマークの新人監督から、『メメント』の成功で一気にハリウッドの寵児へと駆け上がっていった歩みが起因する、固執なのかも知れない。 彼がかねてから監督することを熱望する、『007』シリーズを今後手掛ける夢がかなったとしても、やはりそこは変わらないのだろうか?■
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COLUMN/コラム2020.11.04
ロイ・シャイダーとジョン・バダムの瞬間最大風速『ブルーサンダー』
本作『ブルーサンダー』のアメリカ公開は、1983年3月13日、日本公開は10月1日。共に、大きな話題となった。 その理由の一つは、時勢に符合したアクチュアルな設定にある。舞台はオリンピック開催を翌年に控えた、公開時期と同じ83年のロサンゼルス。最新鋭の武装ヘリが、テロ防止の名目で導入されるというのが、物語の発端である。 本作のセリフにも登場するが、この頃はまだ、72年のミュンヘン五輪で発生した、パレスチナゲリラによるイスラエル選手団11名殺害の記憶が、新しいものだった。それに加えて80年代前半は、国際情勢がリアルに不穏になっていくのを、肌身で感じざるを得ない時代であった。 アメリカを主軸とする西側諸国と、ソ連を頭目とする東側諸国の関係は、70年代のデタント=緊張緩和の時代を終えて、80年代には“新冷戦”と言われる局面に突入していた。ロスの前の夏季五輪だった、80年のモスクワ大会は、開催国ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカや日本など西側陣営がボイコット。選手の派遣を取りやめた。 本作公開時にはまだ確定していなかったが、84年のロス五輪では、今度はソ連をはじめとする東側諸国が、モスクワの報復でボイコット。いわゆる“片肺大会”が、連続することとなったのである。 このような中で、警備にハイテク仕立ての“武装ヘリ”を導入するというのは、いかにも「ありそう」な話であった。そして本作の中で導入される武装ヘリ=“ブルーサンダー”が、リアリティーを伴うカッコ良さだったことが、本作への注目度を、否が応にも高めたのである。 最大時速320㌔で大都市を縦横無尽に飛び回り、有効射程1㌔で毎分4,000発発射可能のエレクトリック・キャノン砲を装備。コクピットから、高精度の暗視や盗聴が可能な上、秘密情報機関のデータバンクに接続したコンピュータ端末で、あらゆる情報を集められる。これらのシステムは、当時の軍用ヘリに導入されていた最新設備に、多少の“映画的誇張”を加えて構築したものだという。“ブルーサンダー”のインパクトがある外見も、大いに人気を呼んだ。フランス製のヘリを、本作のために改造。1,500万㌦=当時の日本円にして37億円もの巨額を投じて生み出されたその偉容は、公開時に「空のジョーズ」と表現する向きもあった。 そうしたデザイン性の高さは、論より証拠。実際に本作を鑑賞して、皆様の眼で確認していただきたい。 ヘリ同士のドッグファイトなど、本作のスカイアクションは、実物とミニチュアを使い分けて撮影を行っている。時はまだ、CGが普及していない頃。今から見ると合成カットの一部など、チャチく感じられる箇所が無きにしも非ず。しかし全体的には、高度な撮影と巧みな編集が見事な融合を果し、大スクリーンに相応しい迫力を生み出している。 こうした数多の要素によって、“A級”のアクション大作として成立した、『ブルーサンダー』。その“A級”度合いは、実は主演俳優と監督の組み合わせによって、揺るぎないものになっている。 さて、先にも記したが、シャイダーと同じく、やはりこの頃にキャリアがピークを迎えていたのが、監督のジョン・バダム(1939~ )である。本作プログラムで、映画評論家の垣井道弘氏は、次のように書いている。 ~ジョン・バダム監督は、いまという時代を先取りする感覚が、天下一品である。大ヒットした「サタデーナイト・フィーバー」はいうにおよばず「ドラキュラ」や「この生命誰のもの」でも、優れた才能をみせた。つまり、ナウいのである。~ ~スティーヴン・スピルバーグ、ジョーン・ルーカス(原文ママ)、ジョン・ランディスなどと共に、これから最も注目しておきたい監督の1人である。~ イェール大学時代に、演劇を専攻したバダムは、卒業後に映画監督への途を探っていた。そんな時、当時9歳の彼の妹メアリー・バダムが、子役として大抜擢を受ける。 グレゴリー・ペック主演の『アラバマ物語』(62)の出演者に、1,000人に上る候補者の中から、選ばれたのである。役どころは準主役とも言える、ペックの娘役。そしてメアリーは、アメリカ映画史に燦然と輝くこの作品で、アカデミー賞助演女優賞の候補にまでなった。 バダムは、妹の成功に便乗。ユニヴァーサルスタジオに、郵便係の職を得た。時に65年、バダムが25才の時であった。 その後彼は、スタジオのツアーガイドの職を経て、キャスティング係に。そのまま現場での修行を積んだ。 それから数年経って、TV部門の監督に抜擢されたバダムは、「サンフランシスコ捜査網」「ポリス・ストーリー」「燃えよ!カンフー」などの人気シリーズを手掛けた。監督作品としては、シリーズものは20本ほど、長編のTVムービーは、10本ほどに及んだという。 劇場用映画の初監督作は、76年の『THE Bingo Long Travelling All-Stars and Motor Kings』(日本未公開)。当初はスピルバーグ監督が予定されていたこの作品で、バダムは37歳にして、劇場用作品の監督デビューを果す。 そして翌77年、ジョン・トラボルタの初主演作として、今や伝説的な、『サタデー・ナイト・フィーバー』を送り出す。世界的なディスコブームを巻き起こした、エポックメーキングと言えるこの作品で、バダムは一躍、ヒット監督の仲間入りとなった。 その後『ドラキュラ』(79)『この生命誰のもの』(82)といった作品を経て、バダムが最高の輝きを放つ、“1983年”を迎える。この年の3月に本作『ブルーサンダー』、続いて6月に『ウォー・ゲーム』と、監督作2本が相次いで公開されたのだ。『ウォー・ゲーム』は、普及期のパソコン、というより、まだマイコンと言われていた頃の家庭用コンピューターで、他者のシステムへのハッキングを楽しんでいた高校生が、偶然にNORAD=北アメリカ航空宇宙防衛司令部の軍事コンピュータにアクセス。高度な戦争シミレーションゲームと思い込んでプレイをする内に、“第3次世界大戦”の危機が現実に迫ってくるというストーリーである。 最新鋭のハイテクを題材に、リアルな脅威を描く娯楽大作という共通点がある、『ブルーサンダー』と『ウォー・ゲーム』は、共に大ヒット。そしてバダムは、時代の最先端を行く寵児となった。『ブルーサンダー』が10月、『ウォー・ゲーム』が12月と、両作の公開順がアメリカと逆になった、日本でも同様。本作プログラムにある通り、バダムをスピルバーグやルーカスと並べて、ハリウッドのトップランナーの1人として扱う動きも急であった。 『ブルーサンダー』© 1983 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.12.03
4度映画化された「盗まれた街」。1978年版の装いは…『SF/ボディ・スナッチャー』
SF小説の古典として名高い、ジャック・フィニィ(1911~95)の「盗まれた街」。1955年に発表されて以来、洋の東西を問わず、多方面にインパクトを及ぼした。日本でも、手塚治虫の「ブラックジャック」にインスパイアされた一編があるなど、影響を受けたクリエイターは少なくない。 ハリウッドでの映画化は、4回に及ぶ。本作『SF/ボディ・スナッチャー』(1978)は、その2回目の作品である。 まずは原作小説のストーリーを、紹介しよう。主人公は、アメリカ西海岸沿いの田舎町サンタ・マイラで開業する、医師のマイルズ。ある時彼の診察室に、ハイスクール時代に何度かデートした美しい女性ベッキーが訪れる。 彼女の用件は、いとこのウィルマを診て欲しいということだった。ウィルマは、自分の育ての親である伯父が、偽者だと思い込んでいるという。 マイルズはベッキーの依頼に応え、ウィルマの元を訪れる。その際に彼女の伯父にも会ったが、何ら変わった様子は感じられない。しかしウィルマに言わせると、小さなしぐさや癖、身体の傷までそのままで、思い出話をしても、ちゃんと答えてくれるのだが、「何かが決定的に違う」というのである。ウィルマには伯父が、感情らしい感情を、失ってしまっているように思えるらしい。 そしてその時以降、マイルズの診察室には、ウィルマと同じようなことを訴える患者が次々と訪れる。夫が自分の妻を、「妻でない」と言い張る。子が親を、或いは友人が友人を、偽者だと主張するのである。 マイルズは精神科医のマニーの力を借りるのだが、一向に埒が明かない。その一方で、お互いバツイチになってからの再会だった、ベッキーとの距離が縮まっていく。 ベッキーとのデートを楽しんでいる最中、マイルズは友人の小説家ジャックから、至急家に来て欲しいという連絡を受ける。2人でジャック邸を訪れると、彼の家のガレージへと案内される。 そこにあるビリヤード台の上には、シートにくるまれた人間の死体が置いてあった。ジャックはマイルズに、その死体をよく観察してくれと頼む。 その死体は、成人の顔にしては未熟な印象であり、その肉体は傷一つなく、未使用と言える状態だった。死体らしい冷たさもなく、その指先には、指紋がなかった。まるで、一度も生きたことがないかのように。 マイルズとベッキー、ジャックとその妻シオドラは、この物体と、最近この街に住む人々の身に次々と起こっている、身近な人々を別人と感じる症状に、何らかの関わりがあると思い至る。そしてマイルズは、ベッキーの自宅の地下室にも、同じものを発見する。 街の人々は、この不思議な物体に次々と乗っ取られている! しかし相談していた精神科医のマニーを呼ぶと、物体はいつの間にか姿を消していた。マニーはマイルズたちが、幻覚を見たに過ぎないと指摘。マイルズたちも、一旦は納得せざるを得なかった。 しかし、奴らの“侵略”は確実に進んでいた。マイルズたちは次第に追い詰められ、街からの脱出を、決意するのだったが…。 「盗まれた街」で、サンタ・マイラの人々の身体を乗っ取っていくのは、死滅の危機に直面した惑星から、宇宙間の莫大な距離を、数千年の歳月を費やして漂流してきた宇宙種子である。巨大なサヤのようなその種子は、ターゲットとなる人間の近くに置かれると、その者が眠っている間に、個々人が持つ正確な原子構造の図式を読み取って複製し、完全なる同一人物が生まれる仕組みとなっている。それと同時に、複製された側の人間は、灰色の塵となって消えてしまう。“睡眠”は、人間が生きていく上で避けられないもの。ところが眠ってしまうと、一巻の終わりというわけだ。このメカニズムが、実に恐ろしい。 原作では、主人公たちの抵抗によって、宇宙種子による地球侵略は、頓挫する。いわばハッピーエンドを迎えるのだが…。 原作が発表された翌年に公開されたのが、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(56/日本未公開)。アクション映画の名手ドン・シーゲル監督による、「盗まれた街」の映画化第1作の登場人物や筋立ては、ほぼ原作に忠実である。物語の終幕も、希望が残る。 大きく改変されたのは、主要登場人物の一部に待ち受ける運命。クライマックスには、過酷としか言いようがない展開が訪れる。 それを考えると、原作に準拠したような終幕は、正直違和感が残る。実はシーゲルは、ケヴィン・マッカシーが演じる主人公のマイルズ医師が、ハイウェイに立って1台の車を止めて、サヤに対する警告を発するところで、エンドマークを出したかったという。彼は観客に向かって指を差し、叫ぶ。「次は、あなたの番だ!」 こうしたアンチ・ハッピーエンドが避けられたのは、製作側の意向だった。シーゲルはもしそれに従わなければ、脚本家のダニエル・メインウォーリングと共に、「交替させられてしまっただろう」と、後に述懐している。 この映画化第1作は、“赤狩り”の時代を背景にした寓話であると、後世まで語られる作品となった。米ソ冷戦が激化し、“共産主義”の脅威が広く語られる中で、アメリカ国民の中には、「同僚や隣人が、スパイでもおかしくない」という疑心暗鬼が広がっていた。身近な者が共産主義者であっても、見た目は普通の人間と変わらない。どうやって見分ければ良いのか?誰を信用すれば良いのか?…というわけだ。 こうした映画化作品の評価と共に、原作小説に対しても、その“意味”を巡る解釈は、様々に為されてきた。しかし原作者フィニィは、それを一笑に付す。「…これは楽しんでもらうためのただのお話。それ以上の意味はない…」「…映画にかかわった人々がなんらかのメッセージを持っているという議論は、いつもくすぐったい思いで拝聴していました。そうだとすれば、それは私が意図した以上のものだし、映画は原作に忠実なのだから、そもそもメッセージとやらがどうやって入り込んだのか想像もつきません…」 フィニィはこう語るが、しかしながら、長く読み継がれるような優れた物語は、現実の変化に応じて、意味付けや解釈が変わってしまうのが、至極当たり前である。「盗まれた街」に関しては、発表から65年の間の、4度の映画化作品を見ると、各時代が抱える問題や病弊が、明確に浮かび上がる。 ドン・シーゲル版から23年後の、2度目の映画化作品、『SF/ボディ・スナッチャー』は、『スター・ウォーズ』(77)『未知との遭遇』(77)『エイリアン』(79)などで、世界的なSF映画ブームが沸き立っている最中に、製作・公開された。監督を務めたのは、後に『ライトスタッフ』(83)や『存在の耐えられない軽さ』(88)を撮る、フィリップ・カウフマン。 本作には、ドン・シーゲルやケヴィン・マッカーシーがカメオ出演。前作へのリスペクトぶりを、至るところに溢れさせながらも、70年代後半という、時代の装飾を纏わせている。 宇宙の彼方で絶滅する惑星、そしてそこから逃れて、地球に向けて侵略を開始する微生物が描かれるオープニングで、この作品が何を描くかを、高らかに宣言した後に登場する舞台は、田舎町のサンタ・マイラではなく、大都市のサンフランシスコ。そしてドナルド・サザーランドが演じる主人公ベネルは、医師ではなく、州の公衆衛生官となっている。 ベネルはある時、職場の同僚であるエリザベス(演;ブルック・アダムス)から、夫の様子がおかしくなり、「彼が彼でなくなった気がする」と奇妙な相談を持ち掛けられる。これをきっかけに、ベネルは周囲の異変に気付いていく…。 サヤが人体を乗っ取る原理は、前作と変わらない。しかし、特殊メイクなどSFX技術の著しい進歩と、しかもCG登場以前というタイミングがあって、サヤが人体を複製していく描写が、何ともグロテスク。実にリアルで、グチャドロに表現される。 舞台を大都市に変えた狙いも、明白だ。本作のプロデューサーであるロバート・H・ソロ曰く、ここに暮らす人々は「お互いに無関心であり、回りの人の小さな変化などに、誰もが気がつかない」。それ故に、“複製”になり代われる怖さは、倍増するというわけだ。 主人公の職業変更も、その流れの中で行われた。レストランなどの店舗や施設の衛生状況をチェックするのが仕事の公衆衛生官ならば、無関心な大都市の中でも、いち早く異常事態に気付くことが、不自然ではない。 映画史的に鑑みればこの頃は、SF映画ブームであると同時に、60年代後半から70年代中盤に掛けて、アメリカ映画を席捲した“ニューシネマ”が終焉を迎えた時期である。『SF/ボディ・スナッチャー』は、“ニューシネマ”が肯定的に捉え続けた、反体制文化や個人主義に対して、疑念を提示しているとも言える。そうした方向性が行き過ぎると、社会やコミュニティが崩壊に向かうという考え方である。 それにしてもメインキャストに、ドナルド・サザーランド、『ザ・フライ』(86)のジェフ・ゴールドブラム、そしてMr.スポックことレナード・ニモイと、よくもまあ個性的な“顔”ばかり揃えたものである。宇宙種子に乗っ取られて、当然とも思えてしまう。 それは冗談として、そんな面相のサザーランドだからこそ、ブルック・アダムス演じる美しきヒロインとのロマンスが、より切なさを帯びる。職場の気の置けない友人同士だった筈が、侵略者からの逃避行の中で、お互いを愛していることに気付いてしまう。 それだけに主人公が、前作同様に、何よりも大切なものを失ってしまうクライマックスに、私は涙を禁じ得なかった。先にも挙げた通り、SFXの発達によって、よりグロテスク、且つ、より痛ましく、そして、よりもの悲しいシーンになっているのである。 『SF/ボディ・スナッチャー』に続く、「盗まれた街」3回目の映画化は、15年後のアベル・フェラーラ監督作品、『ボディ・スナッチャーズ』(93/日本未公開)。前作と同じく、ロバート・H・ソロが製作を手掛けている。 主演は、ガブリエル・アンウォー。当時20代前半の彼女が、ティーンエージャーを演じた。 この作品の舞台は、アメリカ国内の米軍基地。主人公は、土地の汚染を調べる仕事をする父親の異動で、継母や幼い弟と基地内に移り住むことになるが…。 田舎町でも大都市でもなく、軍の基地が宇宙種子に乗っ取られていくというのが、新たな設定。栽培されて増殖したサヤが、トラックなどで他の町や都市に運び出されていく描写は、前2作でもあったが、こちらは軍用トラックで、大々的に展開されるわけである。 文民統制が取れなくなって、集団ヒステリーに陥った軍部が暴走する恐ろしさが描かれている…と解釈することも出来るだろう。しかしそんなことよりも、ティーンの少女を主人公にしたことによって、「思春期の不安定な心理が生んだ妄想劇といえばそう見えなくもない」(後記の「映画秘宝」より井口昇氏の文を引用)のが、ポイントとも言える。 いずれにせよ、「盗まれた街」という原作の、汎用性が窺える改変である。 そして4回目にして、今のところ最新の映画化作品は、『ヒトラー〜最期の12日間〜』(2004)などの成功により、ハリウッドに招かれたドイツ人監督オリヴァー・ヒルシュビーゲルがメガフォンを取った、『インベージョン』(07)である。 スペースシャトルの墜落によって、未知の宇宙ウィルスが地球上に降下し、やがて蔓延していく。その脅威に戦いを挑んでいくヒロインは、ニコール・キッドマンが演じる、バツイチで一人息子と暮らす、シングルマザーの精神科医。 今回は、ウィルスに感染した者が眠りに就くと、起きた時には、“別人”になっているという仕組み。お馴染みのサヤが出てこないのには、些か拍子抜けするが、2001年にアメリカを襲った“同時多発テロ”や、HIVやレジオネラ、SARS、鳥インフルエンザ等々、未知のウィルスが次々と現れては、人類の脅威と喧伝されるようになった時代を受けての、改変であった。 そしてその改変が、実は『インベージョン』製作から13年経った、2020年のまさに今こそ、ピタリとハマってしまう。ここまで記せば、ピンと来た人が多いだろう。 現在、全世界に蔓延し、人類の脅威となっている“新型コロナ禍”である。『インベージョン』に於いて未知の宇宙ウィルスは、文字通りの“飛沫感染”によって、拡がっていく。また物語の中で、登場人物たちの都市間の移動も多く、それがウィルスが蔓延していく情勢と合致する。 感染しても、すぐに発症するわけではない。また中には抗体を持つ者が居て、発症しないが故に、侵略者たちには脅威となり、逆に人類にとっては、ワクチンをもたらす福音となる。『インベージョン』はそうした意味で、13年早かった作品とも言える。そして改めて、原作者ジャック・フィニィのオリジナルの発想の素晴らしさにも、思い至るのである。■
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COLUMN/コラム2020.12.04
ジェームズ・キャメロン幻のデビュー作は、正しく“ジョーズもの”『殺人魚フライングキラー』
本作『殺人魚フライングキラー』(1981)は、正しく“ジョーズもの”というジャンルに分類されるべき作品である。 何だ“ジョーズもの”って!?…などと声が飛んできそうだが、映画史に於いては、いわゆるメガヒット作を軸にして、度々こうしたジャンルが生まれてきた。“エクソシストもの”“マッドマックスもの”“エイリアンもの”“ランボーもの”“ターミネーターもの”“ジュラシック・パークもの”…。ああキリがない。 もちろん“オカルト映画”“SF映画”“戦争映画”などと、正統的なジャンル分けの区分もある。しかし敢えて“エクソシストもの” “ランボーもの”といった呼称を使いたくなるのは、メガヒット作に雲霞の如く群がり、そうした真っ当なジャンル分けを無効化してしまうほど、バッタもん、パチもん度が強い映画群である。 “ジョーズもの”に、話を戻そう。スティーヴン・スピルバーグ監督の出世作で、人喰いザメと人間の対決を描いた『ジョーズ』(75)は、『ポセイドン・アドベンチャー』(72)『タワーリング・インフェルノ』(74)『大地震』(74)『エアポート』シリーズ(70~79)等々、1970年代を席捲した“パニック映画(ディザスター・フィルム)”ブームの中に連なりながらも、新たに“動物パニック映画”というジャンルを確立した作品である。 そして大量の、“ジョーズもの”が世に送り出された。…と言うか、公開から45年経った今も、送り出され続けている。 ストレートに人喰いザメが登場する作品も多々あるが、その他の水棲生物を主役とする、バッタものも枚挙に暇がない。シャチ、タコ、イカ、ワニ、ピラニア…。シャチのように元々堂々たる体躯の持ち主は別にして、その他は何らかの理由で、“巨大化”や“凶暴化”している場合が多い。 ちょっと、前置きが長くなった。本題の『殺人魚フライングキラー』が、なぜ「正しく“ジョーズもの”なのか」を、ストーリーを紹介した上で、解説していきたい。 カリブ海に浮かぶ、リゾートアイランド。スキューバダイビングも、大きな観光資源となっており、沖に眠る沈没船は、格好のスポットとなっていた。 ある夜、ダイビングに勤しむカップルが、“水中セックス”とシャレ込む。ところがそこに現れた魚群によって、2人の身体は見る影もなく、切り裂かれてしまう…。 海洋生物学者のアニーは、ダイビングのインストラクターで、生計を立てる1人。島の保安官である夫スティーブとうまくいっておらず、一人息子のクリスと、雇用主のホテルの一室に住み込ませてもらっていた。 ダイビングツアーの客の中に、アニーの指示に従わず、立ち入り禁止の沈没船内に勝手に入る者が居た。アニーが探すと、その客は、メタメタに喰いちぎられた死体となって発見される。 殺人魚の正体を調べるべく、アニーは、自分に言い寄る男タイラーを連れ、犠牲者の死体が収容された安置所に忍び込む。傷口などの写真を撮って、ホテルに戻ったアニーは、その夜タイラーと結ばれる。 一方で安置所の死体からは、急に殺人魚が飛び出して、その場に居た看護師が犠牲となる。殺人魚はそのまま空を飛び、逃げ去るのだった。 殺人魚の正体は、アメリカ軍がベトナム戦争用に開発した、陸で産卵するグルニオンとトビウオをかけあわせた、生物兵器だった。運搬の際のミスで、その卵が海底に沈み、やがて孵ると、沈没船を根城にしたのだった。そしてタイラーの正体は、殺人魚の開発に関わった1人だった。 ヨット遊びを楽しむ者などが、次々と殺人魚の犠牲になっていく。そんな中でリゾートホテルの最大の売り物イベントである、グルニオンの産卵を見て楽しむ、ガーデンパーティの夕べが迫る。 アニーはホテルの支配人に、イベントを中止するように説得を行うが、儲け優先の支配人は、聞き入れない。それどころか、アニーをクビにしてしまう。 やって来たイベントの夜、海岸などで産卵シーンを待ち受けていた観光客たちに向かって、殺人魚の大群が飛来。海水は血で、真っ赤に染まる。息子を殺人魚に殺され、復讐に燃えていた漁師のギャビーも、犠牲者の一人となった。 意を決したアニーは、殺人魚の巣となっている沈没船を、ダイナマイトで吹き飛ばす作戦に乗り出す。彼女はタイラーや夫のスティーブの協力を得て、海へと潜っていくが…。 冒頭の“水中セックス”のシーン。早々に「死亡フラグ」が立つバカップルに、主観カメラが迫っていくシーンから、『ジョーズ』のオープニングを劣化コピーした、正しく“ジョーズもの”の展開となる。 主人公が“殺人魚”の脅威を訴えるのを無視して、犠牲者を増やしてしまうのは、わからず屋で強欲な人間。これも“ジョーズもの”には、欠かせない要素と言える。 極めつけは、メインのキャラクター配置。保安官のスティーブに、海洋生物学者のアニー、漁師のギャビー。これは正に『ジョーズ』の、ブロディ警察署長、海洋生物学者のマット・フーパ―、サメ捕り漁師のクイントの陣形を模したものである。ただ本家のように、3人で船に乗り込んで、激闘を繰り広げるわけではない。『フライングキラー』の3人の動きはバラバラで、しかも漁師は陸上で、噛み殺されてしまうのだが。 忘れてならないのは、アニーの浮気である。実は『ジョーズ』の原作には、ブロディ署長の奥さんとマット・フーパ―が不倫をする描写がある。天才スピルバーグが「タルい」と判断して、映画からはぶった切ってしまったその要素を、『フライングキラー』では、わざわざ再現している。正にバッタもんの面目躍如だ。 さて“ジョーズもの”に限らず、こうしたバッタもん映画の代表的な作り手と言えば、偉大なる“B級映画の帝王”ロジャー・コーマンの名が挙がる。そして製作国で言えば、やっぱりイタリアだ。マカロニウエスタンを代表に、あらゆるジャンルのバッタもんを世に送り出してきた実績がある。『殺人魚フライングキラー』は、原題に“Piranha II”と入ることでもわかる通り、本作の3年前にロジャー・コーマンが製作総指揮を務めた、『ピラニア』(78)の続編である。そして本作は、前作でもプロデューサーを務めたコーマン門下のチャコ・ヴァン・リューエンこと筑波久子が、今度は主にイタリア資本で製作した作品なのである。 そんなこんなで、『フライングキラー』がいかに正しく“ジョーズもの”であるかは、おわかりいただけたかと思う。しかしもう一つ、絶対忘れてはならないことがある。それは本作が、あのジェームズ・キャメロンの商業映画監督としてのデビュー作であるということだ。 若き日のキャメロンは、機械工やトラック運転手などをしながら、大学で物理学を学んだ後、初めて監督した35mmの短編映画が認められて、ロジャー・コーマンの門下となった。そこで映画に関する技術全般を、実地で学んだのである。『フライングキラー』は、当初はやはりコーマン門下の別の者が監督を務めていた。ところがその者がクビになったため、急遽キャメロンに、白羽の矢が立てられたのである。 キャメロンにとって、この処女作がどんな位置にあるかについては、彼と交友が深い、小峯隆生氏の著書に詳しい。 キャメロンが、監督作『アビス』(89)のキャンペーンで来日した際に、小峯氏は初対面で彼と意気投合し、他の者も交えて新宿に飲みに行った、その際のエピソードだ。 ~友達がこの映画のファンだと告げたら、ジムは「もう一回、見てみろ。エンド・タイトルロールから俺の名前は消えている」と。その瞬間、この人の前でこの映画の話は禁句だと気づいた~ 急遽監督に雇われたキャメロンが、ロケ地のジャマイカを訪れると、現場は英語が通じない上に、やる気もないイタリア人スタッフばかり。しかも超低予算のため、衣装代が出ず、出演者たちは私服を着て、撮影に臨んでいた。 また撮影に使う“殺人魚”は1体しか出来ておらず、しかも造形が酷かったため、キャメロンは自ら徹夜して、あと3体作ることになった。その際には保安官のスティーブ役で、キャメロンの友人だったランス・ヘンリクセンが手伝ったと言われる。 そんな苦労をして、本編を粗方撮り終えると、「もういいや」と、キャメロンは監督をクビになった。彼が現場を仕切ったのは、僅か5日間とも2週間とも言われている。 頭にきたキャメロンは、クレジットから名を外すように、イタリア側に申し入れる。しかしアメリカ市場向けには、アメリカ人らしい名前の監督が必要という理由で、断られてしまう。 キャメロンは本作を、蛇蝎の如く嫌っており、実質的に己のフィルモグラフィーから消し去っている。それには、十分な理由があったのだ。 とは言え、やはり監督第1作ということもあって、本作には後のキャメロン作品に登場する要素が、散見される。例えば水中シーンには、『アビス』や『タイタニック』(97)に通じるものが感じられるし、沈没船の中で“殺人魚”から逃れようと、アニーとタイラーが狭いダクトの中を進むシーンは、もろに『エイリアン2』(86)である。 更に言えば、実は本作に関わらなければ、キャメロンの出世作は生まれなかったかも知れないというエピソードがある。こちらも件の小峯氏の著書より引用する。 ~イタリアでクビになり、ホテルで、ふてくされて寝ていたら、赤い目をした銀色のピラニアがどこまでも追いかけてくる悪夢を見た話を聞いた。すぐに閃いたアイディアが、ターミネーターの元になったんだ、と。~ キャメロンが『ターミネーター』(84)の製作に取り掛かった際、当初悪役のターミネーター=殺人アンドロイド役は、ランス・ヘンリクセンで、シュワちゃんことアーノルド・シュワルツェネッガーは、ターミネーターと戦う、正義の戦士カイル・リース役の候補だった。しかしこの件で、キャメロンとシュワルツェネッガーがランチをした際に、役を変えて、シュワちゃんがターミネーターを演じるという、発想の転換が行われたのである。 実はこの時、キャメロンは一文無し。出演交渉で会ったのにも拘わらず、その場の勘定は、シュワちゃん持ちだったという。しかしそんな出会いが、シュワちゃんに生涯の当たり役をもたらし、彼をスーパースターの座に押し上げた。そしてキャメロンも、世界一のメガヒット監督への第一歩を踏み出すこととなった。 それもこれも、『殺人魚フライングキラー』の屈辱があってのことと知れば、本作の鑑賞もまた、趣深いものとなるであろう。■
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COLUMN/コラム2021.01.04
すべてのホラー映画の原点 『悪魔のいけにえ』のホントに怖い顛末
1974年10月1日、アメリカ・テキサス州オースティンのドライブインシアターと映画館で、無名のスタッフ・キャストによる、1本の低予算B級映画が公開された。 その時関係者は誰ひとりとして、予想だにしなかったであろう。その作品が半世紀近く経った2020年代になっても、「ホラー映画のマスターピース」として語り継がれるようになることなど。“芸術性”が高く評価されて、MoMA=ニューヨーク近代美術館にマスターフィルムが永久保存されるという栄誉にも浴した、その作品のタイトルは、“TEXAS CHAINSAW MASSACRE(テキサス自動ノコギリ大虐殺)”。翌75年2月1日に日本でも公開された、本作『悪魔のいけにえ』である。 冒頭、上部にスクロールしていくスーパーで、5人の若者の身に、残酷な運命が待ち受けていることが予告される。続いて「1973年8月18日」と、真夏の出来事であることを示すスーパーが浮かび上がって、物語のスタートである。 テキサスの田舎町で、墓が掘り起こされては、遺体の一部が盗み去られるという事件が頻発する。若い女性サリーと、その兄で車椅子のフランクリンは、祖父の墓が被害に遭ってないかを確認しにやって来た。ワゴン車での旅の同行者は、サリーの恋人ジェリー、友人のカークとその恋人パム。 5人は墓の無事を確認すると、かつてサリーとフランクリンが暮らした、祖父の家へと向かう。しかしその途中に乗せたヒッチハイカーの男によって、彼ら彼女らの行く先に、暗雲が垂れ込め始める。 その男は、ナイフでいきなり自分の掌を傷つけた上、フランクリンに切りつける。そして車を飛び降りると、自らの血で車体に目印のようなものを付けるのだった。 男を追い払い、気を取り直した5人は、ガソリンスタンドへ寄るも、ガソリンは切れていて、夜まで届かないという。仕方なく一行は、今は廃屋のようになっている祖父の家へと向かった。 そこからカークとパムのカップルは、近くの小川で水遊びをしようと出掛ける。その時、一軒の家が目に入る。 ガソリンを分けてもらおうと、彼らが訪れたその家で出くわしたのは、人面から剥いだ皮で作ったマスクをした大男“レザーフェイス”。チェーンソーを振り回して人間を解体する彼と、その家族は皆、シリアルキラーの人肉食ファミリーであった…。 そこからは、ラストのあまりにも有名な“チェンソーダンス”に至るまで、若者たちは次々と絶叫と共に、血祭りに上げられていく。マスクを付けた殺人鬼による、若者大虐殺の展開など、今どきのホラーを見慣れた観客にしてみれば、既視感満載かも知れない。 しかしそれは、当たり前の話だ。『悪魔のいけにえ』こそが、そのすべての始まり、原点の作品だからである。70年代後半以降、ほとんどのホラー映画は、本作の影響下にあると言っても、過言ではない。「『悪魔のいけにえ』のように、宇宙を舞台にした恐怖に支配された映画を作りたい」これはあの『エイリアン』第1作(79)の製作前に、脚本を担当したダン・オバノンが、リドリー・スコット監督に本作を見せて、語った言葉である。 ここで多くの方々の誤解を、解いておこう。本作は首チョンパや内臓ドロドロなど、人体損壊のゴア描写が炸裂するような、いわゆる“スプラッタ映画”では、まったくない。直接的に皮膚に刃物を刺して人を殺すシーンなどは、1カットもないのである。血飛沫が上がるのは、犠牲者が車椅子に乗ったまま、チェンソーで切り刻まれてしまうシーンぐらい。実はTVでも放送出来るように、直接的な残酷描写は、避けて作られている。 それでいながら、いやそれだからこそ、“レザーフェイス”が初めて登場するシーンに代表されるように、予期せぬ突発的な暴力が、我々に大きなダメージを与える。また、ギリギリまで描いて、後は観客の想像に委ねるという手法が、脳内の補完によって、実際に描かれたもの以上に、強烈な印象を残すのである。それが延いては、「とにかく怖かった~」という記憶になっていく。“レザーフェイス”の妙な人間臭さも、実に効果的だ。次から次へと、来訪者=犠牲者が訪れることに泡を喰ったり、ヘマをやらかして、家族に罵倒されたりする描写などがある。『13日の金曜日』のジェイソンや、『エルム街の悪夢』のフレディのような超然とした存在よりも、人間臭い殺人鬼が行う大量殺戮の方が、よりリアルで怖いものかも知れない。 16mmフィルムによる撮影でもたらされた、粒子が粗くザラザラした画面や、BGMは一切使用せず、効果音のみという音響演出も、まるで殺人現場のドキュメンタリーを見ているかのような錯覚を、観客にもたらす。もっとも16mmを使用したのは、単に予算上の問題だったというが、結果的には怪我の功名である。 さて、本作が撮影されたのは、73年の夏。監督のトビー・フーパー(1943~2017)は、まだ30代に突入したばかりだった。 テキサス州オースティンで生まれ育ち、幼い頃からの映画好きだった彼は、テキサス大学在学中には、短編映画や記録映画を手掛けている。その後処女作『Eggshells』(69)が、映画コンテストなどで高く評価されるも、興行的には不発に終わった。 そこでフーパーは、考えた。低予算でも製作し易い、“ホラー映画”で勝負を掛けようと。参考にしたのは、墓を暴いて女性の死体を掘り返しては、それを材料にランプシェードやブレスレットなど作っていた、殺人者エド・ゲインの実話や、監督自身が子どもの頃に親戚から聞いた、怖い噂話など。脚本家のジャック・ヘンケルとの共作で、シナリオは完成した。 経験の浅い映画学生をスタッフに雇い、キャストには、地元の無名俳優を起用。そしていざ、クランク・インとあいなった。 ロケ中心で撮影された本作の撮影現場は、執拗に俳優を追い込むものとなった。リアリティーを追求し、本物の刃物を使ったために、ケガ人が出たり、予算不足から、俳優の顔に直に接着剤を塗って、特殊メイクが行われたり。血糊は口に含んだものを、俳優にぶっ掛けたという。 本作のヒロインで、いわゆる“ラスト・ガール”、最後まで生き延びるサリーを演じたのは、マリリン・バーンズ。役柄とはいえ、固い箒で殴られたり、雑巾を口に押し込められたり、とにかく悲惨な目に遭った。 ガンナー・ハンセン演じる“レザーフェイス”に、チェンソーを振り回されながら追いかけられるシーンでは、監督から「後ろから切られるかもしれないぞ」と、声を掛けられたため、「本当に殺されるかも知れない」と、恐怖に駆られて、本気で走って逃げたという。彼女の臨場感溢れる“絶叫”は、作り物ではなかったのだ。 ロケ地である夏場のテキサスは、外気が40度に上り、照明を当てれば50度以上の暑さとなる。物語上は1日の話である本作だが、撮影は1カ月近く続いた。その間、俳優たちはずっと同じ衣装を、着続けねばならなかった。途中からは、汗臭さを通り越した異臭を放つようになった。 クライマックスで描かれる、殺人一家の食卓シーンは、猛暑の中で閉め切って撮影されたため、卓上の肉料理は、すべて腐っていたという。そんな中での撮影は、カットが掛かる度に、誰かが吐きに行くという惨状を呈した。 こんなことが、本物の動物の死体を大量に解体して作られた、インテリアが散乱する中で行われたわけである。素人主体の現場故に、撮影予定や台本が場当たり的に変更されていく混乱と相まって、撮影途中でスタッフが次々と逃げ出した。 因みにインテリアのみならず、殺人一家の一軒家を作り込んだ、プロダクションデザイナーのロバート・バーンズは、“レザーフェイス”の人面マスクも作成。マスクは3タイプ作られたが、“レザーフェイス”は、局面によってマスクを替えるという設定で、クライマックスの食卓シーンでは、チークを入れるなど化粧を施した分、逆におぞましさが募るマスクで登場する。 さて狂気の撮影が終わって、先に記したような編集と音入れ作業に、フーパーは1年以上を掛けて、『悪魔のいけにえ』は完成。しかし大手配給から怪奇物の名門まで、様々な映画会社に持ち込んで観てもらっても、芳しい評価は得られず、公開のメドはなかなか立たなかった。 本作をようやく引き受けてくれたのは、ニューヨークの独立系配給会社。フーパーはじめ関係者は、ほっと胸を撫で下ろした。 そしてはじめに記した通り、フーパーの地元、テキサス州オースティンで公開されると、ストレートなタイトルと「実話の映画化」という、大ウソの誇大広告が功を奏して、劇場には長蛇の列が。多くの観客が、軽い気持ちで週末のスクリーンに臨んだが、観終わると良くも悪くも打ちのめされ、賛否両論が沸き起こった。 そして上映は、全米各地へと拡大。やがてメジャー製作の大作映画と伍して、ヒットチャートに名を連ねるようになった。“ホラー”への挑戦という、新人監督フーパーの賭けは、大勝利に終わった。…と言いたいところだが、そうは問屋が卸さなかった。 本作の配給を託した独立系配給会社は、実はマフィアが経営する、フロント企業。フーパーたちが要求する、利益の配分に全く応じようとしないという、ある意味映画の内容以上に、怖い顛末が待っていたのである。■ 『悪魔のいけにえ』© MCMLXXIV BY VORTEX, INC.
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COLUMN/コラム2021.01.12
寡作の巨匠エリセの、奇跡のような長編デビュー作『ミツバチのささやき』
1985年春、二浪してようやく大学に入学した私は、映画研究会に入った。映画に関してうるさ型の学生が集まるその部室で、当時1本の映画が大きな話題になっていた。「アナちゃんは撮影の時に、自分が本当にフランケンシュタインに会っていると思ったのよ」 その作品では、劇中で“フランケンシュタイン”の映画を観た主人公の少女が、怪物が実際に存在すると思い込んでしまう。そしてその撮影の場に於いても、主人公を演じた、アナという名のその子役は、特殊メイクで作られたフランケンシュタインと会って、映画内と同様に、本物だと信じてしまったのだ…。 そんなことを、年齢は私と同じながら、大学の年次は2年上の女性が、目を輝かせながら喋っていた。 その作品は、『ミツバチのささやき』。ヒロインのアナ・トレントの名と共に、学生の映画サークル内に限らず、当時の映画ファンの口の端に、頻繁に上ったタイトルである。 日本公開よりは12年前=73年に製作されたスペイン映画『ミツバチの…』ブームの仕掛人は、“シネ・ヴィヴァン六本木”。それまではなかなか観られなかった、世界のアート系映画を次々と公開し、83年のオープンから99年の閉館まで16年間、“ミニシアター文化”隆盛の一翼を担った映画館である。80年代文化をリードした、堤清二氏率いるセゾングループ内でも、異彩を放つ存在だった。 85年2月に公開された『ミツバチの…』は、キャパ185席のシネ・ヴィヴァンで12週間上映。観客動員4万8,000人、興行成績は6,400万円という、堂々たる興行成績を打ち立てた。 この作品の“ツカミ”は、先に挙げた先輩の言のようなことだが、ここで改めてどんな内容であるのか、そのストーリーを紹介する。 スペインでは1936年、血みどろの内戦が勃発した。当時の政府は、人民戦線が率いる、左派政権。それに対して、右派の反乱軍がクーデターを起こし、戦闘に突入したのである。この内戦は“スペイン市民戦争”という名称でも、広く知られる。 両陣営には、外国勢力からの支援や直接参戦などがあった。また、欧米の市民や知識人が、人民戦線政府を応援するために、義勇軍として参戦する動きも広がった。 ノーベル賞作家のアーネスト・ヘミングウェイが、40年に発表した小説「誰がために鐘は鳴る」。ゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマン主演で43年に映画化されたことでも知られるこの小説は、義勇軍に参加した、ヘミングウェイの体験を基に描かれたものである。 内戦は3年近くに及んだが、39年には、反乱軍の勝利に終わる。そのリーダーは、フランシス・フランコ将軍。ヒトラーのナチス・ドイツとも連携した、悪名高きフランコの独裁政治が始まった。『ミツバチの…』の舞台である1940年は、内戦が終わって、日が浅い頃。国土も人心も負った傷が大きく、荒廃した風景がそこかしこに広がっていた。 そんな中で母のテレサは、綴った手紙の文面から、敗れた共和派に近かったことが、窺える。父のフェルナンドに関しては、共和派として知られた、実在の哲学者ウナムーノと2ショットの写真が登場する。このことから、彼も妻のテレサと共に、共和派として挫折したという見方が出来る。 しかしウナムーノは、内戦勃発後はむしろ反乱軍側に足場を置いていたと、指摘される人物。そこでフェルナンドも、内戦中は反乱軍側に与していたのではと、解釈することも可能だ。この場合一つの家庭内で、夫婦のスタンスが対立していたことになる。 いずれにしろ大人たちは、内戦で深く傷つき、そこから抜け出せなくなっている。1940年という時代設定には、こうした意味合いがあるのだ。 そして本作の製作年である、1973年。この頃のスペインでは、内戦終結後30年を超えて、フランコの独裁は、まだ続いていた。表現の自由は厳しく規制され、政府に批判的なクリエイターは、弾圧を受ける運命にあった。 スペインが生み、国際的な評価を得た映画作家と言えば、必ず名が挙がるであろう、ルイス・ブニュエル。彼が独裁政権下の40年代中盤以降、メキシコやフランスなど国外に渡り、そこで数多くの映画を作ったのには、そんな背景がある。 そんな中で本作は、反政府的・反権力的な傾向は明らかと見られながらも、検閲側からそうした烙印が押されないように、直接的な描写は避けている。上映禁止にはならないよう、巧妙に作られているのだ。 本作のヒロインであるアナの両親は、フランコの独裁によって抑圧された社会の中で、抜け殻のように生きている。そんな両親の庇護から、彼女は逃走を図り、ラストでは「私はアナよ」と囁く。 彼女は、希望の存在なのである。そしてその囁きは、“自立”の宣言と捉えられる。エリセをはじめとした、当時の若きスペインのクリエイター達の、想いや願いが籠められているのであろう。
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COLUMN/コラム2021.02.01
リドリー・スコットのもうひとつのエポックメーキング『テルマ&ルイーズ』
齢80を越えても、精力的に作品を撮り続けている、リドリー・スコット監督。20数本に及ぶ、そのフィルモグラフィーを眺めると、SF、刑事アクション、クライム・サスペンスから歴史大作、戦争映画、人間ドラマまで、実に多彩なジャンルを手掛けていることに、改めて驚かされる。 そんな中でも“映画史”に残る作品と言えば、監督第2作・第3作の『エイリアン』(1979)『ブレードランナー』(82)あたりを挙げる者が、やはり多いのだろうか? 両作が、その後のSF映画の歴史を塗り替えたことに異議を唱える者は、まずはいまい。 私はリドリーの監督作品の中で、この2本に匹敵する、エポックメーキングとなった作品として、本作『テルマ&ルイーズ』(91)を挙げたい。歳月を経ても、この作品は色褪せるどころか、その歴史的意義は、年々高まる一方のように思える。 アメリカ中西部アーカンソー州に住む、専業主婦のテルマ(演: ジーナ・デイヴィス)と、ダイナーのウェイトレスで独身のルイーズ(演:スーザン・サランドン)は、親友同士。ある週末、十代の頃から夫に縛られる生活を送ってきたテルマを誘い出し、ルイーズが自慢の66年型サンダーバードを駆って、ドライブ旅行へと出掛けた。 テルマは、どうせ許してくれないと、傲慢な夫に黙っての旅立ち。その際に、以前夫から護身用にと渡された拳銃を、無造作にルイーズに預けた。 目的地への途中、食事に寄ったカントリーバーで、解放感から、店のマネージャーの男とのダンスに興じたテルマは、悪酔いして涼みに店外へ。そこでマネージャーから、レイプされそうになる。間一髪、ルイーズが男の首筋に拳銃を突きつけ、テルマは泣きじゃくりながらも、難を逃れた。 その場を去ろうとした彼女たちだったが、男は悔し紛れに、「俺のをしゃぶりな!」などと、卑猥な罵声を2人に浴びせる。その瞬間、ルイーズの“何か”がキレた。彼女は拳銃の引き金を引き、銃弾を浴びた男は、そのまま息絶えた。 楽しい筈の週末のちょっとした旅は、一転。逃亡の旅へと、変わる。 国境を越えて「メキシコに逃げる」と、決意したルイーズだったが、優柔不断なテルマは、揺れ動く。しかしやがて彼女も、自分を守ってくれた親友と行動を共にすることを、決意した。 地元の警察からFBIまで、州を越えて捜査の網が広がっていく。そして、生まれ育ってきた社会の理不尽な規範に長年縛られてきた女2人は、大胆不敵なアウトローへと、変貌を遂げていく。テルマ&ルイーズの、明日をも知れない逃避行の行方は? 封切り時に、まだ20代後半だった私は、本作鑑賞前、今ひとつピンと来ていなかった。あのリドリー・スコットの最新作が、アメリカ中西部を舞台にした、女性2人が主人公の“ロードムービー”であることに。 当時の私にとってリドリー・スコットと言えば、多感な十代の頃に出会った『エイリアン』であり、『ブレードランナー』だった。それに付け加えるならば、本作の前の監督作品で、大々的に日本ロケを行った、『ブラックレイン』(89)だったのである。 そしていざ本作を観ると、アメリカで“フェミニズム映画”として論争になった理由が、理解できたような気がした。当時の私は自分のことを、“フェミニズム”寄りな人間だと思っていた。“男性優位”な社会の中で、多くの女性が一方ならぬ苦労をしていることを認識しており、「女性の気持ちがわかっている」つもりだった。 そうした意味で本作の意義を見出しながらも、少なからぬ違和感が残った。そもそも、酒に酔って男にスキを見せたから、テルマはレイプされそうになったのではないか?彼女に、責任はないのか? また逃避行の旅の途中、2人のサンダーバードに遭遇しては、性的なからかいを仕掛けてくる、大型トレーラーの男性運転手への処断も、「?」だった。物語の終盤近く、2人は何度目かの遭遇をした彼を下車させて、警告する。しかし態度を改めないため、怒った2人は、彼のトレーラーに銃弾を撃ち込んで、爆発炎上させてしまう。 セクハラを受けたといっても、言葉の問題に過ぎないじゃないか。いくら何でも「やり過ぎだ」と、当時の私には感じられた。 しかし後々、自分も家庭を持って齢を重ねていく内に、女性にとっての“ガラスの天井”が思った以上に厚く、己もそんな中で、“男性優位”の社会に安住してきたことに思い至った。若造の自分が、「女性の気持ちがわかっている」などと、傲慢な気持ちを抱いてことを思い返しては、恥じ入るようにもなった。 そうなると、テルマとルイーズの取った行動に対する考えも、変わってくる。本作に於いては2人の行いが、実に納得がいくように描かれているのである。 2人が逃避行を余儀なくされるに至る、レイプ未遂の一件。酒場でいかに意気投合しようとも、合意のない女性を、無理矢理に性欲のハケ口にするなど、論外である。そしてこの加害者にして被害者となる男は、これまでもこんな卑劣な手口で、数多の女性たちに被害を及ぼしてきたことを窺わせる。 また2人の逃走劇が進む内に明らかになるのだが、ルイーズは若き日に、レイプの犠牲になっていた。そしてその時、警察などの対応に絶望して、故郷のテキサスを離れたのである。「殺害」したのは、確かにやり過ぎだろう。しかしそうした彼女の痛ましい過去が、たまたま手にしていた拳銃の引き金を引かせてしまったのだ。 続いて、運転中のテルマとルイーズにセクハラ嫌がらせを行った、トレーラー運転手の問題。2人は野卑なこの男に、「アンタの妻や娘、姉妹が同じことされたら、どう思う?」と、はっきり問い質している。しかし運転手は、そう言われたことを屁とも思わない態度を取ってみせる。これでは“映画”的には、トレーラーを爆破されても、致し方あるまい。 レイプ未遂犯、トレーラーの運転手からテルマの夫、そして若き日の“ブラピ”が演じる強盗の青年まで、本作に登場する男どものほとんどが、女性を下に見て、彼女たちから搾取することを恥じない者たちだ。例外のように、マイケル・マドセン演じるルイーズの恋人が優しさを見せるが、彼も彼女が自分の前から消えそうになるまでは、結婚を申し込めなかった。自分本位な部分が、拭えない男性である。 追っ手の側には、終始彼女たちに同情的な姿勢を見せる、ハル警部(演:ハーベイ・カイテル)が登場する。しかし彼も彼女たちの救いとなる力は、残念ながら持ち得ない。 こうして監督と俳優の共犯関係が出来上がり、見事な演技を見せたジーナ・デイヴィスとスーザン・サランドン。その年度のアカデミー賞で、共に主演女優賞にWノミネートされた。 すでに『偶然の旅行者』(88)で助演女優賞の受賞経験があるデイヴィスも、『アトランティックシティ』(80)以来のノミネートとなったサランドンも、この時は残念ながら、オスカーを手にすることはなかった。同一作品から2人の候補が出たことによって、票が割れたのと、この年は『羊たちの沈黙』(91)のジョディ・フォスターという、強力なライバルがいたのである。 以前より社会問題に対しての意識が高かったサランドンとデイヴィスだが、本作以降その政治的発言や行動が、益々注目されるようになった。そんな中で、サランドンが遂にオスカーを掌中に収めたのは、4年後のこと。当時の彼女のパートナーであったティム・ロビンスが監督を務め、死刑制度に対する疑義を打ち出した、社会派の作品『デッドマン・ウォーキング』(95)での主演女優賞受賞だったのは、至極納得がいく。『テルマ&ルイーズ』は、娯楽性を大いに湛えながらも、観る者を試す“リトマス試験紙”の役割をも果たす。リドリー・スコットは“コメディ”として演出したともいうが、やはり凡百の監督では、ここまでの作品には、仕上げられなかっただろう。 そんなリドリー・スコット監督こそ、まさに現代の“巨匠”の名にふさわしい。■
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COLUMN/コラム2021.02.04
漂泊者ポランスキーの「呪われた映画」『ローズマリーの赤ちゃん』
本作『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)の原作小説は、アイラ・レヴィン(1929~2007)が、67年に発表。ベストセラーになった。 レヴィンは、物語に時事的な社会問題を織り込んでサスペンスを醸し出す、巧みなストーリーテラーとして評価が高かった作家である。72年に出版された「ステップフォードの妻たち」は、“ウーマン・リブ”の時代への男性の恐怖心をベースにしたもの。76年の「ブラジルから来た少年」では、ナチス・ドイツ残党の実在の医師メンゲレが、当時最新の“クローン”技術で、ヒトラーの復活を企てる。 そしてそれらに先立つ「ローズマリーの赤ちゃん」は、50年代末から60年代初めに起こった世界的な大事件から、着想を得ている。 ニューヨークに住む、ローズマリーとガイの若夫婦。ガイは俳優で、舞台やテレビCMなどに出演するも、今イチぱっとしない。 夫婦は歴史のあるアパート、ブラムフォードへと引っ越す。2人の中高年の友人ハッチは、過去に数々の事件が起こった場所だと懸念するが、夫婦は耳を貸さなかった。 入居して間もなくローズマリーは、隣室のカスタベット夫妻宅の居候だという、若い娘テリーと親しくなる。しかしその数日後、テリーは窓から身を投げ、自殺を遂げる。 その件がきっかけで、ローズマリーとガイは、テリーの面倒を見ていた隣室の老夫婦、ローマンとミニーと顔見知りになる。夕食に招かれるなどする内に、ガイは演劇に詳しいローマンと親しくなり、カスタベット家を頻繁に訪ねるようになる。 そして間もなく、ガイのライバルの俳優が突如失明。ガイに役が回るという、思いがけないチャンスが巡ってきた。 時を同じくしてガイは、子作りにも積極的になる。ローズマリーの排卵日、彼女はミニーから差し入れられたデザートを食べた後、目まいに襲われ、ベッドに臥せってしまう。 その夜ローズマリーは、夢を見る。ガイやカスタベットらが見守る中で、人間離れした者に犯されるという内容の悪夢であった。 翌朝起きると、彼女の身体のあちこちに、引っかき傷が出来ていた。ガイは、子作りのチャンスを逃したくなかったので、意識のないローズマリーを抱いたと説明をする。 エヴァンスが『反撥』に感心して、ポランスキーに監督をオファーしたことは、先に記した通りだ。『反撥』は、セックスへの恐怖心が昂じて、閉鎖空間で現実と妄想の区別がつかなくなって狂っていく、若い女性が主人公の作品である。 そんな作品を撮ったポランスキーこそ、「ローズマリー…」の映画化に正に打ってつけの人材と、エヴァンスは見込んだ。そしてポランスキーもまた、この題材に強く惹かれたというわけである。 ポランスキーは自分で注文をつけた通り、ほぼ「原作に忠実」な映画化を行った。そんな中ローズマリーが犯されるシーンで、LSDを服用したかのような、サイケな映像を用いて、現実とも妄想ともつかないように演出している辺り、当時の彼の才気が爆発している。 原作からの改変として、ポランスキーが挙げるのは、次の一点のみ。 「…私はラストを少し改変した。というのは、本の結末は少しばかり失望させるものだったからだ。あそこはちょっと長引きすぎると思う」。 これに関しては機会があったら、是非原作と映画版の違いを、自らの目で確かめて欲しい。 何はともかく、レヴィンの原作とポランスキー監督のマッチングは、大成功! ローズマリー役のミア・ファローのニューロティックな感じもピタリとハマった。映画は大ヒットを記録し、ポランスキーはアカデミー賞の脚色賞にもノミネートされる。 通常ならばこうした経緯を、「幸運な出会い」と表現するべきなのであろう。しかしこの作品に関しては、それ以上に他の形容をされる場合が多い。「呪われた映画」であると…。 後に原作者のレヴィンは、自分は“サタン”を信じないと発言。またポランスキーは、無神論者であることを明言している。それなのにこの作品とその成功は、作り手がつゆとも思わなかった、“悪魔”を呼び込んでしまったのである。 『ローズマリー…』の大成功により、ハリウッドの住人として認められたポランスキーは、映画公開の翌年=69年2月、ロサンゼルスに居を構える。それから半年経った8月9日朝、ポランスキー家のメイドが、5人の遺体を発見する。 殺害されていたのは、ポランスキーが『吸血鬼』で出会って結婚し、当時妊娠8カ月だった女優のシャロン・テートと、ポランスキー夫妻の関係者ら。ポランスキー本人は、次回作のシナリオ執筆のためロンドンに滞在しており、留守にしていた。 数か月後、凶行に及んだのは、チャールズ・マンソンが率いるカルト集団であることが判明。この犯行は無差別殺人の一環であり、ポランスキーの邸宅が狙われたのは、単なる偶然であった。 いずれにせよ、『ローズマリー…』が成功せず、ポランスキーがロスに居を移すことがなかったら…。若妻がカルト集団に惨殺されることも、なかったわけである。 因みに映画でローズマリーらが住むアパート、ブラムフォードの外観に使われたのは、ニューヨークのセントラルパーク前に在る、ダコタハウス。1980年12月8日、ここに住むジョン・レノンが、玄関前で撃たれて落命した、あのダコタハウスである。 これは、映画とは何ら関係のない事件である。しかしミア・ファローが、ビートルズのメンバーと共に、インドで瞑想の修行に臨んだ過去の印象などもあってか、『ローズマリー…』を「呪われた」と語る場合、不謹慎な言い方になるが、レノンの殺害が、その彩りになってしまっているのは、紛れもない事実と言える。『ローズマリーの赤ちゃん』TM, ® & © 2021 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.