スティーヴン・スピルバーグが監督した、伝説的なTVムービー『激突!』は、1971年11月にアメリカで放送。高視聴率と高評価を勝ち取った。

気を良くした製作会社のユニヴァーサルは、海外では『激突!』を、“劇場用映画”として展開することを決定。フランスで開かれた「第1回アボリアッツ国際ファンタスティック映画祭」ではグランプリを受賞するなど、大評判となった。

1946年12月生まれ。20代中盤だったこの時期のスピルバーグにとって、『激突!』のようなTVムービーの転用ではない、初めての“劇場用映画”を手掛けるという、念願の瞬間は刻一刻と近づいてきていた。しかし『激突!』が好評だったからといって、一気呵成に夢が実現したわけではない。

『激突!』の翌年=72年は、2本目のTVムービーとして、オカルトものの『恐怖の館』、73年にはシリーズ化を想定した90分のパイロットフィルム『サヴェージ』を演出している。

 そうしている間にも、“劇場用映画”の準備を並行。脚本家ジョゼフ・ウォルシュと9カ月掛けて練ったギャンブルものの『スライド』は、実現のメドが立たず、やがてスピルバーグは、プロジェクトから離れた。この脚本は後にロバート・アルトマン監督の手で、『ジャックポット』(1974/日本未公開)という作品になる。

スピルバーグが脚本を書いた、クリフ・ロバートソン主演の『大空のエース/父の戦い子の戦い』(1973/日本未公開)。この作品では結局、“原案”としてクレジットされるに止まった。

当時人気急上昇だった、バート・レイノルズ主演の『白熱』(73)。スピルバーグは、ロケハン、キャスティング等々、製作準備に追われて3カ月ほど過ぎたところで、監督を降板した。

この件に関して彼は、「職人監督の道を歩みたくなかった。もう少し独自のものをやりたかったんだ」などと発言しているが、友人兼仕事仲間の一団を従えて撮影に関与してくるレイノルズとの仕事を、うまく裁く能力も興味もなかったからだとも言われる。結局『白熱』は、ジェゼフ・サージェントがメガフォンを取って、完成した。

 そうした紆余曲折を経て、最終的に実現に向かったのが、本作『続・激突!/カージャック』だった。日本語タイトルは、『激突!』を受けて、その続編の体裁となっているが、内容は全くの無関係。1969年5月にテキサス州で実際に起こり、全米の耳目を集めた事件をベースに、スピルバーグが、友人のバル・バーウッド、マシュウ・ロビンスという2人の脚本家と共に、物語を編んだ。

 テキサス州立刑務所に、ケチな窃盗事件の犯人として収監されていたクロービス(演:ウィリアム・アザ―トン)は、面会に来た妻のルー・ジーン(演:ゴールディ・ホーン)の手引きで脱獄する。刑期をあと4か月残すのみだったのに、敢えて危険を冒すハメになったのは、裁判所命令で取り上げられていた2人の幼い息子が、福祉協会を通じて養子に出されてしまうことがわかったからだった。

 最初は脱獄に消極的だったクロービスだが、ルー・ジーンから「息子を取り戻さないと、離婚よ」と迫られ、渋々妻の計画に従うことに。他の囚人の面会に来ていた老夫婦を騙してその車に同乗し、我が子が引き取られた家庭がある、“シュガーランド”の町へと向かう。

 その途中、スライド巡査(演:マイケル・サックス)のパトカーに呼び止められたことから、逃走を図った2人は、成り行きからパトカーを“カージャック”。人質にしたスライドを脅迫し、引き続きシュガーランドへと針路を取った。

 やがてこの事実が明らかになり、タナー警部(演:ベン・ジョンソン)が指揮を執る、警察の追跡が始まった。狙撃による、犯人の射殺も検討されたが、夫婦が凶悪犯ではないことを知った警部は、躊躇する。

 やがてマスコミの報道から、事件を知った野次馬も大挙して押し掛け、夫婦を英雄扱いする者まで現れる。人質のスライド巡査も夫婦に、友情のような気持ちを抱くようになる。

 はじめはただ我が子を取り戻したかっただけなのに、騒ぎが過熱していく。クロービスとルー・ジーン、彼ら2人に訪れる結末とは!?

 無責任に2人を煽って騒動を大きくしていく、マスコミや野次馬への批判的視点も盛り込まれた本作だが、スピルバーグがこの物語で重視したのは、父親と母親が不都合を顧みず、我が子を遠路はるばる取り戻しに行くストーリーだったと言われる。少年期に経験した両親の不和と離婚を、フィルモグラフィーに反映し続けた、スピルバーグの原点と言える。

 そんな本作の企画ははじめ、スピルバーグと関係の深いユニヴァーサルに持ち込まれたものの、にべもなく断られて宙に浮く。他社への売り込みを図らなければならなくなったところで登場したのが、リチャード・D・ザナックとデヴィッド・ブラウンのコンビだった。

ザナック&ブラウンは、映画会社には属しない独立プロデューサーとしての活動を始め、ちょうどユニヴァーサルと提携したばかり。『ザ・シュガーランド・エクスプレス(本作の原題)』の脚本を読んで気に入ったものの、この企画が1度、自分たちの提携先に却下されていることを知って、知恵を絞った。

そして2人は、本作の企画を、他のプロジェクトの一群に紛れ込ませるという荒業を使って、通してしまったのである。但しメインキャストの3人の中に、名前が通った“スター”を入れるのが、絶対条件であった。

スピルバーグはまず主演男優に、『真夜中のカーボーイ』(69)や『脱出』(72)などのジョン・ヴォイトを据えようとした。しかし、そのために設けた会食の席でヴォイトは、新人監督の作品に出ることをリスキーと考えたらしく、本作への出演を断った。

ザナック&ブラウンは主演女優として、『サボテンの花』(69)でアカデミー賞助演女優賞を受賞しているゴールディ・ホーンを提案。一説にはユニヴァーサルが、「ゴールディ・ホーンが出なければ映画は作らない」と主張し続けたとも言われている。

ホーンは、本作が自分の新生面を引き出してくれることを期待して、オファーを快諾。『続・激突!/カージャック』の製作に、GOサインが出た。

「予算180万ドル」「準備期間3カ月」「撮影60日」。実際に起きた事件をベースにしていることから、事実にできるだけ即するため、ロケはすべてテキサスで行われることとなった。

 クランクインは、1973年1月8日。ザナックはその撮影初日から、スピルバーグに唸らされたといいう。

「…ほんの青二才がそこでは周囲に海千山千のクルーを大勢従え、大物女優を引き受けている。それも何か簡単なシーンからスタートするのではなく、あの男ときたら複雑なタイミングを山ほど必要とする、やたらこみ入ったシーンから手をつけたよ。そして、それが信じられないほどうまく進行しているときた…あの男ときたら映画の知識を身につけて生まれてきたかのよう、自在にやってのけていたよ。あの日以来、私は彼に驚かされっ放しなんだ」

 このザナックの現場での実感は、「ニューヨーカー」誌の著名な映画評論家ポーリン・ケイルが、本作公開後に記した批評にも通じる。

「技術的安定が観客にもたらす娯楽という点から見て、これは映画史においても最も驚異的なデビュー作である」

 本作は撮影隊がテキサス州を移動するのに合わせ、州内各地の町で5,000人のエキストラが雇われ、車240台が使われた。撮影は完全な“順撮り”。台本通りの順番で行われた。これは本作で、主人公たちを追跡する警察や自警団、野次馬などの車が、徐々に多くなっていく展開だったためである。製作費の関係上、日数計算でレンタル料を払わなければならない車両を、撮影に使わない日まで借りている余裕がなかったのだ。

  余談であるが、テキサスでのロケに当たっては、現地の警察がパトカーを出してくれるのを期待していたが、それはすげなく断られた。その少し前に同地で撮影された、サム・ペキンパー監督の『ゲッタウェイ』(72)のスタッフが、酒場で喧嘩騒ぎを起こしたり、警察が貸した車両から、警察無線が消えたりしたことが原因だった。ペキンパー組の煽りを喰って、本作ではパトカーを競売で25台、落札するハメとなった。

 しかしながら、ロケは順調に進んだ。この処女作の撮影で、スピルバーグが得たものは、非常に大きかったと言える。

主演のゴールディ・ホーンについてはスピルバーグ曰く、「…最初の映画を撮るぼくにとって驚くべき女優だった。彼女は完全に協力的で、数えきれないほどの名案を出してくれた」ということである。

そして彼女の役どころは、その後のスピルバーグ映画によく登場する、「あまり身だしなみに気を使わない女性」の先駆けとなった。『未知との遭遇』(77)のメリンダ・ディロン、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81)のカレン・アレン、『E.T.』(82)のディー・ウォレス、『オールウェイズ』(89)のホリー・ハンター、『ジュラシック・パーク』(93)のローラ・ダーン等々のオリジナルが、本作にある。

因みにゴールディ・ホーンは本作の撮影について、「こんなに楽しいロケは初めてだというスタッフが何人もいたわ」と語っている。地元の女性と結婚したスタッフが、4人もいたのだという。

 本作の撮影を担当したのは、ヴィルモス・ジグモンド。1956年に共産圏だったハンガリーから亡命し、“アメリカン・ニューシネマ”の時代になると、気鋭の若手監督の作品を多く手掛け、めきめきと頭角を現していた。彼はスピルバーグに、「視点を持つこと」の大切さを教えた。

スピルバーグが、あるシーンを車のガラス窓越しに撮影するようジグモンドに伝えると、「誰の視点なんだ?」との問いが返ってきた。そこでスピルバーグが、「僕の、監督の視点だ」と答えると、ジグモンドは、「そいつは賢い。だが効果はないね」。

カメラは監督の客観的な“神の目”から覗くのではなく、登場人物の視点から覗かなければならないということ、カットは映像的に素晴らしいだけでは不十分で、何かを意味しなければならないことを、ジグモンドは教授したわけである。

撮影中は意見が衝突することも少なくなかったというが、スピルバーグは後に、『未知との遭遇』(77)で再びジグモンドを起用。

『未知との…』の素晴らしいカメラには、アカデミー賞の撮影賞が贈られた。

スピルバーグにとって特に大きな収穫と言えたのは、音楽を担当したジョン・ウィリアムズとの出会い。本作を皮切りにもはや半世紀近く、「スピルバーグ作品と言えば、ジョン・ウィリアムズの音楽」である。

スピルバーグがジョージ・ルーカスに紹介したことが、ウィリアムズが『スター・ウォーズ』の音楽を手掛けることにも、繋がった。正にお互い、映画業界の第一人者の地位を、その協力関係によって築き上げたと言える。

スピルバーグには実りが多かった本作だが、1974年4月5日からのアメリカ公開は、興行的には不発であった。しかし先に挙げたポーリン・ケイルをはじめ、批評的には素晴らしい評価をされ、その年の5月開催の「カンヌ国際映画祭」では、脚本賞が贈られた。

 スピルバーグを喜ばせたのは、尊敬するビリー・ワイルダー監督からの絶賛。「この作品の監督はこれから数年以内にすばらしい才能を発揮するようになるはずだ!」

 本作のラッシュを見た段階でスピルバーグの才能を確信したザナックとブラウンは、監督第2作に取り組ませることにした。まず提案したのは、『マッカーサー』。敗戦後の日本の統治を行ったことなどで知られる、アメリカの英雄的な軍人の伝記映画である。

しかしスピルバーグは、「2年もの間10カ国で働き、それぞれの国で下痢をする」のは嫌だと断った。因みにこの作品は、『激突!』の出演を断ったグレゴリー・ペックの主演で映画化され、77年に公開している。『白熱』でスピルバーグの代役となったジョゼフ・サージェントが、またも監督を務めたのは、“運命の皮肉”と言うべきか。

『マッカーサー』を断り、では次回作を何にするかを考えている時、スピルバーグはデヴィッド・ブラウンのデスク上に、ザナック&ブラウンが出版前の段階で映画化権を押さえた、小説のゲラ刷りが積んであるのが目に入った。彼は何気なく、一番上にあるものを手に取り、ブラウンの秘書に許可を貰って、自宅に持ち帰って読むことにした。

そのゲラ刷りの表紙に記してあったのは、『JAWS=ジョーズ』というタイトルだった。■

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