ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2022.11.09
ジョン・マルコヴィッチしか考えられなかった…。“カルト映画”の傑作『マルコヴィッチの穴』
本作『マルコヴィッチの穴』(1999)の原題は、“Being John Malkovich”。当代の名優とも怪優とも評される、ジョン・マルコヴィッチがタイトルロールを…というか、マルコヴィッチ自身を演じる。 日本ではアメリカから遅れること、ちょうど1年。2000年9月の公開となった。私はその頃、TBSラジオで「伊集院光/日曜日の秘密基地」という番組の構成を担当していたが、パーソナリティの伊集院氏がこの作品のことを、生放送前後の打合せや雑談などで、よく話題にしていたことを思い出す。かなりのお気に入りで、翌10月から始まった新コーナーに、「ヒミツキッチの穴」というタイトルを付けたほどだった。「ジョン・マルコヴィッチってのが、良いんだよな~」と、伊集院氏は言っていた。そして、「日本の俳優でやるとしたら、誰なんだろう?“大地康雄の穴”とかになるのかな」とも。 この例え、当時個人的には「絶妙」だと思った。今となっては、まあわかりにくいかも知れないが…。 私的にはそんな思い出がある『マルコヴィッチの穴』とは、どんな作品か?まずはストーリーを紹介しよう。 ***** 才能がありながらも認められない、人形使いのグレイグ(演:ジョン・キューザック)は、妻のロッテ(演:キャメロン・ディアス)から言われ、やむなく定職を求める。 新聞の求人欄から彼が見付けたのは、小さな会社の文書整理係。そのオフィスは、ビルのエレベーターの緊急停止ボタンを押してから、ドアをバールでこじ開けないと降りられない、7と1/2階に在った。そしてそこは、かがまないと歩けないほど天井が低い、奇妙なフロアーだった。 書類の整理に勤しむグレイグは、ある日書類棚の裏側に、小さなドアがあるのを見付ける。興味本位でドアを開け、その中の穴に潜り込むと、突然奥へと吸い込まれる。 気付くとグレイグは、著名な俳優ジョン・マルコヴィッチの脳内へと入り、彼になっていった。しかし15分経つとグレッグに戻って、近くの高速道路の脇の草っ原へと放り出される。 興奮した彼は、同じフロアーの別の会社のOLで、一目惚れしながらも相手にされなかったマキシン(演:キャスリーン・キーナー)に、この秘密を話す。マルコヴィッチ自体を知らなかった彼女だが、この体験=穴に入ってマルコヴィッチに15分間なる=を、1回200㌦でセールスすることを提案。グレイグと共にビジネスを始めると、深夜の7と1/2階には、行列が出来るようになる。 しかしこれはまだ、グレイグ&ロッテ夫妻とマキシーン、そして俳優ジョン・マルコヴィッチを巡る、不可思議な物語の入口に過ぎなかった…。 ****** ジョン・マルコヴィッチ。1953年12月、アメリカ・イリノイ州生まれで、間もなく69歳になる。『マルコヴィッチの穴』の頃は、40代半ばといったところ。 若き日に、仲間のゲイリー・シニーズらと立ち上げた劇団で評判を取り、やがてブロードウェイに進出。『True West』や『セールスマンの死』などに出演し、オビー賞など数々の賞を手にした。 映画初出演は、ロバート・ベントン監督の『プレイス・イン・ザ・ハート』(84)。主演のサリー・フィールドに2度目のオスカーをもたらしたこの作品で、盲目の下宿人を演じたマルコヴィッチは、いきなりアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。 以降は、主役から脇役まで幅広い役柄で、数多くの作品に出演。悪役やサイコパス役に定評があり、またヨーロッパのアート作品にも、度々出演している。 演技も風貌も、いわゆる「クセの強い」俳優であるが、プライベートでの言動や行動も、そのイメージを裏付ける。今ではその発言自体を否定しているが、「一般大衆に認識されているものはクソだ。彼らの考えにも吐き気がする。映画は金のためだけにやっている」などと、言い放ったことがある。 また、ニューヨークの街角で絡んできたホームレスに激怒し、大型のボウイナイフで脅したり、オーダーメードのシャツの出来上がりが遅れたテーラーに怒鳴り込んだり、バスが停車しなかったことに腹を立て、窓を叩き割る等々の、暴力的な振舞いが度々伝えられた。 その一方で、映画デビュー作の共演者サリー・フィールドが、「ただただ彼を敬愛している」と言うのをはじめ、共演者たちの多くからは称賛されている。初めてブロードウェイの舞台に立った『セールスマンの死』の共演者である名優ダスティン・ホフマンは、「彼との仕事は、私のキャリアの中でも貴重な経験だった」としている。 そんなマルコヴィッチをネタにした、摩訶不思議な本作のストーリーを書いたのは、チャーリー・カウフマンという男。それまでTVのシットコムの脚本を生業としていた彼にとっては、映画化に至った、初の長編脚本である。 本作の脚本は、「特に戦略を持たずに書き始めた」ということで、最初は「既婚者の男が恋をする」というアイディアだけだった。そこに後から、「穴を通って別人の脳内に入る」という発想が加わって、他者になりすまして名声を得たり、生き長らえようとする者たちや、逆にそうした者たちに自由を奪われて、己を失っていく者が登場する物語になったのである。『マルコヴィッチの穴』は、誰が観ても、「アイデンティティがテーマ」の作品だと、理解される。しかしカウフマンが書き始めた当初は、そんなことは考えてもいなかったわけである。 脳内に入られる人物に関しては、「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」という。マルコヴィッチがブロードウェイの舞台に立った時のビデオを観て衝撃を受けたというカウフマン。曰く、「彼がステージに立つと目が離せない」ようになった。そして本作の物語を編んでいくに際して、「彼は不可知な存在で、作品にフィットすると思った」と語っている。「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」のは、その「微妙な知名度」も、ポイントだったように思われる。映画・演劇業界の周辺では、誰も知る実力の持ち主であるが、万人にとってのスーパースターというわけではない。本作の中でマキシンが、マルコヴィッチと聞いても、誰かわからなかったり、タクシーの運転手が、マルコヴィッチ本人がやってもいない役柄で「見た」と話しかけてきたりするシーンがわざわざ設けられていることからも、作り手のそうした意図が、読み取れる。 因みにマルコヴィッチ自身は8歳の頃、“トニー”という名のもうひとりの自分を作り出していたという。その“トニー”とは、クロアチア系の父親とスコットランド及びドイツ系の母親から生まれたマルコヴィッチとは違って、スリムなイタリア人。至極人当たりがよく、首にスカーフを巻くなど、おしゃれで粋なキャラだった。 マルコヴィッチが“トニー”になっている時は、大抵ひとりぼっちだった。しかしある時はなりきったまま、野球の試合でピッチャーマウンドに上がったこともあったという。 そのことに関してマルコヴィッチは、「…たぶん多くの人が今とは別の人生を送りたいと願っているだろう…」と語っている。カウフマンが執筆当時、そんなことまで知っていたとは思えないが、そうした意味でも、本作の題材にマルコヴィッチをフィーチャーしたのは、正解だったかも知れない。役柄的には、逆の立場であるが…。 しかし、カウフマンの書いた『マルコヴィッチの穴』の脚本は、業界内で非常に評判になりながらも、なかなか映画化には至らなかった。内容が特殊且つ、エッジが立ち過ぎていたからだろう。 ジョン・マルコヴィッチ本人も、その脚本の完成度には唸ったものの、こんな形で俎上に載せられるのには臆したか、「自分を題材にしないことを条件に監督やプロデューサーを引き受ける」とカウフマンに提案。話がまとまらなかった。 もはや映画化は、不可能か?カウフマンも諦めかかった頃に、本作の監督に名乗りを上げる者が現れる。それが他ならぬ、スパイク・ジョーンズだった。 当時ジョーンズは、ビースティ・ボーイズやビョーク、ダフト・パンクなど数多の人気ミュージシャンのMVを演出した他、CMでも国際的な賞を受賞。写真家としても成功を収め、まさに時代の寵児だった。映画監督としては、短編を何本か手掛けて、やはり好評を博しており、長編デビューの機会を窺っていた。 そんな彼が「…とにかく、脚本が本当に良かった」という理由で、『マルコヴィッチの穴』に挑むことになったのである。当時の彼の妻ソフィア・コッポラの父、『ゴッドファーザー』シリーズなどのフランシス・フォード・コッポラ監督の後押しもあったと言われる。 その後ジョーンズとカウフマンで、映画化に向けての作業が進められる中で、件の経緯もあったせいか、ホントに“ジョン・マルコヴィッチ”が適切であるかどうか、2人の間で迷いが生じることもあった。このタイミングだったかどうか定かではないが、トム・クルーズの名が挙がったりもしたという。 しかし結局は、他の人物では満足できず、マルコヴィッチで行きたいということになった。マルコヴィッチの方も、スパイク・ジョーンズという希有な才能に惹かれたということか、「…あまりに途方もなくとんでもないストーリーだから、自分の目で見届けたくなった…」と、出演がOKになったのである。 完成した『マルコヴィッチの穴』は、「ヴェネツィア国際映画祭」で国際批評家連盟賞を受賞したのをはじめ、内外の映画祭や映画賞を席捲。一般公開と共に“カルトムービー”として人気を博し、アカデミー賞でも、監督賞、脚本賞、助演女優賞の3部門でノミネートされた。 この時はオスカーを逃したカウフマンとジョーンズだったが、2人とも本作が高く評価されたことから、監督、脚本家、プロデューサーとして地位を築いていくことになる。後にカウフマンは『エターナル・サンシャイン』(04)で、ジョーンズは『her/世界でひとつの彼女』(13)で、それぞれアカデミー賞脚本賞を受賞している。 因みにジョン・マルコヴィッチに関しては2010年、その軌跡を振り返る試みを、映画批評サイトの「Rotten Tomatoes」が実施。「ジョン・マルコヴィッチの傑作映画」という、ベスト10を発表した。 その際、第1位に輝いたのは、デビュー作の『プレイス・イン・ザ・ハート』。そこに、ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『家路』(01)、盟友ゲイニー・シニーズの監督・主演作『二十日鼠と人間』(92)等々が続く。そんな中で本作『マルコヴィッチの穴』(99)は、堂々(!?)第6位にランクインしている。 しかしこのベスト10以上に、本作のインパクトが、大きく残っていることを感じさせる出来事が、2012年にあった。それはマルコヴィッチが出演した、iPhone 4SのCM。この中で「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」というセリフが繰り返されるのだが、これは『マルコヴィッチの穴』に登場する、最もヴィジュアルイメージが強烈なシーンを、明らかに模したもの。 ではその元ネタとなったのは、果してどんな場面なのか?それはこれから観る方のために、この稿では伏せておこう。 「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」■ 『マルコヴィッチの穴』© 1999 Universal City Studios Productions LLLP. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.11.02
1人の男の情熱が、“インドへの道”を開いた!『ムトゥ 踊るマハラジャ』
あなたは“インド映画”と聞くと、どんなイメージが湧くだろうか? アクション、コメディ、ロマンス、そして歌って踊ってのミュージカル!3時間に迫る長尺の中に、こうしたエンタメのオールジャンル、ありとあらゆる娯楽の要素がぶち込まれて、これでもか!これでもか!!と迫ってくる。インド料理で使用する、複数のスパイスを混ぜ合わせたものを“マサラ”と言うが、それに因んで、「マサラ・ムービー」と呼ばれるような作品を、思い浮かべる方が、多いのではないだろうか? だが日本に於いて、“インド映画”がこのようなイメージで捉えられるようになったのは、1990年代も終わりに近づいてから。それ以前、日本でかの国の映画と言えば、ほぼイコールで、サダジット・レイ監督(1921~92)の作品を指していた。 レイは、フランスの巨匠ジャン・ルノワールとの出会いや、イタリアのヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(48)を観た衝撃で、映画監督になることを決意した。『大地のうた』(1955)『大河のうた』(56)『大樹のうた』(59)の「オプー三部作」などで、カンヌ、ヴェネチア、ベルリンの3大映画祭を席捲。国際舞台で高く評価され、最晩年にはアメリカのアカデミー賞で、名誉賞まで贈られている。 そんなレイの諸作は、日本ではATG系や岩波ホールで上映された、いわゆる“アート・フィルム”。これが即ち、日本に於ける“インド映画”のパブリック・イメージとなっていたわけである。 それを一気に覆して、件の「エンタメてんこ盛り」の“マサラ・ムービー”のイメージを日本人に植え付け、“インド映画”ブームを巻き起こしたのが本作、K・S・ラヴィクマール監督による『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95)!そしてその主演、“スーパースター”ラジニカーントである。 ***** 大地主のラージャに仕えるムトゥ(演:ラジニカーント)は、親の顔も知らない、天涯孤独の身の上ながら、いつも明るく頼りになる男。主人の信望が厚く、屋敷の使用人たちのリーダー的存在であり、また近隣住民からの人気も高かった。 ある日ラージャのお供で旅回りの一座の芝居を観に行ったムトゥは、退屈で居眠りをし、大きなくしゃみを何発もして、一座の看板女優ランガ(演:ミーナ)の怒りを買う。その一方でそんなランガの美貌に、ラージャが心を奪われる。 数日後、再びランガたちの芝居を観に行ったラージャとムトゥは、公演の邪魔をしに来た地元の顔役一味と、大乱闘。ラージャの指示で、ランガと馬車で脱出したムトゥは、激しい馬車チェイスの末、何とか逃げ切る。 しかしまったく知らない土地に迷い込んでしまい、言葉も通じないため、ムトゥは困惑。そんな時にランガのイタズラ心がきっかけで、2人は熱いキスを交わし、激しい恋に落ちる。もちろんご主人様のラージャの、ランガへの想いなど、つゆも知らず…。 ムトゥは屋敷にランガを連れ帰り、ラージャに彼女も雇ってくれと頼む。自分のプロポーズが受け入れられたと勘違いしたラージャは、大喜びでランガを受け入れる。 そんなこんなで、恋愛関係は混戦模様。その一方でラージャの悪辣な叔父が、甥の財産を乗っ取ろうと、恐ろしい計画を進める。 危険が、刻一刻と近づく。そんな中でムトゥ本人も知らなかった、彼の出生の秘密が明かされる…。 ***** 映画の開巻間もなく、「スーパースター・ラジニ」と文字が画面いっぱいに広がって仰天する。これは『007』シリーズのオープニングを意識して作成された“先付けタイトル”。本作ではタイトルロールのムトゥを演じた、ラジニカーント(1950~ )主演作の多くで、使用されているものだ。 日本ではとても主役になることはない濃さを感じるラジニカーントであるが、貧しい家の出でバスの車掌出身という親しみ易さもあって、“インド映画界”では、紛れもないスーパースター。いやもっと厳密に言えば、“タミル語映画界”で主演作が次々と大ヒットとなった、押しも押されぬスーパースターである。 広大で人口も多いインドでは、地域ごとに言語も違っている。本作でムトゥが知らない村に着いたら、言葉が通じないというのは、決して誇張された表現ではない。 公用語だけでも20前後あるインドでは、各地域ごとにその地域の言葉を使って、映画が製作されている。年間の製作本数は、多い年では長編だけで1,000本近くと、アメリカを楽々と上回るが、それはこうした各地域で作られているすべての作品をトータルした本数である。 “インド映画界”を表すのには、よくハリウッドをもじった、「ボリウッド」という言葉が言われる。これは正確には、インドで最も話者人口が多い、ヒンディー語で製作される映画の拠点である、ムンバイ(旧名ボンベイ)のことを指す。 ムンバイが、インド№1の映画都市であり、“インド映画”全般のトレンドリーダーなのは間違いないが、本作『ムトゥ』のような“タミル語映画”は、それに次ぐ規模で製作されている。その拠点は、南インドの都市マドラスに在る、コーダムバッカムという地区。そのためこちらは、「ボリウッド」ならぬ「コリウッド」などとも言われている。 ラジニカーントは、そんな“タミル語映画界=コリウッド”の大スターというわけである。 ラジニカーントのムトゥの相手役ランガを演じたのは、本作製作当時は19歳だった、ミーナ(1976~ )。目がパッチリした、ポッチャリめの美女である彼女は、子役出身で、本作の頃は、1年間に7~8本もの作品に出演する、超売れっ子だった。活動の中心は“タミル語映画”だが、他にもマラヤーラム語、テルグ語、カンナダ語が話せるため、それぞれの言語を使った作品からオファーされ、出演していた。 ラジニカーントとミーナの年齢差は、実に26歳であるが、『ムトゥ』以外にも、何度も共演している。 さて、そんな2人が軸で繰り広げられる、大娯楽絵巻!ムトゥは、首に巻いた手ぬぐいや馬車用のムチを、まるでブルース・リーのヌンチャクの如く使いこなす。彼に叩きのめされた敵は、空中を回転したり、壁をぶち抜いたりしながら、次々と倒されていく。追いつ追われつの激しい馬車チェイスでは、追っ手の人間、馬、馬車が、壮絶にコケては吹っ飛んでいく。一体何人のスタントマンが、怪我を負ったことか? この映画世界では、ガチのキスシーンは、御法度。その代わりに、川でずぶ濡れになりながら、ムトゥとランガの恋の炎は燃え上がる。 そして、ことあるごとに大々的に展開される、群舞のミュージカルシーン。大人数のダンサーを従えたムトゥとラーガは、目も鮮やかな衣装を取っ替え引っ替えしながら、歌い、そして踊りまくる。因みに“インド映画”の常で、2人の歌声は、“プレイバックシンガー”と呼ばれる、専門のプロ歌手によって吹き替えられているのであるが。 忘れてならないのは、音楽を担当した、A・R・ラフマーン。当時すでに海外からも注目される存在だったが、この後にダニー・ボイル監督の『スラムドッグ$ミリオネア』(2008)の音楽で、アカデミー賞の音楽賞に輝き、世界的な存在になっている。 こうした、典型的且つド派手な“マサラ・ムービー”である本作は、95年に本国でヒットを飛ばしてから3年後、98年6月に、東京・渋谷の今はなきシネマライズで、まずは単館公開。これが半年近くのロングランとなり、興行収入が2億円を突破した。 評判が評判を呼び、最終的に本作は全国で100以上の映画館で上映。先陣を切ったシネマライズを含めて、トータルの観客動員数は25万人、累計興行収入は、4億円にも達す、堂々たる大ヒットとなった。 その後発売された映像ソフト=VHS・レーザーディスク・DVDの販売本数は、6万枚を突破!これまた、異例の大当たりと言える。 それにしても、本国では絶大なる人気を博しながら。それまでまったく日本に紹介されることがなかった、“マサラ・ムービー”である。一体どういった経緯で、突然上映されることになったのか? それは、ひとりの“映画評論家”の家族旅行がきっかけだった。その男、江戸木純氏がプライベートでシンガポールを訪れたのは、1996年の6月。 散歩がてら、インド人街を歩いていた時に、何の気なしにビデオとCDを売るお店へと立ち寄った。そこに並ぶ、観たことのない“インド映画”のパッケージに興味を持った彼は、店員に「今一番人気のあるスターの映画は?」と尋ねた。その時に薦められて購入したのが、ラジニカーントであり、その主演作『ムトゥ』であった。 お店で一部を観ただけで大いに心惹かれた江戸木氏だったが、その際に購入した『ムトゥ』のソフトを、帰国してから全編観て、大いにハマってしまった。そして毎日のように、本作の歌と踊りのシーンを観る内に、「これを映画館の大画面で見たい」という想いを抱き、遂には日本での上映権の購入に至った。 その後江戸木氏は、公開に向かって手を挙げてくれた配給・宣伝会社と連携。公開の戦略を練った結果、まずは「東京国際ファンタスティック映画祭」で『ムトゥ』を上映し、爆笑と拍手の渦をかっ攫った。 この大評判から、多くの問い合わせを受け、新たな提携も得たことから、劇場公開に向かって、大いに前進。遂には『ムトゥ』と出会ってからちょうど2年後の98年6月に、シネマライズでの上映を実現させたわけである。 そして沸き起こった、“第1次インド映画ブーム”!続々と“インド映画”の輸入・公開が続いたが、こちらはかの地の映画会社との契約の難しさなどでトラブルが続出し、ブームは早々にしぼんでしまう。 しかしこの時に、“インドへの道”が開けたのは、確かであろう。『ムトゥ』が起こしたムーブメントがなければ、その後の“インド映画”の紹介は、ずっと難しかった可能性がある。『きっと、うまくいく』(09)や、『バーフバリ』シリーズ(15~17)などの成功も、『ムトゥ』あってこそと言って、差し支えないだろう。 因みにラジニカーントは、齢七十を超えた今も、“タミル語映画界=コリウッド”の輝けるスーパースターである。■ 『ムトゥ 踊るマハラジャ【デジタルリマスター版】』(C) 1995/2018 KAVITHALAYAA PRODUCTIONS PVT LTD. & EDEN ENTERTAINMENT INC.
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COLUMN/コラム2022.10.03
現代韓国映画黎明期に清新の風を吹かせた1本『八月のクリスマス』
日本で韓国映画ブームに火を付けた作品と、一般的に認識されているのは、『シュリ』(1999)だろう。当時韓国で人気№1スターだった、ハン・ソッキュが主演。南北分断という朝鮮半島の政治情勢をベースに、韓国と北朝鮮の諜報員同士の悲恋を織り込んだアクション大作である。 2000年1月に、日本公開。興行収入18億5,000万円を上げる、前代未聞の大ヒットとなった。 しかしながら、その前年=1999年の6月に日本公開されて静かに人気を集めた、もう1本のハン・ソッキュ主演作がある。その作品こそが、現代韓国映画の存在を、日本の観客に最初に印象づけた作品であると、指摘する声も多い。 本作、『八月のクリスマス』(98)のことだ。 ***** 静かな街で小さな写真館を営んでいる、30代の青年ジョンウォン(演:ハン・ソッキュ)。 8月、夏の盛りに急逝した友人の葬式から帰ると、若い女性が急ぎの現像のため、写真館が開くのを待っていた。不躾な応対になってしまったことを詫びて、アイスキャンディを渡すジョンウォン。 それから女性は、頻繁に写真館を訪れるようになる。彼女はこの地域の駐車違反の取締員である、タリム(演:シム・ウナ)。 タリムはジョンウォンを、「おじさん」と呼ぶ。2人は他愛ないおしゃべりを重ね、やがてお互いに惹かれるものを感じ始める。 家族や友人と過ごし、そして写真を撮りに来るお客たちの応対をしながら、ジョンウォンはごく平凡な日常を送っている。しかしタリムに対して、打ち明けられない秘密を抱えていた。彼は重病で、余命幾ばくもなかったのだ。 初デートで楽しい時を過ごした2人だったが、タリムは異動になり、この地域から離れなければならない。そこでジョンウォンに会いに行くが、写真館の電気は消えていた。 病状の進んだジョンウォンは、緊急入院していたのだ。そうとは知らないタリムは、「おじさん」への想いを手紙にしたため、写真館の入口に挟んでおくのだったが…。 ***** 1963年生まれのホ・ジノ監督は、大学卒業後に韓国映画アカデミーに進んだ。その後パク・クァンス監督作品の助監督や共同脚本を担当。『八月のクリスマス』は、30代中盤にして撮った、初めての長編作品である。 スタートは、ホ・ジノが韓国の有名な男性歌手の葬式を、TVで見ていた時に浮かんだ構想。その歌手の遺影が笑顔だったことに、ホ・ジノは感動を覚えた。それが発展して、自らの遺影を笑顔で撮影する写真屋の物語が生まれたのである。 リサーチとして、実際に死にゆく者の介護をした経験がある人たちへのインタビューを行った。そこでそういった人たちが、「死んでゆく人に対しては、ある程度の距離を置いて静かに見つめる視線を次第に持つようになる」ことを聞いた。 ホ・ジノ自身が、ものごとに接する時は、抑え目に距離を保って見つめるタイプ。本作は無理矢理に観客の感情を揺らしたりしない、淡々と抑制された静かな語り口となった。 端的には、説明的な描写やセリフを、徹底的に排す。これが作品の叙情性を高め、観る者の想像力を膨らませることで、自然と観客の心を揺さぶる成果を得た。 ホ・ジノは、自分で書くと客観的になれないという理由で、まず自らの考えを脚本家に伝え、上がってきたものに目を通すというやり方で、脚本を作っていく。これは師であるパク・クァンスから、学んだやり方だという。 しかし、そうやって一旦形となった脚本も、決定稿とはならない。「映画が完成するまで変わっていくもの」と捉えている。 映画で撮るキャラクターには、「三つの要素」があるという。脚本上のキャラクター、役者本人のキャラクター、監督自身の中にあるキャラクター。これも師譲りの手法だというが、ホ・ジノはこの中で、「最も自然なものを選んでいく」。 そんなこともあって、リハーサルで俳優の動きを決めたりはしない。そして撮影現場では、俳優に具体的な指示は出さず、質問を投げかける形で、演出を行う。セリフも動きも、現場を一番大切にして、その日の俳優の動きによっては、カメラの位置を変えることも辞さない。 主役のジョンウォンは、常に笑みを絶やさない。ホ・ジノは、ハン・ソッキュと相談。ジョンウォンは死を目前にして、暗くて悲しい気分に違いないが、明るいときもあるだろうという話になった。 介護経験のある者へのインタビューからも、「死期の近い者は、ものの見方が明るくなる」という話を得ていた。ジョンウォンは、いつも笑顔を浮かべながら、その笑みの中には、大きな哀しみも抱えているキャラクターとなった。 一時、「韓国映画界のあらゆるシナリオはハン・ソッキュを通過する」と言われていた大スターは、エンディングに流れる主題歌まで担当した。そんな本作はソッキュにとって、キャリアの上での代表作の1本となった。 本作が本格的な主演デビューだったシム・ウナは、最初にホ・ジノに会った時、「監督の指示通りに演じます。自発的なことは求めないでください」と言ってきた。ところが実際は件の演出方法のため、撮影初日から困惑して大泣き。「ソウルに帰る」と騒いだという。またしばらくの間は、「この監督とは相性が悪い」と、周囲に愚痴っていた。 しかし途中から、自分の役割を見付けた彼女は、アドリブを入れるようになり、演技が良くなっていった。そのため脚本では役割が小さかったタリムの役どころは、どんどん大きくなっていく。本作が最終的に、ジョンウォンとタリムの“ラブ・ストーリー”の色が強い作品になったのは、シム・ウナの演技が素晴らしかったからと言える。『八月のクリスマス』というタイトルの意味は、まずは本作が八月からクリスマスまでの物語であるということ。ホ・ジノは本作で、生活の中での哀しみと笑いがぶつかり合って生まれる情緒を狙ったというが、それが、「夏の八月とクリスマスとが遭遇した感じ」だと語っている。 さて冒頭で紹介した通り、日本でも多くのファンの心を摑んだ、『八月のクリスマス』。本国韓国では大ヒットと共に、映画界に劇的な局面を作った作品の1本に数えられた。 1999年4月に開催された、「大鐘賞」。韓国のアカデミー賞と言われるセレモニーだが、その時“監督賞”にノミネートされたのが、『スプリング・イン・ホームタウン』(98)のイ・グァンモ、『シュリ』(99)のカン・ジェギュ、『美術館の隣の動物園』(98)のイ・ジョンヒャン、『カンウォンドの恋』(98)のホン・サンス、そしてホ・ジノの5人。その内ホ・ジノを含めた3人が監督デビュー作で、残りの2人も監督第2作。そして5人全員が、1960年代生まれの30代だった。 長く続いた軍事独裁政権の時代を経て、80年代の韓国では民主化の流れが強くなった。映画関係でも、シナリオの事前検閲は撤廃され、許可制だった映画会社の設立も、自由にできるように。また外国映画の輸入自由化も進んだ。ビデオや衛星放送などが大きく広がったのも、この頃である。 60年代生まれは、この時代に多感な20代を送って、国内外の映像を浴びるように鑑賞した世代。様々な規制が強かった、それ以前の世代とは、明らかに違った感性の持ち主が、多く育っていたのである。 この世代は当時からしばらくの間、“386世代と言われた。即ち1990年代に30代で、80年代の民主化運動に関わった60年代生まれの者という意味。政治経済から文化まで、その後の韓国社会をリードしていく存在になる。 話を戻して、その時=1999年の「大鐘賞」では、本作『八月のクリスマス』は、“審査員特別賞”と“最優秀新人監督賞”に輝いた。因みにシム・ウナも、本作の次に出演した『美術館の隣の動物園』(98)で、“最優秀主演女優賞”を受賞している。 さて今回当コラム執筆に当たって、参考にした日本の文献では、本作の出現に対して、従来の韓国映画のイメージを覆したことなどが、高く評価されている。その一方で気になったのが、韓国映画に対しての、“上から目線”を感じること。まだまだ、「日本映画の方が上」と思われる時代であったのだろう。 20数年経って現況を考えると、この歳月はあっと言う間であると同時に、まさに「隔世の感」がある。■ 『八月のクリスマス』© SIDUS PICTURES
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COLUMN/コラム2022.09.30
イラク戦争を観客に体感させる!キャスリン・ビグロー渾身の一作『ハート・ロッカー』
2003年3月、時のアメリカ大統領ブッシュの、ほぼ言いがかりのような形で口火を切った、イラク攻撃。「イラクの自由作戦」の名の下、4月には首都バグダッドが制圧され、5月にはブッシュによる、「大規模戦闘終結宣言」が行われた。 しかし、事態が泥沼化したのは、この後だった。アメリカ側が開戦の根拠とした、イラクの大量破壊兵器は結局存在せず、更にはイラク国内の治安悪化が、深刻な問題となっていく。 侵攻した米軍に対して抵抗を続ける武装勢力は、当初小火器で闘いを挑んだ。しかし、圧倒的な戦力の差により歯が立たないと知るや、即席爆弾「IED=Improvised Explosive Device」による攻撃に、戦略を切り替えた。 ガスボンベ、地雷、迫撃砲、榴弾などの爆発物に、簡単な起爆装置を取り付けたもので、移動中の米軍車両や兵士を待ち伏せし、起爆させる。「IED」による米軍の被害は甚大で、ある時期など戦死者の6割近くが、この即席爆弾によるものだった。 そのため大きな役割を果すことになったのが、米陸軍の“爆発物処理班”である。「IED」が発見されると、昼夜を問わず呼び出されては、他の兵士たちが後方に退く中、危険極まりない爆弾の処理に挑む。 2004年に、そんな彼らの任務に同行取材を行ったのが、ジャーナリストで脚本家のマーク・ポール。イラク戦争の現実を暴いた、トミー・リー・ジョーンズ主演作『告発のとき』(2007)の原案者である。 結局は、2011年暮れまで続くことになる、イラク戦争。その初期に、要となる役割を担っていたにも拘わらず、知られざる存在だった“爆発物処理班”の仕事を、世に知らしめたい。そう考えたマーク・ポールが書いたのが、本作『ハート・ロッカー』(2008)の脚本である。因みにこのタイトルは、「行きたくない場所/棺桶」を意味する、兵隊用語である。 ポールとの交流から、メガフォンを取ることになったのが、女性監督のキャスリン・ビグロー。それまで『ハートブルー』(1991)『K-19』(02)などの、緊迫感溢れるアクション演出で知られたビグローは、ポールと共に、観客を“爆発物処理班”と同じ場所に誘うような、強烈な体験をさせることを目標に、本作の製作に取り掛かった。 ***** 2004年夏、イラク駐留米軍のブラボー中隊に属する、3人の“爆発物処理班”は、「IED」の処理作業に取り組んでいた。いつもと変わらぬ作業の筈が、ちょっとしたトラブルがきっかけで、大爆発に巻き込まれる。その際“処理班”の頼れるリーダーだった、トンプソン軍曹が命を落とす。 残されたサンボーン軍曹とエルドリッジ技術兵の前に、新たな班長として赴任したのは、ジェームズ二等軍曹。ルールを無視しながらも、見事に爆弾の処理をやってのけるジェームズに対し、サンボーンとエルドリッジは、戸惑いを覚えた。 今までに873個もの爆弾を処理したという、ジェームズ。その後も防護服を脱ぎ捨てて起爆装置を解除するなど、無謀で突発的な振舞いを続ける。 サンボーンは折に触れ、ジェームズのやり方に反発。また若いエルドリッジは、予期せぬ戦闘に巻き込まれて敵兵を射殺したり、彼を心配して任務に同行した軍医が、爆弾によって吹き飛ばされるのを目の当たりにしたことなどから、次第に精神の平衡を崩していく。 そんな中で、テロリストによって“人間爆弾”にされた死体を見付けたジェームズは、その亡骸を、親しくしていたイラク人の少年であると、認識。怒りを爆発させ、軽挙妄動に走ってしまう。 イラクでの任務が間もなく終わり、帰国まであと僅か。ブラボー中隊の3人の運命は? ***** ポールの脚本は、17回の改稿を経て、ビグローのOKが出た。そのテーマ面では、元戦争特派員のクリス・ヘッジスの著書「戦争の甘い誘惑」から大きな影響を受けている。本作冒頭に登場する「戦闘は人を強力で致命的な中毒に追いやる。戦争は麻薬だ」というフレーズは、「戦争の甘い誘惑」からの引用である。 これは“イラク戦争”の時の米兵が、かつての“ベトナム戦争”などと違って、徴兵された者は居ずに、自ら入隊を選んだ“志願兵”から構成されていることと、深く関わっている。ある者にとっては戦争、そして戦地に赴くことには、強烈な魅力があるというわけだ。 本作の主人公ジェームズ二等軍曹は、任務に対する強い使命感やイラクの民に対す贖罪意識の持ち主であるのと同時に、もはや平時には生きられない、圧倒的な“戦争中毒”であることが描かれる。彼は正に、本作のテーマを象徴するキャラクターと言えるだろう。 そんなジェームズと、彼とチームを組むサンボーン、エルドリッジのキャスティングに当たってビグローは、「比較的無名の俳優」を選ぶことにこだわった。主役にスターを起用してしまうと、「映画の終わりまで死なない」とわかってしまう。いつ誰にでも死が訪れる可能性がある戦争を描くのに、それは邪魔になるという判断からだった。 主役のジェームズに起用されたのは、ジェレミ-・レナー。今日では“MCU”のホークアイ役や『ミッション:インポシッブル』シリーズなどで知られるレナーも、当時はまだこれからの存在だった。 続けて、サンボーンにはアンソニー・マッキー、エルドリッジにブライアン・ジェラティが決まった。 本作の製作費は、ハリウッド製戦争映画としては、圧倒的に低予算と言える、1,100万㌦。ビグローが奔走して、かき集めたという。 題材的にメジャーの映画会社からの出資は望めず、また大口のスポンサーも得られなかった。ビグロー曰く、これは「最悪」でありつつ、「いい知らせ」でもあった。「…自由に創造することができて、枠にはまらない仕事」をすることが、可能になったからだ。 ロケ地に決まったのは、イラクと国境を接し、気候と地形も似ているヨルダン。実際の戦地から、車で数時間の所でも撮影した。 またヨルダンには、戦火を逃れて逃げてきたイラク人が100万人も居て、その中にはプロの俳優も数多かったことから、様々な役を演じてもらった。米軍の捕虜役に起用した俳優から、実際に米軍の捕虜になった経験があると聞いた時には、さすがのビグローも、「…本物に近づくためとはいえ、もしかしたらちょっとやりすぎたかもしれない」と思ったという。 レナーたち俳優は、アメリカ国内の軍の訓練所でトレーニングを受けた後に、ヨルダン入り。ビグローは、軍内の親密な仲間意識を生み出すために、彼らを全員、地面の上に立てた簡素な共同テントに住まわせた。 そして撮影は、気温55度を超える猛暑の中で行われた。サンボーン役のアンソニー・マッキーは、「頭の中で脳が煮えていると感じるほど」だったと、その暑さを語っている。 一方レナーは、「俳優としての仕事は楽になった」と言う。ロケ地の過酷な環境の中で、本当の汗、本当の痛みの涙を得ることができたからである。 そんな彼らの演技をカメラに収めたのは、イギリスの社会派ケン・ローチ監督作品の撮影で知られる、バリー・アクロイド。ちょうどその頃は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロでハイジャックされた航空機の運命を描いた『ユナイテッド'93』(06)に於ける、彼の臨場感あふれる撮影が評判となっていた。本作では4台の手持ちカメラを、同時に回したという。 週6日体制で44日間というハードスケジュールで、撮影は終了。ポスト・プロダクションで大活躍だったのが、音響デザイナーのポール・N・オットソンである。 ロケ地で録音した何千もの素材を、幾十にも重ねる作業を行った。その際に合成音は使わず、現実音だけで全体をまとめることにこだわった。それこそが、現地のリアルを伝え、観客が実際の戦地に居るような感覚にさせるという狙いだったが、オットソンは、見事に成功させたのである。 こうしてビグローが「とことんリアリズムを追及した」本作は、完成。2009年6月という、賞を狙うにはほど遠い時期に公開されながらも、その後ジワジワと評価を高め、その年の賞レースのTOPランナーとなった。 そして「第63回アカデミー賞」で本作は、ビグローの元夫であるジェームズ・キャメロン監督の『アバター』(09)などを下して、作品賞など6部門を制覇。ビグローはアカデミー賞史上初めて、“監督賞”を手にした女性となった。 栄光の一方で、本作に対しては、批判もあった。米軍の兵士たちの心情は細かく描かれているが、一方で、その米軍に侵攻されたイラクの人々の描き方は「おざなりである」「結局は“テロリスト”扱いだ」等々。 しかしながら、デタラメな情報を元に侵攻を主導したブッシュ政権下では、「報道が極めて少なかった」という“イラク戦争“の、ある側面を描き出すだけでも、2008年に映画化される意義は、強くあった。また今日観ても、爆弾処理のシーンに漂う、ただならぬ緊張感など、特筆すべき作品である。■ ◆撮影中のキャスリン・ビグロー監督(左) 『ハート・ロッカー』© 2008 HURT LOCKER, LLC ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2022.09.08
原作者と主演俳優の人生を大きく変えた、「反戦映画」の名作。『西部戦線異状なし』
本作『西部戦線異状なし』(1930)の原作者、エリッヒ・マリア・レマルクは、1898年に、ドイツの都市オスナブリュックに生まれた。 1916年、18歳の時に学徒志願兵として、軍に入隊。時は第一次世界大戦下。激戦地である、ベルギー・フランドル地方の西部戦線へと送られる。 1914年に勃発した第一次大戦は、日露戦争と並んで、20世紀に特有の“新たな戦争”だったと言われる。毒ガス、機関銃、戦車、飛行機、潜水艦等々、新兵器が続々と登場し、それまでとは比べものにならない、大量殺戮と大量破壊を伴う総力戦が行われるようになったのである。 レマルクは工兵として、塹壕掘りや有刺鉄線を敷く任務を与えられたが、戦場に入って2ヶ月ほどで、砲弾の破片を受けて負傷。病院送りとなった。 幸い、怪我は深刻なものではなかった。レマルクは病室で負傷兵同士、この“新たな戦争”に於ける、お互いの戦場での体験談を話し合った。この時耳にした話が、後に彼の創作の糧となる。 1918年、20歳になった彼は退院。軍に復帰するが、間もなく大戦は終結。ドイツは、悲惨な敗北を喫した。 終戦後レマルクは、小学校の代用教員やジャーナリストなどの職に就きながら、小説を執筆。1929年、30代に突入していた彼が発表した渾身の作が、自分や戦友達の経験をベースにした、「西部戦線異状なし」だった。 当時レマルクの友人の1人だったのが、後にアメリカに亡命し、ハリウッドで名匠の名を恣にする、ビリー・ワイルダー。彼はレマルクが、10年前に終結した第一次世界大戦についての小説を執筆していると聞くと、「何てこった、いまさら?!…前の世界大戦なんぞに誰が興味ある?」と、忠告したという。 他の者たちからも、同様の指摘をされたレマルクだったが、蓋を開けてみれば、そんなことはなかった。小説「西部戦線異状なし」は、ドイツ国内で空前のベストセラーになったのである。 反響を呼んだのは、本国だけではなかった。イギリス、フランス、ソ連、イタリア、アメリカなどで、次々と翻訳出版された。日本でもその年の内に、発売されている。後々まで含めるとこの小説は、少なくとも45言語以上に翻訳され、総計部数は2,000万部以上と言われている。 映画化の企画も、すぐに動き始めた。レマルクから権利を買ったのは、ドイツにとっては第一次大戦では敵陣営だった国家、アメリカのユニバーサル・ピクチャーズ。監督には、ルイス・マイルストンが決まった。 マイルストンはロシア生まれで、ベルギーのヘント大学に留学。母国が第一次大戦に参戦したため、徴兵逃れでアメリカに帰化した。 結局アメリカも参戦したため、兵役に就くのだが、陸軍の写真部門などに配属されたため、前線に送られることはなかった。この時に新兵のための教育映画に携わり、その経験から、除隊後はハリウッド入りとなった。「アカデミー賞」の記念すべき「第1回」、『美人国二人行脚』(1927)で、マイルストンは“喜劇監督賞”を受賞。続く作品として、警察と行政の腐敗を描いた『暴力団』(28)を手掛け、リアルなギャングの描写が注目された。 「西部戦線異状なし」の映画化に当たっては、プロデューサーはレマルクに脚本の執筆を依頼するも、小説に集中したいからという理由で、断わられる。そのため脚本家4人掛かりで、脚色を進めることになった。 主人公のポールは、作者の分身ということもあって、一時期レマルク本人に演じさせることも、検討された。しかし彼は、これも断り、当時ほぼ新人だった、21歳のリュー・エアーズが抜擢されることになった。 ドイツ軍の兵営を、ユニバーサルの屋外セットで再現するなど、撮影はアメリカ国内で行われた。戦場シーンは16万平方㍍の農場を使って、ドイツ軍やカナダ軍の元兵士たちの助言を受けながら、撮影されたという。 ****** 第一次大戦のさなか、街の教室では老教師が、若者たちに愛国心を説く。煽られたポールとその仲間は、次々と入隊を志願した。 彼らの訓練係は、街で郵便配達を行っていた男。人の良い郵便屋の面影はなく、執拗に冷酷な振舞で過酷な教練を行い、若者たちの出征前の熱狂は打ち砕かれていく。 西部戦線に送られた彼らを迎えたのは、古参兵たち。その中のカチンスキーという男が、人間的な温かみと共に、戦場で生き延びる術を、色々と教えてくれた。 初めての戦闘で、ポールたちはいきなり、仲間の1人を失う。その後日々の激戦の中で、1人また1人と、戦死者が続く。 ある日の戦闘。塹壕に実を潜めていたポールに、フランス軍の兵士が襲いかかる。彼を銃剣で突き刺したポール。瀕死の状態ながら、なかなか息絶えない兵士と一晩を過ごし、頭がおかしくなりかける。 やがて、ポールも負傷。傷病兵が次々と死んでいく病院で、何とか回復すると、休暇を貰って、故郷に一時帰休となった。 姉と病床の母の歓迎には、心が和らぐ。しかし、戦場の実態を知らずに勝手な戦争論をブチ上げる、父や街の有力者たちには辟易。更には相変わらず、教え子を戦場に送ろうとする老教師に憤りを覚える。居たたまれなくなったポールは、休暇を早めに切り上げる。 戦地に戻ったポールは、今や父のように慕うカチンスキーと再会。喜びを覚えたのも束の間、爆撃により、不死身に思えた古参兵は、あっけなく命を落とす。 もはや寄る辺もないポールは、戦場での日々を、ただただ重ねていくが…。 ****** 戦闘場面を撮るのには、長いクレーンの先端にカメラを複数台載せた。俯瞰し、時には地を這うようなカメラワークは、当時としては、至極斬新なチャレンジだった。 ハリウッドは、ちょうどサイレントからトーキーへの移行期。当初サイレント映画として企画された本作だったが、時勢に合わせて、トーキーでの製作に切り替えられた。 マイルストン監督は、砲弾の炸裂音や機関銃の連射音、兵士たちの叫び声などを盛り込んだ。これが革新的な移動撮影との相乗効果で、観る者に、戦争の悲惨さをリアルに伝えることに成功したのである。 マイルストン監督が、最も腐心したというのが、ラストシーン。主人公のポールが、遂に落命するのだが、原作では次のように記されている。 ~…前に打伏して倒れて、まるで寝ているように地上にころがっていた。躰を引っくり返してみると、長く苦しんだ形跡はないように見えた…あだかもこういう最後を遂げることを、むしろ満足に感じているような覚悟の見えた、沈着な顔をしていた。~ このままでは、映像化しようがない。あまりにも有名なラストシーンではあるが、ポールの戦死の様をいかにマイルストンが演出したかは、実際に目撃していただきたい。 実はポールが休暇で帰郷した際に、実家の自室に入るシーンで、ラストへの伏線が張られていたのを、今回の執筆用の再鑑賞で、初めて認識した。いかに細心の注意を以て、綿密に組み立てられたラストであったことか! こうして映画史に残る「反戦映画」となった本作は、大ヒットを記録。「アカデミー賞」でも、作品賞と監督賞を受賞した。 一方で、本作が製作された1930年という時代から、アメリカ以外での公開に当たっては、その国の事情によって、シーンが大幅にカットされる憂き目に遭った。例えば日本では、「全面反戦思想」と捉えられる部分が、大幅に削られ、また、ポールたちがフランス女性と一夜を共にするシーンが、「風俗上の見地」から除かれた。 最も物議を醸したのは、レマルクの本国ドイツであった。原作小説出版時も議論の対象となった、「政治性」が再び大きくクローズアップされたのである。 時のドイツは、折しもヒトラー率いるナチ党が支持を伸ばして、選挙での躍進が顕著になっていた頃。彼らは本作のプレミア上映を襲い、「ユダヤ人の映画だ」「ユダヤ人ども出て行け」などと叫びながら混乱を引き起こし、上映を中止に追いやった。これがきっかけとなって本作は、「…ドイツ国防軍の声望を貶め、外国における全ドイツ人の声望をも傷つけるものがそこに存する」という理由で、国内での上映が禁止となってしまう。 ベストセラー作家として、富と名誉を得たレマルクだったが、ナチが台頭する中で、そうした勢力からは、「ユダヤ人である」などのデマを飛ばされるなど、確実に攻撃の対象となっていく。特に1933年、ヒトラー政権が成立して以降は。「西部戦線異状なし」は、「厭戦気分をあおる売国的書物」として、焚書の対象となり、レマルクはやがて、国籍を剥奪されるまでに至る。スイスなどに逃れていた彼だが、1939年、ドイツによって第2次世界大戦の口火が切られたのと前後して、アメリカへの亡命を、余儀なくされた。 レマルクは、「西部戦線異状なし」を著したことによって、激動の生涯を送ることになった。一方で、その映画化作品である本作に関わったことで、人生が大きく変わったのが、主演のリュー・エアーズだった。 本作出演で、根強い「反戦思想」の持ち主となったエアーズは、1930年代半ば頃からは、聖書に没頭し始め、ベジタリアンとなった。そして第二次大戦が起こった際には、兵役を拒否している。 こうした彼の姿勢には、非難の声が殺到。映画会社は彼を締出し、各劇場は彼の出演作の上映を、拒否するようになった。 エアーズは改めて、良心的兵役拒否宣言を行うと、看護兵として南太平洋の戦線に赴いた。そして3年半の間、粛々と兵士の手当を続けたのである。報酬はすべて寄付したというエアーズが、捕虜の日本兵に手当を行う写真が、当時の有名誌に掲載されている。 こうした自分の活動について、エアーズはこんな風に表現している。「破滅的な状況で、建設的な仕事をするんだ」 彼は戦地から戻った後、ハリウッドに復帰するが、1996年88歳で亡くなるまで、戦争映画への出演を、拒否し続けたという。■
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COLUMN/コラム2022.09.02
歴史的事実をベースに、まさに“韓国の至宝”のための脚色!?『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』
1979年10月26日。韓国で朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が、側近によって暗殺された。 最近ではイ・ビョンホン主演の『KCIA 南山の部長たち』(2020)でも描かれたこの事件で、16年間に及ぶ“軍事独裁政権”は終焉を迎え、それまで弾圧されていた、“民主派”の人々が表舞台へと現れた。いわゆる、「ソウルの春」である。 しかし、それから2ヶ月も経たない12月12日、暗殺事件の戒厳司令部合同捜査本部長だった軍人の全斗煥(チョン・ドファン)が、“粛軍クーデター”を起こして、全権を掌握。翌年=80年5月17日には全国に戒厳令を発布し、野党指導者の金泳三(キム・ヨンサム)氏や金大中(キム・デジュン)氏らを軟禁し逮捕した。 強権的な“軍事独裁”の再来に対して、学生や市民は抵抗。金大中氏の地元全羅南道の光州(クァンジュ)市でも、学生デモなどが行われたが、戒厳軍は無差別に激しい暴力で応じ、21日には実弾射撃に踏み切った。そして27日、光州市は完全に制圧された。 一連の過程の中で、市民や学生の中には、死傷者が続出。これが世に言う、“光州事件”のあらましである。 本作『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』(2017)は、ノンポリの傍観者だった小市民が、偶然の出来事から、韓国近現代史の重要な節目となったこの事件に、対峙せざるを得なくなる物語である。 ***** キム・マンソブは、11歳になる娘を男手一つで育てている、ソウルの個人タクシー運転手。出稼ぎ先のサウジアラビアで重労働に従事したこともある彼は、業務中にデモ行進による渋滞などに巻き込まれると、「デモをするために大学に入ったのか?」「この国で暮らすありがたみがわかってない」などと、舌打ちするような男だった。 家賃や車の修理代にも事欠くマンソプは、ある日タクシードライバーの溜まり場である飲食店で、これから外国人客を乗せ、光州と往復すれば、10万ウォンもの報酬が得られるという話を耳にする。マンソプは依頼を受けた運転手になりすまし、クライアントのドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーターを車に乗せる。 サウジで覚えた片言以下の英語でヒンツペーターとやり取りしながら、光州に向かったマンソプ。厳しい検問を訝しく思いながら、口八丁手八丁で何とか掻い潜り、市内へと入っていく。 ヒンツペーターの目的が、光州での軍部の横暴をフィルムに収めることと知ったマンソプは、巻き込まれるのは御免と、何度もソウルに戻ろうとする。しかし光州の学生や市井の人々と親しくなると同時に、共に行動するヒンツペーターの、ジャーナリストとしての矜持に触れ、彼の中の“何か”も変わっていく…。 ***** ドイツ人俳優トーマス・クレッチマンが演じたユルゲン・ヒンツペーターは、実在のジャーナリストで、1980年の5月20日から21日に掛けて。光州市内の取材を敢行。軍事独裁政権による強力な報道規制が敷かれる中で彼がカメラで捉えた“真実”は、22日に母国ドイツの放送局で放送され、翌日以降は各国で、ニュースとして報じられた。 彼がその後制作した、“光州事件”を扱ったドキュメンタリーは、全斗煥政権が続く韓国にも、密かに持ち込まれた。そして公的には「北朝鮮による扇動」「金大中が仕掛けた内乱」などと喧伝された事件の真相を、少なくない人々に知らしめる役割を果したのである。 韓国で1,200万人もの観客を動員する大ヒットとなった本作『タクシー運転手』は、長く厳しい闘いを経て、“民主化”を遂げた現在の韓国社会に、“光州事件”の記憶を呼び起こした。そして映画公開の前年=2016年1月に78歳で亡くなったヒンツペーターと、彼の協力者だった“タクシー運転手”の存在に、スポットライトを浴びせたのだ。 本作を“エンタメ”として成立させるために、チャン・フン監督ら作り手が、些か…というか、事実よりもかなり「盛った」描写や設定の改変を行っているのは、紛れもない“真実”である。誤解のないよう付記しておくが、私はそれを批判したいのではない。歴史的事実を活かし、時には知られざるエピソードを詳らかにしながら、血塗られた近現代史を堂々たる“社会派エンタメ”に仕立て上げる、韓国映画の逞しさや強かさには、心底驚嘆している。 詳細は観てのお楽しみとするが、本作クライマックス、光州脱出行のカーチェイスは、どう考えても「ありえない」。事実をベースにした“社会派エンタメ”の最新作、リュ・スンワン監督の『モガディシュ 脱出までの14日間』(2021)でも同様な描写が見られたが、ここまで踏み切ってしまう、その果断さが、逆に「スゴい」とも言える。 そんな本作で最も劇的な脚色が行われているのは、実は主人公である“タクシー運転手”の設定である。ソン・ガンホが演じるマンソプのモデルとなったのは、キム・サボクという人物。ヒンツペーターが2003年に韓国のジャーナリスト協会から表彰された際などに、“運転手”の行方探しを呼び掛けながらも、見付からず、生涯再会が果たせなかったのは、紛れもない事実である。 しかし本作に於ける、“タクシー運転手”が、偶然耳にした情報から客を横取りして、その目的も知らないままに光州へ向かったという描写は、映画による完全な創作。本作の大ヒットによって、サボク氏の息子が名乗り出て明らかになったのは、サボクとヒンツペーターは、“光州事件”取材の5年前=1975年頃から知り合いで、“同志的関係”にあったという事実だった。 またサボクは、マンソプのようなノンポリの俗物ではなく、“民主化”の波に参加するような人物であったという。そして、ヒンツペーターの呼び掛けにも拘わらず、サボク本人が見付からなかった背景には、“光州事件”そのものがあった。 現場を目の当たりにしたサボクは、「同じ民族どうしが、どうしてこうも残忍になれるのか」と言いながら、1度はやめていた酒を、がぶ飲みするようになったという。そして“事件”取材の4年後=84年に、肝臓癌で亡くなっている。 サボク氏の息子は本作を観て、「喜びと無念が交錯した」という。自分の父が“民主化”に無言で寄与したことが知られたのは嬉しかったが、前記の通り、マンソプのキャラが、父とはあまりにもかけ離れていたからだ。 息子さんの「無念」は理解しつつも、この“脚色”を、私は積極的に支援したい。それは、ソン・ガンホの主演作だからである。 “韓国の至宝”であり“韓国の顔”とも謳われるソン・ガンホ。出演する作品のほとんどが、代表作と言えるような俳優であるが、歴史的史実をベースにした作品も、彼の得意とするところだ。 時代劇では、『王の運命 -歴史を変えた八日間-』(15)『王の願い ハングルの始まり』(19)のように、朝鮮王朝に実在した君主を演じる“王様”俳優でもあるが、近現代を舞台にした作品こそ、印象深い。『大統領の理髪師』(04)『弁護人』(13)『密偵』(16)そして本作である。『大統領の理髪師』は1960年代から70年代を舞台に、ひょんなことから“独裁者”の大統領(朴正煕をモデルとする)の理髪師となってしまった、平凡な男が主人公。否応無しに、政府の権力争いに巻き込まれていく。『弁護人』では、後に“進歩派”の大統領となる、盧武鉉(ノ・ムヒョン)の弁護士時代をモデルにした役を演じた。政治には興味がない金儲け弁護士が、時の全斗煥政権による学生や市民への弾圧に憤りを覚え、“人権派”に変貌を遂げていく。『密偵』は、日帝の植民地時代が舞台。日本人の配下にある警察官が、スパイとして独立運動の過激派組織に近づきながら、やがて彼らの考え方に共鳴していく。こちらは、実在した組織「義烈団」が、1923年に起こした事件をモデルとしている。 ここに本作を並べてみれば、どこにでも居るような男が、歴史の大きなうねりに翻弄されて、変貌を遂げていくといった流れが浮かび上がる。時代劇の中でも、朝鮮王朝時代のクーデター事件をモチーフにした『観相師 -かんそうし-』(13)で演じた役どころなどは、この系譜と言えるだろう。 本作に関してチャン・フン監督は、シナリオを読んだ瞬間に、ガンホの顔が思い浮かんだという。そしてオファーを受けたガンホは、一旦は断わったものの、時間が経過してもその内容が頭から離れず、結局は引き受けることになった。それはこの役を演じるのに、他の誰よりも自分が適役であることを、感じ取っていたからではないのか? さて今生で再び相見えることは叶わなかった、本作登場人物のモデルである、ドイツ人ジャーナリストと、韓国人“タクシー運転手”。本作大ヒットの翌々年=2019年に、約40年振りの再会を果すこととなった。 その舞台は、光州事件の犠牲者を追悼、記憶するために設立された「国立5.18民主墓地」。その中に設けられた、ヒンツペーター氏の爪と髪が埋葬されている「ヒンツペーター記念庭園」に、サボク氏の遺骨が改葬されたのである。 これもまた、韓国のダイナミックな“社会派エンタメ”作品がもたらした、ひとつの果実と言えるだろう。■ 『タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜』© 2017 SHOWBOX AND THE LAMP. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2022.08.19
サム・ライミ、アメコミ映画までの遠い道のり。その第一歩が『ダークマン』
サム・ライミのフィルモグラフィーを眺めると、「多様」あるいは「一貫性のなさ」といった言葉が浮かんでくる。彼が監督作品として扱ってきた題材の幅広さには、驚きを禁じ得ない。 なぜそうなったのか?その事情に関わる部分は後ほど触れるが、映画ファンとして、彼の作品への入り口が何であったかは、世代で、大きく分かれると思う。 アラサーぐらいだったら、やっぱり『スパイダーマン』3部作(2002~07)か。“MCU=マーベル・シネマティック・ユニバース”誕生前夜に、コミック作品の映画化に大成功。今日のアメコミ映画隆盛の礎を築いた、立役者の1人がライミであることは、言を俟たない。『スパイダーマン』前後で評価が高い、『シンプル・プラン』(98)や『スペル』(09)などを、こよなく愛する向きも少なくないだろう。 私を含めて、ライミ作品の日本デビューに立ち会った主な層は、1959年生まれのライミに近い年代。もう50~60代になってしまった。 アメリカ公開は1981年だったインディーズ作品『死霊のはらわた』は、日本では輸入ビデオでマニアの間で話題になった後、劇場公開に至ったのは、85年のこと。それまで聞き慣れなかった、というか少なくとも日本には存在しなかった、“スプラッター映画”という言葉を広めて定着させたのは、紛れもなくこの作品だった。 その頃のライミは、まだ20代中盤。日本でも一躍大注目の存在に…と言いたいところだが、まだまだ“ホラー映画”の地位が低い時代である。一部好事家の間で関心が高まったというのが、正確なところだろう。 その後映画コラムなどで紹介されていたエピソードも、また微妙だった。それは、ライミが日本人と会うと、「ねぇねぇ僕、サム・ライミ。サムライMe!!」と笑って去っていくという内容。 当時の真っ当な(!?)映画ファンからは、「けっ!」という受け止め方をされても、致し方なかった。「東京」や「ゆうばり」で開催される「ファンタスティック映画祭」が定着し、クエンティン・タランティーノが現れる90年代前半頃までは、“オタク”的なノリには、概して冷たいリアクションが待ち受けていたのだ。 そんなサム・ライミの監督人生は12歳の時、父親の8㍉カメラを使って作品を作ったことに始まる。その後同級生の仲間などと映画を撮り続ける中で、高校時代には1学年上のブルース・キャンベルと邂逅する。 ライミ組の常連出演者となるキャンベルに続いて、ミシガン州立大学進学後には、ロバート・タパートと出会う。タパートは映画製作のパートナーとなり、現在でもホラー映画専門レーベルの「ゴースト・ハウス・ピクチャーズ」を、ライミと共同で運営している。 まだ海の者とも山の者ともつかない、二十歳前後の3人。ライミ、タパート、キャンベルが、9万ドルの資金を集めて製作したのが、『死霊のはらわた』だった。 それまで「ホラーは苦手」というライミだったが、「世に出るなら、低予算のホラーだ」とタパートに説き伏せられたことから、様々なホラー作品に触れて研究を重ねた。そしてタパートが製作、キャンベルが主演、ライミが監督を務めた『死霊のはらわた』が、世に送り出された。この作品の成功で、3人は次のステップに進むこととなる。 続いて挑んだのが、ライミが本来指向するところのスラップスティックコメディ、『XYZマーダーズ』(85)。インディペンデント系ではあるが、「エンバシー・ピクチャーズ」という、名の通った映画会社と初めて組んだ作品である。 主演に無名の俳優は据えられないという、「エンバシー」からの“口出し”によって、キャンベルをやむなく脇役に回さざるを得なくなったのをはじめ、準備から撮影、ポストプロダクションまで、映画会社の介入は続いた。その挙げ句、まともに公開してもらえず、3人組にとってこの作品は、悪夢のような結果に終わったのである。 その後起死回生を図って取り組んだのは、『死霊のはらわたⅡ』(87)。続編というよりは、第1作をスケールアップしたリメイク的な内容で、コメディ色を強めたこの作品で、3人は再び成功を収める。 そして勇躍、初めてハリウッド・メジャーの「ユニヴァーサル」と組んだのが、本作『ダークマン』(90)である。ライミのフィルモグラフィー的には、インディペンデントからメジャーへの、そして『死霊のはらわた』から『スパイダーマン』への架け橋的な位置に属する作品と言える。 ***** 科学者のペイトン・ウェストレイクは、火傷などの重症者を救える、“人工皮膚”の開発に、日夜取り組んでいた。完成まであと一歩と迫りながらも、99分経つと溶解してしまうため、研究は足踏みが続いた。 ペイトンにはもう1つ気がかりなことがあった。同棲中の弁護士ジュリーにプロポーズしたものの、新しい仕事で手一杯の彼女に、返事を保留されてしまったのだ。 そんな時、“人工皮膚”を99分以上持たせるためのヒントが見つかる。助手と共に喜ぶペイトンだったが、突然街のギャングであるデュラン一家に研究所を襲撃される。彼がそれとは知らずに持ち出してしまったジュリーの書類が、街の再開発計画を巡る汚職の証拠だったのである。 助手は惨殺され、ペイトンも拷問に掛けられる。そして顔を強酸性の溶液に突っ込まれ、火を放たれた研究所は炎上する。 駆け付けたジュリーの目前で、研究所は爆発。ペイトンも耳だけを残し、塵と化したかと思われた。 悲嘆に暮れるジュリー。しかし爆発で河川へと飛ばされたペイトンは、生きていた。身元不明のホームレスとして病院に収容され、全身40%もの火傷の苦痛を感じないように、視床の神経を切断されて。 この処置で抑制力を失い、常人を超える力を持ったペイトンは、病院を脱出。しかし二目と見られない容姿になってしまった彼は、ジュリーの前に現れるのを躊躇せざるを得ない。ペイトンは、自分をこんな姿にしたギャングたちへの、復讐を誓う。 スラムの廃工場に居を構え、研究・開発を再開したペイトン。未完成の“人工皮膚”で様々な人間に成りすましながら、高い知能と超人的パワーを駆使して、ギャングたちを次々と血祭りに上げていくのだったが…。 ***** 初メジャー作品が、『ダークマン』になったのには、深い理由がある。 サム・ライミについて言及した場合、彼がこよなく愛するものとして、必ず登場するのが、1930年代にスクリーンで人気を博した後、TV時代の到来と共に、再編集されてお茶の間で大人気となった『三ばか大将』。ライミ作品の多くに共通する、度を超えたドタバタ感は、この影響が大きい。 それと共に指摘されるのが、アメコミへの偏愛である。 ライミは『死霊のはらわたⅡ』の後、「ザ・シャドー」「バットマン」などのアメコミを原作とした作品で、メジャーデビューしようと画策した。しかし両企画とも不調に終わり、それぞれ別の監督によって、映画化されるという憂き目に遭う。 付記すればメジャーデビューを果した後も、アメコミ企画への執着は続いた。「バットマン」の映画化を成功させたティム・バートンがそのシリーズを離れる際、後を引き継ごうと目論むも、失敗。また「マイティ・ソー」の企画を「20世紀フォックス」に持ち込んだが、これも実現できなかった。 自分の愛するアメコミの映画化を、何としてでも成し遂げたい。しかし誰も、自分にその企画をやらせてくれようとはしない。だったらアメコミっぽい話を、自分で作ってしまえ! 些か乱暴なまとめ方だが、そうして出来上がったのが、『ダークマン』だった。実際に本作の製作意図として、ライミはこんなことを言っている。「やや古典的な物語を描いて、漫画のストーリーのように、できるかぎりドラマチックでインパクトが強い作品にしたかった」 この企画をプレゼンされた「ユニヴァーサル」は、すぐに製作をOKした。 さてハリウッド・メジャーが、相手である。若き天才科学者、転じて“ダークマン”となる主演俳優に、ブルース・キャンベルを当てる構想は、『XYZマーダーズ』の時と同じく、無残に却下された。結果的にキャンベルは、本作ではその意趣返しのようにも取れる形でスクリーンに登場するのだが、それは観てのお楽しみとしておく。 主演に決まったのは、まだアクションスターのイメージはなかった、若き日のリーアム・ニーソン。その相手役のジュリーには、当時ニーソンが付き合っていたジュリア・ロバーツがキャスティングされそうになったが、諸事情によりNGに。 最終的にジュリーには、ライミの“インディーズ”仲間だったコーエン兄弟のミューズにして、その兄の方のジョエル・コーエンの妻であった、フランシス・マクドーマンドが決まった。普段から親しかったマクドーマンドの起用は、当初からの希望通りであり、ライミはほっと胸を撫で下ろした。 しかしその後3度もアカデミー賞主演女優賞を獲ることとなるマクドーマンドと、本作まで女優をまともに演出したことのなかったライミとのギャップは、大きかった。現場では、衝突が絶えなかったという。 とはいえ、元々は親しい同士。マクドーマンドとのやり取りは、「創造的なプロセス」になったと、ライミは語っている。 結局は思い通りの作品に仕上げることを不可能にしたのは、やっぱり映画会社だった。ポストプロダクションで「ユニヴァーサル」が差し向けた編集マンとライミは、深刻な意見の相違を見る。 余談になるが、ライミはこれ以降も含めて、数多の苦労や屈辱をもたらした映画会社の姿勢を、反面教師としたようだ。彼とロバート・タパートが主宰する「ゴースト・ハウス・ピクチャーズ」で、Jホラーの雄である清水崇監督を招いて、『呪怨』をハリウッド・リメイクする際、他のプロデューサーの口出しがあると、「…清水が撮りたいアイディアがあればそれを撮る。ちゃんとお金を用意するから」と、間に入ったという。 さて、何とか完成に向かった『ダークマン』。しかし音楽を付ける前のバージョンで「ユニヴァーサル」の重役から、「我が社の歴史上、最低の試写評価を受けた映画だ」と、“死刑宣告”のような発言をされる。 ところが蓋を開けてみると、批評も興行も上々。ライミのメジャー処女作は、「成功」と言って差し支えない成果を収めた。『ダークマン』は、監督及び主演を変えながらシリーズ化され、また逆流するかのように、コミック化もされた。 とはいえやっぱり、自分の愛するアメコミ作品の映画化という夢は、忘れられなかった。ライミは本作の後、『死霊のはらわた』シリーズの第3作に当たる『キャプテン・スーパーマーケット』(93)を監督してからは、幅広いジャンルの作品を手掛けるようになる。実はそのほぼすべてが、念願のアメコミ企画を実現させるための、助走だった。 西部劇の『クイック&デッド』(95)、クライム・サスペンスの『シンプル・プラン』、スポーツ映画の『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』(99)、スリラーの『ギフト』(2000)。こうした多様な作品にチャレンジしたのは、デビュー以来自分に付き纏う、“ホラー映画”の監督というイメージを払拭し、巨額の製作費を投じるアメコミ映画を任せてもらうためであったと言われる。 そして、遂に長年の想いを果した『スパイダーマン』3部作で、ライミは押しも押されぬ地位を築いた。 そんな彼の最新作は、“MCU”に初参入し15年振りにアメコミの映画化を手掛けた、『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』(22)。詳細は省くが、こちらは彼の原点とも言える、『死霊のはらわた』のMCU版リメイクとの評まで出る、ファンにはたまらない仕上がりだった。 映画会社との数多の戦いを経て、ライミが己の最も好きなジャンルで、こんな好き放題が出来るようになったというのも、改めて感慨深い。■ 『ダークマン』© 1990 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.08.03
製作から30年。ニール・ジョーダンのインスピレーションとパッションの賜物!『クライング・ゲーム』
ニール・ジョーダンは、1950年生まれのアイルランド人。母が画家だったため、幼い頃から絵画に親しみ、17才で詩、戯曲を書き始めたというが、少年期から映画にも夢中だった。 当時のアイルランドは検閲が厳しく、上映が許可される作品は“宗教映画”ばかり。ジョーダンは、その手の作品を数多く観たというが、その一方で、ダブリンに2館だけ在ったアートシアターに通い、50年代末に始まる、フランスの映画運動“ヌーヴェルヴァーグ”の洗礼を受ける。更にはニコラス・レイ監督の『夜の人々』(1948)『理由なき反抗』(55)などに、大いにハマった。 国立のダブリン大学卒業後は、教師、俳優、ミュージシャンとして働きながら、小説家デビュー。処女短編集「チュニジアの夜」や、長編デビュー作「過去」が高く評価され。更には83年の長編第2作「獣の夢」で、作家としての地位を決定づける。 しかしテレビの台本を書いたのをきっかけに、活動の主な舞台を、映画界に移す。82年には、『脱出』(72)『エクスカリバー』(81)などで知られるジョン・ブアマンのプロデュースで、初監督作品『殺人天使』(日本では劇場未公開)を発表する。この作品の主演だったスティーブン・レイは、それまでは舞台やテレビを中心に活躍していたが、以降は映画にも積極的に出演。ジョーダン監督作の、常連となっていく。 本作『クライング・ゲーム』(92)は、実は『殺人天使』で映画監督デビューを果たした直後から、再びスティーブン・レイ主演の想定で、脚本の執筆をスタートした企画。順調に進めば、監督第2作となる可能性もあった。 ***** イギリス領内の北アイルランドに駐留する、黒人兵士。街の警備中、折々人種差別的な罵倒を受けて、傷ついていた。 そんな彼が、誘拐される。犯人は無差別テロも辞さない武装組織、「IRA=アイルランド共和国軍」。イギリスとの交渉材料として、兵士を拉致・監禁したのである。 その実行犯グループで、人質の見張り役となった男は、黒人兵士と会話を交わす内に、彼に友情を覚える。もしイギリス側が交渉に応えぬまま、時間切れとなった場合、彼を殺さなければならないのに…。 ***** 捕えた者と捕えられた者との間に友情が生まれるが、やがて殺す時がやってくる…。スティーブン・レイを想定して描かれた、「IRA」の見張り役と、人質の黒人兵士の関係は、ジョーダン監督曰く、アイルランド文学ではお馴染みの構図だという。 こうした物語に現実味を持たせるためには、実際に起こった事件の要素を加えた。黒人兵士はブロンドの女性に誘惑されて、拉致されるのだが、70年代にはバーなどで「IRA」の女性メンバーが、イギリス兵を引っ掛けて自宅に連れ帰り、射殺するという事件が、度々起こっていたのである。また当時は、民兵組織が敵対する国家などとの取引材料に、人質を取る事件も、頻発していた。 因みに「IRA」は、北アイルランドをイギリスから分離・独立させて、全アイルランドの統一を図るため、過激なテロ闘争を行っていた、実在の組織。善悪を単純化して描く、90年代ハリウッド映画などに度々登場したことから、映画ファンの間では当時、アラブ人テロリストなどと同様、“悪役”の印象が強かった。 しかし90年代中盤以降、「IRA」とイギリスとの間では和平交渉が進み、2000年代中盤には、武装闘争は終結に至っている…。 ***** 処刑までのタイムリミットが迫る中、黒人兵士は見張り役の「IRA」戦士に、最後の願いをする。ロンドンに居る恋人を捜し出し、「愛していた」と伝えてくれ。そしてその恋人の支えとなってくれと。「IRA」戦士は兵士との約束を守るべく、その“恋人”に会いに行くのだったが…。 ***** ジョーダン曰く、何度書いても、この「“恋人”に会いに行く」部分で、筆が止まってしまった。 そこでこの企画は、一旦棚上げに。ジョーダンは先に、「赤ずきん」をベースにしたファンタジーホラー『狼の血族』(84)、ナット・キング・コールの名曲に想を得た『モナリザ』(86)を発表。両作が国際的に高い評価を受け、ハリウッド進出まで果した後に、「“恋人”に会いに行く」後の展開を、再び考えることにした。 事態を大きく動かす妙案が、ジョーダンの頭に浮かんだ!兵士の“恋人”を、○○にすれば良いんだ!! パズルの大きなピースが埋まり、ジョーダンは“映画化”に向かって、邁進することとなる。そしてこのインスピレーションこそが、本作『クライング・ゲーム』(93)が初公開時、観る者の多くをして、「衝撃的!」と言わしめる結果をもたらしたのである。 それから30年近く経って、2022年の今だと、“恋人”が○○であることを、「衝撃的!」と受け止めにくくなっている。また本作はかなり有名な作品なので、実際に鑑賞していなくても、どんな展開が待ち受けているか、ご存じの方も少なくないだろう。 しかし敢えて今回は、本作を未見で、展開も知らない方々には、この後の文章を読むのは、鑑賞後まで控えることを、オススメしておく。 <以下、ネタバレがありますので、ご注意下さい> ***** 黒人兵士のジョディ(演:フォレスト・ウィティカー)を処刑できなかった、見張り役のファーガス(演:スティーブン・レイ)。しかしジョディは、「IRA」のアジトを急襲したイギリス軍車両に轢かれ、命を落としてしまう。 アジトが爆破される中、ファーガスは辛くも逃げ延びて、ロンドンに潜伏。ジョディの“恋人”で美容師のディル(演:ジェイ・デヴィッドソン)に会いに行く。 ジョディとの関わりは隠しながら、美しく魅力的なディルとの距離が近づいていく、ファーガス。ディルもそんな彼に惹かれ、やがて2人はベッドを共にするが…。 ディルの肉体は、“男性”だった! ショックを受けたファーガスは、一旦は彼女を拒絶。ディルを傷つけてしまうが、やがて仲直り。2人の不思議な関係が続いていく。 そんな時に、「IRA」の仲間だったジュード(演:ミランダ・リチャードソン)が現れ、テロ行為への加担を迫る。渋るファーガスだったが、ディルに危険が迫ることを避けるため、計画に加わらざるを得なくなる。 果たして、ファーガスとディルの運命は? ***** 物語を動かす大きなフックは見付かったものの、それが困難の始まりとも言えた。主人公が、イギリスを恐怖に陥れていた「IRA」のテロリストであることに加え、人種差別や性差別の問題にまで、踏み込んでしまっている。こんな企画に製作費を出してくれるスポンサーは、そう簡単には見付からない。 イギリスでは、全土で同性愛が違法ではなくなったのは、1982年のこと。それ以前に、性犯罪法で処罰を受けた男性の同性愛者たちの罪が赦免されるのは、2016年まで待たなければならなかった。 LBGTQやトランスジェンダーなどという言葉が一般的ではなかった93年に、ディルのようなヒロイン像というのは、斬新過ぎた。それに加えて、そのディルを演じられる俳優を見付けるのが、簡単ではなかった。 スティーブン・レイをはじめ、フォレスト・ウィティカー、ミランダ・リチャードソンと、他の主要キャストには、適役を得た。しかし「無名の黒人男性で、女性役ができる」という条件のヒロイン探しは、困難を極めたのである。 撮影開始まで8週間と迫った頃、ジョーダンは、かのスタンリー・キューブリックに相談した。キューブリックは先の条件を確認した上で、「画面に登場して30分は女性に思える」者を探すなど、「2年掛かっても、無理」と断定したという。 スタッフが手分けして、それらしい者が居そうな、ロンドンのクラブを回った。最終的には著名な映画監督で、自身ゲイだったデレク・ジャーマンからもたらされた情報で、ディルが見付かった。 ジェイ・デヴィッドソン。並外れて美しく、演技は未経験だったが、ジョーダンは“彼女”に決めた。 そしてジョーダン曰く、「完璧に自由な環境でしか撮れない映画」の製作が進められることとなった。「完璧に自由」ということは即ち、「完璧に金がない」ということでもあった。 いざ作品が完成して、92年10月のイギリスでの公開が近づくと、ジョーダンは評論家などに手紙をしたためた。本作の展開については「秘密厳守」、特に、ディルが“男性”であることを明かさないようにと、お願いする内容だった。 作品のデキが、素晴らしかったからだろう。評論家達は、ジョーダンの願いを聞き届け、「秘密」は守られた。 この展開はその年末の、アメリカ公開に当たっても、堅持された。本作はニューヨークを中心に大ヒット! ロングラン公開となって、アメリカのアカデミー賞でも6部門にノミネートされ、ジョーダンは“オリジナル脚本賞”を受賞する。 因みに日本での公開は、翌93年6月。その年の3月に開催されたアカデミー賞で、ジェイが“助演男優賞”の候補になっていること自体が、「ネタバレ」とも言えた。しかし公開に当たっては、ディルが“男性”であることは伏せられ、観た者にも「秘密」を広げないように、お願いがされた。 ところが実際にスクリーンに対峙すると、ファーガスがディルとベッドインして、彼女が“男性”であることを知る「衝撃的!」なシーンで、ディルの股間には、悪名高き“ボカし”が掛かっていたのである。日本では無粋な規制によって、本作の本質に関わる部分が、何が何やらわからない状態にされていたのが、逆に「衝撃的!」と言えた。 さて記してきた通りに、92年という時制の中で、「IRA」のテロリストである主人公や、心が“女性”である美しい男性ヒロイン等々の設定や仕掛けが、アクチュアル且つ先鋭的であった、本作『クライング・ゲーム』。30年経って、そうしたヴィヴィッドさは失われても、挿入される曲や寓話なども含めて、言葉や構成へのこだわりが、現在でも光り輝く。 また今作の後には、商業作品は『スターゲイト』(94)程度しか出演しなかったジェイ・デヴィッドソンは、その後本作で見せたような装いを捨てて、男性的な外見へと変貌を遂げたとも聞く。そうしたことも含めて、いま改めて観る価値が高い作品とも、言えるだろう。■ 『クライング・ゲーム』© COPYRIGHT PALACE (SOLDIER'S WIFE) LTD. AND NIPPON FILM DEVELOPMENT & FINANCE INC. 1992
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COLUMN/コラム2022.07.22
フィリップ・ド・ブロカの明暗。“映画作家”として生涯の1本!『まぼろしの市街戦』
第一次世界大戦末期、ドイツ軍がフランスの小さな村から撤退する際、強力な時限爆弾を仕掛けた。イギリス軍にその情報を連絡しようとしたレジスタンスは、電話の途中でドイツ兵に射殺されてしまう。 そのためイギリス軍に届いたのは、「真夜中に騎士が打つ」という謎のフレーズのみ。フランス語ができるという通信兵のプランピックは、その謎を探って時限爆弾を解除するよう命じられ、村へと派遣される。 すべての住民は破壊を恐れて、緊急避難。村に残されたのは、精神科病院の患者たちと、解き放たれたサーカスの動物たちだけ。患者たちは持ち主が不在となった家屋に入り込み、それぞれの妄想のままに、貴族や司教、将軍、理髪師、娼婦等々になりきった。 そんな患者たちから“ハートの王様”に祭り上げられたプランピックは、彼らに翻弄され、一向に謎は解けない。とりあえず放った2羽の伝書鳩の内、1羽はイギリス軍に無事着くも、もう1羽はドイツ軍に撃ち落とされる。両軍は事態把握のため、偵察隊を村へと送り込む。 狂人であっても善良で平和的な患者たちを救おうと、奔走するプランピックだったが、大爆発の時は刻一刻と迫る。彼はやむなく、相思相愛となった娘コクリコと、最後の時を過ごそうとするが、彼女の述べた言葉から、謎のフレーズの意味が判明。僅かな残り時間に、爆弾の解除へと挑む。 その一方イギリス・ドイツ両軍が、村へと迫る。果たしてプランピックと、愛すべき狂人たちの運命は…。 ***** 正常な者で構成されている筈の軍人たちが、互いに銃を向けて殺し合う。その一方で、狂気の世界の住人たちは、他人を傷つけることなく、楽しげに人生を謳歌する…。 フランス製の戯画的な反戦ファンタジーである本作『まぼろしの市街戦』(1966)を熱烈に支持する者は、我が国にも少なくない。2018年に「4Kデジタル修復版」としてリバイバル公開された際には、邦画のヒットメーカーである瀬々敬久監督が、こんなコメントを寄せている。「中学生の頃、テレビの洋画劇場で見て大衝撃を受けて以来、生涯ベスト。あの淀川長治さんも、その日は本気で大興奮していた」 映画評論家の山田宏一氏やイラストレーターの和田誠氏なども、本作のファン。大森一樹監督に至っては、現代日本を舞台にした『世界のどこにでもある、場所』(2011)という作品で、本作の再現を試みている。 フィリップ・ド・ブロカ。 カルト的な人気作である本作は、1933年生まれのこのフランス人監督の歩みと、密接に関わって誕生した。 ド・ブロカはパリに在る、国立のルイ・リュミエール高等学校で、映画撮影技術について学んだ。1953年に卒業すると、カメラマンとして、トラックに乗ってアフリカを旅行。後にジャン=ポール・ベルモンドを主演に擁して、『リオの男』(1964)『カトマンズの男』(65)など、異国情緒に溢れた冒険活劇を次々と放つようになったのは、この時の経験がベースになったと言われる。 アフリカから帰った後、ド・ブロカは兵役に就く。軍の映画製作部に配属されて、ドイツのバーデン=バーデンで1年を過ごした後の任地は、アルジェリア。それは折しも、宗主国フランスに対して、民族解放戦線が起こした独立戦争、“アルジェリア戦争”が激化した頃であった。 凄惨なテロの応酬に、大規模なゲリラ掃討作戦。ド・ブロカは2年間に渡って、戦場の恐ろしい光景をフィルムに収めることとなった。そしてこの経験のため、すっかり悲観的で厭世的となり、それが後の彼の監督作品に影響を及ぼすこととなる。 除隊後に商業映画の世界に進んだド・ブロカは、クロード・シャブロルやフランソワ・トリュフォーといった、映画史に革命を起こした“ヌーヴェルヴァーグ”の寵児たちの助監督に付く。そうしたキャリアや世代的なこともあって、時折ド・ブロカも、“ヌーヴェルヴァーグ”の一端を担った監督と分類されることがある。しかし映画作りへの取組みは、シャブロルやトリュフォーとは、明らかに一線を画すものだった。 兎にも角にも、「楽しい映画を」という姿勢。それはアルジェリアの経験から、「自分にできるのは喜劇映画を作って人々に微笑みをもたらすことぐらいだ…」という境地に至ったことから、生じたものと言われる。 稀代のアクションスター、ジャン=ポール・ベルモンドと初めて組んだのは、『大盗賊』(61)。この作品は、合わせて10本の作品を共にすることになる、プロデューサーのアレクサンドル・ムヌーシュキンとの、初顔合わせでもあった。 そして先に挙げた、ベルモンド主演の冒険活劇、いわゆる「~の男シリーズ」の端緒を切って、評判となった後に辿り着いたのが、1966年の『まぼろしの市街戦』であった。 本作の基となったものとして、まず挙げられるのが、原案にクレジットされているモーリス・ベッシーが、ド・ブロカに話して聞かせたという新聞の三面記事。それは精神科病院から抜け出した者たちが、ある村にやって来て、思い思いに田園で過ごしたという内容だった。 これに加えて、第2次世界大戦時に、ナチス・ドイツが占領するフランス北部の村で起こった出来事も、本作の着想源になったと言われる。それは、住民が逃げ出す際に、精神科病院の患者たちや小屋に閉じ込められていた動物たちの束縛を解いたため、彼らが自由の身になったという逸話だった。 ド・ブロカ、そして彼とコンビを組んでいた共同脚本のダニエル・ブーランジェは、これらから想像力を掻き立てられ、本作のストーリーを編んでいった。そのベースには、ド・ブロカの戦場体験があったことは、言うまでもない。 元ネタのひとつが、第2次大戦下の実話だったにも拘わらず、舞台を第1次大戦に置き換えたのは、製作時点から時制を離すことで、生々しさを避ける狙いもあったようだ。ナチに占領された第2次大戦の記憶は、フランス人のトラウマとして、まだまだ根強い頃だったのである。 しかし、スターを擁した冒険活劇の監督が、このような「地味」に映る企画に取り組むことに、賛意を示す者は少なかった。出資者がまったく見付からず、おまけにド・ブロカの伴走者であるアレクサンドル・ムヌーシュキンも、製作から降りてしまったのである。 ド・ブロカは妻ミシェルと共に、自らプロデューサーを務めることになった。そしてハリウッドの映画会社ユナイテッド・アーティスツがフランスに持つローカル・プロと、イタリアの製作会社という2社の出資を得て、自ら興したプロダクションで、本作の製作に挑んだのである。 主なロケ地は、パリから40㌔ほど北に在る、サンリスという街。 主演のプランピック役に招かれたのは、イギリス人俳優のアラン・ベイツ(1934~2003)。60年代は、ジョン・シュレシンジャーやケン・ラッセル、ジョン・フランケンハイマーといった気鋭の監督たちの作品に、主演級で起用されていた俳優である。 ベイツは、本作のクランクイン直後に足首を折ってしまったため、撮影はベイツに負担を掛けないように進められることとなった。そのため本作の彼はよく見ると、常に一本足で走っているという。 ヒロインのコクリコには、ジュヌヴィエーヴ・ビジョルド(1942~ )が抜擢された。フランス系カナダ人の彼女は、モントリオールの劇団のパリ公演で、アラン・レネに見出され、『戦争は終った』(65)に出演。そのため一時的にフランスに滞在したことから、本作の出演につながった。 精神科病院の患者を演じて脇を固めるのは、ピエール・ブラッスール、ジャン=クロード・ブリアリ、ミシェリーヌ・プレール、ミシェル・セローといった、フランスの名優たち。イギリス軍の大佐を演じたアドルフォ・チェリは、イタリア人。『007/サンダーボール作戦』(65)の悪役で、ジェームズ・ボンドと死闘を繰り広げたことが、有名である。 さて本作は1966年の12月、フランスで公開されると、観客には見事にそっぽを向かれた。そのためド・ブロカと妻ミシェルは、とにかく1人でも多くに観てもらおうと、チケットを配りまくるハメとなった。 評論家からは、“愚者の物語”と評する声が上がった。つまり興行・批評とも、本国では散々な事態となってしまったのだ。 本作を映画史の闇に埋もれさせなかったのは、実はアメリカとイギリスでの成功だった。特にアメリカは、ハーヴァード大学の在るマサチューセッツ州の街で公開したところ、1週間の上映予定が、結果的には何と5年ものロングランになったという。 この地での盛況を見た、配給のユナイテッド・アーティスツは、国中の大学所在地での興行展開を決定。各所で当たりを取り、本作はいわゆる、“カルト映画”となった。 時はアメリカで、ベトナム反戦運動の燃え盛る頃。本作は多くの若者たち、その中でも特に、ヒッピーたちの支持を集めたのである。 本作で撮影監督を務めたピエール・ロムは、ド・ブロカが高校で映画撮影技術を学んでいた時の、同級生で親友。そんなロムが、アメリカで初めて仕事をする際、現場の者たちは、フランス人が撮影を担当することに、懐疑的な姿勢を見せていた。ところがロムが、本作の撮影監督とわかると、態度が一変。その後は、天才扱いされたという。 しかしアメリカでの成功は、ド・ブロカの懐を潤すことはなかった。ロム曰く、金に困ったド・ブロカが、格安で配給権をユナイテッド・アーティスツに売ってしまったので、本作のために彼が陥った借金地獄の緩和には、繋がらなかったのである。 ド・ブロカはフランスでの大失敗に絶望し、一時は監督業から足を洗おうとさえしたが、結局は脳天気な活劇方面へと、再シフトすることとなる。その一方で、アメリカでの評判から、ハリウッドで監督する話も持ち上がった。 しかし、“映画作家”ではなく“現場監督”扱いされるようなハリウッドの製作体制では、思うようなものは作れない。ド・ブロカはそうした結論に至り、生涯アメリカ映画を手掛けることは、なかった。 本作が辿った道のりと、それに左右されたド・ブロカの監督人生は、1人の“映画作家”としては、不幸な側面が強いのかも知れない。しかしそれ故に、本作の存在はより輝かしいものになったとも言えるのが、何とも皮肉である。■ 『まぼろしの市街戦』© 1966 Fildebroc SARL. (Indivision de Broca)
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COLUMN/コラム2022.06.30
2001年のチャ・テヒャンとチョン・ジヒョンだからこその、傑作ラブコメディ!『猟奇的な彼女』
インターネットが普及した、1990年代後半。韓国は積極的にIT政策を推進したこともあって、「ネット先進国」と謳われるようになる。本作『猟奇的な彼女』の原作は、まさにそんなムーブメントの中で生まれた、ネット小説だった。 1999年8月、あるパソコン通信の掲示板に、小説「猟奇的な彼女」の連載がスタートした。主人公は、徴兵から戻ったばかりの男子大学生キョヌ、そして具体的な名前は最後まで語られない、“彼女”。 見目は麗しい“彼女”だが、泥酔して地下鉄内で吐いたり、「ぶっ殺されたい?」などと汚い言葉で罵っては、やたらと殴りつけてくる。そんな“彼女”に出会ってからのキョヌの怒濤の日々が、一人称で語られる。 原作者のキム・ホシクが、実体験をベースに書いたというこの小説は、絵文字などを駆使した“インターネット体”とでも言うべき文体で、ユーモラスに綴られていく。タイトルにある「猟奇」という言葉は、日本語を解する者ならば、“猟奇殺人”などのおどろおどろしいイメージを抱く場合がほとんどだろう。韓国の辞書にもその語意は、「奇怪なことや物に興味を持って楽しみ訪ね歩くこと。奇怪な、異様な、気味の悪い」などと解説されていた。 原作者はそんな「猟奇」という言葉を、辞書で引くこともなく、正確な意味も知らないままに、使った。「…ちょっと変わった、常識を外れたという意味で、人間が表現しにくいもの、人間の中の奥深くにあるものを、自然に表現するというような…」意図で。 このネット小説は当時の若者たちに受け、すぐに爆発的な話題となった。翌2000年には単行本化し、“前半戦”“後半戦”に分けられた上下2巻は、韓国内で10万部以上というベストセラーに。その際にはこの小説が、長く「男尊女卑」の傾向が強かった韓国社会の、新しい潮流を表わしているとの分析が、広く見られたという そして出版の翌年=2001年には、映画化に至る。 ***** 大学生のキョヌはある晩、地下鉄でベロベロに酔った“彼女”と出会った。“彼女”はぶっ倒れる際に、目の前に居たキョヌに、「ダーリン」と呼びかける。そのため周囲の視線もあって、放っておけなくなったキョヌは、仕方なく“彼女”をおぶって近場のラブホテルへ。そこで“彼女”を介抱するも、誘拐と勘違いされ、留置所で一晩過ごすことになる。 その夜の記憶がない“彼女”に呼び出され、釈明するハメになったキョヌは、どこまでもワイルドな態度の“彼女”に圧倒される。しかし酒が入った途端、「きのう好きな人と別れたの」と、“彼女”は泣き出し、またも気絶。そのため同じラブホで、再び介抱することとなる。 その日以来、“彼女”の勝手な都合で呼び出されては、振り回される日々を送ることとなったキョヌ。罵詈雑言や暴力に辟易としながらも、次第に“彼女”に惹かれていく。 “彼女”の誕生日、キョヌは夜の遊園地でサプライズを仕組むが、そこで脱走兵と遭遇。銃を突きつけられ、2人は人質になってしまう。しかし“彼女”の真心の籠もった説得に、脱走兵は投降。2人は救われる。 翻弄されっ放しのキョヌに対して、曖昧な態度をとり続ける“彼女”。ある夜、親に強制的にセッティングされた見合いの席に、キョヌを呼び出す。そこでキョヌが見せた真心に、“彼女”も大きく心を動かされる。 同時に“彼女”は、キョヌと出会って以来、隠してきた“秘密”のため、悩み苦しむ。 お互いへの想いを籠めた手紙をタイムカプセルに入れて、キョヌと“彼女”は、別れることに。2年後の再会を誓って…。 ***** 本作の脚本と監督を担当したのは、クァク・ジェヨン。独立したエピソードが羅列されるような形で構成されていた原作を脚色し、演出するに当たって、キョヌと“彼女”の感情の流れ、即ち2人の気持ちが段々と変化していく様を、どのように見せるかに腐心したという。 完成した本作『猟奇的な彼女』は、500万人以上を動員。当時としては、韓国の歴代4位、ラブストーリー映画の歴代№1ヒットとなった。 ベストセラーに次ぐ、映画の大ヒットで、「猟奇」という言葉は、流行語に。本来の「奇怪な、異様な、気味の悪い」といった意味から転じて、「ちょっと変わってイケている、突拍子もない」といった、前向きな意味合いで使われるようになったのである。 成功の要因としてまず挙げられるのは、キャスティングであろう。キョヌ役のチャ・テヒャン、“彼女”役のチョン・ジヒョンの2人が、これ以上にないハマり役だった。 1976年生まれ、映画公開時は25才だったチャ・テヒャンは、放送局のオーディションで芸能界入り。ドラマやバラエティで活躍し、その親しみやすいキャラで売れっ子になった。本作は、映画初主演。 1981年生まれのチョン・ジヒョンは、高校1年の時に女性誌のカバーガールとなったのをきっかけに、TVドラマに出演するように。99年にCMやMVでブレイクし、2000年には映画の初主演作『イルマーレ』で、百想芸術大賞の新人賞を受賞している。そして19才の時に、本作に臨んだ。 お人好しのダメ男キョヌ役は、テヒャンにとっては、パブリック・イメージに沿った役どころと言えた。一方でジヒョンは、本作の“彼女”役で、それまでの可憐で清純なイメージを、完全にひっくり返した。 テヒャンとジヒョンは、TVドラマで共演。ゴルフ仲間でもあり、気心が知れた仲だった。以前にロケ現場でジヒョンの「…意外に男性的な性格で、どちらかというと猟奇的」な側面に触れていたというテヒャンは、本作でジヒョンが“彼女”を演じると聞いて、「絶対ウマくいく」と確信したという。 この2人のそれぞれの個性と相性の良さを、存分に引き出したクァク・ジェヨン演出も、賞賛に値するだろう。テヒャンの持ち味を引き出すためには、カメラ2台を回して、間とアドリブを重視した。 ジヒョンが演じた“彼女”という役に関しては、原作をアレンジ。明かせない過去を持ち、心の痛みを持っている女性という設定に変えた。その上でジヒョンには、「強さの中に優雅な部分を持ち、乱暴だけどすごくカワいい」という、二面性のある演技をリクエストしたのである。 すでに40代で、本作が8年振りの監督作品になるジェヨンに対し、テヒョンは当初、そんな監督が「こんなラブストーリーを撮るなんて、大丈夫か?」と思った。しかし実際に撮影に臨むと、作業すればするほど、「持ち味を引き出してくれる」監督だったと、後に賞賛している。 ジェヨンの最大の功績は、ラストの改変。原作では、2人がお互いの手紙を入れたタイムカプセルを木の下に埋めたところで、“前半戦”“後半戦”の2部構成の物語は、終幕となる(これは余談だが、原作者も“彼女”のモデルとなった女性とは別れてしまい、別の女性と結婚している…)。 しかし監督は、「ふたりを再会させてあげたい」と思い、原作にはない、“延長戦”を付け加えた。そして我々は、物語が感動的なラストを迎えた瞬間に、監督がオリジナルの発想で、物語の序盤から伏線を張っていたことを知るのである。 見事なる換骨奪胎!ベストセラーの映画化作品『猟奇的な彼女』は、こうして社会現象まで引き起こす、成功へと導かれた。 さて2001年に製作された本作は、韓国では2017年に、時代劇にアレンジしたTVシリーズが制作されて話題になったが、それ以前に日本やアメリカなど国外で、ドラマや映画としてリメイクする試みが相次いだ。しかし概して、失敗に終わっている。 韓国という風土からの移植がうまく出来ていないのも大きいが、それ以上にチャ・テヒャンが、日本やアメリカには居なかった。ましてや、19歳時のチョン・ジヒョンに匹敵する女優などは…である。 付け加えれば2016年には、チャ・テヒャンのキョヌが再登場する続編『もっと猟奇的な彼女』が製作されている。こちらは冒頭で前作の“彼女”が頭を丸めて仏門に入ってしまい、失意のキョヌの前に、幼き日の初恋の相手が現れて…というお話。チョン・ジヒョンの不在に加えて、本作の続編にする必要性をまったく感じさせないのが、致命的であった。早々に続編としての存在が、「なかったことにされている」印象である。 改めて振り返れば、本作『猟奇的な彼女』は、2001年の韓国という時勢にピタリとハマったストーリーと出演者を得た、奇跡的な作品だったのかも知れない。■ 『猟奇的な彼女』© 2001 Shin Cine Communication Co.,Ltd. All Rights Reserved.