製作費42万5,000ドル、撮影日数16日間…。本作『激突!』は、1970年代初頭にアメリカで製作されたTVムービーとしては、ごくごく普通の製作規模と言える作品だった。

 しかしそれが、スティーヴン・スピルバーグ(1946~ )の巨匠への道を切り開く、伝説的な作品となったのだ。

 以前『ジョーズ』(75)についてのコラムを書いた時にも触れたことだが、少年時代から父の8mmカメラを奪って映画を作っていたスピルバーグは、18歳の夏、ロサンゼルスの「ユニバーサル・スタジオ」の観光ツアーに参加。その最中に抜け出して、立ち入り禁止のサウンドステージや編集室などを見て回った。

 その際にスピルバーグは、スタジオに出入り自由のパスを、ちゃっかりゲット。そのまま「ユニバーサル」へと、足繁く通うようになった。パスの期限が切れても、顔見知りとなったガードマンの黙認で、連日のスタジオ入り。そんなことを続けている内に、撮影所スタッフから、諸々雑用なども言いつかるようになった。

 やがてスピルバーグは、自ら監督した24分のインディーズ作品『アンブリン』(68)で、スタジオのお偉方にアピール。「ユニバーサル」の親会社「MCA」の会長だった、シド・シャインバーグに気に入られ、TVドラマの監督として、7年契約を結ぶこととなった。それはスピルバーグ、二十歳の時だった。

 その際シャインバーグは、スピルバーグに約束した。「私は、あなたが失敗したときでも、成功したときと同様に強力なサポートをする」と。この時点でスピルバーグの将来を見越したような、シャインバーグの慧眼には、驚く他はない。スピルバーグはこの「約束」があったからこそ、自信が持てたという。

 そうして、TVシリーズの一編などを監督するようになった。その中でも、お馴染み「刑事コロンボ」の1エピソード「構想の死角」(71)などは、日本でも繰り返しオンエアされているので、ご覧になったことがある方も、多いであろう。

 20代前半の若造としては、順風満帆に思える。しかしスピルバーグの胸中は、とにかく一刻も早く、「劇場用映画を撮りたい」という想いで、いっぱいだった。

 そんなある日、スピルバーグの女性秘書が、雑誌「プレイボーイ」の1971年4月号に掲載された短編小説を読むように、彼に薦めた。それがリチャード・マシスンの筆による、「激突!」であった。

 マシスンは、TVシリーズの「トワイライト・ゾーン」(1959~64)をはじめ、数多くのTVドラマや映画の脚本を手掛けていることで有名である。そして作家としても、SFホラーやファンタジー、更にはウエスタンやノンフィクションまで、ジャンルを横断する活躍を長年続けた。あのスティーヴン・キングをして、「私がいまここにいるのはマシスンのおかげだ」と語るような、偉大な存在である。

 マシスンはハイウェイで車を運転中に、トラックの凶暴な運転に巻き込まれて、死ぬ思いをした経験がある。そこから着想したのが、「激突!」だった。

 妻の尻に敷かれた平凡な中年セールスマンが、取引相手の元に急ぐ際、ごく軽い気持ちで大型トラックを追い越す。しかしそれが、恐怖の一日の始まりとなる。

 トラックはセールスマンの車を執拗につけ狙い、やがて彼は相手が、自分の命を奪おうとしていることに気付く。警察や周囲に訴えても、その声は思うように届かず、あまつさえ異常者扱いさえされてしまう。

 必死の逃走劇を繰り広げる中で、遂に覚悟を決めた彼は、真正面から、この異常者が操る巨大なトラックと対決することを、決意する…。

 スピルバーグはこの短編小説を一読するや、「完全に参ってしまった」という。そしてこの作品を、自らの手で「映画化」するべく動き出す。その権利は幸いなことに、「ユニバーサル」が押さえていたので、スピルバーグは、先に挙げた「刑事コロンボ」のフィルムなども持参しながら、プロデューサーへのプレゼンを行った。そしてプロジェクトが動き始めた…ことになっている。

 『激突!』は、“脚本化”もマシスン本人が行っているが、彼の話は、スピルバーグの話とは、些か食い違っている。マシスン曰く、スピルバーグと会うよりもずっと前に、脚本を書いていたというのだ。

 また、「ユニバーサル」の郵便仕分け室に勤めていたスピルバーグの友人が、プロデューサー間で回覧されていた『激突!』の脚本の存在を、スピルバーグに伝えたのが、始まりだったとする説もある。この辺り諸説紛々なのは、『激突!』そしてスピルバーグが、後に伝説化した存在になったから故と、言う他はない。

 さて実際に「映画化」に向けて動き出すと、やはりスターが必要だという話になった。そこでスピルバーグが脚本を送ったのが、『ローマの休日』(53)『アラバマ物語』(62)などで有名な、グレゴリー・ペック。

 しかしペックは、この役に興味を示さなかった。実はこのことが、スピルバーグにとっては幸いだったとも言われる。もしもペックのような大スターの出演がOKになったら、企画全体が、それに見合った規模に修正される。そうなると、ペック主演作を手掛けるにふさわしい有名監督が呼ばれ、スピルバーグは、「お呼びでない」状態になる可能性が高かった。

 結局『激突!』は、新人監督がメガフォンを取るには適正規模の、TVムービーとして製作されることになった。

 主演に決まったのは、デニス・ウィーヴァー。日本では「警部マクロード」(70~77)の主役としてお馴染みだった、TVスターである。この起用もまた、スピルバーグがオーソン・ウェルズ監督の『黒い罠』(58)での彼の演技を思い出してオファーした説と、単にスタジオ側からあてがわれた説の両方がある。

 いずれにせよ、ごく平凡で勇敢さのカケラもない男が、最後には勇気を振り絞って、命懸けで“怪物”に立ち向かっていくという物語である。ペックが演じるよりも、ウィーヴァ―の方が適役だったのは、間違いない。この辺り後年『ジョーズ』で、はじめに主演の警察署長役の候補になったスティーブ・マックイーンやチャールトン・ヘストンよりも、実際に演じたロイ・シャイダーの方が、明らかに適役だったパターンと酷似している。

 こうして陣容が揃い、『激突!』は1971年秋にクランクイン。ロケ地は、カリフォルニア州のモハベ砂漠を貫くハイウェイとその近辺で、11日間の撮影予定だった。スケジュールがタイトだったため、ハイウェイ全体の地図にカメラを置く位置を書き込んだものを使って、撮影は進められた。

 はじめに記した通り、撮影はトータルで16日間まで延びた。編集作業から放送までは3週間程度しか確保出来なかったため、4人の編集マンを使って、急ピッチで仕上げ作業が進められた。

 そうして第1次の完成を見た『激突!』には、この4年後に全世界を席巻することとなる、『ジョーズ』と共通する要素が、多く見受けられる。

 先にも挙げたように、それまで想像もしなかった“脅威”と期せずして対決することになるのは、ごく平凡で勇敢さには欠ける男。そして彼が助けを求めて訴えても、周囲には邪険にされる。

『激突!』に於けるトラック、『ジョーズ』に於ける人喰い鮫の描き方にも、大きな共通項がある。『激突!』の主人公が目にするトラック運転手の姿は、手や足元のみ。その容貌などは、一切見えない。一方『ジョーズ』の鮫は、クライマックス近くまで、背びれ以外を見せることがなく、恐怖を煽る。

 そして終幕!トラックと鮫の断末魔の叫びは、共に『大アマゾンの半魚人』(54)のサウンドトラックから、怪物の鳴き声を持ってきているのである。

『ジョーズ』公開時に、「これは『激突!』のリメイクである」と、指摘する向きもあった。それは言い過ぎにしても、スピルバーグが『激突!』で成功した手法を、『ジョーズ』で大いに援用したことは、紛れもない事実だ。

『激突!』は製作費として30万ドルを予定していたものが、42万5,000ドルまで膨らんだ。しかしこのバジェットの超過分など、ものともしないような成果を上げることとなる。

 まずは1971年11月13日に「ABC」で放送されると、高視聴率と高評価を勝ち取った。それまではスピルバーグと顔見知り程度だったジョージ・ルーカスは、その日フランシス・コッポラ宅のホームパーティに出ていた。その席を外して「十分か十五分くらい見てやろう」と、『激突!』を見はじめたら、やめられなくなった。そして「この男はすごく出来る…」「もっとよく知りたい…」と思ったという。後のライバルにして盟友関係は、ここから始まったとも言える。

 大きな話題となったことに気を良くした「ユニバーサル」は、『激突!』を海外では、“劇場用映画”とすることを決定。そのためスピルバーグに追加撮影を行わせ、元は74分の作品を、90分まで伸ばすこととした。

 そしてヨーロッパで、映画祭にエントリーしたり、劇場公開するなどの展開を行っていく。「第1回アボリアッツ国際ファンタスティック映画祭」でグランプリを受賞するなどの成果を上げると同時に、スピルバーグは、偉大なる先人たちと知己を得る、栄誉に俗した。

イタリアでは、巨匠フェデリコ・フェリーニと会食。イギリスでは、己が最も尊敬するデヴィッド・リーンから、「どうやらじつに才能あふれる新人監督があらわれたようだ」と絶賛されたのである。

 こうして「スピルバーグの時代」の幕開けまで、秒読み態勢に入った。この後スピルバーグは、『続・激突!/カージャック』(74)で、正式に“劇場用映画”デビュー。それに続く『ジョーズ』で、全米そして全世界で№1ヒット監督となったのである。


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