本作『ブルーサンダー』のアメリカ公開は、1983年3月13日、日本公開は10月1日。共に、大きな話題となった。
 その理由の一つは、時勢に符合したアクチュアルな設定にある。舞台はオリンピック開催を翌年に控えた、公開時期と同じ83年のロサンゼルス。最新鋭の武装ヘリが、テロ防止の名目で導入されるというのが、物語の発端である。
 本作のセリフにも登場するが、この頃はまだ、72年のミュンヘン五輪で発生した、パレスチナゲリラによるイスラエル選手団11名殺害の記憶が、新しいものだった。それに加えて80年代前半は、国際情勢がリアルに不穏になっていくのを、肌身で感じざるを得ない時代であった。
 アメリカを主軸とする西側諸国と、ソ連を頭目とする東側諸国の関係は、70年代のデタント=緊張緩和の時代を終えて、80年代には“新冷戦”と言われる局面に突入していた。ロスの前の夏季五輪だった、80年のモスクワ大会は、開催国ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカや日本など西側陣営がボイコット。選手の派遣を取りやめた。
 本作公開時にはまだ確定していなかったが、84年のロス五輪では、今度はソ連をはじめとする東側諸国が、モスクワの報復でボイコット。いわゆる“片肺大会”が、連続することとなったのである。
 このような中で、警備にハイテク仕立ての“武装ヘリ”を導入するというのは、いかにも「ありそう」な話であった。そして本作の中で導入される武装ヘリ=“ブルーサンダー”が、リアリティーを伴うカッコ良さだったことが、本作への注目度を、否が応にも高めたのである。

 最大時速320㌔で大都市を縦横無尽に飛び回り、有効射程1㌔で毎分4,000発発射可能のエレクトリック・キャノン砲を装備。コクピットから、高精度の暗視や盗聴が可能な上、秘密情報機関のデータバンクに接続したコンピュータ端末で、あらゆる情報を集められる。これらのシステムは、当時の軍用ヘリに導入されていた最新設備に、多少の“映画的誇張”を加えて構築したものだという。
“ブルーサンダー”のインパクトがある外見も、大いに人気を呼んだ。フランス製のヘリを、本作のために改造。1,500万㌦=当時の日本円にして37億円もの巨額を投じて生み出されたその偉容は、公開時に「空のジョーズ」と表現する向きもあった。
 そうしたデザイン性の高さは、論より証拠。実際に本作を鑑賞して、皆様の眼で確認していただきたい。
 ヘリ同士のドッグファイトなど、本作のスカイアクションは、実物とミニチュアを使い分けて撮影を行っている。時はまだ、CGが普及していない頃。今から見ると合成カットの一部など、チャチく感じられる箇所が無きにしも非ず。しかし全体的には、高度な撮影と巧みな編集が見事な融合を果し、大スクリーンに相応しい迫力を生み出している。
 こうした数多の要素によって、“A級”のアクション大作として成立した、『ブルーサンダー』。その“A級”度合いは、実は主演俳優と監督の組み合わせによって、揺るぎないものになっている。

 ロイ・シャイダーに、ジョン・バダム。今日の映画ファンにはピンと来ないかも知れないが、当時としては映画人としてのキャリアが、まさにピークを迎えていた2人である。いかに魅力的な、カップリングであったことか!
 ロイ・シャイダー(1932~2008)が本作で演じたのは、ロス市警航空課“エア・ポリス”のヘリ操縦士フランク・マーフィー。当時のアメリカ映画の決まり事のように、ベトナム帰還兵として、トラウマを抱えている。そんな彼が、本格導入を前にした“ブルーサンダー”の、テストパイロットに選ばれる。
 マーフィーは“ブルーサンダー”を操る内に、この化け物のような武装ヘリ導入の裏で、軍部と政府機関の一部が、市民社会の脅威となる“陰謀”を企てていることを探り当ててしまう。そこで彼が取った行動は、“ブルーサンダー”を乗っ取り、巨大な敵に無謀な戦いを挑むというものだった…。
 さて本作の劇場用プログラムで、シャイダーのプロフィール紹介には、次のような記述がある。

~ロイ・シャイダーは、いまノリにノリまくっている。アメリカ映画界を代表するトップ・アクターといっても決して過言ではないだろう~

 幼少期からスポーツに秀でたシャイダーは、ハイスクールまでは、野球やボクシングでその才能を発揮した。転じて大学では、演劇を学び、卒業後はニューヨークで俳優の道へと進む。オフ・ブロードウェイの舞台などで評価された後、60年代の終わり頃に、本格的に映画の世界へと進んだ。
 シャイダーは40代を迎える手前の71年、『コールガール』『フレンチ・コネクション』という、世評が高い2本の作品に出演。後者で演じた、薬物対策課の刑事役では、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。
 その後は、主演作も作られるようになったシャイダーであるが、決定打となったのは、75年の公開作品。当時の興行新記録を作った、スティーヴン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』である。
 その公開時の日本では、“ロイ・シェイダー”表記だった彼が演じたのは、警察署長のブロディ。警官ながら、犯罪の多い大都市を嫌い、のんびりとした海辺のリゾート地に、家族と共に身を移した男である。しかし、町の存立を揺るがす巨大な人喰いザメが現れ、その脅威に対峙せざるを得なくなる。
 ごく平凡で頼りなかった男が、最後の最後に屹立し、直接対決でサメを葬り去る。その姿は、映画館を熱狂の渦に包んだ。
 この世界№1ヒット作の続編『ジョーズ2』(78)で、シャイダーは再びブロディ署長を演じた。『ジョーズ2』は前作の興行成績には及ばなかったものの、続編作品としては、当時の新記録を作った。
 こうして、世界中の映画ファンから知られる存在となったシャイダーは、79年にはボブ・フォッシー監督の自伝的作品『オール・ザット・ジャズ』に主演。カンヌ映画祭で最高賞=パルム・ドールに輝いたこの名作では、ブロードウェイの演出家役で、見事な歌と踊りを披露し、演技者としての実力を知らしめた。この年度のアカデミー賞では、主演男優賞にノミネートされたのである。
 そんな彼が50代を迎えて主演したのが、本作『ブルーサンダー』。因みにその翌年には、あの『2001年宇宙の旅』(68)の続編で、ピーター・ハイアムズが監督した『2010年』(84)の主演も務めている。先にプログラムから引いた一文にあった通り、80年代前半のシャイダーはまさに、~いまノリにノリまくっている。アメリカ映画界を代表するトップ・アクター~であったのだ。

 そして本作のフランク・マーフィーは、まさにハマり役!1964年生まれの筆者にとってこの頃のシャイダーは、渋く頼もしいオヤジだった。女性ファンはあまりいなかったと記憶するが、シャイダーに対して、筆者と同じような気持ちを抱いた方が、我が国に於いては少なくなかったのであろう。
 84年には、彼を起用したウィスキーのCMがオンエアされた。また同じ年、東映製作の特撮ヒーローもので、彼から名前を拝借した、「宇宙刑事シャイダー」という連続ドラマがスタートしている。

 さて、先にも記したが、シャイダーと同じく、やはりこの頃にキャリアがピークを迎えていたのが、監督のジョン・バダム(1939~ )である。本作プログラムで、映画評論家の垣井道弘氏は、次のように書いている。

~ジョン・バダム監督は、いまという時代を先取りする感覚が、天下一品である。大ヒットした「サタデーナイト・フィーバー」はいうにおよばず「ドラキュラ」や「この生命誰のもの」でも、優れた才能をみせた。つまり、ナウいのである。~

~スティーヴン・スピルバーグ、ジョーン・ルーカス(原文ママ)、ジョン・ランディスなどと共に、これから最も注目しておきたい監督の1人である。~

 イェール大学時代に、演劇を専攻したバダムは、卒業後に映画監督への途を探っていた。そんな時、当時9歳の彼の妹メアリー・バダムが、子役として大抜擢を受ける。
 グレゴリー・ペック主演の『アラバマ物語』(62)の出演者に、1,000人に上る候補者の中から、選ばれたのである。役どころは準主役とも言える、ペックの娘役。そしてメアリーは、アメリカ映画史に燦然と輝くこの作品で、アカデミー賞助演女優賞の候補にまでなった。
 バダムは、妹の成功に便乗。ユニヴァーサルスタジオに、郵便係の職を得た。時に65年、バダムが25才の時であった。
 その後彼は、スタジオのツアーガイドの職を経て、キャスティング係に。そのまま現場での修行を積んだ。
 それから数年経って、TV部門の監督に抜擢されたバダムは、「サンフランシスコ捜査網」「ポリス・ストーリー」「燃えよ!カンフー」などの人気シリーズを手掛けた。監督作品としては、シリーズものは20本ほど、長編のTVムービーは、10本ほどに及んだという。
 劇場用映画の初監督作は、76年の『THE Bingo Long Travelling All-Stars and Motor Kings』(日本未公開)。当初はスピルバーグ監督が予定されていたこの作品で、バダムは37歳にして、劇場用作品の監督デビューを果す。
 そして翌77年、ジョン・トラボルタの初主演作として、今や伝説的な、『サタデー・ナイト・フィーバー』を送り出す。世界的なディスコブームを巻き起こした、エポックメーキングと言えるこの作品で、バダムは一躍、ヒット監督の仲間入りとなった。
 その後『ドラキュラ』(79)『この生命誰のもの』(82)といった作品を経て、バダムが最高の輝きを放つ、“1983年”を迎える。この年の3月に本作『ブルーサンダー』、続いて6月に『ウォー・ゲーム』と、監督作2本が相次いで公開されたのだ。
『ウォー・ゲーム』は、普及期のパソコン、というより、まだマイコンと言われていた頃の家庭用コンピューターで、他者のシステムへのハッキングを楽しんでいた高校生が、偶然にNORAD=北アメリカ航空宇宙防衛司令部の軍事コンピュータにアクセス。高度な戦争シミレーションゲームと思い込んでプレイをする内に、“第3次世界大戦”の危機が現実に迫ってくるというストーリーである。
 最新鋭のハイテクを題材に、リアルな脅威を描く娯楽大作という共通点がある、『ブルーサンダー』と『ウォー・ゲーム』は、共に大ヒット。そしてバダムは、時代の最先端を行く寵児となった。
『ブルーサンダー』が10月、『ウォー・ゲーム』が12月と、両作の公開順がアメリカと逆になった、日本でも同様。本作プログラムにある通り、バダムをスピルバーグやルーカスと並べて、ハリウッドのトップランナーの1人として扱う動きも急であった。

 そんなバダムとシャイダーの組み合わせは、この時点で最高の輝きを放った。しかし両人にとって『ブルーサンダー』は、ピーク=山の頂に登り詰めた際の作品。頂点に達したら、後は下りるしかなくなるのである。
 80年代も中盤を過ぎると、スタローンやシュワルツェネッガーの“筋肉バカ”アクション映画が主流となってくる。平凡な男が危機に立ち向かうという、ある意味ブロディ署長のパターンを踏襲した、ブルース・ウィリス主演の『ダイ・ハード』(88)なども、シリーズ化と同時に、“筋肉バカ”度がマシマシになっていく。
 そんな中で、“A級”のアクターだったシャイダーのキャリアは、下降の一途を辿る。
93年からは、彼をスターダムに押し上げた、スピルバーグが製作するTVシリーズ「シークエスト」に主演するも、第2シーズンが終わったところで、“舌禍”による降板へと至った。
 その後の出演作は“B級”作品が軸となったシャイダーは、2004年に多発性骨髄腫を発症。4年近くの闘病の末、2008年に75歳でこの世を去った。
 一方バダム監督はその後、ロボットを主人公にした『ショート・サーキット』(86)や、バディ物の刑事コメディ『張り込み』(87)などのヒット作を放つも、どんなジャンルでもハズすことが少ない、その“職人芸”が逆に災いしたか、90年代に入ると、そのキャリアは徐々に下降線に。そして2000年代以降の活躍の場は、TVドラマが中心となっった。
 シャイダーとバダムが、更なる高みへと向かうことを期待したのが、我々の世代のアメリカ映画ファンである。その望みは叶わなかったが、2人の最高の瞬間にリアルタイムで立ち会えただけでも、幸運だったのかも知れない。■

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