ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2024.04.10
ブライアン・デ・パルマ復活!ケヴィン・コスナーをスターに押し上げた“西部劇”『アンタッチャブル』
アメリカに禁酒法が敷かれていた、1920年代から30年代はじめ。悪名高きギャングのアル・カポネは、酒の密造と密輸で莫大な利益を上げ、シカゴで「影の市長」と呼ばれるほどの権勢を誇っていた。 警察や議会、裁判所までがカポネの影響下に置かれる中、孤独な戦いを始めた男が居た。財務省から派遣された若き捜査官、エリオット・ネスである。 ネスは意気盛んに、密造酒摘発に乗り出す。しかし配下の警官は買収されており、捜査情報の漏洩で、初陣は大失敗に終わる。 世間の失笑を買ったネスは、初老の警官マローンと偶然知り合う。彼が信頼に値する男だと見定めたネスは、カポネに対抗するためのチーム作りへの協力を依頼する。 躊躇するマローンだったが、ネスのまっすぐな正義感に打たれ、警官の本分を通すことを決意。 マローンの指導の下、新人警官のストーン、財務省から派遣された簿記係のウォレスという仲間を得たネスは、大掛かりな摘発を成功させる。早速カポネの側から買収や脅迫などが仕掛けられるが、ネスは断固はねのけるのだった。 賄賂や脅しに決して屈しない4人のチーム“アンタッチャブル”と、カポネの築いた帝国は、血で血を洗う戦いへと、突入していく…。 ***** 「アンタッチャブル」というタイトルは、元々は本のタイトル。その内容は、実在の財務省捜査官だったエリオット・ネスが、アル・カポネ逮捕までの顛末を語ったインタビューを元に、構成されたものである。 この本によると、ネスたち“アンタッチャブル”は、デスクワーク中心の捜査官。銃を撃ったなどという話は、登場しない。 ところがこれを原作にしたTVシリーズの「アンタッチャブル」(1959~63/全118話)では、事実を大幅に脚色。ロバート・スタック演じるネスは、FBIの捜査官とされ、彼とその部下が毎回のように銃撃戦に臨んでは、ギャングを射殺するシーンが登場した。このシリーズはアメリカだけではなく、日本でも大人気となり、70年代頃までは度々再放送が行われていた。 TVシリーズの制作から、時は流れて20年余。1980年代中盤になって、このTVシリーズの放映権を持っていたハリウッドメジャーのパラマウントが、自社の75周年を記念する企画として、「アンタッチャブル」の“映画化”に取り組むことを決めた。 担当となったのは、パラマウントの契約プロデューサーだった、アート・リンソン。しかし彼は、原作となったTVシリーズを見ていなかった。 そんな彼が脚本を依頼したのは、デヴィッド・マメット。映画の脚本は、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(81)『評決』(82)を担当。後者ではアカデミー賞にノミネートされている。それ以上に評価されていたのは、劇作家として。「アメリカン・バッファロー」(76)「グレンガリー・グレン・ロス」(84)などを手掛け、後者ではピューリッツァー賞やトニー賞を受賞している。「アンタッチャブル」のTVシリーズは、リアルタイムで見ていたというマメット。シカゴ育ちで故郷をこよなく愛し、また“禁酒法”の時代に関しては、「マニア」と自負するほど詳しかった。 マメットはリンソンと打ち合わせながら、脚本の執筆を始める。実在の“アンタッチャブル”のメンバーが10人だったのを、4人に絞るのは、TVシリーズに倣いながらも、2人は端から、TVの映画版にする気はなかった。「75周年作品」にも拘わらず、パラマウントは1,500万㌦という、当時としても“大作”とは言えない製作費しか提供しなかった。そんな状況でリンソンが監督として声を掛けたのは、スローモーションや長回し、360度回転カメラ等々、技巧を凝らした映像美で熱狂的なファンを持っていた、ブライアン・デ・パルマ。 サイコサスペンスの『キャリー』(76)『殺しのドレス』(80)、ギャング映画の『スカーフェイス』(83)などではヒットを飛ばしたデ・パルマだが、その頃はちょうどキャリアの曲がり角。敬愛するヒッチコックにオマージュを捧げた『ボディ・ダブル』(84)、初のコメディに挑戦した 『Wise Guys』(86/日本では劇場未公開)が続けて大コケしたため、メジャーヒットを欲していた。 そんなデ・パルマが本作『アンタッチャブル』(87)の監督を引き受ける決め手となったのは、マメットが8か月掛けて書いた、その時点では第3稿となる脚本。これまで自分が手掛けてきた作品と違って、例えばジョン・フォード作品のような「伝統的なアメリカ映画の流れ」を汲んでいると感じたのである。 デ・パルマはこの作品を、“ギャング映画”ではなく、『荒野の七人』のような“西部劇”だと捉えた。実際マメットは、「老いたガンファイターと若いガンファイターの物語」としてストーリーを組み立てたと語っている。「神話的なアメリカのヒーローにまつわるスケールの大きな話」。これがプロデューサーのリンソン、脚本のマメット、監督のデ・パルマの間で一致した、本作の方向性となった。 主役のエリオット・ネスは、かつてなら、ゲーリー・クーパー、ジェームズ・スチュアート、ヘンリー・フォンダが演じたような役柄。望まれるのは、理想主義と強さを合わせ持つ、良い意味でクラシックな個性だった。 まずメル・ギブソンの名前が挙がったが、『リーサル・ウェポン』(87)の撮影が重なっていた。続いてウィリアム・ハートやハリスン・フォードなど、当時の売れっ子俳優が候補となった。 しかし、予算が折り合わない。そこで浮上したのが、売り出し中ではあったが、かなり知名度が落ちる、ケヴィン・コスナーだった。 コスナーの起用に懐疑的だったデ・パルマは、監督仲間のローレンス・カスダンとスティーヴン・スピルバーグに相談したという。 カスダンは、『再会の時』(83)でコスナーを起用しながらも、上映時間の関係で彼の出番を全カット。その後西部劇『シルバラード』(85)で正義のガンマンの役を与えている。スピルバーグは、プロデュースしたTVシリーズ「世にも不思議なアメージングストーリー」(85~87)の中で、自分が監督した一編で、コスナーを主役にしている。「彼はクリーンかつ素直で将来性がある」2人の監督のコスナーに対する評価は、まったく同じもので、デ・パルマもコスナー抜擢の踏ん切りがついた。 ネスの仲間のキャスティングも、重要だった。カポネを脱税で摘発することを提案する経理のエキスパート、ウォレス役には、『アメリカン・グラフィティ』(73)で知られた、チャールズ・マーティン・スミス。彼はこの「真面目でおかしな男」を、「漫画チックにしてはならない」と、肝に銘じながら演じたという。 アンディ・ガルシアは当初、カポネの用心棒で殺し屋のフランク・二ティ役の候補だった。しかし本人の希望もあって、新人警官ストーンのセリフを読んだらハマったため、“正義”の側に身を置くこととなった。 さてベテラン警官のマローンである。何とか“大作”の装いにしたいと考えたデ・パルマは、かねてからファンだった、元祖ジェームズ・ボンド俳優のショーン・コネリーにオファーした。「初めて脚本を読んだ時は“まるで天の啓示”のように感じた…」という、当時50代後半のコネリー。コスナーとの組み合わせは、まさに「老いたガンファイターと若いガンファイター」であった。 コネリーに対して、「いつも遠くから彼の仕事は素晴らしいと思っていた」コスナーは、この共演について、「プロの俳優としての、そして個人としての彼のスタイルには影響されたし、そこから学ぶこともあった」と語っている。まさに役の上での、ネスとマローンの関係に重なる。コスナーにとってコネリーは「特別な人」となり、後に自らの主演作『ロビン・フッド』(91)に、特別出演してもらっている。 コスナーはメソッド式で、ネスの役作りを行ったという。カポネについて、あらゆる文献を読み漁り、財務省関係、FBIなどで実際にネスを知っていた人々から話を聞いた。その中には実際の“アンタッチャブル”の、その時点でただ一人の生存者も含まれている。 ただマメットが、ネスのタフガイのイメージを和らげようと、守るべき愛する家族を持つ男としたことに関しては、役作りは容易だった。コスナーには当時、3歳と1歳の子どもがいたからである。 本当はデスクワークが似合う男なのに、成り行きで深みにはまっていく。シカゴの暗黒街の現実を知るにつれ、段々とタフになっていく。コスナーの役作りで、そんなエリオット・ネス像が出来上がっていった。それはデ・パルマによるネスのイメージ、「下水に落ちた白い騎士」と、正に合致していた。 「白い騎士」に対抗して、“悪”を体現するアル・カポネ役に、デ・パルマが切望したのは、ロバート・デ・ニーロだった。1960年代末、無名時代の2人は何度も組んでいたが、それから15年以上。アカデミー賞を2度受賞して、すでに名優の誉れ高かったデ・ニーロを起用するには、僅か2週間の拘束で、製作費の1割に当たる150万㌦も払わなければならなかった。 デ・パルマは、渋る映画会社の重役たちに、己の降板まで仄めかして起用を承諾させた。しかしデ・ニーロ本人から、なかなか出演のOKが届かない。 宙ぶらりんの状態でデ・パルマが頼ったのが、ボブ・ホスキンス。『モナリザ』(86)の演技で、カンヌ国際映画祭やゴールデングローブ賞で俳優賞を受賞して波に乗っていた彼にデ・パルマは、「もしデ・ニーロがやらなかったら、やってくれるか?」と、失礼を承知でオファーを行ったのである。 結局デ・ニーロが出演に応じ、デ・パルマはホスキンスに謝罪の電話を入れることとなった。数週間後、ホスキンスには詫び料として、20万㌦の小切手が届いたという。 正式な契約の日に、デ・ニーロに初めて会ったアート・リンソンは、酷いショックを受けた。出演していたブロードウェイの舞台の出で立ちで現れたデ・ニーロが、「七十キロもなくて、ポニーテイルをしている上に、三十歳ぐらいにしか見えない」状態で、ろくに口をききもしなかったのだ。カポネは太っていて四十歳、騒々しい男なのに…。 リンソンはデ・パルマを罵った。「あんな奴のためにボブ・ホスキンスを断ったなんて!もうおしまいだ」 そんなリンソンをデ・パルマはなだめながら、太鼓判を押した。次に会う時のデ・ニーロは、別人のようになっていると。 それから5週間。現れたデ・ニーロは、すっかり変わっていた。彼は契約後、すぐにイタリアに飛び、そこでパスタやポテトやピザ、ビール、牛乳を詰め込んで11㌔増量。更にカポネの出身地、ナポリ風のアクセントを身に着けて帰ってきたのだ。いわゆる“デ・ニーロアプローチ”だ。 更には古いニュースを見て、本物のカポネそっくりの声と動作、癖を身に付けた。外見的にも、髪の生え際を剃ることで、カポネの月のように丸い顔を作り上げた上、撮影中はローマから来たメイクアップ・アーティストが毎日3時間掛けて、顔の左側にカポネの有名な古傷を再現。更にはボディ・スーツを着込むことで、万全を期した。 本作の衣裳は、ジョルジョ・アルマーニが担当したが、デ・ニーロはリトル・イタリーの洋服屋に頼み、もっと本物らしくリメイク。更には画面には映らないにも拘わらず、絹の下着を、カポネが注文していた店に発注。それに加えて、カポネ愛用ブランドの葉巻や靴も手に入れた。 リンソンは、これらの経費の請求書に肝を冷やしながらも、デ・ニーロの役作りに関しては、不安を抱くことはなくなっていった。 本作のクランクインは、1986年の8月上旬。13週間の撮影で、使用されたロケ地は25以上。その多くが30年代前半には、カポネ行きつけの場所だったという。 クライマックスで、カポネの脱税の証拠である、帳簿係を拘束するための銃撃戦が撮影されたのは、シカゴのユニオン駅。20人のスタッフが2週間掛けて準備を行い、照明のために、電力会社が一時的に駅への電気の供給を増やした。 ここでデ・パルマは、映画史に残る『戦艦ポチョムキン』(1925)の“オデッサの階段”を引用。赤ん坊の乗ったベビーカーが階段を滑り落ちていく中で、激しい銃撃戦をデ・パルマの十八番、スローモーションで捉える。 実はこのシーンは、本作が“大作”の装いながら、製作費が抑えられたための、“代案”だった。本来は、列車に乗った帳簿係を車で追った上に、列車に乗り移って銃撃戦が繰り広げられる筈だったのが、予算の都合で実現不可能。代わりに撮られたこのシーンが、結果的にデ・パルマらしさが横溢する、本作を代表する名シーンとなったのである。 新旧問わずデ・パルマ作品には、“映像美”に走る反面、ストーリーがおざなりになる傾向がある。しかし本作は、マメットのストレート且つ説得力のある脚本によって、そうした欠点を解消。更には、デ・パルマが以前から仕事をしたかったという、エンニオ・モリコーネ作曲のスコアも素晴らしい響きを見せ、1987年に作られた“西部劇”としては、これ以上にない仕上がりとなった。 当初予定されていた製作費1,500万㌦はオーバーして、2,400万㌦が費やされたが、87年6月に公開されると、北米だけで7,500万㌦を稼ぎ出した。その秋に公開された日本でも、配給収入が18億円に達する大ヒットとなった。 アカデミー賞では、ショーン・コネリーに助演男優賞が贈られた。そしてケヴィン・コスナーはこの後、『フィールド・オブ・ドリームス』(89)『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(90)『JFK』(91)『ボディガード』(92)等々、ヒット作・話題作への出演が続く。特にプロデューサーと監督を兼ねた『ダンス・ウィズ…』では、アカデミー賞作品賞と監督賞の獲得に至り、大スターの地位を手にした。 監督のデ・パルマは、本作のヒットでせっかく取り戻した“信用”を、続く『カジュアリティーズ』(89)『虚栄のかがり火』(90)両作の大コケで無化する。次に復活するのは、やはり人気TVドラマシリーズを、オリジンを軽視して映画化するという、本作のパターンを踏襲した、『ミッション:インポッシブル』(96)となる。■ 『アンタッチャブル』™ & Copyright © 2024 by Paramount Pictures Corporation. 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COLUMN/コラム2024.04.08
ジョン・フォード&ヘンリー・フォンダ。名コンビの傑作西部劇には、ヴァージョン違いが存在した!?『荒野の決闘』
“西部劇の神様”ジョン・フォード(1894~1973)。アカデミー賞監督賞を史上最多の4回受賞している彼は、1年に3本監督するのが、仕事のパターンだった。 1本は税金のため、2本目は自分の船の維持のため、そして3本目は翌年まで暮らしていくためなどと言われたが、1910年代から60年代まで半世紀を超えるキャリアで、実に136本もの監督作品を残している。 そんなフォード作品の主演俳優で、まず思い浮かぶのは、ジョン・ウェイン。『駅馬車』(39)をはじめ、『アパッチ砦』(48)『黄色いリボン』(49)『リオ・グランデの砦』(50)の“騎兵隊三部作”や『捜索者』(56) 『リバティ・バランスを射った男』(62)等々、20数本に渡って出演している。 しかし先に記した通り、フォードの膨大なフィルモグラフィーから見れば、ウェイン主演作も、ごく一部。全盛時のフォード作品で存在感を示した、もう1人の主演俳優としては、名優の誉れ高い、ヘンリー・フォンダ(1905~82)の名が上がる。 フォンダは、トータルでは7本、フォード作品に主演している。2人の出会いとなったのは、『若き日のリンカン』(39)。アメリカの第16代大統領で、奴隷解放に力を尽くした、エイブラハム・リンカーンの弁護士時代を描いたものである。 フォンダはリンカーン通を自認し、彼に関する書物は「7割がた」読んでいたという。映画会社から送られた、『若き日の…』の脚本を読んだ際は、「素晴らしい」とは思いながらも、オファーを受けることには、尻込みした。リンカーンを演じることは、「神とかキリストとかを演じる様なもの」と、フォンダには感じられたのだ。 プロデューサーの説得で、とりあえずはリンカーンそっくりにメイクして、スクリーン・テストを受けてみた。現像された映像を目の当たりにして、フォンダは大きなショックを受けたという。「あの人がわたしの声でしゃべるのは、どうにもがまんがならない」そして、「この話はなかったことにしてほしい」と申し出た。 そこで映画会社は、この作品の監督を務めるジョン・フォードの元へ、フォンダを連れて行った。フォンダは以前、フォードがジョン・ウェインに演技をつけるのを後方から見物したことはあったが、この時がほぼ初対面。そんなフォンダに、フォードはこう言い放ったという。「お前さんは偉大なる解放者を演じるつもりなんだろうが、そんなものは糞くらえだ」「奴はスプリングフィールドからやってきたケツの青い新米弁護士に過ぎないんだ」 この言を受け、リンカーンを演じることを決めたフォンダは、結果として、「ニューヨーク・タイムズ」から絶賛を受けるなど、映画俳優としての声価を大いに高めることとなった。 フォードの監督作品では、1つのカットを2回以上撮ることは、ほとんどない。フォードは、俳優に演技を繰り返させすぎると、「…ロッカールームに演技を置き忘れてきてしまう…」と言って、ファーストテイクの新鮮さを求めたという。 現代で言えば、イーストウッドやスピルバーグのオリジンとも言えるこの演出法が、フォンダの性にも合ったのか。『若き日の…』の後には、『モホークの太鼓』(39)『怒りの葡萄』(40)と、フォード作品への主演が続いた。 特に『怒りの葡萄』は、フォンダがジョン・スタインベックの原作に惚れ込んで、出演を熱望した作品。その主人公トム・ジョードは、フォンダの当たり役となり、初めてアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた(彼が実際に主演男優賞のオスカー像を手にするのは、遺作となる『黄昏』(81)まで、40年以上待たねばならなかったが…)。 その後フォンダは、第2次世界大戦に従軍。戦後に帰国して主演第1作となったのも、ジョン・フォードの監督作品。それが本作、『荒野の決闘』(46)だった。 ***** 西暦1882年の西部。ワイアット・アープ(演:ヘンリー・フォンダ)と3人の弟は、メキシコから牛を数千頭連れて、カリフォルニアへ向かっていた。その途中、アリゾナのトゥームストン近くで、クラントン父子に会う。ワイアットは、クラントンから安値での牛の買い取りを申し込まれるが、断わる。 末弟のジェームスを留守番に残し、ワイアットらがトゥームストンに出掛けると、酒場で銃の乱射騒動が起こった。その場を見事に収めたワイアットに、町長は保安官就任を頼むが、彼は断わって辞去する。 ところが野営地に戻ると、末弟は殺され、すべての牛は盗まれていた。クラントンの仕業とにらんだワイアットは、トゥームストンに戻り、保安官就任を受ける。 酒場で賭博を仕切るのは、凄腕のガンマンでもあるドク・ホリディ(演:ヴィクター・マチュア)。彼の情婦チワワ(演:リンダ・ダーネル)も絡んで、ワイアットとホリディの間に“一触即発”の空気も流れたが、やがて2人は酒を酌み交わし、親しい仲となった。 ホリディの許婚だった美しい女性クレメンタイン(演:キャシー・ダウンズ)が、駅馬車でトゥームストンに着く。ホリディはボストンで、優秀な外科医だったが、肺結核に罹って自暴自棄となり、クレメンタインの前から姿を消したのだった。その後西部を渡り歩いた結果が、今の姿だった。 清楚で気品のあるクレメンタインに、心惹かれるワイアット。ホリディはクレメンタインを追い返そうとするが、帰ろうとしない彼女に業を煮やし、自分がトゥームストーンを出ていこうとさえする。 しかしそれがきっかけで、牛泥棒と末弟殺しの犯人が、クラントン一家だったことが明らかに。ワイアットとホリディらは、クラントン一家との“OKコラルの決闘”へと臨む。 ***** 本作『荒野の決闘』は、実在の人物だったワイアット・アープ(1848~1929)からの聞き書きを原作とする、3度目の映画化作品である。アープはサイレント期のハリウッドで、西部劇の決闘の演技を指導する仕事に就いており、その際にこの“OKコラルの決闘”を、題材として売り込んだと言われている。 ジョン・フォード自身も、まだ監督になる以前、進行係の助手を務めている頃に、ワイアット・アープと面識があった。年老いたアープがスタジオの知り合いを訪ねてくると、「よくアープさんに椅子を運び、コーヒーを届けた」という。そしてアープから、“OKコラルの決闘”のことを直接聞いたとも語っている。 フォードは、『荒野の決闘』に関して、「現実にあった通りのことを正確に再現したつもりだ」と語っている。しかし、そんなわけはない。真実の“OKコラルの決闘”は、「末弟の敵討ち」などというキレイな話ではなく、アープら保安官側とクラントン一家らカウボーイ側の、様々な確執の結果に起こった“私闘”であった。そしてむしろこの決闘の後に、両サイドが互いの命をつけ狙うという、血みどろの復讐劇・暗殺劇が繰り広げられることとなるのである フォードも、そんなことは百も承知だったと思われる。そもそも劇中に登場するチワワやクレメンタインといった女性キャラは、架空の人物なのである。 何はともあれ本作は、数々のフォード西部劇の中でも、『駅馬車』と並んで“傑作”と謳われることが多い作品となった。映画史に残るチェイスアクションが売りの『駅馬車』が“動”とするならば、本作はまさに、“静”の魅力を湛えた西部劇と言える。 クライマックスこそ、“OKコラルの決闘”となるが、そこに至るまで本作で何よりも印象に残るのは、叙情豊かに描かれた西部の町と、その中でのワイアットの振舞いである。 実際にはメキシコ国境近くに在るトゥームストーンだが、本作でのオープンセットは、ジョン・フォード西部劇ではお馴染みの、ユタ州とアリゾナ州に跨るモニュメントバレーの地に25万㌦を掛けて建設された。そこで長期ロケを行い撮影された中でも、特に名シーンとして知られるのは、ワイアットが、軒先に持ち出した椅子に腰かけたまま、傍の柱に長い足を掛け、椅子を浮かせてぷらぷらとくつろぐシーン。そして日曜の朝、クレメンタインに誘われたワイアットが、建設中の教会の広場へと出掛け、彼女とダンスに興じるシーン。 “静”の西部劇として世評の高い本作『荒野の決闘』であるが、ジョン・フォード自身は後年のインタビューなどで、あまり触れたがらなかった。また一般公開された“完成版”に関しては、「一回も見とらんね」などと言っている。 これには事情がある。フォードは本作に関して、粗編集したものをプロデューサーのダリル・F・ザナックに渡した後は、諸々の判断を彼に任せてしまったのである。ザナックはそこから30分カットした上に、不足に思った部分に関しては、別の監督を呼んで追加撮影させている。 後にわかったことだが、ザナックが完成させたバージョンと、フォードによる粗編集版は、なぜか製作した20世紀フォックスのフィルム倉庫には、混ざって保管されていた。即ち劇場公開の際に、誤って(?)粗編集版のフィルムが送られて、そちらを上映した映画館もあったことが考えられるわけである。 ・『荒野の決闘』の撮影風景。中央、ステージ上にパイプをくわえたジョン・フォード監督の姿が見える。 実はこうした経緯が、本作が本国の翌年=1947年に公開された、日本の映画ファンにも、混乱を及ぼしたと言われる。本作のラスト、故郷に帰るワイアット・アープを、町に残ることを決めたクレメンタインが、トゥームストーンの外れまで見送りに来る。その別れ際にワイアットが、「私はクレメンタインという名前が大好きです」と、映画史に残る名セリフを吐くが、その前に彼が、クレメンタインの頬に口づけをするシーンがあったかなかったか、公開から暫く経ってから、議論になったのだ。 当時はもちろんビデオなどなく、またTVの洋画劇場なども始まる前だったため、口づけの有無を確かめるためには、リバイバルを待たねばならなかった。1930年代生まれの熱心な映画ファンとして知られる、コラムニストの小林信彦氏やイラストレーターの故・和田誠氏などは、「口づけはしていない」派だったというが、本作再上映の際に「口づけをしている」のを目の当たりにして、己の記憶違いに大いなるショックを受けたという。 しかしこれは、実は記憶違いではなかったらしい。ワイアットの口づけは、ザナックが追加撮影で足したカットであった。つまり初公開時に小林氏や和田氏は、フォード主導の「口づけをしていない」粗編集版を観ていたものと思われる。 こうした混乱も、ささやかながら、映画史の一頁と言えるだろう。そして名コンビであったジョン・フォードとヘンリー・フォンダが、その後『ミスタア・ロバーツ』(55)を最後に、16年、7作に及んだパートナーシップを解消し、訣別してしまうのもまた、映画史の一頁である。 今コラムでは、そこを深掘りすることはしない。今はただ、フォード&フォンダコンビのピークと言える『荒野の決闘』に、製作から80年近く経っても、触れられる至福を祝いたい。完成版として放送されるのが、ザナックが介在したバージョンであることを鑑みると、これもまた微妙な話ではあるが…。■ 『荒野の決闘』© 1946 Twentieth Century Fox Film Corporation.
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COLUMN/コラム2024.03.08
ディカプリオが惹かれた「謎の大富豪」。若きハワード・ヒューズの20年を描く。『アビエイター』
「謎の大富豪」。 1976年、ハワード・ヒューズ70歳での訃報に直に触れたことのある者は、こんなフレーズを、やたらと耳にした記憶があるかと思う。 1958年の公式インタビューを最後に、亡くなるまでの20年近くは、マスコミから姿を隠し、ラスベガスのホテルに独居。立退きを迫られると、そのホテルごと買収して、ほとんど外出せずに暮らし続けたという。 遺された総資産が360億㌦にも上り、「謎の大富豪」のフレーズがあまりにも立ち過ぎた故、私などは彼の業績や実績を、かなり後年までほとんど知らなかった。“発明家”“飛行家”そして“映画製作者”として名を馳せたという事実を。 190cmと高長身で、ハリウッドスター並みの容貌。ひとつの人生で何人分もの体験をして、多くのことを成し遂げたヒューズには、「20世紀で最高に寛大な金持ち」「身勝手な人」など、正反対の評価が付いて回る。 そんなヒューズの人生に、魅せられた男がいた。レオナルド・ディカプリオだ。 1974年生まれの彼は、『ギルバート・グレイプ』(1993)で、19歳にしてアカデミー賞助演男優賞の候補となり、『タイタニック』(97)で、押しも押されぬ若手のTOPスターとなる。 彼がヒューズに興味を持ったのは、10代の頃。この「謎の大富豪」を、正面切って描いた伝記映画は、長く存在しなかった。そしてディカプリオは、20代の8年間、ヒューズの人生を映画化するプロジェクトに心血を注いだのである。 ヒューズは、“飛行機”と“映画”と“女性”に、同じような情熱で関わったという。ディカプリオはその伝記を何冊も読み、様々な書き手が、各々違う見方で彼について書いているのを発見。一言では言い表せない複雑な人間だからこそ、こんなにも惹かれるのだと、得心した。そこに俳優としてのやりがいを強く感じると同時に、自分とヒューズの共通点が、「完璧への執着」であることを見出したという。 ディカプリオは、製作会社「アピアン・ウェイ」を設立。その第1作としてこの企画を取り上げ、自らは製作総指揮と主演を務めることにした。 タイトルは、“飛行家”という意味の“アビエイター”に。そして監督は、マーティン・スコセッシに決まる。 スコセッシとディカプリオは、前作『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)に続く顔合わせ。…と言うよりも、本作『アビエイター』(2004)は今日に於いては、『キラー・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)まで6作に及ぶ名コンビの、2作目という位置付けになるのだろうか? しかしスコセッシの起用は、当初はディカプリオの頭にはなく、スコセッシ自身も、“ハワード・ヒューズ”という題材には、まったく興味がなかったという…。 ***** 1920年代。ヒューズは父から受けた莫大な遺産を元手に、夢のひとつ“映画製作”を開始。念願の企画だった航空アクション映画『地獄の天使』製作で、本物の戦闘機を買い集め、自ら空中スタントをこなし、ついには監督まで務めることとなった。この作品は、2年近く掛けてようやくクランクアップ。しかしトーキー映画第1作『ジャズ・シンガー』を観たヒューズは、サイレント映画だった『地獄の天使』を、全編音声入りで撮り直すことを決めた。 史上空前の莫大な予算を掛けて3年がかりで完成した『地獄の天使』は大ヒット。しかし大赤字に終わる。 ヒューズはもう一つの夢だった、“航空事業”に着手。会社を立ち上げ、世界一速い飛行機の開発を始めた。 女性と次々と浮名を流していたヒューズは、新進女優のキャサリン・ヘプバーンと恋に落ちる。2人は真剣だったが、やがてズレが生じ、破局が訪れる。 以前から潔癖症の傾向があったヒューズの病みは深まり、強迫神経症の症状が顕著となる。一時は服を着ることも水に触れることも出来ず、全裸のまま暮らし、他人との接触や外出を、恐怖と感じるようになった…。 その後ヒューズは、大手航空会社「TWA=トランス・ワールド航空」のオーナーとなる。第二次大戦開始後には、政府からの資金を受けて、世界最大の輸送機の開発を進める。同時に偵察機を開発し、自らテスト飛行を行うが、墜落事故で瀕死の重傷を負う。 復帰後の彼を襲ったのは、開発が遅れていた輸送機に関し、公費の不正使用を疑うFBIの強制捜査だった。公聴会でライバル企業の息が掛かった上院議員と対決することとなったヒューズは、精神状態が著しく悪化。試写室に全裸で引き籠もって、絶体絶命のピンチを迎えた。 元恋人の女優エヴァ・ガードナーのサポートで、ヒューズは公聴会に何とか出席する。果して彼は、この難局を乗り切れるのか!? ***** 構想から実現までの8年間、ディカプリオはヒューズの伝記をはじめ、関係する本や資料を読み漁った。更には録音テープを聴き、古い映画を何本も鑑賞。その上で、ヒューズと交際していた女優も含め、彼を直接知る人々に会うなど、「ハワード・ヒューズとして」生活するところから、役作りを始めた。 ヒューズ流の、向こう見ずな“飛行術”を学んだのも、その一環。ヒューズが悩まされていた、異常な潔癖症の実際を知るためには、この病気に詳しい医者を訪ね、症状を詳しくリサーチした。“映画化”まで時間が掛かった分、ディカプリオは十分な準備ができたとも言える。 監督は、『ヒート』(95)や『インサイダー』(99)のマイケル・マンに依頼。そのマンを通じて脚本は、『グラディエーター』(2000)や『ラスト サムライ』(03)のジョン・ローガンにオファーした。 ディカプリオとマンは、ヒューズの全生涯を追ったり、狂気に侵された晩年を描いたりするのではなく、彼の若い頃に焦点を当てることにした。奇行で有名な「謎の大富豪」ではなく、“航空機”と“ハリウッド”の両方の世界で大活躍する、過激なほどの想像力と先見性を兼ね揃えた、精力的で若々しい“英雄”としての、ハワード・ヒューズである。 物語の核には、大きな2つの出来事を、据えることを決めた。それは、ヒューが20代後半に挑んだ、『地獄の天使』製作、そして1940年代、ヒューズ率いる「TWA」が、国際航空会社大手として出現した絶頂期である。本作は、「いくつかの出来事を凝縮させたり、順序を変えたり、登場人物を組み合わせたりしつつも、出来るだけ真実に近いもの」を作り出す試みだった。 そんなヒューズの20年間に焦点を当てた物語の幕を引くのは、“1947年”。ヒューズにとっては「晩年の第一歩目」とも言うべき年だったと、マンが決めたのである。 しかしマンは中途で、本作に関して監督はせず、製作に専念することとなった。では誰が、監督に適任か? 本作の脚本を、スコセッシに読むよう薦めたのは、彼のエージェント。誰が関わっている企画かは、一切隠してのことだった。実はこのエージェントは、当のディカプリオの担当も、兼ねていた スコセッシはちょうど、『ギャング・オブ・ニューヨーク』の編集で忙しかった頃。しかし渡された脚本に目を通すと、あっという間に、頁をめくるのに夢中になったという。 スコセッシがそれまでヒューズに興味を持たなかったのは、「奇人変人の類かと思っていた」という、お定まりの理由だった。そんな彼が脚本を読んで最も興味深いと思ったのは、「すごくハンサムで活力に満ちた頭の切れる若者が、自分自身の欠点に苦しむ男になった」という部分だった。 スコセッシは、監督兼プロデューサーとして渾身の力を籠めた、『ギャング・オブ・ニューヨーク』の次に手掛ける作品は、彼のフィルモグラフィーで言えば、『ハスラー2』(86)や『ケープ・フィアー』(91)のような作品と考えていた。即ち、自分が出した企画ではなく、監督として依頼された、雇われ仕事である。 そんなタイミングで、本作の企画が持ち込まれた。スコセッシは、「ハリウッドの20年代、30年代、40年代、まさにアメリカン・ドリームの一部だった頃を再現できるという魅力」に抗えず、受けることを決めた。 スコセッシは、監督に決まると、ローガン、ディカプリオと3人で、ストーリーの微調整を行った。数多くの女性と浮名を流したヒューズだが、その内の2つの恋を、最も重要だったものとしてピックアップすることに決めたのである。 それはキャサリン・ヘップバーン(1907~2003)、エヴァ・ガードナー(1922~90)という、2人のハリウッド女優との恋愛。実在の2人を演じるは、2人のケイト。ケイト・ブランシェットとケイト・ベッキンセールである。 その中でも本作で印象深いのは、ブランシェット演じる、キャサリン・ヘップバーン。ヘップバーンとヒューズには、多くの共通点があり、共に凄い野心家であったことが描かれている。 奇しくも“ケイト”という愛称だったキャサリン・ヘップバーン役を、ケイト・ブランシェットにオファーすることが決まったのは、「ゴールデン・グローブ賞」の授賞式だったという。その席でブランシェットを見たスコセッシの妻が、彼に耳打ちした。「ほら、あなたのキャサリン・ヘップバーンが見つかったじゃない」。スコセッシも、「その通りだ!」と答えたという。 オファーを受けたブランシェットは、「…正直言ってマーティン・スコセッシが監督でなかったら、こんなことやってみようとは思わなかった」という。それはそうだろう。キャサリン・ヘップバーンは、アカデミー賞主演女優賞を史上最多の4度受賞し、誰からも尊敬されている大女優。しかもこの作品の製作が本格化した頃は、存命であった。 ブランシェットは、役を外見ではなく、エネルギーの部分から自分のものにしていった。具体的には、ヘップバーンの声をよく聞いた。人がどう呼吸するかは、その人の考え方を表現する大切な要素だからである。 スコセッシ流のサポートは、シネフィルの彼らしく、“映画上映”だった。ブランシェットの移動場所に合わせて、ヘップバーンの昔の主演作=1930年代の作品を、大きなスクリーンに映し出すよう、計らったのだった。 余談になるがヘップバーンは、血液の循環が良くなるという、冷水のシャワーを浴びる習慣があった。そこでブランシェットも役作りとして、冷たいシャワーを浴びることにした。しかしこれは続かず、すぐに温水に切り替えたそうである。 1920年代から40年代という時代を再現するのに力を発揮したのは、衣裳や美術、撮影といったスタッフ陣。衣裳デザインのサンディ・パウエルは、最高に洗練された当時の豪華ファッションを再現した他、ヒューズの着こなしの変化を表現した。 撮影監督のロバート・リチャードソンは、ナイトクラブなどの実物大のセットを組む、美術のダンテ・フェレッティと、綿密に打合せ。また飛行シーンの視覚効果チームとも話し合って、色合いやカメラワークなどの同調も行った。 リチャードソン、フェレッティ、パウエルの3人は、スコセッシの相方とも言うべき、編集のセルマ・スクーンメーカーと共に、アカデミー賞が贈呈されるという形で、報われた。2004年度のアカデミー賞では本作に、その年最多の5部門が贈られたのだ。 しかし当然のように狙っていた、作品賞や監督賞、主演男優賞は、ノミネート止まり。この年度のアカデミー賞を制したのは、4部門の受賞ながら、作品賞、監督賞などに輝いた、クリント・イーストウッド監督・主演の『ミリオンダラー・ベイビー』だった。 5度目のノミネートにして、またも受賞できなかった“監督賞”のオスカーを、スコセッシが手にするのは、6度目の正直。2006年の『ディパーテッド』。 一方ディカプリオが主演男優賞を手にしたのは、本作から10年以上経った2015年の『レヴェナント: 蘇えりし者』。主演・助演合わせて、奇しくもスコセッシと同じ、6度目でのノミネートでの受賞となった。 本作に於いて、ある意味最もチャレンジャーで、しかも大勝利を収めたのは、ケイト・ブランシェットだったと言えよう。ほとんどの人が実物を知らないハワード・ヒューズと違って、誰もが知っていた稀代の名優キャサリン・ヘップバーンを演じて、初めてのオスカー=アカデミー賞助演女優賞を手にしたのだから。■ 『アビエイター』© 2004 IMF. 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COLUMN/コラム2024.03.01
マックィーンvsニューマン『タワーリング・インフェルノ』=“そびえ立つ地獄”の頂に立ったのは!?
1975年=昭和50年。日本に於いてこの年は、現在60歳前後となっている私のような世代の映画ファンにとっては、特別な意味を持つ。 夏に超高層ビルの火災を描いた、『タワーリング・インフェルノ』(1974)、冬には人食い鮫の恐怖を描いた、『ジョーズ』(75)。いずれも本国よりは半年ほど遅れて公開されたアメリカ映画が特大ヒットとなり、“パニック映画”ブームが最高潮に達した。それと同時に、“超大作”が全国数百館のスクリーンを占めて一斉公開される、“ブロックバスター”の時代が、本格化していく。 我々の世代の多くは、リアルタイムでこれらの作品に魅せられたのがきっかけで、“映画少年”になった。人生の羅針盤が、ここで狂った者が少なくない…。 本作『タワーリング・インフェルノ』の企画の発端は、ハリウッド2大メジャーの“競合”からだった。ワーナー・ブラザースが「ザ・タワー」、20世紀フォックスが「グラス・インフェルノ(ガラスの地獄)」という、それぞれ超高層ビルの火災を描いた小説の原作権を、30~40万㌦もの大金を投じて、買い入れたのである。 2つの小説は、ビル火災発生の状況設定など類似点が多かった。そこで両メジャーの橋渡しに登場したのが、アーウィン・アレン(1916~91)。 アレンは、コロムビア大学でジャーナリズム学・広告学を専攻後、雑誌の編集、ラジオ番組の製作、コラムニスト、出版のエージェントなどを経て、映像業界へ。60年代にはプロデューサーとして、「宇宙家族ロビンソン」「タイム・トンネル」「巨人の惑星」などのSFドラマを手掛け、TVのヒットメーカーとなった。 映画界にその名を轟かせたのは、1972年に公開された、『ポセイドン・アドベンチャー』。大津波によって転覆した豪華客船からの決死の脱出劇を描いたこの作品は、世界中で大ヒットとなり、“パニック映画”ブームの先駆けとなった。 そのアレンが、ワーナーとフォックスに、無駄な競作を避け、両原作の良いところ取りをしたストーリーを組み立てて、共同製作をする話を提案したわけである。両社は73年10月に合意に達し、このプロジェクトに、合わせて1,400万㌦の巨費を投じることを決めた。 アレンは、『ポセイドン・アドベンチャー』で大成功を収めた方法論を以て、本作の製作に取り掛かる。~キャストには有名スターをズラリと揃え、彼ら彼女らを災害の渦中に放り込む~~特殊効果を駆使して、大勢のエキストラが命を落としていく中で、スターたちも次々と犠牲になる~~最終的に、スターの何人かが生還を果す~ 74年春、キャストが固まった。2大メジャーが手を組んだ以上のニュースとなったのが、2大スターの共演。それは、スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンという組合せだった。 脇を固めるのも、ウィリアム・ホールデン、フェイ・ダナウェイ、フレッド・アステア、リチャード・チェンバレン、ジェニファー・ジョーンズ、シェリー・ウィンタース、ロバート・ヴォーン、ロバート・ワグナーといった、新旧取り合わせて豪華な面々。その一翼には、アメフトのスーパースターで、後に元妻殺しで“時の人”となってしまう、O・J・シンプソンも加わっていた。 これらのオールスターキャストが、いわゆる“グランドホテル形式”で、災害の中で様々な人間模様を繰り広げていくわけだが、何と言っても、耳目を浚ったのは、マックィーンとニューマン!当時としては、これ以上にない、ビッグなカップリングであった。 そして本作『タワーリング・インフェルノ』は、74年5月にクランク・イン。70日間の撮影へと突入した。 ***** サンフランシスコに、地上520㍍の偉容を誇る、138階建ての超高層ビル「グラスタワー」が完成。最上階のプロムナードルームには、上院議員や市長などのVIPをはじめとした300名を集め、落成記念パーティが開かれることとなった。「タワー」の設計者ダグ(演:ポール・ニューマン)は、これを機に施工会社を退職することを決意。婚約者のスーザン(演:フェイ・ダナウェイ)と、砂漠へと移り住む計画だった。 しかし電気系統の異常が起こったことから、ダグは自分が指定した仕様より安上がりな材料を使った、大規模な手抜き工事が行われていることを知る。ダグは施工会社の社長で、ビルのオーナーでもあるダンカン(演:ウィリアム・ホールデン)に、「タワー」オープンの延期を迫るが、相手にされない。 危惧は的中し、81階の配電盤のショートから出火。火は、徐々に燃え広がっていった。 オハラハン(演:スティーヴ・マックィーン)をチーフとする消防隊が出動する。火災の状況を見た彼は、ダンカンを半ば脅すように説得。最上階から賓客たちを、1階へと下ろすことを承知させた。 ようやく避難が始まる中で、それを嘲笑うように火の手は広がっていく。消防隊員を含めて犠牲者が増えていく中で、オハラハンとダグたちは、一人でも多くの命を救おうと、粉骨砕身の働きをするが…。 ***** 2つの小説からエキスを抽出して、1本のシナリオにしたのは、スターリング・シリファント。『夜の大捜査線』(67)でアカデミー賞脚色賞を受賞している彼は、『ポセイドン・アドベンチャー』で、ポール・ギャリコの原作をベースに、オールスターキャストによる、“パニック映画”の鋳型を作り上げた実績を買われての、起用である。 本作では、原作に書かれた、登場人物たちの絡みは極力簡略化。救助活動が行われている最中に、トラブルが起きて、その方法がダメになる。そこで新たな救助のやり方を見つけ出すが、まだダメになる。更に次の方法を見つけて…といった形で、アクションを伴ったハラハラドキドキの展開を、積み上げた。 監督に選ばれたのは、ジョン・ギラーミン。『ブルー・マックス』(66)『レマゲン鉄橋』(69)などの戦争映画で評価されていた。 と言っても本作は、4つのグループが同時にカメラを回すという、製作体制。ギラーミンは主に、ドラマ部分を担当。アクションパートを、プロデューサーのアーウィン・アレンが監督した他に、特殊効果班、空中シーン班が稼働した。 ミニチュアやセットなどを担当したのは、『ポセイドン・アドベンチャー』のスタッフ。ミニチュアと言っても、138階/520㍍の「グラスタワー」の模型は、33㍍の高さに及んだ。「タワー」が、サンフランシスコ市街の上方高くそびえ立っているように見せるためには、マットペインティングの特殊技術が併用されたという。 ロサンゼルスの20世紀フォックスのスタジオに在る、8つのサウンドステージには、57という記録的な数のセットが組まれた。その中には、宙づりになった展望エレベーターをヘリコプターで吊るシーンを撮るために作られた、4階分の高さの建物のセットなどもある。 CGなどない時代の、大火災の映画である。セットを実際に燃やしながら撮影しても、俳優の演技が良くない時がある。そうした場合のため、セットは1度火を付けても、後でまた使えるように、特殊建材を使った耐火仕様。NGが出ると、スタッフがすぐさま、壁を直してペンキを塗り替え、カーペットや家具、カーテンなどを新品に交換して、撮影が続けられた。 30万㌦を投じ、全長100㍍、1万1,000平方㍍に及ぶ最大級のセットが作られたのは、落成パーティの場となる、最上階のプロムナードルーム。クライマックスシーンの撮影のため、鉄柵で5㍍もある支柱を組み、その上にセットを組み立てた。4,000㍑もの水を一気に流した際に、スムースになだれ落ちる構造となっている。ネタバレになるが、このような作りにしないと、映画の内容と同じく、キャストが溺死する危険性があったという。 こうしたセットの中で、3,000人ものエキストラが右往左往。25名のスタントマンが、高層ビルの窓をぶち破って飛び降りたり、エレベーターのシャフトや階段の吹き抜けに転落したり、不燃性のボディスーツを着込んで火だるまになったりしたのである。 そんな大プロジェクトの頂点に居たのが、スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンだった。 マックィーンは1930年生まれ、ニューマンは4歳年長の26年生まれで、本作の頃は共に40代。アクターズ・スタジオ出身の2人は、TVやブロードウェイを経て、ハリウッド入り。60年代から70年代に掛けて、TOPの座を競い合ってきた。 とはいえ、「犬猿の仲」というわけではない。スピード狂でカーレーサーでもあるという共通の嗜好があり、また映画製作の場でスターが発言権を強めるためのプロダクション「ファースト・アーティスツ」の同志でもあった。 だが2人がそのキャリアを通じて、ライバル心を抱き合ってきたのも、紛れもない事実。特にマックィーンがニューマンに対して抱いてきた感情は、強烈なものだったと言われる。 ポール・ニューマンの出世作となったのは、実在のプロボクサーに扮した、『傷だらけの栄光』(57)。実はこの作品に、マックィーンも、出演している。 と言っても、日給19㌦で雇われた、エキストラに毛が生えた程度の役どころで、その名はクレジットもされていない。監督のロバート・ワイズ曰く、まだ無名の存在だったマックィーンの「精一杯の生意気な態度」が目を惹いたので、「ニューヨークの屋上の乱闘の場面での“小僧”の役」に付けたのである。 因みにワイズはこの9年後に、人気スターとなったマックィーンの主演作『砲艦サンパブロ』(66)を監督。時の流れを痛感したという。 ニューマンとマックィーンの次なる因縁は、『明日に向って撃て!』(69)。ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドという、19世紀末の西部に実在した2人組のアウトローを主役とするこの作品では、ニューマンの出演が早々に決定。その後共演者の候補として、マーロン・ブランドやウォーレン・ベアティ、マックィーンの名が挙がった。中でもニューマンが、特に共演を切望したのが、マックィーンだった。 実はニューマンとマックィーンのエージェントは、同一人物。そのエージェント、フレディ・フィールズは2人の共演を実現するために奔走するも、最終的に不調に終わる。マックィーンが自分の名を、ニューマンより先にクレジットすることにこだわったためだったと言われる。 結果的にマックィーンがやる筈だったサンダンス・キッド役には、ロバート・レッドフォードが抜擢され、作品の大ヒットと共に、一躍スターダムに。ニューマンとレッドフォードは、生涯を通じての親友ともなった。 因みに『明日に向って撃て!』が公開された翌70年、カリフォルニアのスピードウェイで、ニューマンとマックィーンの2人が、レースを見て楽しむ姿が、地元の9歳の少年に目撃されている。少年曰く、ニューマンがマックィーンに、『明日に向って撃て!』に出なかったことをくどくどと言及すると、マックィーンは「あんたはそれをもう一度俺に演らせる気は無いだろう!」と反論。そのやり取りの後、2人は突然少年の方を見て、ニヤリと笑ったという…。 さて『明日に向って撃て!』から5年経って、ようやく実現した、本作での本格的な共演。この作品へのコメントを見ると、ニューマンは、結構割り切って出演している感が強い。曰く、「この映画の本当の主役は火災だ」「この種の映画としてはいいできだった。できる限り素早くスター達を避難させ、スタントマンをつぎこんでね」 それに対してマックィーンのスタンスは、ちょっと違っていた。「最初シナリオを読んだ時は建築技師の役がいいと思ったけれど、途中で気が変わってね」 マックィーンが気に入ったのは、消防隊チーフのオハラハン。彼はずっと伸ばしていたお気に入りのヒゲを、役のために剃り落とした。そして、マックィーンが演じることで、元々はTOPから4番目だったオハラハンの役どころは、膨らんでいく。 本作の技術顧問である、本物の消防隊長とマックィーンの打合せ中に、近隣の映画スタジオで、本物の火災が発生した。参考になるからと、現場へと向かう消防隊長に同行。実地見学に赴いた際、ヘルメットと消防服を身に纏って、マックィーンは、放水を手伝ったという。 監督のギラーミンは、マックィーンから、自分が被るヘルメットが、イギリスの警官のように見えるので、どうにかして欲しいと言われ、困惑したことがあった。偶然にも撮影が始まる前夜、ギラーミンが食事に出掛けた先で、古風な消防士用のヘルメットを見つけたので持ち帰り、マックィーンに試着させた。すると気に入ってくれたので、ホッと胸を撫で下ろすという一幕もあった。 脚本に関しても、一悶着あった。マックィーンが自分のセリフの数をカウントして、ニューマンより12個も少ないことを発見。プロデューサーに電話して、セリフを増やすことを要求してきたのである。 そのため、休暇で海に出ていた脚本家のシリファントは、突然陸へと呼び戻された。彼はマックィーンの要求通り、セリフを12個増やしたという。 そして再び、ニューマンとマックィーンの共通のエージェント、フレディ・フィールズの出番が、やって来る。彼がプロデューサーのアレンと論議になったのは、ポスターなどで、2人の大スターの名前の配列を、どうするのか!? 最終的にまとまったのは、TOPにはマックィーンの名を置くということ。但し、その右側にクレジットされるニューマンの名は、マックィーンよりも高い位置に置いて、同格の主演であることを表す。 ともあれマックィーンは、ニューマンよりも先にクレジットされるという、長年の宿願を果した形になった。 2人は出演料100万㌦に加えて、総収益の7.5%の歩合という、まったく同じ条件で本作に出演。最終的には、1,000万㌦程度を手にしたという。しかしマックィーンにとって本作は、その大金以上に価値のあるものを手にした作品と言えるかも知れない。 因みに本作には、若い消防士役でニューマンの長男である、スコット・ニューマンが出演。マックィーンとの共演シーンもある。当初マックィーンは、ライバルの息子の面倒を見ることを嫌がったが、途中からスコットのことを気に入り、彼のセリフを増やすことまでOKした。その背景にも、こんな事情があったからかも知れない。 本作『タワーリング・インフェルノ』は、『ポセイドン・アドベンチャー』以上の大ヒットとなり、アーウィン・アレンは、「パニック映画の巨匠」と呼ばれる存在となった。また監督のジョン・ギラーミンも、『キングコング』(76)や『ナイル殺人事件』(78)など、大作を任される監督として、暫し君臨する。 しかしながらこの2人のキャリアのピークは、やはり本作であったと言えるだろう。アレンはその後、自ら監督まで手掛けた『スウォーム』(78)『ポセイドン・アドベンチャー2』(79)が連続して、大コケ。それならばと製作に専念し、ポール・ニューマンやウィリアム・ホールデンを再び招いた『世界崩壊の序曲』(80)で、キャリアのトドメを刺される。ギラーミンも80年代に入ると、低予算のB級作品やTVムービーの監督へと堕していく。 そしてまた、マックィーンのキャリアも、結果的にここがピークとなってしまった。本作に続いては、ヘンリック・イプセンの戯曲を映画化した『民衆の敵』(76)の製作・主演を務めたが、アメリカ本国ではまともに公開されないという結果に終わる(日本では83年までお蔵入り)。 その後『未知との遭遇』(77)や『恐怖の報酬』(77)『地獄の黙示録』(79)等々、様々なオファーが舞い込むも、すべて拒否。彼の雄姿は、名画座やTV放送などの旧作でしか見られなくなった。 待望の新作が公開されたのは、80年。西部劇の『トム・ホーン』、そして現代の賞金稼ぎを演じた『ハンター』が、相次いで公開された。ところがこの年の11月、彼はガンのために、50歳の若さで、この世を去ってしまったのだ。 ニューマンは60を過ぎて、『ハスラー2』(86)で、待望のアカデミー賞を受賞する。マックィーンは生涯手にすることがなかったオスカー像を、遂に手にしたのだ。 そしてニューマンは、70代までは第一線で活躍。2008年に、83歳でこの世を去った。 そんなことも考え合わせながら、1974年当時は未曾有の超大作だった本作を観るのも、長年の映画ファンとして、また感慨深かったりする。■ 『タワーリング・インフェルノ』© 1974 Warner Bros. Ent. All rights reserved. © 2023 Warner Bros. Ent. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.02.07
“1969年”という時代が生んだ、“アメリカン・ニューシネマ”の傑作『イージー・ライダー』
俳優ヘンリー・フォンダの息子としてこの世に生を授かった、ピーター・フォンダ(1940~2019)。幼少期に母が自殺したことなどから、父に対して長くわだかまりがあったと言われる。しかし姉のジェーン・フォンダと共に、名優と謳われた父と同じ“演技”の道へと進んだ。 彼が人気を得たのは、“B級映画の帝王”ロジャー・コーマンが製作・監督した、『ワイルド・エンジェル』(1966)の主演による。実在するバイクの暴走グループ“ヘルズ・エンジェルス”を描いたこの作品で、若者のアイコンとなったのだ。 その翌年=67年に主演したのが、同じくコーマン作品の『白昼の幻想』。こちらは合成麻薬である、“LSD”によるトリップを描いた内容である。自身その愛好者で、「アイデンティティの危機がLSDによって救われた」と語っていたピーターは、この作品の脚本を初めて読んだ時、「こいつはアメリカでこれまでに作られたなかの最高の作品になる!」と、叫んだという。 その脚本を書いたのは、当時は「売れない」俳優だった、ジャック・二コルソン(1937~ )。いつまでも芽が出ない役者業に見切りをつけて、本格的に脚本家としての道を歩んでいくべきかと、悩んでいた頃だった。 ニコルソンが自らの豊富な“LSD”体験をベースに描いた脚本の出来に、ピーターは感激。それまでは特に親しくしていたわけではない、二コルソンの家へと車を飛ばし、感謝の気持ちを伝えたという。 しかし実際に撮影され完成した作品は、ピーターにとっても二コルソンにとっても、大きな不満が残るものとなった。いかに「安く」「早く」「儲かる」作品を作るかを優先するコーマンの製作・監督では、脚本に書かれた想像力溢れるトリップのシーンなどが、どうしてもチープな作りとなってしまう。その上配給元の「AIP」の手も入って、ピーターやニコルソンのイメージとは、まったくかけ離れたものとなってしまった。 ピーターにとって良かったのは、コーマンに頼み込んで、この作品に脇役で出演していた、親友のデニス・ホッパー(1936~2010)に、一部演出を任せられたことだ。絵画や写真にも通じていたホッパーが撮った映像は、コーマンとは明らかに異質な、美しく詩的なイメージに溢れていた。 ピーターは以前から、ホッパーと組んでの“映画作り”を目論んでおり、『白昼の幻想』が、その試金石となった。これなら彼に、“監督”を任せられる! そして67年9月。『白昼の幻想』プロモーションのために滞在した、カナダ・トロントのホテルで、運命の瞬間が訪れる。 酒を煽り、睡眠薬も飲んで、ひょっとしたらマリファナも吸っていたのかも知れない。そんな状態のピーターだったが、サインを頼まれていた、出世作『ワイルド・エンジェル』のスチール写真が目に入った。それは1台のバイクに、ピーターと共演者が跨っているものだった。 ピーターは、閃いた。1台のバイクに2人ではなく、2台のオートバイそれぞれに、1人の男が乗っていたら…。「はぐれ者ふたりが、バイクでアメリカを横断していく現代の西部劇」だ! 映画のアイディアが浮かんで、ピーターが電話を掛けた相手は、ホッパーだった。「それは凄いじゃないか!」と言ったホッパーは、続けて「それで一体どうしようっていうんだい?」と尋ねた。 ピーターは、自分がプロデューサーをやるから、ホッパーに監督をやって欲しいと伝えた。その方が、金の節約にもなる。 そこから2人は、随時集まってはとことん話し合った。そして決めたことをどんどんテープに吹き込んでいった。 アイディアを煮詰めていく最中、ピーターは1ヶ月ほど、『世にも怪奇な物語』(68)出演のため、ヨーロッパへと向かう。その間ホッパーとのやり取りは、手紙となった。 ある日ピーターの撮影現場に、脚本家のテリー・サザーン(1924~95)が、陣中見舞いに現れた。サザーンはピーターから、この企画の話を聞いて、協力を申し出た。 そしてサザーンの思い付きから、映画のタイトルが決まる。元は「売春婦とデキてて、ヒモじゃないけど女と一緒に暮らしてる奴」を意味するスラングだという。それが、『イージー・ライダー』だった。 ***** コカインの密輸で大金を得たワイアット(演:ピーター・フォンダ)とビリー(演:デニス・ホッパー)は、フル改造したハーレーダビッドソンを駆って、カリフォルニアから旅立つ。マリファナを吸いながら、向かう目的地は、“謝肉祭”の行われるルイジアナ州ニューオーリンズ…。 ***** トムとホッパーは、プロットを書いた8頁のメモしかない状態で、映画の資金を出してくれる、スポンサー探しを始める。ピーターが当初アテにした「AIP」は、これまでに撮影現場の内外で度々トラブルを起こしてきたホッパーに恐れをなして、出資を断わった。 結局スポンサーとなったのは、当時TVシリーズ「ザ・モンキーズ」(66~68)で大当たりを取っていたプロデューサーの、バート・シュナイダー。37万5,000㌦の資金を提供してくれることとなった。 そして『イージー・ライダー』は、68年2月23日にクランク・イン。この日は、ピーターの28歳の誕生日だった。 まだ脚本は完成しておらず、撮影機材も揃ってない状態だったが、まずは1週間のロケを敢行。“謝肉祭”で盛り上がるニューオーリンズの町中を、ピーターとホッパーが、娼婦2人を連れて練り歩くシーンと、その4人で墓地へと出掛けて、LSDによるバッドトリップを経験するシーンの撮影を行った。 撮影は初日から、“初監督”のプレッシャーを抱えたホッパーのドラッグ乱用によって、波乱含み。当初決まっていた撮影監督は、この1週間だけでホッパーとの仕事に嫌気が差して、現場を去った。 こうしたトラブルの一方でホッパーは、LSDトリップのシーンで、監督としての非凡な才を遺憾なく発揮。ピーター本人の内面に眠っていた、自殺した母への想いなどを、引き出してみせた。 最初の1週間を終えると、ピーターは脚本を仕上げるために、ニューヨークへ。ホッパーは、残りのシーンのロケハンへと向かった。ホッパーに言わせると、ピーターとテリー・サザーンが、結局1行たりとも脚本を書けなかったため、最終的に脚本は自分1人で仕上げたということなのだが、この辺りは証言者によって内容に食い違いがあるので、定かではない。 ***** ワイアットとビリーは、長髪に髭という風体もあって、安モーテルからも宿泊拒否され、行く先々で野宿を余儀なくされる。 旅先で心優しき人々と出会ったり、ヒッピーのコミューンで、安らぎの一時を送ることもあった。しかしちょっとしたことで、監獄にぶち込まれてしまう。 その監獄で、アル中の弁護士ジョージ・ハンセン(演:ジャック・ニコルソン)と出会う。彼の口利きで釈放された2人は、旅に同行したいというハンセンを乗せ、アメリカ南部の奥深い地域までやって来るが…。 ***** 最初の1週間で降りた撮影監督の代役には、当時B級映画の撮影を数多くこなしていた、ハンガリー出身のラズロ・コヴァックスが決まった。しかしもう1人、慌てて代役を見つけなければならない者がいた。 ジョージ・ハンセン役には、当初リップ・トーンが決まっていた。しかしギャラや脚本の手直しなどで折り合いがつかず、ホッパーと大喧嘩になって、降板。 その代役として、プロデューサーのバート・シュナイダーが推したのが、奇しくもピーター・フォンダと『白昼の幻想』で意気投合した、ジャック・ニコルソン。シュナイダーが製作総指揮を務めた、『ザ・モンキーズ 恋の合言葉HEAD!』(68)で、ニコルソンが脚本を書き、出演もしていた縁だった。『イージー・ライダー』の撮影中、ワイアットとビリーに遭遇する人々は、実際に各ロケ地で集めた人々を軸に、キャスティングされていた。その方が、おかしな出で立ちのよそ者に対する警戒心や嫌悪、敵意など、生の感情が引き出せるという、ホッパーの計算があった。 ジョージ・ハンセン役にしても、その流れなのか、ホッパーはトーンの代役には、テキサス訛りのできる田舎臭い人間を考えていたという。そのためニコルソンの起用には、猛反対。しかし渋々使ってみたところ、彼の演技はホッパーが、「最高」と認めざるを得ないものだった。 因みにワイアット、ビリー、ジョージの3人で焚き火を囲んで、マリファナを吸うシーンで、ニコルソン演じるジョージは、初体験のマリファナが、徐々にきいてくるという設定。ところが本物のマリファナを使っているこのシーンでは、何度もリテイクがあったため、ニコルソンは実際にはマリファナが相当きいていながら、しらふの状態を演じざるを得なくなったという。 ジョージは結局、3人で野営しているところを、彼らを敵視した近隣の住民に襲われて、いち早く命を落としてしまう。その直前に焚き火に当たりながら、彼がワイアットとビリーに話した内容は、本作の中で屈指の名セリフとなった。「連中はあんたが象徴する自由を怖がってるんだ」「自由について話すことと、自由であることは、まったく別のことだ。……みんなが個人の自由についてしゃべるけど、自由な個人を見ると、たちまち怖くなるのさ」 そして彼は、「怖くなった」者たちに、命を奪われてしまうわけである。残された2人も、ワイアットの「俺たちは負けたんだ」のセリフの後に、映画史に残る、衝撃的な最期を迎えることになるわけだが…。 2週間半の撮影が、終了。そして1年ほどの編集期間を経て、作品は完成に至った。 2台のバイクが疾走するシーンには、かの有名なステッペンウルフの「ワイルドでいこう!= Born to Be Wild」をはじめ、必ず既成のロック・ミュージックが掛かるが、これは当時としては斬新なスタイル。それぞれの曲の歌詞が、映画の中の主人公たちの行動と結びつけられており、またホッパーによって、音楽と画面が合うように編集されていた。 本作は69年5月、「カンヌ国際映画祭」に出品されると、「新人監督による作品賞」「国際エバンジェリ委員会映画賞」が贈られた。 そして7月14日。ニューヨークでの先行公開を皮切りに、大ヒットを記録。最終的に6,000万㌦以上の収益を上げた。これはそれまでのハリウッドの歴史上では、予算に対しての利益率が、他にないほど頭抜けた興行成績だった。 ヘンリー・フォンダはこの偉業に対して、「畏敬の念をおぼえる」と、プロデューサー兼主演を務めた、我が子を称賛。ピーター・フォンダは、長い間欲してやまなかったものを、遂に手にすることができたのだ。 デニス・ホッパーは、ハリウッド最注目の新人監督となって、本作以前に取り掛かろうとして頓挫していた、『ラストムービー』(71)の企画を本格的に動かすことに。これが彼のキャリアに長き低迷をもたらすことになるのだが、それはまた別の話。 一旦は俳優廃業も考えていたジャック・ニコルソンは、まさにこの作品を契機に、後にはアカデミー賞を3度受賞する、ハリウッド屈指の名優に育っていく。 作品自体は、いわゆる“アメリカン・ニューシネマ”の1本として、映画史にその名を刻み、1998年には、「アメリカ国立フィルム登録簿」に永久保存登録が決まった。 ピーターとホッパー、ニコルソンの3人が揃い踏みする“続編”的作品が、幾度か企画された。しかしその内2人が鬼籍に入り、1人が引退状態の今、もはやあり得ないお話である。 “リメイク”が進められているというニュースもあったが、1969年という時代にあの3人だったからこその“傑作”であった『イージー・ライダー』を、果してアップデートすることなど、可能なのだろうか?■ 『イージー・ライダー』© 1969, renewed 1997 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.02.05
1980年代をリードした才能!ジャン=ジャック・ベネックスの長編第1作『ディーバ』
1980年代のフランス映画界。ジャン=ジャック・ベネックスは、リュック・ベッソンやレオス・カラックスと共に、「Enfant Terrible=恐るべき子供たち」と呼ばれた。 他には3人の頭文字を取って、「BBC」と称される場合も。50年代末から60年代に掛けて、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーらが起こした映画運動「ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)」に引っ掛けて、「ネオ・ヌーベルヴァーグ」「ヌーベル・ヌーベルヴァーグ」などとも謳われた。 1946年生まれのベネックスは、パリっ子。スタンリー・キューブリックを敬愛する映画少年であったが、大学は医学部に進む。 しかし映画への夢が諦めきれず、「イデック=高等映画学院」を受けるも、不合格。一旦CM業界に進んだ後、映画界に辿り着いたのは、70年のことだった。 助監督として、ルネ・クレマンやクロード・ベリ、クロード・ジディといった、フランスの有名監督に付いた。他に、俳優のジャン=ルイ・トランティニヤンの監督作品や、アメリカのコメディアン、ジェリー・ルイスがフランスで撮った作品の現場にも携わったという。 助監督生活は10年に及んだが、その間の77年には、製作・脚本・監督を務めた短編作品を発表。そして81年に、長編初監督である本作『ディーバ』を、世に送り出したのである。 先に挙げた、ベネックス、ベッソン、カラックス、80年代を席捲した「BBC」3監督の作品は、それぞれに趣向を凝らした視覚スタイルを持つことから、「シネマ・デュ・ルック」と言われた。『ディーバ』は、まさにその嚆矢となった作品なのである。 ***** 18歳の郵便配達員ジュールは、黒人のオペラ歌手シンシア・ホーキンスの大ファン。その熱が昂じて、地元パリでのコンサートの際、客席でこっそり彼女の美しい歌声を録音し、更には楽屋から、ステージ用のドレスを持ち去るのだった。 彼が盗み録りしたのは、レコーディングを決して許さないシンシアの歌声を、自分のものとするため。しかし、海賊版発売を目論む海外の音楽業者がそれを知って、録音テープ奪取へと動き始める。 その一方で、闇の犯罪組織とそのリーダーの秘密を暴露しようとした元娼婦が、パリの街なかで殺害される。彼女は死の間際に、偶然居合わせたジュールのスクーターのカバンに、すべての秘密を吹き込んだカセットテープを、こっそりと忍ばせていた。 ジュールは、音楽業者と犯罪組織、そして警察という三者から追われることとなり、絶体絶命のピンチに陥る。そんな彼の味方は、レコード屋で万引きしているところを目撃したのがきっかけで親しくなった、ベトナム人の少女アルバと、彼女と暮らす謎めいた中年男ゴロディッシュの2人だけだった。 生命の危機に曝されると同時に、ドレスを盗んだことの告白から、ジュールは憧れのシンシアとの距離がぐっと近づいていく。果して彼は追っ手から逃れ、“ディーバ(歌姫)”とのロマンスを成就できるのか!? ***** ベネックスは自ら意図して、本作を長編第1作の題材に選んだわけではない。とにかくデビューを果したいと考えていたタイミングで、プロデューサーから持ち込まれた原作を映画化したのである。 あくまでも「ひとつの機会として取り組んだ」というベネックス。しかし極めて意欲的に、元はゴロディッシュとアルバの2人が、様々な事件を解決するシリーズの一編だったという原作を、自らの脚色で、かなり大胆にアレンジしている。 まず冒頭から、“ディーバ”がトスカニーニが愛したオペラ「ワリー」を歌うのは、映画オリジナル。その録音テープを巡って暗躍する音楽業者は、原作では「ニッポン・コロムビア」のミハラ氏だったのを、台湾系の海賊版レコード業者へと変更している。 ジュールを追う犯罪組織の構成員が、パンク・ファッションの殺し屋2人組なのも、ベネックスによる創造。 原作ではブロンドのフランス娘だったアルバは、後記する理由からベトナム人へと変更し、ゴロディッシュの人物背景も、映画用に大きく変えられた。 このような改変を加えながら、展開するのは、郵便配達員とディーバの“ラブストーリー”と、殺し屋が跳梁しスクーターが逃げ惑う“サスペンスアクション”のクロスオーバー。画面を彩るのは、ポップアートにパンクファッション。音楽面で見ると、オペラとシンセサイザーが共存する。 そんな本作で、主役のジュールを演じたのは、フレデリック・アンドレイ。キャスティング・イメージは、「サンタクロースの存在を信じていて、憧れのディーバと手に手をとって散歩する夢を持っている少年」ということだった。現代日本文化に精通し、後には自ら“オタク”と名乗っていたベネックスは、本作を振り返って、「いま思えばジュールこそおたくそのものだ」などと語っている。 因みにアンドレイは、俳優より監督志望。本作公開後はTV映画に次々と出演するも、やがて監督に専念。短編を数本撮った後に、84年に長編に挑むも失敗に終わり、そのまま映画界から姿を消してしまった。 ベネックスは、祖父がバリトン歌手で叔父がテノール歌手。幼少時からオペラに親しむ環境にあったという。 そんな彼が見初めて、“ディーバ”シンシア・ホーキンス役に抜擢したのは、ウィルヘルメニア・ウィギンズ・フェルナンデス。オペラ座の総支配人にもその実力を認められた本物のオペラ歌手で、本作以降もステージで活躍を続けた。 アルバ役のチュイ・アン・リーは、パリのディスコでローラースケートで踊っている姿を目撃したベネックスが、その場でスカウトした。当時14歳だったというが、ベネックスは彼女を“発見”したために、アルバの設定を、ベトナム人少女へと変更したのである。「波を止める」ことを夢見ている、ミステリアスな中年男のゴロディッシュを演じたのは、リシャール・ボーランジェ。ベネックスが助監督に付いていた作品に端役で出ていた時に、目を付けたという。 それまでは放浪生活を送っていて、自作の楽曲でジャズ歌手に転向しようと考えていたボーランジェだが、本作で売れっ子俳優の仲間入り。リュック・ベッソン監督の『サブウェイ』(85)、ピーター・グリーナウェイの『コックと泥棒、その妻と愛人』(89)等々に出演した。 後に、本作に出演した時のことを尋ねられたボーランジェは、「…さっぱり訳のわからない映画だと思った」と語っている。 本作のキャストでもう1人、スターになったと言えるのは、スキンヘッドの殺し屋を演じた、ドミニク・ピノン。『デリカテッセン』(91)『アメリ』(2001)など、ジャン=ピエール・ジュネ監督作品には、欠かせない存在となった。 さて、本作『ディーバ』がパリで公開されたのは、81年3月。諸般の事情で公開が2週早まり、宣伝が行き届かなかったことなどから、当初は客入りが悪く、そのまま消え去ってしまう作品かと思われた。しかし口コミや熱心な映画館主のプッシュなどがあって、徐々に興行に勢いが生じ、やがて熱烈に受け入れられた。 それまでのフランス映画にはなかった、鮮烈で人工的な映像設計とストーリー展開。後には“ベネックス・ブルー”とも呼ばれるようになる、青の色彩を基調とした統一された様式美は、当時目まいがするほど「新しかった」のである。 結局135週=2年半以上のロングランとなり、200万人もの動員を記録。また「フランスのアカデミー賞」こと“セザール賞”では、新人監督賞、撮影賞、音楽賞、録音賞の4部門が授与される結果となった。 そうした熱狂の一方で、本作には苛烈な批判が寄せられたのも、事実である。“ヌーヴェルヴァーグ”の流れを組む「カイエ・デュ・シネマ」の批評家を中心に、「映像に凝っただけ」「コマーシャル(広告)的な美に過ぎない」などと、酷評する声が止まなかった。 こうした批判が噴出したのは、本作が、ゴダールやトリュフォーなどの“ヌーヴェルヴァーグ”の映画作家たちの、会話やナレーションを中心に展開する映画とは、対照的だったことも大きいと思われる。ベネックス自身が、「彼らに逆らっているとは言いたくないが、彼らと違う作品を作る権利はあるでしょう…」などと、嘯いてもいる。 そんな彼に続くように、本作の2年後=83年には、ベッソンが『最後の戦い』(83)、カラックスが『ボーイ・ミーツ・ガール』で登場。フランス映画の若き世代が、「言葉よりイメージに重きを置く」「語らず見せようとする」傾向が、はっきりとしていく…。 批評という意味では、フランスの翌年=82年4月に公開されたアメリカの方が、本作を圧倒的な好意を以て迎えたと言える。 著名な映画評論家ポーリーン・ケールは本作を、「…純粋にきらめている。様式と古風なガラクタの混合。そのどのショットも観客の喜びを誘う。これは華麗な映画のオモチャだ」と評した。「ニューズウィーク」誌は、「…スピルバーグがコクトーとクロスオーバーしたようなものだ」、「ローリングストーン」誌は、「聖なる狂気の作品。コメディー、ロマンス、オペラ、さらに殺人事件まで…」と、それぞれ本作の魅力を指摘している。 そして『ディーバ』はアメリカで、フランス映画としては、異例のヒットとなった。 華々しき第1歩を踏み出した、ジャン=ジャック・ベネックス。『ディーバ』に続いては、ジャラール・ドパルデュー、ナスターシャ・キンスキーという、当時のTOPスター2人を主演に迎えて、第2作『溝の中の月』(83)を完成するも、これは手痛い失敗となった。 そこからリカバリーしたのは、第3作『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』(86)。ベアトリス・ダルとジャン=ユーグ・アングラードの主演で、激烈なまでに情熱的な男女の愛を描いたこの作品は、フランスで360万人動員したのをはじめ、世界的なヒットとなる。 しかしこれが、ベネックスのキャリアに於いては、ピークだった。2022年1月13日、75歳で逝去。結局彼が長編を手掛けたのは、81年から2001年まで。実質20年の活動で、6本という寡作に終わる、 ある時ベネックスは、『ディーバ』のオペラ歌手が、レコーディング化を拒み続けた理由について、こんな説明をしている。「非人間化と闘うひとつの方法は芸術家として闘うこと」であり、シンシアの行動は、「…我々が言いたいことを言い続け、世界を動かしている利益と妥協せず、我々自身であろうとする寓話」であると… それはハリウッドから、『薔薇の名前』『エビータ』『エイリアン3』といった大作の監督をオファーされるも、心が動かすことがなかった、ベネックスの生き様そのものだったのかも知れない。■ 『ディーバ』© 1981 STUDIOCANAL
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COLUMN/コラム2024.01.23
リアリズム西部劇などクソ喰らえ!“巨匠”ハワード・ホークス起死回生の一作!!『リオ・ブラボー』
古代エジプトを舞台に、大々的なエジプトロケを敢行した製作・監督作『ピラミッド』(1955)が失敗に終わった後、ハワード・ホークスは、ヨーロッパへと逃れた。そして映画ビジネスに対する情熱を取り戻すまで、4年近くの歳月を要した。 それまでの彼のキャリアでは最も長かったブランクを経て、帰国してハリウッドへと戻ったホークスは、「自分が最もよく知っているものをやってやろう…」と考えた。それは、既に落ち目のジャンルのように思われていた、“西部劇”。 彼は思った。以前に観て、「あまりにも不愉快」と感じた作品の裏返しをやってみようと。その作品とは、『真昼の決闘』(52)。 ゲイリー・クーパー演じる保安官が、自分が刑務所送りにした無法者の一味の報復に脅え、町の人々の協力を得ようとするも、ソッポを向かれてしまう…。“赤狩り”の時代、体制による思想弾圧を黙認するアメリカ人を、寓意的に表した作品とも言われる。いわゆる“リアリズム西部劇”として、傑作の誉れ高い作品である。 しかしホークスに掛かれば、一刀両断。「本物の保安官とは、町を走り回って人々に助けを乞う者ではない」。プロは素人に助けを求めたりしないし、素人にヘタに出しゃばられては、かえって足手まといになるというのだ。 また別に、『決断の3時10分』(57)という作品も、ホークスの癇に触っていた。この作品では、捕らえられている悪人のボスが主人公に対し、「手下たちがやって来るまで待っていろよ」と凄んで、冷や汗を掻かせる。これもホークスからしてみれば、「ナンセンスもはなはだしい」。主人公がこう言い返せば、良い。「手下どもが追いついてこないことを祈った方がいいぞ。何故なら、そうなったら死ぬのはお前さんが真っ先だからな」 ホークスが新作の主演に想定したのは、ジョン・ウェイン。“デューク(公爵)”の愛称で、長くハリウッドTOPスターの座に君臨した彼は、特に“西部劇”というジャンルで、数多の名作・ヒット作の主演を務め、絶大なる人気を誇っていた。 そしてホークス&ウェインは、かつて『赤い河』(48)で組み、赫々たる戦果を挙げたコンビである。お誂え向きに、ウェインもホークスと同様、『真昼の決闘』に嫌悪感を抱いていた。 その頃のウェインは、ちょっとしたスランプ状態。西部劇には『捜索者』(56)以来出演しておらず、近作の数本は、ウェイン主演作としては、ヒットとは言えない興行成績に終わっていた。 こうして監督ハワード・ホークス、主演ジョン・ウェイン11年振りの組合せとなる、本作『リオ・ブラボー』(59)の企画がスタートした。 ***** テキサスの街リオ・ブラボーで、保安官のジョン・T・チャンス(演:ジョン・ウェイン)は、殺人犯のジョーを逮捕した。 しかしジョーの兄で大牧場主の有力者ネイサン(演:ジョン・ラッセル)が、弟の引き渡しを求めて、街を封鎖。殺し屋を差し向ける。チャンスの仲間は、アルコール依存に苦しむデュード(演:ディーン・マーティン)と足が不自由な老人スタンピー(演:ウォルター・ブレナン)の2人だけ。 友人のパット(演:ワード・ボンド)が加勢を申し出るが、チャンスは断わる。しかしパットは、ネイサンの一味に殺害されてしまう。 ネイサンの放つ刺客に、幾度もピンチを迎えながら、パットの護衛を務めていた早撃ちの若者コロラド(演:リッキー・ネルソン)や、流れ者の美女(演:アンジー・ディキンソン)の協力も得て、切り抜けていくチャンスたち。 そんな中でデュードを人質に取ったネイサンが、牢に居るジョーとの交換を申し入れてきた。ネイサン一味が立て籠もる納屋に向かう、チャンスとコロラド、そしてスタンピー。 いよいよ、最終決戦の時がやって来た…。 ***** 脚本はホークスお気に入りの2人、ジェールズ・ファースマンとリー・ブラケットに依頼した。基本的には、ホークスとファースマンが喋ったシーンを、ブラケットが書き留めて、形を整える。必要とあらば更に整え直して、つなぎ合わせを行い、その間にブラケット自身のアイディアを少々付け足していく。このやり方で、何度も改稿。脚本が、完成に至った。 しかしながら、これで終わりというわけではない。クランクイン前から撮影中まで、細かい変更が随時行われていった。 ジョン・ウェイン以外のキャスティングで、ホークスがデュード役に、最初に考えたのは、『赤い河』に出演していた、モンゴメリー・クリフト。しかし、最初は候補のリストに入ってなかった、歌手でコメディアンのディーン・マーティンが浮上した。 マーティンはジェリー・ルイスとの「底抜けコンビ」で人気を博したが、56年にコンビを解消。フランク・シナトラ率いる、“ラットパック(シナトラ一家)”入りした頃だった。ホークスはマーティンに会ってみて、その人柄が気に入り、彼の起用を決めた。 早撃ちの拳銃使いコロラド役には、当初年輩の俳優を当てることが考えられていた。しかしホークスに、妙案が浮かんだ。 彼が白羽の矢を立てたのは、18歳のリッキー・ネルソン。子どもの頃から、父オジー、母ハリエット、兄デヴィッドとホームコメディ「陽気なネルソン」に出演していたリッキーは、16歳で歌手デビューし、アイドル歌手として、絶大な人気を誇っていた。 当時は、エルヴィス・プレスリーが絶大なる興行力を持っており、その主演映画に観客が殺到していた。ホークスはネルソンも、似たような力を持っているに違いないと考えたのである。 実際に本作の撮影中は、数百人ものファンが、リッキーが滞在するホテルへと押しかけた。リッキーは4度もホテルを変えた挙げ句、人里離れた牧場へと避難するハメとなった。 スタンピー役は、『赤い河』などにも出演し、まるで当て書きのようなウォルター・ブレナン。当時はTVシリーズ「マッコイじいさん」で、お茶の間の人気者にもなっていた。 リッキーやブレナンがそうであるように、本作には、TVの出演俳優が多々起用されている。パット役のワード・ボンド、敵の親玉ネイサン役のジョン・ラッセル、チャンスをサポートするメキシコ人のホテル経営者役のペドロ・ゴンザレス=ゴンザレス等々。TV時代が到来している折りに、観客の間口を広げる、機を見るに敏な、ホークス流キャスティングと言えるだろう。 因みに本作は、“大男”映画でもある。ウェインとラッセルが、193㌢。監督のホークスとワード・ボンドが、190㌢。ウェインと並ぶと小さく見えるが、リッキー・ネルソンが185㌢、ディーン・マーティンも183㌢あった。 ウェイン演じる保安官とのロマンスが展開する、流れ者の美女役には、新進女優だった、アンジー・ディキンソン。これまでに自作に出演した中でも、アンジーが最高にセクシーと見て取ったホークスは、彼女が身に付ける衣裳を、細部の細部まで自ら目を通した。そして、当時の女性が着ていた型通りのものにしないことを望んで、ソフトですべすべした「女っぽい衣裳」をリクエストした。 当時はスタッフでも、女性は衣裳係とヘアの係ぐらいしか居なかった。ロケ地入りしたディキンソンは、男たちから「仲間入り」の洗礼を受けた。それは、彼らに招かれた夕食の場で出された、“牛の睾丸料理”。彼女はペロリと平らげて、無事に「仲間入り」を果した。 アリゾナ州ツーソン谷でのロケ撮影は、厳しい炎暑との戦いだった。厩のまぐさが発火しないように、4時間おきに耐火液を振りかけ、撮影中以外は、馬に大きなフードを被せて、強烈な日差しから守った。砂嵐で咳き込む馬には、人間用の咳止めを飲ませたという。 夜間撮影では、イナゴの大群が照明へと押し寄せた。仕方ないので、別に強烈なライトを焚き、そちらにおびき寄せて、撮影を進めた。 クライマックスの対決シーンで、炸裂するダイナマイト。その爆発をより派手に演出するために、美術監督は色紙を大量に、爆破される納屋の中に仕込んだ。その結果、空に舞う色紙は、「まるで爆竹のでかいやつ」のようになってしまい、その場に居合わせた一同が大笑いで、NG。再撮で、納屋を丸々イチから建て直すハメになったという。 ウェインやブレナンなどから、しっくりしないからセリフを変えて欲しいというリクエストがあると、ホークスは、その願いを受け入れた。またリハーサルの時などに、俳優が偶然思いついたことも、どんどん採用していった。 アルコール依存症のデュードを演じるディーン・マーティンが紙巻タバコを作る際に、「もし俺の指のふるえがとまらないとしたら、どうやってタバコを巻いたらいいんだ?」とジョン・ウェインに尋ねた。彼は答えた。「俺が代わりに巻いてやるさ」。 これがデュードがうまくタバコを巻けないでイライラしていると、保安官が黙ってタバコを差し出すというシーンとなった。このような形で2人のキャラクター間の友情が、巧みに表現されたのである。 音楽も、うまくハマった。ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンが、『赤い河』の挿入歌だった、「ライフルと愛馬」をデュエットする。殺し屋たちの魔の手が迫っている中で、随分と悠長なシーンではあるが、「…ふたりのすばらしい歌手がいて、うたわせないという手はない」という、ホークスの考えによる。 悪党のネイサンが保安官たちを脅かすために、酒場の楽団にリクエストする「皆殺しの歌」は、1836年3月にメキシコ軍が、テキサス分離独立派が立て籠もるアラモの砦を攻撃する前に流したと言われる曲。しかし実際の曲は、「恐ろしく陳腐で使えない」と、ホークスが判断。音楽のディミトリ・ティオムキンに、新たに作曲させた。 余談になるが、ウェインはこの曲が、非常に気に入った。そして本作の翌年、アラモの戦いを、自らの製作・監督・主演で映画化した作品『アラモ』(60)に流用したのである。 本作の撮影は、ほとんどのシーンで何テイクも回さずに、1発OKも多かったという。そして58年の5月から7月に掛けての、61日間の全日程を終えた。 本国アメリカ公開は、翌59年の3月。大ヒットとなり、日本その他海外でも、膨大な興行収入を上げた。 そんな本作も公開当時の評価は、単なる無難な“職人監督”であるホークスが手掛けた、“大衆娯楽作品”扱いに止まった。しかし後年、ホークスが“巨匠”として再評価されていく中で『リオ・ブラボー』は、彼の多彩なフィルモグラフィーの中でも、重要な1本と目されるようになっていく。 後年“西部劇”に引導を渡した1本とも言われた、サム・ペキンパー監督の『ワイルド・バンチ』(69)を、「…私なら一人がスローモーションで地上にたおれる前に、四人殺し、死体公示所につれていき、葬送する」と揶揄してみせた、ホークス。そんな彼が作った「本物の“西部劇”」が、『リオ・ブラボー』なのである。■ 『リオ・ブラボー』© David Hawks
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COLUMN/コラム2024.01.18
フリードキン流ドキュメンタリーの手法が、アクチュアルなド迫力を生んだ!『フレンチ・コネクション』
昨年87歳でこの世を去った、ウィリアム・フリードキン。1935年生まれの彼が、映画監督として最高のスポットライトを浴びたのは、『フレンチ・コネクション』(71)『エクソシスト』(73)の2本をものした、30代後半の頃であったのは、間違いない。 近年には、長らく“失敗作”扱いされ、キャリアの転換点とされた、『恐怖の報酬』(77)の再評価などがあった。しかし、『フレンチ…』『エクソシスト』を連発した際の、リアルタイムでのインパクトはあまりにも凄まじく、それ故に、以降は“失墜”した印象が、強くなったとも言える。 そんなフリードキンのキャリアのスタートは、TV業界。10代後半、父親が早逝し、大学に進む気がなかった彼が、必要に駆られて職に就いたのが、生まれ育った地元シカゴのローカルテレビ局の郵便仕分け係だった。 ところがこの局では、異動の度に様々な職種を経験していくシステムになっており、やがて彼は、番組の“演出”を担当するようになる。元はディレクター志望だったわけではないが、水が合ったらしく、その後幾つか局を移りながら、20代後半までに、ヴァラエティ、クイズ、クラシック音楽、野球など2,000本以上の生番組を手掛け、10数本のドキュメンタリーを世に送り出した。 フリードキンが映画界へと進んだのは、30代を迎えた60年代後半。舞台の映画化作品である『真夜中のパーティー』(70)などが評判にはなったが、決定打が出ないまま、70年代へと突入した。 思い悩む彼がアドバイスを求めたのが、ハワード・ホークス監督。スクリュー・ボール・コメディからミュージカル、メロドラマ、ギャング映画、航空映画、西部劇等々、様々なジャンルでヒットを放ってきた巨匠ホークスがフリードキンに言ったのは、次の通り。「誰かの抱えている問題や精神的な厄介ごとについての話なんて誰も聞きたかねぇんだよ。みんなが観たいのはアクションだ。俺がその手の映画をイイ奴らと悪もんをたくさん使って作ると必ずヒットするのさ」 そしてちょうどそのタイミングで、スティーヴ・マックィーン主演の刑事アクション『ブリット』 (68)で大ヒットを飛ばした、プロデューサーのフィリップ・ダントニから、出版前のゲラ刷りが、フリードキンへと持ち込まれた。それが、ロビン・ムーアの筆によるノンフィクション「フレンチ・コネクション」だった。 ニューヨーク警察が、フランスから持ち込まれた大量のヘロインの押収に成功した、61年に実際に起こった大捕物を記したこの原作に、フリードキンは心惹かれた。更にはニューヨークに行って、この捜査の中心だった、麻薬捜査課の2人の刑事、エドワード・イーガン、サリヴァトーレ・グロッソの実物と会ってからは、本当に夢中になって映画化に取り組んだ。 そこから納得のいく脚本づくりに時間を掛けて、本作『フレンチ・コネクション』がクランクインしたのは、1970年の11月30日。翌71年の3月に入るまで、65日間の撮影では、セットは一切使わなかった。ニューヨーク、それも実際の事件の舞台となった場所を使用した、オールロケーションを敢行したのである。 ***** ニューヨーク・ブルックリンで、麻薬の摘発に勤しむ2人の刑事、ジミー・ドイルとバディー・ルソー。“ポパイ”と呼ばれるドイルの強引なやり口を、ルソーがフォローする形で捜査を含める、名コンビだった。 ある時2人で出掛けたナイトクラブで、豪遊する男サル・ボカを見て、ドイルの“猟犬”の勘が働く。妻と共に軽食堂を営むサルを張り込み、店の盗聴を行った結果、彼の仲介で、フランス・マルセイユから届くヘロインの大きな取引が行われることがわかった。 取引の中心に居るのは、フランス人実業家のシャルニエ。殺し屋の二コリを従えて、ニューヨークのホテルに滞在していた。 財務省麻薬取締部の捜査官も交えて、シャルニエらの尾行が始まる。ある日ドイルの尾行に気付いたシャルニエは、地下鉄を利用。狡猾なやり口で、まんまとドイルを撒いた。 証拠不十分でドイルが捜査から外されたタイミングで、二コリがライフルでドイルを狙撃する。弾を逃れたドイルは、高架を走る地下鉄へと逃げ込んだ二コリを追うため、通りがかりの車を徴発。高架下を猛スピードでぶっ飛ばす。 地下鉄をジャックして、ノンストップで走らせたニコリだが、終着駅で停車していた車両に衝突。何とか逃げおおせようと、地下鉄を脱出するものの、追いついたドイルによって、射殺される。 ドイルは捜査へと復帰。いよいよシャルニエたちの麻薬取引が迫る中、繰り広げられる虚々実々の闘いは、終着点へと向かう…。 ***** 主役のドイル刑事に選ばれたのは、ジーン・ハックマン。40歳になったばかりの「ハックマンは、それまでに『俺たちに明日はない』(67)などで、2度アカデミー賞助演男優賞にノミネートされるなど、知名度はそこそこにあったが、本格的な主演作は初めて。 無名俳優を使いたかったフリードキンと、スターを主演にしたかった製作会社。その妥協によって、中間的な位置にいたハックマンが起用されたという。 ハックマンは、相棒のルソー刑事に選ばれたロイ・シャイダーと共に、自分たちの役のモデルとなった、イーガン、グロッソ両刑事の捜査などに、2週間密着。麻薬常習者の溜まり場に踏み込んだり、その連行を手伝ったりまでして、役作りを行った。 刑事たちが追うシャルニエ役に、フェルナンド・レイが選ばれたのは、実は手違いからだった。フリードキンは当初、ルイス・ブニュエル監督、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『昼顔』(67)に出演していた、フランシスコ・ラバルをキャスティングしようと考えていたのである。 ところがキャスティング・ディレクターが、勘違い。同じブニュエル監督のドヌーヴ主演作、『哀しみのトリスターナ』(70)の共演者だったレイが、ニューヨークの撮影へと招かれた。フリードキンはその時会って初めて、自分が考えていた俳優とは、別人だと気付いたという。 実はこれが、瓢箪から駒となった。役のモデルとなった犯罪者は、粗野なコルシカ人だったが、フェルナンド・レイは、見るからに洗練された紳士。粗野なドイル刑事とのコントラストが、効果的に映えた。因みに当初想定されていたラバルは、英語がまったく話せなかったので、そうした意味でも、大成功のキャスティングとなった。
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COLUMN/コラム2023.12.11
ロン・ハワードとトム・ハンクスのコンビ第1作は、それぞれの記念碑的作品『スプラッシュ』
本作『スプラッシュ』(1984)の発端は、ロサンゼルスに住むプロデューサー、ブライアン・グレイザーが、自らの不幸な恋愛経験を反芻しながら、車を走らせている時のインスピレーションだったという。恋をする相手として、美しい容姿と心を兼ね揃えた女性が、“人間”ではなく、“人魚”だったら…。 これは良いコメディになる!そう考えたグレイザーは原案を書き、小説家でシナリオライターのブルース・ジェイ・フリードマンに、脚本を発注。出来上がると、ロン・ハワードに渡し、「興味があれば監督してみないか?」と誘った。ハワードはちょうどその時、グレイザーと組んだ初の作品にして、自らの監督第2作にあたるコメディ映画、『ラブ IN ニューヨーク』(82)を完成させたばかりだった。 1954年生まれ、両親とも俳優という芸能一家育ちのハワードは、60年代から子役として有名だった。70年代に入ると、映画『アメリカン・グラフィティ』(73)、TVシリーズ「ハッピーデイズ」(74~84/ハワードは80年までレギュラー)などに主演。青春スターとして活躍した。 しかし、演じる以上に、作ることに興味があったため、南カリフォルニア大学の映画学科へと進学。俳優としての人気絶頂期だった23歳の時には、初監督作『バニシングIN TURBO』(77)を公開している。 この作品のプロデューサーは、“B級映画の帝王”として名高い、ロジャー・コーマン。“スター”であるハワードが主演も兼ねることを条件に、製作費の60万㌦を提供した。 ハワードがコーマンから学んだのは、映画作りの実際。製作費を予算内に収めるためには、準備をしっかりしなければいけないということを叩き込まれた。 その後ハワードは、「ハッピーデイズ」への出演を続けながら、3本のTVムービーを監督。80年代を迎えると、俳優活動には区切りをつけ、本格的に映画監督の道を歩み始める。『バニシングIN TURBO』に続く第2作『ラブ IN ニューヨーク』は、「ハッピーデイズ」の共演者で、プライベートでも親友だった、ヘンリー・ウィンクラーを主演に迎えた作品。死体置場に勤める気弱な青年と売春婦の恋を描くコメディである。 先に記した通り、ハワードに『スプラッシュ』の脚本が持ち込まれたのは、『ラブ IN ニューヨーク』が完成したばかりで、まだ公開前。ハワードは、2作続けてコメディを手掛けることに、躊躇した。また、最初の脚本は水中シーンが多かったため、それだけで“赤字”が出そうなことも、コーマンの薫陶を受けた彼をためらわせた。 しかし考えを切り替え、「この作品をロマンチックなものにできないか」模索を始める。そして、会話やジョークが水中の王国で展開する流れを改めて、観客が登場人物に感情移入できるようにリライトして欲しいと、『ラブ IN ニューヨーク』の脚本家コンビ、ローウェル・ガンツとバーバルー・マンデルに依頼した。 その一方、当初はこの作品の製作を請け負っていた「ユナイテッド・アーティスツ」との契約が、キャンセルとなる。ちょうど同じ時期に他社で、ウォーレン・ベイティとジェシカ・ラング共演の『Mermaid』という“人魚映画”の準備が進められていたからである。そちらは当時としては破格の製作費3,000万㌦が注ぎ込まれる予定で、「ユナイト」は、競合を避けたのである。『スプラッシュ』の救いの神となったのは、「ディズニー」。しかし子役出身のロン・ハワードは、それに懸念を抱いた。「ロンが大人になって、ディズニー作品を作るようになった」などと揶揄されるのではないかと。「ディズニー」が、大人向けの映画を専門とする「タッチストーン・ピクチャーズ」を新設し、そこの看板作品として『スプラッシュ』を考えていることを知って、ハワードの危惧は解消する(余談となるが、“人魚”の裸体がチラチラ見え隠れする『スプラッシュ』は、「ディズニー」史上初のR指定作品となる)。 そうこうしている内に、強大な“敵”となる筈だった『Mermaid』は、俳優組合のストライキを受けて、あっけなく製作中止に。一方製作費900万㌦の『スプラッシュ』は、ストの影響を避けるように、急ピッチで製作が進められた。 ***** 幼少期に観覧船から落ちたアレン少年は、海中で美しい少女に出会い、助けられる…。 それから20年。アレン(演:トム・ハンクス)は、兄フレディ(演:ジョン・キャンディ)と共に、ニューヨークで青果物市場を経営。遊び人の兄に対してアレンは恋愛ベタで、同棲相手から一方的に別れを告げられる。 酔いに任せ、遠く離れた岬へタクシーで向かうアレン。この岬は20年前に溺れかかったところで、彼はそれ以来カナヅチとなった。それなのになぜか、心安まる場所であった。 チャーターしたボートから、またも海に落ちてしまうアレン。気を失った彼が目を覚ますと、砂浜の上。目の前には、美しいブロンドで全裸の美女がいた。 アレンは一目惚れするも、彼女は名前も告げずに海中へと消える。実は彼女は“人魚”。20年前アレンを救ったのも、彼女だった。 アレンが海中に落とした財布から住所を知った“人魚”は、ニューヨークに現れる。全裸の彼女を保護した警察から、アレンに連絡が入り、2人は再会する。 人間の言葉と生活を、TVを見ながら学ぶ彼女のことを、アレンは外国人と思い込み、“マディソン”と名付ける。2人は愛し合うようになるが、彼女は“人魚”の掟から、あと6日間しか地上に居られない。 しかしアレンにプロポーズされたことで、マディソンはもう海には戻らず、“人間”として生きていくことを決意。ところが、長年“人魚”の存在を追い続けてきた海洋学者(演:ユージン・レヴィ)によって、公衆の面前でその正体を暴かれてしまう。 海洋博物館の研究室に隔離されてしまったマディソンと、彼女の正体にショックを受けたアレン。2人の恋の行方は!? ***** アレン役をオファーされて断わったのは、ジョン・トラボルタ、マイケル・キートン、ビル・マーレー、チェビー・チェイス、ダドリー・ムーアといった、当時の売れ線俳優たち。アレン役を得たトム・ハンクスが後に、「…役をもらえた唯一の理由は、他に誰も引き受けなかったから…」と発言しているのは、ただのジョークとは言い切れない。 監督のロン・ハワードと、ハンクスの接点は、「ハッピー・デイズ」。ハワードは、まだ駆け出しの頃のハンクスがゲスト出演した際の演技が、「…めちゃくちゃ面白くて、ずっと忘れなかった…」という。 その後主演したTVのコメディシリーズで人気が出たハンクスに、ハワードもプロデューサーのグレイザーも、当初は遊び人の兄の方を、演じてもらおうと考えていた。しかしハワードは、幅広い感情表現を必要とするアレン役でも、ハンクスならやれるだろうと気付く。まあ先に記した通り、多くのスターに断わられた後の、窮余の策だったのは否めないが。 TV育ちのハワードは、ハンクスの抜擢に見られる通り、TVでの人気者を積極的に起用した。兄役のジョン・キャンディも、海洋学者役のユージン・レヴィも、人気コント番組「セカンドシティTV」の出身である。 さてハンクスの出演が決まったが、より難題だったのが、“人魚”のマディソン役。イノセント且つチャーミングなこの役を、説得力を持って演じるのは、並大抵のことではない。またこの役は、巨大な尾びれを身に着けて、水中で長い時間を過ごす必要があった。 ハワードは、オーディションに現れたダリル・ハンナを見た瞬間、「見つけた」と直感したという。とりあえず水に飛び込んで泳いでもらったところ、その姿が「夢のように」美しく、決定打となった。 実はハンナの少女時代の夢は、“人魚”になることだった。それが転じて、いつかアンデルセンの「人魚姫」を映画化したいという願望を持っていた。そのため、それが実現する前に“人魚”役を演じることには、ためらいがあったという。 ハンナは当初、『スプラッシュ』の脚本を読むことさえ拒もうとした。しかしエージェントの強い説得によって、脚本を読むと、すぐに“マディソン”役に恋してしまった。そしてオーディションに、臨むことにしたのである。 リハーサルが始まらない内から、ハワードはハンクスに、強い口調でこんな指示を行った。「これは、君の映画じゃない。ダリルの映画なんだ。君の役目は、映画で起こることすべての“触媒”になることだ。君が本当に彼女をぞっこん惚れていると観客が信じない限り……この作品の意味がなくなるんだよ」 相手役を愛する演技をする時には、本当に愛さなければならない。ハワードの指示から、ハンクスはそう学んだという。そして、どこにでも居そうな普通の青年が、理想の女性とハッピーエンドを迎えるという、この後にハンクスが得意とする役柄が、ここで決まったのである。 撮影は、メインの舞台となるニューヨークで、まず17日間。続いてロスでの撮影を 29日間行った後、16日間の海中撮影へと進んだ。 ロケ地は、バハマ沖。その海面にボートを浮かべ、水深12㍍の地点で撮影が行われた。 ダリル・ハンナは、毎日3時間掛けて14㌔近くあるヒレを装着。そのまま水中マスクも付けずに、海中に居なければならなかった。 トイレにも行けないため食事は抜き、陸に上がる際には、クレーンで引き上げた。その日の撮影が終わると、今度は1時間半掛けてヒレを取り外した。 この撮影でハンナは1日平均9時間、45分のダイビングを4~5回行った計算になる。時には40㍍近く、息を止めたまま泳いでみせた。 また“人魚”が海面に飛び上がるシーンは、水面下に大砲を設置して、その爆発の水圧によって、ハンナの身体を打ち上げるという、危険な方法で撮影。彼女は海面から、見事に3㍍もジャンプしてみせた。 因みに「大人向け」とはいえ、そこはさすがに「ディズニー」作品。水中シーンでは、ハンナの裸体の露出を、最小限に止める必要があった。デジタル処理でどうとでもなる、今の時代とは違う。この時は頭髪用のテープで、ハンナの髪の毛を胸に貼り付けるという、アナログな方法が採られた。またハンナの乳首には、バンドエイドを貼ったという。 『スプラッシュ』は84年3月に公開されると、大ヒットを記録。監督のロン・ハワードが“子役”出身のイメージを払拭すると同時に、トム・ハンクスが“映画スター”として、初めて認められる作品となった。 その後の2人の活躍は、説明するまでもないだろう。ハワードとハンクスはお互いにキャリアを積み重ねる中で、『アポロ13』(95)や、『ダ・ヴィンチ・コード』(2006)に始まる“ロバート・ラングトンシリーズ”で、随時組み続けている。 ダリル・ハンナはその後、俳優として大成したとは言い難い。しかし最も美しい時の姿を、結果的には念願の“人魚”役でフィルムに焼き付けた。それを今でも多くの人々に観続けられるのは、幸せなことではないだろうか?『スプラッシュ』の彼女は、本当に輝いている。そしてその輝きを最大限に引き出す役目を果たしたからこそ、トム・ハンクスの“映画スター”としての歩みも始まったのだ。『スプラッシュ』は現在、「ディズニー」と、ロン・ハワードとブライアン・グレーザーが設立した「イマジン・エンターテインメント」の共同製作で、リメイクが進められている。果して本作のように、“スター誕生”の場となるのであろうか?■ 『スプラッシュ』© 1984 Buena Vista Distribution Co., Inc. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2023.12.07
デヴィッド・フィンチャーが再生!大都市の鬱屈から生まれた“サイコスリラー”『セブン』
本作『セブン』(1995)のはじまりは、地方出身で、ニューヨーク在住の男が抱いた、鬱屈した思いだった。「地下鉄に乗ると、不快な強盗やホームレスの実態が日常茶飯事のように目に飛び込んでくる。街を歩けば罪悪なんてものはどこでも目にできる…」「ありとあらゆる不快なものがすべて集中している」 そんなニューヨークでの暮らしは、「毎日毎日、惨めでしかたがなかった」という、その男の名は、アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー。安物の映画専門の製作会社に勤め、ホラー作品の脚本を何本か手掛けた。 そんな彼が、1991年に半年以上掛けて、1本のオリジナル脚本を書き上げた。しかし、それを映画化しようという映画会社はなかなか現れず、結果的に4年もの間、たらい回しにされてしまう。 事が動き出したのは、脚本が、プロデューサーのアーノルド・コベルソンの手に渡ってから。ブルックリン育ちのコベルソンは、「これだけのものを書ける脚本家は何人もいない」と、感銘を受けたという。 映画化に手を挙げる製作会社も、ようやく現れる。ホラーシリーズ『エルム街の悪夢』(84~)を大ヒットさせたことから、「フレディが建てた家」と呼ばれた、「ニュー・ライン・シネマ」である。流行を見るに敏な「ニュー・ライン」は、『羊たちの沈黙』(91)の成功をきっかけに起こった、“サイコホラー”人気に乗ろうと、ウォーカーの脚本に、3,000万㌦を投じることを決めた。 そしてコベルソンが監督にと、白羽の矢を立てたのが、デヴィッド・フィンチャーだった。フィンチャーは20代にして、マドンナやローリング・ストーンズなどのMVや数多くのCMを手掛けた後、『エイリアン3』(92)で、劇場用映画の監督としてデビュー。 リドリー・スコットやジェームズ・キャメロンの後を受けての、人気シリーズ第3作だったが、製作中から数多のトラブルに見舞われた上、批評的にも興行的にも失敗。そのため当時のフィンチャーは、「新たに映画を撮るぐらいなら、大腸がんで死んだ方がマシだ」と、映画界とは距離を置いていたのである。 フィンチャーはウォーカーの脚本の、「凡庸な警察映画」の側面には、退屈を感じた。しかし、「とても残酷な作品」であることを至極気に入り、どんどんハマっていったという。 その一方で、疑問を感じた。こんな救いようがない“ラスト”が訪れる脚本を、そのまま映画化なんてできるのだろうか? 結局は「ニュー・ライン」の責任者に直談判。そのままの脚本でGOサインの言質を取り、劇場用映画復帰を決めたのである。 ***** 常に雨の降りしきる大都市で、刑事を続けることに疲れ果てた、サマセット(演:モーガン・フリーマン)。定年まであと1週間、赴任したての若手刑事ミルズ(演:ブラッド・ピット)とコンビで、想像を絶する“連続殺人”の捜査を担当することになった。 はじまりは、極度に肥満した男が、絶命するまで無理矢理食物を食べさせられたという事件。現場には「大食」と書かれた紙が、残されていた。 その翌日には、金次第で犯罪者の無罪を勝ち取ってきた大物弁護士が殺される。自ら腹の肉を抉ることを強要された遺体のそばには、血で書かれた「強欲」という文字が。 博学のサマセットはこれらの文字から、キリスト教に於ける、「七つの大罪」をモチーフにした“連続殺人”と看破。「大食」「強欲」に続いて、「怠惰」「肉欲」「高慢」「嫉妬」「憤怒」に則った、“猟奇殺人”が企てられることを予想する。 そんなサマセットを、ミルズの妻トレーシー(演:グウィネス・パルトロー)が、ディナーに招く。サマセットは改めて、定年までの数日間、ミルズと共に事件の解明に挑むことを決意する。 そんな彼にトレーシーは、悩みを打ち明ける。この街が嫌いなこと、そして、妊娠したのを夫のミルズにまだ告げられないこと…。 懸命の捜査にも拘わらず、犯人は“連続殺人”を着実に遂行していく。やがて残された「大罪」が、「嫉妬」と「憤怒」の2つになった時、事件は思いがけない展開となり、2人の刑事は、真の地獄を見ることとなる…。 ***** モーガン・フリーマンの起用は比較的簡単に決まったが、ミルズ役にはこれという候補がいなかった。演者としての実力を持ち合わせた上で、決して大作とは言えない総予算から出演料を捻出する必要があったからだ。 そうした理由から、フィンチャーの第一候補は、ブラピことブラッド・ピットではなかった。しかし彼が本作の脚本に関心を抱いていることを知らされると、フィンチャーは喜び勇んで、紹介してもらうことにしたという。 ロバート・レッドフォード監督の『リバー・ランズ・スルー・イット』(92)で注目の若手俳優となったブラピは、『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』(94)『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(94)の2本で大ヒットを飛ばして、まさに絶好調。1995年1月には、「ピープル」誌で「最高にセクシーな男性」に選ばれ、スターとしての価値が、ぐんぐんと高まっている最中だった。 そんなブラピが、『アポロ13』(95)でのトム・ハンクスとの共演を蹴って、正式にミルズ刑事を演じることが決まると、次に待っていたのは、その妻トレーシーのキャスティング。フィンチャーは『フレッシュ・アンド・ボーン 〜渇いた愛のゆくえ〜』(93/日本では劇場未公開)で見たグウィネス・パルトローを考えた。 ブラピも数ヶ月前に偶然知り合ったパルトローを推しており、わざわざ彼女に電話を掛けて、プロデューサーのコベルソンに会いに来るように誘った。コベルソンも一目でパルトローを気に入ったため、起用はすんなり決まったという(撮影中、ブラピとパルトローは当然のように恋に落ち、結果的には映画の良い宣伝となった)。 こうしてコマが揃い、いよいよ撮影開始。本作は青空の広がる西海岸のイメージが強い、ロサンゼルスでロケしているのに、人工降雨機まで使って、ほとんどのシーンで雨が降っている。 これは売れっ子のブラピのスケジュールにも関連してのこと。次回作にテリー・ギリアム監督の『12モンキーズ』(95)が待っていた彼が、撮影に参加できるのは55日間と決まっていた。当時のロスの天気は雨が多かったため、常に雨降りの設定にしたのである。 またこれにより、ロサンゼルスで撮影しながらも、それとは別の、特定できない都市のように見えるという効果もあった。 こんなことをはじめ、撮影や編集などで、デジタル技術なども交えて、技巧を凝らすのが、フィンチャー作品。本作でも様々なテクニックが用いられている。 今回特徴的な例として挙げられるのが、“銀残し”というフィルム現像の際の特殊技法。画面に深みのある黒さと、より明るい白さを創り出して、明暗のコントラストを高めているのだが、撮影監督のダリウス・コンディ曰く、「まるで白黒映画を撮影しているよう」だったという。 よくヴィジュアル派の代表のように言われるフィンチャーだが、実際は、あくまでもストーリーを盛り立てるために、テクニックを使っているという。本人曰く、「…映画の本質と遊離した、ただただヴィジュアル命のものには絶対にしていない」とまで言い切っている。 さて本作はいわゆる「衝撃のラスト」が訪れる作品なのだが、それについても、触れなければなるまい。 ***** 「嫉妬」と「憤怒」を残して、“連続殺人”の犯人ジョン・ドゥー(演:ケヴィン・スペイシー)が、突然警察に自首。残る2つの遺体の隠し場所を、ミルズとサマセットだけに明かすという。 厳重な警備態勢の中、ジョンに導かれて、ある荒野へと車で向かった2人の刑事。その場に降り立つと、猛スピードで宅配便の車が訪れる。 運転手はジョンに託されていた小さな荷物を、指定の時間と場所に届けただけだった。中身を確認して、サマセットは唸る。 それはミルズの妻、トレイシーの生首だった。幸せな家庭を築く夫婦に対して、「嫉妬」の気持ちを以て殺害に及んだというジョン。 それに対して、「憤怒」の感情を引き出されたミルズは…。 ***** 先にも記したがフィンチャーは、この「救いようがない“ラスト”」をそのままやることを条件に、本作の監督を引き受けた。実はそれが決まった「ニュー・ライン」への直談判の前に、もうワンクッションがあった。 フィンチャーはまずは自分のエージェントに、「会社は本当にこの映画を作るつもりなのか?つまり、君はこれを読んだのか?」と問うた。ところがこの時点で、エージェントの読んだ脚本は、フィンチャーが読んだものを改稿したものだと判明。 それには、“生首”が届く描写などなかった。最後の場面は、トレーシーがシャワーを浴びていると、窓に連続殺人犯が忍び寄るという展開になっていたという。 これは自分の作りたい映画ではない!そう考えたフィンチャーが、直談判に及んで、元の脚本で映画化することが決まったわけだが、実はその後も、もっと穏当なヴァージョンを模索する動きは、止まなかった。 実際に製作に入ったところで用意されたのは、3つのパターン。“生首”が到着するところまでは同じだが、その後が違う。 映画はご覧の通り、ミルズが「憤怒」のままにジョンの頭を撃ち、最後はパトカーで連行されるのを、サマセットが見送るところで終わる。 これと別バージョンで用意されたのが、サマセットがジョンを撃ち殺すパターンと、ミルズがジョンを撃ち殺したところで、そのままジ・エンドとなるパターン。 前者は、犯人がミルズの「憤怒」を引き出して目的を果すことに失敗するという、後味の悪さを少しでも緩和するために用意されたものである。しかしフィンチャーもブラピも、当然同意しなかった。 後者の、より衝撃的なパターンは、フィンチャーの望んだ形。しかし覆面試写の結果、こちらだと、観客が混乱したまま映画が終わってしまうということが明らかになり、却下となった。 筆者は個人的には、フィンチャー案で最高級の「後味の悪さ」を体感したかった気もするが、それだとさすがに、観客の間で口コミなどが広がらなかった可能性もある。本作『セブン』は、現行のバージョンだからこそ、1995年9月22日、全米2,500館で公開と同時に大きな話題となり、4週連続興収TOPを記録する大ヒットとなったのかも知れない。 かくして本作で『エイリアン3』の後遺症から抜け出したデヴィッド・フィンチャーは、その後30年近く、アメリカ映画の第一線級監督として、活躍を続けている。ブラピとのコンビ作も、『ファイトクラブ』(99)『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(2008)と続き、いずれも高評価を得ている。 フィンチャーはブラピについて、『ファイトクラブ』時のインタビューで、「…自分が変わることを恐れない人間との仕事は、いつだって刺激になるよ」と語っている。■ 『セブン』© New Line Productions, Inc.