ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2024.07.18
巨匠リドリー・スコットが描く、よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な物語『ハウス・オブ・グッチ』
知らぬ者は居ないであろう、イタリア発のファッションブランド、「グッチ」。 1921年にグッチオ・グッチが、フィレンツェに開いた靴屋が、その始まり。世界進出はその息子の代で、三男のアルド・グッチが父親の反対を押し切って成功させたもの。「グッチ」の有名なアイコンデザイン「GG柄」も、商才溢れるアルドが考案した。 アルドの後も、「グッチ」のTOPは、グッチ家の者が務め、その王国は引き継がれていく筈だった。しかし21世紀の今、「グッチ」の経営陣には、グッチ家の者はいない…。 2000年に出版されたサラ・ゲイ・フォーデンの著書「ハウス・オブ・グッチ」は、原題のサブタイトルが、「A Sensational Story of Murder, Madness, Glamour, and Greed(殺人、狂気、魅力、そして強欲のセンセーショナルな物語)」。この書籍でグッチ家の30年間を描いた彼女は、「グッチの話はいろいろな意味で、私のつくり話よりもずっととんでもない話だと思った」としている。 その「とんでもない話」に魅了され、ほぼ20年間、映画化を模索し続けたのが、プロデューサーのジャンニーナ・スコット。監督や出演者の候補には、様々な名前が浮かんでは消えた。結局メガフォンを握ることになったのは、ジャンニーナの夫で現代の巨匠、リドリー・スコットだった。 リドリーは、グッチ家はまるで「ファッション界のイタリア王室」のようで、その興亡には、「ボルジア家やメディチ家」を想起させられたという。即ちこの題材は、「面白くならないわけがない!」と。 2019年11月、リドリーの監督就任と時を同じくして、主演も決まった。”歌姫”にして、『アリー/スター誕生』(2018)で演技者としても一流なことを証明したばかりの、レディー・ガガである。 翌夏=2021年8月、アカデミー賞受賞者やノミネート経験者がズラリと並ぶ、豪華キャストが発表された。そして本作『ハウス・オブ・グッチ』は、2021年2月から5月まで主にイタリアで撮影を敢行。その年の11月に、公開に至った。 ***** 1970年、父がオーナーの運送会社で働くパトリツィア(演:レディ・ガガ)は、弁護士を目指すマウリツィオ(演:アダム・ドライバー)と知り合い、交際を始める。彼は有名ブランド「グッチ」の、創業者一族だった。 マウリツィオは父ロドルフォ(演:ジェレミー・アイアンズ)から結婚を認められず、パトリツィアの実家へと転がり込む。2人はゴールインし、やがて娘が生まれる。 ロドルフォがこの世を去ると、彼の兄で「グッチ」の屋台骨を支えるアルド(演:アル・パチーノ)は、甥のマウリツィオを「グッチ」へと呼び寄せる。 アルドは、息子パオロ(演:ジャレッド・レト)の無能さに、悩んでいた。その一方で、高齢にも拘わらず、TOPを後進に譲る素振りを見せない。パトリツィアは夫が軽視されていることや、自分を「グッチ」の一員と認めないことに、不満を溜めていく。 パトリツィアは一計を案じ、パオロを味方とし、アルドの脱税を告発させる。アルドは獄中の人となり、またパオロも追放して、マウリツィオは、「グッチ」のTOPとなる。 しかし妻の振舞いに、徐々に嫌気がさしてきたマウリツィオは、家を出て、別の女性と暮らすようになる。パトリツィアは、もはや夫の愛情を取り戻すことはできなかった。 怪しげな女占い師のピーナ(演:サルマ・ハエック)に傾倒したパトリツィアは、彼女の力を借りて、夫を殺害する計画を立てる。一方で経営の才覚がなかったマウリツィオは、親の代からの腹心の部下の裏切りに遭って、社長の座を追われる。 1995年、マウリツィオは自宅の前で銃撃されて、命を落とす。悲劇の未亡人を装うパトリツィアだったが…。 ***** 脚本家の1人に起用されたのは、イタリア育ちのロベルト・ベンティヴェーニャ。母がデザイナーだったこともあって、彼には馴染みのある世界だったという。 リドリー・スコットはベンティヴェーニャとの打ち合わせに際し、登場人物たちをシェイクスピアのキャラクターに例えた。マウリツィオは、悩める王子ハムレット。パトリツィアは、奸計を巡らすマクベス夫人。そしてパオロは、道化だと。 実際に起こった事件をベースにした本作だが、『プロメテウス』(2012)以降、リドリー・スコット作品のカメラを任されている撮影監督のダリウス・ウォルスキーは、この作品はドキュメントドラマというよりも、「よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な惨事」だと語っている。 こうした世界観の中で、俳優陣は躍った。“カメレオン俳優”の名を恣にするアダム・ドライバーは、世間知らずの青年マウリツィオが、パトリツィアとの庶民的な生活に喜びを見出しながらも、名門ブランドTOPの地位を得て、己を見失っていく姿を的確に演じた。 ジャレッド・レトは、「グッチ」TOPのアルドの頭痛の種である、ボンクラ息子パオロ・グッチを演じるに当たって、自らのアイディアで、白髪交じりのハゲ頭で小太り体型に、特殊メイクで変身。毎日6時間のメイク時間は、集中してキャラクターについて瞑想するには、「最高の時間」だったという。 アル・パチーノ、ジェレミー・アイアンズの両ベテランも、それぞれの持ち味を生かしながら、見事に実在の人物を演じてみせた。 しかし本作で特筆すべきは、何とも言ってもパトリツィアを演じた、レディー・ガガであろう。 役作りのために、イタリア語なまりの英語を半年もの間訓練。パトリツィアについての文献を読み漁り、映像を見まくったというが、その際には、パトリツィアが実在の人物で、インタビューではよく嘘をつくことがあったため、ジャーナリストのような視点が必要だったという。ガガは正体を隠して、イタリアの街頭に立って、彼女のイメージの聞き込みまで行った。 役作りに於いては、3種類の動物をイメージした。30年近くに及ぶ物語の中で、20代前半の若き日々は、飼い猫。中盤は、遊び心を持って狩りをするキツネ。そして終盤は、獲物を引きつけてから飛び掛かる、ヒョウを観察して、パトリツィア像を作り上げた。 因みに稀代の悪女のイメージが強いパトリツィアだが、ガガはそうした既成のイメージからも距離を置いた。曰く「彼女がマウリツィオ・グッチと結婚したとき、彼は自分の一族全員に見放されたので、お金のために結婚したわけではなかった」。そして彼を殺害した時には、二人はすでに離婚しており、「金銭的なことが懸かっていたわけでは全くなかった」。即ち凶行に至ったのは、「彼女の心が傷ついたから、そして愛のために違いない」という解釈で、パトリツィアを演じているのである。 本作でパトリツィアは、「グッチ」の経営に参画したいと考え、自分にはその能力があると思っていたのに、“部外者”扱いされ、男性社会の中で疎外され続けた女性として描かれる。この辺りは、『エイリアン』(1979)のリプリーにはじまり、『テルマ&ルイーズ』(91)や近作『ゲティ家の身代金』(2017)『最後の決闘裁判』(21)等々、“男性優位社会”の現実に抗する女性像を描き続けてきた、リドリー・スコットの面目躍如でもある。 撮影に際し、ガガのためには、ウィッグが15種類用意された。それはパトリツィアの各時代の実際の髪のレプリカで、髪を染める化学薬品も、それぞれの時代のものを使用したという。 ファッション業界の物語の中で、ガガはシーン毎に衣装を変えた。劇中で披露したその数は、全部で54ルック。衣裳担当のジェンティ・イエーツによると、シーン毎に4~5着の候補を持ち寄ると、ガガからその組合せの提案が返され、コーディネートを「完璧に」仕上げていった。 こうして内面及び外見で、パトリツィアになり切ったレディー・ガガ。劇中に登場する「Father, Son, and House Of Gucci (父と子とグッチ家の御名において)」というセリフは、脚本にはなく、ガガが現場で放ったアドリブだったという。 2021年11月、本作が公開されると、アルド・グッチの子孫らは、本作では、グッチ家の人々が、「悪党で無知で無神経な者たち」として描かれ、事実が捻じ曲げられていると、異議を唱えた。パトリツィアが、「男性的でマッチョな企業文化」を乗り越えようとした「被害者」として描かれていることが「不愉快だ」とも、述べている。 それに対してリドリー・スコットは、「グッチ家の一人が殺され、もう一人が脱税で刑務所に入ったことを忘れてはならない」と、こうした異議を一蹴している。 因みにパトリツィアは、本作についてどんなリアクションを示しているのか?彼女は1998年、裁判で有罪判決を受け、29年の懲役を宣告されたが、2016年には出所。現在はミラノに住み、ペットのオウムを肩に乗せて街を歩いている姿が、よく目撃されているという。 70代となった彼女は、レディー・ガガが自分の役を演じることに対して、「…腹立たしいと思っている」と不快感を示している。ガガが自分に会いにも来なかったことが、いたく不愉快だったようだ。ついでにパトリツィアは、自分をモデルにした映画からは、1銭たりとも収益がもたらされないことも、明らかにした。 これに対してガガは、パトリツィアに会わなかったのは、「この女性はこの殺人を美化されたがっていて、犯罪者として記憶されたがっているとすぐに分かったから」だと語っている。演じるに当たって、そうした危険を察知。敢えて本人との面会を避けたわけである。「よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な惨事」を描いた『ハウス・オブ・グッチ』。スキャンダラスなヒロインのモデルと、演じた“歌姫”を巡る、インサイド・ストーリーである。■ 『ハウス・オブ・グッチ』© 2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.07.03
サム・ライミの『死霊のはらわた』シリーズ第3弾!なぜか邦題は、『キャプテン・スーパーマーケット』
“アクション”“SF”“恋愛”“コメディ”“ホラー”…云々。映画のジャンルを大別すると、例えばこのような区分けが為されるのが、一般的だ。 一方で、そんな真っ当なジャンル分けを、無効化してしまうようなジャンルもある。“ジョーズもの”“マッドマックスもの”“エイリアンもの”“ランボーもの”“ターミネーターもの”“ジュラシック・パークもの”…。メガヒット作など大きな話題になった映画の後を追って作られた、バッタもん、パチもん度が強い作品群だ。 “ホラー映画”に於いては、例えば“エクソシストもの”や“悪魔のいけにえもの”等々が存在する。今や真っ当な映画ジャンルに育ってしまった“ゾンビもの”は、元々はジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)や『ゾンビ』(78)のパチもの群がスタートだったのは、誰も否定できまい。 サム・ライミ監督の記念すべき長編デビュー作『死霊のはらわた』(81)は、ロメロの影響を受けた“ゾンビもの”の一端を担いながらも、新たに“死霊のはらわたもの”というジャンルを生んだ、記念すべきオリジンと言える。この作品以降、森の奥深い山小屋を舞台に、そこを訪れた者たちが死霊に憑依され、スプラッタ描写満載の惨劇が繰り広げられるホラーが、どれほどの数この世に送り出されたことか。 元々は「ホラーは苦手」だったというサム・ライミ。大学時代からの映画仲間ロバート・タパートに、「世に出るなら、低予算のホラーだ」と説き伏せられたことから、様々なホラー作品に触れて研究を重ね、『死霊のはらわた』を生み出すこととなった。 製作費は35万㌦という超低予算のこの作品は、国内外で話題となり、多くのシンパが誕生した。「ホラーの帝王」スティーヴン・キングは応援団長となって、大物プロデューサーであるディノ・デ・ラウレンティスを、ライミたちに紹介。その結果生まれたのが、前作の10倍=350万㌦の製作費を掛けた続編、『死霊のはらわたⅡ』(87)だった。「僕は8ミリ映画時代から、観客にウケさえすれば続編を作って来たからね」というライミだが、同じことをやるのは嫌だった。そこで『Ⅱ』では、ライミの高校時代からの親友であるブルース・キャンベルが前作で演じたアッシュというキャラが、中世ヨーロッパにタイムスリップし、そこで死霊憑きの軍団と戦うという内容を考えた。 しかし、この構想に乗る者はなかった。ラウレンティスからは、「前作と同じテイスト」をと、事実上の「リメイク」を求められ、「中世編」のアイディアは、お蔵入りとなった。 結果的に生まれた『死霊のはらわたⅡ』は、第1作の粗筋をなぞりつつ、ライミがこよなく愛するスラップスティック・コメディ「三ばか大将」風のギャグが満載された内容となった。観客層を広げるために、残酷描写は前作より抑えたが、その分レイ・ハリーハウゼン風のモデルアニメーションを導入したり、片腕を失ったアッシュが、“チェンソー”を装着して死霊と戦うなど、サービス精神も旺盛な、エンタメ作品に仕上がっている。『Ⅱ』のラストでは、アッシュが中世へとタイムスリップ。その時代の民に、“死霊ハンター”の英雄として迎えられる。このように、棚上げされた「中世編」のネタまで盛り込んだのは、映画作家としてのライミの意地と言うべきか? この『死霊のはらわたⅡ』が興行的な成功を収めたことによって、更にその続編に、ラウレンティスが製作資金を提供することになった。今度は好きな内容をやっても良いということだったので、ライミは『Ⅱ』のエンディングの続き、1度は棚上げになった、「中世編」のプロットを本格的に復活させることにした。 そして製作されたのが本作、『死霊のはらわた』シリーズ第3作となる、『キャプテン・スーパーマーケット』(93)である。 ***** スーパーの店員だったアッシュは、死霊との戦いの末に、中世イングランドへとタイムスリップ。その地を治めるアーサー王に、敵のヘンリー王一味と間違われて、死霊の巣喰う穴へと放り込まれる。 あわやの瞬間に彼を救ったのは、“片腕チェンソー”とライフル銃。民衆は掌を返したように、アッシュを“英雄”として迎える。 街の娘シーラと恋に落ちたアッシュ。民衆を死霊たちから守り、自らは元の時代に戻るためには、「死者の書」が必要なことを知る。「死者の書」を求めて、死霊の巣食う墓地へ向けて旅立つアッシュ。死霊に襲われ、逃げ込んだ風車小屋の中で、自分にそっくりの姿をした小人の悪霊の一団と戦うが、その1人に体内へと入り込まれた挙げ句、分身として“悪霊のアッシュ”が誕生してしまう。 アッシュはその分身を、ライフルで倒しチェンソーでバラバラにして埋葬する。そして遂に、「死者の書」の元へと辿り着く。 しかしアッシュは、「死者の書」を手に取る際に必要な呪文を忘れてしまっており、適当に誤魔化しながら持ち出したため、死霊軍団が復活。そのリーダーの座には、一旦は葬った筈の分身、“悪霊のアッシュ”が就く。 死霊軍団がアーサー王の城へと迫るも、アッシュは、自らが元の時代に戻ることしか頭にない。しかしシーラが死霊にさらわれると、一転。戦いの先頭に立つ決意をするが…。 ***** 開巻間もなく、前作の内容をダイジェスト風に紹介。その際に死霊に身体を乗っ取られる、アッシュの恋人リンダを、当時若手俳優として人気が高かった、ブリジット・フォンダが演じている。 実はブリジットは、『死霊のはらわたⅡ』の大ファン。僅かな出番ではあるが、シリーズを通じて最もネームバリューの高いスターの出演は、本人が熱望して決まったものだったという。 本作の原題は、「Army of Darkness」。『死霊のはらわた』の原題である、「Evil of Dead」が入っていない。これは、配給を担当したユニヴァーサルが公開タイトルを、「Evil of Dead Ⅲ」とすることに反対したためである。ライミは「Evil of Dead 中世編」とすることも考えたようだが、結局はユニヴァーサルの意向によって、シリーズの第3弾だとは、まったくわからないようなタイトルになってしまった。 因みに日本での公開タイトルが、アッシュがスーパーの店員という設定ぐらいしか由来がない、『キャプテン・スーパーマーケット』になってしまったのも、極めて不可解。実際に当時多くの映画ファンが、『死霊のはらわた』シリーズだとは気付かないままに、公開されている。 因みに後にサム・ライミのプロデュースで、ハリウッド映画を撮った清水崇監督によると、ライミにもこの邦題が伝わっていたという。その上で、「日本人はクレイジーだ」と面白がっていたそうな。 それにしても「Evil of Dead=死霊のはらわた」を外したタイトルになったのは、本作が前2作と違って、“ホラー”要素が極めて薄かったからなのか? 実際に本作では、「臆病で自惚れ屋でほら吹き」というアッシュのキャラの方向性が定まり、前作以上に、「三ばか大将」に影響を受けた笑いの要素が強くなっている。アッシュは1人でバカ騒ぎをして、酷い目に遭うギャグが繰り返される。 演じるブルース・キャンベルは、先にも記した通り、サム・ライミの高校時代からの親友。8㎜フィルムでインディーズ映画を撮ってきた仲間である。 演技を学ぶために大学に進学するも、『死霊のはらわた』を作るために退学し、アッシュを演じることとなった。そして彼は、最後まで生き残るファイナルガールならぬ“ファイナルボーイ”として、シリーズ全般で主役を演じることとなった。 『死霊のはらわた』第1作の後には、ライミが「エンバシー・ピクチャーズ」という、名の通った映画会社と初めて組んだ作品『XYZマーダーズ』(85)で主演する筈だった。しかし、無名の俳優は主役には据えられないという、「エンバシー」からの“口出し”によって、脇役に回る憂き目に遭う。『死霊のはらわたⅡ』の後には、ライミ初のハリウッドメジャー作品『ダークマン』(90)の蹉跌が待ち受けていた。こちらも主演にキャンベルを当てる構想が、ユニヴァーサルの意向によって、リーアム・ニーソンへと差し替えられたのだ。この作品のラストでは、ニーソンが変装したキャラの顔がキャンベルその人で、そのままストップしてエンドロールが流れる。これはライミとキャンベルによる、ユニヴァーサルへの意趣返しとしては、痛快ではあったが…。 インディーズ出身の監督が、出世していくプロセスで、その頃からの主演俳優をそのまま使っていくのが、いかに難しいことであるか。そうした意味で本作『キャプテン・スーパーマーケット』は、それまでに散々踏みにじられてきたライミとキャンベルの親友コンビにとって、メジャー作品でありながらその組合せが守られた、待望の作品だったわけである しかし本作でも、『ダークマン』に続いて、アメリカ国内配給を担当したユニヴァーサルによる、ポスト・プロダクションでの介入が行われた。ユニヴァーサルの意見は、「長すぎるし、最後が暗い」。そこで本作は15分カットされた上、アッシュが元の時代に戻る、事の顛末が大きく改変された。 ユニヴァーサルの命によって追加撮影されたヴァージョンでは、アッシュはスーパーの店員として平凡な日常に戻るも、その際にまたも呪文を唱え間違えたせいか、その場に死霊が出現。対決したアッシュは、見事に勝利を収め、拍手喝采を浴びる。 ご丁寧にもこの追加撮影分には、ブリジット・フォンダが再び出演しているが、今回放送されるヴァージョンは、ライミによるディレクターズ・カット版。ユニヴァーサルに「暗い」と断じられたラストが、どのようなものかは、その目で確かめて欲しい。 ラウレンティスとユニヴァーサル間のトラブルもあって、公開時期が遅くもなった本作。そうしたドタバタが続いたものの、「目指すのはエンターテイメント」「皆が笑ったりビックリするような映画を撮りたい」という、ライミの本領が見られる作品となっている。 因みに『死霊のはらわた』シリーズ以降のブルース・キャンベルは、ライミ作品に関しては、本編のどこかにちょこっと特別出演するような形が多い。例えば『スパイダーマン』3部作(2002~07)などは、全作違う役で出演している。 そしてドラマシリーズとしてライミがプロデュース、第1話を監督した、「死霊のはらわた リターンズ」(2015~18)には、30年後のアッシュ役で主演。再び、「臆病で自惚れ屋でほら吹き」ぶりを、たっぷりと見せてくれたのである。■ 『キャプテン・スーパーマーケット』© 1993 Orion Pictures Corporation. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.06.12
デ・パルマ“ギャング映画3部作”の最終便!円熟の業が光る『カリートの道』
『キャリー』(1976)『殺しのドレス』(80)など、ホラーやサスペンス作品のヒットを放ち、70年代後半からそうしたジャンルの旗手のように謳われた、ブライアン・デ・パルマ監督。 “スプリット・スクリーン”“360度パン”“スローモーション”…。華麗な技巧を駆使する彼を指して、「映像の魔術師」などと称賛する、熱烈なファンが生まれた。それと同時に、「ヒッチコックのエピゴーネン(亜流/模倣)」とディスる向きも、決して少なくはなかった。 80年代以降、そんなデ・パルマの新たなキャリアを切り開いたと言えるのが、“ギャング映画3部作”である。 その第1弾は、『スカーフェイス』(83)。キューバ移民の青年トニー・モンタナが、コカインの密売でのし上がるも、やがて自滅していくまでの物語。アル・パチーノを主演に迎え、ヒット作となるも、批評家の評価は高くなかった。しかしやがてカルト作として、熱狂的に支持されるようになる。 第2弾は、『アンタッチャブル』(87)。禁酒法時代のシカゴを舞台に、暗黒街の帝王アル・カポネを摘発しようとする、エリオット・ネスら捜査官たちの戦いの日々を描いた。 デ・パルマは、『ボディ・ダブル』(84)『Wise Guys』(86/日本では劇場未公開)といった作品が不振だったため、キャリアのピンチを迎えていたが、『アンタッチャブル』が大ヒットとなり、“信用”を取り戻す。 しかしその“信用”も、続く『カジュアリティーズ』(89)『虚栄のかがり火』(90)両作の大コケで、雲散霧消。その後、ある意味先祖返りのようなサイコ・サスペンス『レイジング・ケイン』(92)で、まあまあの興行成績と評価を得たが…、というタイミングで手掛けたのが、本作『カリートの道』(93)。デ・パルマの“ギャング映画”第3弾だった。 ***** 時は1970年代中盤。かつては、プエルトリコ系ギャングの出世頭だった、カリート・ブリガンテ。麻薬の密売で30年の刑期を喰らったが、親友の弁護士クラインフェルドの尽力によって、僅か5年で釈放され、生まれ育ったニューヨークのスパニッシュ・ハーレムへと帰還する。 カリートはすぐ、麻薬取引に絡むいざこざに巻き込まれ、手を血で染めてしまう。しかし足を洗うという覚悟は、揺るがなかった。 カリートは、ディスコの経営に勤しみながら、やがてバハマのパラダイス・アイランドに渡って、レンタカー屋を営むことを夢見る。そんな時、5年前に別れた恋人ゲイルと再会。ブロードウェイのダンサーを目指していた彼女は、ストリッパーに身を落としていたが、2人は再び愛し合うようになる。 夢の実現に邁進するカリートの行く手に、暗雲が差し込む。かつての仲間が、検事の手先となってカリートをハメようとしたり、のし上がってきたチンピラが、彼に挑発的な態度を取ったり…。 そんな時、クラインフェルドがカリートに救いを求めてきた。マフィアのボスの脱獄を手伝ってくれというのだ。 躊躇するも、自分を獄から放ってくれた親友の頼みを、断れない。カリートは、ゲイルの制止も振り切って、クラインフェルドの手助けをすることを決めたのだが…。 ***** 本作の原作者は、エドウィン・トレス。ニューヨークはスパニッシュ・ハーレムで生まれ育った、プエルトリコ系アメリカ人だが、法曹界に進み、地方検事補、弁護士を経て、ニューヨーク州最高裁判事にまでなった。 トレスは、厳しい判決を下す裁判官として名を馳せながら、小説家としてもデビュー。自らの出身地を主な舞台に、実際に会った人物や自らの目で見たものを書いたのが、「カリートの道」「After Hours」という、本作の原作となった2作である。 若き主人公カリート・ブリガンテが、麻薬ビジネスに足を踏み込んでから、伝説の麻薬王になり逮捕されるまでを描いたのが、「カリートの道」。投獄後、不当裁判で無罪を勝ち取ったカリートが、出所してから最期を迎えるまでのストーリーが、「After Hours」である。 カリートのキャラで、その生い立ちに関しては、トレス自身が投影されている部分もある。しかしカリートは、犯罪者。主要な要素は、トレスが友人たちからいただいたもので、名前を明かせない3人のモデルがいるという。 これらの小説には、発表後に直ぐ映画化の話が持ち上がる。プロデューサーのマーティン・ブレグマンの元に、脚本化されたものを持ち込んだのは、アル・パチーノだった。 ブレグマンは元々は、パチーノのエージェント。そうした関係性もあって、『セルピコ』(73)『狼たちの午後』(75)そして『スカーフェイス』(83)等、パチーノ主演作の製作を行ってきた。 今となっては誰が書いたかも知れない、この時点での脚本は、2つの小説「カリートの道」「After Hours」 を折衷したような、酷い仕上がりだったという。それを読んだブレグマンは、全くやる気が湧かなかったが、パチーノが主人公のカリートに惚れ込んでいた。やむなく原作に触れてみると、そこに描かれた、ストリートの生々しい雰囲気に、惹かれたという。 ブレグマンは、『ジュラシック・パーク』(93)の脚色が評判になっていたデヴィッド・コープに、仕事を依頼。原作に対するコープの第一印象は、「映画化するには分量が多すぎる」というものだった。 コープは、自分が70年代のスパニッシュ・ハーレムについて何も知らないのも気掛かりだった。この点は原作者のトレスの助力を得てリサーチし、クリアーしたという。 分量的な問題は、当時50代前半だったパチーノの年齢を考慮し、20代後半から30代前半のカリートが活躍する「カリートの道」ではなく、それ以降の物語である「After Hours」を軸に脚色することで、解決した。それなのにタイトルが『カリートの道』になったのは、マーティン・スコセッシ監督の『アフター・アワーズ』(85)があったからである。 ブレグマンは、かつて『スカーフェイス』で組み、成果を出したブライアン・デ・パルマに監督をオファー。しかしデ・パルマの当初のリアクションは、芳しいものではなかった。「ラテン系ギャングの話」は、もうやりたくなかったのだ。 彼が考えを変えたのは、コープの脚本を読んでから。パチーノと再び仕事ができるのも、決め手になったという。かくて『スカーフェイス』から10年振りに、ブライアン・デ・パルマとアル・パチーノが組んだ、“ギャング映画”が誕生することとなった。 デ・パルマは原作者のトレスに、スパニッシュ・ハーレムを案内してもらった。ここで誰が撃たれ誰が刺された等々、事件の現場を巡りながら、スペイン系ギャングの生態をウォッチング。デ・パルマはそこで、彼らが持つ家族愛や宗教心、更には独自のラテン音楽などを見出した。 そしてクランク・イン。ロケは、原作者の生まれた場所にごく近い地域などで行われた。『スカーフェイス』でお互いのやり方を心得ていた、デ・パルマとパチーノのコミュニュケーションは、スムースだった。パチーノは、彼の動作の美しさを捉え、その演技を際立たせるようなデ・パルマ演出を、至極気に入っていたという。 本作は冒頭、駅で撃たれたカリートが搬送されていくさなかに、彼のモノローグによって回想が始まり、ここに至るまでの日々が描かれていく。これは“フィルム・ノワール”、代表的な例としては、プールに浮かぶ死体の回想から始まる、『サンセット大通り』(50)などで用いられた手法の、援用と言える。 そのような形で語られる物語には、数々の個性的な人物が登場する。中でも強烈な印象を残すのが、カリートの親友で、コカイン中毒の弁護士クラインフェルド。原作者がこれまでに会ってきた、ろくでもない弁護士たちの集合体で、悪の世界にどっぷりと浸かっているキャラクターである。 演じるショーン・ペンは、初監督作品『インディアン・ランナー』(91)が絶賛され、監督業に専念することを真剣に検討していたのを翻しての、本作への出演。それだけ、この役に入れ込んでいたのだろう。薄毛のカーリーヘアという、あまりにもインパクトの強い外見は、ペン本人のアイディア。この見た目を作るのに、自毛をかなり抜いたのだという。 後にアカデミー賞主演男優賞を2度受賞する、メソッド俳優の面目躍如であるが、ペンの執拗なリテイク要求が、デ・パルマをげんなりさせる局面もあったという。とはいえ両者の関係は、概ね良好に運んだ。 カリートが愛するゲイルには、ペネロープ・アン・ミラーがキャスティングされた。『レナードの朝』(90)『キンダガートン・コップ』(90)『チャーリー』(92)など、話題作・ヒット作への出演が続き、彼女への注目が高まっていた頃だった。 カリートが共に“楽園”に行こうとする、天使のように理想化された存在でありつつ、バストトップを曝しての、70年代っぽいストリップのシーンなども印象的である。 パチーノが作品の肝としてこだわったのは、クラインフェルドの裏切りが露見し、カリートとの関係が、決定的に断絶に至るシーンだった。そのシーンには、25ものパターンを用意。更には、脚本家のコープが撮影に立ち会ったのは、パチーノのリクエストだった。 最終的には、コープが撮影直前に書き直した脚本で、決まりとなった。カリートは負傷したクラインフェルドが入院する病室を訪ね、彼なりのやり方で落とし前をつける。因みにパチーノが訪れる病院の外観は、彼が出世作『ゴッドファーザー』(72)で、マーロン・ブランドを見舞ったのと同じ場所が使われた。 本作は、クライマックスの地下鉄を使っての逃走劇や、それに続くグランド・セントラル・ステーションのエスカレーターでの銃撃戦など、さすが「映像の魔術師」デ・パルマと思わせるシーンも、随所にある。しかし全般的には、これ見よがしな技巧に走り過ぎたりは、決してしていない。日本の任侠物などにも通じる“仁義の世界“の住人故に、足を洗い切れなかった男の悲劇が、鮮烈且つ抑制的に描かれている。 公開当時、大きな成果を上げることはなかった。またパチーノ×ブレグマン×デ・パルマの前作、『スカーフェイス』のようなカルト人気を得ることも叶わなかった。しかし、当時53歳。デ・パルマのフィルモグラフィーの中でも、彼の円熟したスキルが、最も楽しめる1本に仕上がっている。 そしてデ・パルマは、次作『ミッション:インポッシブル』(96)で再びデヴィッド・コープの脚本を得て(ロバート・タウンと共同)、彼のキャリアの中で最大のヒットをものする。■ 『カリートの道』© 1993 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.05.31
「いまつくらねば!」2017年のスピルバーグが『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』を撮った重み。
1971年6月。「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」、後に“ペンタゴン・ペーパーズ”と呼ばれることになる、アメリカ政府の機密文書の存在を、「ニューヨーク・タイムズ」が、スクープした。 それはトルーマンからアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソンといった、歴代の大統領とその政権が、泥沼化するベトナム戦争に関して、アメリカ国民に嘘をつき続けていたことを明らかにする内容だった。正義も勝算もない戦争に、多くの若者たちを兵士として送り、多大な犠牲を出してきたのである。「ワシントン・ポスト」編集主幹のベン・ブラッドリーは、「タイムズ」と同じ文書を手に入れ、この報道に参戦しようと、躍起になる。 しかし時のニクソン政権は、「タイムズ」を機密保護法違反で訴え、その続報は差し止められてしまう。ブラッドリーたちもスクープの後追いをすると、政府を敵に回し、「ポスト」も同じ憂き目に遭う可能性が高い。 折しも「ポスト」は株式公開に向けて、社主のキャサリン・グラハムはその準備に、余念がなかった。ブラッドリーたちの企ては、「ポスト」の経営を揺るがしかねないと、社の上層部や法律顧問から、猛反対を受ける。 報じるか否か、すべては社主のキャサリンに委ねられた。果して、彼女の決断は!? ***** 「いますぐこの映画をつくらなければいけない…」 実話に基づき実在の人物達を主人公にした、本作『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(2017)の脚本を読んでそう考えたのは、巨匠スティーヴン・スピルバーグ。彼の動きは、果断だった。 製作中だったSF映画『レディ・プレイヤー1』(18)の撮影を、イタリアで終えると、アメリカに帰国。可能な限りスピーディに、本作を完成・公開するプロジェクトに取り組んだ。 彼をそうさせたのは、2017年1月の、トランプ政権の誕生。都合の悪い報道は、「フェイクニュース」と口汚く罵り、圧力を掛けることを辞さない新大統領と、メディアの関係は、極端に悪化していた。 スピルバーグはこうした状況に、強い危機感を覚えていた。その時に、「報道の自由」を高らかに謳い上げる、本作の脚本に出会ったのである。 元々この脚本はリズ・ハンナという、その時点ではまだ映画化作品がない、女性脚本家が執筆。「ブラックリスト」に登録したものだった。 この「ブラックリスト」とは、優れた脚本やその書き手を発掘するために、2005年にスタートしたシステム。登録された脚本は、限られた映画関係者だけがアクセスできるウェブサイトで公開される。 2016年に登録されたこの脚本を読んで、その年の10月に映画化権を獲得したのは、プロデューサーのエイミー・パスカル。そしてパスカルはこの脚本を、スピルバーグへと委ねたのだ。 元の脚本は、執筆したリズ・ハンナ曰く、「ソウルメイトたちのラブストーリー」。“ペンタゴン・ペーパーズ”の報道を巡って、「ワシントン・ポスト」の社主であるキャサリン・グラハムと編集主幹のベン・ブラッドリーの関係が培われ、育っていく。それが2人の、そして「ポスト」の強みになっていく様を描いている。 スピルバーグが「すぐに撮りたい」と思ったほどの脚本だったが、十全を期してブラッシュアップを図った。筆を加えたのは、やはり実話ベースで2015年度のアカデミー賞作品賞と脚本賞を受賞した、『スポットライト 世紀のスクープ』のジョシュ・シンガー。 彼の役割は、キャサリンが決断を下すまでの数日間を描く中で、観客が、舞台となった“1971年”に没入し、その時代に身を置けるようにすること。そこで、「歴史的な要素と時代背景」を書き加えるために、当時を知る多くの者に、リサーチを行った。 本作は、2017年5月30日にニューヨークでクランク・イン。メインの撮影は50日間で終了し、11月6日には作品が完成していた。 1993年には、革新的なVFX技術を用いたエンタメ超大作『ジュラシック・パーク』と、ナチスによるユダヤ人虐殺を描いた社会派作品『シンドラーのリスト』という、映画史に残る2本をほぼ並行して製作・監督するなど、「早撮り」で知られるスピルバーグであるが、本作は、彼が脚本を読んでから僅か9カ月での完成。その偉大なフィルモグラフィーの中でも、最も短期間で仕上げた作品となった。 そして『ペンタゴン・ペーパーズ』は、先行して製作していた『レディ・プレイヤー1』より3か月も早く、その年=2017年12月には、公開となったのである。 このハリウッド大作としては極めて短期間のプロジェクトに、主演として請われたのは、メリル・ストリープとトム・ハンクス。ハンクスがスピルバーグとタッグを組むのは、5度目だったが、メリルとスピルバーグ監督作の縁は、過去に『A.I.』(01)で声優を務めたことのみ。実質的には、スピルバーグ組への初参加と言えた。またメリルとハンクスの共演も、初めてのことだった。 メリルが演じたキャサリン・グラハム(1917~2001)は、期せずして「ワシントン・ポスト」の社主となった女性である。「ポスト」は元々、彼女の父が1933年に買収。46年にその娘婿、つまりキャサリンの夫であるフィル・グラハムが後を継いで、成長させた新聞社だった。 しかしフィルが、現在で言うところの双極性障害を悪化させて、63年に自殺。それまで4人の子どもを育てる“専業主婦”だったキャサリンは、46歳にして父と夫の会社を守るため、周囲の反対を押し切って、経営者の座に就いたのである。 アメリカの主要紙では初の女性TOP、しかもその手腕は未知数ということもあって、軽んじられることも少なくなかったというキャサリン。本作はそんな彼女が大きな決断を下し、成長していく物語と言える。 メリルは、キャサリン・グラハム自身が朗読した、自伝の録音を聴くなどして、撮影前の準備を行った。その際にキャサリンの、「エネルギー、知性、思いやり、ユーモア、そして謙虚さ」に、すっかり魅了されてしまったという。 ハンクスが演じたベン・ブラッドリー(1921~2014)は、キャサリンが「ニューズウィーク」誌から引き抜いて、「ポスト」の編集主幹に据えた人物。有能で仕事熱心なジャーナリストであったが、その強引さから“海賊”と異名を取ってもいた。 スピルバーグは生前のブラッドリーと近所付き合いがあり、何度も話した経験があった。またハンクスもブラッドリーとは、90年代に何度か夕食会で会った間柄だった。 メリルとハンクスの役作りは、例によって完璧だった。キャサリンやブラッドリーを知る識者たちが撮影現場を訪れた際、「ミセス・グラハムそのまま」「彼そのもの」と折り紙を付けるほど、精緻を極めていたという。 そんな2人の名優を擁した現場でのスピルバーグ演出は、初顔合わせだったメリル曰く、「即興的な撮り方」で、リハーサルもなかったため、彼女をとても吃驚させた。スピルバーグから、“次は違うふうに”などと、色々な撮り方を試されたメリルは、それにアドリブを交えながら応えた。 そんな彼女の即応力に、スピルバーグ組ベテランのハンクスも、「メリルは共演者を決められた演技に誘導するのではなく、最高の演技を一緒に引き出そうとする」と感服。彼女との共演を、「素晴らしい経験だった」と、称賛を惜しまなかった。 メリルが初体験だった、この「とても自由な感じ」の撮影は、「すぐに始まり、すぐに終わった」印象だったという。 本作のキャストで、いわゆる“大スター”はメリルとトムだけだったが、脇を固める俳優陣も、こうしたスピルバーグ演出の下、素晴らしい演技を見せている。 さて細かいことは観てのお楽しみとするが、本作はメインのストーリー展開が終わって1年後の1972年6月、当時野党だった民主党本部に5人の男が不法侵入し逮捕された事件を映し出して、幕となる。世に言う、“ウォーターゲート事件”である。 後にこの犯罪行為に、ニクソン大統領の「再選委員会」が関わっていることが判明。結果的にニクソンは、辞任へと追い込まれる。 この件をスクープしたのが、本作ではハンクスが演じたベン・ブラッドリーの部下で、「ワシントン・ポスト」の若き記者、ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタイン。そしてその顛末を映画化したのが、アラン・J・パクラが監督し、ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンが共演した『大統領の陰謀』(1976)である。 つまり本作のエンディングは、41年前の名作『大統領の陰謀』のプロローグになっているという仕掛けだ。この特ダネの報道に挑むブラッドリーのチームを全面的にバックアップしたのも、キャサリン・グラハムだったが、残念ながら今から半世紀近く前に映画化された『大統領の陰謀』は、ほぼ完全に“男社会”の作品。彼女の名前は、触れられる程度に終わっている。 1976年の『大統領…』と2017年の『ペンタゴン・ペーパーズ』。製作年度の、彼我の差という他はない。 さてトランプ大統領の誕生が、スピルバーグに本作の製作を決意させた旨は、冒頭で記した通りである。それから7年経った現在、「もしトラ」~1度は野に下り、数々の犯罪行為で訴追されているトランプが、大統領に復帰する可能性が、喧伝される事態となっている。トランプ復帰が現実のものとなった場合、再びメディアとの対決姿勢を打ち出すのは、疑いあるまい。 一方で我が国の現状を鑑みると、「世界報道自由度ランキング」の2024年版では、前年の68位から順位を下げ、70位。G7では、最下位という体たらくである。長期政権とメディアの癒着や緊張関係のなさが、危機的状況を招いている。 本作『ペンタゴン・ペーパーズ』では、「報道の自由」を保証する、「アメリカ合衆国憲法修正第1条」が再三言及される。それに基づき、本作のクライマックスで連邦最高裁が下す判決の中にある一文が、これほどまでに重く響く時代になるとは…。「報道機関は国民に仕えるものであり、政権や政治家に仕えるものではない」■ 『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』© 2017 Storyteller Distribution Co., LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.05.15
リドリー・スコット失地回復の1作『ブラック・レイン』でその“生き様”を輝かせた男
マイケル・ダグラスは、ノリに乗っていた。 元は『カッコーの巣の上で』(1975)などで、プロデューサーとしてその名を轟かせたが、80年代中盤以降は、俳優としても成功。1987年には、『危険な情事』が大ヒットとなり、続く『ウォール街』では、大スターの父カーク・ダグラスが生涯手にすることがなかった、アカデミー賞主演男優賞の獲得に至る。 そんな絶好調の彼に、1冊の脚本が届けられた。それは元々、エディ・マーフィ主演の『ビバリーヒルズ・コップ2』(87)のために書かれたものだったが、諸般の事情で没に。 その後その脚本は、『ビバリーヒルズ…』とは別企画の刑事アクションとして、映画化が模索された。ダグラスの元に辿り着くまでに、主演候補として、メル・ギブソンやカート・ラッセル、スタローンやシュワちゃん、ブルース・ウィリスやハリソン・フォード、ルトガー・ハウアーなどの名が挙がったという。 この脚本が気に入ったダグラスは、『危険な情事』のプロデューサーだった、スタンリー・R・ジャッフェとシェリー・ランシングの元に持っていく。かくて本作『ブラック・レイン』(89)は、製作費3,000万㌦=約59億円の、当時としてはビッグバジェットで、映画化されることとなった。 監督には、『ロボコップ』(87)でヒットを飛ばしたポール・ヴァーホーヴェンが、一旦決まる。しかし彼は『トータル・リコール』(90)のプロジェクトへと鞍替えし、降板。そこでジャッフェ&ランシングがオファーしたのが、リドリー・スコットだった。今日では“巨匠”として揺るぎない地位を築いているスコットだが、当時の立ち位置は、極めて微妙なものだった。 長編監督第2作にして、ハリウッド進出作だった『エイリアン』(79)で大成功を収めるも、後には伝説的な作品として語り継がれることになる『ブレードランナー』(82)は、初公開時は大コケ。続く『レジェンド/光と闇の伝説』(85)『誰かに見られてる』(87)も不発に終わっていた。『ブレードランナー』以降スコットは、プロデューサー的な役割も兼ねて作品作りを行ってきた。しかしそんな状態だったため、『ブラック・レイン』へは、純然たる“雇われ監督”として参加が決まる。 ■『ブラック・レイン』撮影中のマイケル・ダグラス(左)とリドリー・スコット監督 製作準備期間中スコットは、『ブラック・レイン』メインの舞台となる日本を、何度も訪問。ロケハンを行うと、もっと独特のものがあると思っていた日本の都市が、「近代的で合理的」であることに気付かされた。 そんなこともあって、東京をメインの舞台にするという、当初のプランは取りやめ。成田空港や銀座、新宿歌舞伎町などでロケを行うには、撮影許可を得るのが至極困難であるというのも、ロケ地変更へと繋がった。 日本を離れて香港で撮影するアイディアも検討されたが、最終的には大阪で大々的にロケーションが行われることとなった。東京よりは「融通が利く」という見込みからの決定だったが、これが大間違いで、後に撮影チームは、地獄を見ることとなる…。 ***** ニューヨーク市警の刑事ニック(演:マイケル・ダグラス)。内務調査班から汚職の疑いを掛けられ、なじみの店で相棒チャーリー(演:アンディ・ガルシア)に、愚痴をこぼす。 その時その店で、マフィアと日本のヤクザが商談を行っているのが、目に入る。そこに手下を引き連れ、横入りするように現れたのが、新興ヤクザの佐藤(演:松田優作)だった。 その荒っぽい振舞いを、年配のヤクザが揶揄すると、佐藤は鋭利な刃物で喉元を引き裂いて殺害。ニックとチャーリーは、逃亡を図る佐藤を追跡し、死闘の末に取り押さえる。 2人は逮捕した佐藤を、日本へと護送。空港到着と同時に、現れた警官隊に佐藤を引き渡し、任務完了の筈だったが、それは佐藤の配下が扮した、ニセ警官だった。 大阪府警からお目付け役に、閑職の警部補・松本(演:高倉健)を付けられ、厄介者扱いされる2人のアメリカ人刑事。しかしニックは一連の事態が、佐藤とその元親分の菅井(演:若山富三郎)との間の、偽ドル紙幣の原板を巡る抗争であることを突き止める。ニックは菅井が経営するクラブミヤコの外国人ホステス(演:ケイト・キャプショー)の協力を得て、佐藤の逮捕に執念を燃やす。 そんな時チャーリーが、佐藤の罠によって、ニックの眼前で惨殺される。その怒りと悲しみが、ニックと松本を結び付け、2人は共同で捜査に取り組む。 アメリカと日本。異なる文化をバックボーンに持つ2人の刑事は、果して佐藤を追い詰めることが出来るのか? ***** 本作のタイトル“ブラック・レイン=黒い雨”の由来は、日本ヤクザの大ボス菅井が、ニックに毒づく内容で示される。少年時代にアメリカ軍による空襲を経験した菅井は、その直後“黒い雨”に打たれる。日本は敗戦と共に、やって来た進駐軍に価値感を押しつけられ、それが今どきの、仁義もへったくれもない、佐藤のような奴らを創り出したのだと。 主演のマイケル・ダグラスは本作のクランク・イン前、ニューヨーク市警の刑事と行動を共にした。その際ハーレムの暴動現場に駆けつけたり、警官2人が殺害された現場の調査に加わったりして、リサーチ。しかし日本に行くことは、敢えて避けたという。初めて日本を訪れるニック刑事と、できるだけ同じ状況で撮影に臨もうとしたのである。 外国人ホステスを演じたケイト・キャプショーは、役作りのため、大阪の会員制クラブに勤務。「男性とダンスをしたり、甘えさせてあげたり、背中を撫でてやったり、お酒をついだり……、彼らの冗談に笑ったり」といった経験をした。 日本人キャストの多くは、大々的なオーディションによって、決められた。押しも押されぬ日本のTOPスターで、『燃える戦場』(70)『ザ・ヤクザ』(74)など、ハリウッド映画に出演経験のある“健さん”こと高倉健も、例外ではなかったようだ。高倉が亡くなった際、彼が演じた松本警部補役のオーディションを、泉谷しげるも受けていたことを明らかにしている。 一説によるとリドリー・スコットは、出世作『エイリアン』を撮る際にも、高倉の出演を望んだと言われている。そうした意味では健さんは、“特別枠”だった可能性もあるが。 本作の強烈なヴィラン佐藤役には、ジャッキー・チェンの名前も挙がったというが、どう考えても柄ではない。本人もそう思ったらしく、直々に断ったと言われる。 数多の有名俳優が佐藤役の獲得に挑んだ中で、最終的に勝ち残ったのが、松田優作だった。キャスティング・ディレクターが松田に興味を持ったのは、『家族ゲーム』(83)『それから』(85)といった、森田芳光監督作品を観てのこと。またリドリー・スコットは松田のことを、痛快な日本のテレビドラマ(「探偵物語」のことと思われる)で知られる、「本質的にはコメディ俳優」と認識していた。 そんなこんなで、松田の起用が決まった時点では、アクションができることは、さほど期待されていなかったようである。彼を世に出した刑事ドラマ「太陽にほえろ」や、角川映画などの村川透監督作に触れてきた我々としては、吃驚するような話であるが…。 1988年10月28日、『ブラック・レイン』は、当時の大阪府庁のビルを、大阪府警に見立ててのシーンから、撮影開始。アメリカ側45人、日本側100人という大所帯のクルーは、続いて京橋地区の野外シーンや道頓堀地区のナイトシーン等々に取り組んでいく。しかしこれらの街頭撮影は制約が厳しく、困難を極めることとなった。 撮影許可が下りた筈だったのに、突然取り消されたり、建物内の撮影をしようとすると、それを監視する関係者が現れたり。 見物客にも、手を焼いた。通行人が平気でカメラの前を横切るわ、高倉健にサインを求めるギャラリーが殺到するわ。マイケル・ダグラスが、人々が高倉に接する様について、「アメリカでは、ブルース・スプリングスティーンの時だけだよ。あんなに尊敬される姿を見れるのは」とコメントしているが、これは半ば皮肉だったのかも知れない。 このような状況にストレスをためた撮影監督は、途中で降板。ピンチヒッターとして、後に『スピード』(94)などを監督する、ヤン・デ・ボンが呼ばれた。「日本社会というものを理解していなかった」そして「日本での撮影がどれだけ高くつくかもわかっていなかった」と悔やんでも、後の祭り。リドリー・スコットは後年、「二度と日本では撮らない!」と、コメントしている。 当初年の瀬近くまで予定していたロケは、12月上旬には切り上げ。結局大阪での撮影は、予定の半分もこなせなかった。 その後ニューヨークロケを済ませた後、撮れなかった日本のシーンは、ロスやカリフォルニア周辺で撮影。クライマックスは、ナパ・ヴァレーに在るブドウ農園を、コメの栽培地に作りかえ、そこで大物ヤクザたちの会合シーンや、ニックと佐藤のバイク・チェイスを撮り上げた。 1989年3月14日に、本作の主要な撮影は終了。ロケ地としての日本の評判は、本作で地に墜ちたと言えるが、その逆に高い評価を受けたのが、松田優作だった。 先にも記した通り、アクション面では期待されていなかった松田だが、いざ撮影に臨むと、スタントなしで自在に演じられることを知らしめた。そして撮影が進むにつれ、作品に対する発言権と信頼を得ていったのだ。 リドリー・スコットは松田を、「じつに良いやつ」「正真正銘の、ナイスガイ」とべた褒め。マイケル・ダグラスはアメリカでの撮影の合間に、松田を映画会社の重役に引き合わせ、今後ハリウッドで仕事をする際は、すべての面倒を見ると、太鼓判を捺した。 そして本作『ブラック・レイン』は、1989年9月22日に全米公開。№1ヒットとなると、キャスティング・ディレクターの元には、「ユーサク・マツダとは何者だ?」と問い合わせが殺到した。10月頭には具体的に、松田憧れの俳優、ロバート・デ・ニーロの主演作からオファーがあったという。 しかしその申し出が届いた際、松田は深刻な状況に陥っていた。実は本作への出演が決定した88年秋、松田は、膀胱がんの診断を受けていたのだ。ところが彼は、「“映画の父の国”で映画をやってみたかった」という、長年の夢を優先。本作の撮影に臨んだ。 それから1年…。松田は、10月7日の本作日本公開の頃には入院。がんの転移もあって、予断を許さない状態だった。そしてほぼ1か月後の11月6日には、この世を去ってしまう。享年40。 松田の身体ががんに侵されているのは、本作関係者のほとんどが知らされていなかった。その役どころとは正反対に、撮影中に松田と“親友”になった、チャーリー刑事役のアンディ・ガルシアは、『ゴッドファーザーPARTⅢ』(90)撮影中に松田の訃報を耳にした。ガルシアは真っ青になって、言葉も出なかったという。 本作は、監督のリドリー・スコットにとっては、失地回復の1作となった。そして次作では、プロデューサーを兼任。代表作の誉れ高い、『テルマ&ルイーズ』(91)を放つこととなる。 本作の撮影中、渾身の演技を見せた松田優作はスコットに、こんなことを言ったという。「これで俺は永遠に生きられる」■ 『ブラック・レイン』TM & Copyright © 2024 by Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.05.02
“香港映画”最後の輝き!? 新世紀の警察映画『インファナル・アフェア』三部作
香港では現実でも、潜入刑事によるおとり捜査が頻繁に行われていたという。そのためもあってか、香港のアクション映画やノアール=犯罪映画では、“潜入捜査官”ものが数多く製作されてきた。 刑事がその正体を隠して、黒社会=マフィアの一員となり、犯罪組織を追い込んでいく。リンゴ・ラム監督、チョウ・ユンファ主演の『友は風の彼方に』(86)などは、あのクエンティン・タランティーノが、長編デビュー作『レザボア・ドッグス』(92)で、丸パクリしたことでも有名である。 20世紀の終わり近くに、この“潜入捜査官もの”を、新たな切り口で再生することを思いついたのが、アラン・マック。しかしそのアイディアを売り込んでも、香港製警察映画としては、銃撃戦もアクションも「少なすぎる」と、多くの映画会社やプロデューサーから難色を示された。 2001年になって、アンドリュー・ラウの元に持ち込んでから、この企画は大きく動き出す。ラウは、ウォン・カーウァイ監督作『恋する惑星』(94)の撮影で注目を浴び、監督としても『欲望の街/古惑仔』シリーズ(95〜00)や『風雲/ストーム・ライダース』(98)といったヒット作がある。そのラウが、マックのアイディアに惚れ込んで、プロデューサーを買って出たのだ。 そこに映画会社のメディアアジアが乗った。製作に正式にGOサインが出たのだ。 ラウとマック、そしてメディアアジアの目標は、決まっていた。それは従来とは一味違った、「新世紀の警察映画」を作ることだった。 パクり対策もあって脚本は作らない、撮影現場では、その日の撮影分だけをコピーして配るなどと言われてきた香港映画としては、異例の製作準備が行われた。リサーチも含めると脚本の執筆に、3年もの歳月が掛けられたのだ。 こうして2002年に撮影・公開されることとなったのが、『インファナル・アフェア』の“第1作”である。中国語での原題は、「無間道」。最も辛い地獄である、絶え間なく続く“無間地獄”を行くという意味である。 ***** 黒社会のボス、サムの配下であるヤンは、くたびれ果てていた。彼は10年前、警察学校の生徒だった時、その能力を見込んだウォン警視によって、“潜入捜査官”の役割を与えられ、マフィアに潜り込んでいたのである。いつ終わるとも知れないスパイの使命に、ヤンは心身を蝕まれていた。 一方警察官のラウは、ヤンとは逆に、サムから警察に送り込まれた、“潜入マフィア”だった。捜査情報を流しながらも、警察内で順調に出世の階段を上っていくラウは、愛する婚約者も得て、今ある地位と名誉を、手放したくなくなっていた。 ある時の麻薬取引をきっかけに、ウォン警視とサムは、自分の組織の中に内通者がいることを、共に気付く。その炙り出しの命を受けたのは、それぞれ当事者である、ヤンとラウだった。 お互いの正体を知らない2人の運命が、大きくクロスしていく…。 ***** “潜入捜査官”と“潜入マフィア”。対称となる存在を配置して、両者の地獄の苦しみを、等分に描いていく。従来の“潜入捜査官”ものの枠を超えた、「新世紀の警察映画」の企画段階から製作に携わった大スターが、アンディ・ラウだった。脚本にも「全面的に参加」したという。 アンディを含めて、どうせならメインキャストを、“影帝”で固めようということになった。“影帝”とは、主要映画賞での主演男優賞受賞経験者を指す。 こうして、“潜入マフィア”ラウ役には、アンディ、“潜入捜査官”ヤンには、トニー・レオン、サムにはエリック・ツァン、ウォン警視には、アンソニー・ウォンが決まる。マスコミからは、「破天荒な共演」と騒がれた「4大影帝」の揃い踏みだったが、いずれも脚本を送ったら、即出演OKだったという。 9年振りの共演ということも話題になった、アンディとトニーに関わる女性キャラとしてキャスティングされたのは、歌手としても活躍する、サミー・チェンとケリー・チャン。また台湾の歌姫エルバ・シャオが、ヤンが別れた恋人役として1シーンのみだが、重要な役で出演している。 主人公2人の若き日を演じる俳優を選出するのには、大々的な新人オーディションを行った。結果としては、すでに若手スターとして注目の存在だった、エディソン・チャンとショーン・ユーが決まる。 当時の香港映画界きっての“オールスター映画”となって、当初アラン・マックが単独で監督する予定が、実績のあるアンドリュー・ラウとの共同監督へと変わった。役割分担としては、マックは俳優の演出や、共同脚本のフェリックス・チョンと共に、シナリオをブラッシュアップする方向に尽力。撮影も兼ねたラウは、ヴィジュアル面に力を注いだことになっている。 しかしアンディ・ラウの証言では、現場では主にマックがモニター前に陣取るのに対し、ラウは俳優に指示を出すなど、実質的な演出を担当。また意見が割れた時の最終決定権は、プロデューサーも兼ねたラウにあったという。 トニー・レオンはヤン役を演じるに当たっては、かつてジョン・ウー監督の『ハード・ボイルド/新・男たちの挽歌』(92)で演じた“潜入捜査官“役と変わらないとしながらも、もうこれ以上続けたくない悩んでいる感じを出し、退廃的に演じてみたという。 一方アンディ・ラウは、観客は黒社会の手先だとわかっているのに、劇中では警察として、同僚らにまったく怪しまれることなく自然に振舞うという役作りに腐心した。因みに、事前に警察を取材するなどの準備はしなかった。仮に“潜入マフィア”が居たとしても、取材しようがないのだから、確かに事前リサーチは不要であっただろう。 ダニー・パンとパン・チンヘイによる、ハイテンポの編集もピタッとハマった『インファナル・アフェア』は、2002年最大のブロックバスター作品として、クリスマス・シーズンに公開。興収5,000万香港㌦を超え、2002年度の香港映画全体の売上げの17%を占めるメガヒットとなった。 こうなると当然、“続編”の動きが持ち上がる。第1作の製作期間からその後日談を描いた脚本が、執筆されていた。それに対してメディアアジアグループの会長ピーター・ラムが、大きく過去に遡る話の映画化を提案。ヤンとラウは、人生のスタートの地点で、いかにして“潜入捜査官”“潜入マフィア”となったのか?ウォン警視とサムは、はじめはどんな仲で、なぜお互いの命を狙うような敵対関係になってしまったのか? この構想は具体化。第1作よりも10年遡り、主人公たちの若き日を描く『II』、第1作の前後の顛末を詳らかにする『III』が、第1作とほぼ同じスタッフによって、続けて製作されることとなった。 第2作である『インファナル・アフェア 無間序曲』(03)のラウとヤン役には、第1作でその若き日を演じた、エディソン・チャンとショーン・ユーが、そのまま起用された。アンソニー・ウォンとエリック・ツァンは続投。そのまま10年若返ってみせた。 新たに加わったのは、フランシス・ンとフー・ジュン。それにカリーナ・ラウ。 フランシス・ンは、最大マフィアの若き後継者にして、ヤンの腹違いの兄であるハウ役。ヤンはこうした血筋故に、警察学校に居られなくなり、尚且つ“潜入警察官”として白羽の矢を立てられたのだった。 フー・ジュンは、ウォン警視の同僚にして親友役。彼に降りかかった災厄があってこそ、ウォン警視のマフィアへの憎悪は深まることとなる。 そしてカリーナ・ラウは、サムの愛妻にて、若きラウの想い人役。彼女への愛故に、ラウは“潜入マフィア”に志願し、また折々の“裏切り”や“殺し”に対して、躊躇のない者となってしまう。 この作品の舞台となったのは、1991年、95年、そして香港が、長年の統治者イギリスから中国へと返還される、97年。香港の黄金時代であると同時に、返還を前にした激動の時代である。そんな時の流れの中で、それぞれのキャラクターが負った“業”が複雑に絡み合って、数々の悲劇が生まれていく。 中国への返還を機に、黒社会から表の世界へと移り住むことを企てるも、夢破れて命を落とすハウが、象徴的と言える。死の間際に、信頼していた“弟”ヤンが、“裏切者”だと気付く。フランシス・ンが見事な表情、見事なキャラ造型で見せてくれる。 “プリクエル=前日譚”として、まるで当初から構想されたとしか思えない、素晴らしい完成度!『インファナル・アフェア 無間序曲』は、2003年10月の公開と共に大評判となり、多くの観客を集めた。 そしてその2カ月後、第1作の公開からちょうど1年を経て公開されたのが、『インファナル・アフェアIII 終極無間』。“三部作”の完結編である。 ネタバレになるが、そもそも“第1作”で、アンディ・ラウの“潜入マフィア”以外の主要キャラは、すべて命を落としている。“前日譚”はともかく、その続きなどどうやって描くのか?それが大いに注目された。 かつての香港映画ならば、大ヒット作『男たちの挽歌』(86)で命を落としたチョウ・ユンファが、その続編『男たちの挽歌Ⅱ』(87)では、「双子の弟」という設定で、シレッと戻ってきたりする。 もちろん緻密な構成で編まれた『インファナル・アフェア』シリーズでそんなことをするわけはなく、ヤン、ウォン警視、サムらは、“第1作”に至る数ヶ月前からの攻防に登場。生き残ったラウはそれに加えて、“第1作”の事件の後始末に追われる中で、精神の平衡を崩していく。 ここで“潜入マフィア”ラウは、自らの合わせ鏡のような存在だった、今は亡き“潜入捜査官”ヤンへと同化していく。ラウの妄想の中で、アンディとトニーの競演が行われる仕掛けだ。そしてラウは、自らの“マフィア”としての本性を消し去り、“警察官”として「善人でいたかった」と思うがあまり、“破滅”へと向かって行くのである。 この『III』の脚本には、「統括する形で携わっている」という、アンディ・ラウ。精神的にバランスが崩れたラウを演じるに当たって、「3カ月程度」様々なリサーチを行い、その細かい描写に関しては、自らのアイディアに基づいて演じている。 しかしラウの迎える“結末”は、アンドリュー・ラウ監督が考えたもの。「なんて、残忍な監督なんだろう」と、演じるアンディは思ったという。 『III』で新たに登場するのは、冷徹なエリート刑事役のレオン・ライと、中国本土から香港に来る麻薬商人役のチェン・ダオミン。この2人が、“生前”のヤン、そして狂っていくラウと関わる、重要な役割を果す。 記憶や時制を、混乱しかねないスレスレのつながりで積み上げて構成された、『インファナル・アフェアIII』。“三部作”の完結編として、「見事」という他ない仕上がりとなった。そして当然のように、公開と共に大ヒットを記録した。 『インファナル・アフェア』のリメイク権は、当時としての最高記録で、ハリウッドに売れたのは、あまりにも有名なエピソード。レオナルド・ディカプリオとマット・デイモンの主演、マーティン・スコセッシの監督で『ディパーテッド』(06)というタイトルで映画化され、アカデミー賞の最優秀作品賞・監督賞・脚色賞・編集賞と、4部門を制した。 また日本でも、西島秀俊と香川照之共演で「ダブルフェイス」(12)というタイトルでドラマ化された。 “三部作”の製作・公開当時は、中国返還の前後から元気がなくなっていた香港映画の「復活の狼煙」のようにも評された。しかし20年余経って振り返れば、これが「最後の輝き」となってしまった感が強い。 2003年SARS=重症急性呼吸器症候群によって、大打撃を受けた香港経済。当然映画界の被害も大きく、これ以降に『インファナル・アフェア』並みの製作規模やオールスターキャストを実現するためには、中国本土での公開を前提とした“合作”というスタイルを取る必然性が生じた。 そうなると中国共産党の検閲の下、いわゆる「表現の自由」が大きく狭められる。“黒社会”に属する主人公が、警察や公安を相手に勝利を収めるような作品は、一切許可が下りなくなったのである。 そうこうする内に、習近平政権による、昨今の弾圧である。香港から、『インファナル・アフェア』のような、ビッグバジェット且つ革新的作品が生まれるのは、完全な“夢物語”となってしまった。 付記すれば本作の出演者でも、エリック・ツァンが、ジャッキー・チェンなどど同様に、今や“親中派”の代表的な俳優となったのに対し、アンソニー・ウォンは、2014年の雨傘運動=香港反政府デモを支持して以降は、メジャー作品からは締出されたような形となっている。 様々な意味で、『インファナル・アフェア』三部作は、香港の「今は昔」のレクイエムのような作品と言えるかも知れない。■ 『インファナル・アフェア』© 2002 Media Asia Films (BVI) Ltd. All Rights Reserved『インファナル・アフェアII 無間序曲』『インファナル・アフェアIII 終極無間』© 2003 Media Asia Films (BVI) Ltd. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2024.04.10
ブライアン・デ・パルマ復活!ケヴィン・コスナーをスターに押し上げた“西部劇”『アンタッチャブル』
アメリカに禁酒法が敷かれていた、1920年代から30年代はじめ。悪名高きギャングのアル・カポネは、酒の密造と密輸で莫大な利益を上げ、シカゴで「影の市長」と呼ばれるほどの権勢を誇っていた。 警察や議会、裁判所までがカポネの影響下に置かれる中、孤独な戦いを始めた男が居た。財務省から派遣された若き捜査官、エリオット・ネスである。 ネスは意気盛んに、密造酒摘発に乗り出す。しかし配下の警官は買収されており、捜査情報の漏洩で、初陣は大失敗に終わる。 世間の失笑を買ったネスは、初老の警官マローンと偶然知り合う。彼が信頼に値する男だと見定めたネスは、カポネに対抗するためのチーム作りへの協力を依頼する。 躊躇するマローンだったが、ネスのまっすぐな正義感に打たれ、警官の本分を通すことを決意。 マローンの指導の下、新人警官のストーン、財務省から派遣された簿記係のウォレスという仲間を得たネスは、大掛かりな摘発を成功させる。早速カポネの側から買収や脅迫などが仕掛けられるが、ネスは断固はねのけるのだった。 賄賂や脅しに決して屈しない4人のチーム“アンタッチャブル”と、カポネの築いた帝国は、血で血を洗う戦いへと、突入していく…。 ***** 「アンタッチャブル」というタイトルは、元々は本のタイトル。その内容は、実在の財務省捜査官だったエリオット・ネスが、アル・カポネ逮捕までの顛末を語ったインタビューを元に、構成されたものである。 この本によると、ネスたち“アンタッチャブル”は、デスクワーク中心の捜査官。銃を撃ったなどという話は、登場しない。 ところがこれを原作にしたTVシリーズの「アンタッチャブル」(1959~63/全118話)では、事実を大幅に脚色。ロバート・スタック演じるネスは、FBIの捜査官とされ、彼とその部下が毎回のように銃撃戦に臨んでは、ギャングを射殺するシーンが登場した。このシリーズはアメリカだけではなく、日本でも大人気となり、70年代頃までは度々再放送が行われていた。 TVシリーズの制作から、時は流れて20年余。1980年代中盤になって、このTVシリーズの放映権を持っていたハリウッドメジャーのパラマウントが、自社の75周年を記念する企画として、「アンタッチャブル」の“映画化”に取り組むことを決めた。 担当となったのは、パラマウントの契約プロデューサーだった、アート・リンソン。しかし彼は、原作となったTVシリーズを見ていなかった。 そんな彼が脚本を依頼したのは、デヴィッド・マメット。映画の脚本は、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(81)『評決』(82)を担当。後者ではアカデミー賞にノミネートされている。それ以上に評価されていたのは、劇作家として。「アメリカン・バッファロー」(76)「グレンガリー・グレン・ロス」(84)などを手掛け、後者ではピューリッツァー賞やトニー賞を受賞している。「アンタッチャブル」のTVシリーズは、リアルタイムで見ていたというマメット。シカゴ育ちで故郷をこよなく愛し、また“禁酒法”の時代に関しては、「マニア」と自負するほど詳しかった。 マメットはリンソンと打ち合わせながら、脚本の執筆を始める。実在の“アンタッチャブル”のメンバーが10人だったのを、4人に絞るのは、TVシリーズに倣いながらも、2人は端から、TVの映画版にする気はなかった。「75周年作品」にも拘わらず、パラマウントは1,500万㌦という、当時としても“大作”とは言えない製作費しか提供しなかった。そんな状況でリンソンが監督として声を掛けたのは、スローモーションや長回し、360度回転カメラ等々、技巧を凝らした映像美で熱狂的なファンを持っていた、ブライアン・デ・パルマ。 サイコサスペンスの『キャリー』(76)『殺しのドレス』(80)、ギャング映画の『スカーフェイス』(83)などではヒットを飛ばしたデ・パルマだが、その頃はちょうどキャリアの曲がり角。敬愛するヒッチコックにオマージュを捧げた『ボディ・ダブル』(84)、初のコメディに挑戦した 『Wise Guys』(86/日本では劇場未公開)が続けて大コケしたため、メジャーヒットを欲していた。 そんなデ・パルマが本作『アンタッチャブル』(87)の監督を引き受ける決め手となったのは、マメットが8か月掛けて書いた、その時点では第3稿となる脚本。これまで自分が手掛けてきた作品と違って、例えばジョン・フォード作品のような「伝統的なアメリカ映画の流れ」を汲んでいると感じたのである。 デ・パルマはこの作品を、“ギャング映画”ではなく、『荒野の七人』のような“西部劇”だと捉えた。実際マメットは、「老いたガンファイターと若いガンファイターの物語」としてストーリーを組み立てたと語っている。「神話的なアメリカのヒーローにまつわるスケールの大きな話」。これがプロデューサーのリンソン、脚本のマメット、監督のデ・パルマの間で一致した、本作の方向性となった。 主役のエリオット・ネスは、かつてなら、ゲーリー・クーパー、ジェームズ・スチュアート、ヘンリー・フォンダが演じたような役柄。望まれるのは、理想主義と強さを合わせ持つ、良い意味でクラシックな個性だった。 まずメル・ギブソンの名前が挙がったが、『リーサル・ウェポン』(87)の撮影が重なっていた。続いてウィリアム・ハートやハリスン・フォードなど、当時の売れっ子俳優が候補となった。 しかし、予算が折り合わない。そこで浮上したのが、売り出し中ではあったが、かなり知名度が落ちる、ケヴィン・コスナーだった。 コスナーの起用に懐疑的だったデ・パルマは、監督仲間のローレンス・カスダンとスティーヴン・スピルバーグに相談したという。 カスダンは、『再会の時』(83)でコスナーを起用しながらも、上映時間の関係で彼の出番を全カット。その後西部劇『シルバラード』(85)で正義のガンマンの役を与えている。スピルバーグは、プロデュースしたTVシリーズ「世にも不思議なアメージングストーリー」(85~87)の中で、自分が監督した一編で、コスナーを主役にしている。「彼はクリーンかつ素直で将来性がある」2人の監督のコスナーに対する評価は、まったく同じもので、デ・パルマもコスナー抜擢の踏ん切りがついた。 ネスの仲間のキャスティングも、重要だった。カポネを脱税で摘発することを提案する経理のエキスパート、ウォレス役には、『アメリカン・グラフィティ』(73)で知られた、チャールズ・マーティン・スミス。彼はこの「真面目でおかしな男」を、「漫画チックにしてはならない」と、肝に銘じながら演じたという。 アンディ・ガルシアは当初、カポネの用心棒で殺し屋のフランク・二ティ役の候補だった。しかし本人の希望もあって、新人警官ストーンのセリフを読んだらハマったため、“正義”の側に身を置くこととなった。 さてベテラン警官のマローンである。何とか“大作”の装いにしたいと考えたデ・パルマは、かねてからファンだった、元祖ジェームズ・ボンド俳優のショーン・コネリーにオファーした。「初めて脚本を読んだ時は“まるで天の啓示”のように感じた…」という、当時50代後半のコネリー。コスナーとの組み合わせは、まさに「老いたガンファイターと若いガンファイター」であった。 コネリーに対して、「いつも遠くから彼の仕事は素晴らしいと思っていた」コスナーは、この共演について、「プロの俳優としての、そして個人としての彼のスタイルには影響されたし、そこから学ぶこともあった」と語っている。まさに役の上での、ネスとマローンの関係に重なる。コスナーにとってコネリーは「特別な人」となり、後に自らの主演作『ロビン・フッド』(91)に、特別出演してもらっている。 コスナーはメソッド式で、ネスの役作りを行ったという。カポネについて、あらゆる文献を読み漁り、財務省関係、FBIなどで実際にネスを知っていた人々から話を聞いた。その中には実際の“アンタッチャブル”の、その時点でただ一人の生存者も含まれている。 ただマメットが、ネスのタフガイのイメージを和らげようと、守るべき愛する家族を持つ男としたことに関しては、役作りは容易だった。コスナーには当時、3歳と1歳の子どもがいたからである。 本当はデスクワークが似合う男なのに、成り行きで深みにはまっていく。シカゴの暗黒街の現実を知るにつれ、段々とタフになっていく。コスナーの役作りで、そんなエリオット・ネス像が出来上がっていった。それはデ・パルマによるネスのイメージ、「下水に落ちた白い騎士」と、正に合致していた。 「白い騎士」に対抗して、“悪”を体現するアル・カポネ役に、デ・パルマが切望したのは、ロバート・デ・ニーロだった。1960年代末、無名時代の2人は何度も組んでいたが、それから15年以上。アカデミー賞を2度受賞して、すでに名優の誉れ高かったデ・ニーロを起用するには、僅か2週間の拘束で、製作費の1割に当たる150万㌦も払わなければならなかった。 デ・パルマは、渋る映画会社の重役たちに、己の降板まで仄めかして起用を承諾させた。しかしデ・ニーロ本人から、なかなか出演のOKが届かない。 宙ぶらりんの状態でデ・パルマが頼ったのが、ボブ・ホスキンス。『モナリザ』(86)の演技で、カンヌ国際映画祭やゴールデングローブ賞で俳優賞を受賞して波に乗っていた彼にデ・パルマは、「もしデ・ニーロがやらなかったら、やってくれるか?」と、失礼を承知でオファーを行ったのである。 結局デ・ニーロが出演に応じ、デ・パルマはホスキンスに謝罪の電話を入れることとなった。数週間後、ホスキンスには詫び料として、20万㌦の小切手が届いたという。 正式な契約の日に、デ・ニーロに初めて会ったアート・リンソンは、酷いショックを受けた。出演していたブロードウェイの舞台の出で立ちで現れたデ・ニーロが、「七十キロもなくて、ポニーテイルをしている上に、三十歳ぐらいにしか見えない」状態で、ろくに口をききもしなかったのだ。カポネは太っていて四十歳、騒々しい男なのに…。 リンソンはデ・パルマを罵った。「あんな奴のためにボブ・ホスキンスを断ったなんて!もうおしまいだ」 そんなリンソンをデ・パルマはなだめながら、太鼓判を押した。次に会う時のデ・ニーロは、別人のようになっていると。 それから5週間。現れたデ・ニーロは、すっかり変わっていた。彼は契約後、すぐにイタリアに飛び、そこでパスタやポテトやピザ、ビール、牛乳を詰め込んで11㌔増量。更にカポネの出身地、ナポリ風のアクセントを身に着けて帰ってきたのだ。いわゆる“デ・ニーロアプローチ”だ。 更には古いニュースを見て、本物のカポネそっくりの声と動作、癖を身に付けた。外見的にも、髪の生え際を剃ることで、カポネの月のように丸い顔を作り上げた上、撮影中はローマから来たメイクアップ・アーティストが毎日3時間掛けて、顔の左側にカポネの有名な古傷を再現。更にはボディ・スーツを着込むことで、万全を期した。 本作の衣裳は、ジョルジョ・アルマーニが担当したが、デ・ニーロはリトル・イタリーの洋服屋に頼み、もっと本物らしくリメイク。更には画面には映らないにも拘わらず、絹の下着を、カポネが注文していた店に発注。それに加えて、カポネ愛用ブランドの葉巻や靴も手に入れた。 リンソンは、これらの経費の請求書に肝を冷やしながらも、デ・ニーロの役作りに関しては、不安を抱くことはなくなっていった。 本作のクランクインは、1986年の8月上旬。13週間の撮影で、使用されたロケ地は25以上。その多くが30年代前半には、カポネ行きつけの場所だったという。 クライマックスで、カポネの脱税の証拠である、帳簿係を拘束するための銃撃戦が撮影されたのは、シカゴのユニオン駅。20人のスタッフが2週間掛けて準備を行い、照明のために、電力会社が一時的に駅への電気の供給を増やした。 ここでデ・パルマは、映画史に残る『戦艦ポチョムキン』(1925)の“オデッサの階段”を引用。赤ん坊の乗ったベビーカーが階段を滑り落ちていく中で、激しい銃撃戦をデ・パルマの十八番、スローモーションで捉える。 実はこのシーンは、本作が“大作”の装いながら、製作費が抑えられたための、“代案”だった。本来は、列車に乗った帳簿係を車で追った上に、列車に乗り移って銃撃戦が繰り広げられる筈だったのが、予算の都合で実現不可能。代わりに撮られたこのシーンが、結果的にデ・パルマらしさが横溢する、本作を代表する名シーンとなったのである。 新旧問わずデ・パルマ作品には、“映像美”に走る反面、ストーリーがおざなりになる傾向がある。しかし本作は、マメットのストレート且つ説得力のある脚本によって、そうした欠点を解消。更には、デ・パルマが以前から仕事をしたかったという、エンニオ・モリコーネ作曲のスコアも素晴らしい響きを見せ、1987年に作られた“西部劇”としては、これ以上にない仕上がりとなった。 当初予定されていた製作費1,500万㌦はオーバーして、2,400万㌦が費やされたが、87年6月に公開されると、北米だけで7,500万㌦を稼ぎ出した。その秋に公開された日本でも、配給収入が18億円に達する大ヒットとなった。 アカデミー賞では、ショーン・コネリーに助演男優賞が贈られた。そしてケヴィン・コスナーはこの後、『フィールド・オブ・ドリームス』(89)『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(90)『JFK』(91)『ボディガード』(92)等々、ヒット作・話題作への出演が続く。特にプロデューサーと監督を兼ねた『ダンス・ウィズ…』では、アカデミー賞作品賞と監督賞の獲得に至り、大スターの地位を手にした。 監督のデ・パルマは、本作のヒットでせっかく取り戻した“信用”を、続く『カジュアリティーズ』(89)『虚栄のかがり火』(90)両作の大コケで無化する。次に復活するのは、やはり人気TVドラマシリーズを、オリジンを軽視して映画化するという、本作のパターンを踏襲した、『ミッション:インポッシブル』(96)となる。■ 『アンタッチャブル』™ & Copyright © 2024 by Paramount Pictures Corporation. 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COLUMN/コラム2024.04.08
ジョン・フォード&ヘンリー・フォンダ。名コンビの傑作西部劇には、ヴァージョン違いが存在した!?『荒野の決闘』
“西部劇の神様”ジョン・フォード(1894~1973)。アカデミー賞監督賞を史上最多の4回受賞している彼は、1年に3本監督するのが、仕事のパターンだった。 1本は税金のため、2本目は自分の船の維持のため、そして3本目は翌年まで暮らしていくためなどと言われたが、1910年代から60年代まで半世紀を超えるキャリアで、実に136本もの監督作品を残している。 そんなフォード作品の主演俳優で、まず思い浮かぶのは、ジョン・ウェイン。『駅馬車』(39)をはじめ、『アパッチ砦』(48)『黄色いリボン』(49)『リオ・グランデの砦』(50)の“騎兵隊三部作”や『捜索者』(56) 『リバティ・バランスを射った男』(62)等々、20数本に渡って出演している。 しかし先に記した通り、フォードの膨大なフィルモグラフィーから見れば、ウェイン主演作も、ごく一部。全盛時のフォード作品で存在感を示した、もう1人の主演俳優としては、名優の誉れ高い、ヘンリー・フォンダ(1905~82)の名が上がる。 フォンダは、トータルでは7本、フォード作品に主演している。2人の出会いとなったのは、『若き日のリンカン』(39)。アメリカの第16代大統領で、奴隷解放に力を尽くした、エイブラハム・リンカーンの弁護士時代を描いたものである。 フォンダはリンカーン通を自認し、彼に関する書物は「7割がた」読んでいたという。映画会社から送られた、『若き日の…』の脚本を読んだ際は、「素晴らしい」とは思いながらも、オファーを受けることには、尻込みした。リンカーンを演じることは、「神とかキリストとかを演じる様なもの」と、フォンダには感じられたのだ。 プロデューサーの説得で、とりあえずはリンカーンそっくりにメイクして、スクリーン・テストを受けてみた。現像された映像を目の当たりにして、フォンダは大きなショックを受けたという。「あの人がわたしの声でしゃべるのは、どうにもがまんがならない」そして、「この話はなかったことにしてほしい」と申し出た。 そこで映画会社は、この作品の監督を務めるジョン・フォードの元へ、フォンダを連れて行った。フォンダは以前、フォードがジョン・ウェインに演技をつけるのを後方から見物したことはあったが、この時がほぼ初対面。そんなフォンダに、フォードはこう言い放ったという。「お前さんは偉大なる解放者を演じるつもりなんだろうが、そんなものは糞くらえだ」「奴はスプリングフィールドからやってきたケツの青い新米弁護士に過ぎないんだ」 この言を受け、リンカーンを演じることを決めたフォンダは、結果として、「ニューヨーク・タイムズ」から絶賛を受けるなど、映画俳優としての声価を大いに高めることとなった。 フォードの監督作品では、1つのカットを2回以上撮ることは、ほとんどない。フォードは、俳優に演技を繰り返させすぎると、「…ロッカールームに演技を置き忘れてきてしまう…」と言って、ファーストテイクの新鮮さを求めたという。 現代で言えば、イーストウッドやスピルバーグのオリジンとも言えるこの演出法が、フォンダの性にも合ったのか。『若き日の…』の後には、『モホークの太鼓』(39)『怒りの葡萄』(40)と、フォード作品への主演が続いた。 特に『怒りの葡萄』は、フォンダがジョン・スタインベックの原作に惚れ込んで、出演を熱望した作品。その主人公トム・ジョードは、フォンダの当たり役となり、初めてアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた(彼が実際に主演男優賞のオスカー像を手にするのは、遺作となる『黄昏』(81)まで、40年以上待たねばならなかったが…)。 その後フォンダは、第2次世界大戦に従軍。戦後に帰国して主演第1作となったのも、ジョン・フォードの監督作品。それが本作、『荒野の決闘』(46)だった。 ***** 西暦1882年の西部。ワイアット・アープ(演:ヘンリー・フォンダ)と3人の弟は、メキシコから牛を数千頭連れて、カリフォルニアへ向かっていた。その途中、アリゾナのトゥームストン近くで、クラントン父子に会う。ワイアットは、クラントンから安値での牛の買い取りを申し込まれるが、断わる。 末弟のジェームスを留守番に残し、ワイアットらがトゥームストンに出掛けると、酒場で銃の乱射騒動が起こった。その場を見事に収めたワイアットに、町長は保安官就任を頼むが、彼は断わって辞去する。 ところが野営地に戻ると、末弟は殺され、すべての牛は盗まれていた。クラントンの仕業とにらんだワイアットは、トゥームストンに戻り、保安官就任を受ける。 酒場で賭博を仕切るのは、凄腕のガンマンでもあるドク・ホリディ(演:ヴィクター・マチュア)。彼の情婦チワワ(演:リンダ・ダーネル)も絡んで、ワイアットとホリディの間に“一触即発”の空気も流れたが、やがて2人は酒を酌み交わし、親しい仲となった。 ホリディの許婚だった美しい女性クレメンタイン(演:キャシー・ダウンズ)が、駅馬車でトゥームストンに着く。ホリディはボストンで、優秀な外科医だったが、肺結核に罹って自暴自棄となり、クレメンタインの前から姿を消したのだった。その後西部を渡り歩いた結果が、今の姿だった。 清楚で気品のあるクレメンタインに、心惹かれるワイアット。ホリディはクレメンタインを追い返そうとするが、帰ろうとしない彼女に業を煮やし、自分がトゥームストーンを出ていこうとさえする。 しかしそれがきっかけで、牛泥棒と末弟殺しの犯人が、クラントン一家だったことが明らかに。ワイアットとホリディらは、クラントン一家との“OKコラルの決闘”へと臨む。 ***** 本作『荒野の決闘』は、実在の人物だったワイアット・アープ(1848~1929)からの聞き書きを原作とする、3度目の映画化作品である。アープはサイレント期のハリウッドで、西部劇の決闘の演技を指導する仕事に就いており、その際にこの“OKコラルの決闘”を、題材として売り込んだと言われている。 ジョン・フォード自身も、まだ監督になる以前、進行係の助手を務めている頃に、ワイアット・アープと面識があった。年老いたアープがスタジオの知り合いを訪ねてくると、「よくアープさんに椅子を運び、コーヒーを届けた」という。そしてアープから、“OKコラルの決闘”のことを直接聞いたとも語っている。 フォードは、『荒野の決闘』に関して、「現実にあった通りのことを正確に再現したつもりだ」と語っている。しかし、そんなわけはない。真実の“OKコラルの決闘”は、「末弟の敵討ち」などというキレイな話ではなく、アープら保安官側とクラントン一家らカウボーイ側の、様々な確執の結果に起こった“私闘”であった。そしてむしろこの決闘の後に、両サイドが互いの命をつけ狙うという、血みどろの復讐劇・暗殺劇が繰り広げられることとなるのである フォードも、そんなことは百も承知だったと思われる。そもそも劇中に登場するチワワやクレメンタインといった女性キャラは、架空の人物なのである。 何はともあれ本作は、数々のフォード西部劇の中でも、『駅馬車』と並んで“傑作”と謳われることが多い作品となった。映画史に残るチェイスアクションが売りの『駅馬車』が“動”とするならば、本作はまさに、“静”の魅力を湛えた西部劇と言える。 クライマックスこそ、“OKコラルの決闘”となるが、そこに至るまで本作で何よりも印象に残るのは、叙情豊かに描かれた西部の町と、その中でのワイアットの振舞いである。 実際にはメキシコ国境近くに在るトゥームストーンだが、本作でのオープンセットは、ジョン・フォード西部劇ではお馴染みの、ユタ州とアリゾナ州に跨るモニュメントバレーの地に25万㌦を掛けて建設された。そこで長期ロケを行い撮影された中でも、特に名シーンとして知られるのは、ワイアットが、軒先に持ち出した椅子に腰かけたまま、傍の柱に長い足を掛け、椅子を浮かせてぷらぷらとくつろぐシーン。そして日曜の朝、クレメンタインに誘われたワイアットが、建設中の教会の広場へと出掛け、彼女とダンスに興じるシーン。 “静”の西部劇として世評の高い本作『荒野の決闘』であるが、ジョン・フォード自身は後年のインタビューなどで、あまり触れたがらなかった。また一般公開された“完成版”に関しては、「一回も見とらんね」などと言っている。 これには事情がある。フォードは本作に関して、粗編集したものをプロデューサーのダリル・F・ザナックに渡した後は、諸々の判断を彼に任せてしまったのである。ザナックはそこから30分カットした上に、不足に思った部分に関しては、別の監督を呼んで追加撮影させている。 後にわかったことだが、ザナックが完成させたバージョンと、フォードによる粗編集版は、なぜか製作した20世紀フォックスのフィルム倉庫には、混ざって保管されていた。即ち劇場公開の際に、誤って(?)粗編集版のフィルムが送られて、そちらを上映した映画館もあったことが考えられるわけである。 ・『荒野の決闘』の撮影風景。中央、ステージ上にパイプをくわえたジョン・フォード監督の姿が見える。 実はこうした経緯が、本作が本国の翌年=1947年に公開された、日本の映画ファンにも、混乱を及ぼしたと言われる。本作のラスト、故郷に帰るワイアット・アープを、町に残ることを決めたクレメンタインが、トゥームストーンの外れまで見送りに来る。その別れ際にワイアットが、「私はクレメンタインという名前が大好きです」と、映画史に残る名セリフを吐くが、その前に彼が、クレメンタインの頬に口づけをするシーンがあったかなかったか、公開から暫く経ってから、議論になったのだ。 当時はもちろんビデオなどなく、またTVの洋画劇場なども始まる前だったため、口づけの有無を確かめるためには、リバイバルを待たねばならなかった。1930年代生まれの熱心な映画ファンとして知られる、コラムニストの小林信彦氏やイラストレーターの故・和田誠氏などは、「口づけはしていない」派だったというが、本作再上映の際に「口づけをしている」のを目の当たりにして、己の記憶違いに大いなるショックを受けたという。 しかしこれは、実は記憶違いではなかったらしい。ワイアットの口づけは、ザナックが追加撮影で足したカットであった。つまり初公開時に小林氏や和田氏は、フォード主導の「口づけをしていない」粗編集版を観ていたものと思われる。 こうした混乱も、ささやかながら、映画史の一頁と言えるだろう。そして名コンビであったジョン・フォードとヘンリー・フォンダが、その後『ミスタア・ロバーツ』(55)を最後に、16年、7作に及んだパートナーシップを解消し、訣別してしまうのもまた、映画史の一頁である。 今コラムでは、そこを深掘りすることはしない。今はただ、フォード&フォンダコンビのピークと言える『荒野の決闘』に、製作から80年近く経っても、触れられる至福を祝いたい。完成版として放送されるのが、ザナックが介在したバージョンであることを鑑みると、これもまた微妙な話ではあるが…。■ 『荒野の決闘』© 1946 Twentieth Century Fox Film Corporation.
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COLUMN/コラム2024.03.08
ディカプリオが惹かれた「謎の大富豪」。若きハワード・ヒューズの20年を描く。『アビエイター』
「謎の大富豪」。 1976年、ハワード・ヒューズ70歳での訃報に直に触れたことのある者は、こんなフレーズを、やたらと耳にした記憶があるかと思う。 1958年の公式インタビューを最後に、亡くなるまでの20年近くは、マスコミから姿を隠し、ラスベガスのホテルに独居。立退きを迫られると、そのホテルごと買収して、ほとんど外出せずに暮らし続けたという。 遺された総資産が360億㌦にも上り、「謎の大富豪」のフレーズがあまりにも立ち過ぎた故、私などは彼の業績や実績を、かなり後年までほとんど知らなかった。“発明家”“飛行家”そして“映画製作者”として名を馳せたという事実を。 190cmと高長身で、ハリウッドスター並みの容貌。ひとつの人生で何人分もの体験をして、多くのことを成し遂げたヒューズには、「20世紀で最高に寛大な金持ち」「身勝手な人」など、正反対の評価が付いて回る。 そんなヒューズの人生に、魅せられた男がいた。レオナルド・ディカプリオだ。 1974年生まれの彼は、『ギルバート・グレイプ』(1993)で、19歳にしてアカデミー賞助演男優賞の候補となり、『タイタニック』(97)で、押しも押されぬ若手のTOPスターとなる。 彼がヒューズに興味を持ったのは、10代の頃。この「謎の大富豪」を、正面切って描いた伝記映画は、長く存在しなかった。そしてディカプリオは、20代の8年間、ヒューズの人生を映画化するプロジェクトに心血を注いだのである。 ヒューズは、“飛行機”と“映画”と“女性”に、同じような情熱で関わったという。ディカプリオはその伝記を何冊も読み、様々な書き手が、各々違う見方で彼について書いているのを発見。一言では言い表せない複雑な人間だからこそ、こんなにも惹かれるのだと、得心した。そこに俳優としてのやりがいを強く感じると同時に、自分とヒューズの共通点が、「完璧への執着」であることを見出したという。 ディカプリオは、製作会社「アピアン・ウェイ」を設立。その第1作としてこの企画を取り上げ、自らは製作総指揮と主演を務めることにした。 タイトルは、“飛行家”という意味の“アビエイター”に。そして監督は、マーティン・スコセッシに決まる。 スコセッシとディカプリオは、前作『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)に続く顔合わせ。…と言うよりも、本作『アビエイター』(2004)は今日に於いては、『キラー・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)まで6作に及ぶ名コンビの、2作目という位置付けになるのだろうか? しかしスコセッシの起用は、当初はディカプリオの頭にはなく、スコセッシ自身も、“ハワード・ヒューズ”という題材には、まったく興味がなかったという…。 ***** 1920年代。ヒューズは父から受けた莫大な遺産を元手に、夢のひとつ“映画製作”を開始。念願の企画だった航空アクション映画『地獄の天使』製作で、本物の戦闘機を買い集め、自ら空中スタントをこなし、ついには監督まで務めることとなった。この作品は、2年近く掛けてようやくクランクアップ。しかしトーキー映画第1作『ジャズ・シンガー』を観たヒューズは、サイレント映画だった『地獄の天使』を、全編音声入りで撮り直すことを決めた。 史上空前の莫大な予算を掛けて3年がかりで完成した『地獄の天使』は大ヒット。しかし大赤字に終わる。 ヒューズはもう一つの夢だった、“航空事業”に着手。会社を立ち上げ、世界一速い飛行機の開発を始めた。 女性と次々と浮名を流していたヒューズは、新進女優のキャサリン・ヘプバーンと恋に落ちる。2人は真剣だったが、やがてズレが生じ、破局が訪れる。 以前から潔癖症の傾向があったヒューズの病みは深まり、強迫神経症の症状が顕著となる。一時は服を着ることも水に触れることも出来ず、全裸のまま暮らし、他人との接触や外出を、恐怖と感じるようになった…。 その後ヒューズは、大手航空会社「TWA=トランス・ワールド航空」のオーナーとなる。第二次大戦開始後には、政府からの資金を受けて、世界最大の輸送機の開発を進める。同時に偵察機を開発し、自らテスト飛行を行うが、墜落事故で瀕死の重傷を負う。 復帰後の彼を襲ったのは、開発が遅れていた輸送機に関し、公費の不正使用を疑うFBIの強制捜査だった。公聴会でライバル企業の息が掛かった上院議員と対決することとなったヒューズは、精神状態が著しく悪化。試写室に全裸で引き籠もって、絶体絶命のピンチを迎えた。 元恋人の女優エヴァ・ガードナーのサポートで、ヒューズは公聴会に何とか出席する。果して彼は、この難局を乗り切れるのか!? ***** 構想から実現までの8年間、ディカプリオはヒューズの伝記をはじめ、関係する本や資料を読み漁った。更には録音テープを聴き、古い映画を何本も鑑賞。その上で、ヒューズと交際していた女優も含め、彼を直接知る人々に会うなど、「ハワード・ヒューズとして」生活するところから、役作りを始めた。 ヒューズ流の、向こう見ずな“飛行術”を学んだのも、その一環。ヒューズが悩まされていた、異常な潔癖症の実際を知るためには、この病気に詳しい医者を訪ね、症状を詳しくリサーチした。“映画化”まで時間が掛かった分、ディカプリオは十分な準備ができたとも言える。 監督は、『ヒート』(95)や『インサイダー』(99)のマイケル・マンに依頼。そのマンを通じて脚本は、『グラディエーター』(2000)や『ラスト サムライ』(03)のジョン・ローガンにオファーした。 ディカプリオとマンは、ヒューズの全生涯を追ったり、狂気に侵された晩年を描いたりするのではなく、彼の若い頃に焦点を当てることにした。奇行で有名な「謎の大富豪」ではなく、“航空機”と“ハリウッド”の両方の世界で大活躍する、過激なほどの想像力と先見性を兼ね揃えた、精力的で若々しい“英雄”としての、ハワード・ヒューズである。 物語の核には、大きな2つの出来事を、据えることを決めた。それは、ヒューが20代後半に挑んだ、『地獄の天使』製作、そして1940年代、ヒューズ率いる「TWA」が、国際航空会社大手として出現した絶頂期である。本作は、「いくつかの出来事を凝縮させたり、順序を変えたり、登場人物を組み合わせたりしつつも、出来るだけ真実に近いもの」を作り出す試みだった。 そんなヒューズの20年間に焦点を当てた物語の幕を引くのは、“1947年”。ヒューズにとっては「晩年の第一歩目」とも言うべき年だったと、マンが決めたのである。 しかしマンは中途で、本作に関して監督はせず、製作に専念することとなった。では誰が、監督に適任か? 本作の脚本を、スコセッシに読むよう薦めたのは、彼のエージェント。誰が関わっている企画かは、一切隠してのことだった。実はこのエージェントは、当のディカプリオの担当も、兼ねていた スコセッシはちょうど、『ギャング・オブ・ニューヨーク』の編集で忙しかった頃。しかし渡された脚本に目を通すと、あっという間に、頁をめくるのに夢中になったという。 スコセッシがそれまでヒューズに興味を持たなかったのは、「奇人変人の類かと思っていた」という、お定まりの理由だった。そんな彼が脚本を読んで最も興味深いと思ったのは、「すごくハンサムで活力に満ちた頭の切れる若者が、自分自身の欠点に苦しむ男になった」という部分だった。 スコセッシは、監督兼プロデューサーとして渾身の力を籠めた、『ギャング・オブ・ニューヨーク』の次に手掛ける作品は、彼のフィルモグラフィーで言えば、『ハスラー2』(86)や『ケープ・フィアー』(91)のような作品と考えていた。即ち、自分が出した企画ではなく、監督として依頼された、雇われ仕事である。 そんなタイミングで、本作の企画が持ち込まれた。スコセッシは、「ハリウッドの20年代、30年代、40年代、まさにアメリカン・ドリームの一部だった頃を再現できるという魅力」に抗えず、受けることを決めた。 スコセッシは、監督に決まると、ローガン、ディカプリオと3人で、ストーリーの微調整を行った。数多くの女性と浮名を流したヒューズだが、その内の2つの恋を、最も重要だったものとしてピックアップすることに決めたのである。 それはキャサリン・ヘップバーン(1907~2003)、エヴァ・ガードナー(1922~90)という、2人のハリウッド女優との恋愛。実在の2人を演じるは、2人のケイト。ケイト・ブランシェットとケイト・ベッキンセールである。 その中でも本作で印象深いのは、ブランシェット演じる、キャサリン・ヘップバーン。ヘップバーンとヒューズには、多くの共通点があり、共に凄い野心家であったことが描かれている。 奇しくも“ケイト”という愛称だったキャサリン・ヘップバーン役を、ケイト・ブランシェットにオファーすることが決まったのは、「ゴールデン・グローブ賞」の授賞式だったという。その席でブランシェットを見たスコセッシの妻が、彼に耳打ちした。「ほら、あなたのキャサリン・ヘップバーンが見つかったじゃない」。スコセッシも、「その通りだ!」と答えたという。 オファーを受けたブランシェットは、「…正直言ってマーティン・スコセッシが監督でなかったら、こんなことやってみようとは思わなかった」という。それはそうだろう。キャサリン・ヘップバーンは、アカデミー賞主演女優賞を史上最多の4度受賞し、誰からも尊敬されている大女優。しかもこの作品の製作が本格化した頃は、存命であった。 ブランシェットは、役を外見ではなく、エネルギーの部分から自分のものにしていった。具体的には、ヘップバーンの声をよく聞いた。人がどう呼吸するかは、その人の考え方を表現する大切な要素だからである。 スコセッシ流のサポートは、シネフィルの彼らしく、“映画上映”だった。ブランシェットの移動場所に合わせて、ヘップバーンの昔の主演作=1930年代の作品を、大きなスクリーンに映し出すよう、計らったのだった。 余談になるがヘップバーンは、血液の循環が良くなるという、冷水のシャワーを浴びる習慣があった。そこでブランシェットも役作りとして、冷たいシャワーを浴びることにした。しかしこれは続かず、すぐに温水に切り替えたそうである。 1920年代から40年代という時代を再現するのに力を発揮したのは、衣裳や美術、撮影といったスタッフ陣。衣裳デザインのサンディ・パウエルは、最高に洗練された当時の豪華ファッションを再現した他、ヒューズの着こなしの変化を表現した。 撮影監督のロバート・リチャードソンは、ナイトクラブなどの実物大のセットを組む、美術のダンテ・フェレッティと、綿密に打合せ。また飛行シーンの視覚効果チームとも話し合って、色合いやカメラワークなどの同調も行った。 リチャードソン、フェレッティ、パウエルの3人は、スコセッシの相方とも言うべき、編集のセルマ・スクーンメーカーと共に、アカデミー賞が贈呈されるという形で、報われた。2004年度のアカデミー賞では本作に、その年最多の5部門が贈られたのだ。 しかし当然のように狙っていた、作品賞や監督賞、主演男優賞は、ノミネート止まり。この年度のアカデミー賞を制したのは、4部門の受賞ながら、作品賞、監督賞などに輝いた、クリント・イーストウッド監督・主演の『ミリオンダラー・ベイビー』だった。 5度目のノミネートにして、またも受賞できなかった“監督賞”のオスカーを、スコセッシが手にするのは、6度目の正直。2006年の『ディパーテッド』。 一方ディカプリオが主演男優賞を手にしたのは、本作から10年以上経った2015年の『レヴェナント: 蘇えりし者』。主演・助演合わせて、奇しくもスコセッシと同じ、6度目でのノミネートでの受賞となった。 本作に於いて、ある意味最もチャレンジャーで、しかも大勝利を収めたのは、ケイト・ブランシェットだったと言えよう。ほとんどの人が実物を知らないハワード・ヒューズと違って、誰もが知っていた稀代の名優キャサリン・ヘップバーンを演じて、初めてのオスカー=アカデミー賞助演女優賞を手にしたのだから。■ 『アビエイター』© 2004 IMF. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2024.03.01
マックィーンvsニューマン『タワーリング・インフェルノ』=“そびえ立つ地獄”の頂に立ったのは!?
1975年=昭和50年。日本に於いてこの年は、現在60歳前後となっている私のような世代の映画ファンにとっては、特別な意味を持つ。 夏に超高層ビルの火災を描いた、『タワーリング・インフェルノ』(1974)、冬には人食い鮫の恐怖を描いた、『ジョーズ』(75)。いずれも本国よりは半年ほど遅れて公開されたアメリカ映画が特大ヒットとなり、“パニック映画”ブームが最高潮に達した。それと同時に、“超大作”が全国数百館のスクリーンを占めて一斉公開される、“ブロックバスター”の時代が、本格化していく。 我々の世代の多くは、リアルタイムでこれらの作品に魅せられたのがきっかけで、“映画少年”になった。人生の羅針盤が、ここで狂った者が少なくない…。 本作『タワーリング・インフェルノ』の企画の発端は、ハリウッド2大メジャーの“競合”からだった。ワーナー・ブラザースが「ザ・タワー」、20世紀フォックスが「グラス・インフェルノ(ガラスの地獄)」という、それぞれ超高層ビルの火災を描いた小説の原作権を、30~40万㌦もの大金を投じて、買い入れたのである。 2つの小説は、ビル火災発生の状況設定など類似点が多かった。そこで両メジャーの橋渡しに登場したのが、アーウィン・アレン(1916~91)。 アレンは、コロムビア大学でジャーナリズム学・広告学を専攻後、雑誌の編集、ラジオ番組の製作、コラムニスト、出版のエージェントなどを経て、映像業界へ。60年代にはプロデューサーとして、「宇宙家族ロビンソン」「タイム・トンネル」「巨人の惑星」などのSFドラマを手掛け、TVのヒットメーカーとなった。 映画界にその名を轟かせたのは、1972年に公開された、『ポセイドン・アドベンチャー』。大津波によって転覆した豪華客船からの決死の脱出劇を描いたこの作品は、世界中で大ヒットとなり、“パニック映画”ブームの先駆けとなった。 そのアレンが、ワーナーとフォックスに、無駄な競作を避け、両原作の良いところ取りをしたストーリーを組み立てて、共同製作をする話を提案したわけである。両社は73年10月に合意に達し、このプロジェクトに、合わせて1,400万㌦の巨費を投じることを決めた。 アレンは、『ポセイドン・アドベンチャー』で大成功を収めた方法論を以て、本作の製作に取り掛かる。~キャストには有名スターをズラリと揃え、彼ら彼女らを災害の渦中に放り込む~~特殊効果を駆使して、大勢のエキストラが命を落としていく中で、スターたちも次々と犠牲になる~~最終的に、スターの何人かが生還を果す~ 74年春、キャストが固まった。2大メジャーが手を組んだ以上のニュースとなったのが、2大スターの共演。それは、スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンという組合せだった。 脇を固めるのも、ウィリアム・ホールデン、フェイ・ダナウェイ、フレッド・アステア、リチャード・チェンバレン、ジェニファー・ジョーンズ、シェリー・ウィンタース、ロバート・ヴォーン、ロバート・ワグナーといった、新旧取り合わせて豪華な面々。その一翼には、アメフトのスーパースターで、後に元妻殺しで“時の人”となってしまう、O・J・シンプソンも加わっていた。 これらのオールスターキャストが、いわゆる“グランドホテル形式”で、災害の中で様々な人間模様を繰り広げていくわけだが、何と言っても、耳目を浚ったのは、マックィーンとニューマン!当時としては、これ以上にない、ビッグなカップリングであった。 そして本作『タワーリング・インフェルノ』は、74年5月にクランク・イン。70日間の撮影へと突入した。 ***** サンフランシスコに、地上520㍍の偉容を誇る、138階建ての超高層ビル「グラスタワー」が完成。最上階のプロムナードルームには、上院議員や市長などのVIPをはじめとした300名を集め、落成記念パーティが開かれることとなった。「タワー」の設計者ダグ(演:ポール・ニューマン)は、これを機に施工会社を退職することを決意。婚約者のスーザン(演:フェイ・ダナウェイ)と、砂漠へと移り住む計画だった。 しかし電気系統の異常が起こったことから、ダグは自分が指定した仕様より安上がりな材料を使った、大規模な手抜き工事が行われていることを知る。ダグは施工会社の社長で、ビルのオーナーでもあるダンカン(演:ウィリアム・ホールデン)に、「タワー」オープンの延期を迫るが、相手にされない。 危惧は的中し、81階の配電盤のショートから出火。火は、徐々に燃え広がっていった。 オハラハン(演:スティーヴ・マックィーン)をチーフとする消防隊が出動する。火災の状況を見た彼は、ダンカンを半ば脅すように説得。最上階から賓客たちを、1階へと下ろすことを承知させた。 ようやく避難が始まる中で、それを嘲笑うように火の手は広がっていく。消防隊員を含めて犠牲者が増えていく中で、オハラハンとダグたちは、一人でも多くの命を救おうと、粉骨砕身の働きをするが…。 ***** 2つの小説からエキスを抽出して、1本のシナリオにしたのは、スターリング・シリファント。『夜の大捜査線』(67)でアカデミー賞脚色賞を受賞している彼は、『ポセイドン・アドベンチャー』で、ポール・ギャリコの原作をベースに、オールスターキャストによる、“パニック映画”の鋳型を作り上げた実績を買われての、起用である。 本作では、原作に書かれた、登場人物たちの絡みは極力簡略化。救助活動が行われている最中に、トラブルが起きて、その方法がダメになる。そこで新たな救助のやり方を見つけ出すが、まだダメになる。更に次の方法を見つけて…といった形で、アクションを伴ったハラハラドキドキの展開を、積み上げた。 監督に選ばれたのは、ジョン・ギラーミン。『ブルー・マックス』(66)『レマゲン鉄橋』(69)などの戦争映画で評価されていた。 と言っても本作は、4つのグループが同時にカメラを回すという、製作体制。ギラーミンは主に、ドラマ部分を担当。アクションパートを、プロデューサーのアーウィン・アレンが監督した他に、特殊効果班、空中シーン班が稼働した。 ミニチュアやセットなどを担当したのは、『ポセイドン・アドベンチャー』のスタッフ。ミニチュアと言っても、138階/520㍍の「グラスタワー」の模型は、33㍍の高さに及んだ。「タワー」が、サンフランシスコ市街の上方高くそびえ立っているように見せるためには、マットペインティングの特殊技術が併用されたという。 ロサンゼルスの20世紀フォックスのスタジオに在る、8つのサウンドステージには、57という記録的な数のセットが組まれた。その中には、宙づりになった展望エレベーターをヘリコプターで吊るシーンを撮るために作られた、4階分の高さの建物のセットなどもある。 CGなどない時代の、大火災の映画である。セットを実際に燃やしながら撮影しても、俳優の演技が良くない時がある。そうした場合のため、セットは1度火を付けても、後でまた使えるように、特殊建材を使った耐火仕様。NGが出ると、スタッフがすぐさま、壁を直してペンキを塗り替え、カーペットや家具、カーテンなどを新品に交換して、撮影が続けられた。 30万㌦を投じ、全長100㍍、1万1,000平方㍍に及ぶ最大級のセットが作られたのは、落成パーティの場となる、最上階のプロムナードルーム。クライマックスシーンの撮影のため、鉄柵で5㍍もある支柱を組み、その上にセットを組み立てた。4,000㍑もの水を一気に流した際に、スムースになだれ落ちる構造となっている。ネタバレになるが、このような作りにしないと、映画の内容と同じく、キャストが溺死する危険性があったという。 こうしたセットの中で、3,000人ものエキストラが右往左往。25名のスタントマンが、高層ビルの窓をぶち破って飛び降りたり、エレベーターのシャフトや階段の吹き抜けに転落したり、不燃性のボディスーツを着込んで火だるまになったりしたのである。 そんな大プロジェクトの頂点に居たのが、スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンだった。 マックィーンは1930年生まれ、ニューマンは4歳年長の26年生まれで、本作の頃は共に40代。アクターズ・スタジオ出身の2人は、TVやブロードウェイを経て、ハリウッド入り。60年代から70年代に掛けて、TOPの座を競い合ってきた。 とはいえ、「犬猿の仲」というわけではない。スピード狂でカーレーサーでもあるという共通の嗜好があり、また映画製作の場でスターが発言権を強めるためのプロダクション「ファースト・アーティスツ」の同志でもあった。 だが2人がそのキャリアを通じて、ライバル心を抱き合ってきたのも、紛れもない事実。特にマックィーンがニューマンに対して抱いてきた感情は、強烈なものだったと言われる。 ポール・ニューマンの出世作となったのは、実在のプロボクサーに扮した、『傷だらけの栄光』(57)。実はこの作品に、マックィーンも、出演している。 と言っても、日給19㌦で雇われた、エキストラに毛が生えた程度の役どころで、その名はクレジットもされていない。監督のロバート・ワイズ曰く、まだ無名の存在だったマックィーンの「精一杯の生意気な態度」が目を惹いたので、「ニューヨークの屋上の乱闘の場面での“小僧”の役」に付けたのである。 因みにワイズはこの9年後に、人気スターとなったマックィーンの主演作『砲艦サンパブロ』(66)を監督。時の流れを痛感したという。 ニューマンとマックィーンの次なる因縁は、『明日に向って撃て!』(69)。ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドという、19世紀末の西部に実在した2人組のアウトローを主役とするこの作品では、ニューマンの出演が早々に決定。その後共演者の候補として、マーロン・ブランドやウォーレン・ベアティ、マックィーンの名が挙がった。中でもニューマンが、特に共演を切望したのが、マックィーンだった。 実はニューマンとマックィーンのエージェントは、同一人物。そのエージェント、フレディ・フィールズは2人の共演を実現するために奔走するも、最終的に不調に終わる。マックィーンが自分の名を、ニューマンより先にクレジットすることにこだわったためだったと言われる。 結果的にマックィーンがやる筈だったサンダンス・キッド役には、ロバート・レッドフォードが抜擢され、作品の大ヒットと共に、一躍スターダムに。ニューマンとレッドフォードは、生涯を通じての親友ともなった。 因みに『明日に向って撃て!』が公開された翌70年、カリフォルニアのスピードウェイで、ニューマンとマックィーンの2人が、レースを見て楽しむ姿が、地元の9歳の少年に目撃されている。少年曰く、ニューマンがマックィーンに、『明日に向って撃て!』に出なかったことをくどくどと言及すると、マックィーンは「あんたはそれをもう一度俺に演らせる気は無いだろう!」と反論。そのやり取りの後、2人は突然少年の方を見て、ニヤリと笑ったという…。 さて『明日に向って撃て!』から5年経って、ようやく実現した、本作での本格的な共演。この作品へのコメントを見ると、ニューマンは、結構割り切って出演している感が強い。曰く、「この映画の本当の主役は火災だ」「この種の映画としてはいいできだった。できる限り素早くスター達を避難させ、スタントマンをつぎこんでね」 それに対してマックィーンのスタンスは、ちょっと違っていた。「最初シナリオを読んだ時は建築技師の役がいいと思ったけれど、途中で気が変わってね」 マックィーンが気に入ったのは、消防隊チーフのオハラハン。彼はずっと伸ばしていたお気に入りのヒゲを、役のために剃り落とした。そして、マックィーンが演じることで、元々はTOPから4番目だったオハラハンの役どころは、膨らんでいく。 本作の技術顧問である、本物の消防隊長とマックィーンの打合せ中に、近隣の映画スタジオで、本物の火災が発生した。参考になるからと、現場へと向かう消防隊長に同行。実地見学に赴いた際、ヘルメットと消防服を身に纏って、マックィーンは、放水を手伝ったという。 監督のギラーミンは、マックィーンから、自分が被るヘルメットが、イギリスの警官のように見えるので、どうにかして欲しいと言われ、困惑したことがあった。偶然にも撮影が始まる前夜、ギラーミンが食事に出掛けた先で、古風な消防士用のヘルメットを見つけたので持ち帰り、マックィーンに試着させた。すると気に入ってくれたので、ホッと胸を撫で下ろすという一幕もあった。 脚本に関しても、一悶着あった。マックィーンが自分のセリフの数をカウントして、ニューマンより12個も少ないことを発見。プロデューサーに電話して、セリフを増やすことを要求してきたのである。 そのため、休暇で海に出ていた脚本家のシリファントは、突然陸へと呼び戻された。彼はマックィーンの要求通り、セリフを12個増やしたという。 そして再び、ニューマンとマックィーンの共通のエージェント、フレディ・フィールズの出番が、やって来る。彼がプロデューサーのアレンと論議になったのは、ポスターなどで、2人の大スターの名前の配列を、どうするのか!? 最終的にまとまったのは、TOPにはマックィーンの名を置くということ。但し、その右側にクレジットされるニューマンの名は、マックィーンよりも高い位置に置いて、同格の主演であることを表す。 ともあれマックィーンは、ニューマンよりも先にクレジットされるという、長年の宿願を果した形になった。 2人は出演料100万㌦に加えて、総収益の7.5%の歩合という、まったく同じ条件で本作に出演。最終的には、1,000万㌦程度を手にしたという。しかしマックィーンにとって本作は、その大金以上に価値のあるものを手にした作品と言えるかも知れない。 因みに本作には、若い消防士役でニューマンの長男である、スコット・ニューマンが出演。マックィーンとの共演シーンもある。当初マックィーンは、ライバルの息子の面倒を見ることを嫌がったが、途中からスコットのことを気に入り、彼のセリフを増やすことまでOKした。その背景にも、こんな事情があったからかも知れない。 本作『タワーリング・インフェルノ』は、『ポセイドン・アドベンチャー』以上の大ヒットとなり、アーウィン・アレンは、「パニック映画の巨匠」と呼ばれる存在となった。また監督のジョン・ギラーミンも、『キングコング』(76)や『ナイル殺人事件』(78)など、大作を任される監督として、暫し君臨する。 しかしながらこの2人のキャリアのピークは、やはり本作であったと言えるだろう。アレンはその後、自ら監督まで手掛けた『スウォーム』(78)『ポセイドン・アドベンチャー2』(79)が連続して、大コケ。それならばと製作に専念し、ポール・ニューマンやウィリアム・ホールデンを再び招いた『世界崩壊の序曲』(80)で、キャリアのトドメを刺される。ギラーミンも80年代に入ると、低予算のB級作品やTVムービーの監督へと堕していく。 そしてまた、マックィーンのキャリアも、結果的にここがピークとなってしまった。本作に続いては、ヘンリック・イプセンの戯曲を映画化した『民衆の敵』(76)の製作・主演を務めたが、アメリカ本国ではまともに公開されないという結果に終わる(日本では83年までお蔵入り)。 その後『未知との遭遇』(77)や『恐怖の報酬』(77)『地獄の黙示録』(79)等々、様々なオファーが舞い込むも、すべて拒否。彼の雄姿は、名画座やTV放送などの旧作でしか見られなくなった。 待望の新作が公開されたのは、80年。西部劇の『トム・ホーン』、そして現代の賞金稼ぎを演じた『ハンター』が、相次いで公開された。ところがこの年の11月、彼はガンのために、50歳の若さで、この世を去ってしまったのだ。 ニューマンは60を過ぎて、『ハスラー2』(86)で、待望のアカデミー賞を受賞する。マックィーンは生涯手にすることがなかったオスカー像を、遂に手にしたのだ。 そしてニューマンは、70代までは第一線で活躍。2008年に、83歳でこの世を去った。 そんなことも考え合わせながら、1974年当時は未曾有の超大作だった本作を観るのも、長年の映画ファンとして、また感慨深かったりする。■ 『タワーリング・インフェルノ』© 1974 Warner Bros. 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