ザ・シネマ 尾崎一男
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COLUMN/コラム2023.09.27
4Kレストアが引き出す、天才リック・ベイカーの造形マジック —『キングコング』—
◆美麗によみがえった1976年リメイク版 おそらく今回のキングコング特集放送において、これが最大の目玉と言えるのではないだろうか。この1976年公開『キングコング』4Kレストア版、日本での放送はザ・シネマが初となる。35mmオリジナルネガから4KスキャンしたDCP素材を、現権利を管理するスタジオカナルが修復し、パラマウント・ピクチャーズがカラーグレーディングをほどこし、イタリアに拠点を置くフィルム修復ラボL'Immagine Ritrovataがレストアをおこなった、2022年製作の放送マスターだ。これまでのHDバージョンに比べ、シャープネスと明るさが段違いに強化されたものになっている。 2023年の現在、巨大モンスター映画の古典『キング・コング』(1933)のリメイクといえば、多くの人がピーター・ジャクソン監督の手がけた2005年の同名タイトル作を真っ先に思い浮かべるのではないだろうか。オリジナル版の設定をそのまま受け継ぎ、ストップモーション・アニメーションというマジカルな手法で撮られたコングをCGIでリクリエイトした同作は、ジャクソン監督が偉大なるファンタジー文学「指輪物語」を『ロード・オブ・ザ・リング』三部作(2001〜2003)に発展させたような、愛情深いアプローチこそが支持の根幹にある。 そのため、最初のリメイクである本作の存在は、郷愁やレトロスペクティブというテコを用いて強引にこじ開けないと、あまり思い出してもらえない存在になってしまった。加えて、この映画を構成する要素に同時代性が密接に絡み、それを詳述しないことには、もはや存在価値が掴みづらい。人喰いザメの猛威を描いた『ジョーズ』(1975)を起点とするパニック映画の興隆が製作動機となったことや、大物プロデューサーのハッタリに満ちた興行感覚。また当時のエネルギー危機を反映した脚本の現代的アダプトなど、それらは映画本体の画質を向上させただけではわかりかねるだろう。むしろ高精細になったことで、アニマトロニクスで創造されたコングの作り物感があらわになり、興醒めするかもしれない。 しかし愛憎半ばに揶揄しながらも、この映画の最大のセールスポイントは、油圧可動によるコングの12メートルに及ぶラージスケールの巨大モデルで、これは現代においても記録的な映画撮影用のモンスターのモックアップとしてレコードを持つ。全高12メートル、重量6.5トン 3,100フィートの油圧ホースと4,500フィートの電気配線を含むアルミニウムのスケルトンによって構成されたそれは、歩行のみならず腰を捻り回すことができ、6人の操演者によって制御された油圧バルブによって腕を動かすことができた。その表皮は有名なかつらメーカーであり、コングのヘアデザイナーであるマイケル・ディノが担当し、アルゼンチンから輸入された2トンの馬の尾でコングの体毛を作成。作業に数ヶ月をかけ、100人のアシスタントが馬の毛を4種類の網に織り込み、それをラテックスのパネルに取り付け、モデルの金属フレームに接着している。 そんなメカニカルコングのデザインは、特殊効果アーティストのグレン・ロビンソンとイタリアの特殊メイクアーティスト、カルロ・ランバルディによって考案された。製作者であるイタリア人プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティスは、もともと特殊効果担当として旧知の仲だったイタリアン・ホラー映画の巨匠、マリオ・バーヴァにコンタクトをとった。しかしバーヴァはイタリアを離れてプロジェクトに参加することを固辞し、代わりにバーヴァがランバルディを推薦したのだ。 またランバルディは、MGMの建設部門でロビンソンの指揮下、ヒロインを演じたジェシカ・ラングに絡むコングの機械アームも手がけている。それはケーブル操作によって、ラングを持ち上げるパフォーマンスを可能にしたのである。ところが安全装置がコングの指に取り付けられているため、手がきつく閉じすぎるのを防ぐ機能が、4Kクラスの解像度だと隠すことなく視認できてしまう。ラージスケールのモックアップといい、どちらも撮影現場で思うように可動せず、またロングショットではいかにも作り物然とした外観が懸念されたのか、劇中ではわずか15秒間程度しかフレームに写り込んでいない。 ・撮影現場での巨大な実物大キングコング ◆巨大アニマトロニクスとエイプスーツの実像に迫る しかし何より、このリメイク版『キングコング』のプロジェクトには致命的な欠点があった。当初、オリジナル版との差別化を明白にするために、コングのデザインがゴリラからかけ離れ、原始人のようなヒューマノイド型になっていたのだ。 これに異を唱えたのが、特殊メイクの第一人者リック・ベイカーだ。ベイカーはこのリメイク版の話を明友ジョン・ランディスから仄聞し、このありえないデザイン変更を嘆いた。そして「コングのモックアップは実用性に乏しい」と、この映画が失敗作になる確信を抱いていたのである。だが長年にわたってエイプスーツを作ってきた自分なら、愛するコングを無惨な運命から救えるのではと、プロジェクトへの参加を受諾。そしてデザインの根本的な軌道修正のために、ラウレンティスや監督のジョン・ギラーミンらを自宅に招き、自作のゴリラスーツ着込んで「コングはこうあるべきだ」というプレゼンを仕掛けたのだ。 ベイカーのパフォーマンスをいたく気に入ったラウレンティスは、プリプロダクションで彼をランバルディと競合させ、コングのコンセプトスーツを製作させた。そのさいランバルディはコング役のアルバート・ポップウェルに適合するように、かたやベイカーは自分自身を念頭に置いてコングをデザインしている。そして二人が半仕上げのスーツを提示したところで、ラウレンティスは後者のものを選んだのだ。ベイカーは『キングコング』がピントの外れた原人映画になることを防いだだけでなく、タイトルキャラクターをメインで創造する主導権を得たのである。 ◆1976年版はモデルアニメのアンチテーゼだったのか? 『キングコング』における、これらのプラティカルな取り組みは、高度な特殊効果に目なれた当時の観客に目配りすると同時に、ストップモーション・アニメーションに対するアンチテーゼでもあったとも言われている。しかし実際は予算と制作期間の都合から必然的にきたもので、ラウレンティスは企画当初、アニマトロニクスとストップモーションの併用を漠然と考えていたようだ。事実、モデルアニメーションの大家であるレイ・ハリーハウゼンに打診をしたものの、ストップモーションアニメにかけられる期間が足るものではなかったため、ハリーハウゼンはオファーを蹴っている。 こうした弱点を補強する形で、実物大のモックアップを作成し、またオリジナル版のエンパイア・ステート・ビルに代わって、当時新しく建設された世界貿易センタービルをクライマックスの舞台にすることで、この毀誉褒貶のリメイク版は現代ナイズを正当化させたのである。■ 『キングコング【4Kレストア版】』© 1976 STUDIOCANAL
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COLUMN/コラム2023.08.09
『北京原人の逆襲』私史 ―怪獣映画少年はいかに本作を愛したのか―
◆香港を破壊する巨大猿人のファーストインパクト 天突くほどの巨大な古代猿人が、香港の街を破壊するモンスターパニック映画『北京原人の逆襲』(監督/ホー・メンホア)は、『道』(1954)『天地創造』(1966)のディノ・デ・ラウレンティス製作、『タワーリング・インフェルノ』(1974)のジョン・ギラーミン監督によるリメイク版『キングコング』(1976)の製作に触発されて始動した企画だ。3000万ドルという、当時としては巨額のバジェットを誇る前者に対し、わずか50万ドル(600万香港ドル)という低予算で対抗したにもかかわらず、本家よりもはるかに面白い作品となった。 この「『キングコング』以上に面白かった」というのは、本作を語るうえでテンプレのごとくついてまわる常套句だが、決して盛ったものではなく、日本公開時に小学生だった筆者(尾崎)がオンタイムでそれを実感している。なにしろ開巻からいきなり巨大猿人“北京マン”(吹替版本編での呼称に準拠。以下同)が登場し、村を容赦なく蹂躙するのを見せられては、始まって30分経たないと全体像を見せないキングコングの分が悪くなるのも当然だ。加えて本作のヒロイン、野生美女サマンサ(イヴリン・クラフト)の気持ち程度のアニマル革をまとった半裸姿も、思春期前の少年には相当に刺激が強いものだった。 そしてなにより、半端でないスケールのミニチュアと着ぐるみを駆使した同作の特殊効果が、驚くほど日本人である自身のDNAに馴染むものだったのだ。 それもそのはずで、本作の特技撮影は『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967)の特技監督として知られる有川貞昌を筆頭に、東宝の優れた特撮スタッフが製作元のショウ・ブラザースに招聘されて担当しているからだ。 当時の東宝怪獣映画は、円谷英二の死去にともなう1969年の特殊技術課の廃止以降、ゴジラシリーズを子ども向けの低予算映画としてシフトチェンジさせ、残存スタッフでその命脈を保ってきた。それも1975年の『メカゴジラの逆襲』で休眠期に入り、本格的な怪獣映画の製作は1984年の『ゴジラ』まで潰えてしまう。 その間『日本沈没』(1973)や『ノストラダムスの大予言』(1974)などのパニック映画は折に触れて製作されていたし、私的にはまだ見ぬ『スター・ウォーズ』(1977)の公開に胸躍らせて飢餓感はなかったが(同作の日本公開は1978年7月1日)、それでも怪獣映画こそ心の花形だった少年は、なんともいえない心の空洞を感じていたのだ。 そんな状況下で、東宝のサウンドステージの数倍はあろうかというショウ・ブラザースのスタジオに、香港の街をミニチュアで精密に再現し、巨大なクリーチャーを大暴れさせた同作は、黄金期の東宝怪獣映画を彷彿とさせるものだったのである。 ◆東宝特撮映画の道筋を変えたかもしれない存在 ショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)は1950年代後半から〜1970年代末まで香港映画の黄金時代を牽引した映画会社で、技術的な発展を視野に入れた同スタジオは、日本の撮影スタッフを積極的に招き入れていた。『北京原人の逆襲』は同社にとって初の本格怪獣映画として、日本の優れた特撮スタッフが持つノウハウを希求したのだ。 後年、筆者はこの映画の特撮班に助監督としてたずさわった川北紘一氏と、インタビュー取材やトークショーの相手役として何度かお仕事をご一緒させていただき、この『北京原人の逆襲』について話を聞いたことがある。そのとき川北監督は、「当時は映画の仕事がなかったからさ、ついていくしかなかったんだよ」とニコニコ笑いながら参加の動機を答えていたが、事実、それは先に記した東宝特撮映画の動向に裏付けられるだろう。ただこの仕事を境に川北は『さよならジュピター』(1984)の企画にほどなく関与し、また東宝の田中友幸プロデューサーが主導してきた「ゴジラ復活委員会」に尽力し、後に平成ゴジラシリーズの特撮監督を担っていく。こうした怪獣映画ルネッサンスの布石として、『北京原人の逆襲』の影響力は小さくないものと筆者は捉えている。いささか極論かもしれないが、1976年のあの段階で川北の香港渡航がなければ、以後の東宝特撮映画の流れはもう少し違ったものになっていたかもしれない。 しかしこうして力説するほどに『北京原人の逆襲』が重要視されているかというと、当方の熱量とはいささかの温度差がある。 『キングコング』の対抗馬として世に出ながら、本作は撮影スケジュールの遅れから本家より半年後の公開となった。そのもくろみ外れは興行に影響し、初公開後の1週間でわずか120万香港ドルの興行収入しか得られなかった。そして限定的なインターナショナル公開の後、1979年にはアメリカでは『GOLIATHON』と改題され、短縮バージョンで短い期間に配給され、知られざるまま消えてしまったのだ。 それから20年後の1999年、『パルプ・フィクション』(1994)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(2019)の監督クエンティン・タランティーノが、当時パートナー関係にあった映画会社ミラマックスをスポンサーにして立ち上げたレーベル「ローリング・サンダー・ピクチャーズ」とカウボーイ・ブッキング・インターナショナルの共同によってオリジナル版が再公開され、全米20か所で深夜上映された。 不遇にあったこの傑作が 晴々しい復権を得た瞬間である。 ◆出藍の誉、ここに極まれり それにしてもなぜ『北京原人の逆襲』に、自分はここまで惹かれるのだろう? 映画の出自が出自だけに、当然ストーリーは『キングコング』の鋳型に収めたような定型的なものだ。興行師が金儲けのために未踏の地で発見した巨大猿人を捕獲し、その存在を見せものにした興行を打とうとする。だが猿人は制御を失い、大都市に放たれて大暴れをする。彼が唯一心を通わせるヒロインの存在といい、どこまでも“美女と野獣”の寓話に忠実である。クライマックスで猿人が、自国を象徴する高層建築によじ登っていくところまで、折目正しく踏襲している。 しかし、こうした類似性に観る側も自覚的であれば「では違う部分はどこなのか?」と比較し、能動的に作品と接していくことになる。だから余計に『北京原人の逆襲』の良点が鮮やかに映るのだ。 また同作の公開時、仮想敵だった『キングコング』はすでに公開から1年が経過しており、比較対象として俎上にさえ上がらなかったことや、このギラーミン版はむしろ、1933年製作のオリジナル版『キング・コング』との比較にさらされ、作品自体の評価がネガティブに固定してしまった。それが『北京原人』の高評価の底上げになったといえなくもない。 また当時はそこまで思慮深く意識していなかったが、本家『キングコング』に先駆けて公開してやろうという『北京原人の逆襲』の哲学は、東宝が『スター・ウォーズ』公開までの間に『惑星大戦争』(1977)を製作したのと似たものを覚えてしまう。そんな同作のエクスプロイテーションを標榜する姿勢に、肌感覚で同じようなテイストを感じたのだろう。 そして日本を代表するベテラン造形師・村瀬継蔵が創造した北京マンのままならぬ容姿も、「猿人系モンスターはブサイクである」という東宝怪獣の屈折した美学にのっとっており、そこもまた同作に肩入れする要素だったといえる。 これらが複合的に撚り合わさり、『北京原人の逆襲』は当時の少年の心をグッと捉えたというのが、オンタイムで同作を観た者の剥き身の体験談である。映画史には残らないかもしれない、しかしこの映画の存在は、怪獣映画ジャンキーだった筆者の私史にしっかりと刻みつけられている。■ 『北京原人の逆襲』© 2004 CELESTIAL PICTURES LTD. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.07.27
“生身の戦い”に勝るものなし『レイジング・ファイア』
◆香港アクションの旗手ベニー・チャン最後の作品 正義感に燃えるチョン警部(ドニー・イェン)は、何年も追っていた凶悪犯ウォンによる麻薬取引現場への踏み込み捜査を直前に外され、代わりに向かった捜査員らが何者かによって殺害、麻薬も奪われてしまう。そして容疑者として浮かび上がったのは、チョンに恨みを抱く元警官のンゴウ(ニコラス・ツェー)だった……。 2021年公開の香港・中国合作によるアクション映画『レイジング・ファイア』は、かつては同じ警察組織で正義を全うしようとした二人の男が、善と悪とに立場をたがえ、怒りの拳を交える対立を描いた、身を切るような悲壮さに満ちた復讐劇だ。 本作はもともとメキシコの麻薬カルテルと香港警察との対立を描いたストーリーを映画化する予定で、撮影もおこなったが、製作費が莫大となって企画がペンディング状態に陥った。そんな窮状を見かねたドニー・イェンが監督のベニー・チャンを励まし、映画は軌道修正されて『レイジング・ファイア』として完成をみたのである。 だが残念なことに、ベニー・チャンは映画が公開される前年の8月に上咽頭がんのため亡くなり、作品の興行的成功を見届けることはできなかった。『香港国際警察/NEW POLICE STORY』(2004)を筆頭とするジャッキー・チェンとの一連のアクション作品や、ラリー・コーエン原案の携帯スリラー『セルラー』(2004)のリメイク『コネクテッド』(2008)など、堅実な職人ぶりで幅広い層のファンを得ていただけに、早逝を惜しむ声は多かった。そんなベニーの形見のような作品として、本作は忘れがたい印象を放つものとなったのである。 特に監督と同い年だったドニーの落胆は大きく、「ベニーの死は、人生には多くの悲しみを目撃しないといけないことや、手放さなければならないことがあるのを悟らせる。私は今も彼の笑顔を感じて、自分のもとを去っていったような気がしないんだ」と語っている。テレビドラマ『クンフー・マスター 洪熙官』(1994)や、『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972)のテレビ版リメイク『精武門』(1995)で仕事を共にし、以来、違う道程で同時代を走ってきた仲間への、惜しみない賞賛を含んだ別れのメッセージだ。 ◆善と悪とに袂を分つ、かっての同志 二人の警察官が袂を分かち、戦い合うという設定は、ハリウッド映画では定番ともいえるエモーショナルなものだ。たとえばコンピュータハッカーたちの決別と対立をテーマにした『スニーカーズ』(1992年 監督/フィル・アルデン・ロビンソン)や、秘密任務の犠牲となった部隊が国家に復讐をなそうとする『ザ・ロック』(1996年 監督/マイケル・ベイ)などが、その代表格といえるだろう。最近だと、キャプテン・アメリカとアイアンマンが正義行動の行方をめぐって対立する『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2016年 監督/ジョー&アンソニー・ルッソ)が、この条件に合致するものとして記憶に新しい。 このようなテンプレートはアクションを際立たせ、特に顕著なのは映画のクライマックスで展開される、市街地での白昼の銃撃戦だろう。同シークエンスはマイケル・マン監督によるクライムアクション『ヒート』(95)を彷彿とさせるもので、発砲が始まると同時にかの名作を連想した人は少なくないだろう。奇しくも『ヒート』がアル・パチーノとロバート・デ・ニーロという二大俳優の顔合わせで耳目をさらったように、ドニーとニコラスの15年ぶりの共演も、これになぞらえることができる。 ドニー・イェンとニコラス・ツェーの共演は、香港の伝統的アクションコミックを映画化した『かちこみ!ドラゴン・タイガー・ゲート』(2006)以来となる。単に同じ作品に出演したというだけならば、二人には2007年公開の『孫文の義士団』(監督/テディ・チャン)があるが、本作では二人が同じフレームに収まり、そして彼にアクション指導をしたという、密接なコラボレーションを果たしているのだ。 そして『レイジング・ファイア』は『ヒート』の反復などではなく、さらにそこから先を大胆に攻め込んでいる。それが最後の、ドニーとニコラスが教会で繰り広げる格闘シーンだ。 片や両手にバタフライナイフ、片やスティックを手にした凶器戦から、ステゴロ(素手喧嘩)のバトルへとなだれ込んでいくこの展開にこそ、本作の価値と独自性を実感することができるのだ。そしてかつての盟友どうしが拳を交える、悲壮なクライマックスを繰り広げていくのである。 ドニーがディレクションしたアクションは、持てる力をすべて振り絞って出したようなハイレベルなもので、谷垣健治を筆頭に、ドニーのスタイルを映画に落とし込むことのできる優秀なスタントコーディネーターが配された。その成果は2022年の香港フィルムアワードの最優秀アクション・コレオグラフィー賞(電影金像奨 最佳動作設計)を受賞したことで明白だろう。 ◆ドニー・イェンを体現する劇中のキャラクター なにより筆者はこの最終バトルに、かって『かちこみ!ドラゴン・タイガー・ゲート』のインタビューでドニー・イェンが放った、以下の発言を思い出さずにはおれない。 「このジャンルはワイヤーワークやCGの発達によって、年を追うごとに見せ場の演出がエスカレートしていく。なので、それが常に新鮮であるのはとても難しいんだ。だからこそ、生身の戦いやファイター同士の精神こそが、いつの時代にも新鮮さを保つんだよ」 まさにその言葉を体現するかのような、ドニーとニコラスの一騎打ち。そこにドニー・イェンの役者哲学の実践を見たように感じられてならない。“生身の戦い”に勝る普遍性などあろうか、と——。 なにより、ドニーのアクションに対する真摯で実直な姿勢は、そのまま劇中、聞き取り調査の席で警視監に正義への理念を吐露する、チョン警部にぴったりと重なるのである。 「(警察は)命を懸けて全うする仕事なのか? と若い警官たちは思うだろう。だがいつしか、プライドを持って奮闘することになる。危険を顧みず、犠牲をも恐れない。そして(自分たちがなすべきは)仕事を減らすことではなく、より良い仕事をすることだと考えるのだ」 腐敗した警官組織の中で正しさを維持しようとする主人公の言行は、アクションスターとしてのドニーの哲学に重なっていく。市場の拡大と共に映画のスケールも巨大化したアジア映画において、こうした基本をまっとうするドニー・イェンの姿に、映画においてもっとも重要な不変の魂を感じるのである。 ちなみに本作の最初のバージョンは、ランニングタイムが約3時間におよぶ「ディレクターズ・カット版」が編集で調整され、このバージョンはそれをさらにタイトにまとめたものとなる。カットの影響としては、ニコラス・ツェーの役が本来もっと邪悪な存在だったものが、ややソフトになったとのこと。いつか完全版が公開される日を待ちたい。■ 『レイジング・ファイア』© 2021 Emperor Film Production Company Limited Tencent Pictures Culture Media Company Limited Super Bullet Pictures Limited ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2023.05.29
『ツイスター』に隠顕する“ゴジラ”の存在
◆竜巻を追うストームチェイサーたちの衝突 1996年に公開されたアメリカ映画『ツイスター』は、米オクラホマ州で発生する竜巻(トルネード)に追跡システムを巻き込ませ、動きのジオメトリーデータを得ようとするライバルチームの衝突を描いたパニックアクションだ。物語の性質上、作品には巨大竜巻の猛威が見せ場として用意され、その破壊描写は怪獣映画並みのスケールを放つ。 怪獣映画といえば、本作の監督を務めたヤン・デ・ボンは、初のハリウッド版“ゴジラ”を監督デビュー作『スピード』(94)の後に手がける予定だった。しかし製作費の試算を兼ね、視覚効果のテストフィルムを大手VFXファシリティ(一説にはソニー・ピクチャーズ・イメージワークスと言われている)に作成させたところ、約1億2500万ドルという巨額が計上され(規定の予算は7000万ドルだった)、製作は難航。デ・ボンはプロジェクトを離脱したのである。結果的に侵略SF大作『インデペンデンス・デイ』(96)で大ヒットを記録したローランド・エメリッヒ監督が後を受け継ぎ、1998年に映画『GODZILLA』として完成を見ることとなる。ここで同作の真価を問うことはしないが、『トゥームレイダー2』(03)の取材で筆者が会ったデ・ボンいわく、「あれ(エメリッヒ版)は僕の知っているゴジラではないね。もし機会があるのならば、今でもゴジラ映画をやりたいと思っているよ」と後悔の念をにじませていた。 そのため、デ・ボンはゴジラに対する未練から、似た傾向のパニック映画をでっち上げたのだと思われがちだ。しかし『ツイスター』の企画は1994年から存在し、もともとはマイケル・クライトンとスティーヴン・スピルバーグの『ジュラシック・パーク』(93)コンビによる続投作品として温存されていたものだ。しかしスピルバーグは同作と『シンドラーのリスト』(93)を連作したために監督業の休止期間を置き、デ・ボンは『スピード』を観たスピルバーグから「監督を頼めないか」と打診されたのである。 なによりデ・ボンはシネマトグラファーとしての実績が長く、監督としては遅咲きだった。そのため前途多難なゴジラにキッパリと見切りをつけ、間を置くことなく『ツイスター』へと移行。好機を逃したくないという意識がはたらいたのである。 それでも『ツイスター』に、ヤン・デ・ボンが果たせなかったゴジラの幻像を見る人は少なくない。そこにはエメリッヒの『GODZILLA』が、ファンの望むゴジラ像とかけ離れていたことが起因として存在する。そして後述するが、デ・ボンの描いていた物語設定が魅力的だったことも要素として挙げられるだろう。 しかしながら、この竜巻パニック映画の制作プロセスをたどると「…やはりゴジラは無理だったのでは?」という印象も拭うことはできない。それほどまでに『ツイスター』は、デ・ボンの視覚スタイルにVFXを調合させるのがいかに難しかったかを示しているのだ。 ◆無軌道なカメラワークに竜巻をどう合成するのか? 先述したように、ヤン・デ・ボンはシネマトグラファーとして『ダイ・ハード』(88)や『ブラック・レイン』(89)『レッド・オクトーバーを追え!』(90)などのヒット作に関わり、独自の撮影スタイルを築き上げてきた。カメラモーションは多動的で、遠景から被写体へと寄る広範囲な空撮やドリー移動を好んで用い、加えてドキュメンタルなタッチを標榜し、カメラワークは不規則な動きをともなうシェイキーな傾向にあることを諸作が語っている。常時6〜8台のカメラを同時に駆使してショットを多く得るうえ、アクションと同時に会話が進行する素早い作劇演出を特徴としている。たとえば『スピード』の場合、主演のキアヌ・リーブスにスタントダブルをつけない方向で撮影がおこなわれている。それらの姿勢が『ツイスター』でも応用され、しかもなるべく現場でプラクティカル(実用的)な特殊効果を用い、ライブの臨場感を得ようとしたのだ。 ところが、竜巻の前兆となる曇天や雲の急激な動きの変化などはかろうじてフォローできたものの(不幸にも撮影時は好天続きだった)、さすがに本物をカメラに収めることまではできなかったのだ。そこで全ての竜巻をCGで創造し、それを実景にマッチムーブ(動きを含むプレートどうしを一致させ、合成するプロダクション処理)させる手段をとったのである。 こうした合成を可能にするためには、今でこそ最適なマッチムーブソフトウェアが存在するが、当時はボールのようなオブジェクト(対象物)を設置し場面同期のガイドを得て、マッチムーブ専門アニメーターの職人的な作業が創造を担っていた。だがデ・ボンのような複雑なカメラワークを常道とするものは、こうした手順をいっそう困難なものにさせたのである。 そこで本作では、ショット内に写り込んでいる建造物や木といった実景要素をオブジェクトにして、それらをコンピュータ上で生成した3Dの背景プレートに、2Dソフトでカメラの揺れや不規則なモーションを加えるという、初歩的だが非常に手間のかかるカメラトラッキングで対処したのだ。それらの開発は視覚効果ファシリティのILM(インダストリアル・ライト&マジック)が担当し、難題を解決へと導いたのである。 ◆現代において実感する『ツイスター』の画期性と挑戦心 こうして『ツイスター』の技術的な達成を称賛する反面、実作業の難易度はとてつもなく高く、これをテストケースにゴジラの実現を考慮しても見とおしが立ちにくい。事実、デ・ボンは、「『ツイスター』は『ゴジラ』と似ているようで違うものだ」とコメントし、自ら『ツイスター』とゴジラとの関連性を積極的には語っていない。そこには予算だけでなく、やはり自分の映像スタイルをゴジラに落とし込むことが難しい、技術的な問題があったのだと思えてならない。 1994年の第7回東京国際映画祭・京都大会のオープニングで『スピード』が上映されたとき、来日したヤン・デ・ボンは登壇して挨拶をおこなった。そこで氏は「僕のゴジラはスピーディで動きの激しいものになる」といった旨の宣言をし、場内を大いに沸かせている。事実 彼のゴジラは破壊を繰り返しながら北アメリカを縦断し、東部で待ち受ける巨大怪獣グリフォンと戦う「VS怪獣もの」になる予定だった。その激しいスピード感と移動感覚は、ある意味『ツイスター』の竜巻に換装されている。 2023年の現在、アクションを旨とする大型の映画は、スタジオに背景映像を投影して仮想現実空間を構築し、役者の演技やカメラモーションを得る「ヴァーチャル・プロダクション」が主流となっている。だが『ツイスター』は、スタジオに撮影の軸足を置かず、そのほとんどをライブでの撮影に求め、プラクティカルとデジタルエフェクツの両方をサポートさせて構築した、最後期の作品といえるだろう。 今やバーチャル・プロダクションは、実景によるロケーション撮影と見紛うほどのレベルとクオリティに達している。しかしライブがもたらす臨場感は俳優の演技のテンションを高め、おのずと観る者に説得力をもって伝わってくる。『ツイスター』は、こうした要素の創出に大きく貢献したのだ。 人間は何事もあきらめが肝心である。筆者は『ツイスター』の画期性を特記することで、幻に終わったヤン・デ・ボン版ゴジラへの決別をうながそうとしたが、むしろ火に油を注いで再燃させてしまったのかもしれない。 ちなみにデ・ボンは実際にゴジラを2シーン撮影したと取材で述べている。ひとつはエメリッヒ版のティーザー予告にもあった、ゴジラが背びれを浮かせて海上を進み、湾岸から上陸するまでのシーン。そしてもうひとつは、作戦本部で日本人の司令官がゴジラ迎撃の指揮をとるシーンだったという。この日本人司令官を演じているのが、誰あろう高倉健で、これらのフッテージ(未公開映像)はソニー・ピクチャーズの倉庫に眠っているというのが、デ・ボンのインタビュー時の見解である。■ 『ツイスター』© 1996 Warner Bros. and Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.04.10
「第2の挑戦」に想いを馳せて —『レモ/第1の挑戦』
◆殺人機械シリーズをライトに映画化 殺人罪の極刑を受け、死刑を執行された警官ウィリアムズ。だがそれは見せかけで、彼は蘇生され、ケネディ大統領によって発足された秘密機関《CURE》の特殊工作員として新たなキャリアを得る。そしてスーパーナチュラルな武術《シナンジュ》を会得し、銃器を必要としない殺人機械=デストロイヤーとなり、国益をおびやかす脅威的な敵を駆逐していく——。 元記者/編集者であるウォーレン・マーフィーとリチャード・サピアを生みの親とするアクションキャラクター《レモ・ウィリアムズ》は、1971年に出版された「デストロイヤーの誕生」を起点に、2023年の現在までに153巻のアドベンチャーノヴェルシリーズで活躍を繰り広げている。1985年公開のアメリカ映画『レモ/第1の挑戦』(以下『レモ』)は、そんなレモを新たなスクリーンヒーローとして、小説同様のシリーズ展開を企図された一本だった。 同作は前述の「デストロイヤーの誕生」から基本的なコンセプトと設定を受け継ぎ、アメリカの軍需産業で暗躍する腐敗した武器商人へと敵を替え(原作ではマフィア組織)、世界観を初っ端から大きく拡げている。 なにより本作がシリーズとして連続性を要求されたのは、ガイ・ハミルトンを監督に据えたことからも明白だ。スパイアクション映画の総本山ともいえる『007』シリーズを過去に4本も演出した人物から、そのノウハウを伝授してもらおうというのが製作サイドの狙いとしてあったのだ。 残念ながら『レモ』は大ヒットに恵まれず、シリーズ化のもくろみは潰えてしまったが、作品は恒久的にファンを増やし、現在もカルトな人気を誇っている。要因はフレッド・ウォード(『ライトスタッフ』(83)『トレマーズ』(90))演じる主人公レモの、観客の視座に寄せた大衆的なヒーロー像や、彼に奥義シナンジュを伝授する韓国人チュン(『キャバレー』(72)のジョエル・グレイ)の超人かつ禁欲的なキャラクターが、多くの人の心を捉えて離さないこと。加えてユーモアとシリアスを絶妙にブレンドさせた作風や、レモが恐怖心を抑制したすえに展開する極限アクションなどが挙げられる。 ◆ヒッチコックを超えろ! 自由の女神像でのアクション とりわけアクション面における本作の成果は大きく、そこはハミルトンの人選が奏功したといえる。氏はいわゆる「スネークピット(混乱のるつぼ)」を設定する達人として、その腕前を存分に発揮したのだ。特にそれが顕著なのは、本作最大の見せ場ともいえる、自由の女神像を舞台とするアクションシークエンスだろう。 当該描写は「デストロイヤーの誕生」にはないオリジナルで、発案はハミルトンによるものだ。本作のプリプロダクション当時、自由の女神は建造100周年を目前とした修復中にあり、周りが作業のために鉄骨の足場で囲まれていた。これを見た監督自身が、本編の見せ場にもってこいの場所だと判断したのだ。 自由の女神を用いたアクションシークエンスといえば、1942年にサスペンスの巨匠アルフレッド・ヒッチコックが発表した『逃走迷路』がそれを実現させていた。しかしハミルトンは、その見せ場をリアプロジェクション(背景投影)やマットペイント(合成画)、あるいはトラベリングマット(移動合成)といった特殊効果で加工せず、全てをライブで撮りきるプロセスに挑んだのだ。女神像のモックアップ(実物大模型)を用いるところは『逃走迷路』を踏襲しているが、『レモ』ではそれをさらに大きくし、胸部からトーチの先端までを精巧に再現した、約25メートルのモックアップをイスタパラパ(メキシコシティの管轄区域)の屋外に建造。俯角のショットは本物の女神像で、仰角ショットはモックアップでというふうに、両所で可能なアクションをカメラに収め、それらの映像素材を巧みに編集で繋ぎ合わせることにより、目も眩むような高度での戦いを創造したのである。スタントとアクションはハミルトンとスタント・コーディネーターのグレン・H・ランドールによって慎重に設計され、キャストに振り付けられた。またマンハッタンとメキシコとの異なる映像のルックは前者を基準にカメラフィルターなどで統一させ、違和感なくショットをひとつにしたのである。 なにより当時のメキシコはペソ安・ドル高という為替相場によって、ハリウッド映画における制作の重要な拠点となっていた。『レモ』もその類に漏れず、自由の女神像を中心に多くのセットは、同地のプロダクションセンターであるチェルブスコ・スタジオにて建造したものだ。この映画の制作元であるオライオン・ピクチャーズは7年前に設立したばかりの独立系スタジオで、作品に充てられる予算は限られていた。しかしプロダクションデザインを担当したジャクソン・デ・ゴヴィアは、効率的なセットデザインを提供して予算以上の成果を上げている。自由の女神像はもとより、レモがコンクリートの廊下を経てガス室のトラップに誘導されるまでの基地内のセットはドアを同じように設計し、カメラアングルの調整だけで3つしか作成していないハッチを10以上に見せる成果をもたらした。 こうしたセットデザイン手法の実績を買われ、デ・ゴヴィアは後年、アクション映画の革命的作品である『ダイ・ハード』(88)にも参加。同作では物語の舞台となるフォックス・プラザ(劇中ではナカトミ・ビルに設定)と精巧なミニチュアのモックアップを併用することで、ロサンゼルス・センチュリーシティを舞台とした大規模な都市破壊描写を可能にしたのだ。 ◆悠然と進行する「第2の挑戦」 それにしても「第1の挑戦」とは、なんと罪深いサブタイトルだろう(原題直訳は「レモ・ウィリアムズ:冒険の始まり」)。公開からじき40年が経とうとしているのに、今も続編を純粋な気持ちで待ち続けているファンがいる。 その間に、実現への動きがなかったわけではない。現に1988年、全米でTVムービー“Remo Williams: The Prophecy”が放送されている。このパイロットドラマは『レモ』で描かれた1年後を時代として設定し、冒頭には同作の本編クリップが挿入され、映画とのリンクを主張している。しかし配役は異なり、『私の愛したゴースト』(91)のジェフリー・ミークがタイトルキャラクターを(フレッド・ウォードは出演を固辞)、『猿の惑星』シリーズ(68〜73)や『ヘルハウス』(73)などで知られる名優ロディ・マクドウォールがチュンを演じている。唯一、音楽を担当したクレイグ・サファンが続投し、映画を反復するようなテーマ曲で関連性を強めている。 ◎Remo Williams: The Prophecy それからさらに時代を経た2014年、『キスキス,バンバン』(05)『アイアンマン3』(13)で知られるシェーン・ブラックを監督に、ソニー・ピクチャーズが『ファイト・クラブ』(13)の脚本家ジム・ウールズや、「デストロイヤー」シリーズ111から131を執筆した共同著者ジム・ムラニーと新たな『レモ』の制作を開始したことが報じられた(*1)。その後ウールズに代わって『ドラキュリアン』(87)の監督フレッド・デッカーが参加し、ムラニーと脚本に取り組む段取りとなっていたが、具体的な成果は得られていない。 しかし2022年に入り、企画はソニー・ピクチャーズ・テレビジョンに引き継がれたようで、ゴードン・スミスが『ヒットマン』シリーズのプロデューサーであるエイドリアン・アスカリエと一緒に「デストロイヤー」のテレビシリーズをリリースすることが発表された(*2)。 こうして悠然とした進捗をみせている『レモ』のリブート計画だが、我々にとって長年の祈願だった「第2の挑戦」を観ることができるのは、そう遠くない日のことかもしれない(半ばヤケクソぎみに)。■ (*1) https://www.hollywoodreporter.com/movies/movie-news/shane-black-direct-destroyer-sony-726801/ (*2) https://deadline.com/2022/12/the-destroyer-series-adaptation-1235192845/ 『レモ/第1の挑戦』© 1985 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.03.10
『ターミネーター』恐怖と戦慄のアイコン —エンドスケルトンの創造
【1】鋼の骸骨は誰が作ったのか? 未来から送られてきた殺人ロボットとの戦いを描いた『ターミネーター』は、『タイタニック』(97)『アバター』シリーズ(09~)のジェームズ・キャメロン監督による1984年公開のSFアクション映画だ。同作は2023年の現在までに5本の続編と1本のテレビシリーズを派生させ、時間移動を活かした特異な物語と、カルチャーアイコンともいうべきヒール(悪役)を生み出した。機械の内骨格を上皮組織でおおった戦闘ヒューマノイド。そう、タイトルキャラクターの《ターミネーター》だ。その魅力は同キャラを演じた俳優アーノルド・シュワルツェネッガーの、常人離れした肉体と感情を取り払った演技に負うところが大きい。しかし、表皮が剥がれて剥き出しになった内骨格=《エンドスケルトン》の開発こそが、本作における最大の成果といえるだろう。人骨を単に金属パーツに置き換えただけではない、映画が持つ黙示録的な性質を表象する外観は、生身の俳優以上の存在感を放つ。 本作が公開されて、ほどなく40年という歳月が経つ。その間にこのシンボリックなキャラクターは、続編の展開やシチュエーションに応じたニューモデルを登場させ、それらは撮影技術の進化にも応じてアニマトロニクス(機械式レプリカ)やストップモーション・モデルアニメーション、そしてCGによる創造へと発展してきた。しかし。ここで触れる記念すべき第1作目の、ベーシックにして極まった存在に勝るものはない。 【2】伴走者スタン・ウィンストン 「私はかねてより、ロボットの決定版を映画に登場させたいと思っていたんだ」—ジェームズ・キャメロン エンドスケルトンの考案とデザイン原型は監督であるキャメロン自身によるもので、自らイメージショットを描画し、造形を特殊メイクアーティストのスタン・ウィンストン率いるスタン・ウィンストン スタジオへと依頼している。そして映画が完成へと導かれていくプロセスにおいて、あの容姿が形成されていったのだ。 ウィンストンがこの役割を共同で担うことになったのは、当時彼が映画・映像において工学的センスに満ちたヒューマノイドのデザインと、それを実際に可動させるパペット技術に長けていたからだ。それは業界内でも評価が確立されており、実際にキャメロンが特殊効果ショットに必要なエンドスケルトンの制作にあたり、『モンスター・パニック』(80)で同門ニューワールド・ピクチャーズに詰めたことのある特殊メイクアーティストのロブ・ボッティンに相談したところ、ボッティンは「ディックがメイクを、スタンはメカを作ることができる」と提言し、『ゴッドファーザー』(72)の特殊メイクで名を挙げた巨匠ディック・スミスとウィンストンの連絡先を伝えた。そこでキャメロンは先ずスミスに相談を持ちかけると、「スタンが適役だ」とウィンストンを勧められたのである。 事実、ウィンストンは1981年公開のSFコメディ『ハートビープス/恋するロボットたち』で、人間の肌をメタリックに換装させたようなリアルなロボットを数多く創造。またロックグループ、スティクスのミュージックビデオ「ミスター・ロボット」では、『ハートビープス』の発展形のような個性的なロボットを手がけており、それがキャメロンのイメージを実体化させるのに確かなサンプルとなった。 ■『ハートビープス/恋するロボットたち』予告編 ■スティクス「ミスター・ロボット」 なにより、それらがキャメロンのエンドスケルトンにおける「生物と同じ機能を有し、メカっぽく見える」というコンセプトに合致したのだ。 ウィンストンとキャメロンは自動車部品の廃棄場に足を運んで写真を撮り、それらの写真とキャメロンの図面をガイドにして、エンドスケルトンの立体化を図った。ウィンストンの他にはシェーン・マーン、トム・ウッドラフ、ブライアン・ウェイド、ジョン・ローゼングラント、リチャード・ランドン、デヴィッド・ミラー、マイケル・ミルズら7人のクルーが造形に関与し、エリス・バーマン、ボブ・ウィリアムス、アシスタントであるロン・マクレネスの面々が機械仕掛けと金属タッチの細工、それにラジコン操作を受け持った。 スケルトンの頭部はマーンが主に担当。シュワルツェネッガーの頭骨格を正確に再現したものを原型とし、ウッドラフとウェイドが頭部モックアップの彫刻を手がけた。また二人はエンドスケルトンのさまざまなボディパーツを粘土で造型し、それらの彫刻フォームからウレタンでモールドを作成。クルーがエポキシとファイバーグラスの部品を作成し、パーツに埋め込んだ. そして金属の外観を与えるために、部品は真空蒸着(金属粒子を物体に付着させる電磁プロセス)を経て最終的な形に組み立てられた(そのためフルスケールのエンドスケルトンは重量45kgにも及んでいる)。またエンドスケルトンの全身モデルはスタント用の軽量バージョンも作られ、それはレジスタンスの戦士カイル・リース(マイケル・ビーン)のパイプ爆弾で半分に切断されるショットに用いられた。 加えてクローズアップの撮影用に、クルーはオペレーターの背中に装着できる頭と胴体の半身モデルも作成。こちらはオペレーターの動きをモデルに反映させる特別なリグを備え、マーンが操作を兼任。シュワルツェネッガーやウィンストンらと一緒にボディランゲージに取り組んだ。 またエンドスケルトンのみならず、ウィンストンとクルーはシュワルツェネッガーの頭部のアニマトロニクスを作っている。ターミネーターのT−800タイプが眼を自己補修するシーンで、皮膚を切開して内部構造を露出させたり、クロームの下部構造の多くが露出する場面に応じた、複数の頭部モデルが用意された。また実物よりも寸法の大きなメカニカルアイや、真空成形で硬化させたプラスチック片と発泡ゴムの補綴物からなるメイクをシュワルツェネッガーにほどこしたり、彼の腕を複製したウレタン製の中空義手を作り、T-800が腕を切開し、骨格を露出させるシーンを操作演出するなど、エンドスケルトンの存在をプラクティカルなエフェクトで補強している。 これらと前述したパペットやアニマトロニクスを組み合わせ、映画はスタジオセットやロサンゼルス周辺のロケ地で撮影をおこない、またエンドスケルトンの全身を捉えた歩行ショットは特殊効果スタジオ「ファンタジーII」のチームによって2フィートのミニチュアモデルが作られ、ストップモーション アニメーションによって表現されたのである。 【3】エンドスケルトンの起点 以上のような形で『ターミネーター』におけるエンドスケルトン創造のプロセスを綴っていったが、その起点ともいうべきキャメロンのメカニカルセンスにも迫るべきだろう。かの悪夢的なイメージが彼の中でどのように成立していったのか、その起源に対して無関心ではいられない。 『ターミネーター』のエンドスケルトンが驚異的なのは、プロダクションの過程でデザインが試行錯誤して定まっていくのではなく、最初にキャメロンが手がけたドローイングの段階で外観が完成されていたことだ。つまりキャメロンの中でエンドスケルトンの概念が確立していたのである。 2021年に出版されたキャメロン自身の手によるコンセプトアート集「テック・ノワール」には、少年期に遡ってキャメロンのアートワークが網羅されている。本画集を参照すると、エンドスケルトンのモチーフは1982年に氏が宣伝デザインに協力したSF映画『アンドロイド ダニエル博士の異常な愛情』の図案に登場している。同作にてキャメロンは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」を引用したレイアウトに、人体の左半身がエンドスケルトンに似たデザインの機械体を描き込んでいる。筋組織をシリンダーやスチールサポートに置き換えたメカ構造など、ほぼ同一のものといっていい。 さらに元を辿れば、こうした意匠に基づくメカモチーフは自身が35mmフィルム撮影で手がけた習作『Xenogenesis』(78)に見ることができる(「テック・ノワール」には同作のイメージイラストが掲載されている)。 ■Xenogenesis 加えて画集の中でキャメロンは、自身のドローイング技術の習得やメカニック描写のルーツについて言及しており興味深い。特に後者に関してキャメロンは、「キング」と呼ばれてアメリカンコミックのジャンルに君臨した、ジャック・カービーからの影響が濃いと語っている。例えばカービーの描いた『ファンタスティック・フォー』のシルバーサーファーの金属的なイメージは、『ターミネーター2』(91)の液体金属で構成されたT-1000に通じるものがあると自認している。 ■「That Old Jack Magic」ジャック・カービーのデザイン性についての論考 https://kirbymuseum.org/blogs/effect/jackmagic/ 同アート集の出版にあたり、キャメロンはジェフ・スプライの独占取材に応じ、自身の絵のタッチがファンタジーアートからくるものであり、フランク・フラゼッタやケリー・フリース、リチャード・コーベンといったイラストレーターの描画スタイルから影響を受けていることを明かしている。ネットのない時代、ファンタジーアートとの接触の機会は少なく、それらに確実に接することができたのはSF文庫の扉絵や挿絵だったこと。そして限られたものからあらゆるものを学んだのだとキャメロンは述懐する。 「SF映画やテレビがまだ石器時代のようなデザイン表現だったとき、コミックブックは絵を学ぶのに最適な存在だった。初期の『スパイダーマン』のコミックを描いていたスティーヴ・ディッコは、美しい彫刻のような素晴らしい手を描いていたんだ。他にもジェスチャー的な動きなど、さまざまなことに特化したアーティストがいたのさ。私はほとんどの場合、マーベルのアーティストが面白いことをやっていると感じたよ」 昨年、MCUに対して手厳しい批判をしたキャメロンだが、自身のドローイングの起点がマーベルにあり、そこからエンドスケルトンのデザインへと発展したことを思うと、そこに『ターミネーター』のタイムパラドックスを地でいくような相関性を覚えなくもない。■
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COLUMN/コラム2023.03.02
ピーター・バーグ監督が語った『バトルシップ』秘話
◆果たせなかった『砂の惑星』のリベンジ ボードゲームに基づいたSF侵略バトル映画『バトルシップ』は、公開後に日本でカルト的な人気を博し、今や地上波テレビで放送されるたびにSNSを賑わす“お祭り“コンテンツとして定着した感がある。要因は多々挙げられるが、やはりこの作品の激アツなクライマックスに起因するのではないだろうか。未見の方の楽しみのために詳述は割愛するとして、筆者(尾崎)は本作のプロモーションで来日したピーター・バーグ監督にインタビューし、『バトルシップ』が生まれるまでの経緯や裏話を聞き出している。その一部は雑誌媒体に加工のうえ発表したが、やむなく切り落とした部分が多く、プロダクションノートにも記載されてないネタが含まれている。なので意訳ではあるが、今回それらを再構成し、陽の目を与えるに至った。実際に作品をご覧になるときの参考となればさいわいだ。 ・『バトルシップ』撮影中のピーター・バーグ監督 Credit: Frank Masi 俳優から監督へと転身し、『キングダム/見えざる敵』(07)や『ローン・サバイバー』(13)などの硬質なサスペンスアクションを手がけてきたバーグは、本作『バトルシップ』以前のキャリアにおいて、SFやファンタジーに属するようなサブジャンルに着手したことがなかった。唯一、スーパーヒーロー映画の再定義化を試みたコメディ『ハンコック』(08)がかろうじてそれに該当しないこともないが、監督いわく「ウィル・スミス主演のスター映画」と自らカテゴライズし、自らSFジャンルには入れていない(理由は後述する)。しかも本来は『バトルシップ』ではなく、別のSF作品を手がける予定だったのだ。 ピーター・バーグ監督(以下:バーグ)「『バトルシップ』の話がくる前、僕はパラマウントで『DUNE/デューン 砂の惑星』(以下:『砂の惑星』)を準備していてね。それにあたって、SFや宇宙についてかなり広範囲なリサーチをしたんだ。かつて一度もSF映画を作ったことがなかったからね。その過程でSFにかなり興味を持ったので、『砂の惑星』が立ち消えになったときには非常に残念な思いをしたんだ。だから『バトルシップ』は、僕にとって『砂の惑星』のリベンジでもあるんだよ」 1984年にデヴィッド・リンチが監督し、後年ドゥニ・ヴィルヌーヴによって再映画化が果たされた『砂の惑星』は、もともとバーグによってプロダクションが進行していた時期がある。フランク・ハーバート財団から権利を取得したプロデューサーのケヴィン・ミッシャーがパラマウントに企画を持ち込み、ドウェイン・ジョンソン主演の『ランダウン ロッキング・ザ・アマゾン』(03)で一緒に仕事をしたバーグに監督を依頼したのだ。しかし製作費の調達や度重なる脚本の改稿によってプロジェクトは棚上げとなり、バーグは『バトルシップ』に移行したのである。 『バトルシップ』はハズブロ社が同ボードゲームの権利をミルトン・ブラッドレー社の買収によって取得し、『トランスフォーマー』や『G.I.ジョー』のように映画として展開させる計画に端を発している。 しかしオリジナルのボードゲームは、艦隊どうしが戦艦の撃沈をめぐって勝敗を競い合うもので、それがなぜ対エイリアン戦を描くSF映画となったのだろう? 「やはりSFにこだわっていたんだよ」とバーグは語り、方向性を変えた起点を以下のように明かした。 バーグ「2010年にディスカバリー・チャンネルで、宇宙天文学者のスティーヴン・ホーキンス博士がナビゲートを務めるミニシリーズ“Into the Universe with Stephen Hawking”(スティーヴン・ホーキングと宇宙へ)を観たんだ。その番組内で博士は、地球からシグナルを発信していると、地球以上の文明を持つ惑星がそれをキャッチし、資源を求めてやってきて争いになる可能性にあると示唆していた。それがエイリアンの侵略をストーリーベースにしたきっかけなんだ」 この改変と同時に『砂の惑星』から同作にあったプロットの一部である「資源をめぐる争い」を骨格として組み込み、『バトルシップ』を本格的なSFものにしたのだと語った。 また『砂の惑星』のプロダクションから移行させた要素は、それだけではない。バーグによると「自分のバージョンは環境描写や戦闘場面など、とても激しいものになる予定だった」と回想し、それらを『バトルシップ』に適応させた旨や、リンチが手がけたものとの違いを示してくれた。実際にバーグ版『砂の惑星』の世界観は非常に硬質なもので、参考としてイギリスのコミックアーティストであるマーク"ジョック"シンプソンよるコンセプトデザインを以下に見ることができる(ジョックは『バトルシップ』でもコンセプトデザインを担当)。 https://www.duneinfo.com/unseen/jock 加えてバーグは「私の『砂の惑星』はオムツを履かせたりしない(笑)」と言って、リンチ版のハルコンネン男爵を揶揄していたが、奇しくもヴィルヌーヴ版では『バトルシップ』で主人公ストーンの兄を演じたアレクサンダー・スカルスガルドの父ステラン・スカルスガルドがハルコンネン男爵を演じている。 ◆二人の映画監督から得た映像スタイル また先述した「激しい攻防戦」というワードは、そのまま監督の視覚スタイルの話題へと移行するのに都合がよかった。インタビューはバーグが2004年に発表した『プライド 栄光への絆』へとターンし、同作の試合シーンの緊張感がスポーツ映画史上でもっとも高いものではないかと言及。『バトルシップ』にもその傾向が顕著に見られ、それらの多動的でラフな映像スタイルはどこから得たものかを訊ねている。 バーグ「私には監督として、二人の師匠がいる。それはジョン・カサヴェテスとマイケル・マンだ。どちらもシネマヴェリテを基調としたスタイルを持っているが、カサヴェテスは非常に俳優に自由を与えてくれる監督で、あまりコントロールしない人だ。それが自然な演出とカメラモーションに繋がっているし、逆にマイケルは脚本がぶれないくらいのコントロールフリークで、そこが面白い。彼は友人でもあるし、『キングダム/見えざる敵』のプロデュースも担当してくれた、そしてなにより、彼のビジュアルスタイルには多くを学ばせてもらった。僕は二人の正反対なアプローチをうまく折衷させながら演出をしてるけどね(笑)」 加えて、役者をコントロールしないという考え方は、バーグの中で映画における俳優の優先順位をおのずと示している。 「僕は過去にウィル・スミスと『ハンコック』を作ったけど、やはりというか観客は、ウィルのスター性に意識を支配されてしまう。違うんだ、映画のスターはストーリーなんだよ。だから『バトルシップ』はリーアム(・ニーソン)を除くと、あまり知名度の高い俳優を主要キャラクターとして劇中に置いていない。だってそのほうが、より完全にストーリーに没頭できると思ったからなんだ」 こうした俳優の話題から、質問は出演者の一人である浅野忠信に関することへと移行したのだが、「アサノの出ている作品だけでも、まずは観ておかないといけないね」と監督は言い、自分が日本映画に関して理解があまりないことを筆者に詫びていた。 しかしまさか、その日本で『バトルシップ』がこれほどまでに愛される作品になるとは、よもや思いもしなかったことだろう。■ 『バトルシップ』© 2012 Universal City Studios Productions LLLP. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2023.01.30
もうひとつの『ナチュラル・ボーン・キラーズ』
◆不道徳な暴力映画は、道徳的な反戦映画の反動から オリヴァー・ストーン監督が1994年に発表した『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(以下『NBK』)は、連続殺人犯ミッキー(ウディ・ハレルソン)とマロリー(ジュリエット・ルイス)による、社会からの逃走とラブストーリーを描くバイオレンス映画であり、彼らをスターとして担ぎ出すメディアの過剰性を捉えた、ブラックコメディの要素を併せ持つ。 物語は前半と後半でテイストを異にする。前半でこの殺人カップルはマロリーを虐待してきた親を手にかけ、結婚に代わる契りの儀式をおこない、愛の証として50人以上を一掃する殺人ハネムーンへと繰り出す。そんな無軌道な彼らに、自身がホストのシリアルキラー番組『アメリカン・マニアックス』の高視聴率をもくろむ、ジャーナリストのウェイン・ゲイル(ロバート・ダウニー・Jr.)が接近。二人の動向を広く大衆に提供していく。 いっぽう後半はサディスティックなドワイト所長(トミー・リー・ジョーンズ)の待つ刑務所にミッキーが投獄され、彼の独占テレビインタビューを試みようとしたゲイルは、それが引き金となって起こった大暴動をカメラに収めることになる——。 ストーンはヒロインの壮絶なベトナム戦争体験を描いた『天と地』(93)に取り組んだ反動で、デンジャラスで不道徳なプロジェクトに挑戦したいという欲求に駆られていた。そんなとき、俳優ショーン・ペンとの会食の場で、同席したベテランプロデューサーのトム・マウントから『NBK』の脚本をすすめられたという。 脚本はもともとペンが目をつけたもので、他にもデヴィッド・フィンチャーやブライアン・デ・パルマが、この脚本の映画化に反応したという。読んで自分もその一人となったストーンは、リライトを前提に当時契約を結んでいたプロデューサーのアーノン・ミルチャンに映画化を打診し、『NBK』の製作が動き出したのである。 ◆タランティーノとの確執と、オリジナル脚本 だが、このプロジェクトはひとつ問題を抱えており、それは脚本を執筆したクエンティン・タランティーノが、権利を取り戻そうとしていたことにあった。 もともと『NBK』はタランティーノが『レザボア・ドッグス』(92)を手がけ、商業映画監督として注目を浴びる以前に書いたもので、彼はビデオレンタル店員時代の仲間だったランド・ヴォシュラーと組み、自分たちで映画化を前提とし共同で仕上げた。予算は50万ドルで、監督権はヴォシュラーにタダ同然で与えたのである。 しかし、この予算調達に名乗り出たプロデューサーのジェイン・ハムシャーとドン・マーフィーにヴォシュラーは監督権を譲渡してしまい、タランティーノが取り戻しに動いたのだ。 こうした経緯のこじれに加え、ストーンが共同脚本担当のデヴィッド・ヴェロズらと共にオリジナルに大幅に手を加えたため、タランティーノはクレジットから名を外すよう要請したのである。 タランティーノ脚本の特徴は、ゲイルが主人公として立ち回っている点だろう。彼が劇中、ミッキーとマロリーの周辺情報にアクセスしていく過程において、二人のキャラクター性が浮き彫りにされていく構成となっている。しかし、ストーンはミッキーとマロリーにバックストーリーを与えて彼らを前面へと押し出した。そしてゲイルを脇役に置き換えることで、「犯罪者をヒーロー化するマスコミ」というメディアリテラシーへの批判を構図化したのである。加えて本作が暴力礼賛ではないことを印象づけるため、ネイティブ・アメリカンの男が登場するパートを挿入。「暴力の行使は時代を越え、いつしか自分に巡り戻ってくる」という、教訓を仄めかすシーンが加えられている。 ストーンによってストーリーが再構成され、原作者のヴィジョンの多くが改変されたことに対し、制作当時のタランティーノは映画とストーンに対して悪感情はないと述べ、あくまで作品の成功を祈っていると主張していた。 しかし後年、彼が『NBK』のオリジナル脚本を出版しようとしたさい、映画のプロデューサーサイドは「脚本を売却した時点で出版権は失なわれている」として訴える構えをみせた。それがタランティーノの怒りに油を注ぐかたちとなり、その感情は近年もくすぶり続けている。『ラウンダーズ』(98)の脚本家ブライアン・コッペルマンは自身のポッドキャスト「ザ・モーメント」2021年7月21日付けの配信で、ストーンがいかに的外れでキャラクターを理解していなかったかについて、タランティーノと意気投合したと話している。特にミッキーとマロリーが浮気をするもどかしいシーケンスを指摘し、タランティーノは「そんなことは絶対にありえない。二人は一緒にいるためなら、自分らを虐待する家族だって殺すこともいとわない、そんな彼らの本質をすべて見落としている」【*】と語っている。 ●現在、タランティーノのオリジナル脚本は出版され、容易にアクセスすることができる。 こうした経緯から、世間的には「気鋭のクリエイター(タランティーノ)による未発表脚本が、説教じみたスタイルの監督(ストーン)によって台無しにされた」というバイアスがかかり、ストーンに批判的な評価が下されがちだった。しかしジェイン・ハムシャーによる『NBK』をめぐる回想録“Killer Instinct“には、タランティーノによる作品製作の妨害行動がいくつか記されている。たとえば権利を買い戻すことを許されなかったことに腹を立て、スティーブ・ブシェミとティム・ロスに「もしキミらがこの映画への出演を受け入れたら、二度と自分の映画には出演させない」とまで言い放ったとされている。 このように、文献の性質によってタランティーノ擁護であったりストーン擁護であったりと、同情をどちらに寄せた裏付けをしているのかは傾向が異なる。なので、映画版のサブテキストとして提供すべきこのコラムで、当該作品の立場を悪くするような事柄を列挙するのも生産的ではないだろう。 そもそも、ストーンの映画でタランティーノ脚本の要素を無きものにしようとしているわけではない。劇中のセリフの多くはタランティーノ版を踏襲しているし、なによりタランティーノ版は、ロサンゼルスの路上でゲリラ撮影することを想定し、モノクロの16mmカメラを駆使することが脚本にも書き込まれているが、ストーンはこうしたフォーマットにも目配りし、モノクロや16mm撮影の導入に加えて8mmやVTRなど頻繁にフィルムストックを変化させ、ストーンなりにタランティーノのプランを拡張させている。もっとも、これは同時期にストーンがフィルムストックの目まぐるしい変化や多動的な編集、またカラーフィルターの多様や不規則なカメラワークなどをセルフスタイルとしており、こうした条件と理想的な融合をみたともいえる。 そのため撮影期間はわずか56日だが、編集には1年近くを要する驚異的な労作となった。ちなみにタランティーノが映画化に計上していた製作費は50万ドルだったが、ストーンの映画版は3400万ドル。その予算はじつに68倍もの巨額となっていた。 また『NBK』の監督権を放棄し、受難の存在となったランド・ヴォシュラーは、ストーンの映画版に共同プロデューサーとしてクレジットされ、ささやかに立場を取り戻したといえる。■ 『ナチュラル・ボーン・キラーズ』© 1994 Warner Brothers Productions, Ltd. and Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved. 【*】https://theplaylist.net/quentin-tarantino-on-oliver-stones-natural-born-killers-why-didnt-he-do-half-of-what-was-on-page-20210730/?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
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COLUMN/コラム2022.12.06
『ジェイソン・ボーン』シリーズより先行した多動的カメラワークとカオス編集『マイ・ボディガード』
「メキシコでは1時間に1件の誘拐事件が発生し、人質の70%は生還されず殺される」 2004年にトニー・スコット監督、デンゼル・ワシントン主演で発表された映画『マイ・ボディガード』は、このラテンアメリカでの誘拐に関する当時の実情を示して幕を開ける。本作の主人公であるクリーシー(ワシントン)は引退したCIAの対テロ工作員で、彼は自身のキャリアを血塗られたものとして後悔している。そんな彼の陰鬱な感情をはらおうと、元同僚のレイバーン(クリストファー・ウォーケン)は、クリーシーにピタ(ダコタ・ファニング)という少女のボディガードとして、メキシコシティで仕事をするようはからう。 警護にあたった当初は、クリーシーはピタとの感情的な壁を取り去ることができずにいたが、次第に二人は父娘にも似た絆を形成していく。そして映画は、少女の無垢な愛情が、一人の男を心の闇から解放する過程を表現豊かに捉えていくのだ。 しかし物語は予期せぬ事態によって、クリーシーは自らのささやさな幸福を破壊した者に対し、忌まわしいと捨て去ったスキルを用いることになる——。 原作はバイオレンス小説を過半とするイギリスの大家、A・J・クィネルが1980年に発表した「燃える男」。監督のトニー・スコットは吸血鬼伝説をモダンにアレンジした劇場長編デビュー作『ハンガー』(83) に次ぎ、出版ほどなくベストセラーとなった同作を手がけるつもりだった。もともとクィネルのファンだったスコットは、『ハンガー』公開後に早くも映画化の予算を獲得しようと動いたのである。しかし当時、彼はまだ兄リドリー・スコットの会社のCMディレクターだったために資金を確保できず、代わりにジェリー・ブラッカイマーより打診のあった『トップガン』(86) に着手する。 いっぽう「燃える男」は1987年にプロデューサーのアーノン・ミルチャンとロバート・ベンムッサが仏伊米合作で映画化を果たし、俳優陣についてはスコット・グレンがクリーシーを、ジョー・ペシが彼の友人でありパートナーのデヴィッドに扮し、ジェイド・マルが少女サマンサ役で出演した。アメリカでは同年10月9日に178の劇場で公開され、わずか519,000ドルの興行収入しか得られず、ビデオやテレビ放送などの二次収益に頼るしかなかった。 奇しくも『マイ・ボディガード』企画の再浮上は、この『マン・オン・ファイア』の二次収益媒体が大きく関与する。後年、ミルチャンがテレビで本作を見たとき、彼は翌朝トニーに電話し、自分がまだ「燃える男」の権利を持っており、再映画化に興味があるかどうか、そして『マン・オン・ファイア』が示したものより多くの可能性があるかどうかを訊いた。スコットは今なら「燃える男」を壮大で理想的な自身の作品として世に送り出せる自信があり、クィネルへの再アクセスはいつでも可能であることをミルチャンに示したのだ。 同時にスコットは脚本家にあたりをつけ、シルベスター・スタローンとアントニオ・バンデラス共演のアクションスリラー『暗殺者』(95) や、ジェームズ・エルロイ原作の犯罪サスペンス『L.A.コンフィデンシャル』(97) で注目中のブライアン・ヘルゲランドに依頼した。 スコットは彼が脚本を手がけた『ミスティック・リバー』(03) を気に入っており、偶然にもヘルゲランドは『マン・オン・ファイア』の存在を熟知していた。1989年、カリフォルニア州マンハッタンビーチで、彼は地元のレンタルビデオ店をよく訪れ、おすすめを尋ねていた。そこでクエンティン・タランティーノ(!)という脚本家志望の店員が同作のビデオを勧めてくれたのだという。オファー当時、ヘルゲランドは監督業に移行しようとしていたことから乗り気ではなかったが、スコットに代わって自分が同作の監督をやる可能性をミルチャンに示唆され、依頼を受けた。 ヘルゲランドの脚色は原作から多くのセリフを引用し、クィネルへのリスペクトを示したが、クライマックスを原作とは異なるものにした。小説は実際に起こった2つの誘拐事件からインスパイアされ、そのためクィネルは事件と同じような結末を維持したが、映画では独自の展開が用意されている。それはピタによって人間的感情を取り戻したクリーシーの贖罪といえるもので、彼とピタとの友情をパイプにしたエモーショナルな改変である。 しかし舞台となるイタリアが、映画製作時には小説執筆時の頃よりも犯罪率が低下していたため、製作サイドは物語の信憑性を損ねることを懸念。彼らは映画の舞台となる場所を変更することにした。前掲の「メキシコでは1時間に1件の誘拐事件」は、こうした経緯を抜きには語れぬ重要なリードなのだ。 また劇中における俳優たちのパフォーマンスも、この映画を観る者との感情の同期に貢献している。たとえば物語の当初、クリーシーがピタのボディガードを引き受けたことを後悔していたとき、実際にデンゼル・ワシントンはセットでファニングと距離を保ち、積極的にコンタクトをとることを避けたという。そして物語の過程でクリーシーがピタに親しみを覚えると、ワシントンは舞台裏で同じように接したのだ。ワシントンとファニングはお互いに見事なボレーを交わし、彼らの即興演出は対話に迫真性をもたらしたのである。 だが最も作品において効果的に貢献したのは、監督トニー・スコットによる多動的カメラワークとカオスに満ちた編集だろう。きめ細かなグラデーションフィルターの選択や大胆なジャンプカット、あるいはクイックズームに可変速度効果など、これらはクリーシーの感情に合わせて変化していく。加えて本作ではキャプションを活かしたタイポグラフィも目を引くが、これはスコットがBMWのPVを演出したとき、ジェームズ・ブラウンのセリフをスタリュシュに加工した効果を適応させたもので、映画の中でもひときわ強い印象を残す。 James Brown - Beat The Devil (2002) しかし、こうした効果が評論家の目には装飾的にしか映らず、その頃はむしろ批判の対象として捉えられる傾向にあったようだ。映画評論の権威ロジャー・エバートは本作を評し「この映画には、長さとスタイルを正当化するための深みが必要だ」と断じたが、これなどはその短絡的な解釈の顕著な例だろう。 だが『マイ・ボディガード』の映像的・あるいは編集に見られる傾向は、そのスタイルがドラマや登場人物の推移を巧みに視覚化したものとして再評価の機会が待たれる。何より本作の公開は、あの多動的表現でアクション映画の気流を変えた『ボーン・スプレマシー』(04) より公開が3ヶ月早く、その先進性を改めて問うべきだろう。なにより『マイ・ボディガード』は日本公開時、全体的によく編集された印象のある劇場用パンフレットにも、最大の貢献者であるトニー・スコットに関する記述が少なく、そこも画竜点睛を欠く口惜しさは否めなかった。本作を叩き台に、監督への言及が活発化することを望みたい。■ 『マイ・ボディガード(2004)』© 2004 Twentieth Century Fox Film Corporation and Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2022.11.04
スピルバーグ、最初にして最後の“ディレクターズ・カット”―『未知との遭遇【ファイナル・カット版】』―
「この映画には多くの美徳がある。ほとんどのハリウッド作品やパルプSFとは異なり、人間と地球外生命体との接触は、主に平和的であると考えられていることだ」カール・セーガン(天文学者・作家) 「スピルバーグが描く異星人には自然の善良さが表れており、生や死を超えた善なるものが感じられる」ドゥニ・ヴィルヌーヴ(『メッセージ』(16)『DUNE/デューン 砂の惑星』(21)監督) スティーヴン・スピルバーグの壮大なSF叙事詩『未知との遭遇』は、人類と地球外知的生命体とのコンタクトを真摯に、そして迫真的に描いた嚆矢の商業長編映画で、一般市民や科学者、軍などそれぞれの視点から捉えたサスペンスフルな異常事態が、やがて友好的なエイリアン・コンタクトの輪郭をあらわにしていく実録調の構成をとり、この種のジャンルの語り口や目的を一新させた。なによりスピルバーグ自身、フィルモグラフィで単独脚本を兼ねた唯一の監督作として特別な思いを抱いており、そのため過去に二度も手を加え、完成度を極限にまで高めている。 ◆悔いを残した「オリジナル劇場版」 1977年11月16日、『未知との遭遇』はニューヨークのジーグフェルド・シアターとハリウッドのシネラマドームで限定公開され、連日ヒットを記録。そして1か月後には全米272館の劇場で拡大公開され、翌年の夏に上映が終了するまで全米総収入1億1639万5460ドルを稼ぎ出し、配給元であるコロンビア・ピクチャーズの過去最高となる売上を叩き出した。さらには海外における公開によって、1億7100万ドルが追加計上された。当時コロンビアは株価が下落して経営難の状態にあり、スピルバーグはメジャースタジオを倒産の危機から救い出したのた。 だが、こうした好転を得るために、コロンビアはクリスマス興行を必要とし、本来の予定よりも7週間も早い公開をスピルバーグに要求。ひとまずの完成を急務としたため、彼は自身が望んでいたように作品に仕上げることができなかったのである(以下、当バージョンを「オリジナル劇場版」と呼称)。 スピルバーグの不満は、主人公であるロイ・ニアリー(リチャード・ドレイファス)のエピソードと、第三種接近遭遇を調査するラコーム博士(フランソワ・トリュフォー)とメイフラワー・プロジェクトのエピソードとの並置にあり、さらにはいくつかのシーンの削除と、省略したシーンの追加を望んでいた。加えてバミューダ三角海域にて消息を絶った輸送船コトパクシ号が、海岸から500kmも離れたゴビ砂漠で発見されるシーンを撮影できなかったことにも不満を抱いていた。 そこで1978年の夏、本作が劇場公開を終えたタイミングで、スピルバーグはコロンビアに「自分が望む形で映画を完成させるため、予算を与えることは可能か?」と訊ねた。そこでコロンビアは、暫定的に計画を立てていた同作のリバイバル公開を条件に、追加撮影をほどこした更新バージョンをリリースする機会をスピルバーグに持ちかけたのだ。 ただし映画への再アクセスにはマーケティング戦略上、マザーシップ内部を見せる撮影が必要だとコロンビアは提示してきたのだ。多くの批評家や観客が、ロイが巨大な宇宙船に乗った後に起こったことを見たいという願望を表明していたからだ。 スピルバーグは「オリジナル劇場版」に調整を加え、作品に統一感を持たせたいと感じており、最終的には自身の作品をアップデートさせるという希求にあらがえず、提示された条件を承諾したのである。 コロンビアはスピルバーグに再撮影の製作費200万ドル(150万ドルという説あり)と7週間の期間を与え(撮影は結果的に16〜19週間を要した)、『未知との遭遇/特別編』(以下「特別編」)の製作へと至ったのである。ただこの時期、すでに監督は次回作となる戦争スペクタクルコメディ『1941』(79)の撮影に入っており、その間に「特別編」の制作チームの再編成を着々と進めた。 ◆理想に近づいた「特別編」 多くのスタッフ、ならびにキャストはこの意欲的なプロジェクトへの再登板を表明したが、ラコーム博士を演じたフランソワ・トリュフォーは監督作『終電車』(80)の撮影に入っており、また撮影監督のビルモス・ジグモンドはライティングに対するコロンビアの無理解が溝となって身を引き、デイブ・スチュワートが代わりを担当することになった。視覚効果スーパーバイザーのダグラス・トランブルと視覚効果撮影監督のリチャード・ユリシッチは、パラマウントで『スター・トレック』(79)に取り組んでいたことと、トランブルは契約上の解釈から無報酬が懸念されたことで参入を見送り、代わりにアニメーション監督のロバート・スウォースが、前者の薦めにより視覚効果の指揮をとることになった。そして命題ともいえるマザーシップ内部は『スター・ウォーズ』(77)『エイリアン』(79)などでコンセプト・アーティストを務めたロン・コッブがデザインし、モデル作成はちょうど『1941』のミニチュア制作に参加していたグレッグ ジーンが続投した。 ミニチュア制作の作業は1979年の夏に始まったが、スピルバーグは『1941』の撮影が終わるまで同作に集中するつもりでいた。しかしロイ役のリチャード・ドレイファスが多忙だったため、1979年2月に1日だけ空いた彼のスケジュールを利用し、先行して一部撮影に踏み切った。そしてドレイファスが新たに建設された、マザーシップへのランプを上っていく様子が撮影された。ハッチ内部の両方の壁に並び、ロイを船内に迎え入れる小さなエイリアンたちは、多くの女の子をエキストラで配役している。「特別編」ではロイがランプをのぼり、密閉されたボールルームに入ると、天井が突然上向きに浮揚し始め、コッブの設計した小型のUFOが飛行して脱着する壮大なドッキングエリアへと移動するが、ドッキングエリアの一部がランプとハッチの内部としてセットで建造され、残りはミニチュアと視覚効果を駆使して表現された。 スピルバーグは『1941』の劇場公開から数週間後の1980年1月より本格的な作業を開始し、手始めにゴビ砂漠のシーンに着手。20世紀フォックスの裏庭に置かれていた古い船の模型をジーンが改造し、カリフォルニア州デスバレーの近くで撮影した。特別な撮影機材やポストプロダクションでのエフェクト効果に頼らず、強制遠近法を用いて同シーンに挑んでいる。コトパクシ号の模型を前景に置き、俳優や車両を含むすべての要素を約200ヤード離れたバックグラウンドに配置して、あたかも実物大のコトパクシ号が目の前にあるかのように演出したのである(一説によれば、同シーンの撮影は後に『E.T.』(82)『太陽の帝国』(87)でスピルバーグと組む、シネマトグラファーのアレン・ダヴィオーが手がけたという)。 これらの撮り下ろし映像が揃うと、スピルバーグとエディターのマイケル・カーンは「特別編」の編集を開始。まずは不必要だと判断した多くのシーンを削除することから始めた。もっとも顕著なのは、ロイがデビルズタワーの模型を作るために、近所から破壊したものを家に持ち込むシーケンスだ。空軍の記者会見シーンも削除され、ロイが電力会社で原因不明の停電について話し合う冒頭のシーンなどもオミットされた。逆に「オリジナル劇場版」制作時に撮影したが使わなかった、ロイがシャワーで感情を崩壊させるシーンが差し戻され、妻ロニー(テリー・ガー)が彼のもとを離れる動機を明確にしている。加えて会話の小さな断片が各所で削除され、結果としてオリジナル劇場版から16分を削除し、以前にカットした7分を復元。さらに新たに撮影した6分のフッテージを追加し、「特別編」は「オリジナル劇場版」より3分短かくなった。 また音楽面でも改変をおこなった。それは最後のクレジットで、ジョン・ウィリアムズ作曲によるエンドタイトルを流していたものを、「特別編」ではディズニーの長編アニメーション『ピノキオ』(40)の歌曲「星に願いを」のメロディを挿入したインストゥルメンタルに変更した。これは劇中、ロイの家で鉄道模型の卓上に置かれていた、ピノキオのオルゴールを受けての伏線回収でもあり、映画のテーマに同期する曲としてスピルバーグは使用を熱望したのだ。もともとはクリフ・エドワーズが歌うオリジナル曲を引用していたのだが、1977年10月19日におこなわれたダラスの試写では観客の反応が悪かったために代えた経緯があり、インスト版を用いることにした。 この「特別編」は1980年7月31日にビバリーヒルズの映画芸術科学アカデミー本部のサミュエル・ゴールドウィン・シアターでマスコミ向けに上映され、同年8月1日に北米750館の劇場で一般公開。その後すぐに海外での公開がおこなわれた。そして1600万ドルの収益を上げ、コロンビアは再びその投資から、リバイバルとしては悪くない利益を得た。 批評家と観客の反応はまちまちで、変更がより焦点を絞り、まとまりをもたらしたと称賛する者もいれば、改ざんの必要性を問い批判する者もいた。なによりも誤算だったのは、あれだけこだわったマザーシップ内部の描写に、あまり賞賛を得られなかったことだろう。 スピルバーグ自身も、この件に関しては後悔の念を強く抱き、後年「オリジナル劇場版」と「特別編」の両方が観られる初のレーザーディスクを米クライテリオン・コレクションでリリースするにあたり、VFX専門誌「シネフェックス」当時の編集長ドン・シェイのおこなったインタビューで心情を吐露している。 「理想的な『未知との遭遇/特別編』は「オリジナル劇場版」のエンディングで終わることだったね。リチャード(・ドレイファス)がマザーシップの内部に入って、あたりを見回し、 ハイテク器機や蜂の巣のようなスペースシップを眺めることはなかったんだ。映像はきれいだったし、想像力に溢れていてよくできていると思う。でもオリジナルのエンディングのほうがずっと好きだ」 ◆究極の『未知との遭遇』〜「ファイナル・カット版」 『未知との遭遇/ファイナル・カット版』(以下「ファイナル・カット版)は、こうした経緯を経て2種類となった『未知との遭遇』の決定版とするべく、スピルバーグが承認した最終バージョンである。叩き台になったのは1981年1月15日にABCテレビネットワークで放送された143分のもので、これは「劇場オリジナル版」と「特別編」がひとつに統合され、多くのカットシーンが残されていた(スピルバーグは後に脚本に協力したハル・バーウッドに「すべての要素を含んだお気に入りのバージョンだ」と語っている)。このABCテレビ放送版に沿う形で、両バージョンの要素を組み合わせながら、いくつかのシーンを短くし、あるいは長くするなどの調整をしたものである。 「ファイナル・カット版」における最大の特徴は、ロイがマザーシップ内部に入り込むクライマックスが完全にオミットされている。そして「星に願いを」のインスト版が「オリジナル劇場版」のエンドタイトルに戻された。前者に関しては、『未知との遭遇』4K UHD Blu-rayソフトに収録された特典インタビュー“Steven Spielberg 30 Years of CLOSE ENCOUNTERS“(『スティーヴン・スピルバーグ 30年前を振り返って』)の中で、スピルバーグは以下のように語っている。 「船内の様子は、観客の想像の中だけに存在するべきと考えたんだ」 同バージョンで初めて『未知との遭遇』に接する若い世代は、はたしてマザーシップの向こう側に、どのような光景を想像するのだろうか? ちなみにこの「ファイナル・カット版』、正式な呼称は”The Definitive Director's Version“で、スピルバーグは本作をフィルモグラフィにおいて唯一の“ディレクターズ・カット”だと位置付け、以後、自作の改変はしないといった意向を示している。まさに文字どおりのファイナルであり、そういう意味においても希少なバージョンといえるかもしれない。■ 『未知との遭遇【ファイナル・カット版】』© 1977, renewed 2005, © 1980, 1998 Columbia Pictures Industries, Inc. 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