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ABBAのエバーグリーンな名曲に彩られた大ヒット・ミュージカル映画『マンマ・ミーア!』

なかざわひでゆき

世界中のファンを虜にした4人組ABBAとは? スウェーデン出身の世界的なポップ・グループ、ABBAの名曲に乗せて綴られる、悲喜こもごもの母親と娘の愛情物語。クイーンの「ウィ・ウィル・ロック・ユー」やエルトン・ジョンの「ロケットマン」、エルヴィス・プレスリーの「オール・シュック・アップ」などなど、有名アーティストのヒット曲を散りばめたジュークボックス・ミュージカルは、’00年代以降のロンドンやニューヨークで一躍トレンドとなり、今やミュージカル界の定番ジャンルとして市民権を得た感があるが、その火付け役となったのが1999年4月にロンドンのウエスト・エンドで開幕したABBAのミュージカル「マンマ・ミーア!」だった。 ご存知、1970~’80年代初頭にかけて、文字通り世界中で一世風靡した男女4人組ABBA。代表曲「ダンシング・クイーン」や「ザ・ウィナー」などを筆頭に、数多くのキャッチーなポップ・ナンバーを各国のヒットチャートへ送り込み、’60年代のビートルズと比較されるほどの社会現象を巻き起こした。ソビエト連邦やポーランドなど、冷戦時代に鉄のカーテンの向こう側でもブームを呼んだ西側のポップスターは、後にも先にもABBAだけだろう。メンバーは全ての作詞・作曲・プロデュースと演奏を担当する男性メンバー、ビョルン・ウルヴァースとベニー・アンデション、そして卓越した歌唱力でボーカルを担当する女性メンバー、アグネッタ(正確な発音はアンニェッタ)・ファルツコッグとアンニ=フリッド・リングスタッド(愛称フリーダ)。アグネッタとビョルン、ベニーとフリーダがそれぞれカップルで、4人の名前の頭文字を並べてABBAと名付けられた。 メンバーはいずれもABBA結成以前から地元スウェーデンでは有名なスター。ベニーは’60年代に「スウェーデンのビートルズ」と呼ばれたスーパー・ロックバンド、ヘップスターズの中核メンバーで、ビョルンは人気フォークバンド、フーテナニー・シンガーズのリードボーカリストだった。お互いのバンドのライブツアー中に公演先で知り合い意気投合した彼らは、ソングライター・コンビとして様々なアーティストに楽曲を提供するようになる。一方、アグネッタは’67年に17歳でデビューし、当時としては珍しい作詞・作曲もこなす女性歌手としてナンバーワン・ヒットを次々と放った美少女アイドル、フリーダもスウェーデンの音楽番組で活躍する本格的なジャズ・シンガーだった。つまり、どちらも今で言うところのセレブカップルだったのである。 ただし、もともと彼らにはグループとして活動するという意思はなかった。’70年頃からお互いのプロジェクトで協力し合うようになった彼らは、1回きりのつもりで’72年に4人揃ってレコーディングしたシングルを発表。これが予想以上の好評を博したことから、後にクインシー・ジョーンズをして「世界屈指の商売人」と言わしめた所属レコード会社社長スティッグ・アンダーソンが、彼らをABBAとして世界へ売り出すことにしたのである。’74年にシングル「恋のウォータールー」がユーロビジョン・ソングコンテストで優勝したことを契機に人気は爆発。ボルボと並ぶスウェーデン最大の輸出品とも呼ばれ、音源の著作権管理する音楽事務所ポーラー・ミュージックおよびユニバーサル・ミュージクの公式発表によると、これまでに全世界で3億8500万枚のレコード・セールスを記録。’82年に活動を休止して40年近くが経つものの、いまだに年間100万枚以上を売り上げているという。 「マンマ・ミーア!」への長い道のり そんなABBAとミュージカルの関係は意外と古い。どちらも幼い頃から伝統的なスウェディッシュ・フォークに慣れ親しんで育ち、10代後半でビートルズやフィル・スペクター、ビーチボーイズに多大な影響を受けたビョルンとベニー。若い頃の彼らにとってミュージカルは時代遅れの文化に過ぎなかったが、そんな2人の認識を変えたのが’72年にスウェーデンでも上演されたロック・ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」(奇しくもマグダラのマリア役を演じたのはアグネッタ)だった。僕らもいつかはああいうミュージカルを作ってみたい。そう考えた彼らは、’77年に発表した5枚目のアルバム「ジ・アルバム」に“黄金の髪の少女”というミニ・ミュージカルを収録。やがて音楽的な成熟期を迎えたABBAは、’80年代に入るとアルバム「スーパー・トゥルーパー」や「ザ・ヴィジターズ」でトレンディなポップスの枠に収まらないミュージカル的な楽曲にも取り組んでいく。 一方その頃、「ジーザス・クライスト・スーパースター」や「エビータ」などのミュージカルで知られる脚本家ティム・ライスは、’70年代から温めてきた冷戦をテーマにした新作の企画を実現するため、当時「キャッツ」にかかりきりだった盟友アンドリュー・ロイド・ウェッバーに代わる作曲パートナーを探していた。そこで知人の音楽プロモーターから紹介されたのが、ABBAの活動に一区切りをつけてミュージカル制作に意欲を燃やしていたビョルンとベニー。この出会いから誕生したのが、全英チャート1位に輝く「アイ・ノー・ヒム・ソー・ウェル」や「ワン・ナイト・イン・バンコック」などの大ヒット曲を生んだ名作ミュージカル「チェス」だった。’86年から始まったロンドン公演もロングラン・ヒットとなり、ミュージカル・コンポーザーとして幸先の良いスタートを切ったかに思えたビョルンとベニーだったが、しかし演出や曲目を変えた’88年のブロードウェイ版がコケてしまう。今なおミュージカル・ファンの間で愛されている「チェス」だが、ビョルンとベニーにとっては少なからず悔いの残る結果となった。 その後、ビョルンとベニーはスウェーデンの国民的作家ヴィルヘルム・ムーベリの大河小説「移民」シリーズを舞台化したミュージカル「Kristina from Duvemåla(ドゥヴェモーラ出身のクリスティーナ)」を’95年に発表。本格的なスウェディッシュ・フォークを下敷きにしたこの作品は、地元スウェーデンでは大絶賛され、4年間に渡って上演されたものの、ロンドンやニューヨークでは英語バージョンがコンサート形式で演奏されたのみ。ミュージカルの本場への正式な上陸には至っていない。 こうして、ビョルンとベニーがミュージカル作家として地道に経験を積み重ねている頃、ABBAのヒット曲を基にしてミュージカルを作ろうと考える人物が現れる。それが、ティム・ライスのアシスタントだった女性ジュディ・クレイマーだ。もともとパンクキッズだったジュディは、ティム・ライスのもとで「チェス」の制作に携わったことから、それまで食わず嫌いだったABBAの音楽を聴いてたちまち夢中になる。そこで彼女は、’83年にフランスで放送されたABBAのテレビ用ミュージカル映画「Abbacadabra」を英語リメイクしようと思い立つ。そう、「マンマ・ミーア!」以前にアバのヒット曲を基にしたジュークボックス・ミュージカルが既に存在したのである。フレンチ・ミュージカルの傑作「レ・ミゼラブル」や「ミス・サイゴン」の脚本家で、フランスにおけるABBAの著作権管理者でもあったアラン・ブーブリルが企画し、ビョルンとベニーの2人はノータッチだった「Abbacadabra」は予想以上の好評を博し、その年のクリスマスにはロンドンでの舞台公演も実現。しかし、ブーブリルの許可が下りなかったため、英語版テレビ映画リメイクの企画は頓挫してしまう。 こうなったら自分で新たなABBAのミュージカルをプロデュースするしかない。そう考えたジュディは、「チェス」を介して親しくなったビョルンとベニーを根気よく説得し、ようやく「良い脚本があれば反対しない」とのお墨付きを得る。そこで彼女は新進気鋭の戯曲家キャサリン・ジョンソンに声をかけ、共同でミュージカルの制作に取り掛かった。最初にジュディが決めたルールは、ビョルンが書いた原曲の歌詞を変えないこと、共通のテーマを見つけて物語を構築していくこと、そして有名無名に関係なくストーリー重視で楽曲を選ぶこと。さらに、当時イギリス演劇界で高い評価を得ていたフィリダ・ロイドを監督に抜擢したジュディは、フィリダを伴ってストックホルムのビョルンとベニーのもとをプレゼンに訪れ、遂にミュージカル「マンマ・ミーア!」のゴーサインを正式に得ることに成功したのだ。 先述した通り、1999年4月にロンドンで開幕した「マンマ・ミーア!」は、ウエスト・エンド史上7番目となるロングラン記録を更新中。新型コロナ禍のため’20年3月に上演中止となったものの、’21年8月より再開される予定だ。また、ニューヨークのブロードウェイでは’01年10月から’15年9月まで14年間に渡って上演され、ブロードウェイ史上9番目のロングランヒットを達成した。そのほか、日本や韓国、ドイツ、フランス、ブラジルなど世界50か国以上で翻訳上演されている。’92年に発売されたベスト盤「ABBA Gold」の大ヒットに端を発する、’90年代のABBAリバイバル・ブームも追い風となったのだろう。筆者もホテル「マンダレイ・ベイ」で行われたラスベガス公演を見たが、ステージと客席が一体となってABBAのヒット曲を大合唱するフィナーレは感動ものだった。 一流の豪華キャストが揃った映画版シリーズ もはや、21世紀を代表する名作ミュージカルの仲間入りを果たしたといっても過言ではない「マンマ・ミーア!」。映画化の企画が立ち上がるのも時間の問題だったと言えよう。監督にフィリダ・ロイド、製作にジュディ・クレイマー、脚色にキャサリン・ジョンソンと、舞台版の立役者たちが勢揃いした映画版『マンマ・ミーア!』(’08)。もちろんミュージカル・ナンバーのプロデュースはビョルンとベニーの2人が担当し、演奏にはABBAのレコーディングに携わったスタジオ・ミュージシャンたちも参加している。 物語の舞台はギリシャの風光明媚な小さい島。ここでホテルを経営する女性ドナ(メリル・ストリープ)は、女手ひとつで育てた娘ソフィ(アマンダ・サイフリッド)の結婚式を控えて大忙し。ところが、その結婚式の前日、招いた覚えのないドナの元カレ3人が島へとやって来る。アメリカ人の建築家サム(ピアース・ブロスナン)にイギリス人の銀行家ハリー(コリン・ファース)、そしてスウェーデン人の紀行作家ビル(ステラン・スカルスガルド)。実は、彼らを結婚式に招待したのはソフィだった。母親の日記を読んで3人の存在を知ったソフィは、彼らの中の誰かが自分の父親ではないかと考えたのである。予期せぬ事態に大わらわのドナ。果たして、3人の男性の中にソフィの父親はいるのだろうか…? シンプルでセンチメンタルで明朗快活なストーリーは、基本的に舞台版そのまま。それゆえに映画としての広がりに欠ける印象は否めないものの、その弱点を補って余りあるのが豪華キャスト陣による素晴らしいパフォーマンスと、誰もが一度聞いただけで口ずさめるABBAの名曲の数々であろう。中でも、メリル・ストリープの堂々たるミュージカル演技は見事なもの。オペラを学んだ下地やブロードウェイでミュージカルの経験もあることは知っていたが、しかしここまで歌える人だとは失礼ながら思わなかった。名曲「ザ・ウィナー」では、オリジナルのアグネッタにも引けを取らない熱唱を披露。親友役ジュリー・ウォルターズやクリスティーン・バランスキーとの相性も抜群だ。劇中に使用される楽曲も、ABBAの代表曲をほぼ網羅。舞台設定に合わせたギリシャ民謡風のアレンジもお洒落だ。 ちなみに、実はこの『マンマ・ミーア!』によく似た設定のハリウッド映画が存在する。それが、大女優ジーナ・ロロブリジーダ主演のロマンティック・コメディ『想い出よ、今晩は!』(’68)。こちらの舞台は南イタリアの美しい村。女手ひとつで娘を育てた女性カルラは、終戦20周年を記念する村のイベントを控えて気が気じゃない。というのも、かつて村に駐留していた米軍兵たちが招待されているのだが、その中に娘の父親である可能性の高い男性が3人もいたのだ…というお話。『マンマ・ミーア』と違って、こちらはドタバタのセックス・コメディなのだが、しかし南欧に暮らす母娘の前に3人の父親候補が現れるという基本設定はソックリ。キャサリン・ジョンソンとジュディ・クレイマーが本作を参考にしたのかは定かでないものの、単なる偶然とはちょっと考えにくいだろう。 閑話休題。全世界で6億5000万ドル近くを売り上げ、年間興行収入ランキングでも5位というメガヒットを記録した映画版『マンマ・ミーア!』。この予想以上の大成功を受けて製作されたのが、映画版オリジナル・ストーリーの続編『マンマ・ミーア!ヒア・ウィ・ゴー』(‘18)である。物語は前作から数年後。既に他界した母親ドナ(メリル・ストリープ)の念願だったホテルの改修工事を終えたソフィ(アマンダ・サイフリッド)は、リニューアル・オープン式典の準備に追われているが、その一方で遠く離れたニューヨークで仕事をする夫スカイ(ドミニク・クーパー)との仲はすれ違い気味。そんなソフィの迷いや葛藤と並行しながら、若き日のドナ(リリー・ジェームズ)と3人の恋人たちの青春ロマンスが描かれていく。 舞台版ミュージカルの映画化という出自が少なからず足枷となった前作に対し、新たに脚本を書きおろした本作は時間や空間の制約から解き放たれたこともあり、前作以上にミュージカル映画としての魅力を発揮している。しかも、今回はABBAファンに人気の高い隠れた名曲を中心にセレクトされており、これが驚くほどエモーショナルにストーリーの感動を高めてくれるのだ。どれをカットしてもシングルとして通用するようなアルバム作りをモットーとしていたABBA時代のビョルンとベニー。熱心なファンであればご存じの通り、ABBAはアルバム曲やB面ソングも珠玉の名曲がズラリと揃っている。さしずめ本作などはその証拠と言えるだろう。中でも、子供を出産したソフィと亡き母親ドナの精霊の想いが交差する「マイ・ラヴ、マイ・ライフ」は大号泣すること必至!改めてABBAの偉大さを実感させられる一本に仕上がっている。 なお、プロデューサーのジュディ・クレイマーによると、シリーズ3作目の企画が進行中とのこと。’21年内に発表される予定のABBAの39年振りとなる新曲も使用されるという。公開時期などまだ未定だが、期待して完成を待ちたい。■ 『マンマ・ミーア!』© 2008 Universal Studios. All Rights Reserved.『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』© 2018 Universal Studios. All Rights Reserved.

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原作者も唸らせた、換骨奪胎の極み!『L.A.コンフィデンシャル』

松崎まこと

 本作『L.A.コンフィデンシャル』(1997)は、ジェームズ・エルロイ(1948~ )が1990年に著し日本でも95年に翻訳出版された、長編ノワール小説の映画化である。 エルロイは両親の離婚によって、母親と暮らしていたが、10歳の時にその母が殺害される。多くの男と肉体関係を持っていたという母を殺した犯人は見付からず、事件は迷宮入り。そしてその後彼を引き取った父も、17歳の時に亡くなる。 エルロイは10代の頃から酒と麻薬に溺れ、窃盗や強盗で金を稼いだ。27歳の時には精神に変調を来し、病院の隔離室に収容されている。 文学に目覚めて小説を書き始めた頃には、30代を迎えていた。彼の著作には、その過去や思い入れが、強く反映されている。 本作の原作は、後にブライアン・デ・パルマ監督によって映画化された「ブラック・ダリア」(87年出版)を皮切りとする、「暗黒のL.A.」4部作の3作目に当たる。原作は翻訳版にして、上下巻合わせて700ページに及ぶ長大なもので、1950年のプロローグから58年までの、8年にわたる物語となっている。 その間に起こった幾つもの大事件が、複雑に絡み合う。更には1934年に起こった、猟奇的な連続児童誘拐殺害事件も、ストーリーに大きく関わってくる。読み進む内に「?」と思う部分に行き当たったら、丹念にページを繰って読み返さないと、展開についていけなくなる可能性が、大いにある。 50年代のハリウッドを象徴するかのように、テーマパークを建設中の、ウォルト・ディズニーを彷彿とさせる映画製作者なども、原作の主な登場人物の1人。膨大な数のキャラクターがストーリーに関わってくるため、原作の巻頭に用意されている人物表の助けが、折々必要となるであろう。 当時の人気女優だったラナ・ターナーの愛人で、ギャングの用心棒だった実在の人物、ジョニー・ストンパナートは、実名で登場。映画化作品では、彼とターナーの愛人関係は、ギャグのように使われていたが、原作では、彼がターナーの実娘に刺殺される、実際に起こった事件まで、物語に巧みに組み込まれている。  さて原作のこのヴォリュームを、そのまま映画化することは、まず不可能と言える。そんな中で、原作を読んで直ぐに映画にしたいと思った男が居た。それが、カーティス・ハンソンである。 彼は、すでに映画化権を取得していたワーナーブラザースに申し入れをして、結果的に本作の製作、脚本、そして監督を務めることになった。監督前作であるメリル・ストリープ主演の『激流』(94)ロケ中には、撮影を進めながらも、頭の中は本作のことでいっぱいだったとも、語っている。 映画化に於いてハンソンは、原作の主人公でもある3人の警察官を軸に、その性格や位置付けは生かしつつも、「換骨奪胎の極み」とでも言うべき、見事な脚色、そして演出を行っている。本作を、90年代アメリカ映画を代表する屈指の1本と評する者は数多いが、一見すればわかる。 映画『L.A.コンフィデンシャル』は、そんな評価が至極納得の完成度なのである。 ***  1950年代のロサンゼルス。ギャングのボスであるミッキー・コーエンの逮捕をきっかけに、裏社会の利権を巡って血みどろの抗争が勃発。コーエンの腹心の部下たちが、正体不明の刺客により、次々と消されていった。 53年のクリスマス、ロス市警のセントラル署。警官が重傷を負った事件の容疑者として、メキシコ人数人が連行された。署内でパーティを行っていた警官たちが、酔いも手伝って彼らをリンチ。血祭りにあげたこの一件が、「血のクリスマス」事件として、大々的に報道されるに至る。 そこに居合わせた、バド・ホワイト巡査(演;ラッセル・クロウ)、ジャック・ヴィンセンス巡査部長(演;ケヴィン・スペイシー)、エド・エクスリー警部補(演;ガイ・ピアース)は、警官としての各々のスタンスによって、この一件に対処。それは対立こそすれ、決して交わらない、それぞれの“正義”に思われた…。「血のクリスマス」の処分で、何人かの警官のクビが飛んだ頃、ダウンタウンに在る「ナイト・アウル・カフェ」で、従業員や客の男女6人が惨殺される事件が起こる。被害者の中には、「血のクリスマス」で懲戒免職になった、元刑事でバドの相棒だった、ステンスランドも混ざっていた。 この「ナイト・アウルの虐殺」の容疑者として、3人の黒人の若者が逮捕される。エドの巧みな取り調べなどで、容疑が固められていったが、3人は警備の不備をついて逃走する。 エドは潜伏先を急襲して、3人を射殺。「ナイト・アウルの虐殺」事件は一件落着かに思われた。 しかしこの事件には、ハリウッド女優そっくりに整形した娼婦たちを抱えた売春組織、スキャンダル報道が売りのタブロイド誌、そしてロス市警に巣喰う腐敗警官たちが複雑に絡んだ、信じ難いほどの“闇”があった。 相容れることは決してないと思われた、3人の警官たち。エド、バド、ジャックは、それぞれの“正義”を以て、この底が知れない“闇”へと立ち向かっていく…。 ***  ハンソンは、ブライアン・ヘルゲランドと共に行った脚色に際して、「ナイト・アウルの虐殺」の真相解明に絡むように発生する、連続娼婦殺害事件や、それと関連する20年前の連続児童誘拐殺害事件等々、原作では重要なファクターとなっている複数の事件のエピソードをカット。物語のスパンはぐっと短期に凝縮して、登場人物の大幅な整理・削減も断行している。 エドとバド、終盤近くまで睨み合いを続ける、この2人の警官の対立を深める色恋沙汰の相手として、原作では2人の女性が登場する。しかし映画ではその役割は、キム・ベイシンガー演じる、ハリウッド女優のベロニカ・レイク似の娼婦リン1人に絞られる。 3人の主人公のキャラクター設定も、巧妙なアレンジが施されている。その中では、幼少期に眼前で父が母を殴り殺す光景を目撃したことから、女性に暴力を振るう男は絶対許せないというバドのキャラは、比較的原作に忠実と言える。しかしジャックに関しては、TVの刑事ドラマ「名誉のバッジ」のテクニカル・アドバイザーを務めながら、タブロイド誌の記者と通じているという点は原作を踏襲しながらも、過去に罪なき民間人を射殺したトラウマがあるというキャラ付けは,バッサリとカット。 そしてエド。彼が警官としての真っ当な“正義”を求めながら、出世にこだわるのは、原作通りである。しかし父親がかつてエリート警察官であり、退職後は土木建築業で成功を収めている実業家となっていることや、兄もやはり警官で、若くして殉職を遂げたなどの、彼にコンプレックスを抱かせるような家族の設定は改変。映画化作品のエドは、36歳で殉職して伝説的な警察官となった父を目標としており、兄の存在はなくなっている。 また原作のエドは、第2次世界大戦での日本軍との戦闘で、自らの武勲をデッチ上げて英雄として凱旋するなど、より複雑な心理状態の持ち主となっている。しかしハンソンとヘルゲランドは、この辺りも作劇上で邪魔と判断したのであろう。映画化に当たっては、その設定を消し去っている。 エドのキャラクターのある意味単純化と同時に、原作には登場しない、映画オリジナルで尚且つ物語の鍵を握る最重要人物が生み出されている。その名は、“ロロ・トマシ”。本作未見の方々のためにネタバレになる詳述は避けるが、奇妙な響きを持つこの“ロロ・トマシ”こそ、正に本作の脚色の見事さを象徴している。  キャスティングの妙も、言及せねばなるまい。主役の3人に関して、すでに『ユージュアル・サスペクツ』(95)でオスカー俳優となっていたケヴィン・スペイシーはともかく、ラッセル・クロウとガイ・ピアースという2人のオーストラリア人俳優は、当時はまだまだこれからの存在だった。 ラッセルの演技には以前から注目していたというハンソンだったが、ガイに関しては、全くのノーマーク。しかし本読みをさせてみると、素晴らしく、ガイ以外の候補が頭から消えてしまったという。またこの2人は観客にとっては未知の人であったため、「…どちらが死ぬのか、生きるのか見当もつかない」。そこが良かったともいう。 とはいえ無名のオーストラリア人俳優を2人も起用するとなると、一苦労である。まずプロデューサーのアーノン・ミルチャンを説得。映画会社に対しては、先に決まっていたラッセルに続いて、ガイまでもオーストラリア人であるということを、黙っていたという。 ラッセルとガイには、撮影がスタートする7週間前にロス入りしてもらい、当地の英語を身につけさせた。またラッセルには、近年のステロイド系ではない、50年代の鍛えられてはいない身体作りをしてもらったという。  さて配信が大きな力を持ってきた昨今は、ベストセラーなどの映像化に際しては、潤沢な予算と時間を掛けて、原作の忠実な再現を、評価が高い映画監督が手掛ける流れが出てきている。例えば今年、コルソン・ホワイトヘッドのベストセラー小説「地下鉄道」が、『ムーンライト』(16)などのバリー・ジェンキンスの製作・監督によって、全10話のドラマシリーズとなり、Netflixから配信された。 こうした作品について、従来の映画化のパターンと比して、「もはや2時間のダイジェストを作る意味はあるのか?」などという物言いを、目の当たりにするようにもなった。なるほど、一見キャッチ―且つ刺激的な物言いである。確かに長大な原作をただただ2時間の枠に押し込めることに終始した、「ダイジェスト」のような映画化作品も、これまでに多々存在してきた。 しかし『L.A.コンフィデンシャル』のような作品に触れると、「ちょっと待った」という他はない。展開に少なからずの混乱が見られ、遺体損壊などがグロテスクに描写されるエルロイ作品をそのままに、例えば全10話で忠実に映像化した作品などは、観る者を極めて限定するであろう。その上で、それが果して全10話付き合えるほどに魅力的なものになるかどうかは、想像もつかない。 因みにハンソンは、混乱を避けるために、エルロイには1度も相談せず、脚本を書き上げた。その時点になって初めて脚本を送ると、エルロイから夕食の誘いがあった。恐る恐る出掛けていくと、エルロイは~彼自身の考えていることがキャラクターを通して映画のなかによく出ている~と激賞したという。  まさに「換骨奪胎の極み」を2時間強の上映時間で見せつけ、映画の醍醐味が堪能できる作品として完成した、『L.A.コンフィデンシャル』。97年9月に公開されると、興行的にも批評的にも大好評を得て、その年の賞レースの先頭を走った。 アカデミー賞でも9部門にノミネートされ、作品賞の最有力候補と目されたが、巡り合わせが悪かった。同じ年の暮れに公開された『タイタニック』が、作品賞、監督賞をはじめ11部門をかっさらっていったのである。 本作はハンソンとヘルゲランドへの脚色賞、キム・ベイシンガーへの助演女優賞の2部門の受賞に止まった。しかしその事実によって、価値を貶められることは決してない。『L.A.コンフィデンシャル』は、監督のカーティス・ハンソンが2016年に71歳で鬼籍に入った後も、語り継がれる伝説的な作品となっている。■ 『L.A.コンフィデンシャル』© 1997 Regency Entertainment (USA), Inc. in the U.S. only.

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初恋のときめきと喜び、痛みと哀しみを瑞々しく描く普遍的なラブストーリー『君の名前で僕を呼んで』

なかざわひでゆき

8年間の紆余曲折が結実した名作 1980年代のイタリア、木漏れ日の眩しい緑豊かな田舎の避暑地、ゆったりと過ぎていくのどかで平和な時間、初めて出会った17歳の少年と24歳の青年が、生涯忘れられぬひと夏の恋を経験する。思春期の若者の揺れ動く感情と抑えきれぬ性の衝動、誰もが一度は経験する初恋のときめきと興奮と喜び、そして否応なく訪れる別れの痛みと哀しみとほろ苦さ。そんな世代や性別を問わず共感できる普遍的なラブストーリーを、これほど瑞々しく鮮やかに描き出した作品はなかなかないだろう。 原作はエジプト出身でニューヨーク在住の文学研究者アドレ・アシマンが’07年に発表した同名小説。出版と同時に全米のメディアで称賛され、優れたLGBTQ文学に贈られるラムダ文学賞にも輝く同作に強い感銘を受けた人々の中に、『花嫁のパパ』や『天使のくれた時間』のプロデューサー、ハワード・ローゼンマンと元俳優の脚本家ピーター・スピアーズがいた。’08年に共同で映画化権を取得した2人は、スピアーズの友人でもあるイタリアの監督ルカ・グァダニーノに演出をオファーするものの、当時多忙だった彼はプロデュースのみで関わることにしたという。そこでローゼンマンとスピアーズは他を当たることになるのだが、なかなか先へ進まないまま時間だけが経ってしまった。 そんな本作の企画に大きな動きがあったのは’14年のこと。『眺めのいい部屋』や『モーリス』、『ハワーズ・エンド』、『日の名残り』などで知られる巨匠ジェームズ・アイヴォリーが脚本を執筆することになったのだ。さらにグァダニーノ監督のスケジュールも調整がつき、当初はアイヴォリーとの共同監督という案もあったものの、最終的に監督は1人の方がいいという判断から、グァダニーノが単独で演出を手掛けることとなる。その後も相次いでキャストやスタッフ、ロケ地も決まるが、しかしストーリーの都合で夏にしか撮影できないという制限があったため、関係者のスケジュールが変わるたびに撮影が延期され、ようやく着手できたのは’16年の夏だったという。 それはいつもと変わらぬ夏休みのはずだった… 時は1983年の夏、場所は北イタリアの風光明媚な田舎町。ギリシャ=ローマ美術史の教授サミュエル(マイケル・スタールバー)を父に、幾つもの言語に精通した翻訳家アネラ(アミラ・カサール)を母に持つ17歳の少年エリオ(ティモシー・シャラメ)は、自身もイタリア語に英語、フランス語を自在に操るマルチリンガルで、ピアノやギターの優れた演奏家でもあり、文学と音楽をこよなく愛する知的で感受性の豊かな思春期の少年だ。17世紀に建てられた先祖代々受け継がれる美しいヴィラに暮らし、眩い太陽の光と緑豊かな自然に囲まれて読書や音楽を楽しみ、フランス人のマルシア(エステール・ガレル)やキアラ(ヴィクトワール・デュボワ)など近所の幼馴染らと無邪気に戯れながら長いバカンス・シーズンを過ごすエリオ。それはいつもと変わらぬ夏休みのはずだった。 そんなある日、24歳の大学院生オリヴァー(アーミー・ハマー)がアメリカからやって来る。エリオの父親は自身の研究活動を手伝ってもらうため、毎年アメリカから大学院生をインターンとして受け入れ、自宅に6週間滞在させていたのだ。ハンサムで知的で自信に満ち溢れたオリヴァーに、これまでのインターンとは違う何かを感じて惹きつけられるエリオ。オリヴァーもまた、聡明で繊細なエリオに好感を抱いている様子で、積極的にスキンシップをとって来るのだが、エリオはついつい本心とは裏腹に意地悪な態度を取ってしまう。そればかりか、ダンスパーティでキアラと親しげに踊るオリヴァーを見たエリオは嫉妬し、わざとマルシアとのデートを自慢して彼を挑発する。当然ながらオリヴァーはエリオと距離を置くように。それがまたエリオには苛立たしい。 とある晩、親子3人の団欒の場で母アネラが、16世紀フランスの小説をドイツ語でエリオに読み聞かせる。それは身分違いの王女に恋した騎士の話。その想いを王女に告白すべきか否か。翌朝、自転車に乗ってオリヴァーと2人で町へ出かけたエリオは、意を決して彼に自らの素直な気持ちを打ち明ける。それを口にしちゃいけないと年下のエリオをけん制しつつも、自らも同じ想いであることを否定しないオリヴァー。これを境にエリオとオリヴァーの距離はだんだんと縮まり、2人はかけがえのない幸福な時間を過ごすのだが、しかし夏の終わりは少しずつ、だが確実に近づいていた…。 あるべき大人の姿が物語の屋台骨を支える 恐らく本作の最も特筆すべき点は、男性同士の恋愛を男女のそれと全く変わらぬものとして、ごくごく自然な筆致で描いていることであろう。なので、LGBTQを題材にした映画でよくあるような、差別や偏見との闘いや葛藤などはほとんど存在しないに等しい。もちろん、全くないというわけじゃない。現にエリオもオリヴァーも、自分たちの関係を周囲には隠し通そうとする。恐らく理解されないと考えているのだろう。しかし、恋に落ちた2人だけの煌めく世界には迷いも苦悩も罪悪感も一切ない。ただひたすら、心から純粋に愛し愛されることの歓喜と幸福に満ちているのだ。 そんな彼らを温かな目で見守るのが、優しくて落ち着いていてユーモアのセンスがあり、息子の知性や意思をきちんと尊重して受け止める、エリオの進歩的で教養豊かな両親だ。ゲイ・カップルと家族ぐるみの付き合いをしているくらいだから、当時としてはかなりリベラルなインテリ夫婦なのだろう。息子とオリヴァーの関係だって、言われずともすべてお見通し。それでいて、息子が必要とする時に支えるだけで、それ以外は一切口出しをしない。まさに大人とはかくあるべし。一歩間違えれば綺麗ごとになりかねないキャラクターだが、しかし終盤で父親サミュエル(原作者の父親がモデルだという)がエリオに語る含蓄に溢れる言葉が、この映画の意図するところを明確にし、絵空事にならない豊かな説得力を両親の役割に与えている。 自分が若かった頃に必要だった人間になること。それが次世代の若者の手本となり、やがては彼らが生きやすい社会を形成することにもつながるだろう。映画もまた然り。相手が誰であろうと人を心から愛することに優劣はないし、ましてや恥ずべきことでは決してない。そもそも愛情とは人間にとってごく自然な感情であり、その喜びも哀しみも痛みもすべてをひっくるめて、かけがえのないほど素晴らしいものなんだ。そんなメッセージを持った映画を若い頃に求めていた作り手たちが、次世代の若者たちへ向けて贈る人生の指標的な物語。それがこの『君の名前で僕を呼んで』なのだと言えよう。 古き良き時代ののどかで素朴な北イタリア、のんびりと流れていく贅沢な時間。その中で一進一退を繰り返しながらも、確かな愛情の絆を育んでいくエリオとオリヴァー。その全てを端正な映像美と穏やかなテンポで描いていくルカ・グァダニーノの監督の演出がまた筆舌に尽くしがたい。特に、’80年代当時に思春期真っ盛りだった世代の映画ファンにとっては、本作の驚くほどリアルで鮮やかな時代の再現力には息を吞むはずだ。グァダニーノ監督が参考にしたというモーリス・ピアラ監督の名作『愛の記念に』(’83)や『ラ・ブーム』(’82)など、当時のヨーロッパ産青春映画のノスタルジックで甘酸っぱい世界そのもの。また、監督の地元であるロンバルディア州の町クレマとその近郊で撮影されたというロケーションには、どこかベルナルド・ベルトルッチ作品を彷彿とさせるものも感じられる。 さらに、イタリア語に英語、フランス語、ドイツ語など多言語が自在にポンポンと飛び交うセリフも、主人公の育った環境の豊かさや登場人物たちの教養の高さ、そしてヨーロッパの地政学的な背景を雄弁に物語る。これは日本語吹替版ではなかなか伝わらない要素なので、やはり字幕版で見るべき作品なのかもしれない。 ‘80年代ヨーロッパを彩った名曲の数々にも注目 加えて、’80年代ノスタルジーを一層のこと掻き立てるのが、全編に渡って散りばめられたBGMの数々である。アメリカのシンガー・ソングライター、スフィアン・スティーヴンスのオリジナル曲を中盤とエンディングに使用している本作だが、それ以外では’80年代当時のヒット曲が様々な場面で流れる。この選曲がまた極めてヨーロッパ的で面白い。 今以上にヒットチャートのローカル色が強かった当時、アメリカとヨーロッパでは上位にランキングされる楽曲やアーティストのメンツもかなり異なっていた。ヨーロッパで一世を風靡するような大ヒット曲が、アメリカでは全く受けないなんてことはザラだったし、もちろんその逆もまた然り。本作のサントラはグァダニーノ監督自身が選曲したそうだが、恐らくアメリカ人の監督だったらこうはならなかったであろう。そこで、最後は劇中で使用された印象的な楽曲を幾つか紹介して、本稿の締めくくりとさせていただきたい。 「Paris Latino」Bandoleroフランス出身の一発屋ディスコ・バンド、バンドレロが’83年にリリースしたデビュー曲。タイトル通りのラテン風ユーロディスコ・ナンバーで、フランスやベルギーなどフランス語圏を中心にヨーロッパ各国で大ヒット。その大きな波を受けて、アメリカやイギリスでもヴァージン・レコードから発売されたがパッとしなかった。劇中では、オリヴァーに肩を触られたエリオがドギマギするバレーボールのシーンで使用されている。 「Lady Lady Lady」Giorgio Moroder featuring Joe Espositoドナ・サマーのプロデューサーとして一時代を築いたジョルジオ・モロダーが、そのドナの大ヒット曲「バッド・ガールズ」などの共同ソングライターだったジョー・エスポジートをボーカルに迎えて発表したバラード曲。もともとは映画『フラッシュダンス』のサントラ用にレコーディングされ、同年発売されたモロダーとエスポジートのコラボ・アルバム「Solitary Man(邦題『レディ・レディ・レディ』)」にも収録された。アメリカでは全米チャート86位と振るわなかったが、ヨーロッパ各国ではトップ10入りするヒットに。劇中ではダンスパーティのチークタイム曲として使用されている。 「Love My Way」The Psychedelic Fursその「Lady Lady Lady」に続いて流れるダンス・ナンバーが、’80年代に日本でも人気だったUKのポストパンク・バンド、ザ・サイケデリック・ファーズが’82年に出したシングル「Love My Way(邦題『ラヴ・マイ・ウェイ』)」。彼らといえば、後に映画『プリティ・イン・ピンク』で使用された同名曲(’81年発売)が恐らく最も有名だと思うのだが、こちらを選ぶあたりは大ファンを自認するグァダニーノ監督らしいセンスと言うべきだろうか。 「Words」F.R. Davidエリオがマルシアと屋根裏部屋でセックスをするシーンで、ラジオから流れてくる甘く切ないポップ・バラードが、フランス出身のシンガー・ソングライター、F・R・デヴィッドの代表曲「Words(邦題『ワーズ』)」。これは当時、日本のディスコでもかなり流行ったので、ご存知の方も少なくないかもしれない。’82年にリリースされるやヨーロッパ各国のヒットチャートで1位を独占し、全英チャートでも最高2位をマーク。今なお’80年代を代表する名曲としてヨーロッパで愛され、幾度となくリミックス盤もリバイバル・ヒットしているのだが、なぜかアメリカでは不発に終わってしまった。■ 『君の名前で僕を呼んで』© Frenesy, La Cinefacture

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『ホビット 思いがけない冒険』オレのクリスマスは今年から、いとしいしと、マーイプレシャースなピージャク神を崇め奉る行事になった件について

飯森盛良

 視聴者の皆様、謹んでメリクリ申し上げます。ワタクシ、普段はザ・シネマの吹き替え担当をやっている者です。トールキニアン歴25年ということで、何故かこのたび筆をとることになりました。  さて、「『ホビット 思いがけない冒険』ジャパン・ホビット・デー ジャパン・プレミア イベント レッド・カーペットご観覧ご招待」という、当チャンネル史上もっとも長い名称の(多分)プレゼントを10組20名様に差し上げましたが、12月1日のそのイベントに当選された方、ホビット・デーはいかがでしたか? 六本木ヒルズにお越しいただけましたでしょうか? お楽しみいただけました? そうですか。それは何よりです。  その『ホビット 思いがけない冒険』が、いよいよ今日から公開されました! もう、待ちに待った、という感じですね。以前、当チャンネルで『ロード・オブ・ザ・リング』略して『LotR』を三部作一挙放送した際、このブログにもガッツリ長文を書いてヘロヘロになったもんですが、あっという間にあれから4年…。  そのブログ中でも『ホビットの冒険』映画化については言及しましたが、4年たってフタを開けてみればタイトルは『ホビット』。『LotR』と同じく三部作となり(これが最初の一発目で、以降、毎年公開予定)、さらに監督も、すったもんだがありました、で結局変わらず神ピーター・ジャクソンのまま、ということになりました。前作ファンにとってはまさにベストな形で落ち着いてくれて一安心。この間、紆余曲折ありましたからねぇ…。  この作品、『LotR』も『ホビット』も、熱狂的ファンがたくさんいます。映画版だけでなく原作からのファンも多い。また、RPGの原点ともされているため、ゲームから本作に興味を持ったというファンも少なくないはず。昨今の映画で人気大河シリーズは数あれど、映画版、原作、さらにはゲームの影響と、三方から各ファンが大量に結集してきているような超・超人気シリーズは、本作ぐらいではないでしょうか。  ワタクシも中1以来、ゲーム→原作→映画というルートを歩んできたファンで、もう四半世紀近くファンを続けてるんですが、それでもこの作品の場合は新参者・若輩者です。それぐらいファン層が厚い。この奥深さ、まさしく一生モノなのです。こういう場でワタクシごとき豎子が駄文を披露するのは、諸先輩がたに申し訳ない気持ちでいっぱいであります、ハイ。  さて、そんな作品だけに、『ホビットの冒険』を映画化した今作『ホビット 思いがけない冒険』には、原作ファンならではの心配事というのも、実はありました。  『ホビット』は『LotR』のプリクエルなんですね。プリクエル、つまり前日譚です。原作だと、先に『ホビットの冒険』の方がトールキンによって書かれました。しかも、児童文学として。実際、日本でも岩波少年文庫などから出ていますが、ボリュームも、文字の大きさも、漢字の割合も、続編『指輪物語』こと『LotR』と比べて明らかに子ども向けの小説です。『LotR』のような歴史や言語の創造という領域にまで踏み込んだ、壮大な叙事詩というより、ちょっとしたフィンタジーアドベンチャー小説といった気軽さです。私が中1にして人生初読破した小説が、この『ホビットの冒険』上下巻でした。  それが、心配事です。あの『LotR』の壮大なスケールに大感動し、号泣し、この映画が人生ベストだ!と断言して回っているような人種(オレ)にとって、その前日譚で児童文学の『ホビットの冒険』は、スケールダウンしたように映っちゃうのでは…?  で、観ました。杞憂でした! 全国のトールキニアンの皆様、ご安心ください! もう、凄いことになっちゃってます!!  4年前のブログにも書きましたが、ピージャック神、この人は原作ファンにとっては神です! 昨今「お前、原作を全っ然わかってねぇーな!」という文化冒涜事件が多発しておりますここ日本ですが、そういうことが神には皆無です。神自身が原作マニア。原作を愛し抜いているマニアの中の真性どマニアが、原作を最大限リスペクトしながら、愛を込めて、原作に付け足したり原作から差し引いたりして使った、映画版。よくぞ!よくぞと言う他に言葉がありません!よくぞやってくれたという出来です!!  まず、なにをどうやったらこうなるのか、『ホビットの冒険』が大人向けになっちゃってます! しかも、原作の魅力もまったく損なわれていない! 『LotR』のテンションで『ホビットの冒険』を映画にしているのです。これ凄くないですか? 神は、またも奇蹟を見せてくれました。これによって、原作を知らない映画から参入組のファンは、『LotR』と同水準の超ハイクオリティな物語を、期待通りに楽しめます。かつ、原作からどっぷりファンという層も、大人として『ホビットの冒険』を楽しめるという予想だにしなかった体験をすることができるのです。もう、全員が得してる!これぞまさしくWin-Win関係!  さて、この物語は、『LotR』にも出てきたホビット族のおじいちゃん、ビルボ・バギンズの若かりし日々のお話です。バギンズ家(『LotR』でフロドが継いだ家)に、ある晩、ガンダルフに導かれた、トーリンをリーダーとする13人のドワーフ族が押しかけてきます。そして、ドラゴンに奪われた祖国とそこに眠る財宝を奪回しに行こう、という話になり、何故か、初対面でしかもノンビリ系のビルボ・バギンズまでが、“忍びの者”というポジションでそのメンバーに加わることになっちゃって、壮大な冒険に身を投じていくのです。その道中で、ビルボ・バギンズは、例の指輪を手に入れることになります。あの、ゴラムから…。  「ドラゴンに奪われた祖国と財宝」と書きましたけど、原作の児童文学の方では、どちらかというと「財宝奪還」の方がメイン。しかしこの映画版だと「祖国の再興」の方に重点が移っている印象です。ドワーフ族は、祖国を失い、異種族の土地に流れて行き、各地に分散して小集団で暮らす「流浪の民族」として、かなり判りやすくメタファー的な描かれ方をしています。  ドワーフ族と言えばゲームでもお馴染み。見た目はお約束的に、長いヒゲを伸ばしている年老いた頑固な小人、というステレオタイプがあって(白雪姫の例の7人も実はドワーフです)、『LotR』三部作のギムリなんかはまさにそのステレオタイプ通りのキャラでした。でも、今作ではイケメン・ドワーフやヤング・ドワーフなども出てきて、ピージャック神はあえてお約束を崩しにかかっているようにワタクシは見受けました。  『ホビットの冒険』という子ども向け小説を、流浪の民族の物語に、宿命に立ち向かって失われし祖国を再興しようという漢どもの熱きドラマに再構築する。しかも『LotR』水準の壮大なスケールで、大人の観客に滂沱たる大号泣をさせるクオリティで映画として再構築するためには、この手しかありません。ステレオタイプを脱し、彼らドワーフ族を人間的に描くしかありません。そうでなければ深いレベルでの感情移入ができない。ピージャック超アタマいいな!こんなところに神の奇蹟が顕現しています。  さて、今作で我々は、原作にも登場してくる灰色のガンダルフ(『LotR』1作目のようにまだ灰色です)と、裂け谷のエルロンド卿、そしてあのゴラムは言うまでもなく、さらにはガラドリエルの奥方や、白のサルマン、イアン・ホルム演じる老いたビルボ、そしてフロドとまで再会を果たすことになります。これは原作ファンにとっても予期せぬ再会。泣くしかない!  さらに、『LotR』で何度も観た、牧歌的なホビット庄や、この世ならぬ幽邃美に満ちた裂け谷といった、懐かしい土地を、我々は今作でまた再訪することになります。もう泣くしかない!  加えてサントラです。『LotR』を愛する者の耳に残って一生離れることはないであろう、魂の旋律の数々。ホビット庄のライトモチーフ。エルフ族のライトモチーフ。そして、あの、ひとつの指輪のライトモチーフが今作でも流れ、懐かしさと同時に、ファンならイントロを聞いただけで、今スクリーンで何が描かれているのか、たちどころに理解できてしまうことでしょう。もはやほとんどワーグナー!本当に泣くしかない!  おまけに、映画としての『LotR』にたった一つだけ欠けていた魅力、3D、ということまでも、今作からは加わったのですから、もはや泣かない理由がありません。  嗚呼、神よ感謝します。以下、突然ではありますが、去る12月1日、レッドカーペットの前に開かれた来日記者会見の席にて発せられた、ピージャック神のありがたい御言葉をこの場を借りて伝えますので、どうか心してお読みいただき、明日の心の糧としてください。 「この物語は、『LotR』の60年前という設定です。本作での行動がこの後どういう結果を招いたかということを、観客の皆さんは『LotR』を観てすでにご存知のことでしょう。今作の劇中で、ビルボにはゴラムを殺す機会があります。だが、ビルボは哀れみを見せる。正義感から彼がそこでゴラムを殺さなかったために、この物語は『LotR』の火山にまでつながっていくことになるのです。今作は『LotR』の様々な出来事の序章となっていますが、今、『LotR』から十年以上が経ち、このことは私にとっても大変感慨深く迫ってきます」  そしてこの作品、1秒48フレームという高い描画速度で3D撮影されておりまして、一部劇場ではHFR3D(ハイフレームレート3D)版で公開されておりますが、そんなテクニカル天上界語が難しすぎてアワアワしていた我ら人間界の迷える衆生に対し、神は、噛んで含めるようにして、易しくその神意を説いてくださったのでした。 「1927年、トーキーが誕生して映画に音が付くまで、撮影は手回しで行われていました。手動ですからフレームのスピードが一定ではなかった。しかし、やがてフィルムに音も同時に録音できるようになると、手回しでは音が安定しなくなった。では24フレームに決めよう、という基準がそこで作られたのです。これなら録音は安定する。当時35mmフィルムは高価だったため、24というフレーム数になったのです。 (筆者注:1秒間を24コマで撮影するということ。倍の48コマで1秒とするなら、画はなめらかな動きになるが、フィルムを倍の長さ消費することになり、当然フィルム代が倍かかることになる。逆に1秒12コマに減らせばフィルムは長さ半分、半額で済むが、絵がカクカク動くことに)  以降85年間、それがずっとスタンダードであり続けました。何千台もの映写機やキャメラが作られてしまい、今さら変えようがなかったからです。しかし近年デジタル化が進んで、映写機もキャメラも、フレームレートを変更可能になりました。  では、24から48にフレームレートを増やすことで、何がどう変わるか? 世界にリアリティが生まれるのです。本物の世界により近づけるのです。つまり3Dとハイフレームの融合は、実に素晴らしいコンビネーションだと言えるでしょう。本物の世界観を観客に見せられる。  さらに、映画館に行く動機にしてもらいたいという願いもありました。iPhoneやiPadで映画が観られるご時世です。この『ホビット』のような大作を、新しいテクノロジーで映画館で観て欲しい。人々を映画館に取り戻したい、という想いを、私はこの48フレームに込めました」  動いている対象を1秒間に24枚パシャパシャパシャパシャっと連続撮影し、その写真24枚を1秒間に等間隔でパラパラパラパラっとパラパラ漫画にすると、それは動いているように見える。1秒間の映像になります。これが映画の原理です。お金もないし面倒だから1秒間の動きを8枚の絵に描き、その8枚を1秒かけてパラパラ漫画にする、それが日本のアニメの原理です(スイマセン、かなり強引に単純化して話してます)。  で、このたび最高神は、神の持つ天地創造の御力により、1秒間を48に分割し、その48枚の静止画を1秒間に等間隔でパラパラ漫画にする、という、時間と世界の作り替えをおやりになられた、ということなのです。嗚呼、奇蹟だ! つまり、理論上は絵が倍なめらかに動くようになった訳です。しかも3D! これは『アバター』ショック以降の映画史において最大級のセカンド・インパクトではないでしょうか? まさに我々観客は、映画『ホビット 思いがけない冒険』を観ている間中ずっと、オレ中つ国に迷い込んじゃった!オレそこにいるわ!というアンビリバボーな奇跡体験をすることになるのです!  人類は、ここまできたか! 映画は、ここまでのことをできるようになったか! オレがこの歳まで映画を観続けてきたのは、すべてこれを体験するためだったのか! 泣くしかない。ただ黙って泣くしかない。もう本当に、冗談ではなく泣くしかない。ワタクシなんか170分間常時涙目、時に号泣でしたわ!皆さん、これは観ましょう。■ ©2012 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND METRO-GOLDWYN-MAYER PICTURES INC.

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『クリムゾン・ピーク』⑥(完) 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え

飯森盛良

ミア・ワシコウスカとジェシカ・チャステイン、そしてトム・ヒドルストンのこと  ミア・ワシコウスカは映画『イノセント・ガーデン』(2013年)にも娘役で主演している。母親役はニコール・キッドマン。一族の呪われた秘密、恐ろしい狂人、おぞましい近親相姦(の一歩手前)が盛り込まれたスリラーだ。この母娘を描く上で、パク・チャヌク監督は「おとぎ話の女王と王女として、ゴシック調の城に閉じ込められているイメージを抱いていた」と明言している。そしてニコール・キッドマンは『アザーズ』(2001年)というアレハンドロ・アメナーバル監督のゴシック風心霊ホラーにも主演していて、そちらで描かれるのはお屋敷に閉じ込められたニコール・キッドマンと、夜ごとの心霊現象、一族の呪われた(アッと驚く)秘密なのだ。  ここではニコール・キッドマンのことはいい。ミア・ワシコウスカである。『ジェーン・エア』に、『イノセント・ガーデン』に、そして『クリムゾン・ピーク』に主演した彼女こそが、当代においてはゴシック/ゴスを体現する女優なのだ。ひと昔前ならヘレナ・ボナム=カーターかウィノナ・ライダーが担っていたポジションである。ミアの、青白いとさえ言える肌の白さ。破顔一笑とは決していかない抑えた感情表現。ハの字眉はいつも困ったように眉根が寄せられている。薄幸そうで儚なげなそのM的ルックスは、まさにゴスのために用意された道具立てとしか思えない。よって当然、デル・トロと並ぶゴス偏愛監督の双璧ティム・バートンもまた、彼女のことを起用せずにはいられない。『アリス・イン・ワンダーランド』(2010年)である(そういえばティム・バートンもまた、フランケンシュタインに魅入られたゴス教祖だ。『シザーハンズ』や『フランケンウィニー』を見れば明らかな通り)。  しかし、演技者たるもの、同じような役ばかり何度も演じていたのではチャレンジにならない、という考え方もあっていい。それを公言する、あまつさえこの『クリムゾン・ピーク』のプロモーション活動中に誰憚ることなく言い放つ、という、関係者が凍りつくようなマウンティングに出たのが、誰あろうジェシカ・チャステインである。恐い女である。つまり、最高だ!  実は当初、ヒロインのイーディス・カッシング役は彼女がオファーされていたのだ。「でも、イーディスと似たようなキャラクターは以前演じたことがあると感じたの。そして、一度も演じたことがないキャラクターを見つけた。演じる上で最大のチャレンジとなる役。そう、ルシールよ」と、公式書籍『ギレルモ・デル・トロ クリムゾン・ピーク アート・オブ・ダークネス』(DU BOOKS出版刊)の中で、彼女はこの、“誰かさん”への当てこすりとも取れる豪語をしている(ゲスの勘ぐりだろうか?)。この発言、ジェシカのクールでS的な美貌とも相まって、一部の男性ファンにはある意味で堪らないものがあるだろう。最高だ!が、さらに、彼女が演じることになったルシール役のイメージとも見事に重なるのである。すなわちサディストの「怪人めいた(女)主人」という、つまりはゴシックロマンスにおいて一番美味しい役どころだ。結果的に本人もいたく満足し、役に入れ込んだ旨の発言を同書の中でしている。  ミアのM的な魅力と、ジェシカのS的な魅力。この2つを本作でデル・トロ監督は具体的に、蝶と蛾の対比的イメージに託している。2人(が演じたキャラクター)は、美しい蝶と、それを捕食する肉食の蛾だ、と監督は語っている(“肉食の蛾”なるものを寡聞にして知らないが)。そして蝶と蛾のモチーフは時に歴然と、時に隠れキャラのようにして、本作の映像の中に頻繁に描きこまれているのである。  なお、ジェシカ・チャステインが「イーディスと似たような役を以前演じたことがある」と言っているのは、おそらくは、日本未公開・未ソフト化の彼女の映画デビュー作『JOLENE』(2008年)のことをさしているのではないかと睨んでいるのだが、はたしてどうか?我が国では見る手段が現状ない幻の映画なので、以下、再々の脱線にはなるが、オチまで含め『JOLENE』について余談ながら詳しく書き残しておこう。  不幸な生い立ちの孤児ジョリーン。愛に飢えていて、メガネのヒョロヒョロへなちょこダサ男君と16歳女子高生の身空で学生結婚。ダサ男君の叔父夫婦の家に居候するが、ダンディーちょいワル叔父と2人きりの時に関係を迫られ、愛され願望の強い彼女は喜んでそれに応じてしまい、以降、叔母と旦那の目を盗んで暇さえあれば義理の叔父とヤリまくる。しかし、事の最中に叔母に踏み込まれて修羅場に。旦那のダサ男君は衝動的に自殺。叔父は相手が16歳ということで和姦であっても未成年者強姦罪で逮捕され実刑となり、一家離散に。これを皮切りにその後も、他者依存体質の彼女が、援交ヒッチハイクをしながら“アメリカ流れ者”となってどこかの土地に流れ着き、誰かとくっついてはさんざん翻弄され関係破綻し、また次の愛を求めて全米をさまよう、というパターンが繰り返されていく。精神科少年院(『17歳のカルテ』的な)のレズ看守長、ロマンチストで優しくて妻ジョリーン以外の女にも全部そう接するチャラ男のタトゥー屋ヤク売人、抗争まっただ中のベガスの組長、バイブルベルトの原理主義トゥルーリッチマンなど。彼女はわらしべ長者的に、前の相手との短い結婚生活で学んだ経験をもとに毎回少しずつ成長し、最後にはグラフィック・ノベル画家として自活を実現。25歳の自立した大人の一女性としてLAの目抜き通りをスクリーンの奥へと去っていき、そこで映画の幕は閉じる。  ジョリーンは、男どもに依存し庇護されないと1人では何もできない無力な少女だったが、やがて自ら考え状況を切り拓く思考力と勇気を獲得していく。彼女には唯一、絵を描く才能だけはあり、最初はただの手すさびだったものが、最後には筆一本で食っていくところまでいって、この、少女の成長と自立の物語は終わる。『クリムゾン・ピーク』ヒロインのイーディス・カッシングと確かに被るのだ。イーディスもまた、成金の父や英国貴族の夫などに庇護される、自分では何一つできない世慣れぬ若妻のアマチュア小説家であり、しかし次第に、事態を自己解決できるたくましさを身につけ、やがては自立した女として、おそらくはペンで身を立てていくことになるのだろう。  ジェシカ・チャステインは、16歳の女子高生から25歳社会人までのジョリーンを演じきるのだが、これがスクリーンデビューとは思えぬその演技の幅に驚かされる(実年齢は当時30歳)。特に冒頭からしばらく続く16歳時のエピソードでは、アラサー女優が高1を演じるという年齢的な無理、しかも決して童顔ではない彼女がそれを演じるという苦しさをいささかも感じさせない(無論25歳の方は25歳にちゃんと見える)。この16歳パート、おそらく、芸名「マリリン・モンロー」になる前の十代の頃のモンロー、つまりノーマ・ジーンを参考に役作りしたのではと睨んでいるのだが、この見立て、はたして当たっているだろうか?赤い巻き毛に赤いリボン、真っ赤な口紅。頭が弱く、性にだらしがない。俗に言う“サセ子”のイメージだ。ノーマ・ジーン=後のモンローもまた、不幸な生い立ちの孤児であり、そのため愛に飢え、生涯に3度結婚。相手は無名の整備工(16歳で!)から国民的大リーグ選手、高名な劇作家まで。さらには司法長官や合衆国大統領とも不倫関係だったことは周知の通りである。ジョリーンはモンローとも大いに重なるのだ。30歳のジェシカ・チャステインはピンナップやエロ写真の中の幼いノーマ・ジーンそっくりに外見を仕立てることでこの役を作っていったのではないだろうか。  また、16歳女子高生おさな妻と義理の叔父が同じ屋根の下で繰り広げる愛欲の日々、というのは完全にロリータ映画の展開だが、そのタブー感を強調するためにか、映画『JOLENE』ではかのバルテュスの絵画が何度か引用される。これは絵の才能だけは持って生まれたヒロインの人物造形ともリンクしてくる。まず、タイトルバックで「本作の主人公はこの絵に描かれている少女です」とでも宣言せんばかりに全画面にバーン!と映し出される絵画からして、バルテュスの作品なのだ。具体的には「横たわるオダリスク(Odalisque allongée)」という一幅。19世紀に流行った伝統的かつ官能的な画題を、バルテュス流の筆致で、気だるく背徳的に描いた画家晩年の佳作だ。その絵姿はジョリーンに瓜二つ。さらに、ジョリーン自身が自らを描いた自画像までもが、どこかバルテュス風なのである。十代前半の少女たちがモデルを務めたバルテュスの絵画。本人たちに判断力は備わっていないが、画家の求めに応じエロチックなポーズをとらされ、倒錯的な絵に描かれた。そのことと、愛が欲しいあまり、言われるがまま男の要求に応じ続けた十代のジョリーンの姿も、どこか重ならないだろうか?  …余談が長くなりすぎた。いい加減『クリムゾン・ピーク』に戻らねばならない。最後にもう一人、トム・ヒドルストンにも言及しないわけにはいかないのだから。  ヒドルストンは、名目上は屋敷の当主でありながら、実質的な主である恐るべき姉にコントロールされ、それでも善の心をまだ完全には失いきっておらず、人間性を取り戻そう、呪われた一族から脱け出そうとあらがう貴族(正確には世界史の教科書に出てくる「郷紳」、ジェントリ階級)トーマス・シャープ準男爵役を演じる。トム・ヒドルストン自身もジェントリの血を引き、イートン校→ケンブリッジ大へと進んだ本物のジェントルマンで、この学歴は奇しくもゴシックロマンスの元祖である18世紀の貴族作家ウォルポールと同じだ。別の映画でロキを演じる時にも見せてくれる彼のあの貴公子っぷりは、実はほとんど素なのではないだろうか。プロモーション時のインタビューではゴシックロマンスに関する見識も言葉の端々に覗かせている。インテリであることが隠しきれないほどに教養あふれる演技者なのである。  本作は登場人物が多くはなく、中心となるのは以上の3人だが、3人を演じる俳優三者が三様に本来的に備えている資質を最大限に引き出し、魅力的で実在感あるキャラクターを創造しえたことは、本作の大きな成功点だ。すべからく映画とはそうあるべきだが、多くの凡作では実現できていない。最悪ミスキャストという駄作も多い。そして、彼らがまとう惚れ惚れする衣装、ゴシック館をセットで丸々一軒建ててしまう大がかりな美術、それらを通貫する徹底的に設計された色彩美は、これぞまさしく映画だ。その上、過去の偉大なる文学的遺産ともリンケージする豊かな間テクスト性については、ここまで縷々書き連ねてきたとおりである。本来であればさらにここで、文学だけでなく19世紀の画壇、ロマン主義絵画や「挿絵の黄金時代」の画家たちによるイラストレーションと本作との視覚的リンクについても言及せねば片手落ちになるのだが、さすがに紙幅も尽きてきた。そろそろまとめに入らねばならない。  デル・トロ監督の、溢れる奇想のイマジネーションと、汲めども尽きぬ文学・芸術分野の教養、その2つが緻密な計算に基づき込められ、150年も前に流行し、やがて廃れた文芸ジャンルを美しくも恐ろしく現代の映画として蘇らせた本作。かくも豊かな映画、これぞ映画、これこそが映画、文字通りの「ザ・シネマ」を撮れてしまうクリエイターは、当然、アカデミー監督賞にこの上もなく相応しいし、彼のクリエイトした映画芸術がアカデミー作品賞を獲るのもまた、早晩必至だったのだ。  2018年の今年、「プラチナ・シネマ」最終回を飾るのに相応しい映画、もとい、身に余るほどの傑作、それが『クリムゾン・ピーク』である。■ © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存

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