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COLUMN/コラム2021.06.08
ヒッチコックの「ピュアシネマ」を実践したブライアン・デ・パルマ監督の傑作スリラー『殺しのドレス』
※注:本稿は一部ネタバレを含みますので、予めご了承ください。 公開当時に物議を醸した問題作 『悪魔のシスター』(’72)や『ファントム・オブ・パラダイス』(’74)のカルト・ヒットを経て、『キャリー』(’76)の大成功によってハリウッドのメジャー・シーンへと躍り出たブライアン・デ・パルマ監督。’80年代に入るといよいよキャリアの全盛期を迎えることとなるわけだが、その幕開けを告げる象徴的な作品がこの『殺しのドレス』(’80)だった。血みどろの残酷描写や際どい性描写のおかげでレーティング審査ではMPAA(アメリカ映画協会)と揉め、女性やトランスジェンダーの描写が人権団体から激しく非難を浴びる一方、ヒッチコックへのオマージュを独自の映像言語へと昇華させたスタイリッシュなサスペンス演出は、ロジャー・エバートやポーリン・ケールといったうるさ型の映画評論家から大絶賛され、興行的にも『キャリー』に迫るほどの大ヒットを記録した。 舞台は現代のニューヨーク。上流家庭の美しい人妻ケイト・ミラー(アンジー・ディッキンソン)は、ベトナムで戦死した前夫との息子ピーター(キース・ゴードン)を愛する良き母親だが、しかしその一方で裕福な夫マイク(フレッド・ウェバー)の無関心な態度に日頃から不満を覚えている。今朝も久しぶりに夫が体を求めてきたと思ったら、まるで人形を相手にするかの如く一方的に射精してオシマイ。もはや私には女性としての魅力がないのだろうか?かかりつけの精神分析医エリオット(マイケル・ケイン)のセラピーを受けた彼女は、「先生は私とセックスしたいと思ったことある?」と問い詰めてエリオット医師を困らせてしまう。 その日の午後、ケイトはひとりでメトロポリタン美術館へと足を運ぶ。たまたま隣に座ったハンサムな男性に惹かれ、思わせぶりな態度を取って相手の反応を試すケイト。向こうもまんざらではなさそうだ。大人の男女による無言の駆け引き。一度は彼を見失ってしまったケイトだったが、しかし美術館の外に出ると男性はタクシーに乗って待っており、2人はそのまま彼のアパートへと直行する。夜になって家へ帰ろうとするケイト。寝ている男性に置手紙を残そうと書斎デスクの引き出しを開けた彼女は、たまたま病院の診断書を見つけて驚く。男性は性病にかかっていたのだ。罪の意識と後悔の念に狼狽してエレベーターへ乗り込むケイト。そんな彼女を尾行する怪しい人影。忘れ物に気付いたケイトが彼の部屋へ戻ろうとしたところ、サングラスをかけたブロンドの女にカミソリで惨殺されてしまう。 その頃、別の階でエレベーターを待っていた高級コールガールのリズ・ブレイク(ナンシー・アレン)。扉が開くと、そこには血まみれになったケイトが倒れていた。虫の息のケイトに手を差し伸べようとするリズだったが、エレベーター内の鏡に映る犯人の姿に気付き、とっさに凶器のカミソリを拾って逃げ出し警察に通報する。事件の第一発見者にして最重要容疑者となってしまったリズ。警察のマリーノ刑事(デニス・フランツ)も売春婦の言うことなどまともに取り合ってはくれない。ケイトの息子ピーターと組んで真犯人を突き止め、身の潔白を証明しようとするリズ、そんな彼女を秘かに尾行するサングラスのブロンド女。一方、エリオット医師は患者のトランスジェンダー女性ボビーが犯行を告白する留守電テープを聞き、警察よりも先に彼女の身柄を確保しようと奔走するのだったが…? 全編に散りばめられたヒッチコックへのオマージュ 本編をご覧になった方は既にお気づきのことと思うが、『キャリー』と同じく本作におけるヒッチコックの『サイコ』(’60)からの影響は一目瞭然。オープニングとクライマックスを女性のシャワー・シーンで飾っているのは象徴的だし、映画の前半と後半でヒロインがバトンタッチするという展開も『サイコ』のプロットをお手本にしている。女装した犯人がカミソリでケイトを惨殺するエレベーター・シーンは、そのスピーディで細かい編集を含めて、『サイコ』の有名なシャワー・シーンの、より残酷で血生臭い再現と言えるだろう。性欲が殺意のトリガーとなるのもノーマン・ベイツと一緒。もちろん、ヒッチコック映画へのオマージュは『サイコ』だけに止まらない。犯人の女装姿は『ファミリー・プロット』(’76)のカレン・ブラックとソックリだし、エリオット医師のオフィスに単身乗り込んだリズをピーターが双眼鏡で見守るシーンは『裏窓』(’54)を彷彿とさせる。元ネタ探しを楽しむのもまた一興だろう。 そんな本作の中でも、恐らく最もヒッチコック的と呼べるのが美術館シーンである。女性の肖像画の前に座ったアンジー・ディッキンソンは、さながら『めまい』(’58)のキム・ノヴァク。ふと周りを見回して来場客たちの様子を観察する姿は、アパートの部屋から隣人たちの生活を覗き見する『裏窓』のジェームズ・スチュアートである。そして、たまたま隣に座ったハンサムな男性に心惹かれたヒロインは、広い美術館の中を歩き回りながら、追いつ追われつの男女の駆け引きを繰り広げ、最終的に美術館の外へ出たところでタクシーに乗った男性と合流する。ここまでセリフは一切なし。まるでサイレント映画の如く、映像と伴奏音楽だけでストーリーを雄弁に物語っている。これは『めまい』の尾行シーンや『鳥』(’63)のボート・シーンなどでも試みられた、ヒッチコックが言うところの「ピュアシネマ」の応用だ。しかも、ヒッチコックの時代にはなかったステディカムを駆使することで、より純度の高い映像技法をものにしている。ヒッチコキアンたるデ・パルマの面目躍如と言えるだろう。 ちなみに、美術館の外へ出たケイトの目線の先をカメラが追いかけていく(これまたヒッチコックのトレードマーク的な演出)と、タクシーに乗って待つ男性の手元へと辿り着くわけだが、その間に一瞬だけ女装した犯人の姿が映像に写り込む。これは犯人が美術館から彼女を尾行していたということの証なのだが、しかしストーリーの展開上、この時点で観客にはまだ殺人者の存在は明かされていないため、2度目以降の鑑賞で初めて写り込みに気づく観客が大半であろう。これを見て思わず連想するのが、ダリオ・アルジェント監督の『サスペリアPART2』(’75)。そう、犯人の顔が写り込んだ鏡の廊下のシーンである。デ・パルマがアルジェントを意識したのかは定かでないものの、映画ファンとして強く興味を惹かれるポイントではある。 実は的外れだったミソジニスト批判 こうした巧妙な映像技法の活用や名作へのオマージュを含めて、いかにして観客を怖がらせて楽しませるのかというヒッチコック映画一流のショーマンシップを継承した本作。先述したように、公開当時は女性に対する露骨な暴力描写やトランスジェンダーへの偏見を助長するような描写を激しく非難され、一部からはミソジニストというレッテルまで貼られてしまったデ・パルマ監督だが、しかし本人が「か弱い女性が危険な目に遭うというサスペンス映画の伝統を踏襲したに過ぎない」と語るように、スリルや恐怖を盛り上げるためのセオリーを追求した結果こうなったというのが真相なのだろう。それに、本作のストーリーをちゃんと理解していれば、むしろミソジニーとは正反対の視点が貫かれていることに気付くはずだ。 中でも特にそれが顕著なのは、2人のヒロインの描写である。良き妻であり良き母親である以前に一人の女性であることを自覚し、結果的に過ちではあったものの能動的に行動することを選んだ人妻ケイト、ちゃんと納得した上で自らの性を売り物にし、そこで稼いだ金を賢く株や美術品などの投資に回す高級コールガールのリズ。旧態依然とした保守的な社会が女性に求める規範から明らかに外れたヒロインたちを、本作では強い意志を持つ自立した現代女性として同情的に描く一方、そんな彼女たちを「釣った魚」や「性的オブジェクト」のように扱う尊大な男性たちに批判の目が向けられているように思える。 実際、本作に登場する男性キャラは、揃いも揃って身勝手で独善的な無自覚のミソジニストばかり。唯一の例外は、ケイトの息子である未成年(=まだ男になりきれていない)のピーターだけだ。そもそも、殺人犯を凶行へと駆り立てる要因だって、自らが内在する女性性を頑なに否定しようとする男性性である。すなわち、本作における諸悪の根源は男性優位主義的なマチズモであり、それが意図したものであるかどうかはまた別としても、どことなく中性的な童貞オタク少年ピーターを自らの分身だと語るデ・パルマが、その対極にあるマチズモを否定すべきものとして描いていることは明らかだ。確かに、トランスジェンダーを解離性同一障害のように描いている点は誤解を招きかねないと思うが、しかし少なくとも本作が女性蔑視的であるという当時の批判は的外れであったと言えるだろう。■ 『殺しのドレス』© 1980 Warwick Associates. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2019.06.30
あのクエンティン・タランティーノをして、「映画史上最も胸を打つクロージング・ショットのひとつ」と言わしめたエンディング。『ミッドナイトクロス』
日本を含む世界中に熱狂的なファンの存在する巨匠ブライアン・デ・パルマ。出世作『悪魔のシスター』(’72)を筆頭に、『ファントム・オブ・パラダイス』(’74)や『キャリー』(’76)、『殺しのドレス』(’80)、『スカーフェイス』(’83)に『アンタッチャブル』(’86)、『ミッション:インポッシブル』(’96)などなど、代表作は枚挙にいとまない。その中でどれが一番好きかと訊かれると、困ってしまうファンも少なくないかもしれないが、筆者ならば迷うことなくこの『ミッドナイトクロス』(’81)を選ぶ。あのクエンティン・タランティーノをして、「映画史上最も胸を打つクロージング・ショットのひとつ(one of the most heart-breaking closing shots in the history of cinema)」と言わしめたエンディングの痛ましさ。事実、これほど切なくも哀しいサスペンス映画は他にないだろう。 ストーリーの設定自体は、『パララックス・ビュー』(’74)や『大統領の陰謀』(’76)など、’70年代に流行したポリティカル・サスペンスの系譜に属する。舞台はフィラデルフィア、主人公はB級ホラー専門の映画会社で働く音響効果マン、ジャック(ジョン・トラヴォルタ)。最新作で使用する効果音を拾うため、夜中に川辺の自然公園を訪れていた彼は、偶然にも自動車事故の現場を目撃してしまう。川へ転落した車から、助手席に乗っていた若い女性サリー(ナンシー・アレン)を救出するジャック。しかし運転席の男性は既に死亡していた。 その男性というのが、実は次期アメリカ大統領選の有力候補者であるペンシルバニア州知事。知事の関係者からマスコミへの口止めをされたジャックだったが、改めて録音したテープを聴き直したところ、ある意外なことに気付く。事故の直前に聞こえる僅かな銃声とタイヤのパンク音。そう、警察もマスコミも飲酒運転が原因と考えていた不幸な自動車事故は、実のところ知事の政敵によって仕組まれた暗殺事件だったのだ。乗り気でないサリーに協力を頼み、この衝撃的な真実を世間に訴えようと奔走するジャック。しかし、既に自動車のパンクしたタイヤは実行犯の殺し屋バーク(ジョン・リスゴー)によって差し替えられていた。そればかりか、バークは事件の真相を闇に葬るべく、邪魔者であるジャックとサリーをつけ狙う。 知事暗殺事件のモデルになったのは、’69年に起きたチャパキディック事件だ。ケネディ兄弟の末弟エドワード・ケネディ上院議員が、マサチューセッツ州のチャパキディック島で飲酒運転の末に自動車事故を起こし、橋から海へ転落した車の中に取り残された不倫相手の女性が死亡。ケネディ上院議員は辛うじて脱出し助かったものの、警察などに救助を求めることなく逃げたうえ、不倫だけでなく薬物使用まで明るみとなり、大統領選への出馬を断念せざるを得なくなった。また、政敵による政治家の暗殺はジョン・F・ケネディ暗殺事件の陰謀説を、殺し屋バークが連続殺人鬼の犯行を装って不都合な証人を消そうとする設定は切り裂きジャック事件のフリーメイソン陰謀説を、そのバークが仕組む証拠隠滅工作はウォーターゲート事件を連想させる。 ただし、そうした社会派的なポリティカル要素も、全体を通して見るとさほど重要ではない。むしろ、ストーリーを追うごとに政治的な陰謀よりも殺し屋バークのサイコパスぶりが際立っていき、その恐るべき魔手からサリーを救うべくジャックが奮闘するという、純然たるサスペンス・スリラーの性格が強くなっていく。 本作のベースになったと言われているのが、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』(’66)である。『欲望』の原題は「Blow Up」、『ミッドナイトクロス』の原題は「Blow Out」。デヴィッド・ヘミングが演じた『欲望』の主人公であるカメラマンは、たまたま公園で撮影した男女の逢引き写真をBlow Up…つまり大きく引き伸ばしたところ、殺人の瞬間が映り込んでいることを発見する。そして、『ミッドナイトクロス』の主人公ジャックは、たまたま公園で録音した音声テープに記録されたタイヤのパンク(Blow Out)音を分析したところ、自動車事故が実は暗殺事件だったことに気付く。デ・パルマが『欲望』のコンセプトを応用したことは、ほぼ間違いないだろう。 そして、その『欲望』でアントニオーニがスウィンギン・ロンドンの時代の倦怠と退廃を描いたように、本作はレーガン政権(第1期)下におけるアメリカの世相を浮き彫りにする。ベトナム戦争終結後の自由で開放的なリベラルの時代も束の間、深刻化するインフレと拡大する失業率はロナルド・レーガン大統領の保守政権を’81年に誕生させた。本作では、もともとゴダールに感化された左翼革命世代の映像作家であるデ・パルマの、ある種の敗北感のようなものを映し出すように、音響スタッフとして映画という虚構の世界を作り上げるジャックは、しかし現実の世界で起きた邪悪な陰謀を白日のもとに晒すことは出来ず、闇に葬り去られた真実の断片だけが映画の中で悲痛な「叫び声」を響かせる。 現実はジャックの携わるホラー映画よりも残酷であり、その残酷な社会に対して個人の理想や正義はあまりにも無力だ。もちろん、自由と平等を謳ったアメリカ独立宣言が起草された、アメリカ建国の理想精神を象徴するフィラデルフィアを舞台にしていることにも、そこがデ・パルマ監督の育ったホームタウンだという事実以上の意味があるだろう。本作を自身にとって「最もパーソナルな作品」だとするデ・パルマ監督の言葉は重い。 そんな本作のペシミスティックな悲壮感をドラマチックに盛り上げるのが、ピノ・ドナッジョによるあまりにも美しい音楽スコアだ。もともとイタリアの人気カンツォーネ歌手(シンガー・ソングライター)であり、ダスティ・スプリングフィールドやエルヴィス・プレスリーの英語カバーで大ヒットした「この胸のときめきを」のオリジナル・アーティストとして有名なドナッジョは、ヴェネツィアで撮影されたニコラス・ローグ監督のイギリス映画『赤い影』(’72)で映画音楽の分野に進出。そのサントラ盤レコードをたまたまデ・パルマの友人がロンドンで購入し、当時亡くなったばかりのバーナード・ハーマンの代わりを探していたデ・パルマに紹介したことが、その後長年に渡る2人のコラボレーションの始まりだった。 ハリウッドの映画音楽家にはない感性をドナッジョに求めたというデ・パルマ。その期待通り、初コンビ作『キャリー』においてドナッジョは、およそハリウッドのホラー映画には似つかわしくない、センチメンタルでメランコリックなスコアをオープニングに用意した。「たとえサスペンス映画でも、私はメロディを大切にする。それがイタリアン・スタイルだ」というドナッジョ。そう、エンニオ・モリコーネやニノ・ロータ、ステルヴィオ・チプリアーニの名前を挙げるまでもなく、美しいメロディこそがイタリア映画音楽の命である。長いことカンツォーネの世界で甘いラブソングを得意としたドナッジョは、そのイタリア映画音楽の伝統をそのままハリウッドに持ち込んだのだ。 『殺しのドレス』の艶めかしくも官能的なテーマ曲も素晴らしかったが、やはりトータルの完成度の高さでいえば、この『ミッドナイトクロス』がドナッジョの最高傑作と呼べるだろう。もの哀しいピアノの音色で綴られる甘く切ないメロディ、ストリングスを多用したエモーショナルなオーケストラアレンジ。まるでヨーロッパのメロドラマ映画のようなメインテーマは、残酷な運命をたどるサリーへの憐れみに満ち溢れ、見る者の感情をこれでもかと掻き立てる。ラストの胸に迫るような哀切と抒情的な余韻は、ドナッジョの見事な音楽があってこそと言えよう。 ちなみに劇場公開当時、日本だけでサントラ盤LPが発売された。筆者も銀座の山野楽器で手に入れたのだが、実はこれ、ドナッジョがニューヨークで録音したオリジナル・サウンドトラックではなく、スタジオミュージシャンによって再現されたカバー・アルバムだった。その後、オリジナル・サウンドトラックは’02年にベルギーで、’14年にアメリカでCD発売されている。 なお、日本ではブラジル出身のファッション・モデル、シルヴァーナが歌う、ベタな歌謡曲風バラード「愛はルミネ(Love is Illumination)」が主題歌として起用され、先述した疑似サントラ盤LPにも収録されていた。もちろん、デ・パルマもドナッジョも一切関係なし。例えばカナダ映画『イエスタデイ』(’81)に使用されたニュートン・ファミリーの「スマイル・アゲイン」や、ダリオ・アルジェント監督作『シャドー』(’82)に使用されたキム・ワイルドの「テイク・ミー・トゥナイト」など、当時は配給会社がプロモーション用に仕込んだ、本国オリジナル版には存在しない主題歌が少なくなかった。 閑話休題。『ミッドナイトクロス』は『愛のメモリー』に続いてこれが2度目のデ・パルマとのコンビになる、撮影監督ヴィルモス・ジグモンドによる計算し尽くされたカメラワークも見どころだ。画面左右に分かれた手前と奥の被写体に同時にピントを合わせたスプリット・フォーカス、デ・パルマ映画のトレードマークともいえるスプリット・スクリーン、そしてカメラが室内や被写体の周囲を360度回転するトラッキングショットなど、まさしく凝りに凝りまくった映像テクニックのオンパレードである。 また、物語の背景となる「自由の日」祝賀イベントをモチーフに、赤・青・白の星条旗カラーが全編に散りばめられている。例えば、映画冒頭でジャックとサリーが宿泊するモーテルの外観は、白い壁に青いドア、赤いネオンで統一されている。それは室内も同様。カーテンやベッドカバーは青、マットレスや電話機は赤、イスとテーブルは白く、壁紙の模様は白地に赤と青の幾何学模様が描かれている。ジャックがテレビレポーターに電話するシーンでは、ジャックのシャツが赤で電話機が青、背景は白いスクリーンだ。ほかにも、この3色がキーカラーとなったシーンが多いので、是非探してみて欲しい。 オープニングを飾るB級スラッシャー映画のワンシーンでステディカムを担当したのは、『シャイニング』(’80)や『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(’84)などでお馴染み、ステディカムの開発者にして第一人者のギャレット・ブラウン。その映画会社の廊下には、『死霊の鏡/ブギーマン』(’80)や『溶解人間』(’77)、『エンブリヨ』(’76)、『スクワーム』(’76)など、カルトなB級ホラー映画のポスターがずらりと並ぶ。果たして、これはデ・パルマ自身のチョイスなのだろうか。■ 『ミッドナイトクロス』BLOW OUT © 1981 VISCOUNT ASSOCIATES. All Rights Reserved