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COLUMN/コラム2023.02.24
1973年の大事件を描いた『ゲティ家の身代金』が、2017年を象徴する映画となった経緯
1973年7月、イタリアのローマで起こった、ある少年の誘拐事件は、遠く離れた日本でも、大きなニュースとなった。当時小学3年生だった私も、鮮明に覚えているほどに。 人々の関心を引いたのは、要求された身代金が、1,700万㌦(約50億円)と桁違いだったから?そして、誘拐された少年の祖父が、資産5億㌦(約1,400億円)を誇る石油王だったから? いやいや、それだけではない。この事件が多くの人々を驚かせたのは、「大金持ち」である祖父の、異常としか言いようがない、振舞いだった。 それから44年。その事件を題材に書かれたノンフィクションを映画化したのが、本作『ゲティ家の身代金』(2017)である。 監督を務めたのは、現代の巨匠の1人、リドリー・スコット。クランクイン時の主なキャストは、ミシェル・ウィリアムズにマーク・ウォールバーグ。そして、ケヴィン・スペイシーという、布陣だった…。 ***** ローマの街角で突然拉致された、16歳のジャン・ポール・ゲティ三世。彼を誘拐した者たちの狙いは、三世の祖父で、フォーチュン誌によって「世界初」の億万長者に認定されたアメリカ人石油王、ジャン・ポール・ゲティの資産だった。 三世の母ゲイルは、今は三世の父=ゲティの息子とは離婚している身であったが、身代金は義父だったゲティに頼る他ない。しかしゲティは、莫大な額の要求を、にべもなくはねつける。「応じれば、他の孫も誘拐の標的になる」 シレッと言ってのけるゲティに対して、ゲイルは呆然とする他なかった。 ゲティはその一方で、自分の下で働く元CIAのチェイスを召喚し、誘拐犯との交渉を指示。彼をゲイルの元へと、向かわせた。 調査によって、三世本人による偽装誘拐の疑いも浮上。そんなこともあって、交渉は遅々として進まない。ゲイルの苛立ちは、日々募っていく。 誘拐犯たちにも、焦りが生じる。このままでは埒が明かないと見た彼らは、他の犯罪グループに、三世の身柄を売り渡す。 美術品に大枚を投じても、身代金の要求には一切応じないゲティに、ゲイルの精神は追い詰められていく。そんな彼女に同情したチェイスは、自分の雇い主であるゲティに、反発心を抱くようになる。 犯罪グループは、ゲティらに揺さぶりを掛けるため、遂に非情な手段に乗り出す。ある日彼らから届いた郵便を開けると、そこには切り落とされた、人間の耳が入っていた…。 ***** 屋敷を訪れた者が電話を掛けたいというと、邸内に設けた公衆電話へと案内し、その料金を負担させる。高級ホテルに宿泊中も、ルームサービスは「高い」と忌避。滞在中の洗濯物は自分で洗って、室内に吊るして乾かす…。 映画の中で描かれる、億万長者とはとても思えないような、こうしたゲティの吝嗇ぶり。そのすべてが事実に基づいたものと聞くと、ただただ驚き呆れてしまう。 当初は1,700万㌦を要求されていた、孫の身代金も、その5分の1以下の320万㌦まで値切る。それでも全額を払うことはなく、支払ったのは所得から控除できる最大限度額の220万㌦まで。身代金を、“節税”に使ったわけである。 その上で足りない額は、誘拐された三世の父である、自分の息子に貸し付ける形を取る。4%の利子を付けて…。 ゲティは生涯で5回結婚し、5人の息子を儲けた。愛人も多数いたというが、こんな男である。まともな愛情表現は望むべくもなく、息子たちをはじめその係累には、不幸な人生を歩んだ者が、少なくない。 一体どうして、こうした人物が出来上がってしまったのか?それだけで1本の映画が作れそうな気もするが、監督のリドリー・スコットの関心は、そこにはあまりない。息子の誘拐犯とだけではなく、このモンスターのような義父と対峙せざるを得なかった、ゲイルの“気丈さ”にこそ、スコットは注目する。 出世作『エイリアン』(79)で、シガニ―・ウィーヴァ―演じるリプリーという、強い女性キャラを生み出した。『テルマ&ルイーズ』(91)では、女性2人を主人公にした「90年代のアメリカン・ニューシネマ」を、世に放っている。本作でのゲイルの描き方は、そんなスコットの、面目躍如と言うべきだろう。 ゲイルを演じたミシェル・ウィリアムズは、スコットの期待によく応えてみせた。それに比すれば、元CIAのエージェントを演じたマーク・ウォールバーグは、些か精彩に欠ける。 さて先に本作に関して、クランクイン時のメインキャストは、ウィリアムズにウォールバーグ。そして、ケヴィン・スペイシーだったことを、記した。しかしご覧になればわかる通り、本作にスペイシーの姿は、影も形もない。 2017年5月にスタートした撮影で、当時50代後半だったスペイシーは、特殊メイクを施して、80代のゲティを演じた。撮影は順調に進み、8月末にはすべて終了。あとは12月末の公開に向けて、仕上げを急ぐだけだった。 ところが10月末に、大問題が発生する。かつてケヴィン・スペイシーが、14歳の子役にセクハラを行っていたことが、報道されたのである。これは氷山の一角で、スペイシーに対してはこの後、多くの男性から同様の告発が行われた。 折からハリウッドでは、プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる、数多の女優、女性スタッフへの長年の性暴力が発覚。「#MeToo運動」に火が点いたタイミングであった。 11月8日、スコットはスペイシーの出演シーンを、すべてカットすることを決断。同時に、作品の完成を延期や中止することなく、12月末の公開を予定通りに行うことも、決めた。 そこでスペイシーの代役として、クリストファー・プラマーを起用。撮り直しを行うこととなった。 再撮影は11月下旬、僅か10日足らずのスケジュールで行われた。ミシェル・ウィリアムズやマーク・ウォールバーグは、1度スペイシーと共に演じたシーンを、プラマーとやり直すこととなった。一部ロケ映像に関しては、セットで撮影したプラマーの演技を、スペイシー版の映像と合成するという処理を行っている。 プラマーは、役作りに掛ける時間はほとんどなく、また先に撮影したスペイシーの演技を参考にすることもなしに、ゲティを演じた。見事にハマったのは、当時88歳の老名優の実力という他ない。さすが、長いキャリアの中でアカデミー賞、エミー賞、トニー賞の演技三冠を受賞している、数少ない俳優の1人である。 付記すれば本作でプラマーは、アカデミー賞の助演男優賞の候補に選ばれた。受賞は逸したものの、演技部門でのノミネートでは、史上最年長の記録となった。 さてこれで本作に関するトラブルは、無事収拾…と思いきや、公開後に更なる火種が燃え上がった。新たに浮上したのは、ハリウッドに於ける「男女格差」である。 再撮影のため、本作には1,000万㌦の追加経費を投入。しかしプラマー以外の俳優は“再撮影”に関しては、「ただ同然」のギャラで協力したと言われていた。 実際にミシェル・ウィリアムズに支払われたのは、1,000㌦以下。しかしマーク・ウォールバーグに関しては、“再撮影”で新たに150万㌦ものギャラが支払われていたことが、2018年の1月になって判明したのである。 1,500倍もの賃金格差が生じたのは、まさに「差別」に相違なく、「#MeToo」の流れにも連なる。契約を盾に高額ギャラを要求したと言われるウォールバーグには、非難が集中した。 結果的にウォールバーグは、150万㌦全額を、「#MeToo」運動の基金に寄付。後に「自分の配慮が足らなかった」と、反省の弁を述べている。『ゲティ家の身代金』は、総製作費5,000万㌦に対し、全世界での売り上げは5,700万㌦ほどに止まった。興行的には「不発」という他ない成績だが、製作者の意図とは無関係なところで、2017年からのハリウッド=アメリカ映画界の流れを、象徴する作品となってしまったのである。 誘拐を奇貨にして、さらわれた孫の親権まで奪おうと企てる、怪物的な男性ゲティに、一歩も退くことなく立ち向かった、勇敢な女性ゲイル。そうした物語の構図が、本作に襲いかかったアクシデントと、期せずしてダブる部分も、大いにあるようには感じるが。■ 『ゲティ家の身代金』© 2017 ALL THE MONEY US, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2021.08.10
ジャンルを先行しすぎた不運のファンタジー『レジェンド/光と闇の伝説』
「この映画には石から引き抜いた剣も、火を吐くドラゴンも、ケルトの黄昏も存在しない。『レジェンド/光と闇の伝説』は「指輪物語」のような壮大なスケールのファンタジーではない。ニール・ジョーダンの『狼の血族』(84)のように、性欲を掻き立てるような作品だ」 ――リドリー・スコット ■ジャン・コクトーを目指す——リドリー・スコット版『美女と野獣』 人類が遭遇したことのない残酷異星生物の恐怖を描いたSFホラー『エイリアン』(79)や、退廃的な未来都市像でSF映画のイメージを一新させた『ブレードランナー』(82)など、今や古典として後世に影響を与えつづけている名編を、キャリア初期に手がけた監督リドリー・スコット。そんな彼が上記に次ぐ新作として臨んだのは、作り物ではない写実的なファンタジーへの着手だった。 「すべてのクエストファンタジーは、武器や超大国を手に入れるために、物語の主目的から逸脱するサイドクエストを持っており、それが複雑になりすぎる傾向がある」 こう監督が言及するように、長編映画4作目となる『レジェンド/光と闇の伝説』(以下:『レジェンド』)のストーリーは極めてシンプルなものだ。主人公の青年ジャック・オー・ザ・グリーンが、世界を闇で覆い尽くそうとしている帝王ダークネスのもとから、囚われの身となっている姫君リリーを救い出す冒険に出る。ドワーフやエルフ、そして妖精ら森の仲間たちと一緒に。 同作を創造するにあたり、スコットはこのベーシックな神話ロマンスを外殻としながら、当時主流だった『バンデットQ』(81)や『ダーク・クリスタル』(83)のようなポップクエストではない、バロック様式の装飾やゴシック的イメージを持つ重厚なものを目指した。これに適合するのは、監督自身が心酔していたジャン・コクトーの『美女と野獣』(46)で、スコットはコクトーのように、自ら美術や物語を総コントロールできる立場に置こうとしたのだ。そしてジャンルの代表作を目指すのではなく、おとぎ話に内在される寓話のように、ファンタジーに秘められた寓意を拡張させ、“その先にあるもの”の視覚化を標榜したのである。 そこで70年代に寓意に満ちた幻想小説を発表していたウィリアム・ヒョーツバーグに、監督は白羽の矢を立てた。二人は1973年に発表されたヒョーツバーグの小説“Symbiography”が、『ブレードランナー』のイメージソースのひとつとなっていることから接点を得ている。同小説は富裕層が他人の夢を見ながら人生を楽しむというディストピアをシニカルに描いたもので、ヒョーツバーグは誘惑に駆られて暗黒世界に堕ちるティーンの「純真さと汚れ」を性的アレゴリー(比喩)として転義させ、しっとりとエロティシズムを滲ませるなど、スコットの希求するオリジナル脚本を手がけた。 ■トム・クルーズを発見したコンセプト重視の配役 スコットは撮影に先立ち、脚本に忠実なキャスティングを考慮。加えて作品に現代的な動きを与えたいという理由から、フレッシュな人選を望んだ。主役のジャックには当時『卒業白書』(83)などのティーンムービーで頭角をあらわし、映画俳優としてスタート台に立ったばかりのトム・クルーズを起用。リリーには16歳のニューヨーカーである新人のミア・サラが選ばれた。監督はクルーズにフランソワ・トリュフォー監督の『野性の少年』(70)を鑑賞させ、野性的な身のこなしを会得するよう求め、彼は演技においてスコットの要望に精いっぱい応えている。 いっぽう本作の真の顔ともいえるダークネスには、イギリス人俳優のティム・カリーを起用。1975年の初公開以降、観客参加型のミュージカルとしてカルトな支持を得ている『ロッキー・ホラー・ショー』での、幻惑的かつ世界を見下すような瞳がオファーのポイントとなった。 また監督は『ブレードランナー』の特殊効果ショットに65mmフィルムを採用し、多重合成による画質の劣化を防いだように、本作では同様に大型フィルム規格のビスタビジョン(35mmフィルムを横に駆動させ、二倍の撮像を得る方式)を用い、俳優たちを任意のサイズに縮小して合成し、幻想をより現実的にする方法を考え出した。そのためダグラス・トランブル(『ブレードランナー』視覚効果監修)の嫡流でもあり、当時ビスタビジョン合成の追求者であったリチャード・エドランドにテスト撮影を依頼。残念ながら予算の都合で採用は叶わず、代わりにビリー・バーティやキーラン・シャー、アナベル・ランヨン、そして『ブリキの太鼓』(79)の印象的なドイツ人子役デビッド・ベネントといった小柄な俳優たちをアンサンブルキャストとして使う手段をとった(『レジェンド』の撮影フォーマットは35mm、上映プリントはアナモルフィックワイド)。 『レジェンド』の製作にあたって、ディズニーアニメのスタイルに影響を受けたスコットは、ディズニースタジオにプロジェクトを提出していた。撮影に巨額の予算を計上していたことと、加えてダークネスのイメージソースが『ファンタジア』(40)にあったことも要因のひとつである。だが物語のトーンが暗いという理由によってディズニーからは見送られ、プロデューサーであるアーノン・ミルチャンの尽力によって20世紀フォックスとユニバーサル・ピクチャーズの共同製作へと落ち着く。『ブレードランナー』に匹敵する製作費2450万ドルのリスクヘッジも兼ねた措置で、スコットの途方もない想像力を具現化するための頑強な下支えとなった。 この視覚アプローチへの徹底は、基本的なストーリーを伝えるために必要不可欠なものと第一義に考えられ、スコットとストーリーボード・アーティストのマーティン・アズベリーは411ページに及ぶ絵コンテを作成し、映像化可能な範囲をはるかに超える手の込んだタブローを量産した。またイギリスの挿絵画家アーサー・ラッカムの妖精絵画を参考にしたり、ファンタジー文学の古典「指輪物語」の挿絵で知られるアラン・リーをコンセプチュアル・デザイナーの要職に置いた(ノンクレジットだが、リーはいくつかのキャラクターの初期スケッチを残している)。 撮影は米カリフォルニア州のレッドウッド国立州立公園のような森林帯でのロケを検討したが、重度のコントロールフリークでもある監督は『エイリアン』のノストロモ号船内や『ブレードランナー』のロサンゼルス市街セットなどにならい、ロンドンにあるパインウッドスタジオの巨大な007ステージを撮影のメインにした。スコットは言う、 「私は観客の誰一人として、偽物を見ていると思わせたくなかったんだ」 そのためにプロダクション・デザイナーのアシェトン・ゴートン(『欲望』(53)『フランス軍中尉の女』(82))を招き入れたことは成果として大きかった。ゴートンはサウンドステージにおける撮影の落とし穴を熟知しており、スコットは彼を『エイリアン』で起用したがっていたが、満を持してそれがかなったのだ。ゴートン以下クルーはスタジオ内に実際に流れる川や10フィートの池を備えた森を生成し、生きている木や花を備えて独自の生態系を顕現。撮影の人工感を払拭するため自然光を生み出すための緻密なライティング設計をほどこした(それが後にスタジオセットの火災を招いてしまう)。独特だったのが羽毛や綿毛の飛散する空間表現で、スコット監督は後年『キングダム・オブ・ヘブン』(05)で雪を同じように舞わせて雰囲気のある景観を作り上げているが、この意匠は本作におけるゴートンの発案がベースとなっている。 ■究極の特殊メイク映画 そしてリドリー・スコットはリアイティの観点から、マペットやメカニカル・ギミックを避け、人物に特殊メイクをほどこして様々なクリーチャーを生み出した。それを担ったのが、特殊メイクの名手ロブ・ボッティンである。 ボッティンは特殊メイクを大々的に活用した人狼ホラー『ハウリング』(81)を終えた直後、スコットが『ブレードランナー』での作業について彼に連絡し接触をはかったが、そのときすでにキャリアの代表作となる『遊星からの物体X』(82)に没頭していたボッティンは参加を断念。スコットから別のプロジェクトとして『レジェンド』の脚本を受け取ったのだ。そして特殊メイク映画のマスターピースといえる『オズの魔法使』(39)のようなメイクのキャラクターを作成するチャンスに、クリエイターとして抗うことができなかったのである(余談だが、『レジェンド』の沼地に棲む緑色の老怪物メグ(ロバート・ピカード)は、西の悪い魔女のリミックスとして『オズの魔法使』のオマージュを含んでいる)。 そしてこのテリトリーにおいてもスコットのコントロールフリークぶりは発揮され、キャラクター創造に対して非常に貪欲だったとボッティンは証言している。 「例えばダークネスの部下であるブリックス(アリス・プレイテン)は、ザ・ローリング・ストーンズのキース・リチャーズのようなイメージを想定した。するとリドリーはキースをゴブリンとしてスケッチし、それをイメージの起点として使用したんだ」 そんな彼らの精魂込めたファンタジークリーチャーの開発を抜かりないものにするよう、『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』(83)で銀河皇帝のメイクを担当したニック・ダッドマンが、キャラクターを作成するためにイギリスに研究所を設立。本作において特殊メイクは大きな位置を占めていく。 クルーズとサラを除くすべての主要な登場人物は、毎朝ボッティンが率いる専門チームのもと、メイク室で何時間も過ごした。俳優一人に最低3人のメイクアップアーティストを要し、細かなアプライエンス(肉付け用のピース)を俳優の皮膚に何十も重ねて貼り付け、筋肉の動きに連動して細かな表情などが出るよう作り上げた。そのためメイク工程には3時間もかかり、なかでもダークネス役のティム・カリーは5時間も装着と格闘せねばならず、そのため彼はサウンドステージに到達する段階で疲労をあらわにしていた。しかし自分のメイク姿にアドレナリンを刺激され、苦痛なプロセスを忘れて演技に没頭したという。とはいえ撮影後のメイクはがしで、カリーは可溶性スピリッツガム(特殊メイク用接着剤)を溶かすために1時間以上も風呂につからされ、閉所恐怖症になってしまったという。 そんな苦労が報われ、ダークネスは同作のキービジュアルを担うキャラクターとなり、延いてはファンタジーデザインのアイコンとして引用されるほど象徴的な存在となっている。 ■『レジェンド』の遺したもの 1985年12月のイギリスを皮切りに、翌年4月にアメリカで公開された『レジェンド』は、2450万ドルの製作費に対して1500万ドルの総収益しか得ることができず、興行は惨敗に終わった。ターゲットを見誤ったテスト試写の不評を懸念し、125分から大幅な上映時間の短縮を余儀なくされたことや、米国市場に向けたバージョンは映像のルックに適合するよう、タンジェリン・ドリームによるまろやかなシンセサイザー音楽への差し替えが図られたりと、製作側の悪手が不振に拍車をかけたことは否めない(「ザ・シネマ」における放送はジェリー・ゴールドスミスが作曲を担当したヨーロッパ(オリジナル)バージョン)。 なにより最大の損失は監督の方向転換で、本作に全力を注いで成果を得られなかったスコットの落胆は大きく、以後、大がかりな視覚効果ジャンルから彼を離れさせてしまう。スコットが再びSFやファンタジーの世界に活路を見いだすのは、2012年製作のエイリアン前史『プロメテウス』まで27年もの時間を要することになる。 『レジェンド』の製作から36年。映画におけるデジタルの介入と発達は、自由なイメージの視覚化を大きく拡げ、「指輪物語」を原作とする『ロード・オブ・ザ・リング』トリロジー(01〜03)の実写映画化や、テレビドラマとして壮大なドラゴンストーリーを成立させた『ゲーム・オブ・スローンズ』(11〜19)など、ファンタジー映画興隆の一翼を担った。こうした路が開拓されるための轍を作り、またそれら以前に、アナログの製作状況下でファンタジーに挑んだ、リドリー・スコットの先進性と野心にあふれた挑戦に拍手を送りたい。 ちなみにジャックを演じたトム・クルーズは本作の撮影中、スコット監督から「弟に会ってやって欲しい。いま戦闘機の映画を準備している」と進言し、彼はその言葉にしたがい、リドリーの実弟である監督のトニー・スコットに会い、戦闘機パイロットを主人公とする青春映画への出演を快諾した。その作品こそが『トップガン』(86)であり、同作は彼を一躍トップ俳優へと押し上げた。クルーズにスター性を感じていたスコットの慧眼を示すエピソードであり、『レジェンド』の意義ある副産物としてここに付記しておきたい。■ 『レジェンド/光と闇の伝説』© 1985 Universal City Studios, Inc. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2021.02.01
リドリー・スコットのもうひとつのエポックメーキング『テルマ&ルイーズ』
齢80を越えても、精力的に作品を撮り続けている、リドリー・スコット監督。20数本に及ぶ、そのフィルモグラフィーを眺めると、SF、刑事アクション、クライム・サスペンスから歴史大作、戦争映画、人間ドラマまで、実に多彩なジャンルを手掛けていることに、改めて驚かされる。 そんな中でも“映画史”に残る作品と言えば、監督第2作・第3作の『エイリアン』(1979)『ブレードランナー』(82)あたりを挙げる者が、やはり多いのだろうか? 両作が、その後のSF映画の歴史を塗り替えたことに異議を唱える者は、まずはいまい。 私はリドリーの監督作品の中で、この2本に匹敵する、エポックメーキングとなった作品として、本作『テルマ&ルイーズ』(91)を挙げたい。歳月を経ても、この作品は色褪せるどころか、その歴史的意義は、年々高まる一方のように思える。 アメリカ中西部アーカンソー州に住む、専業主婦のテルマ(演: ジーナ・デイヴィス)と、ダイナーのウェイトレスで独身のルイーズ(演:スーザン・サランドン)は、親友同士。ある週末、十代の頃から夫に縛られる生活を送ってきたテルマを誘い出し、ルイーズが自慢の66年型サンダーバードを駆って、ドライブ旅行へと出掛けた。 テルマは、どうせ許してくれないと、傲慢な夫に黙っての旅立ち。その際に、以前夫から護身用にと渡された拳銃を、無造作にルイーズに預けた。 目的地への途中、食事に寄ったカントリーバーで、解放感から、店のマネージャーの男とのダンスに興じたテルマは、悪酔いして涼みに店外へ。そこでマネージャーから、レイプされそうになる。間一髪、ルイーズが男の首筋に拳銃を突きつけ、テルマは泣きじゃくりながらも、難を逃れた。 その場を去ろうとした彼女たちだったが、男は悔し紛れに、「俺のをしゃぶりな!」などと、卑猥な罵声を2人に浴びせる。その瞬間、ルイーズの“何か”がキレた。彼女は拳銃の引き金を引き、銃弾を浴びた男は、そのまま息絶えた。 楽しい筈の週末のちょっとした旅は、一転。逃亡の旅へと、変わる。 国境を越えて「メキシコに逃げる」と、決意したルイーズだったが、優柔不断なテルマは、揺れ動く。しかしやがて彼女も、自分を守ってくれた親友と行動を共にすることを、決意した。 地元の警察からFBIまで、州を越えて捜査の網が広がっていく。そして、生まれ育ってきた社会の理不尽な規範に長年縛られてきた女2人は、大胆不敵なアウトローへと、変貌を遂げていく。テルマ&ルイーズの、明日をも知れない逃避行の行方は? 封切り時に、まだ20代後半だった私は、本作鑑賞前、今ひとつピンと来ていなかった。あのリドリー・スコットの最新作が、アメリカ中西部を舞台にした、女性2人が主人公の“ロードムービー”であることに。 当時の私にとってリドリー・スコットと言えば、多感な十代の頃に出会った『エイリアン』であり、『ブレードランナー』だった。それに付け加えるならば、本作の前の監督作品で、大々的に日本ロケを行った、『ブラックレイン』(89)だったのである。 そしていざ本作を観ると、アメリカで“フェミニズム映画”として論争になった理由が、理解できたような気がした。当時の私は自分のことを、“フェミニズム”寄りな人間だと思っていた。“男性優位”な社会の中で、多くの女性が一方ならぬ苦労をしていることを認識しており、「女性の気持ちがわかっている」つもりだった。 そうした意味で本作の意義を見出しながらも、少なからぬ違和感が残った。そもそも、酒に酔って男にスキを見せたから、テルマはレイプされそうになったのではないか?彼女に、責任はないのか? また逃避行の旅の途中、2人のサンダーバードに遭遇しては、性的なからかいを仕掛けてくる、大型トレーラーの男性運転手への処断も、「?」だった。物語の終盤近く、2人は何度目かの遭遇をした彼を下車させて、警告する。しかし態度を改めないため、怒った2人は、彼のトレーラーに銃弾を撃ち込んで、爆発炎上させてしまう。 セクハラを受けたといっても、言葉の問題に過ぎないじゃないか。いくら何でも「やり過ぎだ」と、当時の私には感じられた。 しかし後々、自分も家庭を持って齢を重ねていく内に、女性にとっての“ガラスの天井”が思った以上に厚く、己もそんな中で、“男性優位”の社会に安住してきたことに思い至った。若造の自分が、「女性の気持ちがわかっている」などと、傲慢な気持ちを抱いてことを思い返しては、恥じ入るようにもなった。 そうなると、テルマとルイーズの取った行動に対する考えも、変わってくる。本作に於いては2人の行いが、実に納得がいくように描かれているのである。 2人が逃避行を余儀なくされるに至る、レイプ未遂の一件。酒場でいかに意気投合しようとも、合意のない女性を、無理矢理に性欲のハケ口にするなど、論外である。そしてこの加害者にして被害者となる男は、これまでもこんな卑劣な手口で、数多の女性たちに被害を及ぼしてきたことを窺わせる。 また2人の逃走劇が進む内に明らかになるのだが、ルイーズは若き日に、レイプの犠牲になっていた。そしてその時、警察などの対応に絶望して、故郷のテキサスを離れたのである。「殺害」したのは、確かにやり過ぎだろう。しかしそうした彼女の痛ましい過去が、たまたま手にしていた拳銃の引き金を引かせてしまったのだ。 続いて、運転中のテルマとルイーズにセクハラ嫌がらせを行った、トレーラー運転手の問題。2人は野卑なこの男に、「アンタの妻や娘、姉妹が同じことされたら、どう思う?」と、はっきり問い質している。しかし運転手は、そう言われたことを屁とも思わない態度を取ってみせる。これでは“映画”的には、トレーラーを爆破されても、致し方あるまい。 レイプ未遂犯、トレーラーの運転手からテルマの夫、そして若き日の“ブラピ”が演じる強盗の青年まで、本作に登場する男どものほとんどが、女性を下に見て、彼女たちから搾取することを恥じない者たちだ。例外のように、マイケル・マドセン演じるルイーズの恋人が優しさを見せるが、彼も彼女が自分の前から消えそうになるまでは、結婚を申し込めなかった。自分本位な部分が、拭えない男性である。 追っ手の側には、終始彼女たちに同情的な姿勢を見せる、ハル警部(演:ハーベイ・カイテル)が登場する。しかし彼も彼女たちの救いとなる力は、残念ながら持ち得ない。 こうして監督と俳優の共犯関係が出来上がり、見事な演技を見せたジーナ・デイヴィスとスーザン・サランドン。その年度のアカデミー賞で、共に主演女優賞にWノミネートされた。 すでに『偶然の旅行者』(88)で助演女優賞の受賞経験があるデイヴィスも、『アトランティックシティ』(80)以来のノミネートとなったサランドンも、この時は残念ながら、オスカーを手にすることはなかった。同一作品から2人の候補が出たことによって、票が割れたのと、この年は『羊たちの沈黙』(91)のジョディ・フォスターという、強力なライバルがいたのである。 以前より社会問題に対しての意識が高かったサランドンとデイヴィスだが、本作以降その政治的発言や行動が、益々注目されるようになった。そんな中で、サランドンが遂にオスカーを掌中に収めたのは、4年後のこと。当時の彼女のパートナーであったティム・ロビンスが監督を務め、死刑制度に対する疑義を打ち出した、社会派の作品『デッドマン・ウォーキング』(95)での主演女優賞受賞だったのは、至極納得がいく。『テルマ&ルイーズ』は、娯楽性を大いに湛えながらも、観る者を試す“リトマス試験紙”の役割をも果たす。リドリー・スコットは“コメディ”として演出したともいうが、やはり凡百の監督では、ここまでの作品には、仕上げられなかっただろう。 そんなリドリー・スコット監督こそ、まさに現代の“巨匠”の名にふさわしい。■
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COLUMN/コラム2017.08.29
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年9月】飯森盛良
『エイリアン:コヴェナント』一足お先に見たが、「人間はどこから来たのか?人は何のため生まれてくるのか?」について語りたいシリーズであることがますます鮮明に。またリドスコ映画の同窓会の趣も。タイレル社長とロイバッティの関係、人体の腑分けに熱中するレクター博士の貴族趣味などが映画中に散りばめられ、さらに文学や音楽からの引用といい、「どんだけ深えんだ!」という豊潤な作品になった。しかーし!完全に『プロメテウス』の続編。『エイリアン』シリーズは見てなくても『プロメテウス』だけは見ておかないと話についていけない。ま、公開前にウチでは『エイリアン』シリーズも『プロメテウス』も全部やるんだけどな!■ © 2012 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2013.04.27
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2013年5月】招きネコ
今や押しも押されぬヒット・メイカー、監督となったリドリー・スコットのデビュー作にして、カンヌ映画祭で新人監督賞を受賞した歴史ドラマです。ナポレオン統治時代の1800年代のフランスの2人の軍人フェロー中尉とデュベール中尉が、自らの名誉を守るために、数年にもわたり懲りずに決闘を繰り返す中で友情とも言えるような不思議な感情で結ばれていくという、とても奇妙な設定の男のドラマです。 この作品には、彼の作品のファンなら身震いするような、彼ならではの映像へのこだわりと、後の「ブレードランナー」でデッカードとレプリカントのリーダー、ロイの間に流れる、敵なのに相手を憎めない、損得ではなく感情で動く男の美学といった重要なアイコンが既に確立されているのに再見して驚きました。リドリーは、元々イギリスのCMディレクター出身で既に1500本(!)を手がけてきたという売れっ子でした。CM出身というと、ややもすれば「薄っぺらな」というネガティブな見られ方もしますが、彼の場合はCMで培った経験にプラスして「描きたいこと」「自分の世界観」がハッキリあったからこそ、商業映画をヒットさせつつ、熱いファンを持つ映画作家として成功できたのかもしれません。とにかく、必見です。 ® & © 2013 Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2010.11.11
詐欺映画?それとも感動映画?『マッチスティック・メン』
公開当初、予備知識がほぼない状態で見た『マッチスティック・メン』。分かっていたのはリドリー・スコット監督、ニコラス・ケイジ主演の詐欺映画だということだけだった。そういえば、「どんでん返し」を売りにいていたような気もする。かいつまんであらすじを紹介しよう。詐欺師のロイ(ニコラス・ケイジ)は、あらゆることに対し異様なまでに神経質。薬なしでは平静を保つのが困難なほどの重度の潔癖症は、次第に肝心の“仕事”にまで悪影響を及ぼし始め、やむなく精神分析医を訪れることになる。そんなある日、ひょんなことからロイの実の娘だという14歳の少女アンジェラ(アリソン・ローマン)が目の前に現れる。突然の展開、初めて会う娘にただただ困惑するロイに、こともあうにアンジェラは「詐欺のテクニックを伝授してくれ」とせがむのであった…さて。世の中には、『オーシャンズ~』や『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』等々、詐欺(師)を題材とした映画は数多くある。そして、巨匠リドリー・スコットが撮った“詐欺師映画”である本作。一体どんな仕上がりになっているのかと、当時は期待に胸膨らませて映画館に行ったものだが、見てみると、意外や意外。もちろん、定番の「騙し騙され」や、前評判通りの「どんでん返し」もあった。だが、この映画、どちらかといえば、見ている観客までも巧みなストーリーに騙されるような、いわゆる“トリック・ムービー”ではなく、もっと人間味に溢れたヒューマン・ドラマだったのだ。脚本が、とにかく素晴らしい。「せっかく詐欺の映画を見るのなら、とことん騙されたい」「最後にスカッとした気分で終りたい。」そう思っている人は当然のようにいるだろう。自分の想像を様々な意味で裏切ってくれるトリッキーな映画を見るのは、確かに楽しい。もちろんこの映画にも、そうした要素が無いわけではない。詐欺の手口や騙し合い、ドンデン返しは、確かに出てくる。だが、詐欺を全面に押し出している他の作品とは違った味わいが、この映画には存在する。登場人物のちょっとしたやりとりや会話のはしばしなど、全編を通してみられる、粋な演出。それが、なんとも心地好いのだ。そして、見ている最中、見終わった後、ほんのちょっと幸せな気持ちにさせてくれる、優しさと温もり。それこそが最大の魅力であり、本作がヒューマン・ドラマたる所以である。これ以上は物語の核心に触れてしまいそうなので、あえて具体的には書かないが、とにもかくにも、後味の大変よろしい作品なのであった。確かに、リドリー・スコット監督にしてはアクションやバイオレンスなど派手なシーンのない、中規模の地味な作品ではあるのだが、これは「良い意味でイメージを裏切られた」と言うべきケースだろう。 次に、キャストの話である。主演はニコラス・ケイジ。アクション・スターのイメージがある一方、『リービング・ラスベガス』のベンや『アダプテーション』のカウフマンのような、病的で神経質な役柄をやらせても、彼は上手い。今回のロイ役も、まるで本当に潔癖症なのではないかと思わせるほど、見ていて楽しくなる演技を披露してくれている。オーバーなくらいの演技でも、不思議と自然に受け入れてしまうのは、彼の演技力とキャラクターのなせるわざだろう。だが、ある意味、ニコラス・ケイジよりも存在感を放っていたのが、ロイの娘であるアンジェラを演じたアリソン・ローマンである。 『ホワイト・オランダー』で映画初主演にして素晴らしい演技を見せてくれた彼女。今回の役どころは14歳のティーンエイジャーだ。彼女は本作のオーディションの際、実際に14歳のような服装で、本物の14歳のように振る舞い、リドリー・スコット監督は本人の口から実年齢を聞くまでそう思い込んでいたというから驚きである。ちなみに、撮影当時なんと22歳!日本人から見ればかなり早熟に見える欧米人(特に女の子)だが、まるで違和感がなく、本当に14歳の少女に見えるのだから、アリソン・ローマンという女優はすごい!! 映画史に残る化けっぷりと言うべきで、極論すれば、これを見るためだけでも、本作は必見なのである。■(田村K) TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2009.09.29
レクター博士を知るためのグレン・グールド入門 『ハンニバル・ライジング』『ハンニバル』
映画史上、人々の記憶に強い印象を与えたキャラクターは少なくないが、ハンニバル・レクターは間違いなくそのリストに名を連ねる一人だろう。彼の名を世に知らしめたのは、言うまでもなくトマス・ハリス原作、ジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』である。ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスの緊張感あるやりとりは、サスペンスの新しい可能性を感じさせてくれた。その10年後に公開されたのが、リドリー・スコット監督による『ハンニバル』。こちらは監督の美意識が、レクター博士のキャラクターとしっくりはまって、『羊たちの沈黙』の衝撃をうまく引き継いだ見事な続編。ジョディ・フォスター演じたクラリスがジュリアン・ムーアに変わったが、僕はさほど違和感がなかった。続いて公開された『レッド・ドラゴン』は時系列的に言うと『羊たちの沈黙』の前にあたり、レクター博士が男と対峙する唯一の作品。そしてアンソニー・ホプキンスは登場せず、レクター博士の生い立ちから青年期までを描いて、「人食いハンニバル」にいたった理由を明かしたのが『ハンニバル・ライジング』である。さて、こういった続編・シリーズものの場合、どうしても比較してしまうのが人情というものなので、僕も簡単に感想を記してみたい。まず作品としての完成度と受けた衝撃を鑑みると、総合一位はやはり『羊たちの沈黙』。しかし以降の3作品がつまらないかというと、まったくそんなことはない。とくにサスペンスとしての緊張感は、今回お送りする『ハンニバル・ライジング』、『ハンニバル』ともに、「レクターシリーズ」の世界観を壊すことなく、それでいてオリジナリティも持つ優れたサスペンスである。 とくに『ハンニバル・ライジング』でレクター博士の若かりし頃を演じたギャスパー・ウリエル君には拍手を贈りたい。レクターを演じるのは、『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーくらい勇気のいることだったろうにと思う。シリーズ第三作の『レッド・ドラゴン』はたしかに「レクターシリーズ」ではあるのだが、僕個人の意見としてはレクター博士の狂気・怖さを引き立てるには、クラリスや『ハンニバル・ライジング』に登場するレディ・ムラサキのように、女性の存在が不可欠な気がする。アンソニー・ホプキンスが出演しない『ハンニバル・ライジング』を外伝と捉える人も多いが、僕はどちらかというと、『レッド・ドラゴン』を外伝的な作品と捉えている。しかしその“女性問題”さえ気にしなければ、『羊たちの沈黙』に次ぐ完成度かもしれない。とまあ、こんな具合に「レクターシリーズ」はどれを観てもハズレがないのだが、今回は僕の個人的な趣味からレクター博士について音楽の側面から触れてみたい。レクター博士はご存じの通り、人食いで極めて冷酷な殺人鬼である。が、映画を観た人であれば、そこに彼なりの美学を認めないわけにはいかないだろう。それの象徴とも呼べるのが、「レクターシリーズ」の劇中でも印象的に使われる『ゴルドベルク変奏曲』である。『ゴルドベルク変奏曲』とはバッハによる楽曲で、レクター博士お気に入りのクラシックだが、誰の演奏でもいいというわけでなく、グレン・グールドというピアニストによる『ゴルドベルク変奏曲』を愛聴しているのである。グールドはいわゆる天才肌であったが、変人としても知られた。たとえばコンサートが始まっているにもかかわらず、聴衆を待たせて自分が座るピアノ椅子を30分も調整してたとか、真夏でもコートに手袋、マフラーを着用してたとか、人気の絶頂期で生のコンサート演奏からドロップアウトして、以降はスタジオに籠もってレコーディングしていたなど、変人ぶりを示すエピソードをあげればきりがない。ついでに言うと、夏目漱石の『草枕』が愛読書の一つだった。だが、ひとたびグールドがピアノの前に座り、二本の手を鍵盤に載せた瞬間、そこから生まれる音楽は、世界の終わりにただ一つ遺された楽園のように美しかった。すべてが完璧で、研ぎ澄まされており、一片の曇りもなかった。同じように、レクター博士が人をあやめる方法も完璧で美しい。それは一つの哲学と言っても過言ではない。だからこそ、レクター博士が他の誰でもなく、グールドの『ゴルドベルク変奏曲』を好むところに、不謹慎だが僕は二人に共通する何かを感じる。そしてハンニバル・レクターという強烈なキャラクターを象徴する音楽として、グールドの『ゴルドベルク変奏曲』以上に相応しい曲は考えられないのだ。グールドによる『ゴルドベルク変奏曲』は二種類の録音がとくに有名で、『ハンニバル』では1981年録音が、『ハンニバル・ライジング』では『羊たちの沈黙』でも使用された1955年録音が使われている。『レッド・ドラゴン』では僕がボーっとしていてスルーしてしまったのかもしれないが、『ゴルドベルク変奏曲』は使われていなかったように思う。(使われていたらゴメンナサイ)蛇足だが、NASAが1977年に打ち上げた探査機「ボイジャー」にはグールドの演奏が積み込まれた。まだ見ぬ宇宙人へ「地球にはこんなに素晴らしい音楽があるんですよ」と伝えるために。レクター博士の奇妙な美意識を少しでも理解するためにも、ぜひグールドの音楽に耳を傾けながら、『ハンニバル・ライジング』、『ハンニバル』をお楽しみ下さい。■(奥田高大) 『ハンニバル』©2000 UNIVERSAL STUDIOS『ハンニバル・ライジング 』© Delta(Young Hannibal) Limited 2006 and 2006 Artwork © The Weinstein Company