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PROGRAM/放送作品
バイオハザード III
[PG-12]T-ウィルスがついに世界中に蔓延…最強の戦闘ヒロインが砂漠で躍動する人気シリーズ第3弾
地球全体がアンデッドに埋め尽くされた近未来を描く、人気ホラーゲームの映画化シリーズ第3弾。前2作の閉鎖空間と違って砂漠化した世界へと舞台が移り、戦闘ヒロイン・アリスのアクションがスケール満点に映える。
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COLUMN/コラム2023.06.19
“愛のシネアスト”のはじまり。トリュフォーが描いた「純愛の三角関係」『突然炎のごとく』
フランソワ・トリュフォー(1932~84)が、批評家から監督へと転じて撮った、初の長編作品は、『大人は判ってくれない』(1959)。主人公のアントワール・ドワネルに、自らの子ども時代を投影したこの作品で、トリュフォーは「カンヌ国際映画祭」の監督賞を受賞し、ゴダールらと共に、一躍“ヌーヴェル・ヴァーグ”の旗手の1人となった。 後に「愛もしくは女、子供、そして書物が、わたしの人生の三大テーマだ」と語ったトリュフォー。実は処女長編として最初に考えていたのは、「子供」ではなく、「愛もしくは女」を題材にした作品だった。 1953年、トリュフォー21歳の時。出版されたばかりの1冊の小説を読んで、「雷の一撃」を喰らった。そして「いつか映画をつくることができたら、この小説を映画にしたい」と思ったという。 トリュフォー曰く「映画人生を決定的にした」その小説のタイトルは、「ジュールとジム」。それは芸術家であるアンリ=ピエール・ロシェが、74歳にして初めて書いた小説だった。その内容は、20世紀初頭のミュンヘン、パリ、ベルリンを舞台に、現代芸術の周縁でロシェ自身が繰り広げた、若き日の冒険、愛と友情を書き綴ったものだった。 トリュフォーはある批評の中で、この小説について、こんな風に紹介した。「…ひとりの女性が、美意識と一体になった新しいモラルのおかげで、しかしたえずそのモラルを問うという形で、ほとんど一生のあいだ、ふたりの男性を同じように愛しつづけるという物語…」 この文を目にしたロシェは感激し、トリュフォーに手紙を書いた。そしてそこから、2人の交流が始まった。 トリュフォーはロシェに会って、映画にしたいという希望を述べた。それから2人は随時手紙をやり取りし、映画化についてのアイディアを交換し合ったという。 しかし先に書いた通り、トリュフォーが短編を何本か手掛けた後に、初めての長編監督作に選んだのは、「ジュールとジム」ではなく、『大人は判ってくれない』だった。それは、ロシェのような「愛の人生のベテラン」の筆による小説を映画にするのは、若い自分には「…むずかしく野心的すぎる…」と感じたからだという。後に“愛のシネアスト”と呼ばれるようになるトリュフォーだが、まだその時は訪れていなかったのだ。 機が熟して、「ジュールとジム」を映画化する夢が実現したのは、『大人は判ってくれない』が評判となり、続いて『ピアニストを撃て』(60)を発表した後のこと。それがトリュフォーの長編3本目となる本作、日本での公開タイトル『突然炎のごとく』(62)である。 ***** オーストリア人の青年ジュール(演:オスカー・ヴェルナー)が、フランス人の青年ジム(演:アンリ・セール)と、1912年のパリで出会う。2人は意気投合。親友となった。 ある時知人に見せられたスライドに、2人は心を奪われた。それは、アドリア海の島にある、女神を象った石の彫像の写真。2人はわざわざ現地まで実物を見に行く。 パリに戻った2人は、その彫像を思わせる容貌を持つカトリーヌ(演:ジャンヌ・モロー)という女性と知り合う。ジュールは彼女にプロポーズ。生活を共にするようになる。 ある時ジムは、ジュールとカトリーヌと共に3人で芝居見物に行く。男2人が芝居の議論に熱中すると、カトリーヌは突然セーヌ河に飛び込ぶ。この時ジムは、自分もカトリーヌに惹かれていることを自覚する。 第一次世界大戦が始まり、ジュールとジムはそれぞれの国の軍人として、敵味方に分かれて戦線へと赴く。共に生きて還れたが、再会の時までは、暫しの時を要した。 ジュールとカトリーヌが暮らす、ライン河上流の田舎の山小屋に、ジムは招待された。ジュールとカトリーヌの間には、6歳の娘もいたが、夫婦仲はうまくいってなかった。 ジュールはジムに、彼女と結婚してくれと頼む。それは、自分も側に置いてもらうという条件付きだった。 3人の奇妙な共同生活が始まるが、カトリーヌには、他にも愛人がいた。ジムは刹那的に男を愛する彼女に絶望し、パリに暮らす昔の恋人の元に戻る。 数ヶ月後、3人は再会した。カトリーヌは自分の運転する車にジムを乗せると、ジュールの目の前で暴走。壊れた橋から、車ごとダイブするのだった…。 ****** カトリーヌを演じたジャンヌ・モローに、トリュフォーが初めて会ったのは、1957年。「カンヌ国際映画祭」会場内の廊下だった。モローは主演作『死刑台のエレベーター』(58)を撮り終えたばかりで、その監督で当時恋人だったルイ・マルと一緒に居た。 トリュフォーは「ジュールとジム」の小説に出会った時と同じく、その時「雷の一撃」を受けた。そしてモローをヒロインにすれば、「ジュールとジム」を映画にできるのではと、感じたという。 その後トリュフォーとモローは、週に1度、ランチを共にするようになる。トリュフォーの口数が多くないため、むしろ並行して行った、手紙でのやり取りの方が、内容が濃かったようだが。 モローは、トリュフォーの初長編『大人は判ってくれない』に、ジャン=クロード・ブリアリと共に、友情出演。「ジュールとジム」の小説を読むように渡されたのは、その前後だったと思われる。すでにスターだったモローは、トリュフォーの当時の知り合いの中では、「予算も脚本も、特別手当もない、とんでもない企画」に参加してくれる、ただ1人の女優だった。 1959年の4月、トリュフォーは原作者のロシェにジャンヌ・モローの写真を送って、カトリーヌの役について助言して欲しいと頼む。ロシェは「彼女は素晴らしい。彼女についてもっと知りたいと思います。私のところに連れてきて下さい」と返事を書いたが、2人の面会は叶わなかった。手紙を書いた4日後に、ロシェがこの世を去ってしまったからだ。 トリュフォーは、原作の謳い文句だった「純愛の三角関係」の感動を、忠実にスクリーンに移し替えようと試みた。「ひとりの女がふたりの男とずっと人生をともにするという、このうえなく淫らなシチュエーションから出発して、このうえなく純粋な愛の映画をつくること」それを目標に、ジャン・グリュオーと共同で、脚色を行った。 タイトルロールである「ジュールとジム」のキャスティングも、重要だった。トリュフォーはジュールの役には、原作通りに外国人を希望した。フランス語を話す際のアクセントや言いよどみによって、キャラクターをより感動的にできると考えたからだ。 一時、イタリア人のマルチェロ・マストロヤンニの名も挙がったが、トリュフォーは原作に忠実に、ゲルマン系の俳優にこだわった。それがオスカー・ウェルナーだった。トリュフォーはマックス・オフェルス監督の『歴史は女で作られる』(55)に出演しているウェルナーを見て、「彼以外にありえない」と、白羽の矢を立てたという。 すでにドイツやオーストリアでは有名だったウェルナーに対して、ジム役に選ばれたアンリ・セールは、まったく無名の存在。パリのキャバレーのステージで寸劇を演じていた芸人で、映画に出たこともなかった。トリュフォーは、セールの背の高さや物腰の柔らかさ、敏捷さなどが、原作者ロシェの若い頃を髣髴させるという理由で、彼をジム役に抜擢した。 因みにジュール役にウェルナー、ジム役にセールを決定する際には、トリュフォーはモローに立ち会ってもらったという。 1961年4月、遂にクランクイン。撮影に当たってトリュフォーは、「あたかも、この物語は、余り信用出来ないといった思いで、古い写真帳をめくっていくかのごとき感じ…」を出すことを意識した。そのため、登場人物も場所も、遠めから撮影。それは観客に凝視させながらも、その中には決して入っては行けない世界という意味付けだった。 先に記した通り、「予算も…特別手当もない、とんでもない企画」だった本作は、撮影クルーは15名ほどと、極めてミニマム。多くのシーンは、トリュフォーや関係者が友人知人に頼んで借りた場所で、ロケを行った。 音声の同時録音はされず、セリフはその場では適当に喋っておいて、ポストプロダクションで10日ほど掛けて吹き込んだ。因みに、衣裳はすべて自前。自分たちで作るか、見付けてくるかして、揃えたものだった。 本作に於いてジャンヌ・モローは、劇中のヒロインという以上の働きをした。彼女曰く「私はトリュフォーと一緒にこの映画を共同製作したの。私たちはありったけのお金をすべて投資したのよ」アルザスのロケでは、出演者とスタッフ合わせて22人分の昼食を、毎日彼女が作ったのだという。 それでも撮影の終盤には、製作費が底を尽き、プロデューサーがその調達に奔走するハメになったというが…。 モロー曰く、撮影は「幸福の時…」であった。トリュフォーの現場では、誰もが映画のことだけを考える。「全体として荘重で深みのある雰囲気で、それでいて絶え間のない笑い声に満ちた開放的な雰囲気…」それは悲しい物語でありながらも、ディティールはおかしさに彩られている、「ジュールとジム」の世界観と重なる現場であったと言えるかも知れない。 トリュフォーは、撮影中やその合間に起こる事柄を捉え、うまく活用して映画の中に取り入れる能力があった。即興演出も、しばしば行われた。 劇中でモローが、ボリス・バシアクのつま弾くギターで歌う、有名な「つむじ風」という歌。トリュフォー曰く、元から友人同士だったモローとバシアクが、撮影合間に楽しみながら作った曲が素晴らしかったので、「…なんとかわたしの映画に使いたい…」と頼んだのだという。 モローの証言だと、そのディティールは、少し違っている。彼女と元夫のジャン=ルイ・リシャール、そしてバシアクと3人で、以前からよく口ずさんでいた歌を、トリュフォーが採用したのだという。 いずれにしろ、映画史にも残る「つむじ風」という歌が、元は本作のために作られた曲ではなかったのは、間違いない。因みに同時録音なしで進められた本作の撮影で、このシーンだけは、録音技師を招いて撮影された。何回かカメラを回した中で採用されたのは、ジャンヌ・モローがリアルに節の順番を間違えて、一瞬ジェスチャーをするテイクだった。「幸福の時…」を共にしたトリュフォーとモロー。恋多き男と恋多き女の組合せ故、「恋人同士だった」という指摘もある。しかしながら、トリュフォーはモローとの関係は、「双子の兄弟」のように感じていたと表現。モローは、2人の恋愛関係を否定した上で、「…私たちは、お互いの技術と知性と感性に惹きつけられていたの…」と語っている。 『突然炎のごとく』は、61年6月にクランクアップ。編集とアフレコに4ヶ月ほど掛けて、翌62年の1月にパリで公開された。 公開後、トリュフォーが驚くと同時に喜びを感じたのは、彼の元に届いた2通の手紙。1通は、原作者ロシェの未亡人からで、その内容は、「…ピエールが観たらさぞ喜んだことでしょう」というもの。 そしてもう1通には、こんな自己紹介がしたためられていた。「私は75歳で、ピエール・ロシェの小説『ジュールとジム』の恐るべきヒロイン、カート(カトリーヌ)の成れの果てです…」「ジュールとジム」は、ロシェが自らの若き日について書き綴った小説であることは、先に書いた通り。ロシェ自身が投影されているのは、ジムのキャラクター。そしてジュールとカトリーヌのモデルとなったのは、ベルリンで活躍したユダヤ系ドイツ人作家のフランツ・ヘッセルと、その妻であったヘレン・カタリーナ・グルントであった。 ヘッセルはナチの台頭から逃れ、フランスに亡命した後、1941年に客死していたが、グルントはまだ存命だったのだ。彼女からの手紙には『突然炎のごとく』の感想が、こんな風に綴られていた。「わたしは映画を見て、生涯の最も美しい瞬間を生き直した心地がします」 トリュフォーは是非お会いしたいと返事を書いた。しかしグルントは、ジャンヌ・モローと比較されたくなかったからなのか、「会えない」という返信を寄越した。 モデルとなった、老婦人のお墨付きを得ただけではない。『突然炎のごとく』は、ヨーロッパの主要都市やアメリカ・ニューヨークなどで次々と公開され、絶賛を博した。そしてその後、映画のみならず、様々なジャンルの創作物にただならぬ影響を及ぼす。 製作から60年以上経った今日では、作り手が本作の存在を知ることなしに、「純愛の三角関係」のDNAが息づく作品も、少なくない。■ 『突然炎のごとく』© 1962 LES FILMS DU CARROSSE / SEDIF
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PROGRAM/放送作品
ベガスの恋に勝つルール
キャメロン・ディアス&アシュトン・カッチャーの相性抜群!酔った勢いの結婚から始まるラブコメディ
ロマンティック・コメディの人気俳優キャメロン・ディアス&アシュトン・カッチャーが夢の競演。酔った勢いで結婚した男女が相手に仕掛けるハチャメチャな嫌がらせの数々に、2人の持ち味が活かされていて爆笑必至。
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COLUMN/コラム2023.05.31
‘70年代アメリカの殺伐とした世相を映し出すパニック・サスペンス巨編『パニック・イン・スタジアム』
ディザスター映画ブームの最盛期に誕生した異色作 ‘70年代のハリウッドで大流行したディザスター映画。日本ではパニック映画とも呼ばれた同ジャンルは、地震や洪水のような自然災害からテロやハイジャックのような犯罪事件に至るまで、様々な危機的状況に巻き込まれた人々による決死のサバイバルを描き、’50年代半ばにスタジオシステムが崩壊して以降、斜陽の一途を辿っていたハリウッド映画の復興に一役買った。 トレンドの口火を切ったのは「エアポート」シリーズの第1弾『大空港』(’70)。これを皮切りに『ポセイドン・アドベンチャー』(’72)や『タワーリング・インフェルノ』(’74)、『大地震』(’74)に『カサンドラ・クロス』(’76)、さらには『大空港』の続編に当たる『エアポート’75』(’74)や『エアポート’77』(’77)などのディザスター映画が次々と大ヒットする。いずれも大掛かりな特撮やスタントを駆使した派手なスペクタクル描写と、新旧の有名スターを総動員した煌びやかなオールスターキャストの顔ぶれが人気の秘密。ブームの最盛期に登場した本作『パニック・イン・スタジアム』(’76)も同様だが、しかしこの作品がその他大勢のディザスター映画群と一線を画したのは、あくまでもスペクタクル描写はオマケに付いてくる豪華特典であり、基本的にはリアリズムを重視した社会派の犯罪サスペンスだったことだ。 舞台は現代のロサンゼルス。日曜日の早朝、市内のホテルに宿泊する正体不明の男が、おもむろに取り出したライフルでランニング中の中年夫婦を銃撃する。すぐにホテルをチェックアウトした男が向かったのは、アメフトの試合が行われるロサンゼルス・メモリアル・コロシアム。地元のロサンゼルス・ラムズ対ボルチモア・コルツの対戦だ。続々と入場する大勢の観客に紛れてコロシアムへ侵入した男は、会場全体を一望できる時計台の屋上に陣取り、試合の開始を待って静かに息をひそめる。 一方、会場には様々な事情を抱えつつも試合を心待ちにするアメフト・ファンたちが集まってくる。ワケアリな中年カップルのスティーヴ(デヴィッド・ジャンセン)とジャネット(ジーナ・ローランズ)、ギャンブル中毒で多額の借金を抱えた中年男スチュー(ジャック・クラグマン)、幼い子供が2人もいるのに失業した若い父親マイク(ボー・ブリッジス)と妻ペギー(パメラ・ベルウッド)、彼氏に誘われただけでアメフトには興味のない美女ルーシー(マリリン・ハセット)、そんな彼女に一目惚れして口説き始める男性アル(デヴィッド・グロー)、友人のスター選手チャーリー(ジョー・キャップ)を応援しに来た教会の牧師(ミッチェル・ライアン)、そして浮かれた観客のポケットから財布を盗むスリの老人(ウォルター・ピジョン)などなど。誰一人として会場に狙撃犯が潜んでいることなど気付かず、やがて大歓声に包まれて試合がスタートする。 ライフルの照射眼鏡を覗きながら客席の様子をじっと観察しつつ、しかし一向に行動を起こす様子のない狙撃犯。ほどなくしてテレビ中継カメラのひとつが彼の姿を捉え、不審に思ったスタッフが警備担当者サム(マーティン・バルサム)に報告する。ライフルを構えた狙撃犯の姿を見て戦慄し、慌ててロス市警の分署長ピーター・ホリー(チャールトン・ヘストン)に連絡するサム。通報を受けて現場へ到着したホリー署長と警官隊は、人目を引かぬよう注意深く時計台の男を観察する。 果たして彼は本気で凶行に及ぶつもりなのか。だとすれば単独犯なのか、それとも仲間がいるのか。会場には市長や議員も訪れているが、いったいターゲットは誰なのか。すると、事態を知った管理責任者ポール(ブロック・ピータース)が、時計台へ上がろうとして男に突き落とされ死亡する。すぐさまホリー署長はSWAT(特殊部隊)チームを招集。観客の安全を最優先に考えつつ、会場の各所に隊員を待機させて犯人確保のタイミングを狙うSWATのバトン隊長(ジョン・カサヴェテス)。やがてアメフトの試合はクライマックスへと差し掛かり、終了2分前のタイムアウト(ツー・ミニッツ・ウォーミング)が訪れる…。 ラリー・ピアース監督の代表作『ある戦慄』との類似性とは? 肝心の見せ場であるパニック・シーンは終盤の20分ほど。コロシアムに集まった9万1000人の観客が、次々と狙撃犯の凶弾に倒れる犠牲者や会場に響き渡る銃声に青ざめ、大混乱を起こして一斉にコロシアムの外へ向かって逃げ出す。もちろん、実際に9万人以上のエキストラを逃げ惑わせることなど不可能であるため、撮影はシーンやカットごとに何週間もかけて行われたのだが、それでもなお最大で1日3000人近くのエキストラを動員したという群衆パニックは圧倒的な迫力だ。これぞディザスター映画の醍醐味。しかも、ただスケールが大きいだけではなく、危機的状況に陥って冷静な判断力を失った人々の行動をつぶさに捉え、いざという時の群集心理の恐ろしさと危うさをこれでもかと見せつける。 とはいえ、本作のキモはそこへ至るまでの生々しいサスペンス描写にあると言えよう。狙撃犯の素性も動機も目的も劇中では一切明かされず、クライマックスへ至るまで顔すら殆んど映し出されず、辛うじて最後に所持品から名前が判明するだけ。その得体の知れなさが漠然とした不安と恐怖を徐々に煽り、ケネディ大統領暗殺事件やテキサスタワー乱射事件より以降の、アメリカ社会を包み込む殺伐とした空気をリアルに浮かび上がらせていく。’60年代末から顕著になったアメリカの治安悪化は、’70年代に入ってますます深刻となり、犯罪発生件数は増加の一途を辿っていた。もはやこの国に安全な場所など残されていない。平和な日常のどこに犯罪者が潜んでいるか分からないし、いつ凶悪犯罪に巻き込まれたっておかしくない。それこそが本作の核心的なテーマであり、あえて犯人像を透明化した理由であろう。 監督はテレビ出身のラリー・ピアース。黒人男性と再婚した白人女性に立ちはだかる困難に人種問題の根深さを投影した『わかれ道』(’64)や、富裕層のお嬢さまと平凡な若者の格差恋愛を通して階級間や世代間のギャップを描いた『さよならコロンバス』(’69)など、アメリカ社会の「今」を鮮やかに捉えた人間ドラマで定評のある名匠だが、中でも最高傑作との呼び声も高い『ある戦慄』(’67)と本作の類似性は見逃せない。 ニューヨークの地下鉄にたまたま乗り合わせた平凡な人々が、傍若無人なチンピラに絡まれるという理不尽な恐怖体験を描いた『ある戦慄』。『パニック・イン・スタジアム』でアメフトの試合会場に集まってくる観客たちと同様、『ある戦慄』の地下鉄乗客たちもそれぞれに複雑な事情を抱えており、そのひとつひとつに貧困や格差や差別などの社会問題が映し出される。そのうえで、まるで自然災害のごとく理屈の通用しない凶暴なチンピラたちの脅威に晒されることによって、善良な市民の赤裸々な醜い本性が暴かれていくことになるのだ。 日常空間に突如として現れる得体の知れない暴力、極限状態に置かれた人間のパニック心理、そこから浮かび上がるアメリカ社会の殺伐とした暗い世相。クライマックスの衝撃へ向けて、少しずつ不安と恐怖を煽っていくヒリヒリとした演出も含め、犯罪の増加やベトナム戦争の泥沼化などに揺れる’60年代末アメリカのリアルな実像に迫る『ある戦慄』は、それゆえに『パニック・イン・スタジアム』と符合する点が少なくない。前作『あの空に太陽が』(’75)をきっかけに、本作を含めて4本の映画で組んだ製作者エドワード・S・フェルドマンが、『ある戦慄』を念頭に置いてオファーしたのかどうかは定かでないものの、しかしピアース監督が本作を演出するに最適な人物であったことは間違いないだろう。 主演のチャールトン・ヘストンを筆頭に、ジョン・カサヴェテスとジーナ・ローランズの夫婦、『十二人の怒れる男』(’57)でも共演したマーティン・バルサムにジャック・クラグマン、ハリウッド黄金時代を代表する二枚目スターのひとりウォルター・ピジョン、テレビ界の人気者だったデヴィッド・ジャンセンにデヴィッド・グローなどの名優たちを起用した豪華キャストも魅力。後にピアース監督夫人になったマリリン・ハセット、『ある戦慄』でも共演したボー・ブリッジスにブロック・ピータースなど、ピアース作品の常連組も揃う。ヘストンはピアース監督の仕事ぶりを気に入り、『原子力潜水艦浮上せず』(’78)の演出をオファーしたそうだが、しかし監督は好みのジャンルでないことを理由に断ったという。 当時まだ新人だったパメラ・ベルウッドは、その後一世を風靡したドラマ『ダイナスティ』(‘81~’89)でテレビ界のトップスターとなる。また、ウォルター・ピジョン扮するスリの相方を演じている女優ジュリー・ブリッジスは、当時すでに離婚していたボー・ブリッジスの元奥さんである。当時まだ無名だった『エクスタミネーター』(’80)のB級アクション俳優ロバート・ギンティが、売店のお兄ちゃん役で顔を出すのも見逃せない。それにしても、群衆に巻き込まれながらのメインキャストの芝居など、さぞかし大変だったろうと思うのだが、実は周囲に10~15名のスタントマンを配置してスペースを確保したり誘導したりしていたのだそうだ。 なお、劇中で展開するアメフトの試合は学生リーグで、ユニフォームを見れば一目瞭然だが、実はスタンフォード大学と南カリフォルニア大学の対戦。テレビ中継のディレクターとして登場するのは、当時実際にスポーツ中継ディレクターの第一人者だったアンディ・シダリス。そう、後に『グラマー・エンジェル危機一発』(’88)や『ピカソ・トリガー/殺しのコード・ネーム』(’88)など、一連のB級ビキニ・アクション映画を手掛けるアンディ・シダリス監督その人である。 幻のテレビ放送版も徹底検証! ちなみに、本作は1979年2月6日に米ネットワーク局NBCにて、3時間の特別枠でテレビ放送されたのだが、その際に大幅な追加撮影と再編集が行われている。かつてのアメリカでは劇場でヒットした話題作映画をテレビ放送する際、様々な理由から追加撮影や再編集を施したテレビ向けのロング・バージョンを作ることが少なくなかった。『大地震』や『キングコング』(’76)、『スーパーマン』(’78)などが有名であろう。この『パニック・イン・スタジアム』の場合は、理由なき無差別殺人という題材や血生臭い暴力描写が子供や老人も見るテレビには不向きと見做され、ゴールデンタイムの特別枠を欲しかった権利元ユニバーサルが独断で追加撮影と再編集に合意したらしい。 準備された予算は50万ドル。当時は低予算のインディーズ映画を1本撮れる金額だ。おのずと劇場版の監督であるラリー・ピアースに追加撮影の依頼があったそうだが、しかし『大地震』のテレビ放送版にも携わったフランチェスカ・ターナーの脚本が酷かったため断ったという。最終的に誰が追加撮影分の演出を担当したのか分かっていないが、完成版ではジーン・パーカーという匿名でクレジットされている。 このテレビ放送版と劇場公開版の最大の違いは、狙撃犯の正体が美術品強盗グループの一味と設定されていることだ。どういうことかというと、テレビ放送版には美術品強盗作戦というサブプロットが存在するのである。実はロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの向かいに美術館があり、そこに展示されている国宝級の美術品を盗もうと画策する強盗グループが、目眩ましとして狙撃犯を試合会場に送り込んだというのだ。あくまでも目的は警察の注意をコロシアム側に引いて、その隙に仲間が美術品を盗み出すこと。人は殺さないというのが大前提だ。なので、狙撃犯のターゲットは会場の照明器具や誰も座っていない空席。その銃声で観客はパニックに陥るのだが、最後までメインの登場人物は誰一人として死なない。たまたま照明の陰に隠れていたSWAT隊員が1人、運悪く銃弾に当たって殺されるだけだ。 さらに、劇場公開版では最後に名前が判明するだけで、その素性も動機も目的も分からず、顔も殆んど見せなかった狙撃犯だが、テレビ放送版では最初から顔も名前も堂々と明らかにされ、美術品強盗グループの仲間であることはもちろん、実はベトナム帰還兵だったという設定まで加わっている。なるほど、ラリー・ピアース監督が関わり合いになることを拒否したのも納得。これじゃ映画本来の意図が台無しである。しかも、恐らく相当急ピッチで撮影された様子で、例えば車のリアウィンドウに映る景色がグリーンバックのままになっていたりする。これはさすがに不味いだろう(笑)。 こうした追加撮影分のサブプロットが本編に混ぜ込まれる一方、劇場公開版に存在するシーンの多くがテレビ放送版ではカットされている。例えば、ランニング中の夫婦が銃撃されるオープニングのホテル・シーンは丸ごと全て消えているし、狙撃犯が会場へ向かうドライブ・シーンや観客たちの背景を描く人間ドラマも大幅に短縮。バトン隊長の家族も一切出てこないし、狙撃犯の仲間と疑われた迷惑客を手荒に尋問するシーンも存在しない。その結果、最終的にCMを含む3時間の放送枠に収まるよう再編集された、合計で約2時間半のテレビ向けロング・バージョンが出来上がったのである。 追加撮影分に登場する主なキャストは以下の通り。美術品強盗グループのリーダー、リチャード役には『コマンドー』(’85)のカービー将軍役でお馴染みのジェームズ・オルソン。本作でもベトナム帰りの元陸軍将校という設定だ。同じく強盗グループのブレーンである美大教授には、ハリウッド・ミュージカル『南太平洋』(’58)でも有名なイタリアの名優ロッサノ・ブラッツィ。狙われる美術品のオーナーである大富豪アダムス氏は、『カーネギー・ホール』(’47)や『ガントレット』(’77)のウィリアム・プリンス。その恋人で実は強盗グループの仲間である美女パトリシアには、『007/カジノ・ロワイヤル』(’67)のマタ・ボンド役で知られるジョアンナ・ペティット。後に『スカーフェイス』(’83)で南米カルテルのボスを演じるポール・シェナーも強盗グループの一員、トニー役を演じている。なかなか豪華な顔ぶれだ。 さらに、主演のチャールトン・ヘストンも追加撮影に参加。強盗計画のタレこみ情報を受けた美術館の警備担当者からホリー署長が電話連絡を受けるシーンと、終盤でホリー署長が警官隊を美術館へ向かわせるシーンに登場するのだが、よく見ると劇場公開版の映像に比べて髪型が微妙に違う。そういえば、『大地震』のテレビ放送版でも、追加撮影シーンに出てくるヴィクトリア・プリンシパルのアフロ・ウィッグが明らかに別物だったっけ(笑)。また、追加撮影では狙撃犯役のウォーレン・ミラーも再登板。劇場公開版と同じ衣装を着用している。残念(?)ながら、日本では見ることのできない『パニック・イン・スタジアム』テレビ放送版だが、米盤ブルーレイの映像特典として収録されている。好事家の映画マニアであれば一見の価値くらいはアリだろう。■ ◆本作撮影中のラリー・ピアース監督 『パニック・イン・スタジアム』© 1976 Universal Pictures, Ltd. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
ミスティック・リバー
[PG-12]ある事件の闇を背負う男たちの運命を、監督としても名高いイーストウッドが描いたミステリー
監督としても名高いクリント・イーストウッドが、ショーン・ペン、ティム・ロビンス、そしてケヴィン・ベーコンというオールスター・キャストで、闇を背負う男たちの運命を重厚に描いたミステリー。
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COLUMN/コラム2023.05.29
「カンフー映画の王様」の誕生を告げるブルース・リーの記念すべき初主演作!『ドラゴン危機一発』
ハリウッドを振り向かせるために香港へ戻ったブルース 永遠不滅のカンフー映画スター、ブルース・リーの初主演映画であり、’70年代カンフー映画ブームの原点とも呼ぶべき作品だ。’71年10月23日に香港で封切られるや大反響を巻き起こし、これを皮切りにアジア各国はもとより中東やヨーロッパ、アメリカでも大ヒットを記録。もともと予算10万ドルのB級映画だった本作だが、最終的には当時の香港映画として史上最高額となる5000万ドルの興行収入を稼ぎ出してしまう。 当時すでに香港のカンフー映画はアジア諸国で人気を博していたものの、しかし世界規模で成功した作品は『ドラゴン危機一発』が初めてだったとされる。おかげで、長いことハリウッドで燻っていたブルースは、一夜にして香港映画界を代表するトップスターへと飛躍。韓国や日本など一部の国では’73年7月20日のブルースの死後、ハリウッドでの初主演作『燃えよドラゴン』(’73)の爆発的ヒットを受けて劇場公開されているが、いずれにせよ『ドラゴン危機一発』の大成功が来るべきカンフー映画ブームの素地を作ったことは間違いないだろう。 アメリカ生まれで香港育ちのブルース・リー。日頃の素行不良を心配した両親の薦めもあって、13歳の頃から伝説的な武術家イップ・マンのもとに弟子入りをした彼は、そこで初めて生まれ持った武術の才能を開花させるわけだが、しかし喧嘩っ早い性格は一向に治らず問題ばかり起こすため、有名な俳優だった父親は当時まだ18歳のブルースに100ドルを持たせて渡米させる。「可愛い子には旅をさせよ」というわけだ。アメリカでは学業の傍らで武術道場を開いたブルース。やがて大学を中退した彼は道場の経営に専念し、自らが理想とする武術の追求と普及に邁進していくこととなる。 大きな転機が訪れたのは’66年。その2年前にカリフォルニアで開催された第1回ロングビーチ国際空手大会に参加したブルースは、そこで自らの編み出した驚異的な技を披露して観衆の度肝を抜いたのだが、これを見て強い感銘を受けたハリウッドのTVプロデューサー、ウィリアム・ドジャーの推薦によって、ドジャーが大ヒット作『バットマン』(‘66~’68)に続いて製作したヒーロー活劇ドラマ『グリーン・ホーネット』(‘66~’67)の準主演に抜擢されたのである。 ブルースが演じたのは覆面ヒーロー、グリーン・ホーネットの運転手兼助手である日本人カトー。残念ながら番組は1シーズンで打ち切りとなったが、しかし劇中でブルースが披露した中国武術のインパクトは大きく、これを機に彼のもとには脚本家スターリング・シリファントや俳優ジェームズ・コバーンにスティーヴ・マックイーンなどなど、ハリウッドの大物セレブたちが門下生として続々と集まってくる。中でもマックイーンとはお互いに固い友情で結ばれたというブルース。その一方で、彼はマックイーンに対して激しいライバル意識も燃やしていたという。なぜなら、自分もマックイーンのようなトップスターになりたかったからだ。 シリファントの紹介で映画のスタント監修やテレビドラマのゲスト出演をこなしつつ、ハリウッドでの成功を夢見て各スタジオに自らの企画を売り込んだというブルースだが、しかしどこへ行っても門前払いを食らってしまう。最大のネックは彼が中国人ということ。ドラマ『燃えよ!カンフー』(‘72~’75)がブルースの原案を下敷きにしているというのは実のところ誤情報だったらしいが、しかし当初は劇場用映画として企画された同作の主演スターとして、ワーナー・ブラザーズの重役フレッド・ワイントローブ(後に『燃えよドラゴン』をプロデュース)がブルース・リーに白羽の矢を立てていたことは事実だそうで、しかしやはり中国人が主役ではヒットが望めないとして却下されてしまったという。 一流の人材を求めているはずのハリウッドのスタジオが、なぜ一流の武術家である自分を受け入れてくれないのか?と思い悩んだというブルース。そんな彼にワイントローブやコバーンが香港行きを強く勧める。ハリウッド業界を振り向かせたいならば、映画スターとしての実力を証明しなくてはいけない。そのためには格闘技だけでなく演技力も磨かねばならないし、名刺代わりとなる主演映画だって必要だ。ハリウッドではハードルが高いかもしれないが、しかし香港であればそれも可能だろう。要するに「急がば回れ」である。そこでブルースは故郷・香港へ戻り、当時同地で最大の映画会社だったショウ・ブラザーズと交渉するのだが、しかしギャラの金額が折り合わずに決裂する。 そんな彼に声をかけたのが、’70年にショウブラから独立して新会社ゴールデン・ハーヴェストを立ち上げたばかりの製作者レイモンド・チョウ。ちょうど当時、香港では『グリーン・ホーネット』が再放送されており、ブルースの知名度も高かったことから商機ありと見込んだのだろう。かくして、’71年の夏にゴールデン・ハーヴェストとの契約を結んだブルース。その第1回出演作となったのが本作『ドラゴン危機一発』だった。 『燃えよドラゴン』へと繋がった舞台裏秘話とは? 舞台は東南アジアのタイ。親戚を頼って出稼ぎにきた中国人の若者チェン(ブルース・リー)は、初めて会う従兄弟シュウ(ジェームズ・ティエン)やその妹チャオ・メイ(マリア・イー)らと共同生活を送りつつ、彼らの勤務先である地元の製氷工場で働くことになる。ところがこの製氷工場、実は麻薬密売の拠点となっていた。社長マイ(ハン・インチェ)はマフィアのボスで、出荷される氷の中に麻薬を隠して売りさばいていたのである。そのことに気付いた従兄弟たちが次々と消され、ついにはシュウまで殺されてしまう。喧嘩はしないと母親に誓っていたチェンは、余計なトラブルに巻き込まれないよう事態を静観していたものの、兄の安否を心配するチャオ・メイのためにも真相を探り始めるのだったが…? もともと本作は当時すでにスターだったジェームズ・ティエンの主演作であり、新参者のブルースは準主演として起用されたという。しかし、格闘シーンの凄まじい迫力を目の当たりにし、感心した制作陣は彼を主演へ格上げすることを決定。おのずと脚本も書き直されることとなった。実際、映画そのものは必ずしも上出来とは言えず、脚本や演出にも突っ込みどころは少なくないのだが、しかしブルース・リーがいざ戦い始めると途端に雰囲気は一変。その圧倒的なスターのオーラと鍛え抜かれた肉体の美しさ、人並外れた身体能力に目が釘付けとなる。たとえ格闘技のことに詳しくなくとも、もはや彼が別格の存在であることは誰が見ても一目瞭然。ただひたすらカッコいいのである。当時は香港でもアメリカでも、興奮した観客がスクリーンのブルース・リーに向かって、声援や拍手を送って大騒ぎだったと伝えられているが、然もありなんといったところである。 ロケ地はタイのパークチョン郡。当時は劣悪な環境だったそうで、ホテルの水道の蛇口をひねれば黄色い水が出るわ、そこら中に蚊やゴキブリがいるわという状態だったらしい。そのうえ高温多湿の気候が厳しく、新鮮な食材も手に入りにくいため、さすがのブルースも体調管理に難儀したとされ、撮影中に体重が激減してしまったという。また、アクションシーンの撮影にトランポリンを使ったり、敵役が壁を突き抜けると人型の穴が開いたりといった、マンガ的に誇張されたロー・ウェイ監督の演出にもブルースは不満を示したと言われる。確かに、生真面目で本物志向なブルースの趣味でなかっただろうことは想像に難くないが、まあ、いかんせん荒唐無稽が身上のロー・ウェイ作品なので…。 そのアクションシーンの武術指導を手掛けたのが、俳優として製氷工場の極悪社長役を演じているハン・インチェ。巨匠キン・フー監督による一連の武侠映画でも俳優兼武術指導を担当した人物で、それこそトランポリンを用いたアクロバティックなスタントも彼の十八番だった。格闘シーンでブルースが口元で血を拭ってみせる仕草は、ハン・インチェが『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』(’67)で演じた刺客マオの真似だとも言われている。また、次回作『ドラゴン怒りの鉄拳』(’72)でヒロインを演じる女優ノラ・ミャオが、かき氷屋の娘としてゲスト出演しているのも見逃せない。 なお、本作は合計で3種類の音楽スコアが存在することでも知られている。まずは香港での初公開時に使用されたワン・フーリンの音楽スコア。良くも悪くも印象に残らない平凡なカンフー映画の音楽スコアなのだが、これを「東洋的すぎる」と考えた西ドイツの配給会社は、’60年代に同国の人気スパイ映画「ジェリー・コットン」シリーズのテーマ曲などを手掛け、ジャーマン・ラウンジミュージックの巨匠としても知られる作曲家ピーター・トーマスに新たな音楽スコアを発注。これがドイツ語吹替版のみならず全米公開された英語吹替版でも使われている。さらに、日本公開された別の英語吹替版でも独自の音楽スコアを使用。これは広東ポップスの作曲家としても有名なジョセフ・クーが手掛けたもので、エンディングには日本公開版オリジナルの主題歌「鋼鉄の男」(歌:マイク・レメディオス)が流れる。ただし、実際に聞き比べてみると分かるのだが、この日本公開版ではピーター・トーマスの音楽スコアも一部で使われている。 ちなみに、ゴールデン・ハーヴェストは’82年のリバイバル公開時に広東語吹替版を製作。これが現在に至るまでスタンダードなオリジナル音声として流通しているのだが、しかし一部の(特に日本の)ファンからはすこぶる評判が悪い。というのも、もともと本作ではまだブルース・リーのトレードマークである「怪鳥音」は存在しなかったのだが、このリバイバル公開版では別のブルース・リー作品から切り抜いたと思しき「怪鳥音」を無理やり被せているのだ。そればかりか、ピンク・フロイドやキング・クリムゾンの楽曲パーツまで勝手にサンプリング…というか無断使用(笑)。いったいどういう経緯でこうなったのか首を傾げるところではある。 とにもかくにも、ハリウッドでは見向きもされなかったブルース・リーにとって念願の映画初主演となった本作。彼に香港行きを勧めたワーナー重役フレッド・ワイントローブによると、本作の完成直後にブルースから本編フィルムが彼のもとへ送られてきたという。これを当時のワーナー会長テッド・アシュリーに見せると大変気に入ったらしく、すかさずワイントローブが「ブルースのために脚本を用意してはどうだろうか」と提言したところ、とんとん拍子で話がまとまって企画が実現する。それがワーナーとゴールデン・ハーヴェストの共同制作による、ブルース・リーのハリウッド初主演作『燃えよドラゴン』だったというわけだ。■ 『ドラゴン危機一発』© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
マスター・アンド・コマンダー
ラッセル・クロウが海軍の伝説的艦長に!圧倒的なスケールに魅了される海洋アドベンチャー
世界中で愛読されるパトリック・オブライアンの海洋歴史アドベンチャー小説シリーズを壮大なスケールで映像化。優れたリーダーシップで船員に慕われる英国海軍の伝説的艦長を、ラッセル・クロウが人間味豊かに好演。
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COLUMN/コラム2023.05.29
『ツイスター』に隠顕する“ゴジラ”の存在
◆竜巻を追うストームチェイサーたちの衝突 1996年に公開されたアメリカ映画『ツイスター』は、米オクラホマ州で発生する竜巻(トルネード)に追跡システムを巻き込ませ、動きのジオメトリーデータを得ようとするライバルチームの衝突を描いたパニックアクションだ。物語の性質上、作品には巨大竜巻の猛威が見せ場として用意され、その破壊描写は怪獣映画並みのスケールを放つ。 怪獣映画といえば、本作の監督を務めたヤン・デ・ボンは、初のハリウッド版“ゴジラ”を監督デビュー作『スピード』(94)の後に手がける予定だった。しかし製作費の試算を兼ね、視覚効果のテストフィルムを大手VFXファシリティ(一説にはソニー・ピクチャーズ・イメージワークスと言われている)に作成させたところ、約1億2500万ドルという巨額が計上され(規定の予算は7000万ドルだった)、製作は難航。デ・ボンはプロジェクトを離脱したのである。結果的に侵略SF大作『インデペンデンス・デイ』(96)で大ヒットを記録したローランド・エメリッヒ監督が後を受け継ぎ、1998年に映画『GODZILLA』として完成を見ることとなる。ここで同作の真価を問うことはしないが、『トゥームレイダー2』(03)の取材で筆者が会ったデ・ボンいわく、「あれ(エメリッヒ版)は僕の知っているゴジラではないね。もし機会があるのならば、今でもゴジラ映画をやりたいと思っているよ」と後悔の念をにじませていた。 そのため、デ・ボンはゴジラに対する未練から、似た傾向のパニック映画をでっち上げたのだと思われがちだ。しかし『ツイスター』の企画は1994年から存在し、もともとはマイケル・クライトンとスティーヴン・スピルバーグの『ジュラシック・パーク』(93)コンビによる続投作品として温存されていたものだ。しかしスピルバーグは同作と『シンドラーのリスト』(93)を連作したために監督業の休止期間を置き、デ・ボンは『スピード』を観たスピルバーグから「監督を頼めないか」と打診されたのである。 なによりデ・ボンはシネマトグラファーとしての実績が長く、監督としては遅咲きだった。そのため前途多難なゴジラにキッパリと見切りをつけ、間を置くことなく『ツイスター』へと移行。好機を逃したくないという意識がはたらいたのである。 それでも『ツイスター』に、ヤン・デ・ボンが果たせなかったゴジラの幻像を見る人は少なくない。そこにはエメリッヒの『GODZILLA』が、ファンの望むゴジラ像とかけ離れていたことが起因として存在する。そして後述するが、デ・ボンの描いていた物語設定が魅力的だったことも要素として挙げられるだろう。 しかしながら、この竜巻パニック映画の制作プロセスをたどると「…やはりゴジラは無理だったのでは?」という印象も拭うことはできない。それほどまでに『ツイスター』は、デ・ボンの視覚スタイルにVFXを調合させるのがいかに難しかったかを示しているのだ。 ◆無軌道なカメラワークに竜巻をどう合成するのか? 先述したように、ヤン・デ・ボンはシネマトグラファーとして『ダイ・ハード』(88)や『ブラック・レイン』(89)『レッド・オクトーバーを追え!』(90)などのヒット作に関わり、独自の撮影スタイルを築き上げてきた。カメラモーションは多動的で、遠景から被写体へと寄る広範囲な空撮やドリー移動を好んで用い、加えてドキュメンタルなタッチを標榜し、カメラワークは不規則な動きをともなうシェイキーな傾向にあることを諸作が語っている。常時6〜8台のカメラを同時に駆使してショットを多く得るうえ、アクションと同時に会話が進行する素早い作劇演出を特徴としている。たとえば『スピード』の場合、主演のキアヌ・リーブスにスタントダブルをつけない方向で撮影がおこなわれている。それらの姿勢が『ツイスター』でも応用され、しかもなるべく現場でプラクティカル(実用的)な特殊効果を用い、ライブの臨場感を得ようとしたのだ。 ところが、竜巻の前兆となる曇天や雲の急激な動きの変化などはかろうじてフォローできたものの(不幸にも撮影時は好天続きだった)、さすがに本物をカメラに収めることまではできなかったのだ。そこで全ての竜巻をCGで創造し、それを実景にマッチムーブ(動きを含むプレートどうしを一致させ、合成するプロダクション処理)させる手段をとったのである。 こうした合成を可能にするためには、今でこそ最適なマッチムーブソフトウェアが存在するが、当時はボールのようなオブジェクト(対象物)を設置し場面同期のガイドを得て、マッチムーブ専門アニメーターの職人的な作業が創造を担っていた。だがデ・ボンのような複雑なカメラワークを常道とするものは、こうした手順をいっそう困難なものにさせたのである。 そこで本作では、ショット内に写り込んでいる建造物や木といった実景要素をオブジェクトにして、それらをコンピュータ上で生成した3Dの背景プレートに、2Dソフトでカメラの揺れや不規則なモーションを加えるという、初歩的だが非常に手間のかかるカメラトラッキングで対処したのだ。それらの開発は視覚効果ファシリティのILM(インダストリアル・ライト&マジック)が担当し、難題を解決へと導いたのである。 ◆現代において実感する『ツイスター』の画期性と挑戦心 こうして『ツイスター』の技術的な達成を称賛する反面、実作業の難易度はとてつもなく高く、これをテストケースにゴジラの実現を考慮しても見とおしが立ちにくい。事実、デ・ボンは、「『ツイスター』は『ゴジラ』と似ているようで違うものだ」とコメントし、自ら『ツイスター』とゴジラとの関連性を積極的には語っていない。そこには予算だけでなく、やはり自分の映像スタイルをゴジラに落とし込むことが難しい、技術的な問題があったのだと思えてならない。 1994年の第7回東京国際映画祭・京都大会のオープニングで『スピード』が上映されたとき、来日したヤン・デ・ボンは登壇して挨拶をおこなった。そこで氏は「僕のゴジラはスピーディで動きの激しいものになる」といった旨の宣言をし、場内を大いに沸かせている。事実 彼のゴジラは破壊を繰り返しながら北アメリカを縦断し、東部で待ち受ける巨大怪獣グリフォンと戦う「VS怪獣もの」になる予定だった。その激しいスピード感と移動感覚は、ある意味『ツイスター』の竜巻に換装されている。 2023年の現在、アクションを旨とする大型の映画は、スタジオに背景映像を投影して仮想現実空間を構築し、役者の演技やカメラモーションを得る「ヴァーチャル・プロダクション」が主流となっている。だが『ツイスター』は、スタジオに撮影の軸足を置かず、そのほとんどをライブでの撮影に求め、プラクティカルとデジタルエフェクツの両方をサポートさせて構築した、最後期の作品といえるだろう。 今やバーチャル・プロダクションは、実景によるロケーション撮影と見紛うほどのレベルとクオリティに達している。しかしライブがもたらす臨場感は俳優の演技のテンションを高め、おのずと観る者に説得力をもって伝わってくる。『ツイスター』は、こうした要素の創出に大きく貢献したのだ。 人間は何事もあきらめが肝心である。筆者は『ツイスター』の画期性を特記することで、幻に終わったヤン・デ・ボン版ゴジラへの決別をうながそうとしたが、むしろ火に油を注いで再燃させてしまったのかもしれない。 ちなみにデ・ボンは実際にゴジラを2シーン撮影したと取材で述べている。ひとつはエメリッヒ版のティーザー予告にもあった、ゴジラが背びれを浮かせて海上を進み、湾岸から上陸するまでのシーン。そしてもうひとつは、作戦本部で日本人の司令官がゴジラ迎撃の指揮をとるシーンだったという。この日本人司令官を演じているのが、誰あろう高倉健で、これらのフッテージ(未公開映像)はソニー・ピクチャーズの倉庫に眠っているというのが、デ・ボンのインタビュー時の見解である。■ 『ツイスター』© 1996 Warner Bros. and Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
(吹)ブラッド・ダイヤモンド
[PG12]人の運命を狂わせるダイヤ密売を告発!L・ディカプリオ主演の社会派アクション・ドラマ
アフリカ紛争地で反政府軍の資金源となるダイヤ闇取引の実態を、白熱したアクションを全編に交えながら告発。人間らしい心を取り戻していくダイヤ密売人をレオナルド・ディカプリオが好演しアカデミー賞候補に。
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COLUMN/コラム2023.05.12
Jホラー世界へ!リメイク作品『ザ・リング』が成功した理由
時は2001年。「ドリームワークス・ピクチャーズ」のプロデューサーで共同代表者のウォルター・F・パークスとローリー・マクドナルドに、部下の社員から電話が入った「あんなに怖い映画はこれまで観たことがない。すぐに見るべきだ」 部下の勢いに気圧され、パークスとマクドナルドは予定をキャンセル。“ビデオ”でその作品を観ると、言われた通りにふたりとも恐怖に震え、すっかり魅了されてしまった。そして、そのリメイク版を製作することを決めたという。「ドリームワークス」が、1998年の日本の大ヒットホラー『リング』のリメイク権を買ったことは、本邦では大きなニュースとして伝えられた。94年に設立されたこの映画会社が、世界一のヒットメーカーであるスティーヴン・スピルバーグ監督を擁し、当時は新たなる“ハリウッドメジャー”の座を窺う存在と言われていたことも、その背景にはあったと思われる。 しかし一方で、この“吉報”に懐疑的な向きも少なくなかった。ハリウッドのスタジオが他国のヒット作をリメイクする権利を押さえても、実際には映画化に動かずじまいとなるケースは、山のようにある。増してや日本映画をリメイクした成功例となると、『七人の侍』(54)を翻案した『荒野の七人』(60)など、ごく僅かしか聞かない。 ところが翌2002年の11月には、『リング』のリメイク作品である『ザ・リング』が、早くも日本で公開される運びとなった。2週ほど先に公開されたアメリカでの“大ヒット”という、センセーショナルな話題を伴って。 この成功の主因は、プロデューサーを務めたパークスとマクドナルドの製作姿勢にあったと思われる。彼らはオリジナル版初見の際に自らが感じた“恐怖”を至極大切にして、このリメイク版を作り上げたのだ。 ***** シアトルの新聞記者レイチェル(演:ナオミ・ワッツ)は、変死した姪のケイティの死因を探ることとなる。 ケイティは死の1週間前、山小屋に出掛けていた。そこで一緒だった仲間3人も、彼女と同様に命を落としていた事実が判明。健康な4人の若者が、同日の同時刻に謎の死を遂げていたのだ。 レイチェルはケイティの同級生から、あるビデオテープに関する、こんな噂を聞く。「そのビデオを観た者は、7日後に死ぬ」 レイチェルは4人が泊まった山小屋で、そのビデオテープらしきものを発見。再生すると、血の波紋、鏡に映る女、梯子、馬の死体、燃え上がる木が次々と映し出される。そして、最後に映った井戸がノイズで消えると、背後の電話が鳴り響いた。 受話器を取ると、不気味な女の声で、「7日後…」と告げられる。 死んだ4人の若者がそうであったように、その日からレイチェルをカメラで撮ると、顔が醜く歪んで写るようになる。彼女は別れた夫ノア(演:マーティン・ヘンダーソン)に相談。ノアは当初、彼女の言うことを信じなかったが、やはりビデオを見た自分にも、同じ現象が振りかかってきたため、協力して「呪いのビデオ」の正体を追い始める。 ビデオに映っていたものや人物の正体を探る中、更に恐ろしいことが起こる。レイチェルの息子エイダン(演:デイヴィッド・ドーフマン)までもが、ビデオを再生。「死の呪い」に罹ってしまったのだ。 果たしてレイチェルは謎を解き、自分と元夫、そして息子に迫りくる死を避けることができるのか? ***** 本作『ザ・リング』では、原作として2作品がクレジットされる。鈴木光司の「リング」と、中田秀夫の『リング』だ。前者は鈴木が著し、1991年に出版された小説。後者は中田監督による、その映画化作品を指す。 鈴木の原作小説では、高校生の姪とその同級生の死の謎を追っている内に、「呪いのビデオ」を見てしまう主人公は、雑誌記者の浅川という男性。そしてその協力者となるのは、浅川の高校の同級生で、大学講師の高山竜司。30代の男性が2人で、ビデオの謎を追っていく。 浅川には、妻と1歳6か月になる女児がいる。そしてこの2人が誤って「呪いのビデオ」を見てしまう。 そのため浅川は、自分のみならず、愛する家族を何とか救おうと必死になる。そしてある意味、人倫にもとる行為に走っていく…。 この辺り、スティーヴン・キングの「ペット・セマタリー」(1989年と2019年に映画化された『ペット・セメタリー』の原作)などからの影響も感じる。この作品を執筆中は“主夫”でもあったという鈴木光司は、意識的に“父性愛”の物語を紡いだのだ。 鈴木の「リング」は、まずは95年にTVドラマ化された。私は未見なので詳細には触れられないが、比較的原作に忠実に作られた作品だったと言われる。 そして98年、中田秀夫監督による映画化作品が公開。こちらは「呪いのビデオ」の設定などは生かしながら、かなりの改変を施している。 代表的な変更点を挙げる。まずはキャラクター。映画化作品では浅川を、TV局の女性ディレクターに変えた。そして高山は、その元夫という設定。この元夫婦の調査行の合間に、誤って「呪いのビデオ」を見てしまうのは、浅川が引き取って女手一つで育てている、小学生の一人息子・陽一である。 因みに高山は超能力の持ち主であり、息子である陽一も、その能力を引き継いでいる描写がある。 これらは、『リング』の脚本家である高橋洋が、監督と相談しながら行った変更。当初から95分という上映時間が課せられていたため、複雑な因果関係を整理。鈴木こだわりの“父性愛”を、観客にも伝わり易いであろう、“母性愛”へとシフトチェンジした。 そしてこの設定は、ヒロインの元夫が超能力の持ち主という部分はカットしながらも、そのままリメイク版『ザ・リング』へと引き継がれる。 『リング』と言えば、この作品の内容を詳しく知らない者でも、その名を知っているのが、“貞子”であろう。「呪いのビデオ」は、山村貞子という、念じるだけで他者を殺害できるほどの、強大な超能力の持ち主の“怨念”によって生まれた。その設定は、原作からそのまま、映画化作品に引き継がれたものである。 しかしながら、すでに死者である貞子が、生きている人間をいかにして殺害するのか?原作と映画では、大きく違っている。 その違いを表すのに、まずは原作から一部抜粋する。高山竜司が「呪いのビデオ」を見てちょうど1週間後に、死に至る局面だ。 *** 「ヤベエ、やって来やがった……」 …渾然一体となった音の群れが、ふわふわと人魂のように揺れ出したのだ。現実感が遠のいていく……、 胸は早鐘を打った。何者かの手が胸の中にまで伸び、ぎゅっと心臓を摑まれたような気分であった。背骨がキリキリと痛んだ。首筋に冷たい感触があり、竜司は驚いて椅子から立ち上がりかけたが、胸から背中にかけての激しい痛みに襲われていて床に倒れ込んだ。 *** そして高山は鏡の中に、~頬は黄ばみ、干乾びてゴウゴウとひび割れ、次々と抜け落ちる毛髪の隙間には褐色のかさぶたが散在している~百年先の自分の姿を見て、遂には絶命してしまう。即ち高山は、「貞子の呪い」という概念に襲われて、命を落とす。 これをこのまま、映像にする手もあっただろうか?しかし映画化作品では、「貞子の呪い」を、極めて具体的な形を持ったものへと改変した。高橋洋による、シナリオの抜粋をする。 *** TVにあのビデオが、最後の井戸の場面が映っていた。激しく画面が乱れ、幾度も砂嵐が走りながら、井戸からズルズルはい上がる女の姿が見える。シャーッ……と音が高まってゆく。女はゆっくりとこちらに近づいて来る。 恐怖にすくみながらも、電話に向かおうとすると、女はブラウン管からズルズルとこちらの世界にはみ出してきた。まるであの世に通じる窓を乗り越えるように。 廊下へ逃れた竜司に女が迫って来る。首を捩れたように垂らし、時折ひきつるように振りながら、ズルリズルリと足を引きずる……、人間の動きではない。そして間近に迫り、顔を上げたのだ。髪の間から何も見ていない狂人のような眼が覗いた。竜司は断末魔の声と共に白い光に呑まれた。 *** 貞子ははっきり、“幽霊”として現れる。そして高山に襲いかかり、呪い殺してしまうのである。 リメイク版の『ザ・リング』では、貞子に当たるのは、サマラという少女。孤児であったサマラは引き取られた先で、義父母ら周囲に災厄をもたらす存在として描かれる。生前の貞子のような、超能力者ではない。印象としては、『オーメン』(76)に登場する“悪魔の子”ダミアンのような、邪悪な存在といった体だ。 そんなサマラだが、クライマックスでは、ほぼオリジナルと同じ形で、幽霊として実体化。TVのブラウン管から這いずりだして、高山ならぬノアの命を奪ってしまうのである。『ザ・リング』の監督を務めたゴア・ヴァービンスキーは、リメイクに当たって最も気を付けたのは、「…オリジナルを台無しにしないこと…」だったと語っている。そして、「…インパクトの強いところは、全部残すようにした…」という。 4,800万ドルの製作費で作られた『ザ・リング』は、全米で1億3,000万㌦、全世界では2億5,000万㌦近い興行収入を上げる大ヒット。いわゆる“Jホラー”が、世界に通用する証左となった。 余談であるが、「ドリームワークス」が、『リング』のリメイク権を買って、日本側に払ったのは、100万㌦。『リング』の製作費は1億5,000万円だったので、これだけでほぼペイしてしまう計算となる。 とはいえ、『ザ・リング』の売り上げを考えると、100万㌦などは微々たるもの。ところが契約の関係で、いくらアメリカで大当たりしても、日本側のプロデューサーや監督、脚本家には、ほとんど実入りはなかったという。 オリジナルのプロデューサーの1人、一瀬隆重はそれを教訓に、やはり“Jホラー”の『呪怨』をハリウッドリメイクする際には、成功報酬型の契約を結び、自らも参画。見事に大ヒットとなったこのリメイク作品の、純利益の3分の1という報酬を手にすることに、成功した。 さて日本の映画界では、『リング』第1作から四半世紀経っても、手を変え品を変え、未だにシリーズ…というか、貞子が登場するホラー作品が作り続けられている。それはもはや、鈴木光司の原作からは遠く離れたものとなっている。 ハリウッドでも、『ザ・リング』はシリーズ化。日本版とは違った独自の展開を見せる、『ザ・リング2』(2005)『ザ・リング リバース』(17)が製作されている。 ウィルスは形を変えて、生き残りを図るという。映画界に於ける“リング・ウィルス”も、また然りである。■ 『ザ・リング』TM & © 2002 DREAMWORKS LLC.