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PROGRAM/放送作品
マンハッタン無宿
田舎の保安官が都会で大捕物!『ダーティハリー』へと続くハード・ボイルド刑事アクションの元祖
『ダーティハリー』等の傑作を生み出した名コンビ、ドン・シーゲル監督とクリント・イーストウッドが初めて組んだ作品であり、後のクリント・イーストウッド主演刑事モノの原型とも言えるハードボイルド・アクション。
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COLUMN/コラム2020.06.04
男同士の無邪気な友情を描くニューシネマ的ロードムービー『サンダーボルト』
クリント・イーストウッドとマイケル・チミノの出会い先ごろ90歳の誕生日を迎えたハリウッドの生ける伝説クリント・イーストウッド。テレビ西部劇『ローハイド』(’59~’65)で注目され、イタリアへ出稼ぎ出演した『荒野の用心棒』(’64)で国際的な映画スターとなり、『ダーティハリー』(’71)のハリー・キャラハン刑事役で泣く子も黙るトップスターへと上りつめたイーストウッドだが、さらに俳優のみならず映画監督としても2度のオスカーに輝く巨匠として活躍しているのはご存じの通り。しかし、そんな彼がこれまで、少なくない数の映画監督にデビューのチャンスを与えてきたことは意外に忘れられているかもしれない。『荒野のストレンジャー』(‘73)や『アイガーサンクション』(’75)などでイーストウッドの助監督を務めたジェームズ・ファーゴは『ダーティハリー3』(’76)で、『マンハッタン無宿』(’68)以来イーストウッドのスタントダブルを務めたバディ・ヴァン・ホーンは『ダーティファイター 燃えよ鉄拳』(’80)で、イーストウッド主演作『アルカトラズからの脱出』(’79)の脚本を書いたリチャード・タグルは『タイトロープ』(’84)で、それぞれ監督へと進出している。そんなイーストウッド門下生の中でも最大の出世頭となったのが、『サンダーボルト』(’74)で監督デビューを飾ったマイケル・チミノである。ジョン・ミリアスと共同で書いた『ダーティハリー2』(’73)の脚本がイーストウッドに認められ、本作の監督を任されたと言われているミリアスだが、本人のインタビューによると実は順番が逆だったという。もともとニューヨークの人気CMディレクターとして鳴らし、その実績が買われて大手タレント・エージェント、ウィリアム・モリスと代理人契約を結んだチミノ。そのウィリアム・モリスが当時抱えていたトップ・クライアントの1人がクリント・イーストウッドで、チミノは担当エージェントだったスタン・ケイメンからイーストウッド主演を念頭に置いて脚本を書くよう依頼される。それが、この『サンダーボルト』だったのだ。チミノの脚本を読んでいたく気に入ったイーストウッドは、自身の制作会社マルパソ・カンパニー(現マルパソ・プロダクションズ)で映画化すべく『サンダーボルト』の権利を購入。さらに、ちょうど当時ジョン・ミリアスが『ディリンジャ―』(’73)で監督デビューすることになり、未完成のままとなっていた『ダーティハリー2』の脚本を、イーストウッドはチミノに仕上げさせる。そして、その出来栄えに満足した彼は、当初は自身で監督するつもりだった『サンダーボルト』の演出をチミノに任せることにした…というのが実際のところだったらしい。中年にさしかかった元銀行強盗と天衣無縫な風来坊の若者主人公はかつて新聞を賑わせた銀行強盗サンダーボルト(クリント・イーストウッド)。モンタナ金庫から500万ドルを強奪した彼は、ほとぼりがさめるまで現金を寝かせておくため、田舎町ワルソーの小学校の黒板の裏に500万ドルを隠したものの、仲間たちから持ち逃げしたと誤解され命を狙われていた。とある教会の牧師として身を隠していたサンダーボルトだったが、そこへかつての仲間がやって来る。命からがら逃げだした彼は、たまたま盗んだ車で通りがかった風来坊の若者ライトフット(ジェフ・ブリッジス)と知り合う。お互いに年が離れていながら、なぜか意気投合したサンダーボルトとライトフット。ハイジャックや窃盗を重ねながら、あてどのない旅を続けることになった2人だが、そこへ今度はまた別の追手が現れる。やはりサンダーボルトの強盗仲間だったレッド(ジョージ・ケネディ)とグッディ(ジェフリー・ルイス)だ。いきなり命を狙われて戸惑うライトフットに事情を説明するサンダーボルト。レッドたちの追跡を振り切った2人は、500万ドルを回収すべくワルソーへと向かうが、なんと小学校は新校舎に建て替えられていた。いったい現金はどこへ消えてしまったのか?と途方に暮れる2人。ひとまず、追いついてきたレッドとグッディの誤解を解いたサンダーボルトに、若くて無鉄砲なライトフットが軽い気持ちで提案する。以前に強盗をやって成功したのなら、また同じ方法で強盗をすればいいんじゃね?と。かくして、武器や道具を揃えるためにアルバイトを始め、過去に襲撃したモンタナ金庫を再び襲う計画を立てるサンダーボルト、ライトフット、レッド、そしてグッディの4人だったが…!?ということで、さながら『俺たちに明日はない』(’67)×『突破口!』(’73)といった感じのニューシネマ風ロードムービー。アメリカ北西部の美しくも雄大な自然を背景に、自由気ままなアウトローたちの友情と冒険、そして因果応報のほろ苦い結末を、大らかなユーモアと人情をたっぷり盛り込みながら軽快に描いていく。決してハッピーエンドとは言えないものの、しかしシリアスで悲壮感の漂う『ディア・ハンター』(’78)や『天国の門』(’81)とは一線を画するチミノの爽やかな演出が印象的だ。 果たして2人の絆は友情なのか恋愛なのか?そんな本作について、たびたび話題に上るのがサンダーボルトとライトフットの同性愛的な関係性だ。まあ、この手の「ブロマンス」映画には常について回るトピックではあるのだが、確かに本作の2人の間柄には単なる男同士の友情を超えたような、まるで恋愛にも似たような繋がりがあると言えるだろう。だいたい、出会ってすぐに「俺の友達になってくれ!」とサンダーボルトに猛アタックするライトフットなんて、ドストライクの女子に一目ぼれして舞い上がる思春期の男子そのもの(笑)。そんな若者のプロポーズ(?)に対して「俺たち10歳も年が離れてるんだぜ!?」と切り返すサンダーボルトも、まるで年下の若い女の子に愛を告白されて戸惑う中年のオジサンみたいだ。ちなみに撮影当時のイーストウッドは43歳、ブリッジスは23歳。実際は親子ほど年が離れている。で、そんな2人の間に割って入ろうとして、なにかにつけライトフットを目の敵にするのがレッド。朝鮮戦争時代からの仲間であるサンダーボルトをなぜ殺そうとしたのか?と尋ねるライトフットに、「友達だからだ」と興奮しながら答えるレッドだが、これぞまさしく可愛さ余って憎さ百倍、もはや若い女になびいたダンナへの嫉妬に狂う古女房にしか見えない。実はこれ、イーストウッドを巡るジェフ・ブリッジスVSジョージ・ケネディという三角関係を描いた愛憎ドラマでもあるのだ。また、意外と女性キャラが多く登場する本作だが、しかしそのいずれもが単なる「性処理用のオブジェクト」か「男性を嫌悪するフェミニスト」のどちらかであり、物語の上で重要な役割を果たす女性は1人もいない。もちろん、だからといって本作がミソジニスティックな映画だと言うつもりは毛頭ない。ただ単純に、サンダーボルトもライトフットも常にお互いへの友情が最優先事項というだけ。基本的に女性に対して無関心なのだ。そういえば、若い女を抱いたサンダーボルトなんか、実につまらなそうな顔していたっけ。ライトフットだって口先では女好きのような発言を繰り返すが、しかしその行動を見る限りでは本当に女性に興味があるのかも疑わしい。なるほど、これをクローゼット・ゲイと解釈することも可能ではあるだろう。ただ、ここで個人的な見解を述べさせてもらうと、確かにサンダーボルトとライトフットの絆は友達以上恋人未満とも呼ぶべきプラトニックな愛情の様相を呈しているが、しかしそれは恋愛感情というよりも第二次性徴以前の少年たちによく見られる無邪気な友情のように思える。女子の介在する余地がないのはそのためだし、結婚した夫婦やアツアツな男女カップルを滑稽に描いているのも、恐らくチミノ自身がそうした男同士のピュアな友情にある種のロマンを抱いているからなのではないだろうか。いずれにせよ、本作におけるサンダーボルトとライトフットは大人になりきれない大人、いつまでも自由と冒険を追い求めるトム・ソーヤ―とハックルベリー・フィンであり、これは社会に適合できない孤独な彼らがお互いの存在に救いを見出し、一獲千金の大博打に夢を求める物語なのだと思う。イーストウッドもジェフ・ブリッジスも好演だが、中でも本作で2度目のアカデミー助演男優賞候補になったブリッジスの屈託のない笑顔はとても魅力的だ。最後に、脇を彩る多彩なキャストについて。ライトフットが車で引っ掛ける女性メロディ役のキャサリン・バックは、その後『爆走!デューク』(’79~’85)で人気爆発するテレビ・スター。その友達のグロリア役を演じるジューン・フェアチャイルドは、麻薬中毒で身を持ち崩して一時はホームレスとなり、68歳で亡くなった時は障害者年金でスラム地区の安ホテルに住んでいたという。ライトフットがナンパしようとするバイクの女性カレン・ラムは、ロックバンド、シカゴの中心人物ロバート・ラムの元奥さんで、後にビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンと結婚・離婚を繰り返した人。サンダーボルトがバイトする工場のセクシーな経理係クローディア・リニアは、アイク&ティナ・ターナーのバックコーラス・グループ、アイケットのメンバーだった有名なセション・ボーカリストで、ミック・ジャガーやデヴィッド・ボウイの恋人だった。ローリング・ストーンズのヒット曲「ブラウン・シュガー」は彼女が元ネタだったとも言われている。■ 『サンダーボルト(1974)』(C) 1974 MALPASO PRODUCTIONS. All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
ハドソン川の奇跡
乗客乗員155人を救った機長は英雄?犯罪者?名匠クリント・イーストウッドが奇跡の不時着水事故を映画化
2009年にアメリカで実際に起きた航空機事故をクリント・イーストウッド監督が映画化。巧みな不時着水で乗客乗員155人を救いながらも、その判断の是非を問われた機長の苦悩をトム・ハンクスが人間臭く魅せる。
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COLUMN/コラム2020.05.07
映画監督イーストウッドの評価を決定づけた、「最後の西部劇」。『許されざる者』
本作『許されざる者』は、1992年に本国アメリカで公開されるや、大ヒットになると同時に、高い評価を受けて、数々の映画賞を受賞。「第65回アカデミー賞」では9部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、助演男優賞、編集賞の4部門を獲得した。 製作・監督・主演を務めたのは、クリント・イーストウッド。主演男優賞こそ、『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』(92)のアル・パチーノに譲ったが、作品賞と監督賞の2つのオスカー像を掌中にしたのである。 今やハリウッドを代表する“巨匠”と誰もが認めるイーストウッドの作品が賞レースに絡むことは、近年では当たり前となっている。しかし本作を撮る頃までは、だいぶ事情が違っていた。アメリカ国内に於いて彼の作品への評価は、不当なまでに低かったのだ。 マカロニ・ウエスタンでの“名無しの男”や『ダーティハリー』シリーズでのハリー・キャラハン刑事に代表されるような、“アクションスター”というイメージが強かったせいもあるだろう。彼の監督作や出演作に、“マッチョイズム”“性差別”“タカ派”的な部分を見出し、それを忌み嫌う映画評論家などが少なからず存在したことも、マイナスに作用したと思われる。 むしろ評価されたのは、国外の方が早かった。映画評論家の蓮實重彦氏はその様を、『許されざる者』の劇場用プログラムで、次のように記している。 ~時代はようやくイーストウッドに追いつこうとしている。あと数年で映画百年を迎える二〇世紀も暮れ方になってから、アメリカのジャーナリズムも、この偉大な映画作家の存在を遅まきながら認知し始めたようだ…~ ~…『許されざる者』の監督がまぎれもなく日本で発見された作家であり、ヨーロッパは十年遅れで、アメリカでは二〇年遅れでその偉大さに気づいたにすぎないとだけはいっておきたい気がする…~ 日本の映画ジャーナリズムに於いて、蓮實氏や山田宏一氏のような重鎮が、イーストウッドの監督作品を早くから評価していたことは、紛れもない事実である。それは実在のジャズサックス奏者チャーリー・パーカーの音楽と生涯を、フォレスト・ウィテカー主演で描いた、イーストウッドの製作・監督作『バード』(88)が、フランスの「カンヌ国際映画祭」などで高く評価されるよりも、「早かった」という主張でもある。 何はともかく、イーストウッドの初監督作『恐怖のメロディ』(71)から二十年余。16本目の監督作にして、4本目の“西部劇”である『許されざる者』は、彼の作品としては初めて「アカデミー賞」の主要部門の対象となり、見事な“大勝利”を収めたわけである。 『許されざる者』の舞台となるのは、1880年のワイオミング。イーストウッド演じる主人公ウィリアム・マニーは、かつて列車強盗や冷酷な殺人で悪名高き男だったが、善良なる妻の愛によって改心し、足を洗った。 そんな妻を3年前に天然痘で亡くなり、マニーはまだ幼い2人の子どもを育てながら、豚の肥育や耕作を行っていた。しかしいずれも順調とは言えず、老齢期に差し掛かったマニーには、厳しい日々が続いていた。 ある日“スコフィールド・キッド”と名乗る、若いガンマンが訪ねてきた。町で娼婦の顔をナイフでメッタ切りにした牧童2人の首に、仲間の娼婦たちが1,000㌦の賞金を懸けた。その賞金を稼ぎに行こうという、誘いだった。キッドは人伝に、かつてのマニーの悪逆非道な凄腕ぶりを耳にして、協力を求めに来たのである。 一旦はその誘いを断ったマニーだったが、生活の苦しさから、11年振りに銃を手に取ることを決意する。老いて馬に乗ることさえやっとだった彼は、かつての相棒ローガン(演;モーガン・フリーマン)も誘い、キッドの後を追う。 2人の牧童を狙って町には、伝説的殺し屋であるイングリッシュ・ボブ(演;リチャード・ハリス)なども現れる。しかしそんな彼らの前に、手荒なやり方で町を牛耳る保安官(演;ジーン・ハックマン)が、立ち塞がるのだった…。 劇場公開時以来何度も観ているが、陰惨な印象がいつも強く残る。まずは、物語の発端となる事件を起こした2人の牧童。娼婦の顔を切り刻んだ“実行犯”の方はともかく、もう1人は、仲間のご乱行に巻き込まれただけ。なぜ命を奪われるのか?本人もわかっていない感が強い。 そして“殺し”の旅に出向きながらも、「過去の自分と違う」「真人間になった」ことを幾度も強調する、マニー。しかしいざとなったら、誰よりも躊躇なく、人を撃ち殺すことが出来た。 その時、昔のように人を撃つことは出来なくなっていた仲間のローガンは、改めて理解する。マニーが運命的なまでに根っからの“殺し屋”であることを。だからこそいち早く、その場から立ち去ろうとする。そして保安官の仲間に捕まり拷問を受けると、マニーが保安官たちを殺しに来ることを、予言する。 実際にマニーは、それを耳にすると、“復讐”を果しに町に戻る以外、取る道はないのである。 『許されざる者』は、「勧善懲悪」などとは程遠い世界観で綴られる。保安官は、己の町を守るという「正義」のために、“暴力”を行使していた。しかしそれは、娼婦たちの人間としての尊厳を踏みにじり、マニーの相棒の命を奪うこととなる。 保安官にとっては「正義」だが、マニーにとっては、「悪党め」と吐き捨てるしかない行為である。「正義」と「悪」の境界線など、あくまでも主観的で、曖昧なものなのだ。 そして“暴力”は、どこまでも連鎖していく…。 思えばイーストウッドは、ずっとずっとそうであった。『荒野の用心棒』に始まる、イタリアでセルジオ・レオーネ監督と組んだ“ドル箱三部作”(64~66)に於ける“名無しの男”。その“原作”となった黒澤明監督の『用心棒』(61)と一線を画すのは、黒澤作品の主人公が持ち合わせていた“正義感”のようなものが、“名無しの男”には極めて乏しいことである。 またアメリカに戻ってからの決定打となった、『ダーティハリー』シリーズ(71~88)。イーストウッドにとって、“師”であるドン・シーゲルのメガフォンによる第1作からして、主人公のキャラハン刑事は、彼が対峙する殺人者と、「紙一重」なのである。シリーズを通じても、ハリーの持つ「正義」は常に揺らぎ続ける。自らメガフォンを取った83年の第4作では、レイプ犯に復讐を果たした連続殺人犯を、己の裁量で見逃すに至る。 そんなイーストウッドが、『許されざる者』の物語に惹かれたのは、無理もない。陰惨で居心地の悪い佇まいの作品ではあるが、長年イーストウッド作品に触れてきた観客にとっても、彼が“殺し屋”であったことは、説明されるまでもなく、「知っている」わけであるし。 この作品が、製作される直前の89年に亡くなったセルジオ、91年に亡くなったドンに捧げられているのも、至極納得がいく話だ。 さて、自らには物語を作り出す資質はないことを認めるイーストウッド。では彼はいかにして、『許されざる者』の物語を手に入れ、“映画化”に至ったのか? 元となった脚本は、あの『ブレードランナー』(82)を手掛けたことで知られる、デヴィッド・ウェッブ・ピープルズが、1976年に書き上げた「切り裂かれた娼婦の殺し」。後に「ウィリアム・マニーの殺し」と改題され、80年代初頭には、フランシス・フォード・コッポラ監督が、“映画化権”を持っていた。 それはその後イーストウッドの手に渡り、80年代半ばには映画化の企画を立ち上げた。しかし先に、同じ“西部劇”である『ペイルライダー』(85)を製作することとなり、『許されざる者』は、一旦ペンディングとなったのである。 実際に『許されざる者』の撮影に着手したのは、『ペイルライダー』の公開から6年後の91年秋。公開はその翌年となったわけだが、結果的にこのチョイスは、大正解だった。1930年生まれのイーストウッドが、足を洗った老齢のガンマンを演じるに当たっては、60歳を超えるのを待ったからこそ、説得力のある風貌とイメージを得ることが出来た。 また、時勢も彼に味方した。1970年代以降は何度も「終わった」ジャンル扱いされた“西部劇”だったが、1990年に公開されたケヴィン・コスナー製作・監督・主演の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』が、大ヒット!「アカデミー賞」でも作品賞、監督賞をはじめ7部門を受賞した直後で、“西部劇”を見直す動きが強まっていたのである。 イーストウッドは『許されざる者』の製作について、次のように語っている・ 「…わたしはただ、ぜひともこの物語を伝えたいと思っただけだ。ウエスタンという神話に、わたしなりの落とし前をつけるためにね。最後のウエスタンをつくるとしたら、これほどうってつけの作品はないだろう…」 彼が言うところの「最後の西部劇」を作るには、正に絶好のタイミングだったのである。彼が心の底から渇望したアメリカでの評価=アカデミー賞を得るためにも、これ以上にない時機であった。 それにしても、それから30年近く。齢90にならんとする現在まで、イーストウッドが精力的に作品を発表し続けるとは、さすがにその時は想像もつかなかったが…。■ 『許されざる者(1992)』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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PROGRAM/放送作品
(吹)ハドソン川の奇跡 【ザ・シネマ新録版】
乗客乗員155人を救った機長は英雄?犯罪者?名匠クリント・イーストウッドが奇跡の不時着水事故を映画化
2009年にアメリカで実際に起きた航空機事故をクリント・イーストウッド監督が映画化。巧みな不時着水で乗客乗員155人を救いながらも、その判断の是非を問われた機長の苦悩をトム・ハンクスが人間臭く魅せる。
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COLUMN/コラム2019.08.30
シーゲルとイーストウッド 伝説の師弟、最後のコンビ作は… 『アルカトラズからの脱出』
今や押しも押されぬ、アメリカ映画界の巨匠クリント・イーストウッドが、初めてオスカーを手にしたのは、『許されざる者』(1992)。主演男優賞、監督賞、そしてプロデューサーとして作品賞にノミネートされ、見事に監督賞と作品賞を勝ち取った。それまでも、彼の監督としての力量を高く評価する声はあったが、これが決定打になったと言える。 「最後の西部劇」と銘打たれた、『許されざる者』。この作品が2人の映画監督、セルジオ・レオーネ(1929~89)とドン・シーゲル(1912~91)に捧げられているのは、あまりにも有名な話である。 イーストウッドが主演としてレオーネと組んだのは、『荒野の用心棒』(64)『夕陽のガンマン』(65)『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(66)の3作。シーゲルとは、『マンハッタン無宿』(68)『真昼の死闘』(70)『白い肌の異常な夜』(71)『ダーティハリー』(71)、そして本作『アルカトラズからの脱出』(79)の5作で、コンビを組んでいる。 もちろん、単に本数の問題ではない。レオーネは、それまでTVスターだっあたイーストウッドを、イタリア製西部劇=マカロニ・ウエスタンへと招いた。そして“ドル箱3部作”と呼ばれる件の作品群で演じさせた“名無しの男”役で、彼の“映画俳優”としての背骨を作ったと言える。イーストウッドにとってレオーネは、いわば「俳優としての師」といったところか。 それに対してシーゲルは、イーストウッドにとっては、「監督としての師」。 2人が出会ったのは、イーストウッドがアメリカ凱旋後、『奴らを高く吊るせ!』(68)に続いて主演した、『マンハッタン無宿』。ニューヨークで逮捕された逃亡犯を護送するために、アリゾナから出張した保安官補が主人公の、アクション映画である。この主人公像は後に、“ダーティハリー”=ハリー・キャラハン刑事の原型になったとも言われるが、当初の監督はシーゲルではなかった。予定されていた別の監督の都合が悪くなって、彼にバトンが渡されたのである。 イーストウッドは、監督がよほどの確信がない限り、あれこれ注文をつけてくるのを嫌うタイプの俳優。一方シーゲルは、監督である自分の言った通りに、俳優は演じろというスタイル。そんなわけで『マンハッタン無宿』の撮影現場でも、ちょっとした衝突があったと言われるが、イーストウッド曰く、「…最初は角を突き合わせた部分もあったが、最後には素晴らしい関係を築けたと思う」。シーゲルも、「われわれはひじょうにうまくやっていたと思う」と語っている。 兎にも角にも、お互いが“リスペクト”の念を抱ける相手だったということ。イーストウッドは、出世作となったTV西部劇シリーズ「ローハイド」(59~65)出演時から、“監督”業に興味を持っていた。そしてシーゲルこそ、その“導師”となる人物だったのである。シーゲルも喜んで、その役割を果たしたという。 イーストウッドは言う。「演出については、ほかの誰からよりもドン・シーゲルから多くを学んだと思う……彼は少ない予算で自分の思うものを撮ることができた。求めるものが撮れたときには、そうとわかった。何回も異なるアングルで撮ってみる必要などまったくなかったのだ」 シーゲルはそのキャリアで、短期間に低予算で作品を完成させるためのノウハウを確立していた。一旦照明を組んだら、そのまま撮れるショットは、全て1度に撮影してしまったり、リハーサルを十分にして、実際にカメラを回すのはほとんど1テイクで終わらせる。その演出術はイーストウッドを、これこそ確固たるコンセプトを持った監督による、真の映画撮影であると感動させた。 固い絆で結ばれたシーゲルとイーストウッドのコンビは、1968年から71年までの僅か3年ほどの間に、『マンハッタン無宿』を皮切りに、4本もの作品を次々と世に放った。その4本目こそ、イーストウッド最大の当たり役にして、シーゲルの生涯で50本に及びフィルモグラフィーに於いても、「最高」の1本と言える『ダーティハリー』である。 そしてその直前にイーストウッドは、監督デビューも果たしている。 イーストウッド自らが演じる、プレイボーイのローカル局ディスクジョッキーが、ストーカーの女性ファンに追い詰められていくサスペンス作品『恐怖のメロディ』(71)である。この作品の撮影現場のほとんどには、“導師”シーゲルの姿があった。彼は酒場のバーテンダー役で出演すると同時に、イーストウッド演出のバックアップが必要になった際に備えて、スタンバイしていたのである。 切っても切り離せない関係に思われた、イーストウッドとシーゲルだが、『ダーティハリー』以降、本作『アルカトラズからの脱出』で5度目のタッグを組むまでには、8年間のブランクが生じた。これには、幾つかの理由が考えられる。『ダーティハリー』の成功があまりにも大きすぎたため、その興奮が冷めやらぬ内に再び組むには、リスクが伴うと考えられたこと。また、イーストウッドとシーゲルの関係が濃密になり過ぎて、もうやるべきことは「やり尽くした」感が否めなかったのも、事実である。特に自らが“監督”をするようになり、自分の思うままに作品作りを進められるようになった、イーストウッドにとっては…。 『アルカトラズ…』はそのタイトル通り、サンフランシスコ湾に浮かぶ、悪名高き“アルカトラズ刑務所”が舞台。1962年に、鉄壁と言われたこの刑務所から脱獄を果した、フランク・モリスら3人の実話をベースにした物語である。 リチャード・タッグルが書いた脚本を、シーゲルが気に入って買い取り、イーストウッドの元へと持ち込んだ。イーストウッドも乗り気で、自らが主演してシーゲルが監督することを望んだ。しかしその後、8年間のブランクが、本作製作の経緯に影を落とす。 イーストウッドが、ラストシーンのカットを誰が撮るかという問題にこだわったことなどから、交渉が難航。話は一旦、白紙に戻ってしまったのである。 その頃=70年代後半のイーストウッドは、アクションスターとして円熟期。世界的な人気を誇り、日本を見ても、毎年その主演作が、“正月映画”として公開されるほどだった。更に監督作品も6本を数え、その手腕は自他ともに認めるものとなっていた。イーストウッドとシーゲルの力関係は、『ダーティハリー』の頃とは、逆転していたとも言える。 結局本作は、シーゲルがイーストウッドに頭を下げてオファーすることによって、企画が成立。しかしいざ撮影が始まってみると、2人は事あるごとに、撮影の主導権を巡って対立を繰り返すこととなった。そしてシーゲルは、ラストシーンを撮らずに、現場から去ったという。本作はイーストウッドとそのスタッフの手によって、完成に至ったのである。 シーゲルの構想では本作のラストは、刑務所の内部を映し、脱出不可能な牢獄の現実を示して終わるというもの。だがイーストウッドが選んだのは、主人公たちの勝利を描きながらも、その後の過酷な運命を示唆するという〆であった。 どちらがよりふさわしいラストだったのかは、もはや検証しようがない。しかしそうした意味で『アルカトラズからの脱出』は、シーゲル監督作と言うよりも、明らかにイーストウッドの色が濃い作品となっているのである。 本作は公開されると、批評家の絶賛を浴びながらも、アメリカでの興行は不満が残る結果となった。そんなこともあってイーストウッドは、今後もシーゲルと共同で映画製作を行っていくという契約を反故にした。 結果的に『アルカトラズからの脱出』は、伝説の師弟コンビの、最後の作品となった。シーゲルはその後、思ったように作品は撮れなくなり、80年代中盤以降は映画界から距離を置いた。一方イーストウッドは、出演作のほとんどで監督を兼ねるようになった。他者に任せる場合でも、『ダーティハリー5』(88)『ピンク・キャデラック』(89)のように、長年イーストウッド組のスタントマンだったバディ・ヴァン・ホーンを起用。間違っても、現場の主導権を奪われることがないような布陣を組んだ。 “師匠”であったシーゲルにとっては、正にキャリアの終わり近くに関わった、『アルカトラズからの脱出』。“弟子”であるイーストウッドのその後の歩みを見ると、最後のコンビ作は、正に“分かれ道”だったのである。■
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PROGRAM/放送作品
(吹)ハドソン川の奇跡
乗客乗員155人を救った機長は英雄?犯罪者?名匠クリント・イーストウッドが奇跡の不時着水事故を映画化
2009年にアメリカで実際に起きた航空機事故をクリント・イーストウッド監督が映画化。巧みな不時着水で乗客乗員155人を救いながらも、その判断の是非を問われた機長の苦悩をトム・ハンクスが人間臭く魅せる。
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NEWS/ニュース2016.09.12
公開最新作『ハドソン川の奇跡』 トム・ハンクス、アーロン・エッカート来日記者会見レポート!
9.24(土)公開PRのため、サリー機長役のトム・ハンクス、ジェフ副操縦士役のアーロン・エッカートが9/16に来日。都内ホテルでおこなわれた記者会見の模様をお届けします。会見では、実際に事故機に搭乗していた日本人の方もサプライズゲストで登場。 ザ・シネマでは、トム・ハンクスの代表作『ターミナル』『キャスト・アウェイ』『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』の3作品を絶賛9月放送中です。また、10月には『アポロ13』を放送。最新作を見る前に、もう一度トムの勇姿を要チェック! トム・ハンクス(以下T・H)、アーロン・エッカート(以下A・E)がにこやかに登壇し、記者会見がスタート。 T・H:非常に喜んでいます。今日は皆さんにお会いできてうれしいです。この映画には誇りをもっています。実際にこの便に搭乗していた日本人の方にお会いしました。私たちを嫌ってないようなので、安心しました(笑)それは良いサインだと思います。 A・E:皆さん、こんにちは。そして、東京に来られたことを大変うれしく思っております。まだホテルにこもりきりで何も見られていないのですが、皆様から歓迎を受けて、大変うれしく思っています。素晴らしい映画ができたと思いますので、是非、日本のみなさん、見て楽しんでください。 T・H:リッツカールトンは、とても素敵なホテルです。ペニンシュラもとてもいいホテルですし、パークハイアットもすてきなホテルです。インペリアルホテルも第一級のホテルです。でも私たちは今、リッツカールトンにいて、皆さんとご一緒できて、とってもうれしいです。 司会者:たくさんのホテル名を出して頂いて、一泊無料になるかもしれませんね。 T・H:それが狙いでした(笑) ※クリント・イーストウッド監督のビデオメッセージが流れる。 クリント・イーストウッド監督のコメント「日本の皆さんこんにちは。今回、東京に伺えず残念です。でもトムとアーロンがそちらにいることを嬉しく思っています。そして、『ハドソン川の奇跡』を皆様にご覧頂けることを楽しみにしております。」 T・H:(あまりに短いコメントで、顔を押さえて爆笑) A・E:ずっとそういうふうに監督に言われて作っていました。 T・H:えー彼との仕事ぶりが、こういう感じだったと、よくわかると思います。非常に彼は口数が少なく、寡黙な男。でもちゃんと言葉を選んで大事なことは言っています。アンダーラインは、‘非常に少ない’です(笑) A・E:彼と仕事をしている楽しさを今思い出しました。いつも笑っていらして、目をキラキラと輝かせて、私たちが映画を作ることを、苦も無くできるそういう現場でした。 ■初めてクリント・イーストウッド監督と仕事をされてみて、どうだったのか?もう少しお聞かせください。 T・H:とにかく、彼が偉大な俳優であり監督であることは、すでに知っています。何年にあの映画を見たとか、今でも鮮明に覚えています。彼が監督になってからの作品は、目を見張るものがありまして、多分、20世紀に残る代表作5、6本は彼の手によるものだと思います。(眉間に皺をよせ、監督の顔マネをしながら)こういうふうに見て、非常に驚異を感じる。あの顔ですから(笑) でもこれは機嫌がいいときです。私たちに非常に期待をもってくださっている。俳優のことを思ってくださって、本当に俳優のことが好きなんですね。とにかく俳優によって映画が作られるということで、俳優を大事にしてくださる方です。 A・E:そうですね、彼は、映画の私のヒーロー的な存在です。今でも大変覚えているのですが、撮影の初日、ハドソン川の側で何百人ものスタッフと共に撮影をしていました。雨が降っていたのですが、監督はずっと私たちの側にいてくれたんですね。ウインドブレーカーを着て、帽子をかぶって、一瞬たりとも室内に入ることなく、一日中、私たちの側にいて指示してくださって、そういうところは本当に力になります。 ■危機を向かえた時に、それを乗り越えさせてくれるものは何か。今の日本人の心に響くとても希望に満ちたメッセージがこの映画には含まれていると思っています。実際にこのUSエアウェイズ1549便に日本人搭乗者がいたということは、ご存じでしたか?T・H:本当に驚きで、先程この裏でお会いして、初めて知りました。荷物は戻ったか?と彼らに確認しました。一番知りたかったことです。その答えは、彼らから聞いてください。 A・E:私も知りませんでした。どういう経験をされたかっていうのを、聞くのがとても興味深いです。すごい衝撃があって、それからとてもスムーズに着水したとお答えになっていました。実際に映画を作っていた時、サリー機長本人が私たちと一緒に撮影に参加されていました。最初に救助に来てくれた方々も撮影に参加されて、何が起こったのかということを、私が直接聞くことができました。これは大変重要でした。 ■今回、演じられるにあたって、事実に忠実に過剰な脚色を加えないように演じているとお伺いしました。実際に乗客の皆様も映画を見ると思いますが、乗客の方々に何ていう風に言ってもらえたら、この映画をやってよかったと思いますか? T・H:とにかく、実際に経験した乗客がその場にいたわけですから、何を言われても私は受け入れます。彼らが見てくださった時に、我々が装飾したりとかドラマチックにしたりだとか、事実を事実としてちゃんと伝えたか、正確かというとこを感じて頂きたい。そういうところを見て頂きたい。 A・E:すごく面白かったって言って頂きたいですよね。やはり、見ている観客の方、全てに対して、自分がまさに経験したと思って頂きたいですよね。着水の時も、国家運輸安全委員会の調査もそうですけど、あたかも自分が経験したというふうに観客の方に思って頂きたい。 ■最近、実在の偉大な人物の役を演じることが多いですが、そういった役を演じる困難さ、なぜそういった役を演じ続けられるのか。また、悪役をやっておられないようにお見受けしますが、そういったことは考えたことはありますか? T・H:実際の人物ばかり続いたのは、理由はわからないです。トイストーリーのウッディも演じていますが、彼にはインタビューに行ったり調査したりはしてないです(笑)どういう風に物語が解釈されているのかに非常に興味ありまして、神話として残っている部分がありますが、そこに私たちが知らない事実が隠されていたり、二幕まで知っていたけれども三幕四幕があった、そういう面白さに興味があります。 本当にディテールにこだわるということ、実際に起きたことですから。何かが起きて、作っているわけでないですから、監督たちが勝手に作っているわけではないです。 俳優の仕事でとても大切な部分は、あまり飾り付けをしないことですね。この物語自体を、自分で編集したり作り上げたり、作り直したり、実際に体験したり感じたものがあるわけで、我々はそれを映画として正確に描きたかったということです。 できるだけノンフィクションにしたいということもあり、詳細にこだわるというのもあります。やはり多少作りあげる部分はあるのですが、やはり真実のDNAが含まれているかどうかが非常に大事なことです。 ■不時着事故があった当時、二人はどのように事件を知り、どのように感じたのか教えてください。 A・E:テレビで見ました。私は当時、ヨーロッパで映画を撮影してテレビで見たときの映像は、皆さん毛布に包まって、飛行機に乗った状態でした。その時、最初に思ったことは、ものすごく悪いことが起きてしまった。もしかしたら、9.11のようなテロが起きたかもしれないと頭をよぎりました実際はまったく反対で、NYというひとつの都市が一体となって155名を一生懸命、一緒になって助けたという素晴らしい出来事になったわけです。 T・H:私はアメリカにいて、テレビを見てニュースで初めて知ったのですが、まさに救援活動が行われていました。もうすでに救援隊が来ていて、水の中から乗客が救助している映像を見ていました。ニュージャージで実際に目撃した人たちは、低空飛行するこの飛行機を見て、またテロだと全員が感じたと思います。その後は多分ビルに突撃するのではないかとか何千人も死ぬのではないとか、ホントに悪いことを考えたと。ですから、私はこれを目撃しなくて良かったです。もし私が目撃していたら、多分大声で叫んでいたと思いますし、絶叫したと思います。完全に9.11の繰り返しと思ったに違いないです。 ■『アポロ13』、『キャスト・アウェイ』、『キャプテン・フィリップス』までトムさんの旅には困難が付き物ですが、今回またこの困難な旅に出てみようと思った最大の魅力はなんですか?また、アーロンさんは今回トムさんと旅に出られた感想を教えてください。 T・H:東京へ飛行機に乗ってやって来た男が最悪な事にスーツケースを無くした!という様な映画を撮りたいんですが、そういう映画だと誰も資金援助してくれないのです(笑)良い題材を常に求めていて、俳優としてはかなり競争心が強いタイプですし、一番大事なのは脚本だといつも思っています。本作のトッド・コマーニキの脚本は、17分くらいで読んだのではないか感じるほど、誰も知らなかった様々なサプライズが詰まっていました。理解していたと思っていたニュースの裏側にこんな事があったんだ!という気持ちは、私にとって良い映画を作るのに欠かせないレシピだといましたし、特に共演者がアーロン・エッカートだしね(笑) A・E:トムと一緒のフライトでちゃんと到着しましたよ!(笑)悪い事は何も起きませんでした(笑)トムと監督はもちろんですが、スタッフの方も自分達のやる事に非常に長けた集団だったので、本当に良い経験になりました。 私も皆さん同様、イーストウッド監督やトムの大ファンで、この現場で自分が常々知りたいと思っていた事を全部自分の目で見ることができたので、私にとっては本作に関わることは大きな特権だったと思っています。 ■盟友・ロバート・ゼメキス監督の『フライト(2013)』をご覧になっていたらどう思われたか率直な感想をお聞かせ下さい。サリー機長を演じるにあたって、どんな俳優を思い描いて演じられましたか? T・H:ボブ(ゼメキス監督)とは長い付き合いで、彼の映画は大好きだし、『フライト』は脚本段階で読ませてもらっていました。彼自身もパイロットなので、パイロットの様々な心理を想定して書いた脚本は素晴らしいと思いました。 まぁ、飛行機の映画は本作以前にもまぁまぁあります。今回はどの映画・俳優を参考にするというのではなく、この「ハドソン川の奇跡」を忠実に再現することを心掛けました。パイロットが何をすべきかという様な、脚本に書いてあることをサリー機長自身から細かく教えてもらいましたし、国家運輸安全委員会の公聴会の話しも聞きました。 原作を読んだところ、公聴会の事が全然描かれていないので、何故なのかをサリー機長に聞いたところ、小説の発行後に公聴会があったと事を知りました。この様な、サリー機長から直接情報を得た事も多く、本作の事実に集中する事を考えました。 ■サリーさんとジェフさんが信頼し合い、誇りに思い合っている部分に感動したのですが、実際のサリー機長にお会いした際に、彼から二人の関係性についてお聞きになったのかどうか、また、友情についてどう考え演じられたか教えてください。 T・H:実際は、サリーさんとジェフさんはチームになってたったの4日目で、知り合ったばかりだったのです。それ以前は会った事もなく、それはフライトアテンダントの方たちも全く同じでした。ただ、二人は知り合ったばかりだったにも関わらず、お互いのキャリアを尊敬していたし、経験も豊富でした。3日間の間にお互いが「良いパートナーだ」という事を理解していたんだと思います。 あの日、ジェフさんが離陸を担当していたのは何故なのか、サリーさんに聞いたところ、機長になる為には、数回に1回は離陸を体験しなければならないというのが理由でした。そういう事も含めて、サリーさんの説明は非常に納得がいくものでした。 A・E:当時コックピットにいたのは本当に2人だけだったとジェフさんも言っていました。プロとしての仕事にお互い敬意を持っていたのですが、この事件を経験することによって友達になっていったとい経緯があります。ジェフさん本人に当時の事を聞いて、よりいろいろな事が理解できたと思います。今でもサリーさんとジェフさんはとても良い友達ですよ。 ■最後にご挨拶をお願いします。 A・E:ありがとうございます(笑)今日は来てくれてありがとうございます。映画を愛してくれてありがとうございます。みなさんのお友達にも伝えてくださってありがとうございます。またお会いしましょう! T・H:今日はリッツカールトンにお越しくださりありがとうございます!(笑)ペニンシュラももちろん良いホテルですし、リッツは高い建物なので、窓から全てを見渡せます。とても生き生きとした会見になりました!ちょっと喧嘩になるかと思いましたが、とても平和的に終わる事ができて良かったです(笑)。ご協力に感謝します。 ※記者会見が終了し、トム・ハンクスとアーロン・エッカートは手を振って会場を後にしました。 --USエアウェイズ1549便に搭乗されていた日本人乗客の滝川裕己さんと出口適さんが登場。当時の様子を語ってくださいました。 ※左から、アーロン・エッカートさん、出口適さん、滝川裕己さん、トム・ハンクスさん ■事故に遭われた経緯を教えて頂けますでしょうか? 滝川さん:仕事でアラバマ州の方に出張があり、シャーロットで乗り継ぐ必要があり、あの事故に遭いました。 ■機内の様子はいかがでしたでしょうか? 出口さん:とても普通でした。バードストライクがあり、なんだなんだと騒ぎ出した事はありましたが、最後の最後までとても普通な感じでした。 滝川さん:出口君が言った様に、皆さん落ち着かれていたと思います。特に、落ちてから脱出するまでの順序も、とても秩序だっておりパニックになることもなく、順番に救助されていました。 ■作品をご覧になっていかがでしたか? 出口さん:一番びっくりしたのは、我々の命を救ってくれたヒーローであるサリー機長が容疑者扱いされていた事です。全く知らなかったので驚きました。 滝川さん:事故直後から出口君が言った様な事が起きていた事を知らなかったのでびっくりしたのと、映画の中身がすごくリアルで、実際に体験した者から見ても事実を忠実に再現されているなと感じました。 ■トムさんからどうしても聞いてほしい質問ということで「実際に荷物は戻ってきたのか?」というのがありますが、いかがでしたか?(笑) 出口さん:何か月後か忘れましたが、間違いなく戻ってきました。 滝川さん:私も、スーパーの会員カードまで戻ってきました(笑) 出口さん:すべてクリーニングがかかって、きれいに包装がされた状態で戻ってきてびっくりしました(笑)。<終了> ■ ■ ■ ■ ■ 『ハドソン川の奇跡』監督:クリント・イーストウッド出演:トム・ハンクス、アーロン・エッカート、ローラ・リニーほか9/24(土)より丸の内ピカデリー、新宿ピカデリー他全国ロードショー オフィシャル・サイトhttp://wwws.warnerbros.co.jp/hudson-kiseki/ <あらすじ>09年1月15日、極寒のNY上空850mで155名を乗せた旅客機を襲った全エンジン停止。近隣の空港に着陸するよう管制室から指示が飛ぶが、機長サリーはそれを不可能と判断し、ハドソン川への不時着を決断。航空史上誰も予想できない状況下の中、見事水面不時着を成功させ、全員生存の偉業成し遂げる。それは「ハドソン川の奇跡」と呼ばれ、サリーは英雄と称賛されるはずだった。ところが機長の究極の決断に疑惑がかけられる。 ©2016 Warner Bros. 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PROGRAM/放送作品
サンダーボルト(1974)
アカデミー賞監督マイケル・チミノがイーストウッド主演で描く、デビュー作
後にアカデミー監督賞を獲るマイケル・チミノが、『ダーティハリー2』の脚本を手がけた縁でイーストウッドの目にとまり、監督デビューを果たした本作。70年代イーストウッド・アクションの快作の1本だ。
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COLUMN/コラム2016.08.03
『荒野の用心棒』で金の鉱脈を掘り当てたレオーネ監督&イーストウッドがさらなるお宝を求めて突き進む『夕陽のガンマン』+『続・夕陽のガンマン』
1.ほんのひと握りのドルのために ― 『荒野の用心棒』 筆者が今回ここで紹介すべき映画は、『夕陽のガンマン』(65)と『続・夕陽のガンマン』(66)の2本だが、そのためにはやはりまず、両者に先立つ『荒野の用心棒』(64)にご登場願わなくては、どうにも話が進めにくい。 ほんのひと握りのドルのために。すべてはそこから始まった。 当時、全米のTV西部劇シリーズ「ローハイド」(59-66)に準主役でレギュラー出演し、お茶の間の人気を得るようになってはいたものの、番組のマンネリ路線に飽きを覚えていたクリント・イーストウッドのもとに、1本の映画への出演依頼が思いがけず外国から舞い込み、彼が半ば物見遊山でヨーロッパへと旅立ったのは、1964年のこと。 ところが、当初の別題から先述の「ほんのひと握りのドルのために」という原題に最終的に変わる、何とも素性が怪しげでいかがわしいその多国籍映画 ― 本来はアメリカの専売特許たる西部劇を、スペインの荒野をメキシコ国境の無法の町に見立てて撮影した、イタリア・ドイツ・スペインの3カ国合作による低予算の外国製西部劇で、主演のイーストウッドを除くと、イタリア人を中心にヨーロッパの連中で固められたキャスト・スタッフの大半のクレジットはアメリカ人を装った別人名義、しかも、日本の時代劇(改めて言うまでもなく『用心棒』(61 黒澤明))の物語を、著作権を正式に得ないまま勝手に翻案・盗作したせいで、やがて訴訟騒ぎにまで発展する ― 『荒野の用心棒』が、同年のイタリア映画界最大のヒット作となったのをはじめ、当事者たちすら予想だにしなかった世界的ヒットを記録して、その名も“マカロニ・ウェスタン”(外国での呼び名は“スパゲッティ・ウェスタン”)ブームに火をつけ、以後、同種の外国製西部劇が続々と生み出されるようになるのだ。以前、本欄で『黄金の眼』(67 マリオ・バーヴァ)を紹介した際にも説明したように、1960年代は、御存知『007』(62- )シリーズの登場と共に、スパイ映画が各国で作られたり、また日本でも日活の無国籍アクションが量産されたりするなど、娯楽映画における異文化間の移植培養、雑種交配=ハイブリッド化が汎世界的に同時進行しつつあった。 監督のセルジオ・レオーネと主演のイーストウッドの双方にとっても、『荒野の用心棒』は一大出世作となった。ただし、レオーネは、プロデューサーたちと事前に結んだ不利な契約のせいで、映画の大ヒットによるご褒美の分け前には一切与ることが出来ず、また、盗作問題を巡る訴訟騒ぎで同作の全米公開が1967年まで先延ばしにされたせいで、イーストウッドの方も、自らの成功をなかなか実感できずにいた。2人は再度コンビを組み、柳の下の二匹目のどじょうを狙うことになる。もう少々のドルのために、と。 2.もう少々のドルのために ― 『夕陽のガンマン』 かくして、『夕陽のガンマン』がいよいよ登場することになる。映画の製作費は60万ドルと、『荒野の用心棒』の20万ドルの3倍に跳ね上がり、イーストウッドの出演料も、前作の1万5千ドルから5万ドルプラス歩合へと大幅にアップ。前作で、薄汚れたポンチョに身を包み、無精髭のニヒルな面構えに、短い葉巻を口の端にくわえこんだ独特の風貌とスタイルで、正体不明の流れ者の雇われ用心棒をどこまでも寡黙かつクールに演じた彼は、今回もそのトレードマークをそっくり受け継いだ上で、新たな役どころに挑むことになる。「生命に何の価値もないところでは、時に死に値段がついた。“賞金稼ぎ”が現れた由縁である」と、オープニングのクレジット紹介に続いて『夕陽のガンマン』の物語世界の初期設定が字幕で示される通り、ここでイーストウッドは賞金稼ぎの主人公を演じることになるのだ。 マカロニ・ウェスタンが、本来アメリカ映画の長年の伝統と歴史を誇る西部劇を、それとはおよそ無縁なヨーロッパの地に移植して作り上げられたまがい物の産物であることは既に述べたが、そこでレオーネ監督とイーストウッドが行なった大胆不敵で革新的な実験のひとつが、高潔な正義のヒーローが悪を打ち倒すという、従来の西部劇に特有の勧善懲悪調の道徳劇のスタイルをばっさり切り捨てることだった。既に『荒野の用心棒』の主人公自体、『用心棒』からの無断借用とはいえ、従来の正統的なアメリカ製西部劇の正義のヒーローとは程遠い、ダーティなアンチ・ヒーロー像を打ち立てていたが、この『夕陽のガンマン』でイーストウッドが演じる主人公の役柄は賞金稼ぎに設定され、善悪という道徳的な価値判断や倫理観よりも、あくまで賞金目当ての欲得と打算がその行動原理の前面に据えられる。こうして、血なまぐさい暴力が支配する無法の荒野で、主人公も含めてエゴや私利私欲を剥き出しにした連中が互いに裏切り騙し合いながら相争うさまを、痛烈なブラック・ユーモアと残虐なバイオレンス描写を随所に交えながら冷笑的に描く、レオーネならではの傍若無人、問答無用の娯楽西部劇世界が、本作でより一層華麗に展開されることになる。 『荒野の用心棒』では、互いに相争う2組の悪党どもの対立を、イーストウッド演じる主人公が一層煽り、けしかけながら、双方を壊滅状態に追い込む様子を描いていたのに対し、『夕陽のガンマン』では、共に腕利きの同業者にして宿命のライバルたる2人の賞金稼ぎが、時に相争い、時には紳士協定を結んで互いに協力しながら、いずれも多額の懸賞金のついた悪党どもとその親玉を次第に追い詰めていく様子が描かれる。かくのごとく、三つ巴の戦いを映画の物語の根幹に据えることが、どうやらこの頃のレオーネのお好みのフォーマットであったことが見て取れるだろう。 イーストウッドが賞金稼ぎの主人公を、そしてジャン・マリア・ヴォロンテが『荒野の用心棒』に引き続いて悪党の親玉を演じるのに加え、今回、イーストウッドのライバルたるもうひとりの賞金稼ぎ役には、どこか猛禽類を思わせる精悍な顔立ちと眼光鋭い目つき、そして黒装束に身を包んだスレンダーな長身が印象的なリー・ヴァン・クリーフが起用され、風格に満ちた強烈な個性と存在感を存分に披露。相手との距離を充分に見極めた上で沈着冷静に標的を仕留めるその確かな銃の腕前で、映画の中盤、彼がイーストウッドと互いに相手の帽子を撃ち合いっこする場面は、今日改めて見直すと、何とも稚気丸出しのくどい演出で多少ダレるが、筆者が小学生の頃、最初にテレビで見た時は、こいつはまるでマンガみたいで面白いや、と興奮したものだっけ…。 そして、紹介の順序がすっかり後になってしまって我らが偉大なマエストロには大変申し訳ないが、これらの要素にさらに御存知エンニオ・モリコーネの比類なき映画音楽が加味されて、『夕陽のガンマン』でレオーネ独自の世界は早くも一つの完成を見ることになる。実はかつて小学校時代の同級生だったというレオーネと初めてコンビを組んで、モリコーネが『荒野の用心棒』につけたサントラ自体、口笛にギターやコーラス、そして鐘や鞭の音などを多彩に組み合わせた斬新なアレンジで、マカロニ・ウェスタンの音楽はかくあるべしと、以後の基調的なサウンドを一挙に決定づけた超絶的傑作だったわけだが、本作でモリコーネの音楽は、物語とより有機的に一体化されてドラマを情感豊かに彩ることになるのだ。 とりわけ、ヴァン・クリーフとヴォロンテの間に実は深い因縁があったことを、懐中時計から流れるオルゴールのメロディが何よりも雄弁に物語り、その印象的な旋律をバックに、彼らが宿命の対決を繰り広げるクライマックスの円形広場での決闘場面は、やはり何度見てもスリリングで面白い。ここでイーストウッドは、半ば主役の座をヴァン・クリーフに譲り、公正なレフェリー役として2人の決闘に立ち会うことになるが、レオーネ監督は、この円形広場での決闘場面を改めて自ら反復・変奏し、今度はいよいよ三つ巴の戦いの決着の場として、よりけれんみたっぷりに描き出すべく、『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』と共に3部作を成す、次なる壮大な野心作『続・夕陽のガンマン』に挑むことになる。 3.ドルは充分稼いだ。さて、しかし…マカロニ・ブームの頂点を極めたバブル巨編 ― 『続・夕陽のガンマン』 『夕陽のガンマン』が『荒野の用心棒』をも上回る大ヒットで2年連続イタリア国内の興収記録第1位に輝いたのを受けて、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』の製作費は120万ドルと、『夕陽のガンマン』の60万ドルからさらに倍増し、イーストウッドの出演料も25万ドルプラス歩合と、前作から約5倍にアップ。倍々ゲームのようにしてイケイケで駒を進めてきたレオーネ監督はここで、作品の長さも約3時間に及ぶ、マカロニ・ウェスタン史上空前のスケールの超大作を生み出すこととなった(長尺が影響したのか、『夕陽のガンマン』の興収記録には及ばなかったものの、本作もやはり大ヒットして、みごと3年連続イタリア国内の第1位に輝いた)。 映画の原題は既によく知られている通り、「いい奴、悪い奴、汚い奴」で、賞金稼ぎの「いい奴」をイーストウッド、冷酷非情な殺し屋の「悪い奴」を『夕陽のガンマン』の役柄とは好対照をなす形でヴァン・クリーフ、そして首に賞金の懸かったお尋ね者の「汚い奴」には、かのアクターズ・スタジオ出身の実力個性派イーライ・ウォラックが起用され、三者三様、互いの持ち味と個性を競い合う。ただし先にも説明したように、勧善懲悪の世界とは無縁のレオーネ映画にあって、この3人は、その呼び名の通り、善玉と悪玉などにくっきり色分けされている訳では無論なく、「いい奴」役を割り当てられたイーストウッドも含めて、いずれもひと癖もふた癖もある悪党どもばかり。そんな彼らが、ふとしたきっかけで知った某所に眠る20万ドルもの財宝をめぐって決死の争奪戦を繰り広げる様子を、レオーネ監督は、南北戦争時代のアメリカを物語の舞台に、圧倒的な物量作戦で戦闘シーンをスペクタクル風に再現したり、コヨーテの遠吠えを模したモリコーネの強烈な主題曲を織り交ぜたりしながら、どこまでも悠然としたペースで描いていく。 そして、物語の大詰め、この3人の主人公たちが、いよいよ三つ巴の決闘に挑むべく、円形広場で3方に分かれて対峙する、名高いクライマックスが訪れることになる。ここでレオーネ監督は、3人それぞれの顔の表情やガンベルトにかけた手のクロースアップを、これでもかとばかりに何度となく繰り返しクロスカッティングさせ、そこへさらにモリコーネ独特の音楽がバックにかかり、トランペットの音色やオーケストレーションが次第に高鳴るにつれ、いやがうえにも映画はドラマチックに盛り上がる……ことはまあ確かなのだが、その一方で、本来なら一瞬であるはずの決闘直前の3人の睨み合いの息詰まる緊張した時間が、どこまでもズルズルと非現実的に引き延ばされるのに付き合わされるうち、すっかりダレて疲れてしまい、一体これ、いつまで続くんだろう? とふと我に返って思いをめぐらす瞬間が訪れることも、また確かだ。 『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』は、御存知あのクエンテン・タランティーノが、オールタイム・ベストの1本としてしばしばその名を挙げて再評価が進み、公開当時よりもむしろ近年の方が、映画ファンたちの間では人気と支持が高まっている。それは無論、承知の上で、しかし筆者自身、子供の頃から何度も目にしているからこそ(2002年、フィルムセンターで開催された「イタリア映画大回顧」特集での、日本初となるイタリア語復元版でのスクリーン上映も見に行ったし、DVDのアルティメット・エディションもしっかり買って、ひと通り見ている)、あえてここで言わせてもらうならば、上記の場面が象徴的に示しているように、この映画はやはり、全体的にどうも妙に肥大化して弛緩した、バブリーで冗漫な一作、という印象はぬぐえない。もちろん、それなりに面白くて楽しめることは充分認めるんだけどね…。 『夕陽のガンマン』を手始めに、お互いにろくに言葉も通じぬままたて続けにコンビを組み、マカロニ・ウェスタン3部作を生み落としたイーストウッドとレオーネ監督だが、一作ごとに自らの野心と欲望を肥大化させ、まるでデヴィッド・リーンばりの巨匠を気取って大作路線を突き進むレオーネに次第に違和感を覚えるようになったイーストウッドは、『続・夕陽のガンマン』を最後に、ついに彼と袂を分かつことになる。そして、人気スターとなってアメリカに凱旋帰国を果たしたイーストウッドは、やがてドン・シーゲル監督という新たな師匠と出会い、より簡潔で無駄のない引き締まった演出法を彼から伝授された上で、自らも映画作家となり、さらなる高みを目指して険しい道=マルパソを歩むことになるのである。■ FOR A FEW DOLLARS MORE © 1965 ALBERTO GRIMALDI PRODUCTIONS S.A.. 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