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PROGRAM/放送作品
勝手にしやがれ
演技も台詞も即興!巨匠ジャン=リュック・ゴダールの感性が光る、ヌーヴェル・ヴァーグの代表作
1950年代末からフランスで起きた映画運動“ヌーヴェル・ヴァーグ”の評価を確立した、ジャン=リュック・ゴダールの長編デビュー作。主役の若きカップルに漂う虚無感を、粋なライフスタイルを通じ鮮烈に描く。
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COLUMN/コラム2022.10.11
カトリック牧師のストイックな信念にレジスタンス精神を投影したメルヴィルの異色作『モラン神父』
若き牧師の道義心に共鳴し、やがて惹かれていく未亡人の葛藤 フレンチ・ノワールの巨匠ジャン=ピエール・メルヴィル。マフィアや殺し屋、詐欺師など裏社会で生きる男たちの友情と裏切りと道義心をテーマに、『いぬ』(’63)や『ギャング』(’66)、『サムライ』(’67)、『仁義』(’70)といったノワール映画の名作を世に送り出したわけだが、そんなメルヴィルが第二次世界大戦下のフランスの田舎を舞台に、若い牧師に恋をした女性の戸惑いと葛藤を描いた異色作が、ジャン=ポール・ベルモンドとの初コンビ作ともなった『モラン牧師』(’61)である。 ナチス・ドイツ占領下のフランス。アルプスの麓の小さな田舎町に住む女性バルニー(エマニュエル・リヴァ)は、ユダヤ人の夫を戦場で亡くして幼い娘をひとりで育てる未亡人だ。町に駐留しているイタリア兵は住民に対して友好的ではあるものの、しかし戦時下の日常には様々な不安がつきまとう。女性ばかりの職場で働いている彼女は、美人でやり手の女性上司サビーヌ(ミコル・ミレル)に淡い恋心を寄せることで、日々のストレスを紛らわせていた。 やがて町にドイツ軍がやって来る。最愛の娘にはユダヤ人の血が流れているし、自身も共産主義者であるバルニーは、同じように子供を持つ同志の女性たちと相談し、万が一のことを考えて子供たちにカトリック教会の洗礼を受けさせる。もちろん、あくまでもドイツ軍から我が子を守るためであり、バルニー自身は神の存在など信じていない。自分でも牧師の告解を受けようと考えた彼女は、そこで同世代の若い牧師レオン・モラン(ジャン=ポール・ベルモンド)と知り合う。無神論者であることを隠すことなく、神の存在やカトリック教会への疑問を問いただすバルニー。反発や批判を受けると思った彼女だが、しかしモラン神父はバルニーの疑問のひとつひとつを真摯に受け止め、参考になる本を貸しましょうと彼女を司祭館へと招待する。 振り返って、カトリックの司祭でありながら「宗教はブルジョワの利益のために歪められている」と本音を吐露し、常に弱者の側に立って自らの道義心に従い行動する本作のモラン神父もまた、紛れもないレジスタンス精神の持ち主であると言えよう。それを強く浮き彫りにするのが、ヒロインであるバルニーの存在だ。神の存在を否定する共産主義者であり、娘の安全を守ることが常に最優先だった彼女だが、しかしモラン神父との対話と交流を通じて宗教への理解を深め、我が身の危険も顧みず他者へ手を差し伸べていく。それは恐らく、モラン神父がその言葉と行動で示す「人としての正しさ」、すなわち彼の道義心に強く感化されたのだろう。 さらにモラン神父は自らの美しい容姿や知性によって、バルニーら様々な問題を抱えた女性たちを性的に惹きつける。メルヴィル監督曰く、「レオン・モランはドン・ファン」である。劇中でバルニーやクリスティーヌが察したように、彼は自らが男性として魅力的であることを自覚しており、それを用いて女性たちを夢中にさせるのだが、しかし決して彼女らの期待には応えない。それは聖職者としての節度をわきまえているからというよりも、まるで女性たちへ「誘惑に抵抗して克服する」ための試練を与えているかのようだ。そう考えると、バルニーを特別扱いしているように思えたモラン神父が、いきなり理由もなく彼女を突き放してみせる行動の不可解さも理解できよう。恐らく、他の女性にも同様のことをしているはずだ。これは、政治や思想に左右されることのない道義心を持つ聖職者が、その揺るぎなきレジスタンス精神をもって迷える子羊たちを教え導いていく物語。そういう意味で、やはりメルヴィル監督らしい映画と言えるだろう。 フランス文学界の権威ゴンクール賞に輝くベアトリス・ベックスの原作本に感銘を受け、当時ヨーロッパで最も影響力のある映画製作者のひとりだったカルロ・ポンティに映画化企画を持ち込んだメルヴィル監督。そこでポンティからモラン神父役に勧められたのがジャン=ポール・ベルモンドだった。ご存知の通り、ベルモンドとメルヴィルはジャン=リュック・ゴダール監督の出世作『勝手にしやがれ』(’60)で共演したことのある仲だ。当時、イタリアでポンティが製作するヴィットリオ・デ・シーカ監督の『ふたりの女』(’60)を撮影中だったベルモンドは、現場へ足を運んだメルヴィル監督から直接オファーを受けたものの、当初は出演に後ろ向きだったという。やはり、自分のイメージが聖職者役に合うかどうか懐疑的だったようだ。 『モラン神父』© 1961 STUDIOCANAL - Concordia Compagnia Cinematografica S.P.A. - Tous Droits Reserves
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PROGRAM/放送作品
モラン神父【4Kレストア版】
神父と未亡人の“愛”が絶望的にすれ違う…巨匠ジャン=ピエール・メルヴィルが贈る文芸ドラマ
犯罪映画の巨匠ジャン=ピエール・メルヴィル監督が描く文芸ドラマ。神への愛に生きる神父と彼に惹かれた未亡人の想いとの対比を、監督の盟友アンリ・ドカエが撮影した陰影を強調した映像で美しくも切なく綴る。
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COLUMN/コラム2020.12.03
4度映画化された「盗まれた街」。1978年版の装いは…『SF/ボディ・スナッチャー』
SF小説の古典として名高い、ジャック・フィニィ(1911~95)の「盗まれた街」。1955年に発表されて以来、洋の東西を問わず、多方面にインパクトを及ぼした。日本でも、手塚治虫の「ブラックジャック」にインスパイアされた一編があるなど、影響を受けたクリエイターは少なくない。 ハリウッドでの映画化は、4回に及ぶ。本作『SF/ボディ・スナッチャー』(1978)は、その2回目の作品である。 まずは原作小説のストーリーを、紹介しよう。主人公は、アメリカ西海岸沿いの田舎町サンタ・マイラで開業する、医師のマイルズ。ある時彼の診察室に、ハイスクール時代に何度かデートした美しい女性ベッキーが訪れる。 彼女の用件は、いとこのウィルマを診て欲しいということだった。ウィルマは、自分の育ての親である伯父が、偽者だと思い込んでいるという。 マイルズはベッキーの依頼に応え、ウィルマの元を訪れる。その際に彼女の伯父にも会ったが、何ら変わった様子は感じられない。しかしウィルマに言わせると、小さなしぐさや癖、身体の傷までそのままで、思い出話をしても、ちゃんと答えてくれるのだが、「何かが決定的に違う」というのである。ウィルマには伯父が、感情らしい感情を、失ってしまっているように思えるらしい。 そしてその時以降、マイルズの診察室には、ウィルマと同じようなことを訴える患者が次々と訪れる。夫が自分の妻を、「妻でない」と言い張る。子が親を、或いは友人が友人を、偽者だと主張するのである。 マイルズは精神科医のマニーの力を借りるのだが、一向に埒が明かない。その一方で、お互いバツイチになってからの再会だった、ベッキーとの距離が縮まっていく。 ベッキーとのデートを楽しんでいる最中、マイルズは友人の小説家ジャックから、至急家に来て欲しいという連絡を受ける。2人でジャック邸を訪れると、彼の家のガレージへと案内される。 そこにあるビリヤード台の上には、シートにくるまれた人間の死体が置いてあった。ジャックはマイルズに、その死体をよく観察してくれと頼む。 その死体は、成人の顔にしては未熟な印象であり、その肉体は傷一つなく、未使用と言える状態だった。死体らしい冷たさもなく、その指先には、指紋がなかった。まるで、一度も生きたことがないかのように。 マイルズとベッキー、ジャックとその妻シオドラは、この物体と、最近この街に住む人々の身に次々と起こっている、身近な人々を別人と感じる症状に、何らかの関わりがあると思い至る。そしてマイルズは、ベッキーの自宅の地下室にも、同じものを発見する。 街の人々は、この不思議な物体に次々と乗っ取られている! しかし相談していた精神科医のマニーを呼ぶと、物体はいつの間にか姿を消していた。マニーはマイルズたちが、幻覚を見たに過ぎないと指摘。マイルズたちも、一旦は納得せざるを得なかった。 しかし、奴らの“侵略”は確実に進んでいた。マイルズたちは次第に追い詰められ、街からの脱出を、決意するのだったが…。 「盗まれた街」で、サンタ・マイラの人々の身体を乗っ取っていくのは、死滅の危機に直面した惑星から、宇宙間の莫大な距離を、数千年の歳月を費やして漂流してきた宇宙種子である。巨大なサヤのようなその種子は、ターゲットとなる人間の近くに置かれると、その者が眠っている間に、個々人が持つ正確な原子構造の図式を読み取って複製し、完全なる同一人物が生まれる仕組みとなっている。それと同時に、複製された側の人間は、灰色の塵となって消えてしまう。“睡眠”は、人間が生きていく上で避けられないもの。ところが眠ってしまうと、一巻の終わりというわけだ。このメカニズムが、実に恐ろしい。 原作では、主人公たちの抵抗によって、宇宙種子による地球侵略は、頓挫する。いわばハッピーエンドを迎えるのだが…。 原作が発表された翌年に公開されたのが、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(56/日本未公開)。アクション映画の名手ドン・シーゲル監督による、「盗まれた街」の映画化第1作の登場人物や筋立ては、ほぼ原作に忠実である。物語の終幕も、希望が残る。 大きく改変されたのは、主要登場人物の一部に待ち受ける運命。クライマックスには、過酷としか言いようがない展開が訪れる。 それを考えると、原作に準拠したような終幕は、正直違和感が残る。実はシーゲルは、ケヴィン・マッカシーが演じる主人公のマイルズ医師が、ハイウェイに立って1台の車を止めて、サヤに対する警告を発するところで、エンドマークを出したかったという。彼は観客に向かって指を差し、叫ぶ。「次は、あなたの番だ!」 こうしたアンチ・ハッピーエンドが避けられたのは、製作側の意向だった。シーゲルはもしそれに従わなければ、脚本家のダニエル・メインウォーリングと共に、「交替させられてしまっただろう」と、後に述懐している。 この映画化第1作は、“赤狩り”の時代を背景にした寓話であると、後世まで語られる作品となった。米ソ冷戦が激化し、“共産主義”の脅威が広く語られる中で、アメリカ国民の中には、「同僚や隣人が、スパイでもおかしくない」という疑心暗鬼が広がっていた。身近な者が共産主義者であっても、見た目は普通の人間と変わらない。どうやって見分ければ良いのか?誰を信用すれば良いのか?…というわけだ。 こうした映画化作品の評価と共に、原作小説に対しても、その“意味”を巡る解釈は、様々に為されてきた。しかし原作者フィニィは、それを一笑に付す。「…これは楽しんでもらうためのただのお話。それ以上の意味はない…」「…映画にかかわった人々がなんらかのメッセージを持っているという議論は、いつもくすぐったい思いで拝聴していました。そうだとすれば、それは私が意図した以上のものだし、映画は原作に忠実なのだから、そもそもメッセージとやらがどうやって入り込んだのか想像もつきません…」 フィニィはこう語るが、しかしながら、長く読み継がれるような優れた物語は、現実の変化に応じて、意味付けや解釈が変わってしまうのが、至極当たり前である。「盗まれた街」に関しては、発表から65年の間の、4度の映画化作品を見ると、各時代が抱える問題や病弊が、明確に浮かび上がる。 ドン・シーゲル版から23年後の、2度目の映画化作品、『SF/ボディ・スナッチャー』は、『スター・ウォーズ』(77)『未知との遭遇』(77)『エイリアン』(79)などで、世界的なSF映画ブームが沸き立っている最中に、製作・公開された。監督を務めたのは、後に『ライトスタッフ』(83)や『存在の耐えられない軽さ』(88)を撮る、フィリップ・カウフマン。 本作には、ドン・シーゲルやケヴィン・マッカーシーがカメオ出演。前作へのリスペクトぶりを、至るところに溢れさせながらも、70年代後半という、時代の装飾を纏わせている。 宇宙の彼方で絶滅する惑星、そしてそこから逃れて、地球に向けて侵略を開始する微生物が描かれるオープニングで、この作品が何を描くかを、高らかに宣言した後に登場する舞台は、田舎町のサンタ・マイラではなく、大都市のサンフランシスコ。そしてドナルド・サザーランドが演じる主人公ベネルは、医師ではなく、州の公衆衛生官となっている。 ベネルはある時、職場の同僚であるエリザベス(演;ブルック・アダムス)から、夫の様子がおかしくなり、「彼が彼でなくなった気がする」と奇妙な相談を持ち掛けられる。これをきっかけに、ベネルは周囲の異変に気付いていく…。 サヤが人体を乗っ取る原理は、前作と変わらない。しかし、特殊メイクなどSFX技術の著しい進歩と、しかもCG登場以前というタイミングがあって、サヤが人体を複製していく描写が、何ともグロテスク。実にリアルで、グチャドロに表現される。 舞台を大都市に変えた狙いも、明白だ。本作のプロデューサーであるロバート・H・ソロ曰く、ここに暮らす人々は「お互いに無関心であり、回りの人の小さな変化などに、誰もが気がつかない」。それ故に、“複製”になり代われる怖さは、倍増するというわけだ。 主人公の職業変更も、その流れの中で行われた。レストランなどの店舗や施設の衛生状況をチェックするのが仕事の公衆衛生官ならば、無関心な大都市の中でも、いち早く異常事態に気付くことが、不自然ではない。 映画史的に鑑みればこの頃は、SF映画ブームであると同時に、60年代後半から70年代中盤に掛けて、アメリカ映画を席捲した“ニューシネマ”が終焉を迎えた時期である。『SF/ボディ・スナッチャー』は、“ニューシネマ”が肯定的に捉え続けた、反体制文化や個人主義に対して、疑念を提示しているとも言える。そうした方向性が行き過ぎると、社会やコミュニティが崩壊に向かうという考え方である。 それにしてもメインキャストに、ドナルド・サザーランド、『ザ・フライ』(86)のジェフ・ゴールドブラム、そしてMr.スポックことレナード・ニモイと、よくもまあ個性的な“顔”ばかり揃えたものである。宇宙種子に乗っ取られて、当然とも思えてしまう。 それは冗談として、そんな面相のサザーランドだからこそ、ブルック・アダムス演じる美しきヒロインとのロマンスが、より切なさを帯びる。職場の気の置けない友人同士だった筈が、侵略者からの逃避行の中で、お互いを愛していることに気付いてしまう。 それだけに主人公が、前作同様に、何よりも大切なものを失ってしまうクライマックスに、私は涙を禁じ得なかった。先にも挙げた通り、SFXの発達によって、よりグロテスク、且つ、より痛ましく、そして、よりもの悲しいシーンになっているのである。 『SF/ボディ・スナッチャー』に続く、「盗まれた街」3回目の映画化は、15年後のアベル・フェラーラ監督作品、『ボディ・スナッチャーズ』(93/日本未公開)。前作と同じく、ロバート・H・ソロが製作を手掛けている。 主演は、ガブリエル・アンウォー。当時20代前半の彼女が、ティーンエージャーを演じた。 この作品の舞台は、アメリカ国内の米軍基地。主人公は、土地の汚染を調べる仕事をする父親の異動で、継母や幼い弟と基地内に移り住むことになるが…。 田舎町でも大都市でもなく、軍の基地が宇宙種子に乗っ取られていくというのが、新たな設定。栽培されて増殖したサヤが、トラックなどで他の町や都市に運び出されていく描写は、前2作でもあったが、こちらは軍用トラックで、大々的に展開されるわけである。 文民統制が取れなくなって、集団ヒステリーに陥った軍部が暴走する恐ろしさが描かれている…と解釈することも出来るだろう。しかしそんなことよりも、ティーンの少女を主人公にしたことによって、「思春期の不安定な心理が生んだ妄想劇といえばそう見えなくもない」(後記の「映画秘宝」より井口昇氏の文を引用)のが、ポイントとも言える。 いずれにせよ、「盗まれた街」という原作の、汎用性が窺える改変である。 そして4回目にして、今のところ最新の映画化作品は、『ヒトラー〜最期の12日間〜』(2004)などの成功により、ハリウッドに招かれたドイツ人監督オリヴァー・ヒルシュビーゲルがメガフォンを取った、『インベージョン』(07)である。 スペースシャトルの墜落によって、未知の宇宙ウィルスが地球上に降下し、やがて蔓延していく。その脅威に戦いを挑んでいくヒロインは、ニコール・キッドマンが演じる、バツイチで一人息子と暮らす、シングルマザーの精神科医。 今回は、ウィルスに感染した者が眠りに就くと、起きた時には、“別人”になっているという仕組み。お馴染みのサヤが出てこないのには、些か拍子抜けするが、2001年にアメリカを襲った“同時多発テロ”や、HIVやレジオネラ、SARS、鳥インフルエンザ等々、未知のウィルスが次々と現れては、人類の脅威と喧伝されるようになった時代を受けての、改変であった。 そしてその改変が、実は『インベージョン』製作から13年経った、2020年のまさに今こそ、ピタリとハマってしまう。ここまで記せば、ピンと来た人が多いだろう。 現在、全世界に蔓延し、人類の脅威となっている“新型コロナ禍”である。『インベージョン』に於いて未知の宇宙ウィルスは、文字通りの“飛沫感染”によって、拡がっていく。また物語の中で、登場人物たちの都市間の移動も多く、それがウィルスが蔓延していく情勢と合致する。 感染しても、すぐに発症するわけではない。また中には抗体を持つ者が居て、発症しないが故に、侵略者たちには脅威となり、逆に人類にとっては、ワクチンをもたらす福音となる。『インベージョン』はそうした意味で、13年早かった作品とも言える。そして改めて、原作者ジャック・フィニィのオリジナルの発想の素晴らしさにも、思い至るのである。■
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PROGRAM/放送作品
いぬ
密偵(=“いぬ”)は誰なのか?ジャン=ポール・ベルモンド主演の傑作フレンチ・ノワール
監督は、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちに大きな影響を与えたジャン=ピエール・メルヴィル。フレンチ・ノワールの美を追求し、フランス犯罪映画の一時代を築いた彼の緊張感あふれるハードボイルド作品。
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COLUMN/コラム2020.03.04
メルヴィルのノワール美学を最初に確立した傑作ギャング映画。『いぬ』
裏社会に生きる男たちの友情と裏切りと哀しい宿命 フレンチ・ノワールの巨匠ジャン=ピエール・メルヴィルが生んだ“最初の傑作”とも呼ばれる映画である。メルヴィルといえば、マイケル・マンにウォルター・ヒル、ウィリアム・フリードキン、ジョン・ウー、リンゴ・ラム、キム・ジウン、パク・チャヌク、そして北野武に至るまで、世界中の映画監督に多大な影響を与えたウルトラ・スタイリッシュな演出とダークな映像美で知られているが、その「メルヴィル・スタイル」を最初に確立した作品が、裏社会に生きる男たちの友情と裏切りと哀しき宿命を描いたギャング映画『いぬ』(’63)だった。 原題の「Le doulos」とはフランス語で「帽子」を意味するスラングだが、同時に裏社会では「密告屋」の意味も兼ねるという。日本語タイトルの「いぬ」はそこから来ている。舞台はパリのモンマルトル。6年の刑期を終えて出所した強盗犯モーリス(セルジュ・レジアニ)が、かつての仲間ジルベール(ルネ・ルフェーヴル)のもとを訪ねるところから物語は始まる。服役中も支えてくれたジルベールを躊躇することなく射殺し、彼が直近の強盗仕事で稼いだ宝石類や現金を奪って、拳銃と一緒に街灯の下へ埋めるモーリス。そこへ、ジルベールのボスであるアルマン(ジャック・デ・レオン)とヌテッチオ(ミシェル・ピッコリ)が宝石を回収するため現れるが、モーリスはうまいこと逃げおおせる。 モーリスがジルベールを殺した理由は、服役中に妻アルレットを口封じのため殺害した犯人が彼だったから。友情に厚く裏社会の仁義を重んじるモーリスだが、それゆえ裏切り者に対しては容赦なく、復讐は必ず成し遂げる執念深い男だ。愛人テレーズ(モニーク・エネシー)のアパートに居候している彼は、新たな強盗計画を準備している。協力者は親友シリアン(ジャン=ポール・ベルモンド)とジャン(フィリップ・マルシュ)、レミー(フィリップ・ナオン)の3人だ。シリアンとジャンが手はずを整え、モーリスとレミーが実行に移す。ところが、計画通りに大豪邸へ押し入ったモーリスとレミーだったが、気付くとなぜか警官隊によって包囲されており、慌てて逃亡を図るもののレミーが射殺され、モーリスもサリニャーリ警部と相撃ちで重傷を負ってしまう。その頃、シリアンはテレーズの部屋へ押し入って犯行先の住所を聞き出していた。 ジャンの自宅で目を覚ましたモーリス。ジャンの妻アニタ(ポーレット・ブレイル)に介抱してもらうが、しかしどうやって彼が犯行現場からここまで運ばれたのか彼女は知らず、モーリス本人も意識を失っていたため記憶にない。それよりも誰が警察に密告したのか。レミーはサリニャーリ警部に殺されたし、ジャンは妻に頼んで自分を匿ってくれている。シリアンが警察の「いぬ」だという噂を耳にしたことはあったものの、無二の親友ゆえ頑なに信じようとしなかったモーリスだが、しかしこうなっては彼が密告屋だと考えざるを得ない。しかも新聞報道によると、テレーズが崖から車ごと転落して死んだという。これもシリアンの犯行かもしれない。猛烈な怒りと復讐心に駆られたモーリスは、自分の身に何か起きた時のため宝石を埋めた場所をアニタに伝え、シリアンの行方を探し始めるのだが、しかし警察のクラン警部(ジャン・ドザイー)によって逮捕されてしまう。 一方、シリアンはモーリスがジルベールから奪って埋めた宝石と現金、拳銃を秘かに掘り起こし、そのうえでかつての恋人ファビエンヌ(ファビエンヌ・ダリ)に接触する。今はヌテッチオの愛人となっているファビエンヌに、ジルベール殺しの犯人はアルマンとヌテッチオの2人だと吹き込むシリアン。「お前も今みたいな愛人暮らしなんて嫌だろう」「やつらを始末して俺と一緒にならないか」とファビエンヌに持ち掛けた彼は、アルマンとヌテッチオを罠にはめようと画策する。果たしてその意図とは一体何なのか、そもそもシリアンは本当に警察の「いぬ」なのか…? 偶然の積み重ねから実現した企画 極端なくらいにモノクロの陰影を強調した撮影監督ニコラ・エイエの端正なカメラワークと、厳格なまでにハードボイルドでストイックなメルヴィルの語り口にしびれまくる正真正銘のフレンチ・ノワール。セリフの多さが今となってはメルヴィルらしからぬと感じる点だが、しかしシーンの細部まで時間をかけて描いていくところや、日本の侘び寂びの概念にも通じる空間の取り方などは、まさしくメルヴィル映画の醍醐味。それまでにも『賭博師ボブ』(’56)や『マンハッタンの二人の男』(’59)でノワーリッシュな題材に挑んでいたメルヴィルだが、しかしその後の『ギャング』(’66)や『サムライ』(’67)、『仁義』(’70)、『リスボン特急』(’72)といった代表作に共通する、トレードマーク的な演出スタイルを初めて総合的に完成させた映画は本作だったと考えて間違いないだろう。 原作はフランスの大手出版社ガリマール傘下の犯罪小説専門レーベル、セリエ・ノワールから’57年に出版された作家ピエール・ルズーの同名小説。その校正刷りを手に入れて読んだメルヴィルはたちまち魅了され、自らの手で映画化することを望んでいたが、しかし密告屋と疑われる主人公シリアンに適した役者に心当たりがなく、これぞと思える人材と出会うまで企画を温存しておこうと考えたそうだ。それから3年後、メルヴィルは彼を心の師と仰ぐジャン=リュック・ゴダールの出世作『勝手にしやがれ』(’60)に俳優として出演し、そこで2人の人物と知り合って意気投合する。それが、同作のプロデュースを手掛けた新進気鋭の製作者ジョルジュ・ドゥ・ボールガールと主演俳優ジャン=ポール・ベルモンドだ。 ゴダールやジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダらの名作を次々と手がけ、ヌーヴェルヴァーグの陰の立役者となったボールガールは、当時イタリアの大物製作者カルロ・ポンティと組んでオーム・パリ・フィルムという制作会社を経営していた。『勝手にしやがれ』でメルヴィルと知遇を得た彼は、第二次世界大戦下のフランスを舞台に若き神父とレジスタンス女性の愛を描いたメルヴィル監督作『モラン神父』(’61)をジャン=ポール・ベルモンドの主演でプロデュース。続いてクロード・シャブロルの『青髭』(’63)を準備していたボールガールだったが、撮影に入る直前に共同製作者が突然降板したため予算不足に陥ってしまう。そこで彼は、手元にある資金で確実に当たる低予算の娯楽映画を急ピッチで製作し、そこから得た利益を『青髭』の予算に充てることを思いつき、その大役をメルヴィルに任せることにしたのだ。 ボールガールからメルヴィルに提示された条件は、当時すでにフランス映画界の若手トップスターとなっていたジャン=ポール・ベルモンドを主演に起用すること、そしてフランス庶民に絶大な人気を誇るセリエ・ノワールの犯罪小説シリーズから原作を選んで映画化することだった。当然、メルヴィルが選んだのは以前から目星をつけていた『いぬ』である。しかも、前作『モラン神父』で組んだベルモンドは主人公シリアンのイメージにピッタリだった。彼にとってはまさしく千載一遇のチャンス到来である。すぐさま脚本の執筆に取り掛かったメルヴィルは、’62年の晩秋から冬にかけて撮影を行い、翌年2月の劇場公開に間に合わせるという超速スケジュールを敢行。結果的に当時のメルヴィルのキャリアで最大のヒットを記録し、一か八かの賭けに出たボールガールも無事に『青髭』の製作費を確保することが出来たのである。 メルヴィル映画のアンチヒーロー像を体現したベルモンド 小説版の基本的なプロットだけを残し、それ以外は自由自在に脚色したというメルヴィル。先述したような洗練されたビジュアルの美しさもさることながら、誰が密告者で誰が嘘をついているのか、友情と裏切りと疑心暗鬼の渦巻く一連のストーリーの流れを、警察の「いぬ」と疑われたシリアンと彼への復讐に燃えるモーリス、それぞれの視点から交互に描きつつ、やがて予想外の真相へと導いていく脚本の構成が実に見事だ。蓋を開けてみれば「なるほど、そういうことか」と思えるものの、しかしそこへ辿り着くまでに観客の目を欺き翻弄していくメルヴィルの手練手管には舌を巻く。また、シリアンが警察署で尋問を受けるシーンも、実はおよそ10分近くにも及ぶワンカット撮影なのだが、あえてそうと観客に気付かせない巧みな演出に感銘を受ける。 常にクールで無表情、何を考えているか分からない謎めいた男シリアンを演じるジャン=ポール・ベルモンドも、ゴダールのヌーヴェルヴァーグ映画やフィリップ・ド・ブロカのアクション映画などで見せるエネルギッシュな個性とは全く異なる、メルヴィル映画らしいダンディなアンチヒーロー像を体現していてカッコいい。興味深いのは、トレンチコートに中折れ帽を被ったそのいで立ちが、長年のライバルと目されていた『サムライ』のアラン・ドロンと酷似している点であろう。そもそも、シリアンとモーリスの2人の主人公が鏡に向かって帽子を整えるシーンを含め、本作には後の『サムライ』を彷彿とさせるムードが色濃い。そういう意味でも、メルヴィル・ファンであれば見逃せない作品だ。 しかし、恐らく本作で最も印象深いのはモーリス役を演じるセルジュ・レジアニであろう。冷酷非情な犯罪者でありながら、その一方で暗黒街の掟や仁義を何よりも尊重する、まるで日本の任侠映画に出てくるヒーローのような男。アメリカの古い犯罪映画だけでなく、黒澤明や溝口健二などの日本映画も熱愛したメルヴィルならではのキャラクターだ。ジャック・ベッケルの『肉体の冠』(’51)でレジアニを見て以来、いつか一緒に仕事をしたいと熱望していたメルヴィルは、決して感情を表に出すことなく抑制を効かせた彼の芝居を高く評価していたという。ベルモンドが役作りをする際にも、メルヴィルはレジアニをお手本にするよう指導したとされる。しかし、あまりにもメルヴィルがレジアニばかりを褒めるものだから、すっかりベルモンドはへそを曲げてしまったらしく、直後に撮影された次回作『フェルショー家の長男』(’63・日本未公開)を最後に2人は袂を分かつこととなる。 なお、メルヴィルは『ギャング』の主人公役にもレジアニを起用しようと考えたが、紆余曲折あってリノ・ヴァンチュラを代役として立てることに。やはり、ビッグネームとは言えないレジアニに、映画の看板を背負わせるのは難しかったのだろう。その後、レジスタンス映画『影の軍隊』(’69)の脇役としてレジアニを使ったメルヴィルだが、彼らのコラボレーションもそれっきりとなってしまった。■ 『いぬ』© 1962 STUDIOCANAL - Compagnia Cinematografica Champion S.P.A.
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PROGRAM/放送作品
勝手にしやがれ(1959)
演技も台詞も即興!巨匠ジャン=リュック・ゴダールの感性が光る、ヌーヴェル・ヴァーグの代表作
1950年代末からフランスで起きた映画運動“ヌーヴェル・ヴァーグ”の評価を確立した、ジャン=リュック・ゴダールの長編デビュー作。主役の若きカップルに漂う虚無感を、粋なライフスタイルを通じ鮮烈に描き出す。
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PROGRAM/放送作品
仁義
フレンチ・ノワールの巨匠が追究した“男の美学”を、フランス2大スターが体現するサスペンス
フレンチ・ノワールの巨匠ジャン=ピエール・メルヴィル監督が、男のロマンを渋い映像で物語るサスペンス。当時のフランスを代表する2大スター、アラン・ドロンとイヴ・モンタンが初共演し破滅の美学を体現する。
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PROGRAM/放送作品
リスボン特急
アラン・ドロン×カトリーヌ・ドヌーヴ、美しきスターのハードボイルドに酔うフレンチ・ノワール
フランス犯罪映画の一時代を築いたジャン=ピエール・メルヴィルの遺作。青を基調とした映像が冷たく美しい世界観を作り出している。公開当時、世界を代表する美男美女の共演が注目を集めた。