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PROGRAM/放送作品
ハート・ロッカー
[PG12]極限的な爆弾処理任務が兵士の心をむしばむ…アカデミー賞(R)6部門に輝いた戦争ドラマ
イラクで爆弾処理任務に就く米軍兵が極限的な緊張感によって心身共に疲弊していく姿を、キャスリン・ビグロー監督が徹底したリアリズムで描き女性初のアカデミー賞(R)監督賞を獲得。作品賞など合計6部門受賞。
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COLUMN/コラム2022.09.30
イラク戦争を観客に体感させる!キャスリン・ビグロー渾身の一作『ハート・ロッカー』
2003年3月、時のアメリカ大統領ブッシュの、ほぼ言いがかりのような形で口火を切った、イラク攻撃。「イラクの自由作戦」の名の下、4月には首都バグダッドが制圧され、5月にはブッシュによる、「大規模戦闘終結宣言」が行われた。 しかし、事態が泥沼化したのは、この後だった。アメリカ側が開戦の根拠とした、イラクの大量破壊兵器は結局存在せず、更にはイラク国内の治安悪化が、深刻な問題となっていく。 侵攻した米軍に対して抵抗を続ける武装勢力は、当初小火器で闘いを挑んだ。しかし、圧倒的な戦力の差により歯が立たないと知るや、即席爆弾「IED=Improvised Explosive Device」による攻撃に、戦略を切り替えた。 ガスボンベ、地雷、迫撃砲、榴弾などの爆発物に、簡単な起爆装置を取り付けたもので、移動中の米軍車両や兵士を待ち伏せし、起爆させる。「IED」による米軍の被害は甚大で、ある時期など戦死者の6割近くが、この即席爆弾によるものだった。 そのため大きな役割を果すことになったのが、米陸軍の“爆発物処理班”である。「IED」が発見されると、昼夜を問わず呼び出されては、他の兵士たちが後方に退く中、危険極まりない爆弾の処理に挑む。 2004年に、そんな彼らの任務に同行取材を行ったのが、ジャーナリストで脚本家のマーク・ポール。イラク戦争の現実を暴いた、トミー・リー・ジョーンズ主演作『告発のとき』(2007)の原案者である。 結局は、2011年暮れまで続くことになる、イラク戦争。その初期に、要となる役割を担っていたにも拘わらず、知られざる存在だった“爆発物処理班”の仕事を、世に知らしめたい。そう考えたマーク・ポールが書いたのが、本作『ハート・ロッカー』(2008)の脚本である。因みにこのタイトルは、「行きたくない場所/棺桶」を意味する、兵隊用語である。 ポールとの交流から、メガフォンを取ることになったのが、女性監督のキャスリン・ビグロー。それまで『ハートブルー』(1991)『K-19』(02)などの、緊迫感溢れるアクション演出で知られたビグローは、ポールと共に、観客を“爆発物処理班”と同じ場所に誘うような、強烈な体験をさせることを目標に、本作の製作に取り掛かった。 ***** 2004年夏、イラク駐留米軍のブラボー中隊に属する、3人の“爆発物処理班”は、「IED」の処理作業に取り組んでいた。いつもと変わらぬ作業の筈が、ちょっとしたトラブルがきっかけで、大爆発に巻き込まれる。その際“処理班”の頼れるリーダーだった、トンプソン軍曹が命を落とす。 残されたサンボーン軍曹とエルドリッジ技術兵の前に、新たな班長として赴任したのは、ジェームズ二等軍曹。ルールを無視しながらも、見事に爆弾の処理をやってのけるジェームズに対し、サンボーンとエルドリッジは、戸惑いを覚えた。 今までに873個もの爆弾を処理したという、ジェームズ。その後も防護服を脱ぎ捨てて起爆装置を解除するなど、無謀で突発的な振舞いを続ける。 サンボーンは折に触れ、ジェームズのやり方に反発。また若いエルドリッジは、予期せぬ戦闘に巻き込まれて敵兵を射殺したり、彼を心配して任務に同行した軍医が、爆弾によって吹き飛ばされるのを目の当たりにしたことなどから、次第に精神の平衡を崩していく。 そんな中で、テロリストによって“人間爆弾”にされた死体を見付けたジェームズは、その亡骸を、親しくしていたイラク人の少年であると、認識。怒りを爆発させ、軽挙妄動に走ってしまう。 イラクでの任務が間もなく終わり、帰国まであと僅か。ブラボー中隊の3人の運命は? ***** ポールの脚本は、17回の改稿を経て、ビグローのOKが出た。そのテーマ面では、元戦争特派員のクリス・ヘッジスの著書「戦争の甘い誘惑」から大きな影響を受けている。本作冒頭に登場する「戦闘は人を強力で致命的な中毒に追いやる。戦争は麻薬だ」というフレーズは、「戦争の甘い誘惑」からの引用である。 これは“イラク戦争”の時の米兵が、かつての“ベトナム戦争”などと違って、徴兵された者は居ずに、自ら入隊を選んだ“志願兵”から構成されていることと、深く関わっている。ある者にとっては戦争、そして戦地に赴くことには、強烈な魅力があるというわけだ。 本作の主人公ジェームズ二等軍曹は、任務に対する強い使命感やイラクの民に対す贖罪意識の持ち主であるのと同時に、もはや平時には生きられない、圧倒的な“戦争中毒”であることが描かれる。彼は正に、本作のテーマを象徴するキャラクターと言えるだろう。 そんなジェームズと、彼とチームを組むサンボーン、エルドリッジのキャスティングに当たってビグローは、「比較的無名の俳優」を選ぶことにこだわった。主役にスターを起用してしまうと、「映画の終わりまで死なない」とわかってしまう。いつ誰にでも死が訪れる可能性がある戦争を描くのに、それは邪魔になるという判断からだった。 主役のジェームズに起用されたのは、ジェレミ-・レナー。今日では“MCU”のホークアイ役や『ミッション:インポシッブル』シリーズなどで知られるレナーも、当時はまだこれからの存在だった。 続けて、サンボーンにはアンソニー・マッキー、エルドリッジにブライアン・ジェラティが決まった。 本作の製作費は、ハリウッド製戦争映画としては、圧倒的に低予算と言える、1,100万㌦。ビグローが奔走して、かき集めたという。 題材的にメジャーの映画会社からの出資は望めず、また大口のスポンサーも得られなかった。ビグロー曰く、これは「最悪」でありつつ、「いい知らせ」でもあった。「…自由に創造することができて、枠にはまらない仕事」をすることが、可能になったからだ。 ロケ地に決まったのは、イラクと国境を接し、気候と地形も似ているヨルダン。実際の戦地から、車で数時間の所でも撮影した。 またヨルダンには、戦火を逃れて逃げてきたイラク人が100万人も居て、その中にはプロの俳優も数多かったことから、様々な役を演じてもらった。米軍の捕虜役に起用した俳優から、実際に米軍の捕虜になった経験があると聞いた時には、さすがのビグローも、「…本物に近づくためとはいえ、もしかしたらちょっとやりすぎたかもしれない」と思ったという。 レナーたち俳優は、アメリカ国内の軍の訓練所でトレーニングを受けた後に、ヨルダン入り。ビグローは、軍内の親密な仲間意識を生み出すために、彼らを全員、地面の上に立てた簡素な共同テントに住まわせた。 そして撮影は、気温55度を超える猛暑の中で行われた。サンボーン役のアンソニー・マッキーは、「頭の中で脳が煮えていると感じるほど」だったと、その暑さを語っている。 一方レナーは、「俳優としての仕事は楽になった」と言う。ロケ地の過酷な環境の中で、本当の汗、本当の痛みの涙を得ることができたからである。 そんな彼らの演技をカメラに収めたのは、イギリスの社会派ケン・ローチ監督作品の撮影で知られる、バリー・アクロイド。ちょうどその頃は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロでハイジャックされた航空機の運命を描いた『ユナイテッド'93』(06)に於ける、彼の臨場感あふれる撮影が評判となっていた。本作では4台の手持ちカメラを、同時に回したという。 週6日体制で44日間というハードスケジュールで、撮影は終了。ポスト・プロダクションで大活躍だったのが、音響デザイナーのポール・N・オットソンである。 ロケ地で録音した何千もの素材を、幾十にも重ねる作業を行った。その際に合成音は使わず、現実音だけで全体をまとめることにこだわった。それこそが、現地のリアルを伝え、観客が実際の戦地に居るような感覚にさせるという狙いだったが、オットソンは、見事に成功させたのである。 こうしてビグローが「とことんリアリズムを追及した」本作は、完成。2009年6月という、賞を狙うにはほど遠い時期に公開されながらも、その後ジワジワと評価を高め、その年の賞レースのTOPランナーとなった。 そして「第63回アカデミー賞」で本作は、ビグローの元夫であるジェームズ・キャメロン監督の『アバター』(09)などを下して、作品賞など6部門を制覇。ビグローはアカデミー賞史上初めて、“監督賞”を手にした女性となった。 栄光の一方で、本作に対しては、批判もあった。米軍の兵士たちの心情は細かく描かれているが、一方で、その米軍に侵攻されたイラクの人々の描き方は「おざなりである」「結局は“テロリスト”扱いだ」等々。 しかしながら、デタラメな情報を元に侵攻を主導したブッシュ政権下では、「報道が極めて少なかった」という“イラク戦争“の、ある側面を描き出すだけでも、2008年に映画化される意義は、強くあった。また今日観ても、爆弾処理のシーンに漂う、ただならぬ緊張感など、特筆すべき作品である。■ ◆撮影中のキャスリン・ビグロー監督(左) 『ハート・ロッカー』© 2008 HURT LOCKER, LLC ALL RIGHTS RESERVED
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PROGRAM/放送作品
(吹)ハート・ロッカー
[PG12]極限的な爆弾処理任務が兵士の心をむしばむ…アカデミー賞(R)6部門に輝いた戦争ドラマ
イラクで爆弾処理任務に就く米軍兵が極限的な緊張感によって心身共に疲弊していく姿を、キャスリン・ビグロー監督が徹底したリアリズムで描き女性初のアカデミー監督賞を獲得。他にも作品賞など合計6部門受賞。
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COLUMN/コラム2016.02.03
ドリー・尾崎の映画技術概論 〜第1回:フィルムとデジタル〜
映画はその誕生から1世紀の長きにわたり、フィルムという記録媒体によって記録され、それを映写機でスクリーンに投影することで形を成してきたメディアである。しかし現在、映画はフィルムを使わない、チップやセンサーを用いて電子的に撮像を記録する「デジタルシネマ」が主流となった。 かつて映画におけるデジタル技術は、劇中におけるCGI(視覚効果)や編集、そしてドルビーデジタルなどのサウンド・システムに用いられてきた。しかし、デジタルを映画の構成要素として使うのではなく、フォーマットそのもののデジタル化を図る動きが2000年代初めに台頭してきたのだ。 商業長編映画の世界では、2001年にピトフ監督のフランス映画『ヴィドック』(撮影:ジャン=ピエール・ソヴェール)が、そして2002年にジョージ・ルーカス監督が『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』(撮影:デヴィッド・タッターサル)においてこれを実現させた。ルーカスはソニーとパナビジョン社に依頼し、両社はHD-1080/24Pを共同で開発。[シネアルタ]と呼ばれるHDW-F900型のそれは、毎秒24pというフィルムと同じフレームレート(コマ速度)をもち、35mmフィルムカメラに使用されていたレンズの共有など、既存の映画制作フォーマットとの互換性に優れたデジタルHD24pカメラだ。 同カメラの開発がソニーの厚木研究所でもおこなわれたことから、日本映画でのシネアルタの活用は『スター・ウォーズ エピソード2』の撮影とほぼ時期を同じくしている。我が国のデジタルシネマ、すなわちHDW-F900で全編撮影が行われた長編映画は、2001年の田崎竜太監督作『劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4』(撮影:松村文雄)が嚆矢となった。それに続いて岩井俊二監督の『リリィ・シュシュのすべて』(撮影:篠田昇)や、高橋巌監督の『infinity ∞ ~波の上の甲虫~』(撮影:八巻恒存)などが同年に発表されていく。また、デジタルHD24pカメラはソニーのみならずパナソニックでも開発が進められ、撮影監督の坂本善尚が開発に関わったAJ-HDC27F型デジタル24pカメラ[バリカム]は、原田眞人監督『突入せよ! あさま山荘事件』(02)の撮影に用いられ、シネアルタに引けをとらない性能を発揮した。 ■デジタルシネマの現況 それからおよそ15年を経た2016年。映画撮影の現場は、ほぼフィルムからデジタルにとって代わられ、カメラも[ジェネシス]や[レッドワン]といった2K、4K、さらには8K(シネアルタの後継機[F65])といった高解像度のハイスペック機が生み出されている。これらは35mmフィルムとフィルムカメラが持つポテンシャルを、もはや凌駕しているといっていいだろう。 画質の向上だけではない。何度も加工や上映をしても映像の劣化がないことや、撮影で自由にテイクが重ねられるなど、製作において妥協を余儀なくされる点が低減されている。 「高感度のデジタル24Pが開発されたことで、照明設計が簡易になり、低予算で作品を実現できた」 上記のように筆者に話してくれたのは、侵略SF映画『スカイラインー征服ー』(10/撮影:マイケル・ワトソン)のグレッグ・ストラウス監督だが、こうした経済面での利点も無視できない。なによりもフィルムにあった、ネガフィルムからのプリント現像にかかるコストが抑えられ、DLP上映との連携を図ることができる。 そう、映画は上映に関しても方式が大きく変わった。フィルム映写ではなく光半導体を用い、デジタルデータをスクリーンに投影するDLP(デジタル・ライト・プロセッシング)が、アメリカでは1999年、ロサンゼルスとニューヨークでの『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』(99)プレミア上映を皮切りに実用化された。国内では2000年より採用され、同システムの設置された日劇プラザでは『トイ・ストーリー2』(00)が初のDLP上映となった。『トイ・ストーリー2』はデジタルベースによる3DCGアニメーションで、コンピュータ上からダイレクトにDCP(デジタル・シネマ・パッケージ=DLP上映のためのデータパッケージ)を作ることが容易だったが、『スター・ウォーズ エピソード1』のようにフィルム撮影された映画はネガをスキャンし、データ化する行程を経なければならない。しかしデジタルシネマはそれを省き、フルデジタルによって撮影から完パケまでを一貫させ、物質的、コスト的なムダを省くことができる。映画興行主にとっての利便性や経済性を考えれば、デジタルシネマの普及は必然といっていいかもしれない。 事実、今や国内のスクリーン数3.437のうちデジタル設備は3.351と全体の約97.5パーセントを占め(一般社団法人 日本映画製作者連盟「日本映画産業統計2015年12月」より)、フィルムプリント上映による映画の時代は終わりを迎えている。 そんなフィルムからの解放は、映画の作り方を大きく飛躍させた。映像加工をひときわ容易にし、どこまでが実写でどこまでがバーチャルな映像なのか、判別不可能なイメージ作りを実現させたうえ、立体視をもたらすデジタル3Dや、ドルビーサラウンド7.1、ドルビーアトモスといった音響の多チャンネル化を促している。そしてコマ数を毎秒24フレームから48フレームへと上げ、映像を高精細化するハイフレームレイト(2012年に『ホビット 思いがけない冒険』で実施)など、多様な展開を劇場長編作品にもたらしたのである。 もはや映画は、フィルムでは踏み込めなかった領域に足を下ろしているのだ。 ■フィルムにこだわる監督たち しかし、フィルムが持つ粒状性や質感こそが「映画を映画らしいものにしている」という考え方も根強く、120年にも及ぶフィルム映画の歴史を、やすやすと消滅させるわけにはいかないとする見方もある。特に日本では「デジタルか?」「フィルムか?」という芸術的観点からの議論が慎重になされないまま、シネコンへのDLP設置が早駆けで進み、また2013年に富士フィルムが映画用35mmフィルムの生産を廃止するなど、なし崩しのようにフィルムからデジタルへの移行がなされてきた。そのためデジタルシネマに対し「単にシステムの合理化にすぎないのでは?」という声も出ているのだ。 そんな声に呼応するかのごとく、映画作家の中には今もフィルム撮影を敢行する者たちがいる。 たとえば山田洋次監督は最新作『家族はつらいよ』(15/撮影:近森眞史)をフィルムで撮り、自身の半世紀以上にわたる監督人生において、フィルム主義をまっとうする構えだ。また同じ松竹で製作された『ソロモンの偽証』(15/撮影:藤澤順一)も、成島出監督にインタビューしたさい「中学生役の子たちの未熟な演技を、映画的な外観でカバーするべくフィルム撮影に踏み切った」と答え、フィルムの優位性を唱えた。 他にも周防正行監督の『舞妓はレディ』(14)では実景部分を富士フィルム、それ以外のセットなどのシーンをコダックフィルムで撮るという、ハイブリッドなフィルム撮影の手法がとられている。これは「京都の風景と舞妓のあでやかな姿をフィルムで撮りたい」という寺田緑郎撮影監督の希望に、プロデューサーが「フィルムが無くなるのならば、富士フィルムとコダックを両方使いたい」と相乗する形で実現したものだ。いずれもフィルムプリントによる上映配給が難しい現状「撮影はフィルムでも完パケはDCP」という制限はあるが、そこには映画人ならではの、滅びゆくフィルムへの愛着が深く感じられてならない。 いっぽうハリウッドでも、クリストファー・ノーラン(『ダークナイト』シリーズ『インターステラー』)やスティーブン・スピルバーグ(『ブリッジ・オブ・スパイ』)、そしてクエンティン・タランティーノ(『ヘイトフル・エイト』)といった、強い影響力と発言権を持つ映画監督たちがフィルム撮影を現在も続けることで、同手法への啓蒙がなされている。 ポール・トーマス・アンダーソン監督が『ザ・マスター』(12/撮影:ミハイ・マライメア・Jr)を65mmフィルムで手がけた理由は、舞台となる第二次世界大戦前後の時代がフィルムのスチールカメラで記録され、同時代のイメージがフィルムと同化していることに言及するためだ。 またフィルムは時代性だけでなく、劇中で描かれている舞台の空気や、キャラクターの心境をすくいとって演出する。キャスリン・ビグロー監督のイラク戦争映画『ハート・ロッカー』(08/撮影:バリー・アクロイド)は、戦場における爆弾処理班たちの緊迫したドラマを描いているが、その緊迫感を盛り上げるのは独特の荒々しい画調だ。これは16㎜フィルムで撮影した画を35㎜にブローアップしたもので(使用カメラはAatonのスーパー16㎜撮影用カメラ)、報道映像のようなリアリティに併せ、死を隣人とした主人公ウィリアム(ジェレミー・レナー)の感情をあらわしている。はたしてこれが、デジタルのスキッと鮮明な映像でアプローチできるのだろうか? あるいは現在公開中の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(15/撮影:ダン・ミンデル)。シリーズの創造者ルーカスが推し進めてきたデジタル撮影の轍を踏まず、フィルム撮影に徹した本作は、単にフィルム撮りだったエピソード1ならびに4から6までのスタイルに倣ったのではない。35mmアナモフィック(歪像)レンズ撮影で得られるフレア効果や、被写界深度の浅いメリハリの利いた画など、監督であるJ・J・エイブラムス(『スーパー8』『スター・トレック イントゥ・ダークネス』)が、フィルム固有の表現にこだわっているからだ。 こうしたこだわりが反映された作品は、いずれはこの「ザ・シネマ」で放映される機会もあることだろう。そのときには是非じっくりと観賞していただき、デジタル興隆のなかフィルムがもたらす映像の意味を、意識しながら確認していただきたい。フィルムかデジタルかを明確に判別できなくとも、直感的に感じ得られるものはあるはずだ。■ ©2008 Hurt Locker, LLC. All Rights Reserved.