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ウォッチ・ザ・スカイ
50年代SFに影響を受けてきたスピルバーグ、ルーカス、キャメロン…必見のインタビュー・ドキュメンタリー
スティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、リドリー・スコット、ジェームズ・キャメロンなど、SF映画の巨匠たちに多大なる影響を与えた、1950年代アメリカのクラシックSF映画の映像と、インタビューを交えておくるドキュメンタリー。
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COLUMN/コラム2020.10.05
スピルバーグ念願の“劇場用映画”第1作!『続・激突!/カージャック』
スティーヴン・スピルバーグが監督した、伝説的なTVムービー『激突!』は、1971年11月にアメリカで放送。高視聴率と高評価を勝ち取った。 気を良くした製作会社のユニヴァーサルは、海外では『激突!』を、“劇場用映画”として展開することを決定。フランスで開かれた「第1回アボリアッツ国際ファンタスティック映画祭」ではグランプリを受賞するなど、大評判となった。 1946年12月生まれ。20代中盤だったこの時期のスピルバーグにとって、『激突!』のようなTVムービーの転用ではない、初めての“劇場用映画”を手掛けるという、念願の瞬間は刻一刻と近づいてきていた。しかし『激突!』が好評だったからといって、一気呵成に夢が実現したわけではない。 『激突!』の翌年=72年は、2本目のTVムービーとして、オカルトものの『恐怖の館』、73年にはシリーズ化を想定した90分のパイロットフィルム『サヴェージ』を演出している。 そうしている間にも、“劇場用映画”の準備を並行。脚本家ジョゼフ・ウォルシュと9カ月掛けて練ったギャンブルものの『スライド』は、実現のメドが立たず、やがてスピルバーグは、プロジェクトから離れた。この脚本は後にロバート・アルトマン監督の手で、『ジャックポット』(1974/日本未公開)という作品になる。 スピルバーグが脚本を書いた、クリフ・ロバートソン主演の『大空のエース/父の戦い子の戦い』(1973/日本未公開)。この作品では結局、“原案”としてクレジットされるに止まった。 当時人気急上昇だった、バート・レイノルズ主演の『白熱』(73)。スピルバーグは、ロケハン、キャスティング等々、製作準備に追われて3カ月ほど過ぎたところで、監督を降板した。 この件に関して彼は、「職人監督の道を歩みたくなかった。もう少し独自のものをやりたかったんだ」などと発言しているが、友人兼仕事仲間の一団を従えて撮影に関与してくるレイノルズとの仕事を、うまく裁く能力も興味もなかったからだとも言われる。結局『白熱』は、ジェゼフ・サージェントがメガフォンを取って、完成した。 そうした紆余曲折を経て、最終的に実現に向かったのが、本作『続・激突!/カージャック』だった。日本語タイトルは、『激突!』を受けて、その続編の体裁となっているが、内容は全くの無関係。1969年5月にテキサス州で実際に起こり、全米の耳目を集めた事件をベースに、スピルバーグが、友人のバル・バーウッド、マシュウ・ロビンスという2人の脚本家と共に、物語を編んだ。 テキサス州立刑務所に、ケチな窃盗事件の犯人として収監されていたクロービス(演:ウィリアム・アザ―トン)は、面会に来た妻のルー・ジーン(演:ゴールディ・ホーン)の手引きで脱獄する。刑期をあと4か月残すのみだったのに、敢えて危険を冒すハメになったのは、裁判所命令で取り上げられていた2人の幼い息子が、福祉協会を通じて養子に出されてしまうことがわかったからだった。 最初は脱獄に消極的だったクロービスだが、ルー・ジーンから「息子を取り戻さないと、離婚よ」と迫られ、渋々妻の計画に従うことに。他の囚人の面会に来ていた老夫婦を騙してその車に同乗し、我が子が引き取られた家庭がある、“シュガーランド”の町へと向かう。 その途中、スライド巡査(演:マイケル・サックス)のパトカーに呼び止められたことから、逃走を図った2人は、成り行きからパトカーを“カージャック”。人質にしたスライドを脅迫し、引き続きシュガーランドへと針路を取った。 やがてこの事実が明らかになり、タナー警部(演:ベン・ジョンソン)が指揮を執る、警察の追跡が始まった。狙撃による、犯人の射殺も検討されたが、夫婦が凶悪犯ではないことを知った警部は、躊躇する。 やがてマスコミの報道から、事件を知った野次馬も大挙して押し掛け、夫婦を英雄扱いする者まで現れる。人質のスライド巡査も夫婦に、友情のような気持ちを抱くようになる。 はじめはただ我が子を取り戻したかっただけなのに、騒ぎが過熱していく。クロービスとルー・ジーン、彼ら2人に訪れる結末とは!? 無責任に2人を煽って騒動を大きくしていく、マスコミや野次馬への批判的視点も盛り込まれた本作だが、スピルバーグがこの物語で重視したのは、父親と母親が不都合を顧みず、我が子を遠路はるばる取り戻しに行くストーリーだったと言われる。少年期に経験した両親の不和と離婚を、フィルモグラフィーに反映し続けた、スピルバーグの原点と言える。 そんな本作の企画ははじめ、スピルバーグと関係の深いユニヴァーサルに持ち込まれたものの、にべもなく断られて宙に浮く。他社への売り込みを図らなければならなくなったところで登場したのが、リチャード・D・ザナックとデヴィッド・ブラウンのコンビだった。 ザナック&ブラウンは、映画会社には属しない独立プロデューサーとしての活動を始め、ちょうどユニヴァーサルと提携したばかり。『ザ・シュガーランド・エクスプレス(本作の原題)』の脚本を読んで気に入ったものの、この企画が1度、自分たちの提携先に却下されていることを知って、知恵を絞った。 そして2人は、本作の企画を、他のプロジェクトの一群に紛れ込ませるという荒業を使って、通してしまったのである。但しメインキャストの3人の中に、名前が通った“スター”を入れるのが、絶対条件であった。 スピルバーグはまず主演男優に、『真夜中のカーボーイ』(69)や『脱出』(72)などのジョン・ヴォイトを据えようとした。しかし、そのために設けた会食の席でヴォイトは、新人監督の作品に出ることをリスキーと考えたらしく、本作への出演を断った。 ザナック&ブラウンは主演女優として、『サボテンの花』(69)でアカデミー賞助演女優賞を受賞しているゴールディ・ホーンを提案。一説にはユニヴァーサルが、「ゴールディ・ホーンが出なければ映画は作らない」と主張し続けたとも言われている。 ホーンは、本作が自分の新生面を引き出してくれることを期待して、オファーを快諾。『続・激突!/カージャック』の製作に、GOサインが出た。 「予算180万ドル」「準備期間3カ月」「撮影60日」。実際に起きた事件をベースにしていることから、事実にできるだけ即するため、ロケはすべてテキサスで行われることとなった。 クランクインは、1973年1月8日。ザナックはその撮影初日から、スピルバーグに唸らされたといいう。 「…ほんの青二才がそこでは周囲に海千山千のクルーを大勢従え、大物女優を引き受けている。それも何か簡単なシーンからスタートするのではなく、あの男ときたら複雑なタイミングを山ほど必要とする、やたらこみ入ったシーンから手をつけたよ。そして、それが信じられないほどうまく進行しているときた…あの男ときたら映画の知識を身につけて生まれてきたかのよう、自在にやってのけていたよ。あの日以来、私は彼に驚かされっ放しなんだ」 このザナックの現場での実感は、「ニューヨーカー」誌の著名な映画評論家ポーリン・ケイルが、本作公開後に記した批評にも通じる。 「技術的安定が観客にもたらす娯楽という点から見て、これは映画史においても最も驚異的なデビュー作である」 本作は撮影隊がテキサス州を移動するのに合わせ、州内各地の町で5,000人のエキストラが雇われ、車240台が使われた。撮影は完全な“順撮り”。台本通りの順番で行われた。これは本作で、主人公たちを追跡する警察や自警団、野次馬などの車が、徐々に多くなっていく展開だったためである。製作費の関係上、日数計算でレンタル料を払わなければならない車両を、撮影に使わない日まで借りている余裕がなかったのだ。 余談であるが、テキサスでのロケに当たっては、現地の警察がパトカーを出してくれるのを期待していたが、それはすげなく断られた。その少し前に同地で撮影された、サム・ペキンパー監督の『ゲッタウェイ』(72)のスタッフが、酒場で喧嘩騒ぎを起こしたり、警察が貸した車両から、警察無線が消えたりしたことが原因だった。ペキンパー組の煽りを喰って、本作ではパトカーを競売で25台、落札するハメとなった。 しかしながら、ロケは順調に進んだ。この処女作の撮影で、スピルバーグが得たものは、非常に大きかったと言える。 主演のゴールディ・ホーンについてはスピルバーグ曰く、「…最初の映画を撮るぼくにとって驚くべき女優だった。彼女は完全に協力的で、数えきれないほどの名案を出してくれた」ということである。 そして彼女の役どころは、その後のスピルバーグ映画によく登場する、「あまり身だしなみに気を使わない女性」の先駆けとなった。『未知との遭遇』(77)のメリンダ・ディロン、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81)のカレン・アレン、『E.T.』(82)のディー・ウォレス、『オールウェイズ』(89)のホリー・ハンター、『ジュラシック・パーク』(93)のローラ・ダーン等々のオリジナルが、本作にある。 因みにゴールディ・ホーンは本作の撮影について、「こんなに楽しいロケは初めてだというスタッフが何人もいたわ」と語っている。地元の女性と結婚したスタッフが、4人もいたのだという。 本作の撮影を担当したのは、ヴィルモス・ジグモンド。1956年に共産圏だったハンガリーから亡命し、“アメリカン・ニューシネマ”の時代になると、気鋭の若手監督の作品を多く手掛け、めきめきと頭角を現していた。彼はスピルバーグに、「視点を持つこと」の大切さを教えた。 スピルバーグが、あるシーンを車のガラス窓越しに撮影するようジグモンドに伝えると、「誰の視点なんだ?」との問いが返ってきた。そこでスピルバーグが、「僕の、監督の視点だ」と答えると、ジグモンドは、「そいつは賢い。だが効果はないね」。 カメラは監督の客観的な“神の目”から覗くのではなく、登場人物の視点から覗かなければならないということ、カットは映像的に素晴らしいだけでは不十分で、何かを意味しなければならないことを、ジグモンドは教授したわけである。 撮影中は意見が衝突することも少なくなかったというが、スピルバーグは後に、『未知との遭遇』(77)で再びジグモンドを起用。 『未知との…』の素晴らしいカメラには、アカデミー賞の撮影賞が贈られた。 スピルバーグにとって特に大きな収穫と言えたのは、音楽を担当したジョン・ウィリアムズとの出会い。本作を皮切りにもはや半世紀近く、「スピルバーグ作品と言えば、ジョン・ウィリアムズの音楽」である。 スピルバーグがジョージ・ルーカスに紹介したことが、ウィリアムズが『スター・ウォーズ』の音楽を手掛けることにも、繋がった。正にお互い、映画業界の第一人者の地位を、その協力関係によって築き上げたと言える。 スピルバーグには実りが多かった本作だが、1974年4月5日からのアメリカ公開は、興行的には不発であった。しかし先に挙げたポーリン・ケイルをはじめ、批評的には素晴らしい評価をされ、その年の5月開催の「カンヌ国際映画祭」では、脚本賞が贈られた。 スピルバーグを喜ばせたのは、尊敬するビリー・ワイルダー監督からの絶賛。「この作品の監督はこれから数年以内にすばらしい才能を発揮するようになるはずだ!」 本作のラッシュを見た段階でスピルバーグの才能を確信したザナックとブラウンは、監督第2作に取り組ませることにした。まず提案したのは、『マッカーサー』。敗戦後の日本の統治を行ったことなどで知られる、アメリカの英雄的な軍人の伝記映画である。 しかしスピルバーグは、「2年もの間10カ国で働き、それぞれの国で下痢をする」のは嫌だと断った。因みにこの作品は、『激突!』の出演を断ったグレゴリー・ペックの主演で映画化され、77年に公開している。『白熱』でスピルバーグの代役となったジョゼフ・サージェントが、またも監督を務めたのは、“運命の皮肉”と言うべきか。 『マッカーサー』を断り、では次回作を何にするかを考えている時、スピルバーグはデヴィッド・ブラウンのデスク上に、ザナック&ブラウンが出版前の段階で映画化権を押さえた、小説のゲラ刷りが積んであるのが目に入った。彼は何気なく、一番上にあるものを手に取り、ブラウンの秘書に許可を貰って、自宅に持ち帰って読むことにした。 そのゲラ刷りの表紙に記してあったのは、『JAWS=ジョーズ』というタイトルだった。■ 『続・激突!/カージャック』© 1974 Universal Studios. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
アルフレッド・ヒッチコック、自作を語る
“サスペンスの神様”アルフレッド・ヒッチコック自らがその手法を語るドキュメンタリー決定版。
“サスペンスの神様”として知られるヒッチコックはなぜ、ほかのどの監督にも真似できない、世界中を魅了する作品を生み出すことができたのか。世界中の観客の心にスリルと脅威を与えた天才の手腕に迫る。ヒッチコック自らがその手法を語るドキュメンタリー決定版。
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COLUMN/コラム2020.09.02
「スピルバーグの時代」へのカウントダウン開始!『激突!』
製作費42万5,000ドル、撮影日数16日間…。本作『激突!』は、1970年代初頭にアメリカで製作されたTVムービーとしては、ごくごく普通の製作規模と言える作品だった。 しかしそれが、スティーヴン・スピルバーグ(1946~ )の巨匠への道を切り開く、伝説的な作品となったのだ。 以前『ジョーズ』(75)についてのコラムを書いた時にも触れたことだが、少年時代から父の8mmカメラを奪って映画を作っていたスピルバーグは、18歳の夏、ロサンゼルスの「ユニバーサル・スタジオ」の観光ツアーに参加。その最中に抜け出して、立ち入り禁止のサウンドステージや編集室などを見て回った。 その際にスピルバーグは、スタジオに出入り自由のパスを、ちゃっかりゲット。そのまま「ユニバーサル」へと、足繁く通うようになった。パスの期限が切れても、顔見知りとなったガードマンの黙認で、連日のスタジオ入り。そんなことを続けている内に、撮影所スタッフから、諸々雑用なども言いつかるようになった。 やがてスピルバーグは、自ら監督した24分のインディーズ作品『アンブリン』(68)で、スタジオのお偉方にアピール。「ユニバーサル」の親会社「MCA」の会長だった、シド・シャインバーグに気に入られ、TVドラマの監督として、7年契約を結ぶこととなった。それはスピルバーグ、二十歳の時だった。 その際シャインバーグは、スピルバーグに約束した。「私は、あなたが失敗したときでも、成功したときと同様に強力なサポートをする」と。この時点でスピルバーグの将来を見越したような、シャインバーグの慧眼には、驚く他はない。スピルバーグはこの「約束」があったからこそ、自信が持てたという。 そうして、TVシリーズの一編などを監督するようになった。その中でも、お馴染み「刑事コロンボ」の1エピソード「構想の死角」(71)などは、日本でも繰り返しオンエアされているので、ご覧になったことがある方も、多いであろう。 20代前半の若造としては、順風満帆に思える。しかしスピルバーグの胸中は、とにかく一刻も早く、「劇場用映画を撮りたい」という想いで、いっぱいだった。 そんなある日、スピルバーグの女性秘書が、雑誌「プレイボーイ」の1971年4月号に掲載された短編小説を読むように、彼に薦めた。それがリチャード・マシスンの筆による、「激突!」であった。 マシスンは、TVシリーズの「トワイライト・ゾーン」(1959~64)をはじめ、数多くのTVドラマや映画の脚本を手掛けていることで有名である。そして作家としても、SFホラーやファンタジー、更にはウエスタンやノンフィクションまで、ジャンルを横断する活躍を長年続けた。あのスティーヴン・キングをして、「私がいまここにいるのはマシスンのおかげだ」と語るような、偉大な存在である。 マシスンはハイウェイで車を運転中に、トラックの凶暴な運転に巻き込まれて、死ぬ思いをした経験がある。そこから着想したのが、「激突!」だった。 妻の尻に敷かれた平凡な中年セールスマンが、取引相手の元に急ぐ際、ごく軽い気持ちで大型トラックを追い越す。しかしそれが、恐怖の一日の始まりとなる。 トラックはセールスマンの車を執拗につけ狙い、やがて彼は相手が、自分の命を奪おうとしていることに気付く。警察や周囲に訴えても、その声は思うように届かず、あまつさえ異常者扱いさえされてしまう。 必死の逃走劇を繰り広げる中で、遂に覚悟を決めた彼は、真正面から、この異常者が操る巨大なトラックと対決することを、決意する…。 スピルバーグはこの短編小説を一読するや、「完全に参ってしまった」という。そしてこの作品を、自らの手で「映画化」するべく動き出す。その権利は幸いなことに、「ユニバーサル」が押さえていたので、スピルバーグは、先に挙げた「刑事コロンボ」のフィルムなども持参しながら、プロデューサーへのプレゼンを行った。そしてプロジェクトが動き始めた…ことになっている。 『激突!』は、“脚本化”もマシスン本人が行っているが、彼の話は、スピルバーグの話とは、些か食い違っている。マシスン曰く、スピルバーグと会うよりもずっと前に、脚本を書いていたというのだ。 また、「ユニバーサル」の郵便仕分け室に勤めていたスピルバーグの友人が、プロデューサー間で回覧されていた『激突!』の脚本の存在を、スピルバーグに伝えたのが、始まりだったとする説もある。この辺り諸説紛々なのは、『激突!』そしてスピルバーグが、後に伝説化した存在になったから故と、言う他はない。 さて実際に「映画化」に向けて動き出すと、やはりスターが必要だという話になった。そこでスピルバーグが脚本を送ったのが、『ローマの休日』(53)『アラバマ物語』(62)などで有名な、グレゴリー・ペック。 しかしペックは、この役に興味を示さなかった。実はこのことが、スピルバーグにとっては幸いだったとも言われる。もしもペックのような大スターの出演がOKになったら、企画全体が、それに見合った規模に修正される。そうなると、ペック主演作を手掛けるにふさわしい有名監督が呼ばれ、スピルバーグは、「お呼びでない」状態になる可能性が高かった。 結局『激突!』は、新人監督がメガフォンを取るには適正規模の、TVムービーとして製作されることになった。 主演に決まったのは、デニス・ウィーヴァー。日本では「警部マクロード」(70~77)の主役としてお馴染みだった、TVスターである。この起用もまた、スピルバーグがオーソン・ウェルズ監督の『黒い罠』(58)での彼の演技を思い出してオファーした説と、単にスタジオ側からあてがわれた説の両方がある。 いずれにせよ、ごく平凡で勇敢さのカケラもない男が、最後には勇気を振り絞って、命懸けで“怪物”に立ち向かっていくという物語である。ペックが演じるよりも、ウィーヴァ―の方が適役だったのは、間違いない。この辺り後年『ジョーズ』で、はじめに主演の警察署長役の候補になったスティーブ・マックイーンやチャールトン・ヘストンよりも、実際に演じたロイ・シャイダーの方が、明らかに適役だったパターンと酷似している。 こうして陣容が揃い、『激突!』は1971年秋にクランクイン。ロケ地は、カリフォルニア州のモハベ砂漠を貫くハイウェイとその近辺で、11日間の撮影予定だった。スケジュールがタイトだったため、ハイウェイ全体の地図にカメラを置く位置を書き込んだものを使って、撮影は進められた。 はじめに記した通り、撮影はトータルで16日間まで延びた。編集作業から放送までは3週間程度しか確保出来なかったため、4人の編集マンを使って、急ピッチで仕上げ作業が進められた。 そうして第1次の完成を見た『激突!』には、この4年後に全世界を席巻することとなる、『ジョーズ』と共通する要素が、多く見受けられる。 先にも挙げたように、それまで想像もしなかった“脅威”と期せずして対決することになるのは、ごく平凡で勇敢さには欠ける男。そして彼が助けを求めて訴えても、周囲には邪険にされる。 『激突!』に於けるトラック、『ジョーズ』に於ける人喰い鮫の描き方にも、大きな共通項がある。『激突!』の主人公が目にするトラック運転手の姿は、手や足元のみ。その容貌などは、一切見えない。一方『ジョーズ』の鮫は、クライマックス近くまで、背びれ以外を見せることがなく、恐怖を煽る。 そして終幕!トラックと鮫の断末魔の叫びは、共に『大アマゾンの半魚人』(54)のサウンドトラックから、怪物の鳴き声を持ってきているのである。 『ジョーズ』公開時に、「これは『激突!』のリメイクである」と、指摘する向きもあった。それは言い過ぎにしても、スピルバーグが『激突!』で成功した手法を、『ジョーズ』で大いに援用したことは、紛れもない事実だ。 『激突!』は製作費として30万ドルを予定していたものが、42万5,000ドルまで膨らんだ。しかしこのバジェットの超過分など、ものともしないような成果を上げることとなる。 まずは1971年11月13日に「ABC」で放送されると、高視聴率と高評価を勝ち取った。それまではスピルバーグと顔見知り程度だったジョージ・ルーカスは、その日フランシス・コッポラ宅のホームパーティに出ていた。その席を外して「十分か十五分くらい見てやろう」と、『激突!』を見はじめたら、やめられなくなった。そして「この男はすごく出来る…」「もっとよく知りたい…」と思ったという。後のライバルにして盟友関係は、ここから始まったとも言える。 大きな話題となったことに気を良くした「ユニバーサル」は、『激突!』を海外では、“劇場用映画”とすることを決定。そのためスピルバーグに追加撮影を行わせ、元は74分の作品を、90分まで伸ばすこととした。 そしてヨーロッパで、映画祭にエントリーしたり、劇場公開するなどの展開を行っていく。「第1回アボリアッツ国際ファンタスティック映画祭」でグランプリを受賞するなどの成果を上げると同時に、スピルバーグは、偉大なる先人たちと知己を得る、栄誉に俗した。 イタリアでは、巨匠フェデリコ・フェリーニと会食。イギリスでは、己が最も尊敬するデヴィッド・リーンから、「どうやらじつに才能あふれる新人監督があらわれたようだ」と絶賛されたのである。 こうして「スピルバーグの時代」の幕開けまで、秒読み態勢に入った。この後スピルバーグは、『続・激突!/カージャック』(74)で、正式に“劇場用映画”デビュー。それに続く『ジョーズ』で、全米そして全世界で№1ヒット監督となったのである。『激突!』(C) 1971 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
映像の魔術師 スピルバーグ自作を語る
“映像の魔術師”スティーヴン・スピルバーグ監督が自らについて語る、ファン必見のドキュメンタリー。
常にハリウッドの頂点に君臨し続けるスピルバーグ監督。『未知との遭遇』や『シンドラーのリスト』など自身の代表作や、映画監督を志し、第一線で活躍するにいたった経緯を、裏話を交え約90分間にわたって語る。
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COLUMN/コラム2020.04.02
“天才”スピルバーグ、ハリウッドの王への第一歩 『ジョーズ』
1975年8月、小5の夏休み。両親と弟2人との5人家族で、東北周遊旅行の途中、私は高熱を発し、父に抱えられ病院へと担ぎ込まれた。 処置としては、解熱剤でも注射してもらったのだと思う。別行動となった母と弟たちと再び合流するための、駅での待ち時間。父が飲み物など買いに行き、私は独り父が置いていったスポーツ紙を、ぼっーと眺めていた。 その時、目に飛び込んできたのだ!大きく口を開けたサメの横で、電話を掛けている若い男の写真が!! それはアメリカで、人喰いザメの映画が特大ヒットとなっており、歴代の興行記録を悉く塗り替えているという記事だった。写真の男はその監督で、まだ20代と紹介されていた。そしてその作品は、日本では年末に正月映画として公開されるということだった。 それまで映画は1年に1度、“ディズニー”などの子ども向き作品に連れていってもらうぐらいで、さほど興味がなかった。しかしその記事で取り上げられている映画には、生まれて初めて、「観たい!」という熱烈な感情が沸き起った。それがスティーブン・スピルバーグ監督の、『ジョーズ』だった。 4カ月後=75年12月、私は有楽町の旧・丸の内ピカデリーで『ジョーズ』を鑑賞。その後の人生に、大きな影響を受けることとなる。元を正せばあの夏の日、件の記事を目にしなければ、今このコラムを書いていることも、恐らくなかった筈だ…。 1946年12月生まれで、当時は弱冠28歳だったスピルバーグが、ハリウッドの頂点に上り詰めていく第一歩となったのが、本作『ジョーズ』である。一体どんな経緯で映画化されたのか?そして20代の若僧が、なぜ監督を任されたのか?その舞台裏は、現在ミュージカルの舞台化が企てられているほど、それ自体が「劇的」な出来事の連続だったのである。 少年時代から父の8㎜カメラを奪って映画を作っていた、スピルバーグ。そんな彼がハリウッド入りを果たすきっかけとなったエピソードは、もはや伝説と言える。 18歳の夏にロサンゼルスの「ユニバーサル・スタジオ」の観光ツアーに参加したスピルバーグは、そのツアーを抜け出して、観光客には立ち入り禁止のサウンドステージや編集室などを見て回った。その際に、偶然出会った映画ライブラリー館長から3日間のパスを貰い、連日の撮影所通いが始まる。それは3日間の期限が切れた後も、門衛の黙認の下に続いた。 そうやって撮影所のスタッフと知り合いになり、諸々雑用なども言いつかるようになったスピルバーグ。自ら監督したインディーズ作品でお偉方にアピールし、やがてTVシリーズの一編やTVムービーなどの監督を任されるようになっていく。 その中の1本『激突!』(71)は、あまりの出来の良さに、アメリカ以外の各国では劇場公開に至った。そして『続・激突!/カージャック』(74)で、正式に劇場用映画の監督としてデビューを飾った。 邦題に相違して、『激突!』とは全く無関係の『続・激突!…』。新人監督の作品として批評が良かったにも拘わらず、興行はぱっとしなかった。しかしプロデューサーを務めたリチャード・D・ザナックとデヴィッド・ブラウンは、スピルバーグの力量を認めることとなる。それが『ジョーズ』に繋がっていったのである。 ピーター・ベンチリ―の原作は、1974年2月に出版され、大ベストセラーになったもの。ザナック&ブラウンは、その出版前に権利を買って、映画化の準備を進めていた。 スピルバーグは、ブラウンのデスク上にあった、出版前の原作ゲラ刷りを何気なく読み始めた。その結果己の次回作として、『ジョーズ』を撮りたいと希望するに至る。ところがその時は既に、『男の出発』(72)などのディック・リチャーズが、『ジョーズ』を監督することが、決まっていた。 数週間後、リチャーズがレイモンド・チャンドラー原作で、ロバート・ミッチャムが探偵フィリップ・マーローを演じる『さらば愛しき女よ』(75)を監督するために、降板。お鉢はスピルバーグへと、回ってきた。 ベンチリ―の原作は、ヘンリック・イプセンの「民衆の敵」をベースに、ハーマン・メルヴィルの「白鯨」などの要素を織り込んだストーリーだった。「民衆の敵」は、ノルウェーの田舎町で1人の医師が、観光に利用しようとしている温泉が、廃水で汚染されていることに気付いたことから、他の町民と対立し孤立していく物語。医師を警察署長に、温泉の汚染を、夏の海水浴場に現れたホオジロザメに置き換えたのが、「ジョーズ」である。そして「白鯨」は、自分の片足を喰いちぎった、白いマッコウクジラに報復を果たそうとする、エイハブ船長とそのクルーの物語である。「ジョーズ」には、サメ捕りに執念を燃やす漁師が登場する。 プロデューサーとの契約では、原作者のベンチリ―が脚本も手掛けるということになっていた。ベンチリ―は草稿を3本ほど書いたが、それらはスピルバーグを満足させるには至らなかった。 原作では、人喰いザメの襲撃を隠蔽しようとする町の勢力にマフィアが絡んでいたり、サイドストーリーとして警察署長の妻と海洋学者の不倫話が盛り込まれたりしている。スピルバーグがこれらの要素を、「不要」と判断したことも、原作者によるシナリオに、不満を持った理由かも知れない。 結局シナリオは、ハワード・サックラ―という脚本家が大きくリライト。原作にないエピソードの大部分は、本人の都合でクレジットされてない、サックラ―が付け加えたといわれる。 その後を引き受けることになったのは、スピルバーグの旧友だった、カール・ゴッドリーブ。彼は俳優として呼ばれた筈だったのに、完全な脚本が出来ていないままクランクインした撮影現場では、脚本家としての役割の方が大きくなっていった。毎日の撮影台本は、監督及びキャストの意見を汲んだ上で、連日徹夜で彼が仕上げていったのだ。 主演級である3人のキャストは、いずれも第一候補ではない者に決まっていった。夏場の稼ぎで1年間を過ごす町アミティの警察署長ブロディ役には、スティーブ・マックイーンやチャールトン・ヘストンの名が上がったが、スピルバーグはヘストンに関して、「彼なら勝つに決まっているって誰でもわかるじゃないですか!」と、異議を唱えたという。なるほど、ニューヨークの警官の激務に嫌気が差して、のどかなリゾート地の警察に身を移した設定のブロディ役には、マックイーンやヘストンのようなヒーロー俳優は、確かにそぐわない。 結局ブロディには、スピルバーグが推した、ロイ・シャイダー(1932~2008)が決まった。シャイダーは舞台で高い評価を受けた後、『フレンチ・コネクション』(71)でアカデミー賞助演男優賞の候補になった辺りから、映画界で存在感が高まりつつある頃だった。 海洋学者のマット・フーパ―役の有力候補は、当初はピーター・ボグダノヴィッチ監督の『ラスト・ショー』(71)で評判になった2人、ティモシー・ボトムズとジェフ・ブリッジスだった。結局はスピルバーグの盟友ジョージ・ルーカスが監督した、『アメリカン・グラフィティ』(73)の主演、リチャード・ドレイファス(1947~ )に決まる。 若僧ということで、撮影現場では、どうしても出演者たちから舐められがちだったスピルバーグ。同年代で相談相手にもなったドレイファスの存在には、かなり助けられたという。 サメ捕りのプロ、漁師のクイント役は、リー・マーヴィンやスターリング・ヘイドンに断られた後、『スティング』(73)でのギャングのボス役で評判を取った、ロバート・ショウ(1927~1978)に。こうして3人のキャストが、固まった。 『ジョーズ』の最大の見せ場となるのは、このメインキャスト3人による、海洋でのサメとの対決シーンである。海に見立てたプールでの撮影を勧められたスピルバーグだったが、“本物”にこだわったため、ほぼ全てを海上ロケで撮ることになった。そしてこれが、トラブル続きの引き金となる…。 ロケ地の島マーサーズ・ヴィニヤードに乗り込み、陸上のシーンをあらかた撮り終えた後、勇躍海上シーンに挑む。まず悩まされたのが、レガッタレース。そこはボートやヨットでレースを楽しむ人々が、引きも切らないスポットだったのである。撮影隊はヨットが姿を消すまで、延々と待たなければならなかった。 海の潮流にも、悩まされた。カメラや発電装置、サメの模型などを乗せた船の錨を引きずって位置を変えてしまうため、元の場所に戻すのに時間が掛かったのだ。 この繰り返しで、1日に撮れるのが1カット。或いは全くカメラを回せない日もあった。 トドメになりそうだったのが、“サメ”である。スピルバーグの弁護士の名に由来して、「ブルース」と名付けられた全長7m以上、重量1.5tの機械仕掛けのサメは、最初のカメラテストの日に海面に浮かばせると、水面を切って疾駆する筈が、動き出すや否や、海底へと沈んでいってしまったのだ。 修理には3~4週間を要する。しかも現場に戻ってきても、期待通りの動きは望めない。 このままではスピルバーグの降板、或いは製作を中止するしか、手段がないように思われた。早急に代替案を考える以外に、撮影を続ける道はなかったのである。 悩みに悩んだスピルバーグだったが、そこからが“天才”だった。翌日採るべき道を見付けたのである。 「サメを見せずに、その存在だけを暗示する―ともかく全身は見せない」 かくて、サメの襲撃シーンなどで、そのヒレや尾、鼻先など、一部しか見せない演出となった。サメの全貌は映画の後半、ブロディが船上から撒き餌をしているところに出現するまでは、一切画面に現れないのである。 この演出が成功する鍵となったのは、ポストプロダクション。ヴァーナ・フィールズによる見事な“編集”と、ジョン・ウィリアムズ作曲の“テーマ曲”があったからこそ、映画史上に残るサスペンス演出が完成したのである。 映画『ジョーズ』の成功には、原作からの改変や追加も、大いに寄与している。先にも記した通り、マフィアや不倫といった要素をバサッと切り落としたわけだが、これによって、強大な敵であるサメとの対決に向かうまでの展開が、明快且つシャープになったのだ。 クイントはなぜ、サメを殺すことに執念を燃やすのか?その動機を説明するシーンを追加したのも、絶妙に生きている。 第2次世界大戦に従軍したクイントは、乗務していた巡洋艦が、日本軍に撃沈された過去を持つ。その時、海面に浮かびながら救けを待つ彼と仲間たちを、サメの群れが襲った。1人また1人と喰われていった中で、彼は辛うじて生き残ったのである。 このエピソードの大本は、ハワード・サックラ―が考えた。スピルバーグは、友人で軍事オタクのジョン・ミリアス監督に依頼して、ディティールを加えてもらった。それは少々長くなったため、セリフを実際に喋るロバート・ショウに頼んで、言い易いように短くしてもらった。 最終的には、サメとの最後の対決シーンを原作から大きく改変したことが、“映画”の大勝利に繋がったと言えるだろう。原作ではクイントは、「白鯨」のエイハブ船長さながらにサメに銛を突き立てるも、そこに繋がったロープが足に巻き付いたため、海へと引き摺り込まれて、溺死してしまう。そしてサメも、クイントのその一撃が致命傷となって、絶命する。ブロディは対決の傍観者として、生還するというラストである。 当初は映画でも、原作に準拠したラストにするプランだった。しかしスピルバーグは原作者の反対を押し切って、クイントを噛み殺したサメと、ブロディの直接対決という大興奮の見せ場を作った。 多くの方が知るであろうが、未見の方のため、敢えて細かくは書かない。しかしブロディが、「笑え化け物!」と叫んだ後の怒涛の展開に、75年12月私が『ジョーズ』を初鑑賞した時の旧・丸の内ピカデリーでは、大拍手が起こったのだ。こんなことは、私のロードショー館に於ける数多の鑑賞経験の中で、今日まで唯一無二の出来事である。付記すればこれは同時期、『ジョーズ』を上映する、各地の映画館で見られた現象である。 さて撮影期間13週、製作費230万ドルの予定で始まった『ジョーズ』は、最終的には20週で800万ドルまで膨れ上がった。撮影が終わってロケ地の島を出る時、「2度と戻らん」とまで言ったスピルバーグは、その後の作品では、すべての撮影基盤が完璧に整うまでは、決して製作に入らないようになった。『ジョーズ』の苦闘があったが故に、クリント・イーストウッドと並ぶ、「早撮り」の巨匠となったわけである。 何はともかく、終わり良ければ全てよし!『ジョーズ』は、75年6月にアメリカ公開すると、スピルバーグにとっては兄貴分だった、フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』(72)を瞬く間に抜き、歴代№1の興行成績を打ち立てた。その年末に公開した日本でも、大ブームを巻き起こし、史上最高の興収を叩き出した。 №1ヒットの記録は、アメリカでは2年後に、スピルバーグの盟友ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』(77)によって更新された。しかし日本に於ける№1の座は、やはりスピルバーグが監督した『E.T.』(82)が公開されるまでの7年間、守られた。 “天才”スピルバーグの名を全世界に轟かせた、『ジョーズ』。正直に言う。この作品とリアルタイムで出会えただけでも、悪くない人生だと思う。№1である以上に、永遠の「オンリーワン」作品である。■ 『JAWS/ジョーズ』© 1975 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
ゲイリー・クーパー 栄光と伝説
アメリカ人の理想像を演じ続けてきた名優ゲイリー・クーパーの業績を明かすドキュメンタリー
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