サム・ライミのフィルモグラフィーを眺めると、「多様」あるいは「一貫性のなさ」といった言葉が浮かんでくる。彼が監督作品として扱ってきた題材の幅広さには、驚きを禁じ得ない。
 なぜそうなったのか?その事情に関わる部分は後ほど触れるが、映画ファンとして、彼の作品への入り口が何であったかは、世代で、大きく分かれると思う。
 アラサーぐらいだったら、やっぱり『スパイダーマン』3部作(2002~07)か。“MCU=マーベル・シネマティック・ユニバース”誕生前夜に、コミック作品の映画化に大成功。今日のアメコミ映画隆盛の礎を築いた、立役者の1人がライミであることは、言を俟たない。
『スパイダーマン』前後で評価が高い、『シンプル・プラン』(98)や『スペル』(09)などを、こよなく愛する向きも少なくないだろう。
 私を含めて、ライミ作品の日本デビューに立ち会った主な層は、1959年生まれのライミに近い年代。もう50~60代になってしまった。
 アメリカ公開は1981年だったインディーズ作品『死霊のはらわた』は、日本では輸入ビデオでマニアの間で話題になった後、劇場公開に至ったのは、85年のこと。それまで聞き慣れなかった、というか少なくとも日本には存在しなかった、“スプラッター映画”という言葉を広めて定着させたのは、紛れもなくこの作品だった。
 その頃のライミは、まだ20代中盤。日本でも一躍大注目の存在に…と言いたいところだが、まだまだ“ホラー映画”の地位が低い時代である。一部好事家の間で関心が高まったというのが、正確なところだろう。
 その後映画コラムなどで紹介されていたエピソードも、また微妙だった。それは、ライミが日本人と会うと、「ねぇねぇ僕、サム・ライミ。サムライMe!!」と笑って去っていくという内容。
 当時の真っ当な(!?)映画ファンからは、「けっ!」という受け止め方をされても、致し方なかった。「東京」や「ゆうばり」で開催される「ファンタスティック映画祭」が定着し、クエンティン・タランティーノが現れる90年代前半頃までは、“オタク”的なノリには、概して冷たいリアクションが待ち受けていたのだ。

 そんなサム・ライミの監督人生は12歳の時、父親の8㍉カメラを使って作品を作ったことに始まる。その後同級生の仲間などと映画を撮り続ける中で、高校時代には1学年上のブルース・キャンベルと邂逅する。
 ライミ組の常連出演者となるキャンベルに続いて、ミシガン州立大学進学後には、ロバート・タパートと出会う。タパートは映画製作のパートナーとなり、現在でもホラー映画専門レーベルの「ゴースト・ハウス・ピクチャーズ」を、ライミと共同で運営している。
 まだ海の者とも山の者ともつかない、二十歳前後の3人。ライミ、タパート、キャンベルが、9万ドルの資金を集めて製作したのが、『死霊のはらわた』だった。
 それまで「ホラーは苦手」というライミだったが、「世に出るなら、低予算のホラーだ」とタパートに説き伏せられたことから、様々なホラー作品に触れて研究を重ねた。そしてタパートが製作、キャンベルが主演、ライミが監督を務めた『死霊のはらわた』が、世に送り出された。この作品の成功で、3人は次のステップに進むこととなる。
 続いて挑んだのが、ライミが本来指向するところのスラップスティックコメディ、『XYZマーダーズ』(85)。インディペンデント系ではあるが、「エンバシー・ピクチャーズ」という、名の通った映画会社と初めて組んだ作品である。
 主演に無名の俳優は据えられないという、「エンバシー」からの“口出し”によって、キャンベルをやむなく脇役に回さざるを得なくなったのをはじめ、準備から撮影、ポストプロダクションまで、映画会社の介入は続いた。その挙げ句、まともに公開してもらえず、3人組にとってこの作品は、悪夢のような結果に終わったのである。
 その後起死回生を図って取り組んだのは、『死霊のはらわたⅡ』(87)。続編というよりは、第1作をスケールアップしたリメイク的な内容で、コメディ色を強めたこの作品で、3人は再び成功を収める。
 そして勇躍、初めてハリウッド・メジャーの「ユニヴァーサル」と組んだのが、本作『ダークマン』(90)である。ライミのフィルモグラフィー的には、インディペンデントからメジャーへの、そして『死霊のはらわた』から『スパイダーマン』への架け橋的な位置に属する作品と言える。

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 科学者のペイトン・ウェストレイクは、火傷などの重症者を救える、“人工皮膚”の開発に、日夜取り組んでいた。完成まであと一歩と迫りながらも、99分経つと溶解してしまうため、研究は足踏みが続いた。
 ペイトンにはもう1つ気がかりなことがあった。同棲中の弁護士ジュリーにプロポーズしたものの、新しい仕事で手一杯の彼女に、返事を保留されてしまったのだ。
 そんな時、“人工皮膚”を99分以上持たせるためのヒントが見つかる。助手と共に喜ぶペイトンだったが、突然街のギャングであるデュラン一家に研究所を襲撃される。彼がそれとは知らずに持ち出してしまったジュリーの書類が、街の再開発計画を巡る汚職の証拠だったのである。
 助手は惨殺され、ペイトンも拷問に掛けられる。そして顔を強酸性の溶液に突っ込まれ、火を放たれた研究所は炎上する。
 駆け付けたジュリーの目前で、研究所は爆発。ペイトンも耳だけを残し、塵と化したかと思われた。
 悲嘆に暮れるジュリー。しかし爆発で河川へと飛ばされたペイトンは、生きていた。身元不明のホームレスとして病院に収容され、全身40%もの火傷の苦痛を感じないように、視床の神経を切断されて。
 この処置で抑制力を失い、常人を超える力を持ったペイトンは、病院を脱出。しかし二目と見られない容姿になってしまった彼は、ジュリーの前に現れるのを躊躇せざるを得ない。ペイトンは、自分をこんな姿にしたギャングたちへの、復讐を誓う。
 スラムの廃工場に居を構え、研究・開発を再開したペイトン。未完成の“人工皮膚”で様々な人間に成りすましながら、高い知能と超人的パワーを駆使して、ギャングたちを次々と血祭りに上げていくのだったが…。

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 初メジャー作品が、『ダークマン』になったのには、深い理由がある。
 サム・ライミについて言及した場合、彼がこよなく愛するものとして、必ず登場するのが、1930年代にスクリーンで人気を博した後、TV時代の到来と共に、再編集されてお茶の間で大人気となった『三ばか大将』。ライミ作品の多くに共通する、度を超えたドタバタ感は、この影響が大きい。
 それと共に指摘されるのが、アメコミへの偏愛である。
 ライミは『死霊のはらわたⅡ』の後、「ザ・シャドー」「バットマン」などのアメコミを原作とした作品で、メジャーデビューしようと画策した。しかし両企画とも不調に終わり、それぞれ別の監督によって、映画化されるという憂き目に遭う。
 付記すればメジャーデビューを果した後も、アメコミ企画への執着は続いた。「バットマン」の映画化を成功させたティム・バートンがそのシリーズを離れる際、後を引き継ごうと目論むも、失敗。また「マイティ・ソー」の企画を「20世紀フォックス」に持ち込んだが、これも実現できなかった。
 自分の愛するアメコミの映画化を、何としてでも成し遂げたい。しかし誰も、自分にその企画をやらせてくれようとはしない。だったらアメコミっぽい話を、自分で作ってしまえ!
 些か乱暴なまとめ方だが、そうして出来上がったのが、『ダークマン』だった。実際に本作の製作意図として、ライミはこんなことを言っている。
「やや古典的な物語を描いて、漫画のストーリーのように、できるかぎりドラマチックでインパクトが強い作品にしたかった」
 この企画をプレゼンされた「ユニヴァーサル」は、すぐに製作をOKした。

 さてハリウッド・メジャーが、相手である。若き天才科学者、転じて“ダークマン”となる主演俳優に、ブルース・キャンベルを当てる構想は、『XYZマーダーズ』の時と同じく、無残に却下された。結果的にキャンベルは、本作ではその意趣返しのようにも取れる形でスクリーンに登場するのだが、それは観てのお楽しみとしておく。
 主演に決まったのは、まだアクションスターのイメージはなかった、若き日のリーアム・ニーソン。その相手役のジュリーには、当時ニーソンが付き合っていたジュリア・ロバーツがキャスティングされそうになったが、諸事情によりNGに。
 最終的にジュリーには、ライミの“インディーズ”仲間だったコーエン兄弟のミューズにして、その兄の方のジョエル・コーエンの妻であった、フランシス・マクドーマンドが決まった。普段から親しかったマクドーマンドの起用は、当初からの希望通りであり、ライミはほっと胸を撫で下ろした。
 しかしその後3度もアカデミー賞主演女優賞を獲ることとなるマクドーマンドと、本作まで女優をまともに演出したことのなかったライミとのギャップは、大きかった。現場では、衝突が絶えなかったという。
 とはいえ、元々は親しい同士。マクドーマンドとのやり取りは、「創造的なプロセス」になったと、ライミは語っている。
 結局は思い通りの作品に仕上げることを不可能にしたのは、やっぱり映画会社だった。ポストプロダクションで「ユニヴァーサル」が差し向けた編集マンとライミは、深刻な意見の相違を見る。

 余談になるが、ライミはこれ以降も含めて、数多の苦労や屈辱をもたらした映画会社の姿勢を、反面教師としたようだ。彼とロバート・タパートが主宰する「ゴースト・ハウス・ピクチャーズ」で、Jホラーの雄である清水崇監督を招いて、『呪怨』をハリウッド・リメイクする際、他のプロデューサーの口出しがあると、「…清水が撮りたいアイディアがあればそれを撮る。ちゃんとお金を用意するから」と、間に入ったという。
 さて、何とか完成に向かった『ダークマン』。しかし音楽を付ける前のバージョンで「ユニヴァーサル」の重役から、「我が社の歴史上、最低の試写評価を受けた映画だ」と、“死刑宣告”のような発言をされる。
 ところが蓋を開けてみると、批評も興行も上々。ライミのメジャー処女作は、「成功」と言って差し支えない成果を収めた。『ダークマン』は、監督及び主演を変えながらシリーズ化され、また逆流するかのように、コミック化もされた。
 とはいえやっぱり、自分の愛するアメコミ作品の映画化という夢は、忘れられなかった。ライミは本作の後、『死霊のはらわた』シリーズの第3作に当たる『キャプテン・スーパーマーケット』(93)を監督してからは、幅広いジャンルの作品を手掛けるようになる。実はそのほぼすべてが、念願のアメコミ企画を実現させるための、助走だった。
 西部劇の『クイック&デッド』(95)、クライム・サスペンスの『シンプル・プラン』、スポーツ映画の『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』(99)、スリラーの『ギフト』(2000)。こうした多様な作品にチャレンジしたのは、デビュー以来自分に付き纏う、“ホラー映画”の監督というイメージを払拭し、巨額の製作費を投じるアメコミ映画を任せてもらうためであったと言われる。
 そして、遂に長年の想いを果した『スパイダーマン』3部作で、ライミは押しも押されぬ地位を築いた。
 そんな彼の最新作は、“MCU”に初参入し15年振りにアメコミの映画化を手掛けた、『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』(22)。詳細は省くが、こちらは彼の原点とも言える、『死霊のはらわた』のMCU版リメイクとの評まで出る、ファンにはたまらない仕上がりだった。
 映画会社との数多の戦いを経て、ライミが己の最も好きなジャンルで、こんな好き放題が出来るようになったというのも、改めて感慨深い。■

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