ホラー映画ブームを牽引したスラッシャー映画群

空前のホラー映画ブームに沸いた’80年代のハリウッド。その背景には特殊メイクの技術革命と、ホームビデオの普及によるビデオソフト・ビジネスの興隆があったとされる。日進月歩で進化する特殊メイクは、かつてなら作り物然としていたモンスターの造形やスプラッター描写にリアリズムをもたらし、人々はより刺激の強い恐怖と残酷を求めるようになる。その結果、リック・ベイカーやトム・サヴィーニ、ロブ・ボッティンといった特殊メイク・アーティストたちが映画の看板としてスター扱いされるように。しかも、テレビ放送ではカットされる過激な恐怖シーンもビデオソフトならノーカットで楽しめるため、おのずとホラー映画の主な二次使用先はテレビからビデオへと移行。さらに、折からのビデオレンタル・ブームがホラー映画人気を後押しした。ゾンビからエイリアン、オカルトから狼男まで様々なサブジャンルがホラー映画の黄金時代を彩ったわけだが、中でも特にブームを牽引する存在だったのは「スラッシャー映画」である。

別名「ボディ・カウント映画」とも呼ばれ、凶暴で凶悪な殺人鬼が罪もない人々(主に能天気でチャラチャラした若者)を片っ端から血祭りにあげていく、その手を変え品を変えの人殺しテクニックでファンを熱狂させたスラッシャー映画群。ブームのルーツはジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』(’78)とされているが、しかし起爆剤となったのは間違いなくショーン・S・カニンガム監督の『13日の金曜日』(’80)であろう。それまでのホラー映画というのは、あえて肝心な部分を見せないで不安や恐怖を盛り上げるというのが優れた演出のお手本とされた。特にメジャー・スタジオの映画は品位を保つため、血みどろ描写を見せすぎないことが暗黙のルール。ところが、パラマウント配給の歴然たるメジャー映画だった同作は、残酷な殺人シーンを細部まで見せまくって世界中に大きな衝撃を与えたのである。

関係者の予想をはるかに上回る大ヒットによって、即座にシリーズ化が決定した『13日の金曜日』。たちまち似たようなスラッシャー映画が大量生産されるようになる。しかも、2作目で初登場した連続殺人鬼ジェイソンがまたインパクト強烈で、おのずと第2・第3のジェイソンを狙った有象無象の殺人鬼たちがスクリーンで大暴れ。しかし、急速に盛り上がったブームは醒めるのも早く、ほどなくしてスラッシャー映画は飽和状態に陥ってしまう。そこへ現れたのが、カニンガム監督の愛弟子であるウェス・クレイヴン監督の『エルム街の悪夢』(’84)。夢の中で殺されると本当に死んでしまうという発想の斬新さも然ることながら、夢の世界を支配する変幻自在の殺人鬼フレディ・クルーガーというユニークなキャラクターの独創性、夢だからこそ何でもありの想像力豊かな恐怖シーンの面白さが大いに受け、製作費100万ドル強の低予算映画ながら全米興収5700万ドルを超える大ヒットを記録。傾きかけたスラッシャー映画の人気再燃に大きく貢献することとなったのだ。

少年少女の悪夢に巣食う殺人鬼フレディの正体とは?

舞台はアメリカ中西部の閑静な住宅地エルム街。女子高生ティナ・グレイ(アマンダ・ワイス)は、夜な夜な見る奇妙な悪夢に悩まされていた。鋭利な鉄製の爪がついた手袋をはめた、焼けただれた顔の不気味な男に追い掛け回されるという夢だ。しかも、夢の中で男にネグリジェを切り裂かれたところ、目が覚めると本当にネグリジェがズタズタとなっている。寝ている間に自分で裂いてしまったのか、それとも…?夢を恐れるあまり寝不足となった彼女は、そのことを学校の友人たちに打ち明けたところ、親友のナンシー(ヘザー・ランゲンカンプ)やその恋人グレン(ジョニー・デップ)もまた、同じ男の夢を見ていると知って驚く。

ある晩、ティナの母親がボーイフレンドとの旅行で家を留守にしたため、ひとりでは怖くて夜を過ごせないという彼女のため、ナンシーとグレンがティナの家に泊まることとなる。そこへ、ティナと付き合っている不良少年ロッド(ニック・コリ)が登場。ひとしきりセックスを楽しんだ後、ロッドと一緒に自室で寝ていたティナの夢に再び不気味な男が現れ、いよいよネグリジェだけではなく彼女の肉体を切り裂き始める。ベッドの中でのたうち回り、助けを求めて叫びながら血まみれになるティナ。驚いて飛び起きたロッドの目には、ひとりでもがき苦しむティナの姿しか映らず、何か得体のしれない力によって彼女が殺される様子をただ見ていることしかできなかった。ティナの悲鳴を聞いて駆けつけたナンシーとグレン。ドアを開けた2人はティナの無残な遺体を発見する。

警察は現場から逃走したロッドを殺人の容疑者として指名手配。捜査の責任者はナンシーの父親であるドナルド・トンプソン警部(ジョン・サクソン)だ。ナンシーの両親は離婚しており、彼女は母親と一緒に暮らしているのだが、母親マージ(ロニー・ブレイクリー)はアルコール中毒を抱えていた。しばらく学校を休んでいいというけど、こんな家に居たって気分が滅入るだけ。そう考えたナンシーが登校しようとしたところ、身を隠していたロッドが助けを求めて姿を現し、このチャンスを狙っていたトンプソン警部がロッドを逮捕する。自分を囮に使った父親へ腹を立てるナンシー。それに、いくら不良少年とはいえ、根は善良なロッドが人を殺すとは到底思えなかった。しかも、授業中に気付かぬうち眠ってしまった彼女は、夢の中であの不気味な男に襲われ、間一髪のところで目が覚める。夢の中でわざと火傷を負って、その痛みで眠りから覚めたのだが、気が付くと本当に火傷を負っていて驚くナンシー。夢の中で起きたことが現実になる。だとすれば、ティナを殺した犯人はロッドではなく夢に出てくる男かもしれない。

やがて留置所に入れられたロッドが不可解な死を遂げ、思い余ったナンシーは「夢の中に出てくる男」について両親に打ち明ける。そんなバカバカしい話が現実にあるわけない。寝不足のせいで変な妄想に取りつかれているのではないか。ろくでもない友達に影響されたのだろう。娘の切実な訴えに全く耳を貸さず、むしろ正気を疑うナンシーの両親。ところが、ナンシーから「夢の中の男」の特徴を聞かされた彼らは思わず狼狽する。それは、かつてエルム街の子供たちを次々と殺害し、法の裁きを逃れようとしたためエルム街の親たちによって始末された連続殺人鬼フレディ・クルーガー(ロバート・イングランド)だったのだ…!

フレディの人物像や作品の世界観に影響を与えた監督の生い立ち

誰もが寝ている間に見る「夢」。しばしば恐ろしい悪夢を見るという人も少なくないだろう。もしも、その夢の中で起きた出来事が現実世界にも物理的な影響を与えるとしたら、夢で殺された人間が実際に死んでしまうことだってあり得るかもしれない。人間なら誰でも身近に感じる「夢」を、恐怖の根源としたことが成功の一因。しかも、本作では人が夢を見るプロセスや仕組みを正確に踏まえ、現実と似て非なる不条理な「悪夢」の恐怖世界を見事に映像化している。なかなか言葉では説明しづらい夢と現実の曖昧な境界線を、ちょっとした違和感や肌感覚の違いで表現していく映像センスの鋭さに舌を巻く。これは演出家の感性はもちろんのこと、撮影監督の技術力に負うところも大きいだろう。

さらには、自我に目覚め始めた思春期の繊細な若者たちが抱える不安と迷い、そんな我が子をいつまでも子ども扱いしようとする親たちとの深い溝といった、古今東西のどこにでもある普遍的なテーマをきっちりと描いた脚本の妙も見逃せない。しかも、親たちは子供を子供として過小評価し、なおかつ後ろめたい思いもあって重大な事実を隠していたため、大切な我が子らの命を危険にさらしてしまう。そう、かつて自分たちが手にかけた連続殺人鬼フレディ・クルーガーの存在だ。

性教育などはまさしくその好例だと思うが、大人が子供に必要な知識を与えないと不幸な結果を招くことになりかねない。未成年の望まぬ妊娠や性病感染などは知識不足が主な原因だ。子供の身を守りたいのであれば「知識」こそが最大の武器。そこにタブーがあってはならないのだが、しかし過保護な親ほど「子供にとって必要な知識と必要でない知識」を勝手に選別してしまう。そもそも、親とて所詮は長所も短所もある普通の人間。決して完ぺきではないし、常に頼りになるとも限らない。そのことに気付いたナンシーは腹をくくり、自分で自分の身を守るべく殺人鬼フレディに一人で立ち向かっていく。親から守られてきた子供が自立した大人へと成長する過程を、これほどの説得力で描いた作品もなかなかないだろう。

もちろん、冷酷非情な残酷さの中に奇妙なユーモアと愛嬌を併せ持つ殺人鬼フレディのユニークな個性、低予算ながら創意工夫を凝らした特殊メイクや想像力の限りを尽くした恐怖演出の面白さも功を奏したと思うが、しかしやはりどんなジャンルの映画であれ何よりも重要なのは脚本。思春期の悩みや親子間の溝などの普遍的な題材を描いた青春ドラマとして、本作がターゲットである若年層の観客から大いに支持されたであろうことは想像に難くない。実際、日本公開当時に高校生だった筆者は、主人公ナンシーの精神的な成長に我が身を重ねて共感しまくりだった。だからこそ世界中で大ヒットしたのだろうと強く思う。

ちなみに、『エルム街の悪夢』は’70年代末に起きた実際の出来事が元ネタになっているという。当時、ポル・ポト派の虐殺を逃れた若いモン族の移民男性らが、相次いで睡眠中に亡くなるという事件が発生。この不可解な現象をロサンゼルス・タイムズの記事で知ったクレイヴン監督は、中でも最後に読んだ記事のケースが強く印象に残ったという。それは難民キャンプにいた若者。誰かに殺されるという悪夢に悩まされていた彼は、恐怖のあまりもう2度と眠らないと家族に宣言。医者である父親が処方する睡眠薬も密かに捨てていた。しかし、寝ないにしても限度というものがある。ある晩、いよいよ寝落ちしてしまった彼を家族は寝室へ運び、ホッと胸をなで下ろしたのもつかの間、深夜になって叫び声が聞こえたので寝室へ駆けつけると、若者は既に事切れていたのだそうだ。この事件をヒントに生まれたのが、「夢の中で殺されると本当に死んでしまう」という本作の基本コンセプトだった。

殺人鬼フレディの名前は子供の頃のいじめっ子から拝借。クルーガーというドイツ風の苗字は、ナチスを連想させるという理由で採用したらしい。ただし、フレディというキャラクター自体は男性特有の破壊的な傾向、つまり「有害な男性性」の象徴だという。「男というのは守り育てるのではなく壊したがる」と語るクレイヴン監督。そこには、恐らく暴君だった彼自身の父親のイメージが映し出されているのかもしれない。厳格なバプテスト信者の家庭に育ったクレイヴン監督は、タバコやアルコールやダンスはもちろんのこと、映画もまた「悪魔の娯楽」として固く禁じられていたため、大人になるまで映画を見たことがなかった。中でも6歳の時に亡くなった父親は短気で暴力的な人物だったらしく、子供ながらにいつか本当に殺されると怯えていたそうだ。「フレディには危険な父親のイメージが重なる」というクレイヴン監督。そのうえで、「若さへの嫉妬と嫌悪」という中高年男性の典型的な思考パターンをフレディに投影したという。つまり、殺人鬼フレディは「純粋で未来のある若者が憎い」という妬みを原動力に凶行を重ねるのだ。恐らく、本作に出てくる大人たちが子供に対して無理解で独善的なこと、特に父親たちが偏見まみれで頑固で身勝手なのも、そうした監督自身の実体験を基にした大人像や父親像が大きく影響しているように思う。

劇場公開までの苦難の道のり

脚本が出来上がったのは’81~’82年頃(諸説あり)。既に『鮮血の美学』(’72)や『サランドラ』(’77)が興行的に成功していたクレイヴン監督は、ある程度の自信をもって各スタジオへ脚本を売り込んだのだが、しかし当時のスラッシャー映画は供給過多な状況だったため、どこへ行っても断られてしまったという。唯一関心を示したのが、当時まだ弱小の配給会社にしか過ぎなかったニューライン・シネマ。リナ・ウェルトミューラーやベルトラン・ブリエなどヨーロッパの名匠たちによるアート系映画を全米に配給したほか、日本の千葉真一が主演した和製カンフー映画『激突!殺人拳』(’74)シリーズをヒットさせたことでも知られる会社だ。当時はサム・ライミ監督の『死霊のはらわた』(’81)を配給して大成功したばかり。製作会社としての実績はまだまだ乏しかったが、しかし社長のロバート・シェイは『死霊のはらわた』みたいなホラー映画を自分でも作りたいと思っていた。なので、彼にとっては願ってもないチャンスだったのだ。

ただ、当時のニューライン・シネマには重大な問題があった。資金がまるで無かったのである。そこで、当時すでに妻子のいたシェイは自らの全財産を投入。家族や友人からも金を借りまくり、さらには企業からも出資を募るべく奔走した。スタッフも最初のうちはタダ働き。ライン・プロデューサーのジョン・バロウズは、クレジットカードのキャッシュサービスを利用してスタッフの給料を支払った。当時注目の若手俳優だったチャーリー・シーンがグレン役に関心を示したが、しかし週給3000ドルというニューライン・シネマとしては高額なギャラを要求されて断念。その代わり、無名時代のジョニー・デップを発掘できたのだから結果オーライである。クランクアップ予定日にまで撮影の終わるめどが立たず、かといってスケジュールを延ばせば予算が増えるため、一部シーンの撮影はクレイヴンの師匠ショーン・S・カニンガム監督に頼んだらしい。

さらに、音楽スコアを担当した作曲家チャールズ・バーンスタインへのギャラ支払いが遅れたため音源を渡してもらえず、当時出産したばかりだった共同プロデューサーのサラ・ライシャーが病院からバーンスタインに電話をして説得。これでようやく劇場公開にこぎ着けられる!と思ったら、フィルム現像会社への支払いが滞ったため、封切り1週間前にフィルムが差し押さえられてしまい、シェイ社長がなんとか現像所と話し合いをつけて解決した。そんなこんなで’84年11月9日に公開された『エルム街の悪夢』は前述のとおり大ヒットを記録し、これを足掛かりにしてニューライン・シネマはハリウッド・メジャーの一角を占める大企業へと成長する。その後の『ニンジャ・タートルズ』(’90)シリーズも『ラッシュ・アワー』(’98)シリーズも『ファイナル・デスティネーション』(’00)シリーズも、さらに言えば『ロード・オブ・ザ・リング』(’01)シリーズも『ホビット』(’12)シリーズも『死霊館』(’13)シリーズも、この『エルム街の悪夢』の大成功がなければ存在しなかったかもしれない。■

『エルム街の悪夢』© The Elm Street Venture