“キング・オブ・ロックンロール”!ギネスが認定する、「世界で最も売れたソロアーティスト」である、エルヴィス・プレスリー。
1935年1月8日生まれ。幼い頃から、ブルース、ゴスペル、R&B、カントリーなど様々な音楽の洗礼を浴びた彼は、それらすべてを吸収し、新しい時代の音楽だった“ロックンロール”シーンを切り開いていった。彼が居なかったら、ビートルズもクイーンも、存在しなかったなどとも言われる。
1950年代中盤から70年代まで、紆余曲折ありながらも、高い人気を誇った。しかし77年、突然の心臓発作で、42歳でこの世を去ってしまう。そのあまりにも早すぎた死もあって、エルヴィス・プレスリーは、今でも語り継がれる存在となっている。
そんな男の伝説的な生涯を描くことにチャレンジしたのは、オーストラリア出身のバズ・ラーマン監督。『ダンシング・ヒーロー』(92)で監督デビュー後、ハリウッドに招かれ、『ロミオ+ジュリエット』(96)『ムーラン・ルージュ』(2001)などで、第一線に躍り出た。
ラーマンの少年時代、家族が経営する映画館では、毎週土曜にエルヴィスの主演作を上映していた。彼は早くから、“キング・オブ・ロックンロール”の魅力に、触れてきたのである。
ラーマンはエルヴィスの人生を、「3つのステージに分かれていて、それぞれ50年代、60年代、70年代にぴたりと収まる…」と分析。エルヴィスを背景に、50~70年代のアメリカを描くことを目指した。
エルヴィスは、貧しい白人の家庭に生まれて、黒人コミュニティの側で育った。そんな出自があってこそ、多様な音楽を呑みこみ、スーパースターに上り詰めたのである。
「人種問題を扱わずに、エルヴィス・プレスリーを語ることはできない…」
それが本作を作るに当たっての、ラーマンの決意だった。
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1997年。エルヴィス・プレスリーの元マネージャー、トム・パーカー大佐は、死の床に就いていた。薄れていく意識の中で、彼は、エルヴィスとの日々を振り返っていく。
54年、カントリー歌手のマネージャーだったパーカーは、ツアー先でエルヴィスと出会う。まるで黒人のように歌う白人歌手で、腰をくねらせて歌い踊る姿に、女性ファンは熱狂した。
専属マネージャーとなったパーカーは、その手腕で、エルヴィスを全米の人気者へと、仕立て上げる。エルヴィスは、初のNo.1ヒット「ハートブレイク・ホテル」から、スター街道を驀進する。
それと同時にエルヴィスは、“骨盤ダンス”“黒人のマネ”などと揶揄もされ、白人の権力者たちからは、敵視される存在となった。パーカーは、エルヴィスの刑務所送りを回避するために、徴兵令に応じさせる。エルヴィスは、2年間の兵役を務めることとなった。
軍隊生活を終えて、復帰したエルヴィスの主戦場はハリウッドとなる。しかし社会変革の波が押し寄せ、音楽の世界にもビートルズなどが登場した60年代後半になっても、パーカーの方針で、似たようなストーリーの、安手な作品に主演を重ねることとなる。音楽活動もパッとせず、エルヴィスは段々と、時代遅れの存在となっていく。
キング牧師、ロバート・ケネディ上院議員が相次いで暗殺された1968年。この年の12月に、エルヴィスはTVの特別番組に出演する。クリスマス・ソングを歌えというパーカーの強要を無視。自らの音楽的ルーツを探り、アイデンティティーを見直すチャレンジを行い、見事復活を果たしたのだが…。
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大きな注目を集めたのは、“キング・オブ・ロック”エルヴィス・プレスリーを、誰が演じるのか?大役を射止めたのが、オースティン・バトラーだった。
エルヴィスが逝ったのは、1977年8月16日。バトラーが生まれたのは、その14年と1日後の91年8月17日だった。子ども時代から父と一緒に名作映画を観ていたバトラーは、10代の頃からTVドラマや映画に出演。憧れの俳優は「ジェームズ・ディーンとマーロン・ブランド」だった。
そんなバトラーが、クエンティン・タランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)の出演を終えた、2018年の暮れ。ロスの街を車で走っていたら、エルヴィスのクリスマスソングが流れてきた。その時、同乗していた友人が言った。「いつか君はエルヴィスの役を演じるべきだ」
その数週間後に、同じ友人の前でピアノの弾き語りを披露すると、更に熱くプッシュされた。「何とか映画化の権利を手に入れてでもエルヴィスを演じてくれ」と。
数日後、バズ・ラーマンがエルヴィスの映画を作るという情報が、バトラーの元に届いた。もちろんオファーなど、受けたわけではない。しかしこのタイミングに運命的なものを感じた彼は、「自分のもてるすべてを捧げ、役をつかもう」と、決心したのだった。
エルヴィスのファンだった祖母の家で、子ども時代にその楽曲や主演映画に慣れ親しんでいたというバトラー。『エルビス・オン・ステージ』(1970)をはじめ、手に入る限りのドキュメンタリーやライブ映像を見て、関連する書籍も読み漁った。
そんな中で、自分が母を亡くした23歳の時に、エルヴィスも最愛の母を失ったことを知ったという。
本格的なオーディションなどが行われる前に、自らがエルヴィスの曲を歌った映像を撮って、ラーマン監督に送ることを決めた。最初は初期の代表曲「ラブ・ミー・テンダー」をと思ったが、いざ撮影してみると、単なるモノマネのようにしか思えず、恥ずかしくなってしまった。
そんな時に、亡き母が死にそうになる悪夢を見た。完全にダウナーになったバトラーは、その気分を何かにぶつけようと、ピアノを弾きながら歌ったのが、「アンチェインド・メロディ」。エルヴィスがコンサートなどで、再三披露した楽曲だ。バトラーは、恋人に向けられたその歌詞を、母に捧げるように、歌ってみせた。
ラーマン監督は語っている。「オースティンが涙を流しながら『アンチェインド・メロディ』を歌う録画テープを送ってきたんだ…」。
また、それを見たすぐ後、ラーマンの元に、それまでまったく知り合いではなかった“名優”から、電話が入った。電話の主は、デンゼル・ワシントン。ブロードウェイで共演したバトラーのことを、エルヴィス役に推す内容だった。
ラーマンは、バトラーと会うことを決めた。ニューヨークへと呼ばれたバトラーは、その初日にラーマンと、エルヴィスや彼の人生について3時間ほど話した。その後、台本読みや様々なスクリーンテスト、音楽や演技のワークショップを経て、数か月後正式に、エルヴィス役を射止めたのだった。
バトラーが、エルヴィスになり切るための日々が、本格化する。週6日のヴォイストレーニングは、1年以上続いた。
そうした訓練のかいもあってか、本作では、60年代以前の若い頃のエルヴィスの歌声は、バトラーのものを主に使用。時折エルヴィスとバトラー、2人の声を融合させている。
さすがに晩年近くの、力強く象徴的なヴォーカルは、エルヴィス本人の声を使う他はなかったが。
エルヴィスの細かい所作を徹底的に叩き込む役割を果したのは、ポリー・ベネット。『ボヘミアン・ラプソディ』(2018)で、ラミ・マレックがフレディ・マーキュリーになり切ることをサポートした実績の持ち主だ。
バトラーは、エルヴィスがインスパイアされたアーティストたちについても、徹底的にリサーチ。ビッグ・ママ・ソーントン、シスター・ロゼッタ・サーブ等々。更には、スピリチュアル音楽、オペラなど、エルヴィスに影響を与えた音楽を聴きまくった。
ラーマンと共に、ナッシュビルにロードトリップへと出掛けたのも、役作りの一環。バトラーは初めて、エルヴィスの妻だったプリシラ・プレスリーと会い、テネシー州メンフィスに在るエルヴィスの邸宅、グレイスランドを歩き回ったりした。
また、エルヴィスが270曲以上吹き込んだRCAスタジオを訪れた際は、彼が実際に使っていた機材で「ハートブレイク・ホテル」をレコーディング。その際にラーマンは、RCAの社員たちをスタジオに呼び込み、観客役を務めてもらった。バトラーは「見知らぬ人を前にしてパフォーマンスをする感覚」を、そこで体得したという。
本作は、2020年春の撮影開始が予定されていたが、コロナ禍で中断。そうした期間を含め、バトラーは3年近く、エルヴィス・プレスリーという役作りに取り組むこととなった。
本作で“信用できない”語り手を務めるのは、トム・パーカー大佐。エルヴィスは、パーカーとの縁を切ろうと再三試みるも、彼に多額の借金をしていたことから、結局は言いなりになる他はなかった。70年代に入って、ラスベガスのホテルでショーを続ける内に激太り。1977年8月に心臓発作に襲われて最期を遂げる。
ラーマン曰く、「“大佐”であったことはなく、“トム”でも“パーカー”であったことも一度もない」「音楽を聴き分ける耳を一切もち合わせていなかった」という、この世にもいかがわしい人物は、1909年オランダ生まれ。父を亡くした後、20歳の時に、アメリカに不法入国したとされるが、母国で殺人の嫌疑をかけられたため、アメリカに逃亡したという説も唱えられている。
国籍を取るために軍に入り、除隊後に、トム・パーカーと名乗るようになった。“大佐”というのも、愛称に過ぎない。エルヴィスが終生世界ツアーに出られなかったのは、パーカー大佐が、アメリカ合衆国のパスポートを保持していなかったためである。
パーカーは、音楽的センスは皆無だったが、エルヴィスのショーが若い観客に与える影響に魅了されたと、本作では描かれる。ラーマン監督はエルヴィスとパーカーを、「モーツァルトとサリエリのような関係…」と解釈。死の床にあるパーカーが、エルヴィスとの日々を回想する構成は、舞台から映画にもなった『アマデウス』(1984)から頂戴している。
難役である、このトム・パーカー大佐を演じたのは、アカデミー賞主演男優賞に2度輝く、トム・ハンクス。彼のキャリアでは極めて稀な、本格的な“悪役”と言える。
ハンクスのパーカー評は、「…天才であり、悪人でもあった。自制心の強い男であり、非常に賢いビジネスマンでもあり、10セント硬貨すら惜しむケチであったが、エルヴィス・プレスリーが登場するまで存在しなかった大型ショービジネスを開拓したパイオニアでもあった」というもの。
ハンクスはこの役を研究するために、プリシラ・プレスリーと話した。パーカーはエルヴィスの死後に、裁判でマネージャーとしての悪事を暴かれ、ギャンブル癖により財産を散財して亡くなっている。ハンクスはプリシラから、そんなパーカーへの不信感を聞けると期待したが、彼女のパーカー評は、予想とは違ったものだった。
「彼はすばらしい人だった。今も生きていてくれたらいいのにと思う。私たちをとても大切にしてくれた。そして、それなりに“悪党”だった」
本作の撮影のほとんどは、オーストラリアはゴールドコーストのスタジオで行われた。バトラーが最初に撮影したのは、本作のクライマックスである、1968年12月のTVショーのシーンからであった。スタジオには、グレイスランドから、70年代にエルヴィスが伝説的なステージを行う、インターナショナルホテルのステージまで、見事なセットが組まれた。
本作の全米公開日は、エルヴィスの死後45年が経った、2022年の6月24日。バトラーの演技は、アカデミー賞の主演男優賞にノミネートされるなど絶賛され、ゴールデングローブ賞の授賞式の際は、徹底した役作りの影響で、エルヴィスの南部訛りが抜けていないことが、話題となった。
バトラーはその後、『デューン 砂の惑星PART2』(2024)など出演作が目白押し。順調にスター街道を歩んでいる。
バズ・ラーマン監督は、『ダンシング・ヒーロー』『ロミオ+ジュリエット』『ムーラン・ルージュ』で見せた絢爛豪華で「クレイジーな語り口」は抑えながらも、自らの特質を活かして、新たな“ロック伝記映画”のスタイルを確立したと、高く評価された。
エルヴィス・プレスリーという“伝説”の映画化によって、バズ・ラーマンとオースティン・バトラー、2人のキャリアには、それぞれの新たな1頁が開かれたのである。■
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