本作『ゲッタウェイ』(1972)の監督は、サム・ペキンパー。その異名“血まみれサム”は、多くの方がご存知の通り、彼の作品の特徴である、血飛沫飛び散るヴァイオレンス描写に由来するものである。
 しかし“血まみれ”なのは、撮影現場やスクリーン上だけの話ではなかった。ペキンパーは常に、製作会社やプロデューサーと、血で血を洗う戦いを繰り広げていた。その戦いについて、彼は本作が製作・公開された年のインタビューで、こんな風に語っている。
「西部のガンマンの対決なんか、製作費の問題での対決にくらべれば屁みたいなものさ。俺はいつもケチなプロデューサーを相手に、嘘をつき、ゴマ化し、チョロマカす。でもこれまで大方、この闘いは負けだった。いつも、プロデューサーとケンカして、クビさ。じっさい、この世界には、寄生虫やハイエナがウヨウヨだ。殺されるなんてものじゃない。生きたまま食われちまうんだぜ」
 そんな血みどろの戦いの中で、“血まみれサム”は自らのスタッフをも、次々と血祭りに上げたことでも、知られる…。

 ドン・シーゲル門下ということでは、現代の巨匠クリント・イーストウッドの兄弟子に当たる、ペキンパー。1925年生まれの彼が、TVドラマの西部劇シリーズなどを経て、映画監督としてのスタートを切ったのは、齢にして30代中盤だった。
 デビュー作は、『荒野のガンマン』(60)。それに続く『昼下がりの決斗』(61)では、興行的な成果こそ得られなかったものの、新しい時代の西部劇の担い手として、注目されるに至った。
 そしてこの作品では、フィルムを大量に回し、膨大なそのすべてを把握して編集するという、彼一流の手法が、確立した。ペキンパー組の常連俳優だったL・Q・ジョーンズ曰く、「脚本を壊し、全てを断片にし、それから組み合わせる」やり方である。
 続いて手掛けたのが、『ダンディー少佐』(65)。主演のチャールトン・ヘストンが、『昼下がりの決斗』に感銘を受けたのが、ペキンパー起用の決め手となった作品だ。
 しかし『ダンディー少佐』は、ペキンパーに悪名を与える、決定打となった。いわく、「予算もスケジュールも守らない」「スタッフに過大な要求をし、出来なければ情け容赦なくクビにする」「大酒飲みのトラブルメーカー」といった具合に。
 製作したコロムビアと大揉めに揉めたこの作品では、ペキンパーは最終的に編集権を奪われる。そして彼が編集したものより、大幅に短縮された作品が、公開されるに至った。
 このパターンは、その後のペキンパー作品について回る。しかしそれ以前の段階としてペキンパーは、『ダンディー少佐』から4年以上の間、干されることとなった。

 雌伏の時を経て、ペキンパーが69年に放ったのが、代表作『ワイルドバンチ』である。
この作品でペキンパーは、彼の代名詞とも言える、銃撃戦などアクションを“スローモーション”で捉える手法を、初めて用いた。これが、「デス・バレエ=死の舞踏」などと評され、正にペキンパーの「血の美学」が、世界中にセンセーションを巻き起こしたのである。
 後に続くフィルムメーカーたちに多大な影響を与え、映画史に残るマスターピースとなった『ワイルドバンチ』。しかしこの作品も、ペキンパー作品の辿る悪しきパターンから、逃れられなかった。
 ペキンパーが当初完成させたバージョンは、2時間24分だったが、公開後興行成績が思ったほど伸びなかったため、製作元のワーナーはペキンパーに無断で、フラッシュバックなどをカット。2時間12分版を作って、全米の劇場に掛けたのである。
 それはともかく、『ワイルドバンチ』で悪名以上の勇名を得たペキンパーは、続けて「恐らく私のベストフィルム」と胸を張る、『ケーブル・ホーグのバラード』(70)(日本初公開時のタイトルは『砂漠の流れ者』)を完成。更にダスティン・ホフマンを主演に迎え、イギリスで撮影した初の現代劇『わらの犬』(71)では、その暴力描写が、賛否両論の嵐となった。

 キャリア的には正にピークを迎えんとするタイミングで、ペキンパーは、当時名実と共にNo.1アクションスターだった、スティーヴ・マックィーンと組むことになる。その作品は西部を舞台に、ロデオの選手を主人公にした現代劇、『ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦』(72)。ペキンパーのフィルモグラフィーでは、銃撃と死体の登場しない、唯一の作品である。
 実はペキンパーはこの作品以前に、マックィーンとの邂逅があった。それはマックィーンがポーカーの名手を演じた、『シンシナティ・キッド』(65)である。時期的には『ダンディー少佐』で、悪名を轟かせた直後。そしてペキンパーは、『シンシナティ・キッド』の撮影開始から1週間足らずで、監督をクビになったのである。
 この時マックィーンは、ペキンパーの解雇に同意したという経緯があった。『ジュニア・ボナー』で、そんなペキンパーとの因縁の組み合わせが決まった時のことを、後にマックィーンはこう思い起こしている。
「俺はいつも完璧主義者だから、多くの人の頭痛の種だったし、サムも悪評高かった。彼と俺で、大したコンビさ。スタジオ側は頭痛薬をたっぷり用意してたと思うよ」
 いざ『ジュニア・ボナー』の撮影が始まると、2人の間には最初こそ緊張感が生じたものの、次第に解消していったという。マックィーンが頻繁に自分の登場シーンを書き換えることで、対立などもあったが、両者の関係は概ね良好だった。
 ペキンパーはマックィーンについて、「…奴のことを好きな人間はあまりいないみたいだが、私は好きだね」と語っている。一方でマックィーンは、「サム・ペキンパーは傑出した映画作家だ…」と、リスペクトを表明している。
『ジュニア・ボナー』は、評判の高さに比して、興行は期待外れに終わった。しかしマックィーン×ペキンパーの両雄は、続けて組むこととなる。
 それが、本作『ゲッタウェイ』である。

 ジム・トンプソンの犯罪小説を映画化するというこの企画は、『ローズマリーの赤ちゃん』(68)『ゴッドファーザー』(72)などのヒット作を手掛けた、パラマウントのプロデューサー、ロバート・エヴァンスがスタートさせた。ペキンパーに監督させるというプロジェクトだったのだが、不調に終わり、一旦ご破算になった。
 続いてパラマウントの別のプロデューサーが、マックィーン主演作として企画を進めることとなったが、それも頓挫。マックィーンは、ポール・ニューマンやシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドらと設立した製作会社ファースト・アーティストの第1回作品として、本作の製作を決める。
 脚本は、原作者のトンプソン自らが手掛けたが、マックィーンがその内容を気に入らず、没に。当時新進の脚本家だった、ウォルター・ヒルが担当することとなった。
 マックィーンが、監督の第一候補と考えていたのは、ピーター・ボグダノヴィッチ。当時『ラスト・ショー』(71)で高い評価を得ていた、新進気鋭の若手監督だった。しかしスケジュールの問題などで、実現せず。
 そこで白羽の矢が立てられたのが、ペキンパーだった。彼にとっては、元より興味があった企画の上、次なる監督作として取り組んでいた『大いなる勇者』『北国の帝王』などが、諸事情によって、他の監督の手に渡ってしまったタイミング。そこで『ジュニア・ボナー』に続けて、マックィーンと組むこととなった。

 テキサスの刑務所に、銀行強盗の罪で服役していた男が、10年の刑期を半分も務めることなく、4年で仮釈放となった。男の名は、ドク・マッコイ(演:スティーヴ・マックィーン)。迎えに来た妻キャロル(演:アリ・マッグロー)と、4年振りの熱い夜を過ごす。
 ドクの早すぎる仮釈放は、地方政界の実力者ベニヨン(演:ベン・ジョンソン)との裏取引によるもの。出所と引き換えに、田舎町の小さな銀行を襲って、その分け前をベニヨンに納めるという約束だった。
 ベニヨンはドクに、銀行強盗の仲間として、ルディ(演:アル・レッティエリ)、ジャクソン(演:ボー・ジャクソン)という2人を引き合わせる。綿密な計画が立てられ、キャロルを含めて4人での、決行の日がやってくる。
 すべてがスムースにいくと思われたが、青二才のジャクソンが、銀行の守衛を射殺したことから、全ての歯車が狂い出す。ドクとキャロル、ルディとジャクソンの二手に分かれて逃走を図るも、ルディはジャクソンを突然射殺。集合場所でドクも撃ち殺して、金を独り占めしようと図るが、気配を察したドクに、逆に撃ち倒される。
 ドクは黒幕のベニヨンの元に、取り引きに行く。ベニヨンは、今回の銀行強盗の裏事情を明かし、ドクを釈放させた背景に、キャロルとの情事があることを仄めかす。ショックを受けるドクの背後に、突然キャロルが現れた。そしてベニヨンに、銃弾をぶち込む。
 互いに傷つき、その絆が揺らぎながらも、逃避行を続けるドクとキャロルの夫婦に、次々とアクシデントが襲い掛かる。更にはベニヨンの手下たち、そしてドクに撃たれながらも、生きながらえていたルディが、追っ手となって迫る。
 ドクとキャロル、犯罪者の夫婦が大金を手にしたまま国境越えを目指す、“ゲッタウェイ”逃走劇は、果して成功するのか!?

 キャロル役のアリ・マッグローは、白血病のヒロインを演じて観客の涙を絞った『ある愛の詩』(70)が、大ヒットして間もない頃。私生活では、本作を当初プロデュースする予定だったロバート・エヴァンスと、結婚生活を送っていた。本作のヒロインにキャスティングされたのも、その流れからと思われる。
 ところが『ゲッタウェイ』の撮影中、マッグローは、前妻と15年の結婚生活にピリオドを打ったばかりのマックィーンと、恋に落ちてしまう。結局マックィーンによる略奪婚という形で、マッグローはエヴァンスと別れ、撮影終了後に2人は夫婦となった。
 72年2月にクランクインした本作は、そんなスキャンダラスな話題も交えながら、順撮り、即ち物語の進行の順番通りに、撮影を進めていった。そして5月には、クランクアップ。予算的にもスケジュール的にも、ペキンパー作品としては大過ない、進行と言えた。
 しかしポストプロダクションで、トラブる。ペキンパーは、『ワイルドバンチ』『わらの犬』に続いて、音楽をジェリー・フィールディングに依頼するも、完成したスコアは、マックィーンの意向で、すべて差し替え。画面を彩ったのは、クインシー・ジョーンズのジャズっぽいスコアとなった。
 更にマックィーンは、最終編集権をペキンパーには渡さずに、作品を完成させた。アクション映画の諷刺を目指して本作に挑んだというペキンパーは、完成版を目にした時に、「これは俺の映画じゃない!」と、叫んだと伝えられる。
 本作の次に撮った『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(73)では、MGMの判断で勝手に編集が行われた際、ペキンパーはその経営者に、メキシコから殺し屋を差し向けようとまで思い詰めたという。それでは本作のマックィーンに対しての怒りは、どんな形で発露されたのか?
 意外や意外、2人の友情は、その後も続いたという。それは一体、なぜだろうか?

 一見、いつもの悪しきパターンにはまり込んだかのような『ゲッタウェイ』だったが、興行の結果が他のペキンパー作品とは、大きく違った。彼のフィルモグラフィーに於いて、最大のヒット作となったのである。
 ペキンパーは、興収から多額の歩合も貰える契約を、マックィーンと結んでいた。これでは、矛を収める他はなかったのかも知れない。
 だが、そんな裏事情を敢えて無視して、本作を眺めてみよう!すると、ごく単純化されたストーリーラインの中で、至極楽しめる極上の娯楽作品となっていることが、わかる。
 公開時は、42才。ノースタントのアクションスターとして、まさに脂が乗り切っていた、マックィーンの身のこなし。そして、銃器の扱いに関しては、右に出る者がないと言われた彼が魅せる、ガンアクション。
 ペキンパーは、47才。お得意の“スローモーション”を駆使した、ヴァイオレンスシーンの演出に磨きがかかり、観る者の度肝を抜く。
 本作では、そんな両者の技能が、まさに融合。“映画的瞬間”を、作り出しているのである。
 そして2021年の我々は、知っている。1972年にピークを迎えた、2人のその後の運命を。
 マックィーンはこの後、たった8年しか生きられず、50歳でこの世を去ってしまう。ペキンパーの余命も、あと12年。60才を迎える前に、彼の心臓は止まってしまう。
 そんな彼らが全盛期に手を組んで、輝きを放つ、『ゲッタウェイ』。今こそ感慨を新たに、フィルムに焼き付けられた、2人の“黄金時代”を、凝視したい。■

『ゲッタウェイ』© Warner Bros. Entertainment Inc.