COLUMN & NEWS
コラム・ニュース一覧
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COLUMN/コラム2009.09.11
『1Q84』を読んだら『イーオン・フラックス』を観よう
“オーウェリアンSF”というジャンルがある。SF好きの人にとっては、何を今さら・・・という感があるかもしれないが、この“オーウェリアン”なる言葉はイギリスの作家、ジョージ・オーウェルが1948年に執筆したという著作『1984』から生まれた。(イギリスでの発売は1949年)『1984』は、思想や言語、結婚などあらゆる市民生活が「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビによって政府当局に監視されている、恐るべき1984年の近未来社会を描いた小説である。そこから、極度な管理社会を舞台にしたSFのことを“オーウェリアン”と呼ぶようになり、映画、小説、漫画、舞台などでその世界観が描かれてきた。『イーオン・フラックス』は、ピーター・チョンによるアニメ作品を映画化したオーウェリアンSF。舞台は致死性のウィルスが発生して、人類のほとんどが死滅した2415年。生き残った人類は、トレバー8世による政府の下で厳密に管理され、汚染された外界と壁で隔てられた都市、ブレーニャで何不自由なく生活している。 しかしいつの時代にも、反政府分子は生まれるもの。今作ではそれが、“モニカン”という組織である。シャーリーズ・セロン演じるイーオンはモニカンの女戦死で、彼女は妊娠したばかりの妹が反政府分子として抹殺されたことをきっかけに、復讐のためにモニカンの一員となったのだ。そして政府の厳重なセキュリティを解除する方法を見つけたモニカンから、命令を受けたイーオンは要塞に乗り込み、意外にあっさりとトレバーを見つけ出す。しかし、彼を殺そうと銃を突きつけた瞬間、トレバーと自分が恋人同士のように一緒にいる場面が脳裏に浮かび、動揺した彼女は逆に捕らえられてしまうのである。この脳裏に浮かんだ場面、というのがこの映画のキモ。ここから映画は急展開して、なぜ脳裏にそんな場面が浮かんだのかを探るうちに、イーオンは、本当の自分は何者で、どこからやってきたのかを知ることになる。さて、今回当チャンネルがお送りする『イーオン・フラックス』は、編成部が先見の明で選んだのか、単なる偶然なのかはさておき、ここ日本でオーウェリアンSFは、今もっとも注目を集めているジャンルなのである。というのも、映画化で話題になった浦沢直樹氏のコミック『20世紀少年』も、絶対君主“ともだち”が統治するオーウェリアン的世界を描いた作品であるし、200万部を突破した村上春樹氏の大ベストセラー『1Q84』は、冒頭に書いたジョージ・オーウェルの小説『1984』をもじったものである。僕はまだ読んでいないので、詳しいところはわからないが、内容もその世界観を土台に構築したものであるらしい。また村上氏は過去の著作、『世界の終わりと、ハードボイルドワンダーランド』でもオーウェリアンの世界観を組み込んでいる。もちろん、日本の小説や漫画だけではなく、オーウェリアンものは『イーオン・フラックス』のほかにも多数映画化されており、SFジャンルの一つとして確立されている。ルーカスの記念すべきデビュー作『THX-1138』、トリュフォーによる『華氏451』、スピルバーグの『マイノリティ・リポート』、マイケル・ベイによる『アイランド』、そして、カート・ウィマーという、ここまであげてきた大物監督に比べれば1ランク落ちる監督が撮った、しかしオーウェリアンSFの最高傑作とのマニア評がある『リベリオン』、などなどなど。これらで描かれる高度管理社会を観ると、“空想上の世界”というよりは、われわれが生きている世界をほんの少し誇張、あるいは時計の針を進めた形に過ぎないと感じる人は、けっして少なくないはずである。オーウェリアンもののメッセージ性は、時代を追うごとに増していると言える。それゆえ、『イーオン・フラックス』をはじめとするオーウェリアン作品は妙なリアリティを持って観るものに迫ってくる。このオーウェリアン的世界を肯定するのか、あるいは否定するのかで、その人生はずいぶんと異なってくる。高度管理社会で何不自由なく平穏に暮らすことは、ひとつの幸せでもある。一見、それはユートピアのように見える。しかし、何不自由なく平穏に暮らせる世界は、一方で生きることに必要でない“無駄”をなくす世界であり、必要以上の感情の起伏や芸術は必要とされない世界である。トリュフォーが『華氏451』のなかで、書物を無駄なものとして描いたのはその良い例だろう。高度に管理された何不自由ない社会は本当にユートピアなのか? それはディストピアではないのか?人はそう考え、管理社会に危険を感じるからこそ、“オーウェリアン”はこれほど描かれるのである。それにしても、映画、漫画、そして小説の世界で活躍する超一流の作家達が、こぞって"オーウェリアン"ものを作るということは、世界はそういう方向に間違いなく進んでいるということなのだろうか?人類への警鐘というと大げさに聞こえるものの、けして人ごとでも、ずっと未来の話でもないのかもしれない。歴史的な政権交代が決まった今日この頃、『イーオン・フラックス』を観た僕は、ちゃんと政治に興味持たなきゃと思ったのでした。■(奥田高大) © 2005 Paramount Pictures. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2009.08.31
世界は姫で回ってる『プリティ・プリンセス』
高校球児が甲子園に憧れるように、競馬好きが万馬券を願うように、世の女性はおしなべてお姫様になることを夢見る。古くは1937年のディズニーアニメ『白雪姫』から「Someday My Prince will come」(いつか王子様が)という名曲が生まれ、近年の日本では執事喫茶なるものが増殖していることからもわかるように、これは誰がなんと言おうが、疑いようのない事実である。※執事喫茶とは?メイドが「ご主人様」と迎えてくれるメイド喫茶に対し、執事が「お帰りなさいませ、お嬢様」と迎えてくれる喫茶店。心ゆくまでプリンセス気分が味わえる・・・らしい映画『プリティ・プリンセス』は、そんな地球上に生きとし生ける女子の夢を、そのまま形にしちゃったディズニー映画である。芸術家の母と二人で暮らす、冴えない女子高生ミア(アン・ハサウェイ)。彼女のもとに、ある日、父方の祖母クラリス (ジュリー・アンドリュース)から連絡が入る。両親はすでに離婚していたが、ミアの父が事故で急逝したため、ヨーロッパからわざわざ会いにやってくるというのだ。そこでミアは驚きの事実を告げられる。「ミア、実はあなたはプリンセスなのよ」 キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!ところが。目立つのが大の苦手で、コンプレックスもあるミアはなんと王位継承権を放棄しようとする。しかし祖母であり、ヨーロッパのとある小国の女王でもあるクラリスから、間もなく開催される舞踏会の日までプリンセス教育を受け、その上で、ミアが自分の将来を決断すればいいと説得されてしまう。舞踏会当日、ミアが選んだ道は普通の女子高生に戻ることなのか、現実を受け入れて、本当の自分と向き合うことなのか。と、まあこんなストーリーの『プリティ・プリンセス』を、国王でも王子でも執事でもない僕が観た感想。それは「僕も姫になりたい!」というものである。あ、ウソ。間違い。 『プリティ・ウーマン』以来、まともなシンデレラ・ストーリーに飢えてる人は、これを観ろ!というものである。1960年代の『マイ・フェア・レディ』を筆頭に、この手のシンデレラ・ストーリーは、言わば、焼き魚定食とか、鶏の唐揚げ定食みたいな、メニューにあったら、一人は必ず注文してしまう、定番中の定番である。しかし、その一方で、スタート直後はあんまりハッピーじゃなかった女の子が、エンディングではハッピーになってキレイになるという流れが決まっている物語だけに差別化が難しいし、こちらとしてもどれを観ればいいのかよく分からない。その辺を『プリティ・プリンセス』の制作陣も重々承知しており、かなり力を入れたことが容易にわかる。 まず監督は『プリティ・ウーマン』を世に出したゲイリー・マーシャル。彼は『プリティ・ウーマン』以降、ラブ・ストーリーやロマコメなど、女の子をキュンとさせちゃう映画を撮ると、原題がどうあれ、邦題は「プリティ・ホニャララ」になるという、少し奇妙な十字架を背負った人である。(本人はどう思っているのだろう?)女王役にはジュリー・アンドリュースを配置。彼女はかつてミュージカル版『マイ・フェア・レディ』のイライザを演じて記録的ヒットをとばしただけでなく、ディズニー映画の代表作『メリー・ポピンズ』にも出演実績がある。シンデレラ・ストーリーとディズニーに縁があり、これ以上の適役はない。そして肝心のアン・ハサウェイは、『プリティ・ウーマン』時代のジュリア・ロバーツと甲乙つけがたいキュートさ。冒頭の「それは普通ないだろ!」と誰もがツッコみたくなるダサさはやや過剰なものの、見事、今作を大ヒットに導いたのである。さらに、シンデレラ・ストーリー的要素だけでなく、ミアの監視役に命じられた、ヘクター・エリゾンド演じるジョーと女王クラリスとの、淡い大人の恋模様もストーリーに織り込む心憎い演出もある。これによって、「アン・ハサウェイは若くていいわねえ・・・」とため息をつく世代のハートもしっかり掴むことに成功。まさにかゆいところに手が届く、至れり尽くせりな作りになっている。そうそう余談ですが、ここでいつもとは違ったシンデレラ・ストーリーも観てみたい!という方のために、ひとつご紹介しておきたい。その名は2004年公開の『プリティ・ガール』9月のザ・シネマでは、5日(土)に、『プリティ・プリンセス』を放送する直前枠にてこの作品も放送する。また24日(木)にも放送するが、その翌日には『プリティ・プリンセス』をオンエアする。ぜひ、セットでご覧いただきたい。訊かれる前に説明しておくと、「プリティ・ホニャララ」なタイトルがついているものの、ゲイリー・マーシャルはまったく関係ありません。で、内容はというと、いわば玉の輿バージョン。王室の生活から逃れるため、アメリカ留学にお忍びでやって来たデンマークの皇太子が、普通の大学生に心惹かれていく・・・というもの。シンデレラ・ストーリー好きの方は、『プリティ・プリンセス』とあわせてお試し頂きたい。さらに最後にもうひとつ。次なるシンデレラ・ストーリーの誕生時期について、気になる情報をご報告します!つい最近、ジュリア・ロバーツ、アン・ハサウェイの新旧シンデレラが共演する映画『Valentaine's Day(原題)』の製作が決定したという。もちろん監督はゲイリー・マーシャル。これは必見でしょう!そこで、この場を借りて配給会社の方にお願いしたい!『Valentaine's Day(原題)』を日本で公開するときは、ぜひ『プリティ・バレンタイン』みたいなタイトルをつけちゃってください!楽しみにしてます!(奥田高大) ©Disney Enterprises Inc.
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COLUMN/コラム2009.08.21
男たちの誇りが、テキサスを変える。『アラモ』
「アラモの戦い」はアメリカ人が米国史を語る上で欠かせない出来事だという。それは、テキサス革命における激戦の一つだ。1835年に始まったテキサス革命とは、メキシコの一州(これが後のテキサス共和国となり、さらに後にアメリカ合衆国の一州となる)が、当時のメキシコのサンタ・アナ大統領による独裁体制下から独立を果たそうとして起こした戦争のことをさす。この革命には有名な2つの戦いがある。負け戦となった「アラモの戦い」と、「サンジャシントの戦い」と呼ばれる勝利戦だ。今回放送する『アラモ』では、タイトル通り、「アラモの戦い」の描写が映画全体の約8割を占めている。単純に考えれば勝利戦「サンジャシントの戦い」の方を描きそうなものだが、テキサス革命においては、この敗北がなければ独立できなかったという点で、「アラモの戦い」の方が象徴となっているのである。映画『アラモ』には、魅力的なリーダーが4人登場する。 ■ジム・ボウイ ジム・ボウイは、有名な“ボウイナイフ”にその名を留めることになるほどの、ナイフの名手。情熱的で自由な心を持ち、優しい人柄も評判だった。 ■ウィリアム・トラヴィス ウィリアム・トラヴィスは、中佐に就任したばかりの青年で、後に病にかかるボウイに代わり、軍の指揮を任される。短気で反抗心が強い性格ゆえ部下に疎まれるが、次第に立派な指揮官へと成長してゆく。 ■デイヴィ・クロケット デイヴィ・クロケットは元下院議員。頭が良く、ボウイ同様に軍の仲間に頼りにされる存在。残念ながら彼らは「アラモの戦い」で戦死するが、それはある意味で当然のことだった。なぜならメキシコ軍1,600人に対してテキサス軍はわずか200人弱。誰が見ても劣勢な戦いに彼らは挑んだのだ。 ■サム・ヒューストン そして、4人目のリーダーが、サム・ヒューストン将軍である。「サンジャシントの戦い」で、メキシコに比べて少ない兵力にもかかわらず、彼に率いられたテキサス軍は見事勝利をおさめることになるのだ。「アラモの戦い」がテキサス軍を奮い立たせたことは間違いない。それは独立をまさに勝ち取ろうとするとき、ヒューストン将軍が叫んだ「アラモを忘れるな!」という名ゼリフにも現れている。「アラモの戦い」がテキサス軍を奮い立たせたことは間違いない。それは独立をまさに勝ち取ろうとするとき、ヒューストン将軍が叫んだ「アラモを忘れるな!」という名ゼリフにも現れている。ちなみに現在のテキサス州ヒューストンの地名は、この一言で歴史上の人物となった彼の名に由来している。さて、この、映画にするには持って来いの歴史の一幕。最新作は2004年制作だが、1960年にも映画化されている。 1960年版『アラモ』で監督・製作を務め、さらには主役のクロケットを演じたのがジョン・ウェイン。西部劇を代表する大スターがいかに情熱をかけたかは、その熱演ぶりを観ればわかる。2004年版『アラモ』でビリー・ボブ・ソーントンが演じたクロケットは硬派だったが、ジョン・ウェインはそれよりも幾分か軟派な印象。笑顔も多く、パーティで喧嘩をふっかけられ、殴っても殴られてもニコニコしている。この、なんとも憎めないクロケットの人物像にスポットライトを当てているのも、旧『アラモ』の特徴のひとつだ。だけど私は、個人的には2004年ビリー・ボブ版クロケットも捨てがたい。冒頭からカッコイイ〜と見とれていたクロケットが、最後にもばっちりキメてくれるから。彼が戦死する間際のシーンが、とても印象的なのだ。サンタ・アナに捕らえられてしまい、命を奪われるのも時間の問題、というその時。格好良い彼が「覚えてろよ、コノヤロウ!」なんてダサい台詞を吐くはずもない。「忘れるな。俺は...叫ぶ男だ」「うぁぁぁぁぁーーーーーっ」クロケットが叫ぶ。命尽きる直前に「叫ぶ」なんて、予想もしなかった。暴力を振るうでもなく、黙っているわけでもなく、命尽きる前の叫びが、世界に響く瞬間。鳥肌が立つほど痺れた。あの数秒間が2004年版『アラモ』のベストシーンと言って過言ではない。そのシーンは見ていただくとして、男たちの「誇り」。それが、この新旧『アラモ』に共通した、一貫したテーマではないだろうか。『アラモ』の4人のリーダーたちを突き動かしたのは「誇り」にほかならない。私は、そこにはやはり、なんとも形容できない美しさがあると感じてしまう。メキシコで、アメリカ人(正確にはアメリカ系メキシコ人)が独裁者に弾圧されている。彼らの心にある、アメリカ人であることの「誇り」が、怒りに火をつけ、ある者はテキサスで蜂起し、またある者ははるばるアメリカ本国からはるかメキシコのアラモまで救援にやって来たのだ。私ごとながら、在日韓国人の私は、幼い頃から「自分の民族に誇りを持ちなさい」と言われ続けて育った。しかし、ほぼ訪れたことのない土地や、ルーツや、文化を誇りに思えだなんて、いまだに妙だとしか思えない。むしろ日本の素晴らしいところの方が詳しく話せる自信がある。特に日本文化への愛着は、無意識に染みついているものだ。でも、それを誇るって、難しい。これを読む皆さんが「これが私の誇り」と言えることは、何だろう? 仕事や家族などさまざまな「誇り」があると思う。私の「誇り」のひとつは友達だ。とことんマイペースな私をいつも慕ってくれる友人達は、誇りであり、大切なものだ。だけど、国や民族を「誇り」に思える何かは、まだ見つからない。籍がどうこうじゃなく、韓国にせよ、日本にせよ、私が国だとか民族だとかに「誇り」を持てるようになるには、しばらく時間がかかりそうだ。■( 韓 奈侑) 『アラモ(1960)』© 1960 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC. ALL RIGHTS RESERVED『アラモ(2004)』© Touchstone Pictures. All rights reserved
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COLUMN/コラム2009.08.01
アナタ顔出しOK? それともNG? お好みにあわせて選ぶ『悪魔の棲む家』
30超えた男が言うのもなんだけど、僕は高い所とホラー映画が苦手だ。この意見に同意してくれる人はきっと少なくないはずだが、高いところも、ホラー映画もどうしてワザワザ体験したいのかがよく分からない。百歩譲って、高いところはまだ理解できる。気持ちいいとか景色が良いとか。でもホラー映画好きは? 単純に恐いのが好きってことなんだろうか? 少しでもその性質を理解すべくあれこれ調べていると、灯台もと暗し。思わぬところにヒントがあった。アイドルとホラー映画について書かせたら右に出る者はいない、編成部・飯森さんのブログである。「ワタクシどもホラー映画好きなんてのは因果なモンでして、まぁ、たとえて言や、辛いもの好きと似たようなもんです。もう、味覚が狂っちゃってますから。普通の人ならカネくれても食いたくないような、体に毒ってなぐらい真っ赤な色した罰ゲーム級刺激物を、喜んで「美味い美味い」と食う、変な人たちなワケですわ。」なるほど。やっぱりホラー映画好きは変な人らしい。マッサージでよく言う「痛気持ちいい」とか、平城遷都1300年記念事業の公式マスコットキャラクター"せんとくん"に使われる「キモカワイイ」みたいなものだろうか? でも「恐いもの見たさ」という言葉もあるぐらいだから、「恐けりゃ恐いほど満足」する性質ってことなんだろう。完全なMである。ともかく。普段はホラー映画をほとんど観ない僕が、このたび恐れ多くもホラー映画二本立てにチャレンジすることになった。今回、当チャンネルで放送する『悪魔の棲む家』は1978年に出版された『アミティヴィルの恐怖』というノンフィクション(?)を映画化した作品なのだが、この本はニューヨーク州で実際に起こった出来事を基にしたという触れ込みで、当時はかなり売れたらしい。映画は1979年に製作されたいわゆるオリジナル版と、2005年のリメイク版の二作品がとくに有名だが、実はリメイク版が製作されるまでに、6本も続編が作られているようなので、相当コアなファンがいるようだ。でもまあ、それもそのはず。1973年公開の『エクソシスト』以降、映画界は空前のホラー・オカルト映画ブームを迎えることになり、『オーメン』『悪魔のいけにえ』をはじめ、70年代には良質なホラー映画が雨後の竹の子のごとく登場した。『悪魔の棲む家』もまさにその一角。ホラー映画黎明期とでも言うべき時代に作られた、ホラー映画史を語る上で欠かせない金字塔である!と、色んな資料にある。(すみません、なんせホラー映画、苦手なモンですから)二作品を比較すると、ストーリーはオリジナル版、リメイク版ともにほぼ同じ。 湖畔に建つ瀟洒な家で、長男が家族を惨殺する事件が起きる。そして数年後。いわくつきの家に、結婚したばかりのラッツ一家が引っ越してくる。彼らは子連れの奥さんと、新しいお父さんからなる一家なのだが、過去の惨事を知りつつ、お値打ちな価格に負けて家を購入したことから、予想もしない悲劇に襲われてしまうのである。さて、この『悪魔の棲む家』。オリジナル版とリメイク版のもっとも大きな違いは何だと思います? このヒントも前述したブログ「異説!珍説!! 『ダーク・ウォーター』カラムーチョ仮説とは!?」にあるのですが、読んでいない方のためにはしょって説明すると、ホラー映画において、幽霊の顔や姿が見えるか否かはヒジョーに重要なポイントで、それらがハッキリ見えちゃうと、かえって恐くないという理論があるらしい。僕はホラー映画をあまり見ないので、そのときは「ふーん、そうなんだ」とテキトーに読み飛ばしたのだが、『悪魔の棲む家』を続けて見て、図らずもその理論を体験することになった。つまり、『悪魔の棲む家』のオリジナル版とリメイク版のもっとも大きな違いは、幽霊が見えるかどうか、にあるのだ。 二作品共通の恐怖ポイントに、ラッツ一家の末娘、チェルシーだけに見えるジョディという幽霊の存在がある。ジョディは、例の事件で被害にあった女の子のことで、オリジナル版では誰も座っていないはずのロッキングチェアが揺れたり、ドアが突然開いたりと、割とオーソドックスな形でその存在を観客に伝えるのだが、リメイク版では弾丸の痕が痛々しい、いわば惨殺されたて(?)の姿で登場。これは恐い。幽霊は見えないほうが恐いのだ!という理論を否定するワケじゃないけど、『悪魔の棲む家』に限って言えば、僕はリメイク版、つまり幽霊が見えるほうが恐かった。映画全体としても、リメイク版のほうが話がすっきりとしていて、映像のテンポもいい。でもオリジナル版がつまらないかというと、そうじゃない。ホラー映画史に名を刻む傑作だけに、派手さはないが着実に恐怖を煽ってくる、まさに正当派ホラーという印象。どちらも僕のようなホラー映画初心者にとっては、かなりいい入門編となった。しかも、二作品を比較して観ることで、思わぬ発見もあった。それは『悪魔の棲む家』を見比べることで、自分は幽霊が見えるほうが恐いのか、はたまた見えないほうが恐いのかを、リトマス紙的に調べることができたのである。これを知っておけば、今後の人生に大きな影響を与える・・・ほどではないにせよ、少なくともホラー映画鑑賞の際の有力な情報にはなる。たとえば映画館で、「これは(幽霊の)顔出しアリだから恐くなさそう。じゃあ今日は違うやつにしよう」といった具合に、その日の気分にあわせて、間違いのない作品選びができるわけだ。(←ホントか!?)『シャイニング』を観たときも、僕は双子の女の子の幽霊が出てきたときが一番恐かったのを鑑みると、どうやら僕は顔出しNGのようだ。そんなわけで、ホラー映画のリトマス紙として観るも良し、ホラー映画初心者が入門編として観るのも良しな『悪魔の棲む家』。もちろん、これをきっかけにホラー映画好きになれば、これまで知らなかった新しい世界が広がります。マニアも、初心者もぜひ一度おためし下さい。■(奥田高大) 『悪魔の棲む家(1979)』©1979 ORION PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED.『悪魔の棲む家(2005)』©2005 UNITED ARTISTS PICTURES INC. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2009.07.25
最近休んでない・・・と嘆く大人に捧げる『ウォルター少年と、夏の休日』
大人になって良いことなんてほとんどないけれど、大人になって子供の頃の"良いこと"に気づくことは多い。たとえば夏休み。大人になった途端、悲しいかな"夏休み"は親友レベルから、一気に冠婚葬祭のときにしか顔をあわせない、疎遠な親戚レベルの存在へと変貌する。(土産を持った帰省やら、普段できない掃除やら、家族サービスやらに費やされる一週間程度の休みは本当の夏休みとは呼べない)『ウォルター少年と、夏の休日』はタイトルが示すとおり、少年が体験した夏の出来事を描いた作品である。けれど、今作は夏休みを満喫する少年・少女よりもむしろ、休みなんてずいぶんとってないよと嘆く大人たちに観ていただきたい。今作の原題は"SECONDHAND LIONS"という。SECONDHANDとは、"中古の"とか"古びた"といった意味なので、トシ食ったライオンたち、というような意味になる。邦題にケチをつける気はさらさらないのだけど、『ウォルター少年と、夏の休日』という邦題から受ける、極めて健康的・青少年的イメージ(売り方とも言い換えられるが)も間違いではないけれど、それよりも原題のほうがより中身を正しく示唆している。トシ食ったライオンたちとは、ロバート・デュヴァルとマイケル・ケインがそれぞれ演じるハブとガース、二人のジイさんたちである。彼らがなぜトシ食ったライオンなのかは、映画を観ていただくこととして、父のいないハーレイ・ジョエル・オスメントがこの二人が暮らす家に預けられ、ひと夏を過ごすのだが、今作の主役はハーレイではなく、なんと言ってもハリウッドを代表する名優二人が演じるジイさんである。ハブとガースは無免許で飛行機を乗りこなしたり、バーで若者達ととっくみあいの喧嘩をしたり(もちろん圧勝する)、二人には過去に莫大な金を手に入れたという噂があり、そのためにひっきりなしにセールスマンが訪れるのだが、二人は彼らを銃で追い払ったりしてしまう、元気きわまりないジイさんなのである。しかしこれだけなら、ただの格好いいジイさんの話になるのだが、彼らがより魅力的に映るのは、二人は若かった頃の時間がけして戻ってこないことをよく知っていることにある。二人は過去におとぎ話のようなファンタジックな体験をしていて、心の底では今も冒険を追い求めているのだけど、それは若い頃だけに許された特別な時間だったことをハブとガースはきちんと知っている。ただ、そうは言ってもそれを素直に認めたくない自分もいる。そのあたりの微妙な男ゴコロを、ロバート・デュヴァルとマイケル・ケインは、絶妙な演技で観る人に伝えてくれるのである。昔、自分が夏休みに何をしていたかなんてほとんど思い出せないけれど、それでも、"夏休み"という言葉が持つイノセントでキラキラした、買ったばかり白いTシャツみたいな感じは憶えている。そこには、大人になった僕らには、二度と手にすることのできない時間があり匂いがある。夏休みって言ったって、何もやることないなあと思いながら過ぎていった贅沢な時間がある。ハブとガースは、ウォルターという一人の少年を通じてそれらを改めて思い出す。昔、自分たちが過ごした懐かしい時間や空気、匂いと、少年がこれから過ごすであろう日々を思いながら。『ウォルター少年と、夏の休日』を見た後、久しぶりに山下達郎の「さよなら夏の日」を聴いてみた。そうしてふと、少年時代は人生の夏休みなのカモとセンチメンタル(←死語×2)に浸った男でした。■(奥田高大) TM and©MMIII NEW LINE PRODUCTIONS,INC.©MMIV NEW LINE HOME ENTERTAINMENT,INC.ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2009.07.21
ただのファミリー映画と思ったら大間違い。お母さんのような『シャーロットのおくりもの』
私、大きな勘違いをしてました・・・。 『シャーロットのおくりもの』の “シャーロット”は少女もしくはブタの名前で、ダコタ・ファニング演じるシャーロットがブタに奇跡を起こしたとか、ブタのシャーロットが内気なダコタを変えたとか、いかにもファミリー映画っぽい物語を想像していたんです。ところがそれは全くの見当違い。ブタでも少女でもないシャーロットの正体に、良い意味で裏切られてしまったのです。シャーロットは、クモです。さらに、本作は少女とブタの愛情物語でも、牧場世界のハートウォーミング(←最近、使わない?)ムービーでもあまりせん。この作品は、クモのシャーロットが起こす、奇跡の物語なのです。子供よりも大人、とくに妊娠中とか子育て中の方にこそ薦めたい、一種の自然科学チャンネルを観ているかのような、生命について考えるきっかけをくれる映画です。ブタが登場する映画と聞いて『ベイブ』シリーズを思い浮かべてしまった私は、「しゃべるブタ=のどかな牧場映画」という物語を安易に想像してしまったのですが、とんでもない。『シャーロットのおくりもの』に登場する雄ブタ、ウィルバーが預けられた牧場に生きる動物たちは、いずれ殺されて人間に食べられる運命。毎日を楽しむ方法を探そうともしていない、のどかとは掛け離れた様子。そんな状況なので、本作に登場する動物たちはシリアスなトークを繰り広げます。牛「体が大きくなったところで、どうせ奴(人間)は僕らを食べるんだよ」やら、牧場にある不気味な建物を指しながら、馬「あそこに君も連れてかれるよ。そしてこの世とはおさらばさ…」みたいな言葉でウィルバーを脅したりと、非常に暗いのです。そんな暗~い牧場の入り口に垂れ下がる一匹の雌グモが、シャーロット。「誰かの食事のために殺されるなんて真っ平だ!」と愚痴を言うばかりの動物たちは、シャーロットに「見醜い」「平気で虫を食べるなんて」と毎日のように悪口を浴びせるものの、シャーロットはとても利口で、弱肉強食の世界を深く理解している。生きる為に虫を食すことを厭わない代わりに、「いただきます」「ごちそうさま」の言葉を欠かさないなど、牧場で暮らす動物たちよりもオトナです。そんな嫌われ者のシャーロットを、ウィルバーが美しいと褒めたことがきっかけで、二人(?)はかけがえのない友達になります。牧場の動物たちは、口を揃えて「自分たちが食べるために僕らを育てるなんて、人間は勝手だ!」と言います。たしかにその通りよね、と人間である私も彼らの意見には激しく同意するのですが、シャーロットはそんなヒトのエゴとも言えそうな行為でさえ、生き物が子孫を残すためには仕方ないと達観しているのです。シャーロットは偉いなあ。でもそんなシャーロットでも「ウィルバーが食べられるのは嫌」と、彼を助けるためにある方法を思いつきます。いくら仕方ないとは言っても、大切な人(?)が食べられるのは阻止したいと健気に想う様子が、人情(??)に溢れていて感動的なのです!シャーロットは自分より何百倍も大きなブタを救うため、クモだからこその表現方法で、その健気な気持ちを人間に伝えます。どのようにしてウィルバーを救うのかは、観てのお楽しみ。ところで、素敵なクモ、シャーロットの声を担当しているのはジュリア・ロバーツ。普段から口が大きいことをからかわれがちな彼女が『シャーロットのおくりもの』で担当したのは、登場生物の中で一番口の小さいクモでした…という冗談はさておき、そんな小さなクモの口から存在感ある彼女のセクシーボイスが囁かれることで、シャーロットが話す一語一句がより強く心に響きます。「食事ができることに感謝しなさい」「いただきます、言った?」と、実家の母のようにお説教をしてくれるシャーロット。私たちは生命を食べるから生きていて、それでこそ生命が連続していくことを『シャーロットのおくりもの』は教えてくれるのです。(韓 奈侑) COPYRIGHT © 2009 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2009.07.12
『夢駆ける馬ドリーマー』は映画のサラブレッドだ!
大方の人はタイトルを見ただけで予想がつくと思うけれど、『夢駆ける馬ドリーマー』は、爽やかで、時折ドキドキして、たまにホロリと涙腺が緩み、エンドロールが流れる頃には前向きな気分にさせてくれるという、まさに由緒正しい映画のサラブレッド(王道)的作品である。おまけに、原題にある”Inspired by True Story”からもわかるように、実話を基にしているとある。しかしながら、こういった「王道的作品」の匂いがすると、良くも悪くも期待を裏切らないストーリーであるがゆえに、退屈な作品が多いのもまた事実である。だから、僕も『夢駆ける馬ドリーマー』は、まあどちらかと言えば、退屈な映画だろうと思いこんでいた。しかし、その考えは改めなければいけない。王道作品には、やっぱり王道作品でしか味わえない幸せがあるのだ。カート・ラッセル演じるベン・クレーンは、牧場を営みながら、競走馬の調教師としても働いているものの、生活は楽ではない。そのうえ父のポップ(クリス・クリストファーソン)とは牧場経営の方針が食い違い、ろくに口もきかない仲。そしてベンの娘が、ダコタ・ファニング演じるケール・クレーン。ケールの楽しみは祖父のポップに馬の話を聞くことと、父の仕事を眺めること。しかしベンは、ケールには馬に関わる道を歩ませたくないと、仕事場についてくることを許さない。とろこがある日、ベンがケールに根負けして、仕事場に連れてきていた日に、競走馬として期待されていたソーニャが骨折してしまう。競走馬は、骨折して予後不良と見なされた場合は、安楽死させるのが常。しかしベンはケールの目の前でソーニャを安楽死させることを拒み、それがきっかけで調教師の仕事をクビになってしまう。そうして給料と引き替えにソーニャを引き取ったベンは、優秀な種牡馬とソーニャを交配させて、仔馬を売ろうと計画する。ところが検査の結果、ソーニャが不妊であることがわかり、ベンは途方に暮れてしまう。仕事はなくなり、家計は火の車。望みの綱だった、仔馬を売って当座の生活費にあてようとする算段もあっけなく崩れてしまったベンは、足の経過が良好なソーニャを、買い手を探すためのレースに出走させて、売却してしまう。このことを知ったケールは、ソーニャを売った父を責める。そうして娘の馬を想う気持ちに心を打たれたベンはソーニャを買い戻し、所有権をケールに委ねることに。晴れてオーナーとなったケールは、競走馬として賞金総額400万ドルのクラシック・レース「ブリーダーズ・カップ」にソーニャを出走させることを決意。果たしてソーニャは、家族の期待に応え、競走馬として復活することができるのか・・?というのが今作のあらすじである。ここまで読んで、このあと一体どうなるの? と思う人はいるまい。前述したように、『夢駆ける馬ドリーマー』は360度どこから眺めても、王道の作品である。予想を大幅に裏切る展開もなければ、ドンデン返しもない。ともすれば、ありがちでわかりきった、退屈なだけの作品になる。しかし、『夢駆ける馬ドリーマー』はそうならなかった。想像通りなのに、しっかりと物語に惹きつけられ、ポイントポイントで感情を揺さぶられ、ここぞというシーンではホロリとさせられる。王道的な作品で人を惹きつけるには、相当な力が必要になりそうなものだが、まんまと作戦にはまってしまうということは、それだけ『夢駆ける馬ドリーマー』が丁寧に作り込まれた映画だということだろう。音楽にたとえるならば、『ペット・サウンズ』以前のビーチ・ボーイズであり、アメリカをロックに載せて歌い続けるブルース・スプリングスティーンである。一見すると、彼らは繰り返し同じものを、包装だけをかえて提供しているようにも見える。でも実はそこには、類い希な才能と創意工夫がある。さらに誤解を避けるために付け加えるが、彼らから生まれる音楽には、「前代未聞」や「まったく新しい」といった安っぽい広告用キャッチコピーをはるかに超えた、確かなオリジナリティがある。 『夢駆ける馬ドリーマー』はまさにそういった作品である。あざとい計算もない。必要以上の演出もない。映画から伝わってくるのは、良いお話を、一人でも多くの人に伝えたいという、飾り気のない気持ちだけだ。その結果として、我々は、”あきらめずにトライし続ければ、いつか夢は叶う”というポジティブな感情を抱くことになる。ちょうどビーチ・ボーイズの「Surfin’ USA」を聞けば、誰もがハワイの青い海と空、サーフィンを思い浮かべ、幸せな気持ちになるのと同じように。 もうひとつ。言うまでもないことだけど、この映画はダコタ・ファニングがいるから成立している。ダコタの父役を演じるカート・ラッセルも、祖父役のクリス・クリストファーソンももちろん悪くないし、本当の父と息子と間違えそうなくらい顔が似ていて説得力がある。それでも、『夢駆ける馬ドリーマー』は彼女の映画である。当時10歳か11歳のダコタ・ファニングは、大人びているわけでもなく、子どもっぽすぎることもない。自分が子どもの頃に、こういう女の子がいたなと、遠い記憶を目の前に押しつけがましくなく差し出してくれる。ちょっと大げさかもしれないけれど、映画を観ているあいだ、子どもだった頃の自分に、ほんの一瞬、時計の針を戻してくれる。さすがは天才子役の名をほしいままにする子どもだけはある。そして今作を見て、最近ダコタの姿を見てないと思っていた僕は、早速ネットで画像検索。子役のときに大活躍したり、天使のように可愛かったりすると、その頃のイメージが強すぎるのか、大人になるにつれて残念な結果をもたらすこと多いですよね?しかし、皆様どうかご安心を。しっかりと美女に成長しているじゃありませんか!どうやら彼女の場合は、子役のイメージに縛られ続ける心配はなさそう。ナタリー・ポートマンのように、しっかり成長してハリウッドを代表する女優になりそうです。最近の彼女の出演作は日本未公開作品が多いものの、アメリカでは活躍を続けており、来年には今までの清純派のイメージを覆す、70年代に実在したガールズ・バンドの伝記映画『The Runaways』にも出演決定。目下撮影中とのこと。ここらで天才子役から、ぐっと大人っぽくなった彼女の姿を、日本のファンにも見せつけてほしいもんですね。そのためにもまずは『夢駆ける馬ドリーマー』と月末に放送する『シャーロットのおくりもの』でたっぷりと予習・復習をお願いします!■(奥田高大) TM & © 2009 DREAMWORKS LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2009.07.04
こうして戦争は始まる>『13デイズ』
どういうわけか、当ブログではわりとまじめな作品について駄文を書くことの多い僕だが、その中身はというと、相当にいい加減で不真面目な性格である。それゆえに「社会派ドラマ」にカテゴライズされる作品を、積極的に観る機会がとりたてて多いということもない。むしろ、ちょっと近寄りにくい、肩がこりそう。そう考えるタチなのだ。大体において「社会派」と呼ばれるような作品は、コメディ映画とは異なり、観る側にもエネルギーがいる。ウヒャヒャと笑えばいいだけのコメディ映画に比べると、気を抜くとストーリーについていけなくなりそうなので、頭を回転させる必要もある。作品時間も長い傾向にある。それだけに駄作を観たときの落胆度は大きく、大きな後悔と損失を被ることになる。しかしながら、そんなひねくれた視点から観ても『13デイズ』は、間違いのない、きちんと作り込まれた社会派ドラマでありポリティカルサスペンスである。 今作の舞台は1962年、冷戦まっただなかのアメリカ。世界が核戦争に最も接近したと言われる13日間「キューバ危機」を描いている。時の大統領は、ジョン・F・ケネディ。ケネディを支える司法長官に実弟のロバート・ケネディがつき、大統領特別補佐官として、ケネス・オドネルがいた。言うまでもないことだが、冷戦時代のアメリカとソ連は同等の武力=核兵器を持ち合うことで均衡を保っていた。巨大な力を持つ二つの国の、どちらか一方だけが圧倒的な武力を持つことは、世界を危機にさらすことになると考えていたからである。キューバ危機はアメリカの侵攻を恐れたキューバが、友邦のソ連に武器の援助を申し込んだことに端を発する。しかし、戦争にも使われかねない武器を渡してしまうのはさすがにマズイと判断したソ連は、代わりに、核ミサイルをキューバ国内に配備した。核は戦争のための兵器ではなく戦争を抑止するための兵器である、という、冷戦時代特有の、今日では理解できない発想だ。だが結果として、これにアメリカが猛反発して、危ういバランスで成り立っていた均衡が崩れそうになるのである。『13デイズ』は“ケネディ・テープ”と呼ばれるケネディ大統領自ら13日間の会議の模様を録音したテープや、ロバート・F・ケネディの回想録『13日間』、機密文書、そしてケビン・コスナーが演じた実在の人物、ケネス・オドネルへの100時間にも及ぶロング・インタビューなどを基に練り上げられたという。もちろん、映画である点、そして極めて政治色の強い事件を扱っているだけに、事実と異なる点もあるはずだ。だがどのようにしてソ連とアメリカの緊張が高まり、どのようにして最悪の事態、つまり第三次世界大戦を免れることになったのかが、非常にわかりやすく、かつスリリングに描かれている。僕はこの映画を観るまで、結局のところ、戦争は圧倒的な権力を持った国家のリーダーの意思によって始まるものだと思い込んでいた。事実、ヒトラーのようにそういったケースもある。しかし『13デイズ』では、アメリカにとって「キューバ危機」は対ソ連であると同時に、アメリカ内部との戦いでもあった点が詳細に描かれており、それが非常に興味深い。アメリカ内部とは、国防総省やCIAなど、戦争回避=軟弱な態度として、空爆を主張する主戦派の人々のことである。彼らの強硬論をケネディ兄弟とオドネルが、いかにして抑えたか。それが『13デイズ』を緊迫感ある作品に仕立てている理由である。戦争の引き金となるのは、必ずしも対外的な要因ばかりではなく、部下や周囲に対する権力の誇示、自分の地位や立場を守るための見栄やプライドといった、誰もが持っている要因が積み重なって、大きな力となったものなのかもしれない。いつだったか忘れたが、こんな言葉を聞いたことがある。「一人一人の希望を聞いてできあがったものは、結局誰も望んでいないものである」もしかするとその一つが戦争なのかも知れない、と考えさせられる映画だった。ついでに言うと、主演のケビン・コスナーは1995年の『ウォーターワールド』で大コケする前後あたりから、『ボディ・ガード』のようなラブ&ヒーロー路線にいくのか、『フィールド・オブ・ドリームス』のようなヒューマンドラマ路線に行くのか、迷走が続いている感があるが、たぶん『JFK』や『パーフェクトワールド』、そして今作のようなわりとシリアスな作品で、ヒーローになりすぎない、ちょいシブメの役が一番しっくりくる気がする。そんなわけで、僕のように「政治・社会派」作品でミスはしたくない!と強い決意を持っている人にも、『13デイズ』は間違いなくオススメできる作品でありますので、ぜひご覧下さい!■(奥田高大) ©BEACON COMMUNICATIONS,LLC.ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2009.06.26
人生いろいろ『フォレスト・ガンプ/一期一会』
ってのは、映画冒頭、主人公フォレスト・ガンプの最初のセリフなんですけど(母親の口癖の受け売りだけど)、この言葉が、作品のすべてを語り尽くしちゃってますね。この映画では、2、3の人生が描かれます。知能に障害を持つ男、フォレスト・ガンプ。子供の頃は身体も不自由で、補助具をつけないと歩くのも困難なほど。ただ、その補助具が星飛雄馬にとっての大リーグボール養成ギプス的な役割を果たしちゃって、ガンプの脚力は、気づかぬうちに常人をはるかに上回るものになっていた。 で、とあることがキッカケで、逆に韋駄天としての超人的能力を発揮することに。それ以来、この、「ムっチャクチャ足が速い」という特技のおかげで、ガンプの人生には次から次へと幸運が舞い込んできます。野心も野望も打算も下心もなく、ただ、その時その時の自分の人生を、バカ正直に生きた男の、夢のような成功物語。ヒューマン・ドラマであると同時に、一風変わったアメリカン・ドリームを描いたサクセス・ストーリーでもある。主人公のガンプを軸に見れば、これは、そんなお話です。いっぽう。ガンプの幼なじみの女の子でヒロインのジェニーは、ヒっドい人生を送ってます。子供の頃は父親に虐待され、女子大に入るとエロ本に出たことがバレて退学に。その後、成人してからも踏んだり蹴ったりの人生。ガンプとジェニーは、世代的には“団塊の世代”です(アメリカにゃないだろ)。1950年代に子供時代をすごし、60年代に青春時代を送って、70年代にオトナの仲間入りをした。まさしくアメリカ現代史を駆け抜けてきた、そんなジェネレーション。 ジェニーは、その時代感覚に染まりきって生きてる女。女子大生の頃はジョーン・バエズにあこがれてフォーク・シンガーになる夢をいだくものの、例の顔出しエロ本発覚事件のせいで場末のストリップ小屋に身を沈めることに。ビートニック・ビューティー“ボビー・ディロン”ってバカっぽいやっすい源氏名で、野郎どもにヤラしい野次をあびせられたり、触られたりしながら、全裸でギターを弾き語りします。その頃“ビート族”が流行ってたから、「ビートニック・ビューティー」。ボブ・ディランのブレイク直後だから、「ボビー・ディロン」。その後も、ビート族からヒッピーになって、みんながシスコに詣でればシスコに行き、みんながワシントンDCでベトナム反戦デモをすればそれに加わり、マリファナとかアシッドだとかの悪い草やクスリにも手を伸ばす。流行ってたから。そのうちヒッピーが時代遅れになって70年代ディスコ・ブームが到来すると、今度はそれ風のファッションに身をつつんで、コカインとかヘロインとかまでやっちゃって、いよいよもって廃人路線を転がり落ちてく。ただ時代に流されていくだけ。時代を生きるんじゃなくて、ただ流されるまま。ガンプの方は、時代という枠の中でも、あくまでマイペースで生きてくんですけど、そういうことが、このジェニーって女には、できない。で、どんどんドツボにはまってく。なんとか逃げ出したい。「鳥になってここから飛んでいきたい」と少女の頃からずーっと祈りつづけ、人生を自分の手にしっかりと掴みたいと必死で願ってるのに、掴めず、ただ流されるまま、けっきょく抜け出せずに、もがきつづけて、どんどん身を落としてく。でも、流されるだけのジェニーを、ゼメキス監督は、映画の中で罰してるワケじゃないと思うんです。罰として次々に不幸がふりかかってるワケじゃないだろうと思うんです。この映画って、ガンプは正直者だからラッキーな人生を送り、ジェニーはスレた女だから不幸になった、という「因果応報」の物語では全然ない、とワタクシは感じるのであります。人生の浮き沈みなんてもんは、しょせん運でしかありません。流される女ジェニーは、よくある人間類型です。むしろ、ガンプのように流されずマイペースを貫ける人間ってのの方が、実はレアな存在でしょう。俊足・強運・マイペース。ガンプこそ、現実には存在しない、実は“超人”なんであって、ジェニーのような人ってのは、いつの時代・どこの国でも見られる、よくいるタイプなんじゃないんでしょうか。日本で言うと、バブルの頃にブイブイいわせてたイケイケのオヤジギャル。または、10年ちょい前に品行よろしからぬ女子高生ライフを送ってた元コギャル。あの人たちって、いったい今、どうしてるんでしょうか?あの人たちのそんな生き様ってのも、べつに間違ってたってワケじゃない。その後の人生で罰を受けて当然というほどの罪など、犯してはいないはずです。ただ、ほんのちょっと運を逃しちゃったがために、ジェニーみたく、人生の底まで沈んで行き、いまだに浮き上がれずにもがき苦しんでいるかもしれません。この2009年の日本のどこかには、きっと、そんな和製ジェニーな感じの方たちが、少なからずいるような気がしてなりません。映画『フォレスト・ガンプ』では、そんな、運に見放された気の毒な人を代表しているヒロインの、逆サクセス・ストーリーが、主人公のサクセス・ストーリーの裏で、表裏一体の関係で描かれていきます。ヒューマン・ドラマであると同時に、挫折と転落と蹉跌のドラマでもあるんすわ、この映画は。つまり、結論としては「人生いろいろ」。運のいい人、悪い人、いろいろあります。それがテーマです。ってオイ、そんなナゲヤリなテーマあるかい!そう、それを踏まえた上で、この映画では大感動のポイントがちゃーんと設けられてるんすわ。超ラッキーな男ガンプが、子供の頃から一貫して、不幸なジェニーのことを一途に想いつづけてるって点。それがそのポイントです。ストーリーは実際のアメリカ現代史(リアル)を時代背景に展開しますが、2人がつむぐ物語って、はっきり言って、リアリティまるっきしありません。ヒューマン・ドラマって、いかに人間をリアルに掘り下げて描けるかっつうとこがキモなんすけどねぇ…。ラッキーな方がアンラッキーな方を何十年間も慕いつづけてる、幼なじみの何十年ごしの片想い、なんてのは、かなりメルヘンチック(非現実的)な筋立てでしょう?でも、非現実的だけど、かなり素敵ではある。これほどまでに素敵なメルヘンを、ワタクシは他に知らんのです。ヒューマン・ドラマであると同時に、いや、ヒューマン・ドラマである以上に、ワタクシに言わせりゃ、これは、映画史上もっとも美しいメルヘンなのです。そのメルヘン要素が、多くの人を泣かせたんじゃないでしょうかね。ほんとに、生まれてきた甲斐も無いってぐらいな不幸なジェニーの人生ですが、どんなドン底の時でも、離れててどこで何してても、純真無垢なガンプがずーっと彼女のことを想い続けてる、って事実が、彼女の人生の救いであり続けるんですな。映画を見てる方にとってもこれは救いです。この作品、純愛ストーリーでもあるんです。さらに。2つの人生がおりなすメルヘンとはちょっと離れたとこから、この映画では、3つめの人生を、追っかけてます。まずこの世にいなさそうな男、強運の持ち主、天然マイペースの“超人”ガンプ。流されるだけの女、よくいるタイプ(ここまで不幸なのは滅多にいないかも)なジェニー。そして、第3の人物の登場です。この人物こそ、もっともボクらに近い、いちばん普通の人生を歩んでるキャラなんじゃないでしょうか。運が良くもないけど、悪くもない。おおよそ普通。大過なく生きてきて、ある日ある時、思ってもみなかったような信じられないぐらいの災難に見舞われてしまう…。そういうことは、誰にでもありえます。愛する人が突然死んだ。深刻な病気だと宣告された。事故に巻き込まれた。いきなり解雇され生活が破綻した…。そういうことが自分の身にだけは絶対に起こらない!と言い切れる人なんて、誰もいやしません。豚インフルだ不景気だなんていってる今日日は、特にそうです。そういう目にあってしまった一人の人物が、我が身の不幸を嘆き、神を呪い、自暴自棄になり、死にたいなどとグチりながら、ちょっとずつ再生してく姿が、この映画の3番目の人生として、描かれます。いや、3つじゃなくて、4つ目の人生も描かれてるかもしれません。ここまでのこのブログの中で、いろいろと妙なカタカナ語を書いてきました。「ジョーン・バエズ」と「ボブ・ディラン(これは分かるか)」、「ビートニク(ビート族)」…etcつまりですねぇ、とりあえずガンプが物心ついてからはケネディ→ジョンソン→ニクソン→フォード→カーター→レーガンと、大統領が6代も替わってる(そのうち何人かとガンプは会って言葉をかわしてる。会ってなくても劇中にニュース映像としては出てくる)ぐらい、1960年代(少年時代を入れると1950年代)~80年代までの、文字どおりアメリカ現代史が、映画の時代背景として描かれてんですわ。その当時の世相とか、社会情勢とか、流行とか、ファッションとか、音楽とかも、この映画の中には、これでもかとテンコ盛りに盛り込まれています。ここ数十年、アメリカという国が歩んできた道のり。もしかしたら、それは映画の中で描かれてる、4つめの人生なのかもしれません。つまり、一国の人生(ヒューマン)ドラマでもある。こりゃアカデミー賞獲るワケだ!さて。映画と同じように、このブログも最後に冒頭1行目に戻りましょう。「人生はチョコレートの箱みたいなもの。食べてみるまで中身は分からない」このテーマを常に意識的に思い返しながら、以上の4つの人生を追いかけてみてください。この、映画史上たぶん十指に入るぐらい(ワタクシの独断)のヒューマン・ドラマの大傑作『フォレスト・ガンプ』を、より楽しめちゃうことでしょう。■ TM & Copyright? ©? 1994 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2009.06.21
『クライシス・オブ・アメリカ』が描くアメリカの不安
体験や感情を言葉で説明することは難しい。映画を観て感動したとか、美味しかった料理の味とか、印象が鮮烈で強烈であればあるほど、その気持ちを人に伝えることは難しい。そのなかでも、いくら語ろうとしても語れない、伝えきれない最たるものが、不安や恐怖かもしれない。しかし『羊たちの沈黙』、『レイチェルの恋人』のジョナサン・デミが62年にも映画化されたリチャード・コンドンの原作小説『影なき狙撃者』を、現代風にアレンジして作り上げた『クライシス・オブ・アメリカ』は、アメリカが抱える漠とした不安を感じさせることに成功している。湾岸戦争下、ベン・マルコ(デンゼル・ワシントン)率いる小隊が、敵の奇襲攻撃に遭ってしまう。その危機を救ったのは他の隊員とは馴染めずにいた、いわば落ちこぼれの隊員レイモンド・ショー軍曹(リーヴ・シュレイバー)。そして終戦後、ショーはその行為がきっかけで隊員時代には誰も予想していなかった時代を象徴する英雄になり、大物上院議員である母エレノアの強力な後ろ盾のもと、政界へと進出。若くして副大統領候補にまで選出される。一方、マルコはある悩みを抱えながら、終戦後も軍務を続けていた。その悩みとは、部隊の危機を救った英雄のショーが、仲間の隊員を殺している夢を観ることだった。事実とはまるで反対の夢を繰り返し見るマルコ。しかし、それがただの夢とはどうしても信じ切れず、ついに独自の調査を開始する。そうして、マルコはやがて自分たちの記憶が、“何かあったとき”のための個人情報、として体内に埋め込まれたチップによって書き換えられていたことを知り、やがて背後にある大きな陰謀に気づく・・・というのが今作のあらすじ。劇中、悪夢にうなされるマルコを、軍の上司が湾岸戦争症候群ではないのかと指摘するシーンがある。湾岸戦争の体験がトラウマとなり、それが不眠や記憶障害など様々な病状を引き起こしているのではないかというのである。『クライシス・オブ・アメリカ』が公開されたのは2005年。湾岸戦争が始まったのは1991年。ちょっと話がそれるが、この湾岸戦争症候群をもう少し詳しく説明すると、帰還兵のうち、一説では10万人以上がこの症状を経験したとされている。しかし、医学的にこの症状は十分に解明されていない。戦争体験という強烈なストレスによるものという意見もあれば、化学兵器や生物兵器など多数の有毒物質にさらされていたからという意見もある。なかには、そんな症候群はそもそも存在しないのだという意見さえある。『クライシス・オブ・アメリカ』は、同じサスペンスでも、ジョナサン・デミの代表作『羊たちの沈黙』のように、研ぎ澄まされたナイフのようなキレはない。前述した湾岸戦争症候群、一人の個人によって、国の方向性が大きく変化しかねないアメリカ大統領制が抱える問題、テロリズムへの恐怖など少々描きたいテーマを盛り込みすぎて、焦点がはっきりしない印象も否めない。でもそんな目に見えない不安を描こうとしているところにこそ、湾岸戦争、アメリカ同時多発テロ、イラク戦争を経たアメリカが抱える不安と、自分たちが正義だと思ってきたことが、必ずしも世界ではそう思われていない。そのことに、否応なく気づかされたアメリカという国の苦悩が見て取れる。そんなわけで、この映画を観て、ますますオバマ政権後のアメリカが気になった僕でありました。■(奥田高大) TM & copyright © 2005 by PARAMOUNT PICTURES. All Rights Reserved