ザ・シネマ なかざわひでゆき
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COLUMN/コラム2025.09.02
タイで起きた洞窟遭難事故を異なる視点で描いた2作品を徹底比較!『13人の命』『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』
世界の注目を集めた「タムルアン洞窟の遭難事故」とは? 2018年の夏、東南アジアのタイで起きた「タムルアン洞窟の遭難事故」。現地の少年サッカー・チームのメンバー12人とコーチ1人が、全長10キロメートル以上もあるタムルアン洞窟へ遠足に出かけたところ、折からの大雨で水位が上昇したため外へ出られなくなってしまったのだ。救出にはタイ王国海軍の特殊部隊のほか、世界各国からプロダイバーや各種専門家、ボランティアがおよそ1万人も集結。文字通り世界中のメディアが固唾を飲んで見守る中、ダイバー1人が命を落とすという悲劇に見舞われながらも、13名全員を無事に救出という奇跡の生還が成し遂げられた。あまりにもドラマチックな出来事だったこともあり、これまでに数多くのドキュメンタリー映画や劇映画、ドラマ・シリーズの題材として取り上げられてきたが、9月のザ・シネマではその中から地元タイで制作された『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』(’19)と、ハリウッドの巨匠ロン・ハワードが監督した『13人の命』(’22)の2本を放送。どちらも同じ事件を基にした劇映画ではあるが、しかし題材へのアプローチは大きく異なっている。そこで今回は、それぞれの映画の見どころを比較解説してみたい。 まずは遭難事故の顛末を駆け足で振り返ってみよう。そもそもの発端は2018年6月23日、タイ北部のチェンライ県にて地元の少年サッカー・チーム「ムーバ(野生のイノシシ)」に所属する11歳~17歳のメンバー12人と、25歳のアシスタント・コーチが近隣のタムルアン洞窟を訪れ、探索するために内部へと進入。ところが折からの大雨によって洞窟内の水かさが増したため、全員が外へ出られなくなってしまったのだ。子供たちの帰りが遅いことを心配した親からの問い合わせで、チームのヘッド・コーチが行方を捜したところ、遠足に誘われたものの参加しなかったメンバーの少年から事情を知らされたという。そして、洞窟の近くに子供たちの自転車が置き去りにされたままであることを確認したヘッド・コーチは、すぐさま事態を察知して当局に通報したのである。 『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』 すぐさまタイ海軍の特殊部隊が現地へ向かったほか、地元在住の英国人洞窟ダイバー、ヴァーン・アンスワースの助言でタイ当局は英国洞窟救助会議(CBRC)に救援を要請。さらに、沖縄駐留の米軍やオーストラリア、中国、ベルギー、フランスなど各国のダイバーや専門家などが駆け付けたほか、近隣住民たちもボランティアとして水抜き作業や炊き出しなどに参加する。遭難から10日目の7月2日、英国人ダイバーたちが行方不明の13人全員の生存を確認。チェンライ県知事とタイ海軍を中心とした救助本部は当初、洞窟内の水が引くか子供たちが潜水技術を習得するまで、時間をかけて救助するつもりだったそうだが、しかし雨季が訪れると洞窟内は水没してしまうし、すでに洞窟内の酸素低下も進行している。もはや一刻の猶予もなかった。 問題は少年たちのいる場所から洞窟の入り口まで5~6時間かかること。しかも洞窟内は極端に狭い上に、水中を潜って移動せねばならない。大人でも洞窟ダイビングの経験がなければパニックに陥ってしまう。そこで、英国人ダイバーたちの助言もあって極めて特殊な救出方法が採用される。それは、酸素マスクとボンベ、ダイビングスーツを装着させた少年らやコーチに相当量の鎮静剤を投与し、眠らせた状態にしてダイバーたちが運ぶというもの。洞窟内へ酸素ボンベを運ぶ際に、元タイ海軍特殊部隊のボランティア、サマーン・クナンが命を落とすという悲劇に見舞われるも、遭難発生から16日目の7月8日に救出作戦を決行。3日間に渡って慎重に作戦を遂行した結果、13人全員を無事に救い出すことができたのである。当時、この奇跡的な生還劇は日本でも大きく報道されたので、記憶にあるという人も少なくないだろう。 『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』 同じ題材でも着眼点によって大きく異なる作品に かように、世界中の人々に大きなインパクトを与えた「タムルアン洞窟の遭難事故」。発生の直後から各国のテレビで特集が組まれ、ドキュメンタリー番組も作られたようだが、しかし最初に劇映画化したのは地元タイで制作された『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』である。演出と脚本を担当したのはアイルランド人を父親に持ち、イギリスやハリウッドでも活躍するタイの映画監督トム・ウォーラー。バンコクを拠点にする彼の制作会社がプロデュースを手掛けた。やはり地元制作の強みなのだろうか、実際に事故の現場となったタムルアン洞窟での撮影許可を得て現地ロケを敢行。ただし、必要に応じて別の洞窟やスタジオ・セットでの撮影も行われたという。しかし、本作において最も特徴的なのは、アイルランド在住のベルギー人ダイバーのジム・ウォーニーや中国人ダイバーのタン・シャオロン、ポンプ製造会社社長など、実際の救出作戦に携わった人々が本人役で出演していることであろう。そのほかのキャストも、主にアマチュア俳優を起用している。ウォーラー監督の演出は徹底してリアル。カメラが被写体からあえて距離を置くことで、疑似ドキュメンタリー的な説得力を備えているのだ。 一方、事故から4年後に作られたのが『13人の命』。『アポロ13』(’95)や『ラッシュ/プライドと友情』(’13)など実録物映画にも定評のある巨匠ロン・ハワードが演出を手掛け、ハリウッドのメジャー・スタジオ。MGMがプロデュースを担当した。コリン・ファレルやヴィゴ・モーテンセン、ジョエル・エドガートンなどハリウッドの大物スターたちがダイバー役で出演。地元タイからも数々の有名スターが起用されている。タイ当局による脚本の検閲を避けるためもあって、主なロケ地はオーストラリアのクイーンズランド州。一部でタイ・ロケも行っているようだが、しかし本編の大部分はゴールド・コーストの各地をタイに見立てて撮影されている。洞窟内のシーンはスタジオに建設された巨大セット。救助に携わった英国人ダイバーのリック・スタントンとジョン・ヴォランセンが監修を務めた。『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』がドキュメンタリー映画風に仕立てられていたのに対し、本作はまさに王道的なハリウッド流の実録ディザスター映画。同じ遭難事故を描いているはずなのに、両者を見比べると全く違う印象を受けるのが興味深いと言えよう。 『13人の命』 恐らく最大の違いは両者の視点である。『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』が事故発生から救出作戦までの全容を客観的に俯瞰し、その経過を現場に携わった人々それぞれの視点から多角的に捉えることで、なんとしてでも少年たちを救いたい!という熱い想いで心を一つにしていく関係者たちの人間模様をエモーショナルに描いていく。本人役を演じるジム・ウォーニーに焦点を当てたシーンもあるにはあるが、しかし基本的には全員が主人公だ。それに対して、『13人の命』は英国人ダイバーたちを明確な主人公として設定。慣れない異国の地で官僚主義的な現地当局の対応に悩まされつつ、前例のない救出作戦に挑んでいく勇敢な男たちの英雄的な活躍をスリルとサスペンスとアクションたっぷりに描く。前者が作戦決行へ向けて奔走する人々の群像劇をメインにする一方、後者は困難を極めた救出作戦の克明な描写に重点を置いているのも印象的。作り手がどこに着眼点を置くかによって、同じ題材でもこれだけ異なった作品に仕上がるという好例だ。 ちなみに、どちらの作品も洞窟内に閉じ込められたコーチと少年たちが、どのようにしてサバイブしたのかという詳細が全く描かれていないのだが、これにはちょっとした「大人の事情」が絡んでいる。というのも、サッカー・チーム「ムーバ」の物語だけは先にNetflixが著作権を押さえていたため、『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』でも『13人の命』でも劇中で描くことが許されなかったのだ。結局、『13人の命』が劇場公開およびウェブ配信された直後の’22年9月に、Netflixはサッカー・チーム「ムーバ」の少年たちを主人公にしたドラマ・シリーズ『ケイブ・レスキュー: タイ洞窟必死の救出』を配信している。■ 『13人の命』 『13人の命』 © 2025 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved. 『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』© Copyright 2019 E Stars Films / De Warrenne Pictures Co.Ltd. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2025.09.29
近い将来、本当に起きうる?AI搭載ハイテク少女人形の大暴走!『M3GAN/ミーガン』
ハリウッドの2大ヒットメーカーが贈るキラー・ドール系ホラー 『パラノーマル・アクティビティ』(’07~’21)シリーズに『パージ』(’13~)シリーズ、『ハッピー・デス・デイ』(’17~)シリーズに『ハロウィン』(’18~’22)シリーズ、さらには『ゲット・アウト』(’17)や『透明人間』(’20)、『ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ』(’23)などのホラー映画を次々と大成功させてきた映画製作者ジェイソン・ブラムと、映画監督のみならず製作者としても自身が生んだ『ソウ』(‘04~)シリーズや『死霊館』(‘13~)ユニバースをフランチャイズ化させ、『ライト/オフ』(’16)や『THE MONKEY/ザ・モンキー』(’25)などの話題作をプロデュースしているジェームズ・ワン。そんな21世紀のハリウッド・ホラー映画を牽引する2大ヒットメーカーが製作を手掛け、世界興収1億8000万ドル超えのスマッシュヒットを記録した作品が、AIを搭載したハイテク人形の暴走を描いた『M3GAN/ミーガン』(’22)である。 これまでにも、ワンが1作目と2作目を演出した『インシディアス』(’10~)シリーズや、ブライス・マクガイア監督の『ナイトスイム』(’24)でもタッグを組んだ2人。本作はジェームズ・ワンの製作会社アトミック・モンスターの企画会議で提案された無数のアイディアの中から、ワン自身がピックアップしてジェイソン・ブラムの製作会社ブラムハウスに持ち込んだ企画だったという。テーマはキラー・ドール(殺人人形)。人間を楽しませ癒してくれる玩具の人形が、反対に人間を襲って殺してしまう。そのルーツはトッド・ブラウニング監督の『悪魔の人形』(’36)ともイギリスのオムニバス映画『夢の中の恐怖』(’45)とも言われているが、しかしジャンルとしてポピュラーになったのは’80年代に入ってからのことだ。 口火を切ったのはスチュアート・ゴードン監督の『ドールズ』(’87)。殺人人形の群れが人間を血祭りにあげるという、どこか寓話めいたホラー・ファンタジー映画の佳作だった。同作をプロデュースしたチャールズ・バンドは、殺人人形軍団というコンセプトをそのまま受け継いだ『パペット・マスター』(’89)を製作し、現在までにシリーズ映画15本が作られたばかりか、フィギュアなどの関連グッズも販売されるというフランチャイズ・ビジネスを展開。この成功に味を占めたバンドは、さらなる二番煎じの『デモーニック・トイズ』(‘92~)シリーズもプロデュースしている。 とはいえ、’80年代に興隆したキラー・ドール系ホラー映画の金字塔といえば、間違いなくトム・ホランド監督の『チャイルド・プレイ』(’88)であろう。殺人鬼の魂が乗り移った人形チャッキーはホラー・アイコンとなり、こちらも現在までに8本の映画と1本のテレビシリーズ、さらにはゲームにフィギュアにアトラクションにと関連ビジネスを拡大してきた。そもそもジェームズ・ワン自身、『デッド・サイレンス』(’07)というキラー・ドール映画を撮っているし、代表作『死霊館』シリーズにおいてもアナベルというインパクト強烈な恐怖人形を描いている。ただ、従来のキラー・ドールが主に呪術や魔力で動くスーパーナチュラルな存在だったのに対し、本作に登場するミーガンは人間の少女ソックリに作られた等身大のAI人形。要するにアンドロイドである。 人間に仕えるべく開発されたAIやアンドロイドが、生みの親である人間に対して牙をむく。行き過ぎた科学の発展に警鐘を鳴らすコンセプトは、古くよりサイエンス・フィクションの世界で好まれ多用されてきた。そういう意味において、本作はキラー・ドール系ホラーであると同時に、マイケル・クライトン監督の『ウエストワールド』(’73~’76)シリーズおよびそのテレビリメイク『ウエストワールド』(‘16~’22)、ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』(’84~)シリーズなどの系譜に属するSFスリラー映画でもあるのだ。 持ち主を守るというミーガンの強い使命感が狂気へと…! 主人公は大手玩具メーカーに勤務し、最先端のハイテク技術を駆使した子供向けのオモチャを開発する技術者ジェマ(アリソン・ウィリアムズ)。目下のところ彼女が秘密裏に取り組んでいるのは、史上初の完全自律型ロボット人形となる「第3型生体アンドロイド(Model 3 Generative ANdroid)」、略してM3GAN(ミーガン)である。しかし、この極秘プロジェクトを知った上司デヴィッド(ロニー・チェン)は激怒。目先の利益にばかり囚われた彼は、ライバル企業との価格競争に打ち勝つべく廉価商品の開発を最優先させ、成功するかどうか定かでない高額なミーガンの研究開発を中止させてしまう。 そんな折、ジェマの姉夫婦がスキー旅行中に交通事故で死亡。ひとりだけ生き残った幼い姪ケイディ(ヴァイオレット・マッグロウ)をジェマが引き取ることとなる。動物や子供はどちらかというと苦手。そもそも人付き合いが得意ではなく恋愛とも縁遠いジェマは、寝ても覚めてもオモチャのことで頭がいっぱいの仕事人間だ。大好きだった姉の代わりにケイディを育てたいという気持ちは強いが、しかしどうやって彼女と接していいのか分からないし、仕事だって山積みである。仕方なくケイディにタブレットを与えて仕事するジェマだが、しかしそれは育児放棄も同然。少なからず罪悪感は拭えない。 そこで彼女に問題解決の糸口を与えてくれたのが、大学時代に開発した遠隔操作型ロボット、ブルースである。仕事部屋に飾ってあったブルースを見つけ、こんなオモチャがあったら他のオモチャなんて一生要らない!と喜ぶケイディ。そこでジェマは一念発起してミーガンの開発を再開。部下のコール(ブライアン・ジョーダン・アルバレス)やテス(ジェン・ヴァン・エップス)の協力を得て、いよいよ念願のAI人形ミーガンを完成させる。頑丈なチタン素材で骨組みが形成され、人間とソックリなシリコン製の肌で覆われたミーガンは、生体工学チップを搭載した高度な知能を持つ人型ロボット。自ら物事を考えて喋ったり行動したりする能力を持つばかりか、学習機能によって常に進化と成長を続けていく。その役割は子供にとって最良の友となり、親にとって最大の協力者となること。子供の世話やしつけをミーガンに任せることで、親は仕事や家事に専念できるのだ。 試作品に与えられた使命はケイディを守ること。両親の死後ふさぎ込んでいたいたケイディはミーガンのおかげですっかり明るくなり、肩の荷が下りたジェマはプロジェクトの成功を確信。上司デヴィッドや経営陣も賛同し、全社を挙げてミーガンの売り出しに力を注ぐことになる。だがその一方で、あまりにも密接なケイディとミーガンの間柄に、児童セラピストのリディア(エイミー・アッシャーウッド)は「このままだとケイディはミーガンをオモチャではなく保護者だと見なしてしまう」と警鐘を鳴らし、部下のテスも「ミーガンは親の支援役であって代役じゃない。子供との触れ合いが減るのは危険だ」と危惧する。 実際、ケイディは周囲の大人よりもミーガンを信頼して精神的に頼り切るようになり、ミーガンもまたケイディを守るという使命を全うするべく極端な行動に出ていく。やがて、ケイディの周辺で相次ぐ不可解な死亡事故。大切なケイディを傷つけようとする相手を、ミーガンが文字通り「排除」していたのだ。そのことに気付いたジェマは、ミーガンの危険な暴走を止めようとするのだが…? CGをなるべく排したミーガンの特殊効果にも要注目 監督に起用されたのは、世界各国のホラー&ファンタジー系映画祭で受賞したニュージーランド産ホラー・コメディ『ハウスバウンド』(’14)のジェラード・ジョンストーン監督。『マリグナント 狂暴な悪夢』(’21)や『死霊館のシスター 呪いの秘密』(’23)でも組んだ脚本家アケラ・クーパーと原案を書いたジェームズ・ワンは、当初より恐怖とユーモアの要素を併せ持つブラック・コメディ路線を意図しており、その点においてジョンストーン監督は理想的な人材だったという。確かに、ミーガンが突然ミュージカルのように歌い始めたり、クネクネとした奇妙な動きで踊ったり飛び回ったりするシュールな演出はかなりオフビート。だいたい、主人公ジェマが勤める玩具メーカーのファンキという社名だって、実在するアメリカの有名な玩具メーカー、ファンコの明らかなパロディだ。ジェマが開発したファンキのヒット商品ペッツが、昨今世界中でブームのラブブになんとなく似ているのは、まあ、奇妙な偶然みたいなものであろう。 そのジョンストーン監督曰く、本作は「21世紀の子育てについての倫理を問う物語」だという。我が子の相手をしている余裕のない多忙な保護者が、決して教育に良くないと分かっていながらも、ついついスマホやタブレットを与えてしまうのと同じように、お友達AI人形のミーガンを姪っ子ケイディに与えてしまうジェマ。本来ならば子供と向き合って成長を促すべきは、保護者であるジェマの大切な役割であるはずなのだが、しかし忙しさにかまけてその任務を怠ったがために、とんでもなく手痛いしっぺ返しを食らってしまうことになる。 あくまでもテクノロジーは人間の生活を便利に支えるもの。そこに依存してしまうことで様々な弊害が生じることは想像に難くない。ましてや、現実世界の様々な場面で既にAIが活用されている昨今、昔であれば空想科学の領域に過ぎなかったハイテク人形の暴走も、21世紀の現在では「そう遠くない未来に起きうる脅威」として強い説得力を持つ。そう、我々は既にSFの世界を生きているのだ。そういう意味で、ちょっとシャレにならない物語。だからこそ、ブラックなユーモアの要素が必要だったのかもしれない。 もちろん、己の使命に忠実すぎるがゆえに災いを招いていく狂気のAI人形、ミーガンの強烈なキャラクターも本作が成功した大きな要因であろう。もちろん、完全自律型の人型ロボットなどまだ現実には存在しないので、本作に出てくるミーガンも特殊効果の賜物。ただし、監督や製作陣の方針としてプラクティカル・エフェクトにこだわっており、アナログとハイテクを組み合わせたアニマトロニクスの技術が駆使されている。CGは主にワイヤーなど余計なものを除去するため使用。シーンごとにミーガンの上半身や腕など幾つものパーツが用意され、それを技術者たちが手動装置や無線機を用いて操作している。なので、表情の変化や目の瞬きなどもCG加工ではなく機械操作。ただし、ミーガンが飛んだり跳ねたり踊ったりする場面は、物理的にアニマトロニクスでは表現が不可能であるため、撮影当時11歳の子役兼ダンサー、エイミー・ドナルドがミーガンのマスクやカツラを被って演じている。 主演はアメリカで一世を風靡したHBOの女性ドラマ『GIRLS/ガールズ』(‘12~’17)でブレイクし、映画では『ゲット・アウト』のヒロイン役で知られる女優アリソン・ウィリアムズ。しかし圧巻なのは、予期せぬ事故で両親を失った少女ケイディを演じている子役ヴァイオレット・マッグロウだ。もともと「型にはまらない子供」であるため、両親の判断で学校へ通わず自宅学習していたケイディ。ただでさえ繊細で気難しい性格の少女が、両親の死による深いトラウマと悲しみを抱え、それゆえ全てを受け入れてくれる「親友」のミーガンに依存してしまう。その複雑な心情を演じて実に見事だ。■ 『M3GAN/ミーガン』© 2023 UNIVERSAL STUDIOS. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2025.11.05
混沌とする中東情勢の最前線をありのままに描く骨太な大人向けスパイ・アクション『カンダハル 突破せよ』
ハリウッド・アクションを牽引する新たな名コンビ ジョン・フォード監督&ジョン・ウェインの例を出すまでもなく、古今東西の映画界において何本もの作品で繰り返しタッグを組む、いわゆる名コンビと呼ばれる監督と主演俳優の顔合わせは枚挙に暇ない。それはアクション映画のジャンルでも同様のこと。古くはドン・シーゲル監督&クリント・イーストウッドにハル・ニーダム監督&バート・レイノルズ、もっと近いところだとガイ・リッチー監督&ジェイソン・ステイサムやアントワーン・フークア監督&デンゼル・ワシントンあたりか。B級アクション・マニアにはマイケル・ウィナー監督&チャールズ・ブロンソンとか、アーロン・ノリス監督&チャック・ノリスなんかも捨て難かろう。最近のハリウッドであればピーター・バーグ監督&マーク・ウォールバーグ、そして今回のテーマであるリック・ローマン・ウォー監督&ジェラルド・バトラーのコンビも外せまい。 スタントマンとして『リーサル・ウェポン2』(’89)から『デイズ・オブ・サンダー』(’90)、『ラスト・アクション・ヒーロー』(’93)から『60セカンズ』(’00)まで数多くのアクション映画に携わり、監督としてもヴァル・キルマー主演の『プリズン・サバイブ』(’08)やドウェイン・ジョンソン主演の『オーバードライヴ』(’13)などを手掛けたリック・ローマン・ウォー監督。一方のジェラルド・バトラーは『オペラ座の怪人』(’04)のファントム役でスターダムを駆け上がるも、以降は筋骨隆々の肉体美で古代スパルタ王レオニダスを演じた『300(スリーハンドレッド)』(’06)などのアクション映画を中心に活躍する。 そんな2人が初めて出会ったのは、『エンド・オブ・ホワイトハウス』(’13)と『エンド・オブ・キングダム』(’16)に続いて、ジェラルド・バトラーが無敵の米大統領シークレット・サービス、マイク・バニングを演じる大人気アクション映画『エンド・オブ~』シリーズの第3弾『エンド・オブ・ステイツ』(’19)だった。実は、シリーズのテコ入れとして新規路線を打ち出すべく起用されたというウォー監督。アクション映画の主人公は現実離れした無敵のヒーローである必要などない。いや、むしろ欠点や弱点があればこそ観客は主人公に我が身を重ねて共感し、決して完璧ではないヒーローが困難を乗り越えていく姿に勇気と希望をもらえる。常日頃からそう考えていた監督は主人公マイク・バニングを寄る年波や職業病で密かに苦しむ不完全で人間的なヒーローとして描き、アクション・シーンにもリアリズムを持ち込むよう努めたという。 この新たな方向性に共鳴したのが、他でもない主演俳優のジェラルド・バトラー。「一度に50人を殺しても無傷でいられるようなヒーローを演じるのにウンザリしていた」というバトラーは、たとえ悪役であろうと登場人物の人間性を大事にする、物語を安易な勧善懲悪に落とし込まない、アクションをただの見世物にしないというウォー監督の信条に強く感銘を受けたらしい。この『エンド・オブ・ステイツ』ですっかり意気投合した2人は、翌年の『グリーンランド-地球最後の2日間-』(’20)でも再びタッグを組むことに。ここでも「非日常的な状況下でリアルな人間像を描く」ことを目指したウォー監督は、巨大隕石の衝突という地球滅亡の危機から家族を救わんとする主人公を「異常な状況に直面したごく普通の父親」として描き、演じるバトラーもその期待に応えるよう努めたという。そんな名コンビが三度顔を合わせ、今度は緊迫する中東情勢をテーマにしたスパイ・アクション映画が『カンダハル 突破せよ』(’23)である。 身元の割れたスパイ、最悪の危険地帯から脱出なるか!? 主人公はMI6(英国秘密諜報部)の工作員トム・ハリス(ジェラルド・バトラー)。優秀な潜入工作のプロとして信頼されるエリートだが、しかし常に家庭よりも任務を優先させてきたため夫婦関係は破綻し、年頃の娘ともすっかり疎遠になってしまっている。おかげで妻とは離婚することに。せめて娘との関係だけでも修復したいと考えた彼は、CIAに要請されたイランの地下核施設を破壊するための極秘任務を無事に終えると、娘の卒業式に参列するためドバイ経由でロンドンへと向かう。ところが、ドバイ在住のCIA仲介役ローマン(トラヴィス・フィメル)から呼び出され、次なるミッションを依頼される。CIAはイランの核開発を阻止するため、ダイバードの秘密滑走路を奪う計画だった。そこで、まずはアフガニスタンのヘラートへ向かい、そこから再びイランへ潜入して任務を遂行しろというのだ。いや、娘の卒業式があるから…と断ろうとしたトムだったが、しかし断り切れずに引き受けてしまう。やはりこの仕事が好きなのだ。 かくしてアフガニスタン入りしたトム。2021年にアメリカと多国籍軍が完全撤退した同国だが。しかしその後もタリバンやパキスタン、インド、ロシア、中国、さらにはISIS(イスラム国)までもが入り乱れて勢力争いを繰り広げ、もはや冷戦時代のベルリンのような様相を呈していた。工作員にとってはまさに最悪の危険地帯。地元の各言語に精通して土地勘のある優秀なサポート役が必要だ。そこでローマンが白羽の矢を立てたのが、家族と共にアメリカへ移住したアフガニスタン系移民の中年男性モハマド・ダウド(ナヴィド・ネガーバン)である。偽造パスポートで身分を偽って入国したモハマド(通称モー)。バレたら逮捕・拷問は免れない。一般人の彼がなぜそんな危険を冒してまで祖国へ戻り、CIA工作員の通訳を引き受けたのか。実は、ヘラートで学校教師をしている妻の妹が消息を絶ってしまい、その行方を探そうと考えたのである。女性の教育に否定的なタリバンに拘束された可能性があった。 先に現地入りしていたモーと合流したトムは、イランへ潜入する準備を着々と進めていたところ、そこで予期せぬ事態が起きてしまう。国防総省の関係者からリークされた情報をもとに、中東におけるアメリカの秘密工作を取材していた女性記者ルナ・クジャイ(ニーナ・トゥーサント=ホワイト)がイラン革命防衛軍の特殊部隊、通称コッズ部隊によって逮捕され、そこからイラン地下核施設の破壊工作に関与したトムと同僚工作員オリヴァー(トム・リース・ハリーズ)の偽名と顔写真がマスコミに公開されてしまったのだ。イラン国内に留まっていたオリヴァーは殺され、ファルザド・アサディ(バハドール・ファラディ)率いるコッズ部隊はトムを捕らえるべく国境を越えてヘラートへと向かう。そればかりか、地元を支配するタリバンやその支援をするパキスタン軍統合情報部(ISI)工作員カヒル(アリ・ファザル)など各勢力が、トムを捕らえてイランへ高値で売り飛ばすために動き始めるのだった。 すぐに任務中止を指示してトムとモーの脱出を計画するローマン。30時間後にカンダハルのCIA基地から英国機が飛び立つ。それが残された唯一のチャンスだ。かくしてヘラートから640キロ離れたカンダハルへ向かうトムとモー。ローマンもアフガニスタン国陸軍特殊部隊の協力を得て、彼らの脱出を支援するべく現地へ向かう。果たして、トムとモーは無事に生きて家族のもとへ戻れるのか…? 中東情勢の今をリアルに投影したストーリー 脚本を書いたミッチェル・ラフォーチュンは元DIA(アメリカ国防情報局)エージェント。本作は長いことアフガニスタンで諜報活動に携わっていた彼の、実体験をベースにしたフィクションである。最初に脚本を読んでドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『ボーダーライン』(’15)を連想したというウォー監督。同作が麻薬戦争の最前線を内側からリアルに描いたように、本作も中東における「影の戦争」の最前線を内側からリアルに描いているのだ。ただし、脚本のオリジナル版が執筆されたのは’16年のこと。その後、アフガンからアメリカが完全撤退するなど中東情勢が大きく変化したため、ウォー監督の指導のもとで脚本も書き直されている。 ウォー監督が本作で強くこだわったのは、特定の勢力を悪魔化も英雄化もすることなく、我々と同じ長所も短所もある人間として描くこと。そして、中東情勢における過酷な現実をありのままに描きつつ、決して監督自身の意見を押し付けたりはしないこと。自らの役割は問題を提起して論議のきっかけを作ることであり、その答えは観客自身が導き出すべきだと考えたのである。なので、中東諸国の政情不安を招く原因を作ったアメリカおよび西欧諸国の罪にハッキリと言及しつつも、しかしそれを一方的に断罪したりはしない。我々は「どの陣営にも悪質な個人は存在するが、しかし全員がそうではない」という当たり前の事実を忘れ、集団全体を悪魔化してしまう傾向にあるというウォー監督。本作でも例えば、コッズ部隊のリーダーであるファルザドは一般人を拉致して拷問したり、主人公トムを抹殺するべく執拗に追いかけてきたりするが、しかしプライベートでは妻子を心から愛する良き家庭人であり、なおかつ決して仕事を楽しんでいるわけではない。あくまでも上からの指示に従っているだけ。むしろ、彼自身はできればこんなことしたくないと考えているように見受けられる。 それは主人公トムとて同じこと。彼も基本的には家族や友人を愛する善良な人物だが、しかしイランの地下核施設の破壊工作では、たまたまそこで働いていただけに過ぎない大勢の職員たちを死に至らしめている。確かに彼自身がボタンを押したわけではないが、殺戮に加担してしまったことは間違いないだろう。とはいえ、トムにとってみればそれもまたただの仕事。上から指示された任務を遂行したまでに過ぎない。彼らに共通するのは、幸か不幸かその分野で他者よりも優れた才能を持っていること、なおかつその仕事に生きがいを感じてしまっていること。そのうえ、暴力が暴力を呼ぶ弱肉強食の残酷な「影の戦争」の世界に慣れて感覚が麻痺してしまい、もはや抜け出したくても抜け出せなくなっている。それゆえトムは家族から見放されてしまった。この戦場=職場が自分の居場所、自分のアイデンティティとなってしまった仕事人間たちの戦いに、「影の戦争」に終わりが見えない理由の一端が垣間見えると言えよう。 そうした中で異彩を放つのが、パキスタン軍統合情報部(ISI)の若きエリート工作員カヒルの存在だ。現地で支配を広げるタリバンと祖国のパイプ役を務め、与えられた職務は完璧に遂行するカヒルだが、しかしプライベートでは高級ブランドのファッション・アイテムを好んで電子タバコをたしなみ、最先端のヒップホップを聴いて出会い系アプリを利用してレンジローバーを乗り回す今どきの若者であり、旧態依然とした中東から自由な西欧社会へ脱出する道を模索している。この人物像には、ウォー監督自身がサウジアラビアで体感した中東社会の「今」が投影されているという。 イランやアフガニスタンでの撮影が現実的に不可能であるため、ムハマンド・ビン・サルマン皇太子の主導によって’18年より多方面での自由化が進むサウジアラビアでロケされた本作。脚本家ラフォーチュンと共に一足早く現地入りして製作準備を進めていたウォー監督は、超保守派の旧世代と進歩派の新世代が衝突するさまを目の当たりにしたという。仕事と祈りと睡眠以外の変化を一切望まず伝統的な生活様式を頑なに守らんとする旧世代に対して、自由で近代的で文化的な西洋的価値観を望む新世代。その対立構造がカヒルを通して本作のストーリーにも反映され、観客が中東の在り方を考えるうえで重要な材料の一つとなっている。 すっかりファミリー向けアニメとブロックバスター映画に市場を占拠されてしまった昨今、かつて毎週末映画館で楽しむことの出来た「大人向けアクション映画」の復権を望むリック・ローマン・ウォー監督と、志を同じにするというジェラルド・バトラー。この『カンダハル 突破せよ』は、そんな2人がタッグを組んだ現時点で最良のお手本と言えよう。’26年の年明けには『グリーンランド-地球最後の2日間-』の続編『Greenland 2: Migration』(‘26・日本公開未定)が公開される予定で、今後は『エンド・オブ~』シリーズの第4弾『Night Has Fallen』(スケジュール未定)の企画も控えている。ウォー監督&バトラーの名コンビからますます目が離せなくなりそうだ。■ 『カンダハル 突破せよ』© 2022 COLLEAH PRODUCTIONS LIMITED. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2025.12.04
孤独な現代人へのメッセージも込められた古典的名作の見事なアップデート『LIFE!/ライフ』
原作小説を大胆に翻案した’47年版 1939年に雑誌「ザ・ニューヨーカー」に掲載された作家ジェームズ・サーバーの小説「ウォルター・ミティの秘密の生活」。平凡な日常生活を淡々と送る平凡で冴えない男性ウォルター・ミティが、毎週恒例である妻の美容院と買い物に付き合って出かけたところ、その道すがら自らの英雄的な活躍を妄想した5つの白日夢を見る。ある時は猛烈な嵐に立ち向かう海軍飛行艇のパイロット、ある時は困難な手術を華麗にこなす天才的な外科医、そしてある時は命がけの秘密工作に挑む英国軍兵士。そこから浮かび上がるのは、地味で控えめで温厚なため周囲から過小評価され、かといって大胆な行動を取るような勇気も度胸もなく、白日夢という束の間の現実逃避に救いを見出すしかない凡人の姿である。 恐らく、世の中に彼のような夢想家は決して少なくないはず。むしろ、誰しも心の中に「小さなウォルター・ミティ」を抱えているのではないだろうか。そんな普遍的ストーリーが多くの読者の共感を呼んだのか、たったの2ページ半にしか過ぎない短編小説「ウォルター・ミティの秘密の生活」は大変な評判となり、これまでに2度もハリウッドで映画化されている。それが当時の日本人からも熱愛された喜劇王ダニー・ケイの主演作『虹を掴む男』(’47)と、ベン・スティラーが監督と主演を兼ねた本作『LIFE!/ライフ』(’13)である。 まずは最初の映画化である『虹を掴む男』について振り返ってみよう。ダニー・ケイ扮するウォルター・ミティは、ニューヨークの出版社に勤務するしがないサラリーマン。パルプ小説雑誌の編集部で真面目に働くウォルターだが、しかし過干渉で口うるさい母親には小言ばかり言われ、自己中な社長には自分の企画やアイディアを片っ端から盗まれ、我儘な婚約者とその母親には都合よくこき使われ、幼馴染のガキ大将にはいまだ小バカにされている。日頃からウォルターの尊厳を土足で踏みつけておきながら、しかしその自覚が全くない周囲の人々。なぜなら、気が弱くてお人好しなウォルターが怒りもしなければ反論もせず、それどころか自分を卑下して相手に従ってしまうため、むしろ彼らは無能で頼りないウォルターを自分たちが助けてやっている、親切にしてあげていると勘違いしているのだ。 いつも周囲から軽んじられ不満を溜めたウォルター。そんな彼にとって唯一のストレス解消が「白日夢」である。ある時は大海原の激流に立ち向かう勇敢な船長、ある時は患者の病気だけでなく医療機器の不具合まで直してしまう天才外科医、ある時は詐欺師どもをコテンパンにやっつける西部の天才ギャンブラーなど、まるで自分が編集しているパルプ雑誌の小説に出てくるような無敵のヒーローになってブロンド美女を救う様子を夢想するウォルター。そんなある日、通勤列車の中で白日夢に出てくる美女と瓜二つの女性ロザリンド(ヴァージニア・メイヨ)と出くわした彼は、やがて行方不明になったオランダ王室の秘宝を巡る陰謀事件へと巻き込まれ、愛するロザリンドを救うため暗殺者の執拗な追跡をかわしながら、秘宝の隠し場所を記した黒い手帳を探して大冒険を繰り広げていく。 ヒーロー願望を抱えた地味で目立たない夢想家の凡人という主人公ウォルターの基本設定を踏襲しつつ、原作とは似ても似つかないストーリーに仕上がった『虹を掴む男』。アクションありサスペンスありロマンスあり、さらにはミュージカルにファンタジーにドタバタ・コメディもありという大盤振る舞い。この大胆すぎる脚色は製作を手掛けた大物プロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンの意向を汲んだものだったとされる。怒り心頭の原作者サーバーからは猛抗議を食らったそうだが、しかしテクニカラーの鮮やかな色彩で描かれる愉快で賑やかな大冒険は、これぞまさしく古き良きハリウッド・エンターテインメントの醍醐味。臆病者で気の弱いウォルターが、奇想天外な事件に巻き込まれて右往左往する中で意外にも英雄的な力を発揮し、数々の困難を乗り越えることで自信をつけていくという負け犬の成長譚を通して、勇気をもって一歩踏み出せば誰だってヒーローになれる!という前向きなメッセージを込めた筋書きも実に後味が良い。名作と呼ばれるに相応しい映画と言えよう。 21世紀の現代版は原作小説よりもその映画版に近い? そんなウォルター・ミティの物語を再び映画化すべく動き出したのが、『虹を掴む男』のプロデューサーだったサミュエル・ゴールドウィンの息子サミュエル・ゴールドウィン・ジュニア。企画自体は’94年頃からあったらしく、当初はウォルター役にジム・キャリー、監督はロン・ハワードという顔合せだったという。しかしプロデューサー陣の満足するような脚本がなかなか出来ず、業界用語で開発地獄(Development Hell)と呼ばれる長期間の難産状態に陥ってしまった。 ようやくスティーヴン・コンラッドの書いた脚本でゴーサインの出たのが’10年のこと。企画立ち上げから実に15年以上が経っていた。その間に映画会社重役からプロデューサーに転身したゴールドウィン・ジュニアの息子ジョン・ゴールドウィン(つまりサミュエル・ゴールドウィンの孫)が製作陣に加わり、オーウェン・ウィルソンやマイク・マイヤーズ、サシャ・バロン・コーエンなどがウォルター役の候補に挙がっては消え、スティーヴン・スピルバーグやチャック・ラッセル、マーク・ウォーターズなどが監督候補として企画に関わったが、しかし最終的にベン・スティラーが主演と監督を兼ねることで落ち着く。こうして作られたのが本作『LIFE!/ライフ』だったのである。 ◆『LIFE!/ライフ』撮影中のベン・スティラー(中央) 今回の主人公ウォルター・ミティ(ベン・スティラー)は、世界的に有名な老舗フォトグラフ誌「ライフ」の写真管理責任者。仕事に関しては真面目で有能な完璧主義のプロフェッショナルだが、その一方で性格は几帳面かつ保守的で冒険や変化を好まず、それゆえ職場でも地味で目立たない存在だ。1ヶ月前に入社したシングル・マザー女性シェリル(クリスティン・ウィグ)に淡い恋心を抱いているが、しかし一緒の職場に居ながら話しかける勇気さえない。毎日同じことを繰り返す平凡で退屈な人生。かつてはモヒカン刈りでスケボーが大好きな腕白少年だったが、早くに父親と死別したことから母親(シャーリー・マクレーン)を支えるため働き続け、そのため外の世界を見に行くような余裕すら持てなかった。なので、シェリルと接点を持ちたいと考えて入会した出会い系サイトでも、プロフィールに書けるようなエピソードは全くなし。そんなウォルターにとって唯一の現実逃避は、勇敢なヒーローとなって大活躍する自分の姿を思い描くこと。空想の中だけでは理想の自分になれるのだ。 そんな折に「ライフ」誌の休刊が発表され、オンラインへの移行に伴って大掛かりな人員整理が行われることとなる。事業再編のため外部から送り込まれた新たなボス、テッド(アダム・スコット)は、「ライフ」誌の果たしてきた役割もその文化的な価値も全く理解していない杓子定規なビジネスマン。誰がクビを切られてもおかしくない。社員一同が戦々恐々とする中で進められる最終号の準備。その表紙を飾る写真を担当するのは、「ライフ」誌の看板フォトジャーナリストである冒険家ショーン・オコンネル(ショーン・ペン)である。ウォルターのもとにはショーンから大量の写真ネガと、ウォルターの長年の堅実な働きぶりに対する感謝の手紙、そしてささやかな贈り物として革財布が届けられるのだが、しかし最終号の表紙に使うよう指示された25番のネガだけがどこにも見当たらなかった。 いったい肝心の25番はどこにあるのか?テッドからは真っ先に表紙写真を見せるように催促されているウォルター。とにかく、ショーンと連絡を取ってネガの行方を突き止めなくてはならないが、しかし写真撮影のため世界中を飛び回っている彼の居場所を掴むのは至難の業。想いを寄せるシェリルから外の世界へ一歩踏み出すよう背中を押されたウォルターは、僅かな手がかりをもとにショーンを追いかけてグリーンランドからアイスランド、アフガニスタンへと渡り、ヘリから北海へジャンプしてサメと格闘したり、火山の大噴火から決死の脱出を試みたりと、ちょっとあり得ないような大冒険を繰り広げていくことになる。 『虹を掴む男』と同じく、ジェームズ・サーバーの原作とは大きく異なる内容となったベン・スティラーの『LIFE!/ライフ』。むしろ、アクションやサスペンスをふんだんに盛り込んだ娯楽性の高さや、主人公ウォルターが実際に平凡な日常を飛び出して奇想天外な冒険を繰り広げ、その数奇な体験を通して逞しい人間へと成長するという展開は、どちらかというと『虹を掴む男』のストーリーに近いと言えよう。ウォルターの職場が出版社というのも同じ。そういう意味で、本作は短編小説「ウォルター・ミティの秘密の生活」の2度目の映画化というより、『虹を掴む男』のリメイクと呼ぶ方が相応しいかもしれない。 全体を通して21世紀の世相を巧いこと取り込んだ脚本だと思うが、中でも特に良かったのがウォルターの勤務先を「ライフ」誌という実在の雑誌編集部に設定したことであろう。インターネットの普及に伴う出版不況によって、’07年に惜しまれつつ休刊した老舗のフォトグラフ雑誌「ライフ」。そこで屋根の下の力持ちとも言うべき写真管理を任され、たとえ目立つことのない地味な仕事であっても、コツコツと真面目に職務をこなしてきたウォルター。これは、臆病で控えめで自己肯定感の低い平凡な男性が、自分の殻を打ち破って自尊心を取り戻す物語であると同時に、テクノロジーの目覚ましい発達によって何もかもが合理化され、急速に変化する社会で上手く立ち回った人間ばかりが得をする現代にあって、ウォルターのように不器用でも目立たない存在でも、勤勉で慎ましくて思いやりのある誠実な人間こそが真のヒーローと呼べるのではないか?と見る者に問いかける。つまり、この社会を構成する我々ひとりひとりが既にヒーローなのだ。それを象徴するのが、最終号の表紙を飾るショーンの撮った写真。このように同時代の世相を通して人間の有り様を考察する視点の面白さと奥深さこそが、本作と『虹を掴む男』の最も大きな違いと言えよう。 加えて、劇中で何度も登場する「ライフ」誌のスローガンにも要注目。「世界を見よう、危険でも立ち向かおう、壁の裏側をのぞこう、もっと近づこう、お互いを知ろう、そして感じよう、それが人生(ライフ)の目的だから」。これは、今までの人生で一度も遠くへ行ったことがなかった、冒険をしたことがなかった、他者と深くつながったことのなかった主人公ウォルターへのメッセージであると同時に、インターネットの発達によって人間同士の関係性が希薄になった21世紀の現代に生きる人々全てへ向けたメッセージでもある。そうやって考えると、90年近く前に書かれた小説、80年以上前に作られたその映画版をベースにしつつ、見事なくらいに現代性を纏った作品と言えるだろう。実に良く出来た古典のアップデートである。 もちろん、最先端のCG技術をフル稼働して描かれるウォルターの奇想天外な白日夢も大きな見どころ。アナログゆえ映像表現に限界のあった『虹を掴む男』の空想シーンと違って、デジタルを駆使した本作のそれには限界が全くない。文字通り何でもアリの異世界アドベンチャーが縦横無尽に展開する。また、映画の冒頭は無機質で整然としたモノトーンの映像で統一され、カメラもほとんど動くことがないのだが、しかしウォルターが外の世界へ踏み出すと同時にカメラも大胆に動き始め、色彩も次第に豊かとなっていく。この主人公の心理的な変化に合わせた演出スタイルの使い分けも面白く、その細部まで計算されたベン・スティラー監督の洗練された映像技法にも感心する。劇場公開時には批評家から高く評価され、興行的にも大成功を収めた本作だが、しかしアカデミー賞など賞レースで殆ど無視されてしまったのは惜しまれる。■ 『LIFE!/ライフ』© 2013 Twentieth Century Fox Film Corporation and TSG Entertainment Finance LLC. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2025.12.25
騎士道精神の不都合な真実と家父長制の理不尽を描く巨匠リドリー・スコットの傑作歴史ドラマ『最後の決闘裁判』
中世ヨーロッパに存在した「決闘裁判」 今となっては俄かに信じ難い話かもしれないが、かつて中世のヨーロッパには「決闘裁判」なるものが存在した。証人や証拠が足りないために通常の裁判では解決困難な告訴事件の判定を、原告と被告による生死を賭けた決闘に委ねようというのだ。もちろん、統治者のお墨付きを得た正式な裁判である。その背景にあったのは、「真実を知っているのは神だけであり、神は必ずや正しい者に味方をする」というキリスト教の概念だ。なので、決闘の勝敗=神の審判。勝てば正義と栄誉と神の祝福を得られるが、しかし負けた方はたとえ一命を取りとめても死罪は免れない。冷静に考えれば、なんとも理不尽な裁判システムである。それゆえ、中世後期になるとカトリック教会やフランス国王、神聖ローマ皇帝が相次いで決闘裁判を否定し、14世紀以降はほとんど姿を消すことになる。 フランスで最後に決闘裁判が行われたのは1386年12月29日のこと。由緒正しい名家出身の騎士ジャン・ド・カルージュの妻マルグリットが、夫の旧友にして領主の覚えめでたい家臣ジャック・ル・グリに強姦されたと訴えたのである。予てよりル・グリの分不相応な出世に腹を立てていたカルージュは、なんとしてでも彼に罪を償わせようと告訴するも、ル・グリ本人は頑なに否定しており、なおかつ決定的な証拠も証人にも事欠く。そのうえ、領主のピエール伯爵がル・グリの味方に付いていた。通常の裁判では勝ち目がない。そこでカルージュはフランス国王シャルル6世に直訴し、当時すでに形骸化していた決闘裁判の実施を願い出たのだ。果たして、名家の貴婦人は本当に凌辱されたのか、それとも単なる虚偽なのか。そのセンセーショナルな事件の性質とも相まって、当時のフランスで一大スキャンダルになったという「最後の決闘裁判」を映画化した作品が、巨匠リドリー・スコットの手掛けた歴史ミステリー『最後の決闘裁判』(’21)である。 14世紀フランスで実際に起きたレイプ事件、その真相とは…? 決闘裁判へと至るまでのあらましを、ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)と妻マルグリット(ジュディ・カマー)、ジャック・ル・グリ(アダム・ドライヴァー)という当事者たち3人の、それぞれの視点から多角的に描いていく本作。つまり、バージョンは3つだが基本的な物語はひとつだ。まずは、その土台となる物語の流れを振り返ってみよう。 イングランドとの百年戦争(1337年~1453年)の真っ只中にあったフランス王国。リモージュの戦い(1370年)でお互いに助け合った貴族ジャン・ド・カルージュとジャック・ル・グリは、ル・グリがカルージュの息子の名付け親になるほど親しい間柄だった。祖父の代からベレン要塞の長官を務める由緒正しい名門一族出身のカルージュと、地位も名誉もない家柄ゆえ一度は聖職に就こうと考えたル・グリ。しかし恵まれた生い立ちのカルージュは妻子を病のため相次いで失い、そのうえ折からの凶作が原因で財政もひっ迫してしまう。反対に新たな領主・ピエール伯爵(ベン・アフレック)に気に入られたル・グリは宮廷内で順調に出世。このままでは自らの立場が危ういと考えたカルージュは、コタンタン半島への出征に参加して武勲を立て、若くて聡明で美しい貴族の娘マルグリットと再婚する。 マルグリットの父親ロベール・ド・ティボヴィル(ナサニエル・パーカー)は、かつてイングランド側についたことのある裏切り者。それゆえ、フランス国王に絶対的な忠誠を誓った誇り高き従騎士カルージュと娘の結婚は汚名を削ぐにうってつけだ。反対にカルージュにとっても、莫大な持参金が付いてくる裕福なマルグリットは理想の結婚相手だった。ところが、その持参金に含まれているはずだった土地の一部が、以前に借金のかたとしてピエール伯爵に取り上げられ、あろうことかル・グリに褒美として与えられていたことを知ったカルージュは激怒し、母親ニコル(ハリエット・ウォルター)の忠告にも耳を貸さず土地を取り戻すためピエール伯爵に対して訴訟を起こす。だが、相手はフランス国王とも親戚関係にある領主。当然ながらカルージュは敗訴してしまい、以前から折り合いの悪かったピエール伯爵との関係はさらに悪化、親友だったル・グリとも疎遠になってしまう。 1382年にカルージュの父親が亡くなると、ピエール伯爵の指名でル・グリがベレム長官に就任。憤慨したカルージュは再びピエール伯爵を訴えるも、またもや敗訴してしまった。1384年にカルージュの友人クレスパン(マートン・チョーカシュ)に息子が誕生。妻マルグリットを伴って祝宴に駆け付けたカルージュは、そこで再会したル・グリと友情を確かめ合ったことで両者の緊張関係は解消。さらに、彼はスコットランド遠征でナイトの称号を授かり、マルグリットと共に母親ニコルが暮らすカポメスニルの城を訪れる。 それは1386年1月18日。カルージュが遠征の給金を受け取るためパリへ向かい、義母ニコルも所用のため召使たちを連れて外出、マルグリットがひとりで留守番をしていたところへ、従僕ルヴェルを伴ったル・グリがカポメスニルの城へやって来る。クレスパンの祝宴で初めて会って以来、マルグリットに横恋慕していたル・グリは、カルージュの留守を狙って彼女に会おうと考えたのである。知り合いゆえル・グリを城の中へ入れたマルグリット。そんな彼女をル・グリは無理やり強姦する。当時の貴族社会では名誉と面子が何よりも重要。女性が性暴力被害に遭っても口をつぐむのが常だったが、しかし泣き寝入りを拒んだマルグリットは帰宅した夫に事実を告白。だが、十分な証拠もなければ有力な証人もいないことから、カルージュは決闘裁判を求めて動き始める…。 3つの異なる視点から浮かび上がる男たちのエゴと踏みにじられる女性の尊厳 以上が、決闘裁判へと至る客観的な流れだ。第1章ではジャン・ド・カルージュの目から見た真実、第2章ではジャック・ル・グリの目から見た真実、そして第3章ではマルグリットの目から見た真実が描かれ、いずれも事の次第は上記の通りで一緒なのだが、しかし視点が変わることで細部のニュアンスにも変化が生じ、結果として受ける印象が大きく異なってくる。例えば、カルージュ自身の目から見た本人は、真面目で高潔で曲がったことの嫌いな正義の人。若くて美しい妻マルグリットを心より愛し、なかなか後継ぎを授からないことを気に病む彼女を慰める寛大な夫でもある。反対にル・グリは出世のためなら恩を仇で返すような人物。これがそのル・グリの視点となると、カルージュは頑固で嫉妬深くて冗談の通じない愚か者の堅物。騎士たちの間でも人望のない嫌われ者であり、そんな彼を必死で擁護したにも関わらず逆恨みされるル・グリは遊び人だが友情に厚い好人物である。そう、お互いに相手に対する印象と自己認識がまるっきり正反対なのだ。 さらに、マルグリットの視点に移るとカルージュは愛妻家を自負する身勝手で自己中な偽善者、ル・グリは自身の優れた容姿を鼻にかけた軽薄なナルシストにしか過ぎない。それゆえ、マルグリットに横恋慕したル・グリは彼女もまた自分に気があると勝手に勘違いし、それこそ「嫌よ嫌よも好きのうち」のノリでマルグリットをレイプする。人妻の貴婦人ゆえ嫌がるフリをしただけ、本当は彼女だって俺を求めていたはずだと。そして、妻が凌辱されたことを知って激怒したカルージュは、貶められたマルグリットの名誉のためと称して決闘裁判へ挑むわけだが、しかし自分が負ければ妻であるマルグリットも偽証罪で生きたまま火あぶりの刑になることを彼女に隠していた。妻の不名誉を自身の名誉挽回に利用しようとしただけだったとも言えよう。結局のところ、どちらの男性もマルグリットを大切にしているつもりで全く大切にしていない。それどころか、彼らが決闘裁判に挑んだ最大の動機は自らの名誉や自尊心や虚栄心であり、被害者であるマルグリットの存在はすっかり置き去りにされてしまうのだ。 原作は2004年に出版されたカリフォルニア大学教授エリック・ジェイガーのノンフィクション本「決闘裁判 世界を変えた法廷スキャンダル」。600年を経た今もなお真相が不明瞭であり、歴史研究者の間でも諸説ある「最後の決闘」の顛末を、ジェイガーは10年間に渡って詳細にリサーチ。当時の記録文書や年代記ばかりか、財産証明書や建築設計図、古地図などに至るまで、文字通りありとあらゆる歴史的な記録をくまなく調査し、最も真実に近いと思われる仮説を導き出したという。これを読んで映画化しようと考えたのがマット・デイモン。本作は『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』以来となるマット・デイモン&ベン・アフレックの共同脚本作品であり、2人は製作総指揮と出演も兼ねている。 ◆『最後の決闘裁判』撮影中のリドリー・スコット(中央) デイモンが当初より監督に想定し、実際にオファーしたのがリドリー・スコット。なにしろ、デビュー作『デュエリスト/決闘者』(’77)からしてヨーロッパ貴族の決闘ものだったし、アカデミー賞作品賞に輝く『グラディエーター』(’00)や『キングダム・オブ・ヘブン』(’05)、『エクソダス:神と王』(’14)など歴史劇は彼が最も得意とするジャンルのひとつである。しかも、『エイリアン』(’79)や『G.I.ジェーン』(’97)など強い女性を描くことにも定評があり、なおかつ『テルマ&ルイーズ』(’91)を筆頭としてフェミニスト的な視点を持つ作品も少なくない。中世ヨーロッパの封建社会にあって、男性の所有物として扱われた女性の痛みや悲しみや怒りに寄り添った本作の監督として、確かに彼ほど適した人物は他にいないかもしれない。 さらに、デイモンとアフレックは3人目の脚本家として『ある女流作家の罪と罰』(’18)で全米脚本家組合賞などに輝いたニコール・ホロフセナーを起用。黒澤明監督の『羅生門』(’50)をヒントに三つの視点から脚本が構成され、3人の脚本家がそれぞれカルージュ、ル・グリ、マルグリットの視点を担当したのだそうだ。なるほど確かに、男性と女性では普段から見えている世界が違う。女性であるホロフセナーがマルグリットの目に映る真実を描くことは、そういう意味で極めて理に適っていると言えよう。物語の焦点となるのは「誰の言うことが信用されるのか」ということ。そこを軸にして権力と財力がものをいう封建社会の不公平な構造が詳らかにされ、真実よりも名誉や建前が尊重される騎士道精神の不都合な真実が暴かれ、女性の尊厳と人権がないがしろにされる家父長制の理不尽が糾弾される。そして、そうした悪しき伝統の痕跡が、少なからず現代社会にも残っていることに観客は気付かされるはずだ。■ 『最後の決闘裁判』(C) 2021 20th Century Studios. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2026.02.02
シリアスな歴史ドラマと奇想天外なホラー・フィクションをマッシュアップしたアクション・エンターテインメントの快作!『リンカーン/秘密の書』
実はかなり安直だった原作の誕生秘話 「奴隷解放の父」とも呼ばれる第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが、実は人間の血に飢えた凶悪な吸血鬼軍団と死闘を繰り広げるヴァンパイア・ハンターだった!という、歴史上の事実とフィクションを巧みに融合した奇想天外なホラー・アクション映画だ。原作はアメリカの作家セス・グレアム=スミスが’10年に発表したベストセラー小説「ヴァンパイアハンター・リンカーン」。そう、グレアム=スミスといえば、日本でも翻訳出版されて話題になったマッシュアップ小説「高慢と偏見とゾンビ」の作者である。 マッシュアップ小説とは、既存の有名な古典文学(主に著作権保護期間が切れたもの)などに、それとは全く異質なジャンルの要素(主にホラーやSF)を混合(マッシュアップ)させた小説形式のこと。その原点と言われるのが、ジェーン・オースティンの英国文学「高慢と偏見」にゾンビ要素を加えた「高慢と偏見とゾンビ」だった。’09年に出版された同作は、ニューヨーク・タイムズのベストセラー・ランキングで3位を獲得し、後に映画化もされるほどの大ヒットを記録。これを契機に、同じくジェーン・オースティンの「分別と多感」とモンスター・ホラーを融合した「Sense and Sensibility and Sea Monsters」や、レフ・トルストイのロシア文学「アンナ・カレーニナ」とサイバーパンクを融合した「Android Karenina」、ルイザ・メイ・オルコットの女性文学「若草物語」と人狼ホラーを融合した「Little Women and Werewolves」など、似たような趣旨のパロディ的なハイブリッド小説が相次いで登場する。そして、それらを総称する「マッシュアップ小説」という単語が新たに生まれ、ちょっとしたブームの様相を呈したというわけだ。 その「高慢と偏見とゾンビ」が出版された’09年のこと。サイン会を行うために全米各地の書店を巡っていたグレアム=スミスは、どこへ行っても同じキャンペーンが展開されていることに気付く。それがエイブラハム・リンカーン大統領の関連書籍と、ヴァンパイアを主人公にしたステファニー・メイヤーのヤング・アダルト小説「トワイライト」シリーズおよびその映画版の関連書籍。ちょうど当時はリンカーン大統領の生誕200周年に当たり、なおかつ映画版『トワイライト』シリーズが空前の大ブームを呼んでいたことから、アメリカ中の書店がリンカーン大統領と「トワイライト」シリーズの特設コーナーを設けていたのである。そこでふと、リンカーンとヴァンパイアをマッシュアップしたら面白いのでは?と考えたことから生まれた企画が「ヴァンパイアハンター・リンカーン」だったのである。 いやはや、なんとも安直な発想ではあるのだが、しかしまあ、アイディアの生まれるきっかけというのは往々にしてそういうもんなのだろう。いずれにせよ、既に広く知られた歴史上の人物の伝記物語にホラー・フィクションの要素を融合するというのは、まさしくマッシュアップ小説の方程式を応用した手法と言えよう。似たようなことを考えた作家は他にもいて、イギリスのヴィクトリア女王が実は魔物ハンターだった!というA・E・ムーラットの小説「Queen Victoria: Demon Hunter」が一足早く登場。ロシアの文豪ゴーゴリが特殊能力を使って魔界絡みの難事件を解決していくというロシア映画『魔界探偵ゴーゴリ』(‘17~’18)三部作もコンセプト的には近いものがあるだろう。 そんな「ヴァンパイアハンター・リンカーン」の映画化企画が浮上したのは、なんとまだ小説を執筆している最中のこと。作者グレアム=スミスが出版社に提出した企画書を手に入れたティム・バートン監督とティムール・ベクマンベトフ監督、そしてプロデューサーのジム・レムリーの3人からオファーがあったのだ。ちょうど当時、シェーン・アッカー監督の長編アニメ映画『9~9番目の奇妙な人形』(’09)を共同プロデュースしたばかりだったバートンとベクマンベトフ、レムリーの3人。また一緒に仕事をしたいと考えた3人は、たまたま目にした「ヴァンパイアハンター・リンカーン」の企画書を読んで気に入り、自分たちの手で映画化しようと考えたのだそうだ。 小説を脱稿した直後から映画化企画は始動。当時はまだ映画の脚本など書いたことのないグレアム=スミス自身が脚色を手掛けることとなり、プロデューサー・チームとの打ち合わせを何度も重ねたうえで、原作本が出版される前にはすでに脚本の第1稿が完成していたという。その過程で、当初はプロデュースに専念するつもりだったはずのベクマンベトフが演出も兼ねることに。そう、民主化後のロシアで作られた最初のブロックバスター映画であり、公開当時は日本でも大いに話題となったダーク・ファンタジー映画『ナイト・ウォッチ』(’04)の監督である。もともとカザフスタン出身でロシア映画界を拠点にしていたベクマンベトフは、それゆえアメリカの歴史に関する知識はあまりなかったそうだが、しかし史実を踏まえながらも大胆で自由な解釈を盛り込んだ映画の監督としては、「固定概念に縛られない」という意味でむしろ適任だったかもしれない。 ちなみに、グレアム=スミスは本作よりも一足先に劇場公開されたティム・バートン監督のヴァンパイア映画『ダーク・シャドウ』(’12)でも脚本を担当しているが、しかし企画がスタートしたのは本作『リンカーン/秘密の書』(’12)の方が先だったようだ。 南北戦争はヴァンパイアからアメリカを守るための戦いだった!? 物語の始まりは1818年のインディアナ州。貧しい小作人の息子である少年エイブラハム・リンカーンは、残忍な農園主ジャック・バーツ(マートン・チョーカシュ)から暴行を受けている親友の黒人少年ウィル・ジョンソンを救おうとするが、しかしそれが原因で父親トーマス(ジョゼフ・マウル)が農園の仕事を解雇されてしまったうえ、多額の借金を今すぐ返済せよと迫られる。そんなことを言われても、払える金などないと突っぱねるトーマス。その晩、リンカーン一家の狭い家に怪しい人影が侵入する。暗闇で目を輝かせる不気味な人影の主はバーツ。寝ている母親ナンシーに忍び寄るバーツの姿を目撃する幼いリンカーン少年だったが、恐ろしさのあまり何もできなかった。翌朝、母親ナンシーは原因不明の病気を発症し、ほどなくして息絶えてしまう。 それから9年後。父親トーマスも逝去して天涯孤独の身になった青年リンカーン(ベンジャミン・ウォーカー)は、母親の仇を撮るべく宿敵バーツを殺そうとするのだが、しかし拳銃で顔面に銃弾を撃ち込んでもバーツは死なない。それどころか、牙を剥き出しにして異様な怪力で襲い掛かってくる。なんと、バーツの正体はヴァンパイアだったのだ。まさに間一髪のところ、リンカーンを救ってくれたのは謎めいたヴァンパイア・ハンター、ヘンリー・スタージス(ドミニク・クーパー)。そのヘンリーによると、かつてヨーロッパから北米大陸へ渡って来たヴァンパイアたちは、はじめのうちこそ先住民や入植者を餌食にしていたが、やがてアフリカ大陸から黒人奴隷が連れてこられると彼らを都合の良い餌として売買するようになり、いつしかアメリカ南部に自分たちの帝国を築いて北部へも進出し始めたのだという。ヴァンパイア帝国を率いるのは、5000年以上も生きながらえるヴァンパイアの帝王アダム(ルーファス・シーウェル)。バースはその手下にしか過ぎない。そうと知ったリンカーンは、ヘンリーの指導の下でヴァンパイア・ハンターとなることを決意する。 過酷な修行を経て一人前のヴァンパイア・ハンターとなったリンカーン。拳銃の扱いが苦手な彼は斧を武器として選ぶ。イリノイ州のスプリングフィールドへ移り住んだリンカーンは、ジョシュア・スピード(ジミ・シンプソン)の経営する雑貨屋に住み込みで働きつつ、昼間は弁護士を目指して勉学に励み、夜はヴァンパイア・ハンターとして活動。さらに、幼馴染の黒人青年ウィル(アンソニー・マッキー)とも久しぶりに再会する。そんな折、リンカーンは客として店を訪れた上流家庭の令嬢メアリー・トッド(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)と相思相愛の中に。ヴァンパイア・ハンターとしての素性を隠しつつ、彼はメアリーとの愛を大切に育んでいく。ところが、宿敵バースがメアリーを狙っていると知った彼は、いよいよバースと対峙して仇を取ることに成功。その際に、ヘンリーもまたヴァンパイアであることを知ることになる。かつて愛する女性をアダムに惨殺され、自身もヴァンパイアにされてしまったヘンリー。実は、ヴァンパイアは同じヴァンパイアを殺すことが出来ない。そこで、ヘンリーはヴァンパイア狩りを続けるために人間をハンターとしてリクルートしていたのだ。 一方、リンカーンがヴァンパイア・ハンターであることに気付いたアダムは、親友ウィルを拉致して南部へ連れ去り、自分の陣地へリンカーンをおびき出そうとする。信頼するジョシュアに秘密をすべて打ち明け、ウィルを救い出すべくニューオーリンズへ向かうリンカーン。激しい死闘の末にウィルの奪還に成功したリンカーンだったが、しかし勢力を拡大するヴァンパイア軍団からアメリカを守るためには、彼らの食料供給源を断って弱体化させねばならないと思い至る。つまり奴隷制度の廃止だ。そのためにウィルやジョシュアの力を借りて政治の道を志し、やがて第16代アメリカ大統領に就任したリンカーン。いよいよ、ヴァンパイア帝国の打倒を賭けた南北戦争の火ぶたが切って落とされる…! 荒唐無稽な題材だからこそ作り手の姿勢は大真面目に! リンカーンの人生における大きな出来事や関係者については史実を踏まえつつ、そこへヴァンパイア・ホラー的なフィクションの要素を加えていった原作者グレアム=スミス。例えば、リンカーンが9歳の時に母親ナンシーが若くして亡くなったのは事実だが、しかし死因は当時のアメリカで流行していたミルク病という病気であって、当たり前だがヴァンパイアに血を吸われたからではない。また、ウィル・ジョンソンもジョシュア・スピードも実際にリンカーンと関わりのあった実在の人物だが、しかしウィルはリンカーンの身の回りの世話をする従者であり幼馴染の親友だったという事実はないし、むしろ生涯の親友だったのはジョシュアの方なのだが、しかし彼もまた劇中のようにリンカーン大統領のブレーンを務めたという事実はない。もちろん、どちらもリンカーンと一緒にヴァンパイアと戦ったりもしていない(笑)。 ちなみに、ヴァンパイア軍団を率いる最強ヴァンパイア、アダムは、原作には登場しない映画版オリジナルのキャラクター。小説ではヴァンパイア全体が敵であって、特定のヴィランは存在しなかったのだが、しかし映画では物語をコンパクトにまとめる必要があったため、アダムという分かりやすいラスボスを登場させることにしたという。なので、映画終盤の大きな見せ場である機関車での戦いも、地下鉄道と呼ばれる実在した奴隷亡命組織も小説には出てこない。さらに言えば、幼馴染の黒人青年ウィルも原作には登場せず。反対に、原作では重要キャラのひとりだった作家エドガー・アラン・ポーや政治家ウィリアム・スワードの存在は、映画版だと脚色の過程で丸ごと削られてしまった。 そんな本作を演出する上で、ティムール・ベクマンベトフ監督が最も強くこだわったのは、正統派の歴史ドラマとして大真面目にストーリーを語ること。なにしろ、設定自体が極めて荒唐無稽である。だからこそ、あたかもこれが歴史的な事実であるかのような調子で正々堂々と取り組まなければ、ただ単にバカバカしいだけの与太話でしかなくなってしまうからだ。実際、この方向性は結果として大正解。一歩間違えれば安っぽいB級映画となってしまいかねない物語に説得力を与え、最終的にAクラスのブロックバスター映画として仕上げることに成功している。まあ、それに関してはブロックバスター級にデカい予算の金額も少なからず関わってくるだろう。そこでふと思い出すのは、本作と同じように南北戦争や奴隷制度にホラー要素を絡めたジョージ・ヒッケンルーパー監督の『キリング・ボックス』(’93)。あの映画も荒唐無稽な設定を大真面目な歴史ドラマとして描くことで、戦争や人種差別の愚かさを浮き彫りにせんとしており、その目論見自体は決して間違っていなかったのだが、いかんせん予算が少なすぎたせいでお粗末な仕上がりとなってしまった。やはり、映画にとって「潤沢な予算」というのは必要不可欠な要素ですな。 もちろん、ベクマンベトフ監督作品のトレードマークであるハードでクレイジーな格闘アクションと、流れるようにダイナミックな場面転換の面白さにも要注目。格闘アクションの振り付けは、ベクマンベトフ監督の盟友イーゴル・ツァイが率いるカザフスタンのスタントチームが担当し、ブラジルの有名な格闘技カポエイラの要素を取り入れたという。なぜカポエイラなのか?と疑問に思う向きもあるかもしれないが、実はもともとアフリカから南米へ連れてこられた黒人奴隷たちが編み出した格闘技とも言われているので、ストーリーの趣旨や歴史的背景を考えると理に適ったチョイスと言えるだろう。このような細かい点においても本作の制作陣は、とことん大真面目に題材と向き合い取り組んでいるのだ。■ 『リンカーン/秘密の書』(C) 2012 Twentieth Century Fox Film Corporation. 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