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羊たちの沈黙
[PG12]アカデミー賞作品賞受賞。映画史に名を刻む“レクター博士”登場作の、不朽のサイコ・スリラー
トマス・ハリスのベストセラー小説の映画化シリーズ第1作目。アカデミー賞5部門を受賞したサイコ・スリラーの金字塔的作品。アンソニー・ホプキンスが演じたレクター博士は、映画を見た人に強烈な印象を残した。
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COLUMN/コラム2022.06.09
間もなく第3弾が登場!? カルトな人気シリーズ『処刑人』のはじまり
昨年11月、『処刑人』のシリーズ第3弾が製作されるという、映画ニュースがネットで流れた。第1作が製作されたのは、1999年。第2作は2009年であり、報じられた通りに『処刑人Ⅲ』が実現すれば、第1作から20年余にして、実に10数年ぶりのシリーズ再開となる。 亀のように遅々とした歩みながら、確実にコアなファンを掴んできた、『処刑人』シリーズの生みの親は、71年生まれのトロイ・ダフィー。今はもう50代だが、『処刑人』の脚本を書き上げた時は、まだ25歳の若さだった。 ニューハンプシャー州で育ったダフィーは、大学の医学部進学課程に入学したものの、1年半でドロップアウト。ミュージシャンの道へと進むため、93年にロサンゼルスへと移り住んだ。 生計は飲み屋の用心棒やバーテンダーで立てながら、ダフィーは弟と共に、廃墟のようなアパートで暮らした。そしてそこで、『処刑人』のアイディアの元となる体験をする。 96年のある夜、ダフィーが仕事から帰ると、向かいの麻薬ディーラーの部屋から、女性の遺体が台車で担ぎ出されるところだった。女性は死後数日は経っている様子で、アーミー・ブーツを履いていたが、そこに出てきたディーラーは、「そのクソ女が俺のカネを取りやがったんだ!」と叫びながら、そのブーツを、思い切り真下へと叩きつけた。 期せずして、衝撃的なまでに不快な出来事と遭遇してしまったダフィーは、自らへのセラピー代わりに、あることに取り掛かる。それは、脚本を書くことだった。 幼少時から、彼の身近には犯罪者の巣窟があって、「…いつも誰かが奴らを退治してくれないかと思っていた…」という。そして遂に、その時がやって来た! ダフィーは、「…武器じゃなくてペンと映画で…」悪人退治を実行することにしたのである。 映画学校などに通ったことがないダフィーは、友人から映画脚本の書き方について手本を見せてもらうと、自らが抱えた嫌悪感を、バーテンダーの勤務中にノートへと書き殴り、仕事が終わると、借り物のPCで入力した。「THE BOONDOC SAINTS」、直訳すれば、“路地裏の聖人たち”。日本公開時には『処刑人』という邦題が付く、この作品の脚本の完成までに要したのは、3ヶ月。時は96年の秋になっていた…。 ***** ボストンの精肉工場で働き、地元の教会の敬虔な信者である、コナーとマーフィーのマクナマス兄弟。行きつけの酒場に、ロシアン・マフィアのメンバーが、借金取り立ての嫌がらせにやって来た。居合わせた2人は、マフィアたちを袋叩きにする。 怒ったマフィアたちは数人で、兄弟のボロアパートを急襲する。それを返り討ちにして、全員を殺害。兄弟は、警察へと自首した。 拘留された留置場の夜、兄弟は“神の啓示”を受ける。~悪なる者を滅ぼし、善なる者を栄えさせよ~ 正当防衛が認められ、すぐに釈放となった兄弟は、大量の武器を調達。ロシアン・マフィアが集まるホテルの一室を襲撃して、ボスをはじめメンバー9人を、祈りを捧げながら、皆殺しにする。 兄弟の親友で、イタリアン・マフィアの使い走りをしていたロッコも、仲間に加わる。そしてロッコをハメようとしたイタリアン・マフィアの幹部や殺し屋などを、次々と血祭りに上げていく。 身の危険を感じたイタリアン・マフィアの首領ヤカヴェッタは、最強最悪の殺し屋で重要犯罪人刑務所に囚われの身だったエル・ドーチェを出獄させ、兄弟たちに刺客として差し向ける。 一方この連続殺人を追う、FBIのキレ者捜査官スメッカーは、兄弟たちの仕業に、次第に共感を覚えるようになっていく…。 ***** 脚本が出来上がったタイミングで、ダフィーはかつてのバーテンダー仲間の友人と再会する。友人は「ニュー・ライン・シネマ」の重役アシスタントとなっており、ダフィーの脚本をハリウッドへと持ち込んだ。 時は『パルプ・フィクション』(94)成功の興奮が冷めやらず、犯罪映画をスタイリッシュに描く、“タランティーノ”症候群真っ盛りの頃。時制のズラしやスローモーションなどを駆使した、本作脚本への反響は大きく、「ニュー・ライン・シネマ」「ソニー・ピクチャーズ」「パラマウント」等々の間で、争奪戦になったのである。 しかしダフィーは、なかなか首を縦に振らなかった。そんな中で「パラマウント」との間には、本作ではなく、内容も未定で、まだ一行も書いてない2作品の脚本を50万㌦で売るという、“青田買い契約”が、先にまとまった。 97年3月になって、本作の脚本を勝ち取ったのは、当時は「ミラマックス」の社長だった、悪名高きハーヴェイ・ワインスタイン。脚本に30万㌦とも45万㌦とも言われる値を付け、製作費として1,500万㌦を用意したと言われる。それにプラスしてダフィーは、ワインスタインに様々な条件を呑ませた。 まず、ダフィーがバーテンダーを務めるスポーツ・バーを買い取った上で、その共同経営権を譲渡すること。そして映画化の際は、ダフィーに監督を委ね、キャスティングの最終的な決定権を渡すこと。更にはダフィーのバンドに、サウンドトラックを担当させること等々であった。 この契約は、大きなニュースとなり、ハリウッド中の話題となった。しかし、ダフィーの“有頂天”は、6週間ほどで終わりを告げる。「ミラマックス」との製作交渉は、なかなか最終合意に至らなかった。中途からワインスタインは、直接のコンタクトを一切拒絶するようになり、97年11月には、本作の製作は取りやめとなる。それと同時に、スポーツ・バーの買収から、バンドデビューの話まで、一切が立ち消えとなってしまった。 巷間伝わる話によると、「ミラマックス」側が兄弟役やFBIの捜査官役に、ブラッド・ピット、ビル・マーレイ、シルベスター・スタローン、マイク・マイヤーズ、ジョン・ボン・ジョヴィといったキャストを推し当てようとしたことに、ダフィーが反発。それでいてダフィー側が、ユアン・マグレガーやブレンダン・フレーザーといったスターとの出演交渉に失敗したことなどが、積み重なった結果だと言われる。 ダフィーは起死回生に、主役の兄弟役として、TVシリーズの「インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険」(92~93)でタイトルロールを演じ、注目されたショーン・パトリック・フラナリーと、プラダのモデルなどを務めていたノーマン・リーダスという、2人の若手俳優を見つけ出して、自費でスクリーン・テスト用のショートフィルムまで製作。それを「ミラマックス」にプレゼンしたと言われるが、功を奏さず、遂には破談に至った。 もっともこの2人が、最終的には本作の主演となって、「他には考えられない」ような当たり役とすることを考えると、無駄骨だったとは言えないが…。 「ミラマックス」との交渉決裂後は、かつての争奪戦が嘘のように、本作の製作に乗り出そうという大手映画会社は、姿を消した。結局インディー系である「フランチャイズ・ピクチャーズ」が、「ミラマックス」の半分以下の予算である製作費700万㌦を提示。ダフィーは、それに乗った。 兄弟役に次ぐ、重要な役どころと言える、FBIのスメッカー捜査官には、ウィレム・デフォーの出演を取り付けた。ゲイでナルシストで天才肌のプロファイラーという、キレキレの役どころにデフォーが見事にハマったのは、衆目の一致するところであろう。 本作は、98年8月にカナダのトロントでクランクイン。その後ボストンを巡って、9月下旬には無事撮影を終えた。 ポスト・プロダクションを経て、作品は翌99年4月末に完成。ところがその直前に、ある“大事件”が起きたことで、本作の行く手にはまたもや、暗雲が広がる。 4月20日、コロラド州のコロンバイン高校で、銃乱射事件が発生。銃器を駆使するヴァイオレンス映画に対して、反発が強まった。その上、本作の兄弟の出で立ちが、“トレンチコート・マフィア”と呼ばれた、事件の犯人の少年たちの服装に、カブるものがあったのである。 本作のアメリカでの一般公開は、暗礁に乗り上げそうになる。最終的にはダフィーが一部自腹を切るという条件で、2000年1月に、ニューヨーク、ロサンゼルス、ボストンの3都市5館で2週間のみの上映に漕ぎ着ける。興行収入は3万㌦しか上がらず、もはや本作、そして時同じくしてバンド活動も不発に終わったダフィーの命運は、尽きたものと思われた。 ところが“神”は、本作とダフィーを見放さなかった。2月にビデオの販売とレンタルが始まると、口コミで徐々に人気が広がっていき、やがてインディー作品としては、ベストセラーとなる。その後DVDなども発売され、遂にはアメリカ国内だけで、5,000万㌦を超える売り上げを記録するに至った。 海外での展開も、概ね順調な推移を見せるようになっていく。日本では当初劇場公開はせずに、ネットでのプレミア配信とビデオ発売のみの予定だったのを変更。2000年10月に『処刑人』というタイトルで、「東京ファンタスティック映画祭」で初上映。翌01年2月には、全国30館で3週間の興行を実施した。 小規模の限定公開だったにも拘らず、興行収入は1億円に達し、その後発売されたビデオとDVDは、大ヒット。レンタル店では、高回転の超人気ソフトとなったのである。 製作を取りやめた「ミラマックス」に対し、ダフィーは見事な意趣返しを果たした!…と言いたいところだが、実は『処刑人』が上げた収益は、契約の不備から、びた一文ダフィーの懐には入っていない。 また世界中から届くようになった、“続編”を望む声にも、ダフィーはなかなか応えることが出来なかった。『処刑人』の製作会社「フランチャイズ・ピクチャーズ」と訴訟沙汰となったため、身動きが取れない状態が、長く続いたのである。 結局『処刑人Ⅱ』の製作・公開は、第1作からほぼ10年後。ファンは、2009年まで待たなければならなかった。 それから更に10年以上の時が経ち、監督だけでなく兄弟役の2人も、今や50代である。ショーン・パトリック・フラナリーは、映画やTVの中堅俳優として活躍。ノーマン・リーダスは、2010年から続くTVシリーズ「ウォーキング・デッド」で、一躍人気スターとなった。 俳優としてのキャリアを積み重ねた、フラナリーとリーダス。それに比べて監督のダフィーは、ほぼ『処刑人』シリーズのみで語られる存在となっている。 そんな3人の座組は変わらずに製作されるという、『処刑人』のPART3。リーダスのアイデアを盛り込みながら、フラナリーと共同で書く脚本で、ダフィー監督はメガフォンを取ると伝えられている。 既報通りであれば、今年5月にクランクインということで、もう撮影は行われている筈だ。第1作から二十数年の歳月を経て、50代トリオがどんな『処刑人』を見せてくれるのか? まずは第1作でシリーズのスタートを体験した上で、是非想像していただきたい。■ 『処刑人』© 1999 FRANCHISE PICTURES. ALL RIHGTS RESERVED
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PROGRAM/放送作品
スリーピー・ホロウ
[PG-12]ジョニー・デップ×クリスティナ・リッチ共演。ティム・バートン流ダークメルヘンワールド!
黄金コンビ、ティム・バートン監督×ジョニー・デップが、ヒロインにクリスティナ・リッチを迎えておくる、米国の伝説をもとにしたゴシック・ホラー。そこはかとなく漂うティム・バートン流の不気味可愛さも魅力。
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COLUMN/コラム2022.06.07
ハインリヒ・ハラーの「チベットの七年」は、いかにしてジャン=ジャック・アノーの『セブン・イヤーズ・イン・チベット』になったか!?
本作『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(1997)の主人公で、ブラピことブラッド・ピットが演じるハインリヒ・ハラーは、実在の人物である。1912年にオーストリアのケルンテルンに生まれ、グラーツ大学で地理学を専攻した。 36年にはスキーヤーとして、オリンピック選手団の一員に。翌年には世界学生選手権の滑降競技で優勝を飾った。 そして38年、アルプスのアイガー北壁の登攀に成功。その功績によって、当時オーストリアを支配していた、ナチス・ドイツのヒマラヤ遠征隊への参加を認められる。映画のストーリーが始まるのは、ここからである。 ***** 1939年秋、オーストリアの登山家ハラーの頭は、ヒマラヤ遠征のことでいっぱいだった。傲慢な性格の彼は、妊娠中の妻のことを顧みず、家庭不和を抱えたまま旅立つ。 ハラーが参加したドイツの遠征隊は、“魔の山”とも呼ばれる高峰ナンガ・パルバットに挑む。しかし雪崩のために、中途で断念せざるを得なくなる。 折しも第2次世界大戦、イギリスがドイツに宣戦布告したタイミング。イギリスの植民地であるインドに居た遠征隊一行は捕らえられ、捕虜収容所へと収容される。幾度となく脱走を図るハラーだったが、失敗が続いた。 そんな彼に、妻から手紙が届く。その封筒には、“離婚届”が同封されていた。 収容から2年経った42年、ハラーは遠征隊の仲間と共に、ようやく脱走に成功した。そこからは単独行を選ぶが、やがて遠征隊の隊長だったアウフシュタイナー(演:デヴィッド・シューリス)と再会。2人は衝突を繰り返しながらも、逃避行の旅を助け合った。 45年、2人は外国人にとっては禁断の地、チベットの聖都ラサに辿り着く。政治階層のツァロン(演:マコ岩松)、大臣秘書のンガワン・ジグメ(演:B・D・ウォン)らが、救いの手を差し伸べてくれた。 持てる知識と技術を提供しながら、素朴なチベットの人々と風土に、心が癒やされていく、ハラー。そんな時チベットの政治・宗教の最高権威者であるダライ・ラマ14世(演:ジャムヤン・ジャムツォ・ワンジュク)が、ハラーの存在に興味を持つ。 ハラーはダライ・ラマに謁見。その日から、まだ10代の少年だったダライ・ラマとの交流が始まる。ハラーは、ダライ・ラマを敬いつつも、故郷のまだ会ったことのない息子への思慕を代替するかのように、彼のことを慈しむのだった。 しかしやがて、毛沢東によって建国された、中華人民共和国の軍靴の音が、チベットの平穏を揺るがしていく…。 ***** 原作はハラー自らが著した、「チベットの七年」。映画は前半、若き野心家だったハラーの冒険行と挫折、そして命懸けの逃亡生活を描く。後半はタイトル通り、「チベットの七年=セブン・イヤーズ・イン・チベット」。チベットで暮らし、若きチベット仏教の法王との間に友情を育て、やがて故郷に帰るまでの物語である。 ジャン=ジャック・アノー監督が、この題材に惹かれた理由は、想像に難くない。フランス人である彼だが、そのデビュー作『ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー』(76)は、第一次世界大戦時のアフリカが舞台。続いて、『人類創世』(81)で旧石器時代、『薔薇の名前』(86)で14世紀北イタリア、『子熊物語』(88)でロッキー山脈、『愛人/ラマン』(92)で1929年の仏領インドシナ、『愛と勇気の翼』(95)では1930年代のアルゼンチン、『スターリングラード』(00)で独ソ戦、『トゥー・ブラザーズ』は1920年代のカンボジアといったように、そのフィルモグラフィーには1本たりとも、フランス本土を舞台にした作品がないのである。時制が“現代”である作品も、見当たらない。 異境の地、そして今ではない時代に、登場人物が歴史のうねりに翻弄されながらも、運命に抗わんとする姿を、スケール感たっぷりの大作仕立てで描く。アノー作品のこうした特徴を記すと、デヴィッド・リーンがキャリアの後半に手掛けた、大作群に重なるところもある。実際に80年代後半から2000年代前半までは、アノーを語る際には、“巨匠”と冠することも、少なくなかった。 そんなアノーにとって、ハインリヒ・ハラーの、1940年代前後の軌跡は、正に「格好の題材」であったのだ。アノーは本作公開時のインタビューで、次のように語っている。 ~ハインリヒ・ハラーの本に心が惹かれたのは、500ページに及ぶ、7年間の生活の記録が書かれているけれども、彼の心情については触れられていないことだ。…脚本家のベッキーには、実在のハインリヒや映画会社の誰にも束縛されることなく、自由にわれわれの感じたことを表現して欲しいと頼んだ~ 結果としてそれが、ハラーの実像に近づくことに繋がったなどと、アノーは結論づけている。しかしこれはあくまでも「表向き」のことで、額面通りに受け取れない。というのは、「誰にも束縛されることなく、自由に」脚色を行った際に、実在のハラーが“独身”だったのを、本作では、まだ会えぬ我が子に思いを寄せる“父親”に改変してしまっているのである。 原作「チベットの七年」は、第2次世界大戦前後の激動の時代に、秘境の地チベットを訪れた冒険記や日記文学として、主に価値が見出されている。それをアノーと脚本家のベッキー・ジョンストンは、大胆に再構成。わがまま勝手で罪深い若者が、異郷での辛苦と癒やしを経て、自らを再発見。ダライ・ラマとの出会いから救済を得て、やがて実の我が子とも邂逅。新しい人生を歩んでいこうとする物語に、仕立て上げてしまった。 詳細は観て確認していただきたいが、チベットを去るハラーに対し、ダライ・ラマが贈る感動的な言葉も、即ち映画に於ける創作ということになる。 史実を改変することが、どこまで許されるのか?本作で、監督が描かんとする方向に舵を切るため、実在の人物に、架空の妻子を持たせてしまったことなど、賛否は付きまとうであろう。この辺りの是非の判断は、観る方1人1人にお任せする。 いずれにしても「チベットの七年」という題材を生かして、アノーがやりたかったことは、正にコレだったのだ!それが、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』という映画作品である。 本作で、スターと言える出演者は、主演のブラピただ1人。ブラピは、アノーとの最初のミーティングからノリノリで、撮影現場でも文句ひとつなく、時には危険なスタントも、自らやってのけた。 この背景には、彼の前作『デビル』(97)が、トラブル続きだったこともある。共演のハリソン・フォードとの、自尊心の強いスター同士の意地の張り合いや、脚本の相次ぐ変更などによって、撮影が大幅に遅れてしまったのである。 それに対して本作では、製作費の1割以上が自分のギャラとして用意された。共演のデヴィッド・シューリスとも、山登りをはじめ様々なトレーニングを共にしながら、終始良好な関係だったという。 因みに本作のキャストは、プロの俳優と言える者は、ごく一部。ダライ・ラマ役の少年をはじめ、ほとんどが、インドなど世界各地から集められた、演技面では素人のチベット人たちだった。 本作は、チベットを侵略した中国を批判する内容であるため、その支配下となっていたチベットでは、もちろん撮影はできない。そのためロケ地として白羽の矢が立てられたのは、ダライ・ラマ14世が、1959年以来亡命生活を送るインドだった。しかしインド政府は、友好関係にある中国に気を使い、撮影を拒否。 そこで、インドからは地球の裏側に当たる、アルゼンチンにチベットの聖都ラサを再現し、そこでメインの撮影を行うこととなった。多くのチベット人たちは、世界中から南米へと運ばれて、撮影に参加したのである。 その上でアノーは更に、冒険的な試みを行っている。それはスタッフ及びブラピとシューリスのそれぞれ代役を、チベットに潜入させ、自らはアルゼンチンからFAXや電話で指示を出しての極秘撮影。こうして本作中には、かなり多くの部分で、本物のチベットのシーンを収めることに成功した。 中国関連以外にも、本作には政治的な問題が付きまとった。公開が近づいた頃、ドイツのニュース雑誌「シュテルン」が、原作者のハラーがかつてナチスの親衛隊員で、曹長に当たる階級だったことを、写真付きですっぱ抜いたのである。 この件では、ナチスの戦犯追及で有名な「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が調査に乗り出した。その結果、ハラーがドイツによるオーストリア併合を支持し、ヒトラー個人にも好意的な内容の手紙を送っていたことが判明。そのため、ユダヤ系団体から本作の内容に対する批判や、上映ボイコット騒動が沸き起こった。 その一方で、ハラーは一介のスポーツ・インストラクターに過ぎず、ユダヤ人に対する残虐行為に加担した証拠がないことも、明らかになった。これらを受けてハラー本人は、「私の良心は一点の曇りもない」と、コメント。アノーやブラピはこの件に関しては、ただただ沈黙を守る他はなかったが。 ハインリヒ・ハラーは2006年、93歳でこの世を去った。お互いチベットを離れた後も、度々友情を温め合う機会を持ったダライ・ラマは、この時ハラーに、哀悼の言葉を捧げている。 中国によるチベット支配はいまだ強権的に続けられ、弾圧は止む気配がない。そんな中で本作によって、中国側のブラックリストに載った筈のジャン=ジャック・アノーは、2015年に中国に招かれ、『神なるオオカミ』という作品を監督している。 文革期の1967年、内モンゴルの草原を舞台に、下放された北京出身の知識人の青年が主人公であるこの作品は、題材的には確かにアノー向きと言える。しかしチベットに於いて、深刻な人権蹂躙が続く中で、一体どんな事情と心境の変化があって、この作品を引き受けたのだろうか? 心境の変化という点で言えば、アノーの最新作は、今年3月にフランスで公開された、『Notre-Dame brûle』。タイトル通り、2019年4月15日に起こった、パリのノートルダム大聖堂の火災を題材にした作品である。そしてこれがアノーにとっては初めて、“フランス本土”そして“現代”を舞台にした作品となった。 アノーは、“変節”したのか?それとも、70代にして、まだまだ転がる石ということなのか?最新作を含め、2000年代後半以降にアノーが監督した4作品中3作品が、今のところ日本未公開故、判断は保留せざるを得ないが。■ 『セブン・イヤーズ・イン・チベット』© 1997 Mandalay Entertainment. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
ザ・ファーム/法律事務所
若きエリートは弁護士事務所の“裏の顔”を暴けるか?トム・クルーズ主演の法廷サスペンス
ベストセラー作家ジョン・グリシャムの法廷サスペンス小説を、トム・クルーズ主演で映画化。ジーン・ハックマンやエド・ハリスらベテラン演技派俳優が若きトムの脇を固め、巨悪の絡んだ陰謀劇を重厚に築き上げる。
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COLUMN/コラム2022.06.07
インディペンデント映画の巨匠ジョン・カサヴェテスの原点『アメリカの影』
始まりは演劇ワークショップだった アメリカにおける「インディペンデント映画のパイオニア」と呼ばれるジョン・カサヴェテス監督の処女作である。時は1950年代末。折しもイギリスではフリーシネマ、フランスではヌーヴェルヴァーグが興隆し、世界各地で旧態依然とした映画界に抗う若い映像作家たちが新たなムーブメントを起こしつつあった時代だ。無名の役者ばかりを起用して即興演出で撮影され、映画会社や製作会社の資本に頼らず作られた完全なる自主製作映画だった本作も、ヴェネチア国際映画祭や英国アカデミー賞などで高く評価され、映画の都ハリウッドを擁するアメリカでも新世代の独立系作家が台頭するきっかけを作った。 ご存知の通り、もともとは俳優としてキャリアをスタートしたカサヴェテス。大学を中退してニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツで演劇を学んだカサヴェテスは、卒業と同時に舞台やテレビで頭角を現すようになり、映画でも黒人青年と白人青年の友情を描いた『暴力波止場』(’57)に主演して注目されるようになる。その傍ら、彼は友人の演劇コーチ、バート・レイン(女優ダイアン・レインの父親)と共に演劇ワークショップを立ち上げて後進の指導に当たっていた。集まったのは19名の無名俳優たち。当時アメリカの演劇界で主流だったアクターズ・スタジオのメソッド演技に懐疑的だったカサヴェテスは、メソッド演技のように俳優が役柄と一体化して別人になり切るのではなく、俳優自身の内側から湧き出るものを役柄に活かす即興演技の訓練を行った。生徒それぞれの実像に近いキャラクターを設定し、それを基にみんなでストーリーを考案していったという。実は、このワークショップの課題を映画化したのが本作『アメリカの影』だった。 映画の製作資金は一般からの寄付。今で言うクラウドファンディングである。ニューヨークのローカル・ラジオ局WORでジーン・シェパードがDJを務めるトーク番組「Night People」にゲスト出演した際、カサヴェテスがリスナーに寄付を呼び掛けたところ、当時としては決して少なくない金額の2000ドルが集まったという。さらに、ウィリアム・ワイラー監督やジョシュア・ローガン監督など映画界の友人からも寄付を募り、映画を作るのに十分なだけの資金を揃えることが出来た。そういえば、近ごろ日本では役と引き換えに受講者の無名俳優から製作費の一部を徴収するワークショップが問題視されたが、本来はこのように主催者が自らの責任のもとでスポンサーから資金を集め、俳優にもスタッフにも金銭的な負担をかけないというのが筋であろう。 大都会の中心で愛を求める人々の群像劇 物語は大都会ニューヨークに暮らす3兄妹を中心に展開する。売れないジャズ歌手の長男ヒュー(ヒュー・ハード)に自称ジャズ・ミュージシャンの次男ベン(ベン・カルザース)、そして作家志望の妹レリア(レリア・ゴルドーニ)。実は3人とも黒人の血を引いているのだが、しかしベンとレリアは肌の色が薄いため白人にしか見えない。同じアパートで生活する彼らは普段から仲睦まじいが、しかしビートニックを気取った次男ベンは不良仲間と遊び呆けてばかりで、真面目な兄にしょっちゅう金を無心している。放蕩者の弟を心配する長男ヒューは家族思いのしっかり者だが、思い通りにならないキャリアに悩んでいた。そんな2人から大事にされている妹レリアは、おかげでどこか世間知らずなところがあり、年上の恋人デヴィッド(デヴィッド・ポキティロー)からも子ども扱いされている。 そんなある日、レリアはパーティでトニー(アンソニー・レイ)という若い白人男性と知り合い、デヴィッドへの当てつけのつもりで彼と寝てしまう。実は処女だったレリア。初体験のセックスは想像と違って苦痛だった。それでもトニーと付き合おうと考えたレリアは、彼を自宅へ招くのだったが、しかし兄ヒューを一目見たトニーは凍りつく。まさか彼女が黒人だとは思わなかったのだ。苦し紛れの言い訳をするトニーをアパートから追い出すヒュー。ショックを受けてふさぎ込むレリアだったが、ヒューとベンに慰められて気を取りなおし、友達から紹介された黒人の若者デヴィッド(デヴィッド・ジョーンズ)とデートをする。一方、自らの失礼な態度を反省したトニーは、レリアに謝罪しようとするのだったが…。 公民権運動やウーマンリブが芽生え始めた’50年代末アメリカの世相を敏感に捉えつつ、混沌とする大都会のど真ん中で愛と幸福を求めて彷徨う若者たちのリアルな日常を切り取った群像劇。登場人物の誰もが矛盾を抱えた不完全な存在で、誰かに愛されたい認められたいと願いながらも、どうすればよいのか分からずにもがき苦しんで互いを傷つけてしまう。これは、その後の『フェイシズ』(’68)や『こわれゆく女』(’74)、『オープニング・ナイト』(’78)などのカサヴェテス作品にも共通するテーマだ。いわゆる起承転結の明確なストーリーがないのは、もちろん即興性を重視してアウトラインしか用意しなかった演出の方向性に因るところも大きいが、なによりも多種多様な人物像を描くことで愛と人生について考察し、その真理を見極めようとしたカサヴェテスの作家性ゆえとも言えるだろう。彼の映画ではストーリーそのものよりもキャラクター、つまり人間が最も重要なのだ。 また、実は予てから映画での仕事に少なからぬ不満を持っていたカサヴェテスは、本作を通して彼が理想とする映画の芝居を追求しようとしたようだ。舞台やテレビの生放送は自由で楽しいのに、なぜ映画だと窮屈に感じてしまうのか。映画というメディアは好きだが、しかし映画での芝居はどうしても好きになれない。どうすれば映画でも自由な演技が可能になるのか。その方法を模索するための実験という側面もあったという。なので、もともとカサヴェテスは本作を商業用映画として劇場公開するつもりはなかったらしい。 そこでカサヴェテスの取った手段が即興演出だった。一般的な映画だと役者の動作やポジションはリハーサルで事細かく決められ、撮影が始まるとカメラの動きや照明の当たる範囲に気を配って演技をすることになる。しかし本作では役者が直感で自由自在に動き回り、カメラはそれに合わせて移動したという。監督は余計な口を挟まない。セリフも芝居も即興ならカメラも即興。俳優は演じる役柄を生きることに集中し、監督とカメラマンはその様子を映像に捉える。そうすることによって、映画全体に自然なリズムが生まれたとカサヴェテスは振り返っている。 実は全体の半分以上が差し替えだった ただし、結果的に本作は大幅な撮り直しを余儀なくされた。1957年2月~5月半ばにかけて16ミリフィルムで撮影され、編集作業に予想外の時間がかかったものの、’58年にはマンハッタンのパリス・シアターで初お披露目された『アメリカの影』。実験映画の巨匠ジョナス・メカスからは大絶賛されたらしいが、それ以外の観客には大層不評だったようで、途中で席を立つ人も多かったという。カサヴェテス曰く、最初のバージョンは映画的な技巧ばかりに囚われており、確かに知的な映画ではあったが人間味に欠けていたとのこと。 そこで彼は再びキャストとスタッフを招集し、10日間のスケジュールで追加撮影を敢行。今回はちゃんとした脚本も用意したそうだ。新たに追加されたのは、レリアが兄ヒューを駅で見送るシーン、その帰り道で42番街の映画館に立ち寄るシーン、トニーとレリアが肉体関係を結ぶベッドシーン、レリアが黒人のデヴィッドとチークダンスを踊るナイトクラブ・シーンなど。実質的に全体の半分以上が差し替えられたという。おかげでメインとなる3人兄妹、中でも特に妹レリアの人物像や心理描写に深みが与えられることとなった。以降の作品でも女性キャラに焦点を定めることの多いカサヴェテスだが、その傾向は初監督作品から健在だったわけだ。こうして’59年に完成したセカンド・バージョンが、現在我々が見ることの出来る『アメリカの影』なのである。 先述した通り、撮影当時は無名だった役者ばかりだが、ヒロインのレリア・ゴルドーニはマーティン・スコセッシ監督の『アリスの恋』(’74)やフィリップ・カウフマン監督の『SF/ボディ・スナッチャー』(’78)などに出演し、地味ながらも息の長い名脇役女優となった。ヒューのエージェント役を演じたルパート・クロスも、スティーヴ・マックイーン主演の『華麗なる週末』(’69)でアカデミー助演男優賞候補となったが、惜しくも癌のため45歳の若さで亡くなっている。トニー役のアンソニー・レイは、あの名匠ニコラス・レイの息子で、後にプロデューサーへ転向して『結婚しない女』(’78)を手掛けている。 ちなみに、42番街でレリアを尾行してちょっかい出そうとする怪しげな男は、フランスを拠点としていたギリシャ人の映画監督ニコ・パパタキス。あのジャン・ジュネの親友にして、反体制派の極左活動家でもあった彼は、当時は政治的な理由からニューヨークで逃亡生活を送っており、アンディ・ウォーホルとも付き合いがあったという。ヴェルヴェット・アンダーグランドの女性ボーカリスト、ニコの芸名は、元恋人だったパパタキスから取られている。しかも、最初の奥さんは『男と女』(’66)のアヌーク・エーメで、再婚相手はルチオ・フルチ作品でもお馴染みのオルガ・カルラトス。とんでもないモテ男である。そんな彼がどういう経緯でカサヴェテスと知り合ったのか定かでないが、本作の追加撮影にあたって資金集めに協力したらしい。■ 『アメリカの影』© 1958 Gena Enterprises.
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PROGRAM/放送作品
スリー・リバーズ
ブルース・ウィリス×サラ・ジェシカ・パーカー競演で描くサスペンス・アクション
『ダイ・ハード』のブルース・ウィリスが、正義感あふれる警官役を熱演。『セックス・アンド・ザ・シティ』のサラ・ジェシカ・パーカーが相棒役を演じる。連続殺人事件の謎を解くサスペンス!
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COLUMN/コラム2022.06.01
‘50年代の「空飛ぶ円盤」騒動が生んだハリーハウゼンの名作SF映画『世紀の謎・空飛ぶ円盤地球を襲撃す』
米軍も注目した「空飛ぶ円盤」騒動とは? 1950年代のハリウッドで沸いたSF映画ブーム。その背景には、東西冷戦下で加熱する米ソの宇宙開発競争によって、アメリカ国民の宇宙に対する関心が高まったことが挙げられるだろう。さらに、当時のアメリカで吹き荒れた反共産主義運動、いわゆるマッカーシズムの嵐も少なからず影響を及ぼしていた。アメリカがソ連や中国のスパイに侵略されて「赤化」するのではないか? その過剰な恐怖心や警戒心に基づくパラノイアが、遠い宇宙から地球を侵略しにやって来るエイリアンとして映画に投影されたのである。そしてもうひとつ忘れてならないのが、当時のアメリカで巻き起こった「空飛ぶ円盤」騒動である。 事件が起きたのは’47年6月24日のこと。アメリカの実業家ケネス・アーノルドが、ワシントン州の上空で高速編成飛行を行う9つの発光体を発見し、これにアメリカ空軍が興味を示したことから、全米のメディアを騒然とさせる大騒動へと発展したのだ。この際、マスコミの取材に対して、飛行物体のことを「コーヒーカップの受け皿を重ねたみたいだった」とアーノルドが語ったことから、「空飛ぶ円盤(Flying Saucer=空飛ぶ皿)」という単語が初めて生まれたのである。 ただし米軍部は当初、アーノルドの目撃証言を幻覚、もしくは蜃気楼ではないかとコメントしていた。ところが、その翌’48年1月7日、空飛ぶ円盤と思しき飛行物体を追跡していたマンテル空軍大尉が謎の死を遂げたことから、ほどなくして米空軍は未確認飛行物体の調査機関「プロジェクト・サイン」(後のプロジェクト・ブルーブック)を発足。これほど軍部が「空飛ぶ円盤」に強い関心を示したのは、なにも彼らが宇宙人の存在を本気で信じていたからではなく、やはり共産圏のスパイ活動に対する国家安全保障上の懸念が高まっていたためではないかと思われる。 そして’49年12月、元米海軍中尉でパルプ小説家のドナルド・キーホーが、雑誌トゥルーに「空飛ぶ円盤は実在する」という論文を発表。これは翌年にペーパーバック化されて50万部以上を売り上げ、たちまちキーホーはUFO研究の第一人者として有名になる。このキーホーのUFO関連本第2弾「外宇宙からの空飛ぶ円盤」を原作に、特撮映画の神様レイ・ハリーハウゼンと盟友チャールズ・シュニーアが手掛けたSF映画が、この『世紀の謎・空飛ぶ円盤地球を襲撃す』(’56)だったのである。 実はブームに当て込んだ便乗企画だった!? 大ヒットした特撮怪獣映画『水爆と深海の怪物』(’55)で初めてコンビを組み、それ以降数々の名作を生み出したハリーハウゼンと製作者シュニーア。当時、アーウィン・アレン監督のドキュメンタリー映画『動物の世界』(’56)に、恐竜シークエンスのアニメーターとして参加したハリーハウゼンは、そちらの撮影を終えてすぐにシュニーアと合流。折からの「空飛ぶ円盤」ブームに便乗して一儲け出来ないかと考えていたシュニーアと、以前から「空飛ぶ円盤」を題材にしたアドベンチャー映画の構想を温めていたハリーハウゼンの意見が一致し、異星人が空飛ぶ円盤で地球を襲撃するという侵略型SF映画を作ることになる。 脚本は『透明人間の逆襲』(’40)や『狼男』(’41)、『ドノヴァンの脳髄』(’53)などのジャンル系映画で高い評価を得ていたカート・シオドマクに依頼。特撮を担当することになったハリーハウゼンと共同でストーリーのアウトラインを考えていたが、その途中でシュニーアがキーホーの著作の権利を取得したことから、そこに記された様々な「空飛ぶ円盤」の調査結果を脚本に取り入れることとなった。さらに、ジョージ・ワーシング・イェーツが第2稿を、バーナード・ゴードン(レイモンド・T・マーカスの変名を使用)が最終稿を手掛けて脚本は完成。コロムビア映画のB級専門監督フレッド・F・シアーズが演出を手掛けることとなった。 ストーリーは至ってシンプル。世界各地で「空飛ぶ円盤」の目撃情報が相次ぐ中、宇宙線観測所の責任者マーヴィン博士(ヒュー・マーロウ)と妻で秘書のキャロル(ジョーン・テイラー)もドライブ中に円盤と遭遇。観測所ではこれまでに打ち上げた人工衛星が通信不能となっていたが、実は「空飛ぶ円盤」によって全て破壊されていたのだ。そうとは知らぬマーヴィン博士は、新たな衛星ロケットの打ち上げを敢行。するとそこへ「空飛ぶ円盤」が飛来し、その中から異様な姿をした異星人が姿を現す。警備に当たっていた軍隊は先制攻撃を開始。すると、異星人も殺人光線を使って反撃し、軍隊ばかりか衛星ロケットも研究所も焼き尽くしてしまう。 辛うじて難を逃れたマーヴィン博士とキャロルは、観測所が「空飛ぶ円盤」によって破壊されたことを報告。たまたま録音されていた異星人のメッセージから、彼らが地球人との対話を望んでいることを知った2人だが、しかし他に生存者がいないこともあって、軍幹部はマーヴィン博士とキャロルの証言に懐疑的だった。そこで、博士たちは異星人とコンタクトを取って彼らと直接面会する。異星人は滅亡した惑星の生き残りで、地球への移住を希望していた。衛星ロケットを墜落させたのは、それが自分たちを攻撃する武器ではないかと疑ったからだ。ワシントンD.C.で各国首脳と面談することを要求する異星人。しかし、彼らの目的が地球侵略ではないかと疑ったマーヴィン博士は、軍と協力して新兵器「高周波砲」を開発し、万が一の事態に備えるのだったが…!? 低予算をものともしないハリーハウゼンの創意工夫とは? 平和的な使者かと思われた異星人が実は侵略者だった…というのは、SF映画ブームの火付け役になった名作『地球の静止する日』(’51)の逆バージョン。当時すでに大量生産されていた侵略型SF映画のひとつに過ぎず、そういう点で特筆すべきものはあまりないだろう。やはり本作の最大の見どころは、レイ・ハリーハウゼンによるストップモーションを用いた特撮である。もともと「空飛ぶ円盤」に関心を持っていたハリーハウゼンは、実際の目撃者や研究グループに会って話を聞いたうえで、劇中に登場する円盤モデルをデザイン。表面にスリットを幾つか入れることで、ツルンとした印象の円盤が回転していることも一目瞭然となり、なおかつアニメート作業がしやすくなったという。この「空飛ぶ円盤」の洗練された造形とリアルな浮遊感が秀逸。ストップモーション撮影ではワイヤーを使って吊るしているが、実は現像されたフィルムを1コマずつチェックし、モノクロの背景に合わせてワイヤーを丁寧に塗りつぶしている。この実に面倒な細かい作業のおかげで、低予算映画らしからぬハイクオリティな特撮に仕上がったのだ。 円盤が実際のロケーションに登場するシーンは、予め35mmフィルムで風景映像を撮影し、それを背景に投影しながらコマ撮りで「空飛ぶ円盤」をアニメートするリアプロジェクション方式を採用。ホワイトハウスの敷地に円盤が着地する場面では、撮影許可の手続きを省略するため、フェンスの隙間にカメラのレンズを押し込んで撮影したという。要するに、無許可のゲリラ撮影だったのだ。今だったら大問題になっていただろう。 恐らく最大の見せ場は、「空飛ぶ円盤」の大編隊がワシントンD.C.を襲撃するクライマックス。基本的に予算が少ないため、大掛かりなミニチュアセットを組むことが難しかった本作だが、このパニック・シーンだけはそうはいかなかった。全部で7つのミニチュアを作成。連邦議会議事堂のドームに円盤が突っ込むシーンでは、予め壊しておいたドームの破片をひとつひとつワイヤーで繋ぎ合わせて形を整えたうえで、円盤が突っ込んでドームが粉々になる様子を4日がかりでアニメートしている。ただしこのシーン、実はドームより下の議事堂本体はスチール写真。なので、特定のアングルからしか撮影することが出来なかった。とはいえ、仕上がりの完成度が非常に高いため、言われなければ分からないだろう。低予算をものともしないハリーハウゼンの技術力に舌を巻く。 その一方で、低予算が裏目に出てしまったのが異星人のデザインである。本来ならばクリーチャーモデルをアニメートするところだが、しかし予算の都合で不可能だったため、俳優にスーツを着せることとなった。このスーツもハリーハウゼン自身がデザインしたのだが、しかし急いで考えたために満足のいくものではなかった。ラテックスゴム製の質感も、正直なところちょっと安っぽい。予算も時間もないという悪条件ゆえ仕方ないとはいえ、大いに惜しまれる弱点と言えよう。 個人的に印象深い特撮は、異星人の監視カメラである球体「聖エルモの火」。これは電気ドリルの先に長い棒を繋げ、その棒の先に小さな電球を付けた円形のプラスチック板を装着。スタジオの明かりを消して暗くしたうえで、電気ドリルのスイッチを入れて電球を回して撮影している。そうすることによって、回転する電球の光だけがフィルムに映し出されるという。これを俳優が演技をしている実写フィルムに重ね焼きしたのである。現代のCG技術などとは比べるべくもない、極めてアナログな特撮ではあるものの、しかし出来上がった映像を見ると驚くほどリアル。本当に光る球体が宙を浮いているようにしか見えない。 ちなみに、宇宙線研究所の地下コントロール・センター内部は、スタジオのセットではなくロサンゼルスのヘルモサ・ビーチにあるプレヤ・デル・レイ下水処理施設でロケされている。地下パイプが幾つも通った複雑な造りが科学研究所にピッタリで、ダミーのコントロールパネルを幾つか加えるだけでそれらしく見えるようになったという。その際、ハリーハウゼンとシュニーアは分解タンクが排水を処理する不気味な音に着目し、これを音響スタッフに録音させて「空飛ぶ円盤」の音として使用したのだそうだ。 ‘56年の夏休みにホラー映画『The Werewolf』(日本未公開)との2本立てで全米公開された本作は、中でもハリーハウゼンによる特撮が各方面から大絶賛され、彼の名声をなお一層のこと高めることとなった。余計な人間ドラマや恋愛要素を最小限に抑え、特撮の見せ場をふんだんに盛り込みながらサクサクと展開していくスピード感も魅力的だ。出し惜しみをしないところがいい。ただ、ハリーハウゼン自身はシリアスなSF物よりも夢と冒険溢れるファンタジーが好みだったらしく、純然たるSF映画は本作と『月世界探検』(’64)の2本しか残していない。■ 『世紀の謎・空飛ぶ円盤地球を襲撃す』© 1956, renewed 1984 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
硝子の塔
[R15相当]シャロン・ストーン主演、のぞき魔の歪んだ愛情を描くエロティック・サスペンス
『氷の微笑』でセクシー女優としての地位を確立したシャロン・ストーンが、再びジョー・エスターハス脚本&製作総指揮の本作で大胆な演技を見せる。連続殺人事件と、のぞき見趣味を絡めた官能サスペンス。
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COLUMN/コラム2022.05.24
『トップガン』 - 革命的なジェット戦闘機アクション誕生の背景 -
◆戦闘機版『地獄の黙示録』を起点とした企画 インパクトと主張の強さを覚えるタイトルは、アメリカ海軍パイロットのエリート養成訓練校を示す俗称だ。この一握の精鋭たちが属するアカデミーが舞台の映画『トップガン』は、海軍飛行兵の精鋭ピート“マーヴェリック”ミッチェル(トム・クルーズ)を主人公に、彼が戦闘機訓練や軍人としての人間関係を経て成長していく姿を描いた、1986年製作のアクションロマンスである。 ロックとポップソングで構成されたサウンドトラック、そして洗練されたビジュアルスタイルやハイテンポな編集はMTVカルチャーとの並走により築き上げられたもので、このアプローチを牽引力に、本作は視覚的にも音響的にも現代アクションのメルクマールとなった。結果として映画はヤング層を魅了し、世界規模において大ヒットを記録。当時はまだ駆け出しの若手俳優だったトム・クルーズのキャリアを一気にスーパースターへと押し上げた。同時にその口当たりのいい表層的なアプローチが「ポップコーンムービー」などと称され、外観に凝り中身のない作品だと揶揄される言説も過去にはうかがえた。だが映画史において画期的な作品であることは、改めてここで示しておかないといけないだろう。 なによりも『トップガン』は、ジェット戦闘機をフィーチャーしたミリタリーものとして最大の特徴を有し、同ジャンルを開拓した映画として並々ならぬ価値を放つ。当時、現物のジェット戦闘機を主体とした作品自体が少なく、かろうじて挙げられるのはデヴィッド・リーン(『アラビアのロレンス』(62)『ドクトル・ジバゴ(65))が1952年に発表した『超音ジェット機』か、あるいはロケット機ベルX-1が音速の壁を破るシーンを描いた米宇宙開拓史映画『ライトスタッフ』(83)くらいしかなかった。理由は複合的なもので、大きくは映画に必要な現用機は軍事機密の塊で、商業映画に用いるのに米国防総省=ペンタゴンが難色を示していたこと。そして技術的な点では、飛行ショットをカメラに収めるのが非常に難しいことなどが挙げられた。 この企画を始動させたのは、当時『フラッシュダンス』(83)『ビバリーヒルズ・コップ』(84)などの慧眼に満ちた諸作で、パラマウント映画のヒットに貢献していたプロデューサーのジェリー・ブラッカイマー。彼は1983年、米カリフォルニア・マガジン5月号に掲載されたエフド・ヨネイのノンフィクションルポ「TOP GUNS」を目にし、海軍戦闘機兵学校の訓練プログラムを受けるF-14パイロットに迫ったその内容に惹かれ、映画化を切望。ペンタゴンを説得し、映画の実現へとこぎつけていったのだ。 そして本作が視覚性を重視することから、監督はトニー・スコットに白羽の矢を立てた。スコットは当時、テレビコマーシャルの世界を経て優れた映像スタイリストであることを示しており、またデヴィッド・ボウイ主演の吸血鬼映画『ハンガー』(83)で商業長編映画デビューを果たしている。だがその内容は観念的で重苦しく、およそ娯楽的な要素からはかけ離れたものだった。そのため戦闘機アクションというテーマに難色を示していたが、先に商業映画デビューを果たしていた兄リドリー・スコット(『エイリアン』(79)『ブレードランナー』(82))に触発され、自身もメジャーの大きな舞台に立とうとプロジェクトに挑んだのだ。 しかしやはりというか、プリプロダクションの時点では『ハンガー』に程近い、戦いのためのエリート部隊の苦衷を描く暗いテイストの内容だったようだ。ヨネイの記事がリアリティを重視した迫真的なものだったことから、企画当初はフランシス・コッポラが手がけたベトナム戦争映画『地獄の黙示録』(79)のように混沌とした戦闘スペクタクルが検討されていたともいう。しかしペンタゴンの協力を経るため、幾度かのプロット見直しがはかられ、海軍への入隊を促進させるような、プロパガンダ的な性質を持つストーリーへと加工ががなされていったのである。 ◆困難だった機内撮影を可能にしたもの そんな『トップガン』が『地獄の黙示録』志向の戦争スペクタクルだったことを示すものとして、作品のフォーマットが挙げられる。加えてそれが前掲の、困難といわれた機内撮影への突破口を開いたのだ。 契機となったのは、スーパー35mmという規格のフィルムである。ブラッカイマーとスコットは、同作の空戦シーンをダイナミックな幅広のワイドスクリーンで展開しようと企図していた。そのため65mmフィルムでの撮影や、圧縮した撮像をレンズで戻して横長画面を得るアナモルフィックレンズでの全編撮影が検討されたのだ。しかし前者は65m撮影用の大型カメラがコクピット内に収められず、後者は6Gにも達する飛行時の圧力によってカメラレンズが歪み、まったく使い物にならなかったのだ。 そこで用いられたのがスーパー35mmである。同フィルムは1コマに露光される撮像領域を最大限に活かした撮影が可能で、そこから用途に応じたアスペクト比を切り出すことができる。これによって本作は通常の35mmカメラでのコクピット撮影を可能にし、ワイドスクリーンを実現のものとしたのである。 ちなみに当時のスーパー35mmは通常の35mmとの混同を避けるため、歪像に対して平面ということから「フラット・ネガ」とも呼称されていた。当時、製作元のパラマウントはビデオ市場への目配りとして、同フィルムでの撮影を推奨しており、まさにうってつけの題材が見つかったというわけだ。 ちなみにトニーが本作で同フォーマットの有効性を示したことに感化され、兄リドリーが日本を舞台にした刑事アクション『ブラック・レイン』(89)で自らもスーパー35を使用。兄からトム・クルーズを自作に紹介してもらったことに対し、技術供与という形で返礼を果たしている(本作におけるトム・クルーズの起用は、以前に筆者が手がけた『レジェンド/光と闇の伝説』(85)のコラム[リンク]に詳しい)。 こうして『トップガン』は制作上の大きな問題点を克服したが、リアリティを追求した結果、あまりいい効果を得られなかった部分もある。それは可変翼戦闘機F-14の聴覚を刺激する飛行音など、サウンドエフェクト面でのことだ。 音響編集のジョン・ファサルと共に、本作の音響の共同監修をつとめたセシリア・ホールは、実際のF−14の飛行音や駆動音を採取したものの、意図にそぐわぬ退屈で味気ないものだったとドキュメンタリー映画『ようこそ映画音響の世界へ』の作中で述懐している。そこで彼女は動物の咆哮を転調させてエンジン音と重ねることにより、迫力と攻撃性の高いサウンド効果を創造したのだ。 この大胆な試行によって、ホールは女性の音響効果担当として初の米アカデミー賞にノミネートされ、女性がこの分野において貢献的な役割を果たす先駆けとなった。サウンド面でのこうしたこだわりは36年ぶりの続編となった『トップガン:マーヴェリック』でも受け継がれ、同作はオーディオの没入感と臨場感をより高めるために、サウンドデザイナーの大家であるゲイリー・ライドストロームがコンサルタントとなり、ホールの偉業を発展させる形で迫力のあるサウンドデザインに取り組んでいる。 ◆その意志は、36年ぶりの続編へと受け継がれる 他にも『トップガン:マーヴェリック』にこのタイミングで触れるのならば、無視できない要素がある。タイトルキャラクターであるマーヴェリックが教官となり、古巣に戻ってくる同タイトルは、新世代のアカデミー卒業生たちに焦点を定め、無人化する軍事において戦闘パイロットの存在を再定義していく。 監督のジョセフ・コシンスキーは、今回の主要機となる戦闘機F/A-18のコックピット内に、ソニーと共同開発したVENICE 6K シネマカメラを実装。そして世界で最も規格の大きな視覚フォーマット、IMAXを本作に導入している。これは機内撮影を成功させた『トップガン』のコクピット撮影を発展させたものであり、スーパー35mmで問題解決を得た、前作の技術的挑戦を反復するものと言えるだろう。コシンスキーは続編の撮影にあたり、偉大な前作への賞賛を惜しまない。 「トニーは大作を製作していたが、それをまるでアート映画のように撮ったんだ。照明やグラデーションフィルター、そしてフレーミング。この映画には、彼の映画のスタイルに対するオマージュのような瞬間がいくつかある」 『トップガン:マーヴェリック』は、トニー・スコットに謝意が捧げられている。彼の存在無くしては、この画期的な戦闘機映画は生まれなかったのだ。■ 『トップガン』© 2022 Paramount Pictures. All Rights Reserved.