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PROGRAM/放送作品
レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語
ゴスかわいい世界観が何とも魅力的。悪役ジム・キャリーのコミカルな怪演が愉快なダーク・メルヘン
ティム・バートン風のゴス調ダーク・ワールドを舞台に、いたいけな三姉弟妹の冒険を描くメルヘン・アドベンチャー。姉弟妹の遺産を狙う悪漢ジム・キャリーの怪演と七変化にも注目。
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COLUMN/コラム2021.04.07
ペキンパー自身を投影したような負け犬中年男の意地と暴走『ガルシアの首』
良き理解者を得て実現した究極のペキンパー映画 そのキャリアを通じて他に類を見ない「暴力の美学」を追求し、一切の妥協を許さぬ厳しい姿勢ゆえに映画会社との衝突が絶えなかった孤高の映画監督サム・ペキンパー。彼ほどスタジオからの横やりに悩まされた監督はいなかったとも言われているが、そんなペキンパーが「自分のやりたいように作った」と自負した数少ない映画のひとつであり、「良くも悪くも、好むと好まざるに関わらず、これは自分の映画だ」とまで言い切った作品が『ガルシアの首』(’74)である。 その前年に公開された西部劇『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』(’73)では撮影中から製作会社MGM社長との対立や自身のアルコール問題の悪化、さらにはインフルエンザの蔓延など次々とトラブルに見舞われ、さらにはフィルムの編集権を取り上げられズタズタに切り刻まれるという憂き目に遭ってしまったペキンパー。そんな彼のある意味で救世主となったのが、後にペキンパーのエージェントともなる映画製作者マーティン・ボームだった。ペキンパーの良き理解者であったボームは、映画界の問題児として既に悪名高かった監督から持ち込まれた企画を引き受けたばかりか、彼が自由に映画を撮れるよう取り計らったという。メキシコの大地主の娘を孕ませた男ガルシアの首を巡って、殺し屋たちが凄まじい争奪戦を繰り広げて死体の山が積みあがっていく…基本的にただそれだけの映画のために資金繰りなど奔走するわけだから、よっぽど監督への理解と信頼がなければ実現不可能だったはずだ。 メキシコの大地主エル・ヘフェ(エミリオ・フェルナンデス)の娘テレサが妊娠する。子供の父親が誰なのか問い詰めるエル・ヘフェ。頑として口を割らなかったテレサだったが、しかし激しい拷問に耐えかねて「アルフレド・ガルシア」という名前を口にする。かつてエル・ヘフェが息子のように可愛がっていた部下だった。怒りの収まらない彼は「ガルシアの首を持ってきた奴には賞金100万ドルを払う」と宣言。グリンゴ(白人)の忠実な右腕マックス(ヘルムート・ダンティーネ)にその任務が託される。ちなみに、日本の資料では大地主とされているエル・ヘフェはスペイン語で「ボス」という意味。劇中で具体的な説明や描写がないため解釈は分かれるが、犯罪組織のボスとも考えられる。 それから数か月後、マックスのもとでガルシアの行方を追うスーツ姿の殺し屋コンビ、サペンスリー(ロバート・ウェッバー)とクイル(ギグ・ヤング)は、メキシコシティの小さな酒場へ立ち寄る。2人から報奨金と引き換えにガルシアのことを尋ねられ、これ見よがしに答えをはぐらかす元米兵のピアニスト、ベニー(ウォーレン・オーツ)。ガルシアは店の常連だったのだが、報奨金を吊り上げられると睨んで黙っていたのだ。店の従業員から自分の恋人エリータ(イセラ・ヴェガ)がガルシアと浮気していたと聞かされ憤慨するベニー。彼女を問い詰めてガルシアの居場所を聞き出そうとしたベニーだが、そこでエリータは思いがけない事実を彼に伝える。ガルシアは1週間ほど前に飲酒運転で事故死していたのだ。 たまげると同時にホッとするベニー。なんだ、もう死んでいるんだったら殺す手間も省ける。埋葬された死体から首を切り落とし、証拠として差し出せば済むじゃないか。こんな旨い儲け話はないぞ、というわけだ。元締めマックスのもとへ意気揚々と乗り込んだベニーは、既にガルシアが死んでいることを隠して報奨金を1万ドルに吊り上げ、ガルシアの首は俺が持ってくるから任せろと自信たっぷりに仕事を引き受ける。だが、ガルシアが埋葬された墓地を知っているのはエリータだけ。そこで、彼は一緒にピクニックへ行こうと彼女を誘い出し、生死を確認するだけだと誤魔化してガルシアの墓へ案内させようとする。 ベニーの言い訳がましい説明に首を傾げつつも、久々に2人きりで過ごす時間に満ち足りた幸福を感じるエリータ。長い付き合いとなる2人だったが、しかしいつも肝心な話題になると逃げてしまうベニーは、これまでちゃんとエリータに愛を告白したことがなかった。彼女がガルシアと浮気をしてしまった理由も、ベニーのその煮え切らない態度のせいだ。ここへきてようやく、大金が手に入った暁には結婚式を挙げようというベニー。なぜ今までプロポーズしなかったのかと問い詰めるエリータに、思わず彼は「分からない。今なら分かるが」と言葉を詰まらせる。本音を言えば「男のプライド」が邪魔したのだろう。しがない貧乏人のピアノ弾きのままでは、愛する女と結婚する資格などないと。一緒に苦労する覚悟のあるエリータにしてみれば、2人で暮らせるならそれだけで幸せなのだが、しかし男は女に楽をさせてこそ一人前という、下らない「男のプライド」に縛られたベニーにはその覚悟がなかったのだ。 ちなみに、このシーンはベニーが言葉を詰まらせる場面で終わるはずだったという。だが、役に入り込んだエリータ役のイセラ・ヴェガが「だったら今すぐプロポーズして」と台本にないセリフを続け、そのアドリブに呼応するようにベニー役のウォーレン・オーツが演技をつなげ、2人して喜びにむせび泣くという実に味わい深くも感動的な大人のラブシーンが出来上がったのである。実は事前にヴェガとペキンパーは打ち合わせをしていたとも言われているが、しかしそれにしても監督の言わんとするところを十二分に理解し、何も知らされていない共演者を巻き込みながら、求められる以上の芝居へと昇華させた女優イセラ・ヴェガの鋭い勘と豊かな才能には舌を巻く。もちろん、この予期せぬ展開にきっちりと応えてみせたオーツも素晴らしい。これこそが役者魂というものだろう。 身の破滅を招く「男らしさ」という幻想 しかし、これを境にベニーとエリータの運命は雲行きが怪しくなっていく。車のエンジントラブルで野宿することにした2人だったが、通りがかった2人組のバイカー(クリス・クリストファーソン&ドニー・フリッツ)に拳銃で脅され、エリータがレイプされてしまう。奪った拳銃でバイカーどもを射殺するベニー。2人はいよいよガルシアの故郷へと到着する。死体の首を切り取って持ち帰るというベニーに呆れるエリータ。お金なんてなくたっていい、このまま引き返しましょうと訴える彼女だったが、しかし意固地になったベニーは全く耳を貸さず、仕方なしに折れたエリータは真夜中に墓地へ向かう彼に同行する。意を決してガルシアの墓を掘り起こすベニー。ところが次の瞬間、背後から忍び寄った何者かに頭を殴られて気絶し、意識を取り戻すと既にガルシアの首は持ち去られており、ベニーの横には愛するエリータの亡骸が横たわっていた。にわかに状況を呑み込めずにいたものの、しかしふつふつと湧き上がる怒りと悲しみに打ちのめされ、やがて激しい憎悪に駆られていくベニー。もはや復讐の鬼と化した彼は、ガルシアの首を奪い返してエリータの仇を討つべく暴走していく…。 もともと本作の企画はペキンパーが『砂漠の流れ者』(’70)の撮影中、同作でセリフ監修を務めた盟友フランク・コワルスキーの何気ないアイディアによって生まれたのだという。「首に懸賞金のかかった男が実は既に死んでいた」という設定を気に入ったペキンパーは、当時彼の愛弟子的な存在だった脚本家ゴードン・ドーソンに脚本の草稿を依頼する。『ダンディー少佐』(’65)の衣装アシスタントだったドーソンは、そのケンカの強さをペキンパーに気に入られ、以降も『ワイルド・バンチ』(’68)や『砂漠の流れ者』、『ゲッタウェイ』(’72)などに関わってきたという親しい仲。彼は師匠であるペキンパーをモデルに主人公ベニーを書き上げ、主演のウォーレン・オーツもペキンパーの特徴を模倣しながら演じたという。ドーソンによると、いつものようにペキンパーが脚本を自由に書き換えると思っていたそうなのだが、最終的にベニーのキャラだけがそのままになっていて驚いたらしい。 本当は心優しくて気が弱い男なのに、タフで男臭いアウトローを演じてみせるベニー。心から愛する女に対しても素直になれず、ついつい粗末に扱ってしまう。なんとも矛盾した格好悪い男なのだが、しかしそれゆえに憎めないというか、なぜか愛さずにはいられない。なるほど、確かに近しい関係者から伝え聞くペキンパーの実像に似たものが感じられるだろう。もしかすると、ペキンパーも自分がベニーの元ネタであることを重々承知のうえだったのかもしれない。なにしろ、当時のペキンパーは『ビリー・ザ・キッド~』の一件で打ちのめされていた時期。自信を失い卑屈になった負け犬ベニーに、自らの姿を投影していたとも考えられる。「これば自分の映画」という彼の言葉には、そういう意味も含まれているのだろう。 そもそも、本作に出てくる男たちは揃いも揃ってみんな矛盾を抱えている。思考と行動が首尾一貫しているのはエリータとエル・ヘフェの娘テレサくらい。つまりは女性だけだ。父親の威厳を保つため手下に最愛の我が娘を拷問させるエル・ヘフェをはじめ、クールなビジネスマン風の紳士コンビを気取ったゲイ・カップルの殺し屋サペンスリーとクイル、見ず知らずの子供たちを可愛がりつつ平然と人を殺す手下のチャロとクエト。エリータをレイプするバイカーたちだって中身は無邪気な子供も同然だ。誰もが人間らしい感情や愛情を内に秘めながらも、しかしなぜかそれが相反する暴力へと向かい、最終的には悲惨な末路を辿ることになってしまう。彼らが執拗にこだわり続け、それゆえに身の破滅を招く原因になったもの。それはマチズモ、つまり「男らしさ」という幻想であろう。彼ら(ゲイ・カップルを含め)は男らしさを誇示するため女を粗末にし、そればかりか自分より弱い男も暴力で踏みつけ力を誇示する。自身も男らしさにこだわり男らしく振る舞っていたというペキンパーだが、実のところそれが内面の弱さの裏返しであることに自覚があり、社会にとって害悪を及ぼすものであると考えていたのではないか。本作を見ているとそんな風にも思えてくる。 なお、今でこそペキンパーの隠れた名作として世界的に高く評価され、当時の彼にとって渾身の一作であったはずの『ガルシアの首』だが、しかし劇場公開時は批評家からも観客からも理解されずに総スカンを食らってしまった。当時ヒットしたのは日本だけだったとも言われる。そのことを我々は誇ってもいいかもしれない。■ 『ガルシアの首』© 1974 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
トレーニング デイ
新人が悪徳警官の厳しい洗礼を受ける!デンゼル・ワシントンがアカデミー賞に輝いた衝撃の犯罪ドラマ
デンゼル・ワシントンがキャリア初の悪役を凄み満点に演じ、アカデミー主演男優賞を受賞。骨の髄まで悪に染まったカリスマ刑事の汚れっぷりと、理想に燃える新人刑事役イーサン・ホークとのコントラストが鮮烈だ。
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COLUMN/コラム2021.04.07
血まみれサムとマックィーンの黄金時代『ゲッタウェイ』
本作『ゲッタウェイ』(1972)の監督は、サム・ペキンパー。その異名“血まみれサム”は、多くの方がご存知の通り、彼の作品の特徴である、血飛沫飛び散るヴァイオレンス描写に由来するものである。 しかし“血まみれ”なのは、撮影現場やスクリーン上だけの話ではなかった。ペキンパーは常に、製作会社やプロデューサーと、血で血を洗う戦いを繰り広げていた。その戦いについて、彼は本作が製作・公開された年のインタビューで、こんな風に語っている。「西部のガンマンの対決なんか、製作費の問題での対決にくらべれば屁みたいなものさ。俺はいつもケチなプロデューサーを相手に、嘘をつき、ゴマ化し、チョロマカす。でもこれまで大方、この闘いは負けだった。いつも、プロデューサーとケンカして、クビさ。じっさい、この世界には、寄生虫やハイエナがウヨウヨだ。殺されるなんてものじゃない。生きたまま食われちまうんだぜ」 そんな血みどろの戦いの中で、“血まみれサム”は自らのスタッフをも、次々と血祭りに上げたことでも、知られる…。 ドン・シーゲル門下ということでは、現代の巨匠クリント・イーストウッドの兄弟子に当たる、ペキンパー。1925年生まれの彼が、TVドラマの西部劇シリーズなどを経て、映画監督としてのスタートを切ったのは、齢にして30代中盤だった。 デビュー作は、『荒野のガンマン』(60)。それに続く『昼下がりの決斗』(61)では、興行的な成果こそ得られなかったものの、新しい時代の西部劇の担い手として、注目されるに至った。 そしてこの作品では、フィルムを大量に回し、膨大なそのすべてを把握して編集するという、彼一流の手法が、確立した。ペキンパー組の常連俳優だったL・Q・ジョーンズ曰く、「脚本を壊し、全てを断片にし、それから組み合わせる」やり方である。 続いて手掛けたのが、『ダンディー少佐』(65)。主演のチャールトン・ヘストンが、『昼下がりの決斗』に感銘を受けたのが、ペキンパー起用の決め手となった作品だ。 しかし『ダンディー少佐』は、ペキンパーに悪名を与える、決定打となった。いわく、「予算もスケジュールも守らない」「スタッフに過大な要求をし、出来なければ情け容赦なくクビにする」「大酒飲みのトラブルメーカー」といった具合に。 製作したコロムビアと大揉めに揉めたこの作品では、ペキンパーは最終的に編集権を奪われる。そして彼が編集したものより、大幅に短縮された作品が、公開されるに至った。 このパターンは、その後のペキンパー作品について回る。しかしそれ以前の段階としてペキンパーは、『ダンディー少佐』から4年以上の間、干されることとなった。 雌伏の時を経て、ペキンパーが69年に放ったのが、代表作『ワイルドバンチ』である。この作品でペキンパーは、彼の代名詞とも言える、銃撃戦などアクションを“スローモーション”で捉える手法を、初めて用いた。これが、「デス・バレエ=死の舞踏」などと評され、正にペキンパーの「血の美学」が、世界中にセンセーションを巻き起こしたのである。 後に続くフィルムメーカーたちに多大な影響を与え、映画史に残るマスターピースとなった『ワイルドバンチ』。しかしこの作品も、ペキンパー作品の辿る悪しきパターンから、逃れられなかった。 ペキンパーが当初完成させたバージョンは、2時間24分だったが、公開後興行成績が思ったほど伸びなかったため、製作元のワーナーはペキンパーに無断で、フラッシュバックなどをカット。2時間12分版を作って、全米の劇場に掛けたのである。 それはともかく、『ワイルドバンチ』で悪名以上の勇名を得たペキンパーは、続けて「恐らく私のベストフィルム」と胸を張る、『ケーブル・ホーグのバラード』(70)(日本初公開時のタイトルは『砂漠の流れ者』)を完成。更にダスティン・ホフマンを主演に迎え、イギリスで撮影した初の現代劇『わらの犬』(71)では、その暴力描写が、賛否両論の嵐となった。 キャリア的には正にピークを迎えんとするタイミングで、ペキンパーは、当時名実と共にNo.1アクションスターだった、スティーヴ・マックィーンと組むことになる。その作品は西部を舞台に、ロデオの選手を主人公にした現代劇、『ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦』(72)。ペキンパーのフィルモグラフィーでは、銃撃と死体の登場しない、唯一の作品である。 実はペキンパーはこの作品以前に、マックィーンとの邂逅があった。それはマックィーンがポーカーの名手を演じた、『シンシナティ・キッド』(65)である。時期的には『ダンディー少佐』で、悪名を轟かせた直後。そしてペキンパーは、『シンシナティ・キッド』の撮影開始から1週間足らずで、監督をクビになったのである。 この時マックィーンは、ペキンパーの解雇に同意したという経緯があった。『ジュニア・ボナー』で、そんなペキンパーとの因縁の組み合わせが決まった時のことを、後にマックィーンはこう思い起こしている。「俺はいつも完璧主義者だから、多くの人の頭痛の種だったし、サムも悪評高かった。彼と俺で、大したコンビさ。スタジオ側は頭痛薬をたっぷり用意してたと思うよ」 いざ『ジュニア・ボナー』の撮影が始まると、2人の間には最初こそ緊張感が生じたものの、次第に解消していったという。マックィーンが頻繁に自分の登場シーンを書き換えることで、対立などもあったが、両者の関係は概ね良好だった。 ペキンパーはマックィーンについて、「…奴のことを好きな人間はあまりいないみたいだが、私は好きだね」と語っている。一方でマックィーンは、「サム・ペキンパーは傑出した映画作家だ…」と、リスペクトを表明している。『ジュニア・ボナー』は、評判の高さに比して、興行は期待外れに終わった。しかしマックィーン×ペキンパーの両雄は、続けて組むこととなる。 それが、本作『ゲッタウェイ』である。 ジム・トンプソンの犯罪小説を映画化するというこの企画は、『ローズマリーの赤ちゃん』(68)『ゴッドファーザー』(72)などのヒット作を手掛けた、パラマウントのプロデューサー、ロバート・エヴァンスがスタートさせた。ペキンパーに監督させるというプロジェクトだったのだが、不調に終わり、一旦ご破算になった。 続いてパラマウントの別のプロデューサーが、マックィーン主演作として企画を進めることとなったが、それも頓挫。マックィーンは、ポール・ニューマンやシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドらと設立した製作会社ファースト・アーティストの第1回作品として、本作の製作を決める。 脚本は、原作者のトンプソン自らが手掛けたが、マックィーンがその内容を気に入らず、没に。当時新進の脚本家だった、ウォルター・ヒルが担当することとなった。 マックィーンが、監督の第一候補と考えていたのは、ピーター・ボグダノヴィッチ。当時『ラスト・ショー』(71)で高い評価を得ていた、新進気鋭の若手監督だった。しかしスケジュールの問題などで、実現せず。 そこで白羽の矢が立てられたのが、ペキンパーだった。彼にとっては、元より興味があった企画の上、次なる監督作として取り組んでいた『大いなる勇者』『北国の帝王』などが、諸事情によって、他の監督の手に渡ってしまったタイミング。そこで『ジュニア・ボナー』に続けて、マックィーンと組むこととなった。 テキサスの刑務所に、銀行強盗の罪で服役していた男が、10年の刑期を半分も務めることなく、4年で仮釈放となった。男の名は、ドク・マッコイ(演:スティーヴ・マックィーン)。迎えに来た妻キャロル(演:アリ・マッグロー)と、4年振りの熱い夜を過ごす。 ドクの早すぎる仮釈放は、地方政界の実力者ベニヨン(演:ベン・ジョンソン)との裏取引によるもの。出所と引き換えに、田舎町の小さな銀行を襲って、その分け前をベニヨンに納めるという約束だった。 ベニヨンはドクに、銀行強盗の仲間として、ルディ(演:アル・レッティエリ)、ジャクソン(演:ボー・ジャクソン)という2人を引き合わせる。綿密な計画が立てられ、キャロルを含めて4人での、決行の日がやってくる。 すべてがスムースにいくと思われたが、青二才のジャクソンが、銀行の守衛を射殺したことから、全ての歯車が狂い出す。ドクとキャロル、ルディとジャクソンの二手に分かれて逃走を図るも、ルディはジャクソンを突然射殺。集合場所でドクも撃ち殺して、金を独り占めしようと図るが、気配を察したドクに、逆に撃ち倒される。 ドクは黒幕のベニヨンの元に、取り引きに行く。ベニヨンは、今回の銀行強盗の裏事情を明かし、ドクを釈放させた背景に、キャロルとの情事があることを仄めかす。ショックを受けるドクの背後に、突然キャロルが現れた。そしてベニヨンに、銃弾をぶち込む。 互いに傷つき、その絆が揺らぎながらも、逃避行を続けるドクとキャロルの夫婦に、次々とアクシデントが襲い掛かる。更にはベニヨンの手下たち、そしてドクに撃たれながらも、生きながらえていたルディが、追っ手となって迫る。 ドクとキャロル、犯罪者の夫婦が大金を手にしたまま国境越えを目指す、“ゲッタウェイ”逃走劇は、果して成功するのか!? キャロル役のアリ・マッグローは、白血病のヒロインを演じて観客の涙を絞った『ある愛の詩』(70)が、大ヒットして間もない頃。私生活では、本作を当初プロデュースする予定だったロバート・エヴァンスと、結婚生活を送っていた。本作のヒロインにキャスティングされたのも、その流れからと思われる。 ところが『ゲッタウェイ』の撮影中、マッグローは、前妻と15年の結婚生活にピリオドを打ったばかりのマックィーンと、恋に落ちてしまう。結局マックィーンによる略奪婚という形で、マッグローはエヴァンスと別れ、撮影終了後に2人は夫婦となった。 72年2月にクランクインした本作は、そんなスキャンダラスな話題も交えながら、順撮り、即ち物語の進行の順番通りに、撮影を進めていった。そして5月には、クランクアップ。予算的にもスケジュール的にも、ペキンパー作品としては大過ない、進行と言えた。 しかしポストプロダクションで、トラブる。ペキンパーは、『ワイルドバンチ』『わらの犬』に続いて、音楽をジェリー・フィールディングに依頼するも、完成したスコアは、マックィーンの意向で、すべて差し替え。画面を彩ったのは、クインシー・ジョーンズのジャズっぽいスコアとなった。 更にマックィーンは、最終編集権をペキンパーには渡さずに、作品を完成させた。アクション映画の諷刺を目指して本作に挑んだというペキンパーは、完成版を目にした時に、「これは俺の映画じゃない!」と、叫んだと伝えられる。 本作の次に撮った『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(73)では、MGMの判断で勝手に編集が行われた際、ペキンパーはその経営者に、メキシコから殺し屋を差し向けようとまで思い詰めたという。それでは本作のマックィーンに対しての怒りは、どんな形で発露されたのか? 意外や意外、2人の友情は、その後も続いたという。それは一体、なぜだろうか? 一見、いつもの悪しきパターンにはまり込んだかのような『ゲッタウェイ』だったが、興行の結果が他のペキンパー作品とは、大きく違った。彼のフィルモグラフィーに於いて、最大のヒット作となったのである。 ペキンパーは、興収から多額の歩合も貰える契約を、マックィーンと結んでいた。これでは、矛を収める他はなかったのかも知れない。 だが、そんな裏事情を敢えて無視して、本作を眺めてみよう!すると、ごく単純化されたストーリーラインの中で、至極楽しめる極上の娯楽作品となっていることが、わかる。 公開時は、42才。ノースタントのアクションスターとして、まさに脂が乗り切っていた、マックィーンの身のこなし。そして、銃器の扱いに関しては、右に出る者がないと言われた彼が魅せる、ガンアクション。 ペキンパーは、47才。お得意の“スローモーション”を駆使した、ヴァイオレンスシーンの演出に磨きがかかり、観る者の度肝を抜く。 本作では、そんな両者の技能が、まさに融合。“映画的瞬間”を、作り出しているのである。 そして2021年の我々は、知っている。1972年にピークを迎えた、2人のその後の運命を。 マックィーンはこの後、たった8年しか生きられず、50歳でこの世を去ってしまう。ペキンパーの余命も、あと12年。60才を迎える前に、彼の心臓は止まってしまう。 そんな彼らが全盛期に手を組んで、輝きを放つ、『ゲッタウェイ』。今こそ感慨を新たに、フィルムに焼き付けられた、2人の“黄金時代”を、凝視したい。■ 『ゲッタウェイ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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PROGRAM/放送作品
ラブリーボーン
もう一度家族に触れたい…天国へ旅立った少女を描いたベストセラー・ファンタジー小説を映画化
『ロード・オブ・ザ・リング』3部作のピーター・ジャクソン監督が、死後の世界が舞台のベストセラー小説を幻想的な映像美で描く。現世の家族と交流を試みる14歳の少女を、若き演技派シアーシャ・ローナンが好演。
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COLUMN/コラム2021.04.06
女性同士の友情を超えた固い絆を通してフェミニズムの発芽を描く女性映画の佳作『女ともだち』
戦争によって運命を翻弄され、愛のない結婚生活に縛られた2人の女性 筆者が大学時代に映画館で見て強い感銘を受けた作品のひとつである。日本公開は本国フランスから遅れること約3年の1986年1月だが、当時高校3年生だった筆者は受験勉強に忙しくて映画を見る暇などなかったため、恐らく日本大学芸術学部に入学してから都内の名画座で見たと記憶している。都営浅草線の西馬込から五反田で山手線に乗り換え、池袋経由で西武池袋線の江古田へ通っていた筆者は、その沿線にある五反田東映シネマや目黒シネマ、早稲田松竹に文芸座といった名画座へ足繁く通っていた。今となっては、そのうちのどこで本作を見たのか定かではないが、1940~50年代のフランスを舞台としたノスタルジックな映像美、ありきたりな友情を超えた女性同士の固い絆を描く繊細なドラマ、そして映画音楽の名匠ルイス・バカロフの紡ぎ出す抒情的な美しいメロディ、そのいずれもが忘れ難く、輸入盤で手に入れたセミダブル・ジャケットのサントラLPを溝が擦り切れるまで繰り返し聴いて映画の余韻に浸ったものだった。 物語の始まりは1942年。ドイツ占領下のフランスではユダヤ人の排斥が進み、この頃になると外国系ユダヤ人の取り締まりが一層のこと厳しくなっていた。その背景には、外国籍のユダヤ人をナチスに売り渡すことで、フランス国籍のユダヤ人を守ろうとした在仏ユダヤ人総連合の協力があったと言われている。南仏ピレネー=オリアンタルのユダヤ人収容所へ到着したヒロイン、レナ(イザベル・ユペール)もユダヤ系ベルギー人だ。劇中では具体的な収容所の名前は出てこないものの、恐らくピレネー=オリアンタルに実在したリヴザルト収容所と思われる。ここはいわゆる通過収容所で、最終的にはドイツ及び各国の強制収容所へ送られることになる。42年から43年にかけて、4000人近くのユダヤ人がリヴザルトからアウシュヴィッツへ送られたらしいが、本作のレナもまた同じ運命を辿るはずだった…。 ところが、ある日彼女は見知らぬ男性から手紙を受け取る。送り主は給食係の冴えない兵士ミシェル(ギュイ・マルシャン)。一方的にレナに一目惚れしたミシェルは、フランス人である自分と結婚すれば収容所を出られると持ち掛けてきたのだ。突然の申し出に面食らうレナだったが、しかし背に腹は代えられないため、この奇妙なプロポーズを受けることにする。収容所の外へ出たらサヨナラすればいい。そう考えていたものの、財産も行く当てもない彼女はそのままミシェルと暮らすことに。しかも、なんと彼もまた生粋のユダヤ人だった。先述したように、当時はフランス国籍のユダヤ人は収容所送りを免れていたのである。しかし、その後ユダヤ人排斥のターゲットはフランス国籍保持者にも及び、レナとミシェルは徒歩で国境を越えてイタリアへと脱出。いつしか夫婦の絆のようなものが生まれていた。 そのちょうど同じ頃、美大生のマドレーヌ(ミュウ=ミュウ)は同級生レイモン(ロバン・レヌッチ)と結婚して幸せの頂点にあった。ところが、恩師カルリエ教授(パトリック・ボーショー)の逮捕に抗議する学生が集まった際、レジスタンスとゲシュタポの銃撃戦が勃発し、マドレーヌを守ろうとしたレイモンが銃殺されてしまう。最愛の人を失ったことから生きる気力を失った彼女は、終戦後に知り合った売れない役者コスタ(ジャン=ピエール・バクリ)と成り行きで結婚する。 時は移って1952年。たまたま子供たちが同じ学校に通っていたことから、学芸会で知り合ったレナとマドレーヌはたちまち意気投合する。自動車整備工場を経営するミシェルとの間に2人の娘をもうけたレナ。夫の仕事は順調で羽振りも良く、何不自由ない生活を送っているレナだったが、必ずしも幸せとは言い切れないでいた。家庭を大事にする善良なミシェルは良き夫であり良き父親だが、無教養で車とスポーツ以外には関心がなく、知的好奇心の旺盛なレナは物足りなさを感じていた。一方のマドレーヌもコスタとの間に一人息子をもうけたが、しかし夫は相変わらず売れない役者のままで、一獲千金を夢見ては怪しげな商売に手を出して借金を作っている。どちらも生活のために愛のない結婚をし、不満の多い日常生活に縛られた女性同士。やがて、お互いに胸の内をさらけ出せる親友として、なくてはならない存在となっていく…。 ヒロインたちのモデルとなったのは監督の母親とその親友 物語の焦点となるのは、お互いに最大の理解者として深い友情を育みながら、やがて女性としての自我と自立心に目覚めていくヒロインたちと、そんな妻たちの精神的な成長を一家の大黒柱たる男として受け入れることの出来ない夫たちの葛藤だ。戦時中は激動する社会に運命を翻弄され、戦後の平和な時代になると今度は家庭に縛られ、常に誰かに人生をコントロールされてきたレナとマドレーヌ。私たちも自身の力で何かを選択して挑戦したい。そう考えた2人は共同でブティックを開業しようと計画するが、しかしレナの夫ミシェルは彼女が自分のもとを離れるのではないかと恐れてマドレーヌとの交際を禁じ、マドレーヌの夫コスタは家族を養うべき男としてのプライドを傷つけられたと憤慨する。これは女性の自立が叫ばれるようになる以前の時代、2人の平凡な主婦を通してフェミニズムのささやかな発芽を描いた物語と言えるだろう。 監督はこれが長編劇映画3作目だった元女優のディアーヌ・キュリス。ルイ・デリュック賞に輝く処女作の青春映画『ペパーミント・ソーダ』(‘77・日本未公開)では自身の少女時代を瑞々しく描き、カンヌ国際映画祭のコンペティションに出品された『ア・マン・イラブ』(’88)では妻子あるハリウッド俳優と恋に落ちる無名女優に自身の体験を投影したキュリス監督だが、実はアカデミー外国語映画賞候補になった本作も実話を基にしている。ヒロインのレナとマドレーヌのモデルとなったのは、キュリス監督の実の母親とその親友なのだ。彼女の両親(名前もレナとミシェル)は’42年にリヴザルト収容所で出会い結婚し、’53年に離婚している。マドレーヌは本作が完成する2年前に亡くなったという。初公開時にレナとマドレーヌの関係は同性愛とも解釈されたが、実際の2人を知るキュリス監督によると、そうとも言えるし、そうとも言えない、つまり定義付けの出来ない特別な関係だったのだそうだ。 また、先述したようにルイス・バカロフの手掛けた音楽スコアも本作の大きな魅力のひとつである。アカデミー作曲賞に輝いた『イル・ポスティーノ』(’96)をはじめ、クエンティン・タランティーノの『キル・ビル』にも引用された『怒りのガンマン/銀山の大虐殺』(’71)やジャンゴ映画の元祖『続・荒野の用心棒』(’66)、巨匠フェリーニの『女の都』(’80)など、主にイタリア映画で活躍したアルゼンチン出身の作曲家バカロフにとって、本作は初めてのフランス映画だった。東欧ユダヤの伝統音楽クレズマーをモチーフ(バカロフ自身もユダヤ系)にしたテーマ曲をはじめ、ジャズやシャンソン、民謡などを巧みにブレンドしたノスタルジックでセンチメンタルな音楽スコアがとにかく素晴らしい。2010年にボーナストラック入りの完全版が500枚限定プレスでCD化され、筆者も迷わず手に入れて家宝にしているが、より幅広く知ってもらうためにも改めての再発が望まれる。 ちなみに、キュリス監督は近作『女性たちへ』(‘13年・日本未公開)でも両親をモデルにしている。母親レナ役はメラニー・ティエリー、父親ミシェル役はブノワ・マジメル。今度は終戦直後にフランスへ戻ってからマドレーヌと知り合うまで、つまり『女ともだち』では描かれなかった空白の期間を題材に、夫ミシェルの生き別れた弟と惹かれあうレナの葛藤が描かれているという。日本で見ることの出来ないのが惜しい。■ 『女ともだち』© 1983 STUDIOCANAL - Appaloosa Dvpt - Hachette Première || "&" || Cie - France 2 Cinéma
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PROGRAM/放送作品
チェンジング・レーン
ささいな車の接触事故によりそれぞれの運命が微妙にずれていく2人の男を描いたサスペンス・ムービー
ベン・アフレックとサミュエル・L・ジャクソンの2大スターが共演。ささいな事故からお互いの人生の歯車が狂っていく様を描いたサスペンス・ムービー。監督は『ノッティングヒルの恋人』のロジャー・ミッシェル。
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COLUMN/コラム2021.03.26
“天国”で地獄を見た男が、起死回生を賭けた一作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』
1979年4月9日に開催された、「第51回アカデミー賞」の主役となったのは、40歳になったばかりのマイケル・チミノ。この日に作品賞や監督賞をはじめ、最多5部門でオスカーに輝いた、『ディア・ハンター』(1978)の監督であり、プロデューサーの1人だった。 チミノは、広告業界を経て、映画界入り。まずは脚本家として、『サイレント・ランニング』(72)『ダーティハリー2』(73)の2本を共同執筆した。 監督デビュー作は、クリント・イーストウッド主演の、『サンダーボルト』(74)。ベトナム戦争に出征した、ロシア移民の若者たちの運命を描いた『ディア・ハンター』は、まだ監督2作目だった。 この日「アカデミー賞」監督賞のプレゼンターとして登場したのは、フランシス・フォード・コッポラ。チミノと同年の生まれだが、70年代前半には、『ゴッドファーザー』(72) 『カンバセーション…盗聴…』(74)、そして『ゴッドファーザー PARTⅡ』(74)の3本で、観客の支持を集めると同時に、「アカデミー賞」や「カンヌ国際映画祭」などを席捲。正に飛ぶ鳥を落とす勢いの、時代の寵児となっていた。 しかし70年代後半のコッポラは、ベトナム戦争を舞台に、アメリカの侵略を批判的に描くという、当時としては野心的な試みであった、『地獄の黙示録』(79)の製作が難航。同じく“ベトナム”を題材にした『ディア・ハンター』の方が、製作開始が後だったにも拘らず、先に公開されたのである。 そして迎えた、この日。『地獄の…』が未だ完成に至らないコッポラの手から、チミノにオスカーが渡されるというのは、極めて象徴的な出来事と言えた。 作品賞の授与は、更にドラマチックな展開となった。プレゼンターは、長きに渡ってハリウッドの帝王として君臨した、大スターのジョン・ウェイン。間もなく72才にならんとする彼は、末期がんに侵されており、瘦せ衰えた姿での登壇であった。 ウェインと言えば、“赤狩り”の積極的な旗振り役を務めたほどの、典型的なタカ派。“ベトナム”に関しては、“反戦運動”の高まりに抗し、アメリカ軍を正義の味方として描くプロバガンダ映画『グリーン・ベレー』(68)を、製作・監督・主演で発表している。 そんな彼が最後の晴れ舞台(ウェインはこの式典の2か月後に死去)で、『グリーン…』のちょうど10年後に製作された“ベトナム反戦映画”『ディア・ハンター』の名を読み上げ、オスカー像を手渡したわけである。歴史の皮肉であると同時に、その後の展開次第では、ハリウッド帝国の「王位の引継ぎ式」として、映画史に残る可能性さえあった そう。この時のマイケル・チミノは、新たに玉座に就いたかのような、輝かしい存在であった。そして、オスカーを手にした日からちょうど2週間後=4月16日には、監督第3作がクランクインしたのである。 その作品の名は、『天国の門』。オスカー戦線を再び目指す構えで、翌80年の10月19日に、ニューヨークでプレミア上映が行われた。しかし、まさかそのお披露目の瞬間に、チミノが『ディア・ハンター』で得た栄光が、灰燼に帰してしまうとは…。『天国の門』は、1890年前後のワイオミング州で起こった「ジョンソン郡戦争」をモチーフに、入植者である東欧系移民の悲劇を描いた西部劇である。1,100万ドルの予算でスタートしながらも、チミノの完全主義にオスカーの余勢もあって、製作費が当初の4倍=4,400万ドルという、当時としては前代未聞の規模にまで膨らんでしまった。 そして、3時間39分という長尺で完成した『天国の門』は、件のプレミア上映で、観客からも評論家からも総スカンを喰らう。公開から1週間後には、製作会社のユナイテッド・アーティスツが、フィルムを映画館から引き上げ、全米及び海外での公開は、延期となってしまった。 翌春には2時間29分まで尺を詰めた再編集版が公開されたものの、結局4,400万ドル掛かった製作費の10分の1も回収できず、大失敗に終わった。この災禍により、ユナイテッド・アーティスツは経営危機に陥り、60年以上に及ぶその歴史に、幕を下ろすこととなった。 ハリウッドの新たな帝王、少なくともその最有力候補であったチミノの名誉は、この歴史に残る「映画災害」で、地に堕ちた。そして彼は、長い沈黙を余儀なくされる。 80年代前半、『天国の門』以前からチミノが準備を進めていた幾つかの企画は、雲散霧消。捲土重来を期して新たに取り組んだ企画に関しても、『天国の門』の二の舞を避けたい各製作会社の判断で、製作中に解雇されるケースが相次いだ。 そんなチミノが、表舞台へと復帰したのが、本作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(85)である。 1981年に出版された、本作の原作小説の映画化権を獲得したのは、プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティス。フェデリコ・フェリーニ監督の名作『道』(54)や、『キングコング』(76)などの製作で知られる。 ラウレンティスは映画化権を得るとすぐに、チミノに連絡。しかしチミノは当初、この企画に関心を示さなかったという。 他の人材を使って映画用の脚本を作成しようと試みたラウレンティスだったが、うまくいかず、再びチミノにお鉢が回る。他の企画が次々と頓挫していったこともあってか、チミノは一度は断ったこのオファーを、ストーリーや登場人物を、原作から自由に改変できることを条件に、受けることにした。『ミッドナイト・エクスプレス』(78)や『スカーフェイス』(83)などで、当時気鋭の脚本家として注目されていたオリヴァー・ストーンを共同脚本に引き入れたチミノは、メインの舞台となるチャイナタウンへと赴いて取材を重ね、脚本を完成。遂に5年振りとなる新作の、クランクインへと漕ぎつけた。 ニューヨークのチャイナタウン。小さな飲食店で仲間と会していた、“チャイニーズ・マフィア”TOPのワンが、突然刺殺された。犯人が捕まらぬまま、その壮大な葬儀を仕切ったのは、ワンの娘婿であるジョーイ・タイ(演:ジョン・ローン)。 そんな葬儀の様子を見やっていたのは、新しくこの地域の担当となった、市警の刑事スタンリー・ホワイト(演:ミッキー・ローク)だった。ホワイトは麻薬取引などで暗躍する、中国系犯罪組織の壊滅を狙って、動き出す。 マスコミの力を利用しようと考えたホワイトは、TV局の女性キャスターで、中国系のトレーシーに近づく。チャイナタウン内の高級中華料理店に彼女を招き、密議を持ち掛けていると、突然覆面をした2人の男が乱入し、機関銃を無差別に乱射。店内は、パニックに陥る。ホワイトはトレーシーを庇いながら、発砲。犯人たちに深傷を負わせながらも、取り逃がしてしまう。 観光客などに多数の死傷者を出した、この襲撃の黒幕は、ジョーイ・タイだった。彼は店の主人である組織の長老の面子を潰し、その影響力を削ぐために、虐殺劇を演出したのである。 一方、妻との不和を抱えていたホワイトは、この一件をきっかけに、トレイシーとの仲が深まり、やがて不倫の関係となる。それと同時にホワイトは、“チャイニーズ・マフィア”の若きリーダーとなったタイに、全面戦争を仕掛ける。 タイは麻薬の供給量を拡大するため、東南アジアの“黄金の三角地帯”に自ら出向いた際には、商売敵の生首を手土産とするような、残虐な振舞いを躊躇しない。遂には、敵対するホワイトだけでなく、その周辺の者たちにまで、刺客を差し向ける。 怒り心頭に達したホワイトは、タイにとって正念場となる、麻薬取引の現場を急襲!命を懸けた、2人の最後の対決が始まった…。 先に記した通り、ストーリーや登場人物を自由に改変できることを条件に、本作に取り組んだチミノ。主人公の刑事を、原作にはない、ポーランド系に設定にした上、ベトナム戦争帰りのため、アジア系に偏見を持つという要素を加えた。 彼と恋に陥る女性キャスターに関しても、原作とは変更。40代の白人女性だったのを、20代の中国系女性に変えている。 中国系であるタイに、偏見と共に強烈な敵愾心を燃やしながらも、同じ中国系のトレーシーにのめり込んでしまう、ポーランド系の刑事。チミノ曰く、「移民の国アメリカでは、―――系アメリカ人と系がつく人種が多いのが現実。だからアメリカの現実を描こうとしたらエスニックは避けて通れない」。 自身はイタリア系の三世である、チミノ。彼の中では、ロシア系移民が主人公だった『ディア・ハンター』、東欧系の『天国の門』と合わせて、本作はアメリカを描く三部作という位置付けだった。 こうしたチミノのこだわりによって誕生したホワイト刑事役には当初、クリント・イーストウッド、ポール・ニューマン、ニック・ノルティ、ジェフ・ブリッジスらが想定されていたという。しかし最終的に、チミノの前作『天国の門』にも出演していた、ミッキー・ロークに決まる。 当時のロークは、セックスシンボル的に、女性人気がグングンと高まっていった頃で、まだ30代前半。ベトナム帰りで40代後半のホワイトを演じるには、白髪に染めるなどの工夫を凝らしても、些か若すぎたように思える。 しかしチミノは、ロークの身体能力の高さを買って、激しいアクションシーンが多い本作の主役に、彼を据えたという。そうは言っても公開当時は、“チャイニーズ・マフィア”の若きドンを演じたジョン・ローンの、冷酷非情でありながらも貴公子然とした佇まいに対し、ミッキー・ロークより高く評価する声が多かった。それから35年以上の歳月が流れ、チミノの判断が正しかったか否かは、鑑賞者各自の判断に委ねたい。 因みにジョン・ローンは本作の後、ベルナルド・ベルトルッチ監督作で、アカデミー賞9部門を制した『ラスト・エンペラー』(87)に主演。皇帝溥儀を、見事に演じている。 さて本作は、『天国の門』の再現を恐れてか、ラウレンティスがチミノに最終的な編集権を渡さなかった。それが効を奏して(?)、スケジュールも予算をオーバーすることもなく、1985年8月に無事公開に至った。 ノースカロライナ州に在るラウレンティスのスタジオに建て込まれた、ニューヨークのチャイナタウンは、誰もがセットとは思えないほど、精緻な仕上がりであった。そこをメインの舞台として、強烈なヴァイオレンスシーンなど、見どころ満載で展開される“対決”の物語は、134分の上映時間を飽きさせことなく駆け抜ける。 アメリカより半年遅れて、日本では86年2月に公開となった。その際の劇場用プログラムには、~前作『天国の門』の失敗のツケを十二分にカバーする起死回生のホームランになった~などと記されている。 また本作のプロモーションで、チミノとジョン・ローンが来日。その際の記者会見が採録されているが、本作で中国系の俳優を起用して成功したことで、西部開拓時代に中国からの移民が多く従事した、鉄道建設の物語を映画化する、チミノの構想が、実現する可能性が大きくなったなどと、書かれている。 しかし実際のところは、これらはインターネットなき時代に、日本の映画会社がお得意とした、事実の塗り替えであった。本作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』はアメリカ公開の際、スタート時こそまずまずの成績を上げたものの、アジア系アメリカ人や映画批評家などから、人種差別や性差別的な傾向を指摘され、批判や抗議を受けたことなどが一因となり、動員は下降の一途を辿った。 これに対しチミノは、「『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』は人種差別を描いた映画だけども、人種差別的な映画ではありません」と反論。実際に本編の中でも、偏見を抱き続けていた主人公が、己の過ちを認めるシーンなどが盛り込まれている。 しかし結局は、2,400万ドルの製作費に対して、興行収入は1,800万ドルに止まり、赤字に終わった。チミノの名誉挽回は、失敗に終わったのである。 本作以降のチミノは、『シシリアン』(87)『逃亡者』(90)『心の指紋』(96)といった作品を監督するも、いずれも興行は不発。最後の長編監督作となった『心の指紋』に至っては、ほとんど劇場公開されずに、いわゆる「ビデオスルー」となる始末だった。 その後は「カンヌ国際映画祭」の60回記念として製作された、世界の著名監督34組によるオムニバス映画『それぞれのシネマ』(2007)の中の上映時間3分の一篇を手掛けただけ。2016年、チミノは77才で、この世を去った。 死に至る4年前=2012年に、『天国の門』をチミノ自らが、3時間36分に再編集。ディレクターズ・カット版として、「ヴェネチア映画祭」でお披露目後にアメリカ公開された際、「初公開当時の評価が誤りであった」などと、再評価の声が高らかに上がった。 映画作家として、不遇な後半生を送ったチミノにとって、それはせめてもの慰めだったかも知れない。■
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PROGRAM/放送作品
グラディエーター
古代ローマの闘技場で剣闘士が復讐に燃える! 20世紀最後にして最高の歴史スペクタクル
巨匠リドリー・スコットが最新VFX技術を駆使し、古代ローマの世界を壮大に甦らせた歴史スペクタクル。壮絶な死闘を繰り広げる剣闘士役ラッセル・クロウのカリスマ性は必見。アカデミー作品賞など全5部門を受賞。
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COLUMN/コラム2021.03.09
『サボテン・ブラザース』が愛される理由
日本の映画市場で長らく鬼門と言われ続けてきたジャンルの一つが、“アメリカン・コメディ”だ。たとえ本国でNo.1ヒットを飛ばした作品でも、日本公開では一部の例外を除いて、その多くが爆死を遂げてきた。公開されるのはまだマシな方で、日本のスクリーンには掛からずじまいだった作品も、少なくない。 その原因として繰り返し言及されたのが、文化的な差異による“笑い”の違い。その説明には、日本を代表する喜劇映画シリーズ『男はつらいよ』が、例として挙げられるパターンが多かった。いわく、日本的な人情風味が満載の寅さん映画を、仮に欧米で字幕付きで上映しても、ウケはしないだろうと。“アメリカン・コメディ”が日本でウケないのも、それと同じようなことだと。 何はともかく死屍累々の中、劇場公開時にヒットしたという話はきかないながらも、『¡Three Amigos!』を、「好きな作品」として挙げるケースには、よく遭遇してきた。邦題は、日本での“アメリカン・コメディ”の例外的なヒット作である『ブルース・ブラザース』(80)に因んで付けられたと思われる、『サボテン・ブラザース』(86)のことである。 監督が『ブルース…』と同じ、ジョン・ランディスなのはともかく、プロデューサーのローン・マイケルズと3人の主演陣は、アメリカのTV界を代表するコメディバラエティ番組「サタデー・ナイト・ライブ」ゆかりの面々。チェビー・チェイスとマーティン・ショートは、「サタデー…」にレギュラー出演して人気を博した時期があり、スティーヴ・マーティンは、ホストとして度々ゲスト出演して、評判になった。そうした意味で、正に“アメリカン・コメディ”の王道的なメンバーが集結している。 こうなると、これはホントに危うい。日本では、最もウケないパターンである。例えばランディス監督の前作で、チェビー・チェイスと、やはり「サタデー…」組のダン・アイクロイドが共演した『スパイ・ライク・アス』(85)のように。 ところが先に書いた通り、本作は日本でも「愛される」1本となった。それは劇場公開時よりも、むしろその後のレンタルビデオやTV放送を通じてとは思われるが。 本作の人気が高かった理由のまず一つは、物語の構造であろう。悪党に蹂躙される村人の声に応えて、勇者たちが心意気で助けに向かうというのは、『七人の侍』(54)や、そのリメイクである西部劇『荒野の七人』(60)などでお馴染みのパターンであるが、コメディとして、そこからの捻り方が絶妙である。 主人公たちが演じる勇者を見て、「本物」と“勘違い”した村人からの願い。それを「俳優の仕事」としての依頼と“勘違い”して受けた主人公たち。真実に気付いた時は、一旦逃げ出しかかるが、最終的には勇気を振り絞って、村人たちのために戦う。 この構図は後に、『スタートレック』シリーズへのオマージュが満載の『ギャラクシー・クエスト』(99)にも、転用される。こちらでは、宇宙船のクルー役を演じた俳優たちを、「本物」と宇宙人が勘違い。助けを求められた俳優たちは、“宇宙戦争”を戦うことになる。 他に、ピクサーのCGアニメ『バグズ・ライフ』(98)など、『サボテン・ブラザース』の影響下にあると思われる作品は、少なくない。 先に挙げた、本作の熱心なファンである三谷幸喜も、このパターンを自作に取り込んでいる。役所広司主演のTVドラマ「合い言葉は勇気」(00)は、本物の弁護士と勘違いされた俳優が、不法投棄を行う産廃業者を相手取った住民訴訟を戦う。また監督作である映画『ザ・マジックアワー』(08)も、ヤクザの組織が、佐藤浩市が演じる売れない俳優をプロの殺し屋と勘違いする話であり、このバリエーションと言える。三谷の作風として、登場人物たちの勘違いに勘違いが重なって、物語があらぬ方向に暴走していく展開があるのだが、本作の骨組みは正に、「ズバリ」だったのであろう。 こうした構成の下、繰り広げられるのが、本作の主演にして、製作総指揮・脚本も兼ねたスティーヴ・マーティンが言うところの、「セックスもドラッグも4文字言葉も出ていない」コメディである。日本の観客が一番お手上げになる、英語での言葉遊びのギャグなどよりも、体を張ったギャグの方が、際立つ仕掛けである。 『サボテン・ブラザース』© 1986 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved