1950年代末にフランスで興った映画運動、“ヌーヴェル・ヴァーグ”。撮影所における助監督等の下積み経験のない若い監督たちが、ロケ撮影中心、同時録音、即興演出などの手法で撮り上げた諸作は、世界の映画史に革命的な影響を及ぼした。
 その中でも、1930年生まれのジャン=リュック・ゴダールの長編第1作『勝手にしやがれ』(1959)は、センセーショナルな話題を巻き起こした。以降ゴダールは、フランソワ・トリュフォーやクロード・シャブロルらと共に、“ヌーヴェル・ヴァーグ”の中心的な存在となる。

 60年代後半に“ヌーヴェル・ヴァーグ”が終焉した後も、精力的に続けられた彼の映画活動を、その変貌に於いて大別すると、次のように分けられるという。
「カイエ・デュ・シネマ時代」(1950~59)「アンナ・カリーナ時代」(60~67)「毛沢東時代」(68~73)「ビデオ時代」(74~80)「1980年代」(80~85)「天と地の間の時代」(80~88)「回想の時代」(88~98)。
 この時代分けは、一部時期が重なるところもあるし、ゴダールが“ヌーヴェル・ヴァーグ”の母体となる同人誌に関わるようになった二十歳の頃から、20世紀の終わり頃までのほぼ半世紀の間の区分けに限られる。ゴダールは、21世紀になって齢70を越え80代を迎えても映画を撮り続けたわけだから、その時期は何と言うのかといった疑問は残れど、今回はそういったことを掘り下げるのが、本旨ではない。
 この時代分けを記した理由、それは“アンナ・カリーナ”である。何はともかくゴダール本人が―なぜアンナ・カリーナなのか? なぜならアンナ・カリーナなのだから!-などと言うほどに、女優のアンナ・カリーナとのコラボ抜きでは語れない、映画活動の時期「アンナ・カリーナ時代」があった。

 ゴダールより10歳下の、1940年生まれのデンマーク人女性、ハンネ・カリン・バイヤーがパリに出てきたのは、18歳の時。フランス語が全然喋れず、飲まず食わずの生活が続いたが、ある時カフェの椅子に座っていると、モデルにスカウトされた。
 モデルとしての活動が段々と評判になって、高級ファッション誌の「エル」からも声が掛かるように。その撮影現場で出会い、ハンネに“アンナ・カリーナ”の名を与えたのは、かのココ・シャネルであったという。
 ゴダールとの出会いは、彼の処女長編『勝手にしやがれ』への出演交渉をされた時。出番が僅かながら、乳房を見せることを要求される役をオファーされたため、にべもなく断っている。
 その後『勝手にしやがれ』を撮り終えたゴダールは改めて、長編第2作となる『小さな兵隊』(61)の主演をオファー。その撮影中にゴダールはカリーナに求愛し、間もなくして結婚に至った。
 60~67年の8年間に渡る「アンナ・カリーナ時代」に、ゴダールは長編を15本監督しているが、カリーナはその内の7本、更に短編1本に主演している。その中で本作『気狂いピエロ』(65)は、最高傑作と評される。「アンナ・カリーナ時代」、延いてはゴダールの60年以上に及ぶ映画監督としてのキャリア、更には“ヌーヴェル・ヴァーグ”という映画運動全般を俯瞰しても、最高峰に位置するとの声が高い作品なのである。

『気狂いピエロ』に、カリーナと共に主演するのは、ジャン=ポール・ベルモンド。ゴダールとは、1958年の短篇『シャルロットと彼女のジュール』に出演したことから付き合いが始まり、『勝手にしやがれ』の主演で、スターダムへとのし上がった。
 ゴダール作品への出演は、『女は女である』(61)、そしてこの『気狂いピエロ』まで続くが、ベルモンドはその後、ゴダール作品及びゴダール本人とも訣別。60年代後半以降はアクション映画を中心に出演し、フランスの国民的大スターになっていったのは、多くの方がご存知の通りである。
 そんなベルモンドは、1975年の山田宏一氏によるインタビューで、本作『気狂いピエロ』を大好きな作品としつつも、「…いまのゴダールは別人になったようで、お手上げだけどね(笑)。『気狂いピエロ』のロマンチックなゴダールはどこかへ行っちまった」などと語っている。

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 金持ちのイタリア人女性と結婚したフェルディナン(演: ジャン=ポール・ベルモンド)は、失業中で怠惰な日々を送っている。そんな時に、かつての恋人マリアンヌ(演:アンナ・カリーナ)と、5年半振りに再会する。
 マリアンヌはフェルディナンのことを、“ピエロ”と呼ぶ。そんな彼女と一夜を共にすると、朝になってその部屋の一角に、頸にハサミを突き立てられた見知らぬ男の死体が転がっていた。事情がわからぬまま、フェルディナンはマリアンヌと、逃避行を始める。
 フェルディナンは活劇マンガ「ピエ・ニクレ」を持ち、マリアンヌは銃を持って、彼女の兄がいるという南仏へと向かう。強盗を行ったり、警察の追跡を躱すために死んだと見せかける偽装工作を行ったり、車を乗り捨てたり…。逃亡の旅が続く内に、やがて2人は、ロビンソン・クルーソーのような生活を送るようになっていった。
 ところがある時、またもや頸にハサミを突き立てた男の死体を残して、マリアンヌは消える。フェルディナンは、死んだ男の仲間と思われるギャングたちに捕まり、拷問を受ける。マリアンヌは殺人を犯して、5万㌦を持ち逃げしていたのだ。彼女が“兄”と言っていたのは、ギャングたちと敵対する組織のボスで、彼女の情夫であった。
 フェルディナンがマリアンヌを見つけると、彼女は再び彼を犯罪に巻き込んでから、またも行方をくらます。フェルディナンは銃とダイナマイトを持って、マリアンヌが逃げた島へと追っていくのだったが…。

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 元はゴダールが映画化権を買った、アメリカの犯罪小説を、シルヴィー・ヴァルタン主演で映画化しようとしたところから、本作の企画は始まった。しかしヴァルタンには出演を断られ、その後アンナ・カリーナとリチャード・バートン主演で撮ろうと試みる。この組み合わせは、バートンが「あまりにハリウッド化されてしまっていた」ために流れ、結局カリーナとベルモンドという組み合わせでの製作となった。
 実はゴダールとカリーナの結婚生活は、1964年の終わり頃には破綻していた。『気狂いピエロ』は2人が離婚後にも組んで撮った3本の長編の2本目であった。

 筋立てとしては、ファム・ファタール~運命の女、魔性の女~を愛してしまったが故に、自滅していく男の物語で、典型的な“フィルム・ノアール”。しかしゴダールの作品だけに、そんな一筋縄にはいかない。物語は逸脱に逸脱を重ね、あらゆる場面が、多彩な映画的・文学的・芸術的引用に彩られている。
 “ヌーヴァル・ヴァーグ”に於いてゴダールの盟友だったフランソワ・トリュフォーは、まだお互い10代で出会った頃に驚きを覚えた思い出として、ゴダールの読書の仕方や映画の鑑賞方法を挙げている。曰く、本棚から40冊もの本を引っ張り出して、一冊一冊、最初と最後のページだけを読んでいく。午後から夜までに5本の映画を、それぞれ15分ずつ見ていく。大好きな映画でも、20分ずつちょん切って見ては、何度も映画館に足を運ぶ…。
 ゴダールはそんな風にして得た膨大な知識を、映画の中に次々と引用していく。それがゴダール作品の、独特な文体のベースとなっていったわけだ。
『気狂いピエロ』で、サードの助監督に就いていた俳優のジャン=ピエール・レオによると、本作の台本は、27のシーンから成るストーリーを大雑把に要約した30頁ほどのものしかなかったとのこと。その台本には、カメラの位置やアングルの指定どころか、セリフも全く書かれていなかった。
 セリフは撮影の前の晩か当日の朝、ゴダールが即興で書き、俳優にはカットごとに口伝てで教えられるだけ。ちょっと長いセリフの場合だけ、撮影の1~2時間前に、ゴダールが学生ノートに青のボールペンで書いたものが、俳優に渡されたという。
 そして本番では、カメラの位置が決まると、リハーサルは簡単に行われ、ほとんどすぐに撮影になった。同じセリフを何度も言うのが嫌いだったというベルモンドは、1回か2回のテイクで、演技を見事に決めたという。
 因みにスタッフに配られる台本にも、余計なことは全く書かれていなかった。しかし、本作のストーリーは「敬愛するジャン・ルノワール監督の『牝犬』(1931)にヒントを得ている」とか「フェルディナンとマリアンヌの道中はチャップリンの『モダンタイムス』(36)のラストで恋人たちが仲よく道を歩き去っていくように」など、引用の出典は具体的に書き込まれていたという。

 さてこうして作り上げられた『気狂いピエロ』は、1965年8月に世界三大映画祭のひとつ、イタリアの「ヴェネチア国際映画祭」に出品。しかし会場ではブーイングの嵐が沸き起こり、賞の対象にはならなかった。
 これに対し、擁護の論陣を張って、逆にゴダールの芸術的な評価を決定づけたのが、フランスの小説家であり、文芸評論家でもあった、ルイ・アラゴンだった。ダダイズムやシュールレアリズムを牽引し、ナチス・ドイツの占領下では、文筆活動によって抵抗を行った、レジスタンスの詩人として知られるアラゴンは、「今日の芸術とはジャン=リュック・ゴダールにほかならない」とまで書いて、『気狂いピエロ』を激賞した。
 アラゴンはゴダール作品の特徴である「引用」を、絵画の「コラージュ」と比較した。「コラージュ」とは、画面に印刷物、布、針金、木片、砂、木の葉などさまざまなものを貼り付けて構成する絵画技法を指す。ピカソやブラックなどのキュビストが用い、ダダイストやシュールレアリストの芸術家によって発展を遂げた。こうした技法を映画に持ち込んだゴダール作品は、「最も現代的な」芸術だと、アラゴンは、擁護と共に褒め称えたのである。

 このような経緯があって、本作でゴダールの“芸術家”としての声価は決定的となる。そしてそれから暫しの時を経て、「アンナ・カリーナ時代」は終わりを告げる。
 1967年8月、ゴダールは商業映画との決別宣言文を発表。その作品や発言などが、政治性を強めていく。その翌年=68年5月、フランスでは学生の反乱がゼネストへと発展し、時のドゴール政権を揺るがす“5月革命”が起こった。その最中に開かれた「カンヌ国際映画祭」に、ゴダールはトリュフォーやクロード・ルルーシュ、ルイ・マルらと共に乗り込んで、中止へと追いこむ。
 いわゆる「毛沢東時代」(68~73)へと突入していったわけだが、この時代のゴダール作品のミューズは、アンナ・カリーナからアンヌ・ヴィアゼムスキーへと変わるのであった…。

 さて、『気狂いピエロ』の公開から56年。ヒロインのアンナ・カリーナに続いて、今年はベルモンドまでが、鬼籍に入ってしまった。
 既存の映画文法を破壊した『気狂いピエロ』を観て、今から56年前=1965年に映画史に放たれた閃光を追体験し、カリーナとベルモンドを悼んで欲しい。これもまた映画を観続けていく、醍醐味なのかも知れない。■

『気狂いピエロ』© 1962 STUDIOCANAL / SOCIETE NOUVELLE DE CINEMATOGRAPHIE / DINO DE LAURENTIS CINEMATOGRAPHICA, S.P.A. (ROME). ALL RIGHTS RESERVED.