始まりは演劇ワークショップだった

アメリカにおける「インディペンデント映画のパイオニア」と呼ばれるジョン・カサヴェテス監督の処女作である。時は1950年代末。折しもイギリスではフリーシネマ、フランスではヌーヴェルヴァーグが興隆し、世界各地で旧態依然とした映画界に抗う若い映像作家たちが新たなムーブメントを起こしつつあった時代だ。無名の役者ばかりを起用して即興演出で撮影され、映画会社や製作会社の資本に頼らず作られた完全なる自主製作映画だった本作も、ヴェネチア国際映画祭や英国アカデミー賞などで高く評価され、映画の都ハリウッドを擁するアメリカでも新世代の独立系作家が台頭するきっかけを作った。

ご存知の通り、もともとは俳優としてキャリアをスタートしたカサヴェテス。大学を中退してニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツで演劇を学んだカサヴェテスは、卒業と同時に舞台やテレビで頭角を現すようになり、映画でも黒人青年と白人青年の友情を描いた『暴力波止場』(’57)に主演して注目されるようになる。その傍ら、彼は友人の演劇コーチ、バート・レイン(女優ダイアン・レインの父親)と共に演劇ワークショップを立ち上げて後進の指導に当たっていた。集まったのは19名の無名俳優たち。当時アメリカの演劇界で主流だったアクターズ・スタジオのメソッド演技に懐疑的だったカサヴェテスは、メソッド演技のように俳優が役柄と一体化して別人になり切るのではなく、俳優自身の内側から湧き出るものを役柄に活かす即興演技の訓練を行った。生徒それぞれの実像に近いキャラクターを設定し、それを基にみんなでストーリーを考案していったという。実は、このワークショップの課題を映画化したのが本作『アメリカの影』だった。

映画の製作資金は一般からの寄付。今で言うクラウドファンディングである。ニューヨークのローカル・ラジオ局WORでジーン・シェパードがDJを務めるトーク番組「Night People」にゲスト出演した際、カサヴェテスがリスナーに寄付を呼び掛けたところ、当時としては決して少なくない金額の2000ドルが集まったという。さらに、ウィリアム・ワイラー監督やジョシュア・ローガン監督など映画界の友人からも寄付を募り、映画を作るのに十分なだけの資金を揃えることが出来た。そういえば、近ごろ日本では役と引き換えに受講者の無名俳優から製作費の一部を徴収するワークショップが問題視されたが、本来はこのように主催者が自らの責任のもとでスポンサーから資金を集め、俳優にもスタッフにも金銭的な負担をかけないというのが筋であろう。

大都会の中心で愛を求める人々の群像劇

物語は大都会ニューヨークに暮らす3兄妹を中心に展開する。売れないジャズ歌手の長男ヒュー(ヒュー・ハード)に自称ジャズ・ミュージシャンの次男ベン(ベン・カルザース)、そして作家志望の妹レリア(レリア・ゴルドーニ)。実は3人とも黒人の血を引いているのだが、しかしベンとレリアは肌の色が薄いため白人にしか見えない。同じアパートで生活する彼らは普段から仲睦まじいが、しかしビートニックを気取った次男ベンは不良仲間と遊び呆けてばかりで、真面目な兄にしょっちゅう金を無心している。放蕩者の弟を心配する長男ヒューは家族思いのしっかり者だが、思い通りにならないキャリアに悩んでいた。そんな2人から大事にされている妹レリアは、おかげでどこか世間知らずなところがあり、年上の恋人デヴィッド(デヴィッド・ポキティロー)からも子ども扱いされている。

そんなある日、レリアはパーティでトニー(アンソニー・レイ)という若い白人男性と知り合い、デヴィッドへの当てつけのつもりで彼と寝てしまう。実は処女だったレリア。初体験のセックスは想像と違って苦痛だった。それでもトニーと付き合おうと考えたレリアは、彼を自宅へ招くのだったが、しかし兄ヒューを一目見たトニーは凍りつく。まさか彼女が黒人だとは思わなかったのだ。苦し紛れの言い訳をするトニーをアパートから追い出すヒュー。ショックを受けてふさぎ込むレリアだったが、ヒューとベンに慰められて気を取りなおし、友達から紹介された黒人の若者デヴィッド(デヴィッド・ジョーンズ)とデートをする。一方、自らの失礼な態度を反省したトニーは、レリアに謝罪しようとするのだったが…。

公民権運動やウーマンリブが芽生え始めた’50年代末アメリカの世相を敏感に捉えつつ、混沌とする大都会のど真ん中で愛と幸福を求めて彷徨う若者たちのリアルな日常を切り取った群像劇。登場人物の誰もが矛盾を抱えた不完全な存在で、誰かに愛されたい認められたいと願いながらも、どうすればよいのか分からずにもがき苦しんで互いを傷つけてしまう。これは、その後の『フェイシズ』(’68)や『こわれゆく女』(’74)、『オープニング・ナイト』(’78)などのカサヴェテス作品にも共通するテーマだ。いわゆる起承転結の明確なストーリーがないのは、もちろん即興性を重視してアウトラインしか用意しなかった演出の方向性に因るところも大きいが、なによりも多種多様な人物像を描くことで愛と人生について考察し、その真理を見極めようとしたカサヴェテスの作家性ゆえとも言えるだろう。彼の映画ではストーリーそのものよりもキャラクター、つまり人間が最も重要なのだ。

また、実は予てから映画での仕事に少なからぬ不満を持っていたカサヴェテスは、本作を通して彼が理想とする映画の芝居を追求しようとしたようだ。舞台やテレビの生放送は自由で楽しいのに、なぜ映画だと窮屈に感じてしまうのか。映画というメディアは好きだが、しかし映画での芝居はどうしても好きになれない。どうすれば映画でも自由な演技が可能になるのか。その方法を模索するための実験という側面もあったという。なので、もともとカサヴェテスは本作を商業用映画として劇場公開するつもりはなかったらしい。

そこでカサヴェテスの取った手段が即興演出だった。一般的な映画だと役者の動作やポジションはリハーサルで事細かく決められ、撮影が始まるとカメラの動きや照明の当たる範囲に気を配って演技をすることになる。しかし本作では役者が直感で自由自在に動き回り、カメラはそれに合わせて移動したという。監督は余計な口を挟まない。セリフも芝居も即興ならカメラも即興。俳優は演じる役柄を生きることに集中し、監督とカメラマンはその様子を映像に捉える。そうすることによって、映画全体に自然なリズムが生まれたとカサヴェテスは振り返っている。

実は全体の半分以上が差し替えだった

ただし、結果的に本作は大幅な撮り直しを余儀なくされた。1957年2月~5月半ばにかけて16ミリフィルムで撮影され、編集作業に予想外の時間がかかったものの、’58年にはマンハッタンのパリス・シアターで初お披露目された『アメリカの影』。実験映画の巨匠ジョナス・メカスからは大絶賛されたらしいが、それ以外の観客には大層不評だったようで、途中で席を立つ人も多かったという。カサヴェテス曰く、最初のバージョンは映画的な技巧ばかりに囚われており、確かに知的な映画ではあったが人間味に欠けていたとのこと。

そこで彼は再びキャストとスタッフを招集し、10日間のスケジュールで追加撮影を敢行。今回はちゃんとした脚本も用意したそうだ。新たに追加されたのは、レリアが兄ヒューを駅で見送るシーン、その帰り道で42番街の映画館に立ち寄るシーン、トニーとレリアが肉体関係を結ぶベッドシーン、レリアが黒人のデヴィッドとチークダンスを踊るナイトクラブ・シーンなど。実質的に全体の半分以上が差し替えられたという。おかげでメインとなる3人兄妹、中でも特に妹レリアの人物像や心理描写に深みが与えられることとなった。以降の作品でも女性キャラに焦点を定めることの多いカサヴェテスだが、その傾向は初監督作品から健在だったわけだ。こうして’59年に完成したセカンド・バージョンが、現在我々が見ることの出来る『アメリカの影』なのである。

先述した通り、撮影当時は無名だった役者ばかりだが、ヒロインのレリア・ゴルドーニはマーティン・スコセッシ監督の『アリスの恋』(’74)やフィリップ・カウフマン監督の『SF/ボディ・スナッチャー』(’78)などに出演し、地味ながらも息の長い名脇役女優となった。ヒューのエージェント役を演じたルパート・クロスも、スティーヴ・マックイーン主演の『華麗なる週末』(’69)でアカデミー助演男優賞候補となったが、惜しくも癌のため45歳の若さで亡くなっている。トニー役のアンソニー・レイは、あの名匠ニコラス・レイの息子で、後にプロデューサーへ転向して『結婚しない女』(’78)を手掛けている。

ちなみに、42番街でレリアを尾行してちょっかい出そうとする怪しげな男は、フランスを拠点としていたギリシャ人の映画監督ニコ・パパタキス。あのジャン・ジュネの親友にして、反体制派の極左活動家でもあった彼は、当時は政治的な理由からニューヨークで逃亡生活を送っており、アンディ・ウォーホルとも付き合いがあったという。ヴェルヴェット・アンダーグランドの女性ボーカリスト、ニコの芸名は、元恋人だったパパタキスから取られている。しかも、最初の奥さんは『男と女』(’66)のアヌーク・エーメで、再婚相手はルチオ・フルチ作品でもお馴染みのオルガ・カルラトス。とんでもないモテ男である。そんな彼がどういう経緯でカサヴェテスと知り合ったのか定かでないが、本作の追加撮影にあたって資金集めに協力したらしい。■

『アメリカの影』© 1958 Gena Enterprises.