第一次世界大戦末期、ドイツ軍がフランスの小さな村から撤退する際、強力な時限爆弾を仕掛けた。イギリス軍にその情報を連絡しようとしたレジスタンスは、電話の途中でドイツ兵に射殺されてしまう。
 そのためイギリス軍に届いたのは、「真夜中に騎士が打つ」という謎のフレーズのみ。フランス語ができるという通信兵のプランピックは、その謎を探って時限爆弾を解除するよう命じられ、村へと派遣される。
 すべての住民は破壊を恐れて、緊急避難。村に残されたのは、精神科病院の患者たちと、解き放たれたサーカスの動物たちだけ。患者たちは持ち主が不在となった家屋に入り込み、それぞれの妄想のままに、貴族や司教、将軍、理髪師、娼婦等々になりきった。
 そんな患者たちから“ハートの王様”に祭り上げられたプランピックは、彼らに翻弄され、一向に謎は解けない。とりあえず放った2羽の伝書鳩の内、1羽はイギリス軍に無事着くも、もう1羽はドイツ軍に撃ち落とされる。両軍は事態把握のため、偵察隊を村へと送り込む。
 狂人であっても善良で平和的な患者たちを救おうと、奔走するプランピックだったが、大爆発の時は刻一刻と迫る。彼はやむなく、相思相愛となった娘コクリコと、最後の時を過ごそうとするが、彼女の述べた言葉から、謎のフレーズの意味が判明。僅かな残り時間に、爆弾の解除へと挑む。
 その一方イギリス・ドイツ両軍が、村へと迫る。果たしてプランピックと、愛すべき狂人たちの運命は…。

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 正常な者で構成されている筈の軍人たちが、互いに銃を向けて殺し合う。その一方で、狂気の世界の住人たちは、他人を傷つけることなく、楽しげに人生を謳歌する…。
 フランス製の戯画的な反戦ファンタジーである本作『まぼろしの市街戦』(1966)を熱烈に支持する者は、我が国にも少なくない。2018年に「4Kデジタル修復版」としてリバイバル公開された際には、邦画のヒットメーカーである瀬々敬久監督が、こんなコメントを寄せている。
「中学生の頃、テレビの洋画劇場で見て大衝撃を受けて以来、生涯ベスト。あの淀川長治さんも、その日は本気で大興奮していた」
 映画評論家の山田宏一氏やイラストレーターの和田誠氏なども、本作のファン。大森一樹監督に至っては、現代日本を舞台にした『世界のどこにでもある、場所』(2011)という作品で、本作の再現を試みている。


 フィリップ・ド・ブロカ。
 カルト的な人気作である本作は、1933年生まれのこのフランス人監督の歩みと、密接に関わって誕生した。
 ド・ブロカはパリに在る、国立のルイ・リュミエール高等学校で、映画撮影技術について学んだ。1953年に卒業すると、カメラマンとして、トラックに乗ってアフリカを旅行。後にジャン=ポール・ベルモンドを主演に擁して、『リオの男』(1964)『カトマンズの男』(65)など、異国情緒に溢れた冒険活劇を次々と放つようになったのは、この時の経験がベースになったと言われる。
 アフリカから帰った後、ド・ブロカは兵役に就く。軍の映画製作部に配属されて、ドイツのバーデン=バーデンで1年を過ごした後の任地は、アルジェリア。それは折しも、宗主国フランスに対して、民族解放戦線が起こした独立戦争、“アルジェリア戦争”が激化した頃であった。
 凄惨なテロの応酬に、大規模なゲリラ掃討作戦。ド・ブロカは2年間に渡って、戦場の恐ろしい光景をフィルムに収めることとなった。そしてこの経験のため、すっかり悲観的で厭世的となり、それが後の彼の監督作品に影響を及ぼすこととなる。
 除隊後に商業映画の世界に進んだド・ブロカは、クロード・シャブロルやフランソワ・トリュフォーといった、映画史に革命を起こした“ヌーヴェルヴァーグ”の寵児たちの助監督に付く。そうしたキャリアや世代的なこともあって、時折ド・ブロカも、“ヌーヴェルヴァーグ”の一端を担った監督と分類されることがある。しかし映画作りへの取組みは、シャブロルやトリュフォーとは、明らかに一線を画すものだった。
 兎にも角にも、「楽しい映画を」という姿勢。それはアルジェリアの経験から、「自分にできるのは喜劇映画を作って人々に微笑みをもたらすことぐらいだ…」という境地に至ったことから、生じたものと言われる。
 稀代のアクションスター、ジャン=ポール・ベルモンドと初めて組んだのは、『大盗賊』(61)。この作品は、合わせて10本の作品を共にすることになる、プロデューサーのアレクサンドル・ムヌーシュキンとの、初顔合わせでもあった。
 そして先に挙げた、ベルモンド主演の冒険活劇、いわゆる「~の男シリーズ」の端緒を切って、評判となった後に辿り着いたのが、1966年の『まぼろしの市街戦』であった。


 本作の基となったものとして、まず挙げられるのが、原案にクレジットされているモーリス・ベッシーが、ド・ブロカに話して聞かせたという新聞の三面記事。それは精神科病院から抜け出した者たちが、ある村にやって来て、思い思いに田園で過ごしたという内容だった。
 これに加えて、第2次世界大戦時に、ナチス・ドイツが占領するフランス北部の村で起こった出来事も、本作の着想源になったと言われる。それは、住民が逃げ出す際に、精神科病院の患者たちや小屋に閉じ込められていた動物たちの束縛を解いたため、彼らが自由の身になったという逸話だった。
 ド・ブロカ、そして彼とコンビを組んでいた共同脚本のダニエル・ブーランジェは、これらから想像力を掻き立てられ、本作のストーリーを編んでいった。そのベースには、ド・ブロカの戦場体験があったことは、言うまでもない。
 元ネタのひとつが、第2次大戦下の実話だったにも拘わらず、舞台を第1次大戦に置き換えたのは、製作時点から時制を離すことで、生々しさを避ける狙いもあったようだ。ナチに占領された第2次大戦の記憶は、フランス人のトラウマとして、まだまだ根強い頃だったのである。
 しかし、スターを擁した冒険活劇の監督が、このような「地味」に映る企画に取り組むことに、賛意を示す者は少なかった。出資者がまったく見付からず、おまけにド・ブロカの伴走者であるアレクサンドル・ムヌーシュキンも、製作から降りてしまったのである。
 ド・ブロカは妻ミシェルと共に、自らプロデューサーを務めることになった。そしてハリウッドの映画会社ユナイテッド・アーティスツがフランスに持つローカル・プロと、イタリアの製作会社という2社の出資を得て、自ら興したプロダクションで、本作の製作に挑んだのである。

 主なロケ地は、パリから40㌔ほど北に在る、サンリスという街。
 主演のプランピック役に招かれたのは、イギリス人俳優のアラン・ベイツ(1934~2003)。60年代は、ジョン・シュレシンジャーやケン・ラッセル、ジョン・フランケンハイマーといった気鋭の監督たちの作品に、主演級で起用されていた俳優である。
 ベイツは、本作のクランクイン直後に足首を折ってしまったため、撮影はベイツに負担を掛けないように進められることとなった。そのため本作の彼はよく見ると、常に一本足で走っているという。
 ヒロインのコクリコには、ジュヌヴィエーヴ・ビジョルド(1942~ )が抜擢された。フランス系カナダ人の彼女は、モントリオールの劇団のパリ公演で、アラン・レネに見出され、『戦争は終った』(65)に出演。そのため一時的にフランスに滞在したことから、本作の出演につながった。
 精神科病院の患者を演じて脇を固めるのは、ピエール・ブラッスール、ジャン=クロード・ブリアリ、ミシェリーヌ・プレール、ミシェル・セローといった、フランスの名優たち。イギリス軍の大佐を演じたアドルフォ・チェリは、イタリア人。『007/サンダーボール作戦』(65)の悪役で、ジェームズ・ボンドと死闘を繰り広げたことが、有名である。
 さて本作は1966年の12月、フランスで公開されると、観客には見事にそっぽを向かれた。そのためド・ブロカと妻ミシェルは、とにかく1人でも多くに観てもらおうと、チケットを配りまくるハメとなった。
 評論家からは、“愚者の物語”と評する声が上がった。つまり興行・批評とも、本国では散々な事態となってしまったのだ。


 本作を映画史の闇に埋もれさせなかったのは、実はアメリカとイギリスでの成功だった。特にアメリカは、ハーヴァード大学の在るマサチューセッツ州の街で公開したところ、1週間の上映予定が、結果的には何と5年ものロングランになったという。
 この地での盛況を見た、配給のユナイテッド・アーティスツは、国中の大学所在地での興行展開を決定。各所で当たりを取り、本作はいわゆる、“カルト映画”となった。
 時はアメリカで、ベトナム反戦運動の燃え盛る頃。本作は多くの若者たち、その中でも特に、ヒッピーたちの支持を集めたのである。
 本作で撮影監督を務めたピエール・ロムは、ド・ブロカが高校で映画撮影技術を学んでいた時の、同級生で親友。そんなロムが、アメリカで初めて仕事をする際、現場の者たちは、フランス人が撮影を担当することに、懐疑的な姿勢を見せていた。ところがロムが、本作の撮影監督とわかると、態度が一変。その後は、天才扱いされたという。
 しかしアメリカでの成功は、ド・ブロカの懐を潤すことはなかった。ロム曰く、金に困ったド・ブロカが、格安で配給権をユナイテッド・アーティスツに売ってしまったので、本作のために彼が陥った借金地獄の緩和には、繋がらなかったのである。
 ド・ブロカはフランスでの大失敗に絶望し、一時は監督業から足を洗おうとさえしたが、結局は脳天気な活劇方面へと、再シフトすることとなる。その一方で、アメリカでの評判から、ハリウッドで監督する話も持ち上がった。
 しかし、“映画作家”ではなく“現場監督”扱いされるようなハリウッドの製作体制では、思うようなものは作れない。ド・ブロカはそうした結論に至り、生涯アメリカ映画を手掛けることは、なかった。
 本作が辿った道のりと、それに左右されたド・ブロカの監督人生は、1人の“映画作家”としては、不幸な側面が強いのかも知れない。しかしそれ故に、本作の存在はより輝かしいものになったとも言えるのが、何とも皮肉である。■

『まぼろしの市街戦』© 1966 Fildebroc SARL. (Indivision de Broca)