本作『西部戦線異状なし』(1930)の原作者、エリッヒ・マリア・レマルクは、1898年に、ドイツの都市オスナブリュックに生まれた。
 1916年、18歳の時に学徒志願兵として、軍に入隊。時は第一次世界大戦下。激戦地である、ベルギー・フランドル地方の西部戦線へと送られる。
 1914年に勃発した第一次大戦は、日露戦争と並んで、20世紀に特有の“新たな戦争”だったと言われる。毒ガス、機関銃、戦車、飛行機、潜水艦等々、新兵器が続々と登場し、それまでとは比べものにならない、大量殺戮と大量破壊を伴う総力戦が行われるようになったのである。
 レマルクは工兵として、塹壕掘りや有刺鉄線を敷く任務を与えられたが、戦場に入って2ヶ月ほどで、砲弾の破片を受けて負傷。病院送りとなった。
 幸い、怪我は深刻なものではなかった。レマルクは病室で負傷兵同士、この“新たな戦争”に於ける、お互いの戦場での体験談を話し合った。この時耳にした話が、後に彼の創作の糧となる。
 1918年、20歳になった彼は退院。軍に復帰するが、間もなく大戦は終結。ドイツは、悲惨な敗北を喫した。
 終戦後レマルクは、小学校の代用教員やジャーナリストなどの職に就きながら、小説を執筆。1929年、30代に突入していた彼が発表した渾身の作が、自分や戦友達の経験をベースにした、「西部戦線異状なし」だった。
 当時レマルクの友人の1人だったのが、後にアメリカに亡命し、ハリウッドで名匠の名を恣にする、ビリー・ワイルダー。彼はレマルクが、10年前に終結した第一次世界大戦についての小説を執筆していると聞くと、「何てこった、いまさら?!…前の世界大戦なんぞに誰が興味ある?」と、忠告したという。
 他の者たちからも、同様の指摘をされたレマルクだったが、蓋を開けてみれば、そんなことはなかった。小説「西部戦線異状なし」は、ドイツ国内で空前のベストセラーになったのである。

 反響を呼んだのは、本国だけではなかった。イギリス、フランス、ソ連、イタリア、アメリカなどで、次々と翻訳出版された。日本でもその年の内に、発売されている。後々まで含めるとこの小説は、少なくとも45言語以上に翻訳され、総計部数は2,000万部以上と言われている。
 映画化の企画も、すぐに動き始めた。レマルクから権利を買ったのは、ドイツにとっては第一次大戦では敵陣営だった国家、アメリカのユニバーサル・ピクチャーズ。監督には、ルイス・マイルストンが決まった。
 マイルストンはロシア生まれで、ベルギーのヘント大学に留学。母国が第一次大戦に参戦したため、徴兵逃れでアメリカに帰化した。
 結局アメリカも参戦したため、兵役に就くのだが、陸軍の写真部門などに配属されたため、前線に送られることはなかった。この時に新兵のための教育映画に携わり、その経験から、除隊後はハリウッド入りとなった。
「アカデミー賞」の記念すべき「第1回」、『美人国二人行脚』(1927)で、マイルストンは“喜劇監督賞”を受賞。続く作品として、警察と行政の腐敗を描いた『暴力団』(28)を手掛け、リアルなギャングの描写が注目された。
「西部戦線異状なし」の映画化に当たっては、プロデューサーはレマルクに脚本の執筆を依頼するも、小説に集中したいからという理由で、断わられる。そのため脚本家4人掛かりで、脚色を進めることになった。
 主人公のポールは、作者の分身ということもあって、一時期レマルク本人に演じさせることも、検討された。しかし彼は、これも断り、当時ほぼ新人だった、21歳のリュー・エアーズが抜擢されることになった。
 ドイツ軍の兵営を、ユニバーサルの屋外セットで再現するなど、撮影はアメリカ国内で行われた。戦場シーンは16万平方㍍の農場を使って、ドイツ軍やカナダ軍の元兵士たちの助言を受けながら、撮影されたという。

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 第一次大戦のさなか、街の教室では老教師が、若者たちに愛国心を説く。煽られたポールとその仲間は、次々と入隊を志願した。
 彼らの訓練係は、街で郵便配達を行っていた男。人の良い郵便屋の面影はなく、執拗に冷酷な振舞で過酷な教練を行い、若者たちの出征前の熱狂は打ち砕かれていく。
 西部戦線に送られた彼らを迎えたのは、古参兵たち。その中のカチンスキーという男が、人間的な温かみと共に、戦場で生き延びる術を、色々と教えてくれた。
 初めての戦闘で、ポールたちはいきなり、仲間の1人を失う。その後日々の激戦の中で、1人また1人と、戦死者が続く。
 ある日の戦闘。塹壕に実を潜めていたポールに、フランス軍の兵士が襲いかかる。彼を銃剣で突き刺したポール。瀕死の状態ながら、なかなか息絶えない兵士と一晩を過ごし、頭がおかしくなりかける。
 やがて、ポールも負傷。傷病兵が次々と死んでいく病院で、何とか回復すると、休暇を貰って、故郷に一時帰休となった。
 姉と病床の母の歓迎には、心が和らぐ。しかし、戦場の実態を知らずに勝手な戦争論をブチ上げる、父や街の有力者たちには辟易。更には相変わらず、教え子を戦場に送ろうとする老教師に憤りを覚える。居たたまれなくなったポールは、休暇を早めに切り上げる。
 戦地に戻ったポールは、今や父のように慕うカチンスキーと再会。喜びを覚えたのも束の間、爆撃により、不死身に思えた古参兵は、あっけなく命を落とす。
 もはや寄る辺もないポールは、戦場での日々を、ただただ重ねていくが…。

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 戦闘場面を撮るのには、長いクレーンの先端にカメラを複数台載せた。俯瞰し、時には地を這うようなカメラワークは、当時としては、至極斬新なチャレンジだった。
 ハリウッドは、ちょうどサイレントからトーキーへの移行期。当初サイレント映画として企画された本作だったが、時勢に合わせて、トーキーでの製作に切り替えられた。
 マイルストン監督は、砲弾の炸裂音や機関銃の連射音、兵士たちの叫び声などを盛り込んだ。これが革新的な移動撮影との相乗効果で、観る者に、戦争の悲惨さをリアルに伝えることに成功したのである。
 マイルストン監督が、最も腐心したというのが、ラストシーン。主人公のポールが、遂に落命するのだが、原作では次のように記されている。

~…前に打伏して倒れて、まるで寝ているように地上にころがっていた。躰を引っくり返してみると、長く苦しんだ形跡はないように見えた…あだかもこういう最後を遂げることを、むしろ満足に感じているような覚悟の見えた、沈着な顔をしていた。~

 このままでは、映像化しようがない。あまりにも有名なラストシーンではあるが、ポールの戦死の様をいかにマイルストンが演出したかは、実際に目撃していただきたい。
 実はポールが休暇で帰郷した際に、実家の自室に入るシーンで、ラストへの伏線が張られていたのを、今回の執筆用の再鑑賞で、初めて認識した。いかに細心の注意を以て、綿密に組み立てられたラストであったことか!


 こうして映画史に残る「反戦映画」となった本作は、大ヒットを記録。「アカデミー賞」でも、作品賞と監督賞を受賞した。
 一方で、本作が製作された1930年という時代から、アメリカ以外での公開に当たっては、その国の事情によって、シーンが大幅にカットされる憂き目に遭った。例えば日本では、「全面反戦思想」と捉えられる部分が、大幅に削られ、また、ポールたちがフランス女性と一夜を共にするシーンが、「風俗上の見地」から除かれた。
 最も物議を醸したのは、レマルクの本国ドイツであった。原作小説出版時も議論の対象となった、「政治性」が再び大きくクローズアップされたのである。
 時のドイツは、折しもヒトラー率いるナチ党が支持を伸ばして、選挙での躍進が顕著になっていた頃。彼らは本作のプレミア上映を襲い、「ユダヤ人の映画だ」「ユダヤ人ども出て行け」などと叫びながら混乱を引き起こし、上映を中止に追いやった。これがきっかけとなって本作は、「…ドイツ国防軍の声望を貶め、外国における全ドイツ人の声望をも傷つけるものがそこに存する」という理由で、国内での上映が禁止となってしまう。
 ベストセラー作家として、富と名誉を得たレマルクだったが、ナチが台頭する中で、そうした勢力からは、「ユダヤ人である」などのデマを飛ばされるなど、確実に攻撃の対象となっていく。特に1933年、ヒトラー政権が成立して以降は。
「西部戦線異状なし」は、「厭戦気分をあおる売国的書物」として、焚書の対象となり、レマルクはやがて、国籍を剥奪されるまでに至る。スイスなどに逃れていた彼だが、1939年、ドイツによって第2次世界大戦の口火が切られたのと前後して、アメリカへの亡命を、余儀なくされた。
 レマルクは、「西部戦線異状なし」を著したことによって、激動の生涯を送ることになった。一方で、その映画化作品である本作に関わったことで、人生が大きく変わったのが、主演のリュー・エアーズだった。
 本作出演で、根強い「反戦思想」の持ち主となったエアーズは、1930年代半ば頃からは、聖書に没頭し始め、ベジタリアンとなった。そして第二次大戦が起こった際には、兵役を拒否している。
 こうした彼の姿勢には、非難の声が殺到。映画会社は彼を締出し、各劇場は彼の出演作の上映を、拒否するようになった。
 エアーズは改めて、良心的兵役拒否宣言を行うと、看護兵として南太平洋の戦線に赴いた。そして3年半の間、粛々と兵士の手当を続けたのである。報酬はすべて寄付したというエアーズが、捕虜の日本兵に手当を行う写真が、当時の有名誌に掲載されている。
 こうした自分の活動について、エアーズはこんな風に表現している。
「破滅的な状況で、建設的な仕事をするんだ」
 彼は戦地から戻った後、ハリウッドに復帰するが、1996年88歳で亡くなるまで、戦争映画への出演を、拒否し続けたという。■

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