1973年7月、イタリアのローマで起こった、ある少年の誘拐事件は、遠く離れた日本でも、大きなニュースとなった。当時小学3年生だった私も、鮮明に覚えているほどに。
 人々の関心を引いたのは、要求された身代金が、1,700万㌦(約50億円)と桁違いだったから?そして、誘拐された少年の祖父が、資産5億㌦(約1,400億円)を誇る石油王だったから?
 いやいや、それだけではない。この事件が多くの人々を驚かせたのは、「大金持ち」である祖父の、異常としか言いようがない、振舞いだった。
 それから44年。その事件を題材に書かれたノンフィクションを映画化したのが、本作『ゲティ家の身代金』(2017)である。
 監督を務めたのは、現代の巨匠の1人、リドリー・スコット。クランクイン時の主なキャストは、ミシェル・ウィリアムズにマーク・ウォールバーグ。そして、ケヴィン・スペイシーという、布陣だった…。

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 ローマの街角で突然拉致された、16歳のジャン・ポール・ゲティ三世。彼を誘拐した者たちの狙いは、三世の祖父で、フォーチュン誌によって「世界初」の億万長者に認定されたアメリカ人石油王、ジャン・ポール・ゲティの資産だった。
 三世の母ゲイルは、今は三世の父=ゲティの息子とは離婚している身であったが、身代金は義父だったゲティに頼る他ない。しかしゲティは、莫大な額の要求を、にべもなくはねつける。
「応じれば、他の孫も誘拐の標的になる」
 シレッと言ってのけるゲティに対して、ゲイルは呆然とする他なかった。
 ゲティはその一方で、自分の下で働く元CIAのチェイスを召喚し、誘拐犯との交渉を指示。彼をゲイルの元へと、向かわせた。
 調査によって、三世本人による偽装誘拐の疑いも浮上。そんなこともあって、交渉は遅々として進まない。ゲイルの苛立ちは、日々募っていく。
 誘拐犯たちにも、焦りが生じる。このままでは埒が明かないと見た彼らは、他の犯罪グループに、三世の身柄を売り渡す。
 美術品に大枚を投じても、身代金の要求には一切応じないゲティに、ゲイルの精神は追い詰められていく。そんな彼女に同情したチェイスは、自分の雇い主であるゲティに、反発心を抱くようになる。
 犯罪グループは、ゲティらに揺さぶりを掛けるため、遂に非情な手段に乗り出す。ある日彼らから届いた郵便を開けると、そこには切り落とされた、人間の耳が入っていた…。

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 屋敷を訪れた者が電話を掛けたいというと、邸内に設けた公衆電話へと案内し、その料金を負担させる。高級ホテルに宿泊中も、ルームサービスは「高い」と忌避。滞在中の洗濯物は自分で洗って、室内に吊るして乾かす…。
 映画の中で描かれる、億万長者とはとても思えないような、こうしたゲティの吝嗇ぶり。そのすべてが事実に基づいたものと聞くと、ただただ驚き呆れてしまう。
 当初は1,700万㌦を要求されていた、孫の身代金も、その5分の1以下の320万㌦まで値切る。それでも全額を払うことはなく、支払ったのは所得から控除できる最大限度額の220万㌦まで。身代金を、“節税”に使ったわけである。
 その上で足りない額は、誘拐された三世の父である、自分の息子に貸し付ける形を取る。4%の利子を付けて…。
 ゲティは生涯で5回結婚し、5人の息子を儲けた。愛人も多数いたというが、こんな男である。まともな愛情表現は望むべくもなく、息子たちをはじめその係累には、不幸な人生を歩んだ者が、少なくない。
 一体どうして、こうした人物が出来上がってしまったのか?それだけで1本の映画が作れそうな気もするが、監督のリドリー・スコットの関心は、そこにはあまりない。息子の誘拐犯とだけではなく、このモンスターのような義父と対峙せざるを得なかった、ゲイルの“気丈さ”にこそ、スコットは注目する。
 出世作『エイリアン』(79)で、シガニ―・ウィーヴァ―演じるリプリーという、強い女性キャラを生み出した。『テルマ&ルイーズ』(91)では、女性2人を主人公にした「90年代のアメリカン・ニューシネマ」を、世に放っている。本作でのゲイルの描き方は、そんなスコットの、面目躍如と言うべきだろう。
 ゲイルを演じたミシェル・ウィリアムズは、スコットの期待によく応えてみせた。それに比すれば、元CIAのエージェントを演じたマーク・ウォールバーグは、些か精彩に欠ける。

 さて先に本作に関して、クランクイン時のメインキャストは、ウィリアムズにウォールバーグ。そして、ケヴィン・スペイシーだったことを、記した。しかしご覧になればわかる通り、本作にスペイシーの姿は、影も形もない。
 2017年5月にスタートした撮影で、当時50代後半だったスペイシーは、特殊メイクを施して、80代のゲティを演じた。撮影は順調に進み、8月末にはすべて終了。あとは12月末の公開に向けて、仕上げを急ぐだけだった。
 ところが10月末に、大問題が発生する。
かつてケヴィン・スペイシーが、14歳の子役にセクハラを行っていたことが、報道されたのである。これは氷山の一角で、スペイシーに対してはこの後、多くの男性から同様の告発が行われた。
 折からハリウッドでは、プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる、数多の女優、女性スタッフへの長年の性暴力が発覚。「#MeToo運動」に火が点いたタイミングであった。
 11月8日、スコットはスペイシーの出演シーンを、すべてカットすることを決断。同時に、作品の完成を延期や中止することなく、12月末の公開を予定通りに行うことも、決めた。
 そこでスペイシーの代役として、クリストファー・プラマーを起用。撮り直しを行うこととなった。
 再撮影は11月下旬、僅か10日足らずのスケジュールで行われた。ミシェル・ウィリアムズやマーク・ウォールバーグは、1度スペイシーと共に演じたシーンを、プラマーとやり直すこととなった。一部ロケ映像に関しては、セットで撮影したプラマーの演技を、スペイシー版の映像と合成するという処理を行っている。
 プラマーは、役作りに掛ける時間はほとんどなく、また先に撮影したスペイシーの演技を参考にすることもなしに、ゲティを演じた。見事にハマったのは、当時88歳の老名優の実力という他ない。さすが、長いキャリアの中でアカデミー賞、エミー賞、トニー賞の演技三冠を受賞している、数少ない俳優の1人である。
 付記すれば本作でプラマーは、アカデミー賞の助演男優賞の候補に選ばれた。受賞は逸したものの、演技部門でのノミネートでは、史上最年長の記録となった。


 さてこれで本作に関するトラブルは、無事収拾…と思いきや、公開後に更なる火種が燃え上がった。新たに浮上したのは、ハリウッドに於ける「男女格差」である。
 再撮影のため、本作には1,000万㌦の追加経費を投入。しかしプラマー以外の俳優は“再撮影”に関しては、「ただ同然」のギャラで協力したと言われていた。
 実際にミシェル・ウィリアムズに支払われたのは、1,000㌦以下。しかしマーク・ウォールバーグに関しては、“再撮影”で新たに150万㌦ものギャラが支払われていたことが、2018年の1月になって判明したのである。
 1,500倍もの賃金格差が生じたのは、まさに「差別」に相違なく、「#MeToo」の流れにも連なる。契約を盾に高額ギャラを要求したと言われるウォールバーグには、非難が集中した。
 結果的にウォールバーグは、150万㌦全額を、「#MeToo」運動の基金に寄付。後に「自分の配慮が足らなかった」と、反省の弁を述べている。
『ゲティ家の身代金』は、総製作費5,000万㌦に対し、全世界での売り上げは5,700万㌦ほどに止まった。興行的には「不発」という他ない成績だが、製作者の意図とは無関係なところで、2017年からのハリウッド=アメリカ映画界の流れを、象徴する作品となってしまったのである。
 誘拐を奇貨にして、さらわれた孫の親権まで奪おうと企てる、怪物的な男性ゲティに、一歩も退くことなく立ち向かった、勇敢な女性ゲイル。そうした物語の構図が、本作に襲いかかったアクシデントと、期せずしてダブる部分も、大いにあるようには感じるが。■

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