フランソワ・トリュフォー(1932~84)が、批評家から監督へと転じて撮った、初の長編作品は、『大人は判ってくれない』(1959)。主人公のアントワール・ドワネルに、自らの子ども時代を投影したこの作品で、トリュフォーは「カンヌ国際映画祭」の監督賞を受賞し、ゴダールらと共に、一躍“ヌーヴェル・ヴァーグ”の旗手の1人となった。
 後に「愛もしくは女、子供、そして書物が、わたしの人生の三大テーマだ」と語ったトリュフォー。実は処女長編として最初に考えていたのは、「子供」ではなく、「愛もしくは女」を題材にした作品だった。
 1953年、トリュフォー21歳の時。出版されたばかりの1冊の小説を読んで、「雷の一撃」を喰らった。そして「いつか映画をつくることができたら、この小説を映画にしたい」と思ったという。
 トリュフォー曰く「映画人生を決定的にした」その小説のタイトルは、「ジュールとジム」。それは芸術家であるアンリ=ピエール・ロシェが、74歳にして初めて書いた小説だった。その内容は、20世紀初頭のミュンヘン、パリ、ベルリンを舞台に、現代芸術の周縁でロシェ自身が繰り広げた、若き日の冒険、愛と友情を書き綴ったものだった。
 トリュフォーはある批評の中で、この小説について、こんな風に紹介した。「…ひとりの女性が、美意識と一体になった新しいモラルのおかげで、しかしたえずそのモラルを問うという形で、ほとんど一生のあいだ、ふたりの男性を同じように愛しつづけるという物語…」
 この文を目にしたロシェは感激し、トリュフォーに手紙を書いた。そしてそこから、2人の交流が始まった。
 トリュフォーはロシェに会って、映画にしたいという希望を述べた。それから2人は随時手紙をやり取りし、映画化についてのアイディアを交換し合ったという。
 しかし先に書いた通り、トリュフォーが短編を何本か手掛けた後に、初めての長編監督作に選んだのは、「ジュールとジム」ではなく、『大人は判ってくれない』だった。それは、ロシェのような「愛の人生のベテラン」の筆による小説を映画にするのは、若い自分には「…むずかしく野心的すぎる…」と感じたからだという。後に“愛のシネアスト”と呼ばれるようになるトリュフォーだが、まだその時は訪れていなかったのだ。
 機が熟して、「ジュールとジム」を映画化する夢が実現したのは、『大人は判ってくれない』が評判となり、続いて『ピアニストを撃て』(60)を発表した後のこと。それがトリュフォーの長編3本目となる本作、日本での公開タイトル『突然炎のごとく』(62)である。

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 オーストリア人の青年ジュール(演:オスカー・ヴェルナー)が、フランス人の青年ジム(演:アンリ・セール)と、1912年のパリで出会う。2人は意気投合。親友となった。
 ある時知人に見せられたスライドに、2人は心を奪われた。それは、アドリア海の島にある、女神を象った石の彫像の写真。2人はわざわざ現地まで実物を見に行く。
 パリに戻った2人は、その彫像を思わせる容貌を持つカトリーヌ(演:ジャンヌ・モロー)という女性と知り合う。ジュールは彼女にプロポーズ。生活を共にするようになる。
 ある時ジムは、ジュールとカトリーヌと共に3人で芝居見物に行く。男2人が芝居の議論に熱中すると、カトリーヌは突然セーヌ河に飛び込ぶ。この時ジムは、自分もカトリーヌに惹かれていることを自覚する。
 第一次世界大戦が始まり、ジュールとジムはそれぞれの国の軍人として、敵味方に分かれて戦線へと赴く。共に生きて還れたが、再会の時までは、暫しの時を要した。
 ジュールとカトリーヌが暮らす、ライン河上流の田舎の山小屋に、ジムは招待された。ジュールとカトリーヌの間には、6歳の娘もいたが、夫婦仲はうまくいってなかった。
 ジュールはジムに、彼女と結婚してくれと頼む。それは、自分も側に置いてもらうという条件付きだった。
 3人の奇妙な共同生活が始まるが、カトリーヌには、他にも愛人がいた。ジムは刹那的に男を愛する彼女に絶望し、パリに暮らす昔の恋人の元に戻る。
 数ヶ月後、3人は再会した。カトリーヌは自分の運転する車にジムを乗せると、ジュールの目の前で暴走。壊れた橋から、車ごとダイブするのだった…。

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 カトリーヌを演じたジャンヌ・モローに、トリュフォーが初めて会ったのは、1957年。「カンヌ国際映画祭」会場内の廊下だった。モローは主演作『死刑台のエレベーター』(58)を撮り終えたばかりで、その監督で当時恋人だったルイ・マルと一緒に居た。
 トリュフォーは「ジュールとジム」の小説に出会った時と同じく、その時「雷の一撃」を受けた。そしてモローをヒロインにすれば、「ジュールとジム」を映画にできるのではと、感じたという。
 その後トリュフォーとモローは、週に1度、ランチを共にするようになる。トリュフォーの口数が多くないため、むしろ並行して行った、手紙でのやり取りの方が、内容が濃かったようだが。
 モローは、トリュフォーの初長編『大人は判ってくれない』に、ジャン=クロード・ブリアリと共に、友情出演。「ジュールとジム」の小説を読むように渡されたのは、その前後だったと思われる。すでにスターだったモローは、トリュフォーの当時の知り合いの中では、「予算も脚本も、特別手当もない、とんでもない企画」に参加してくれる、ただ1人の女優だった。
 1959年の4月、トリュフォーは原作者のロシェにジャンヌ・モローの写真を送って、カトリーヌの役について助言して欲しいと頼む。ロシェは「彼女は素晴らしい。彼女についてもっと知りたいと思います。私のところに連れてきて下さい」と返事を書いたが、2人の面会は叶わなかった。手紙を書いた4日後に、ロシェがこの世を去ってしまったからだ。
 トリュフォーは、原作の謳い文句だった「純愛の三角関係」の感動を、忠実にスクリーンに移し替えようと試みた。「ひとりの女がふたりの男とずっと人生をともにするという、このうえなく淫らなシチュエーションから出発して、このうえなく純粋な愛の映画をつくること」それを目標に、ジャン・グリュオーと共同で、脚色を行った。
 タイトルロールである「ジュールとジム」のキャスティングも、重要だった。トリュフォーはジュールの役には、原作通りに外国人を希望した。フランス語を話す際のアクセントや言いよどみによって、キャラクターをより感動的にできると考えたからだ。
 一時、イタリア人のマルチェロ・マストロヤンニの名も挙がったが、トリュフォーは原作に忠実に、ゲルマン系の俳優にこだわった。それがオスカー・ウェルナーだった。トリュフォーはマックス・オフェルス監督の『歴史は女で作られる』(55)に出演しているウェルナーを見て、「彼以外にありえない」
と、白羽の矢を立てたという。
 すでにドイツやオーストリアでは有名だったウェルナーに対して、ジム役に選ばれたアンリ・セールは、まったく無名の存在。パリのキャバレーのステージで寸劇を演じていた芸人で、映画に出たこともなかった。トリュフォーは、セールの背の高さや物腰の柔らかさ、敏捷さなどが、原作者ロシェの若い頃を髣髴させるという理由で、彼をジム役に抜擢した。
 因みにジュール役にウェルナー、ジム役にセールを決定する際には、トリュフォーはモローに立ち会ってもらったという。

 1961年4月、遂にクランクイン。撮影に当たってトリュフォーは、「あたかも、この物語は、余り信用出来ないといった思いで、古い写真帳をめくっていくかのごとき感じ…」を出すことを意識した。そのため、登場人物も場所も、遠めから撮影。それは観客に凝視させながらも、その中には決して入っては行けない世界という意味付けだった。
 先に記した通り、「予算も…特別手当もない、とんでもない企画」だった本作は、撮影クルーは15名ほどと、極めてミニマム。多くのシーンは、トリュフォーや関係者が友人知人に頼んで借りた場所で、ロケを行った。
 音声の同時録音はされず、セリフはその場では適当に喋っておいて、ポストプロダクションで10日ほど掛けて吹き込んだ。因みに、衣裳はすべて自前。自分たちで作るか、見付けてくるかして、揃えたものだった。
 本作に於いてジャンヌ・モローは、劇中のヒロインという以上の働きをした。彼女曰く「私はトリュフォーと一緒にこの映画を共同製作したの。私たちはありったけのお金をすべて投資したのよ」アルザスのロケでは、出演者とスタッフ合わせて22人分の昼食を、毎日彼女が作ったのだという。
 それでも撮影の終盤には、製作費が底を尽き、プロデューサーがその調達に奔走するハメになったというが…。
 モロー曰く、撮影は「幸福の時…」であった。トリュフォーの現場では、誰もが映画のことだけを考える。「全体として荘重で深みのある雰囲気で、それでいて絶え間のない笑い声に満ちた開放的な雰囲気…」それは悲しい物語でありながらも、ディティールはおかしさに彩られている、「ジュールとジム」の世界観と重なる現場であったと言えるかも知れない。

 トリュフォーは、撮影中やその合間に起こる事柄を捉え、うまく活用して映画の中に取り入れる能力があった。即興演出も、しばしば行われた。
 劇中でモローが、ボリス・バシアクのつま弾くギターで歌う、有名な「つむじ風」という歌。トリュフォー曰く、元から友人同士だったモローとバシアクが、撮影合間に楽しみながら作った曲が素晴らしかったので、「…なんとかわたしの映画に使いたい…」と頼んだのだという。
 モローの証言だと、そのディティールは、少し違っている。彼女と元夫のジャン=ルイ・リシャール、そしてバシアクと3人で、以前からよく口ずさんでいた歌を、トリュフォーが採用したのだという。
 いずれにしろ、映画史にも残る「つむじ風」という歌が、元は本作のために作られた曲ではなかったのは、間違いない。因みに同時録音なしで進められた本作の撮影で、このシーンだけは、録音技師を招いて撮影された。何回かカメラを回した中で採用されたのは、ジャンヌ・モローがリアルに節の順番を間違えて、一瞬ジェスチャーをするテイクだった。
「幸福の時…」を共にしたトリュフォーとモロー。恋多き男と恋多き女の組合せ故、「恋人同士だった」という指摘もある。しかしながら、トリュフォーはモローとの関係は、「双子の兄弟」のように感じていたと表現。モローは、2人の恋愛関係を否定した上で、「…私たちは、お互いの技術と知性と感性に惹きつけられていたの…」と語っている。

『突然炎のごとく』は、61年6月にクランクアップ。編集とアフレコに4ヶ月ほど掛けて、翌62年の1月にパリで公開された。
 公開後、トリュフォーが驚くと同時に喜びを感じたのは、彼の元に届いた2通の手紙。1通は、原作者ロシェの未亡人からで、その内容は、「…ピエールが観たらさぞ喜んだことでしょう」というもの。
 そしてもう1通には、こんな自己紹介がしたためられていた。「私は75歳で、ピエール・ロシェの小説『ジュールとジム』の恐るべきヒロイン、カート(カトリーヌ)の成れの果てです…」
「ジュールとジム」は、ロシェが自らの若き日について書き綴った小説であることは、先に書いた通り。ロシェ自身が投影されているのは、ジムのキャラクター。そしてジュールとカトリーヌのモデルとなったのは、ベルリンで活躍したユダヤ系ドイツ人作家のフランツ・ヘッセルと、その妻であったヘレン・カタリーナ・グルントであった。
 ヘッセルはナチの台頭から逃れ、フランスに亡命した後、1941年に客死していたが、グルントはまだ存命だったのだ。彼女からの手紙には『突然炎のごとく』の感想が、こんな風に綴られていた。
「わたしは映画を見て、生涯の最も美しい瞬間を生き直した心地がします」
 トリュフォーは是非お会いしたいと返事を書いた。しかしグルントは、ジャンヌ・モローと比較されたくなかったからなのか、「会えない」という返信を寄越した。
 モデルとなった、老婦人のお墨付きを得ただけではない。『突然炎のごとく』は、ヨーロッパの主要都市やアメリカ・ニューヨークなどで次々と公開され、絶賛を博した。そしてその後、映画のみならず、様々なジャンルの創作物にただならぬ影響を及ぼす。
 製作から60年以上経った今日では、作り手が本作の存在を知ることなしに、「純愛の三角関係」のDNAが息づく作品も、少なくない。■

『突然炎のごとく』© 1962 LES FILMS DU CARROSSE / SEDIF