本作『渇き』は、2009年の作品。パク・チャヌク監督が、『JSA』(00)、そしていわゆる“復讐三部作”『復讐者に憐れみを』(02)『オールド・ボーイ』(03)『親切なクムジャさん』(05)などを経て、韓国映画界のTOPランナーの一人として、十分な名声を得た後に発表した作品である。
 しかしその構想は、『JSA』の頃には既にあった。またそのアイディアの原点は、監督の少年時代にまで遡るという。
 幼い頃は、カトリックの信者だったというチャヌク。毎週教会に通っており、聖職者に関心があった。
 しかし高校生の時に、知人の神父が父親を訪ねてきたのが、転機になる。神父はチャヌクの熱心さを見て、神学校に通わせるのを薦めた。しかし当の本人には、結婚願望があったのだ。
 生涯妻帯を許されず、即ち童貞のまま生きていかねばならない。そんな“神の道”を、チャヌクは選ぶことはできず、結果的には、宗教から遠ざかることとなる。
 しかし、聖職者という存在への興味は止むことはなかった。更に言えば、「人間の原罪」というものへの意識は、常に抱いていたという。
『渇き』の根源にあったアイディアは、チャヌク曰く「…あくまでも“神父の映画”を作るというものでした。この世で最も高潔な職種と見られている神父。その中でも人一倍高潔な人類愛に溢れ、自己犠牲的な精神を持った一人の神父が、神学校時代の親友がAIDSに罹って終末期にあることを知り、新薬開発のための人体実験の素材となるべく自ら志願してパリの研究所に行く。けれどもそこで彼自身が同じ不治の病を感染してしまう…」
 これはチャヌクがたまたま目にした雑誌の記事にインスパイアされて、浮かんだストーリー。実際にAIDS治療薬開発のための被験者を募ったところ、多くの宗教者や医師が応じたという。
 そこにチャヌクが、幼少期から目の当たりにしていた光景を思い出しての、閃きが加わった。カソリックに於けるミサの儀式では、イエス・キリストの血に見立てた葡萄酒を飲む。イエスの血を毎日口にする神父が、己が生きていくために、本物の人の血を飲まなければいけなくなったら、どうなるだろうか?神父がヴァンパイアになったら、一体どんな振舞いをするのか?
 考える内に、より背徳的な筋立てになっていく。人の血を求めるようになった神父は、同時に本能を抑えることができなくなり、最終的には、性的な快楽をも追及してしまう。しかしこうした構想を煮詰めていく中でも、神父が愛してしまう女性像というのが、なかなか明確にはならなかった。


 本作は当初、“復讐三部作”にピリオドを打った、『親切なクムジャさん』の前後に撮影が予定されていた。しかしそんなこともあって、製作が延び延びになっていく。
 同時にチャヌクには、別にやりたい企画が浮かんでいた。それは19世紀のフランスの文豪エミール・ゾラの小説「テレーズ・ラカン」。
 愛人と結託して、病弱な夫との不幸な結婚生活にピリオドを打ちながらも、良心の呵責から、やがて愛人共々破滅へと向かう若い女性テレーズの物語である。サイレントの頃から、時にはアレンジを加えながら、幾度か映像作品が製作されてきたこの物語だが、チャヌクは19世紀のパリを舞台に、原作に忠実な映画化を構想した。
 ヴァンパイア神父と「テレーズ・ラカン」の融合を思い付いたのは、女性プロデューサーのアン・スジョンだった。『渇き』を作るお膳立てはとうに出来ているのに、別の企画ばかり優先しようとするチャヌクに対して、彼女の焦りもあったのかも知れない。
 しかしこのミクスチャーは、チャヌクにとっても腑に落ちるものだった。すべてのパズルがハマって、いよいよ本作は製作に至ったのである。

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 孤児院出身で、謹厳実直なカソリックの神父サンヒョン。病院で重病患者を看取ることに無力感を募らせた彼は、アフリカの荒野に佇む研究所に向かう。
 そこでは、死のウィルスのワクチン開発が進められていた。サンヒョンは、その実験台を志願したのだ。
 発病し死に至った彼だが、提供者不明の輸血で、奇跡的に復活。ミイラ男のような姿で帰国し、“包帯の聖者”と崇められる。
 サンヒョンは幼馴染みのガンウと、期せずして再会。彼の家に出入りするように。
 ガンウの家族は、一人息子の彼を溺愛する母親のラ夫人と、妻のテジュ。地味で無愛想なテジュだったが、あどけなさの中に不思議な色香を漂わせ、サンヒョンの心は掻き乱される。
 実はサンヒョンの身には、恐ろしい異変が起こっていた。人の血を吸わなければ生きていけない、ヴァンパイアになっていたのだ。しかし神父の身で、人殺しはできない。彼は病院に忍び込んでは、昏睡中の入院患者の血をチューブで吸って、飢えをしのいだ。
 太陽光を浴びられないなどの不自由さと引換えに、驚異的な治癒能力や、跳躍力などを身に付けたサンヒョンは、お互いを強く意識するようになったテジュと、やがて男女の仲になる。サンヒョンの正体を知って、一時は恐れおののいたテジュだったが、2人の関係はどんどん深みにはまっていく。
 やがては己の幼馴染みで、テジュの夫であるガンウに強い殺意を抱くようになったサンヒョン。彼はテジュと共に、越えてはならない一線を、ついに踏み越えてしまう…。

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 マザコンで病弱な夫に仕え、義母の営む服店で働くテジュの設定は、「テレーズ・ラカン」とほぼ同じ。サンヒョンとテジュが共謀し、ボート遊びに誘ったガンウを溺死させる件や、その後病に倒れて口がきけなくなったラ夫人の目線に、2人が脅かされる展開など、小説をベースにしている部分は多い。
 本作の最初の構想が浮かんだのは、ちょうど『JSA』を製作していた頃。撮影の合間にその内容を一番初めに話した相手は、ソン・ガンホだったという。そんなこともあって、ガンホが本作の主演を務めるのは、どちらからともなく自然に決まっていた。
 ガンホは10㌔減量。神父にしてヴァンパイアという、それまで主に欧米で映画化されてきた、数多もの吸血鬼ものの類型を脱した役作りに挑んだ。
 テジュ役のキム・オクビンに、チャヌクが最初に会ったのは、知人の薦め。彼のイメージでいけば、オクビンの年齢が若すぎるため、正直なところあまり気乗りしないまま、“キャスティング”を前提としない、面会だった。
 ところがいざ対面してみると、彼女の掴み所の無い、不安定な印象に魅了された。そしてもう一点、チャヌクの心を鷲づかみにしたのが、オクビンの“手”であった。
 韓国では一般的に、色白で小さい手の持ち主が、美人とされる。ところがオクビンの手は、指が長くて掌も広かった。この力強い“手”が、サンヒョンのことを一度摑んだら離さないという、テジュのイメージと合致したのである。
 テジュの役にオクビンの抜擢を決めると、チャヌクは彼女に、アンジェイ・ズラウスキー監督の『ポゼッション』(1981)を観るように指示した。イザベル・アジャーニの人妻が、自らの妄想が生み出した魔物とセックスするシーンがあるこの作品のように、臆病にならずに演技をして欲しいという、意図からだった。因みにテジュの衣裳が、後半で印象的な“青”となるのは、『ポゼッション』でヒロインが着ていた衣裳に対する、リスペクトの意味も籠められているという。


 もっとも、“青”になるのは、それだけが理由ではない。初登場からしばらくの間、義母と夫に抑圧されながら暮らすテジュの顔色は青白い。髪にもほとんど櫛を入れることはなく、身に纏うのは、すべて地味な色の洋服。
 ところがサンヒョンと出会ってから、活力を得た彼女の頬の色は、ピンクに輝くようになる。髪も整えるようになった彼女が着るのが、真っ青な服。頬の色を強調するためにも、対照的な色彩の“青”が不可欠だったわけである。
 因みにサンヒョンの出で立ちにも触れると、登場時は無色で柔らかな素材の、いかにも聖職者らしい服装だったのが、ヴァンパイアになった後の服装はラフになり、ボサボサの髪型。先に挙げた通りの、役作りでの減量も効果的に、少し若返った印象に映る。
 チャヌクは演出に当たっては、ヴァイオレンスとセックスをどう結合させるかを、テーマにした。暴力に馴染んでしまった官能性、そしてエロスの中にある暴力。その2つのものが完全に融合するということを、強く意識したという。
 本作のポスターやチラシのメインヴィジュアルでは、オクビンが情事の時に見せるような表情をしながら、ガンホの首を絞めている。この図は本作の作品のコンセプトを、見事に表していると言える。
 2000年代から10年代に掛けてのパク・チャヌク監督作品は、過剰なまでに、エロスとヴァイオレンスが溢れかえっていた印象が強いかも知れない。しかしそんな中で、『親切なクムジャさん』から『お嬢さん』(2016)に掛けての10年余で、彼の“フェミニスト”的な視点が確立していくのも、決して見落としてはならない。
 チャヌクが、肉体の欲望に裏打ちされた愛の姿を特に強調して描きたかったという本作も、そうした文脈の中で語られるべき1本である。
 最新作『別れる決心』(2022)では、根底に流れるものには共通性を感じさせながらも、敢えてヴァイオレンスとセックスの描写を封印してみせたパク・チャヌク監督。彼の作品には、まだまだ驚かされることが、多そうである。■

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