『Mr.Boo!』というタイトルの映画シリーズは、日本にしか存在しない。これはマイケル、リッキー、サミュエルのホイ3兄弟、或いはその内の長兄であるマイケル・ホイが主演した、複数の香港製コメディ映画の、日本での総称なのである。
 アメリカの人気コメディアン、ジェリー・ルイス主演作の日本でのタイトルには、必ず「底抜け」という枕詞が付けられ、スティーヴン・セガール主演のアクション映画のほとんどが、『沈黙の…』という邦題でリリースされた。『Mr.Boo!』も、それらと同じようなことと言えるだろう。
 そんな『Mr.Boo!』シリーズの日本公開第1弾として、79年に封切られたのが本作、その名も『Mr.Boo!ミスター・ブー』(1976)。マイケル・ホイが監督し、ホイ3兄弟が出演している。
 香港映画と言えば、ブルース・リーの『燃えよドラゴン』(73)が大ブームを起こして以来、日本では誰もが、カンフー映画を思い浮かべるようになっていた。本作は、日本に於けるそんな香港映画のイメージを、決定的に変えることとなった1本である。

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 ウォン(演:マイケル・ホイ)は、香港の街を舞台に活動する、私立探偵。
 と言っても、彼の元に持ち込まれるのは、浮気の調査や万引き検挙のための見張りなど、ケチな仕事ばかり。助手のチョンボ(演:リッキー・ホイ)と、秘書の女性ジャッキーと3人で、細々と事務所を営んでいた。
 そんな探偵事務所に、勤務先の工場をクビになった、お調子者の若者キット(演:サミュエル・ホイ)が現れ、雇ってくれという。最初は相手にしなかったウォンだが、キットのカンフーの腕前を見て、新たな助手に加える。
 キットとチョンボをこき使い、給料もろくに払わないウォン。3人は様々な依頼に応える中で、次々と騒動に巻き込まれていく。
 ある映画館に、爆弾を仕掛けるという内容の、脅迫が届いた。館主の依頼で、警備に入ったウォンたち。実はこの爆弾騒ぎは、兇悪な強盗団の仕掛けで、彼らは映画館へと押し入り、観客全員の財布や貴重品などを身ぐるみ剥ぎ取る計画を立てていた。
 そんな強盗団とガチで対峙することになった、ヘッポコ探偵たちの運命は⁉︎

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 先に、香港映画≒カンフー映画のイメージを変えたと記したが、実は本作は、当のカンフー映画の添え物として輸入された作品。配給会社の東宝東和が、早世したブルース・リーの「最後の作品」であった、『死亡遊戯』(78)を買い付けた際に、おまけに付いてきた1本だったのである。
 そんな経緯から、お蔵入りしてもおかしくなかったのだが、『死亡遊戯』公開直前に放送された、TV特番がきっかけで日の目を見ることになった。番組内で、本作で展開される、マイケル・ホイ扮する探偵と、スリに間違えられた男が、厨房で対決するシーンが紹介されたのである。
 マイケルが、ぶら下がっていた腸詰を、ヌンチャクのように振り回して、男を追い詰める。すると男は、やはりぶら下がっていたサメの顎骨を使って逆襲する。この「ドラゴンvsジョーズ」のギャグが、日本のお茶の間で評判となったことから、公開に至ったというわけだ。
 東京では有楽町に在った、丸の内東宝を軸とする劇場チェーンで、79年2月にロードショーされることが決定。とはいえ、そんなに期待されての興行ではなかった。
 このチェーンでは、78年の暮れに公開された、アニメの『ルパン三世』劇場版第1作がヒットし、ロングランとなった。そのため、新春第2弾として1月中旬より公開予定だった『ブルース・リー 電光石火』(76)の公開が、2月までズレ込んだ。 
 この『電光石火』という作品は、アメリカ時代のブルース・リーが出演したTVシリーズ、「グリーン・ホーネット」(66~67)を再編集したもので、本作『Mr.Boo!』と同じ東宝東和の配給だった。そのために『Mr.Boo!』は急遽、『電光石火』と2本立てでの公開となってしまったのである。
 その程度の扱いだった本作だが、蓋を開けてみれば、予想外の大ヒットを記録!サミュエル・ホイが広東語で歌う主題歌も、ラジオ番組などで頻繁に掛けられた。
 東宝東和は早速、本作の後に製作された『Mr.Boo!インベーダー作戦』(78)を、シリーズ第2弾とすることを決めた。そして1作目の公開から僅か3ヶ月後、その年の5月には、大々的に公開したのである。
 その際には、ホイ3兄弟を日本へと招聘。兄弟は、イベントや人気TV番組に次々と出演するなど、プロモーションを賑々しく展開した。
 日本ではこんな流れで、『Mr.Boo!』シリーズが成立し、ホイ3兄弟も、すっかり人気者となった。ではホームグラウンドである香港では、彼らはどんな存在だったのか?そしてその作品群は、どんな評価を受けたのか?

 俗に“ホイ3兄弟”というが、実は6人兄弟だった。ホントの長男は、幼い頃に亡くなっており、長男格のマイケルは、実際には次男。次男扱いのリッキーは、ホントは四男。末っ子扱いのサミュエルは五男で、彼の下には、妹が居る。
 マイケルとリッキーの間の三男スタンレーは、助監督など主に裏方を務めて、“ホイ3兄弟”をサポート。…と言っても、俳優としてもちょいちょい顔を出しており、本作では、ラブホテルの支配人を演じている。
 3兄弟の“長男”、1942年生まれのマイケル・ホイは、中国の広東省生まれ。7歳の時に、家族で香港へと移住した。
 エリートが進む高校、大学を経て、普通に就職。教職を務めていた時に、6歳下=48年生まれの“末っ子”サミュエルの誘いで、芸能界入りを決めた。
 サミュエルは大学在学中から学生バンドとして活動し、TV番組の司会など務めていたのだ。因みにサミュエルは、ミュージシャンとしても大成功を収め、後に“歌神”と呼ばれるほどの存在となる。
 マイケルがTV司会者としてデビューしたのは、26歳の時。トークショー、ヴァラエティで活躍し、サミュエルとコンビを組んだ「ホイ・ブラザーズ・ショー」で更に人気を高めた後、映画界に進出となった。
 何本かに出演した後、やがて自作・自演のコメディを手掛けるようになる。映画製作会社ホイ・プロダクションを設立。監督・脚本・主演を務めた第1作が、日本では『Mr.Boo!』 シリーズ第3弾として、79年12月に公開された、『Mr.Boo!ギャンブル大将』(74)だった。
 実は“ホイ3兄弟”の“次男”リッキー・ホイは、『ギャンブル大将』の時点では、まだマイケルたちと合流していなかった。日本公開版には出演シーンがあるが、これは“シリーズ第3弾”としてリリースされることが決まってから、追加撮影されたものである。
 リッキーは、46年生まれ。俳優になる前は、フランス領事館内に在るAFPの新聞記者を務め、ケネディ大統領暗殺などの記事を書いていたという。
 仕事がキツかったので辞めて、大手映画会社の俳優養成所に進み、スタントマンへと転じた。ところがこちらの仕事もキツく、契約が切れてから、マイケルの元へと身を寄せた。
 リッキーもサミュエルと同様、歌い手として「一流」と評価される、アーティストでもあった。

 さて、先に本作『Mr.Boo!ミスター・ブー』が、日本に於ける香港映画のイメージを、決定的に変えた作品であることを記した。香港の映画史に於いてマイケル・ホイの存在は、更に大きなものと言える。
 香港映画は、60年代から70年代はじめまでは、“北京語映画”の天下であった。そこで隆盛を極めたジャンルは、豪華絢爛たる宮廷もの、武侠活劇、甘いメロドラマ等々。
 ところがこれらの作品が飽きられ始めたタイミングで、TVタレントが一挙に映画へと進出する。彼らは普段使いの“広東語”をセリフとした、香港の現実を反映した作品を製作する。その動きをリードした1人が、マイケル・ホイだったわけである。
 チャーリー・チャップリンとハロルド・ロイド、そして初期のウッディ・アレンのファンだったという、マイケル・ホイ。アレンがニューヨークを舞台にしたように、マイケルは、香港をテリトリーに、香港人を主役にした映画作りを行った。
『ジョーズ』や『007』、『ピンク・パンサー』等々のパロディを織り交ぜるなど、随所に外国映画の手法と動向を採り入れながら、香港の現実を色濃く反映させた作品を、作り出したわけである。こうしたマイケル・ホイのような映画作家が主流となることで、伝統的な中国映画の技法を継承していた“北京語映画”は、香港から姿を消すこととなったのである。
 現代香港映画は、コメディと共に勃興し、70年代後半以降、いわゆる“香港ニューウェイヴ”に繋がっていく。その流れを作ったマイケル・ホイは、香港映画界に於いては、「天王」と呼ばれる存在となった。

 さてここでまた、日本の話に戻す。
 79年2月の『Mr.Boo!』大当たりによって、香港映画のコメディに飛びつく配給会社が、続々と現れた。前年=78年に香港で大ヒットとなった『ドランクモンキー 酔拳』(78)に、東映の洋画部が注目し、買い付けに至ったのも、そうした流れと言われる。
 ご存じの方が多いとは思うが、この『酔拳』こそが、かのジャッキー・チェンの主演作としての、日本初お目見えだった。後に世界的大スターとなるジャッキーの、日本での人気に火を点けるきっかけとなったのも、実は『Mr.Boo!』だったのだ!

 偉大なる「天王」マイケル・ホイは、少年時代に広東省から香港に渡ってきた。それはホイ一家が、「中国共産党から逃れるため」だったという。
 そんなマイケルだが、香港が中国に返還される4年前=93年のインタビューでは、「返還」に対して、前向きな姿勢を示している。
「…私は自分を中国人だと思っています。香港は私にとっては単なる小さな島で、たまたま父が私を島に連れて来て、40年もそこに住んでるというだけです」
「お茶を一杯飲むために中国へ行って、また夜には香港に戻ってみたいな生活ができるし、しています」
「…97年以降は、こんどは中国全体のために、中国に対して自分はどう思っていて、どういう方向性に向かうべきなのかということを自分なりに表現したものをつくりたいですね」
 ところが返還から10年余経った、2008年のコメントを見ると、だいぶ雲行きが怪しくなってくる。
「今の香港映画界は中国大陸の市場を考えなければならない。だから中国政府に脚本を見せなければならないんだけど制約が多くてね。簡単には進まない」
それから更に15年経ち、ご存じの情勢である。かつて香港ならではの“広東語映画”の隆盛を招き、“北京語映画”を葬る原動力となったマイケル・ホイ。“重鎮”として映画出演を続ける彼であるが、今の香港の姿、そして香港映画の在り方に対しては、何を思うのであろうか?■

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