超有名なブロックバスター映画を断って本作を選んだペキンパー

「バイオレンス映画の巨匠」として名高いハリウッドの鬼才サム・ペキンパーが、それこそ人間のはらわたも飛び散る戦場の地獄を生々しく描いた凄まじい戦争映画だ。しかも、第二次世界大戦時のナチス・ドイツ軍部隊が主人公で、なおかつ彼らを血の通った人間として描いている。第3回アカデミー賞作品賞に輝いたルイス・マイルストーンの『西部戦線異状なし』(’30)やフランク・ボーゼージの『三人の仲間』(’38)など、第一次世界大戦を題材にした映画に限っていえば、ハリウッドの映画人がドイツ兵を人間らしく描いた作品は少なからず存在するものの、しかし第二次世界大戦となるとまた話は別。ホロコーストという人類史上最悪の戦争犯罪に手を染めたナチス・ドイツの軍人たちを、ハリウッドの映画人は往々にして許されざる絶対悪として描いてきた。ところが、本作でペキンパーは彼らを完全なる善人でもなければ完全なる悪人でもない、長所もあれば短所もある泥臭い人間の集団として描く。前年に封切られたジョン・スタージェスの『鷲は舞いおりた』(’76)と並んで、当時としては斬新な視点の戦争映画だったと言えよう。

ただしこの作品、厳密に言うとハリウッド映画ではない。まずはその辺りの背景事情から解説していこう。以前に本サイトに寄稿した『バイオレント・サタデー』(’83)のレビューでも言及したように、『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』(’73)を最後に興行的・批評的な失敗が続き、なおかつ頑固者で気難しいアルコール&ドラッグ依存症のトラブルメーカーとして悪名を馳せたことから、すっかり映画界の鼻つまみ者となってしまったペキンパー。それでも『キングコング』(’76)に『スーパーマン』(’78)というブロックバスター映画のオファーを立て続けに受けたらしいが、しかしどちらも本人の好むような企画ではなかったため、仕事がないにも関わらずあえなく断ってしまう。そんな折に舞い込んだのが、本作『戦争のはらわた』の企画だった。

発起人は西ドイツの映画プロデューサー、ヴォルフ・C・ハイドリッヒ。’50年代から主に低予算のB級娯楽映画を手掛けてきたドイツ版ロジャー・コーマンみたいな人で、中でも若い女性のセックス事情を疑似ドキュメンタリー形式でセンセーショナルに描いたソフトポルノ映画『女学生(秘)レポート』(‘70~’80)シリーズを世界的に大ヒットさせた商売人である。「ドイツ人がドイツを題材に国際規模のメジャー映画を作って成功できるかどうか試したかった」というハイドリッヒは、ドイツ側の視点から第二次世界大戦の東部戦線を描いたヴィリー・ハインリッヒの小説「Das Geduldige Fleisch(患者の肉体)」の映画化権を獲得。世界に通用する大作映画として仕上げるべく、ヨーロッパでも知名度の高い巨匠ペキンパーに白羽の矢を立てたというわけだ。ただし、今のようにネットニュースなど影も形も存在しない時代、どうやらペキンパーの悪評はハリウッドから遠く離れた西ドイツにまで届いていなかったらしく、いざ撮影が始まるとハイドリッヒは頑固で気難しい映画界の問題児に悩まされることとなる。

もともとドイツ人脚本家の用意した脚本原案があったそうで、それを土台に『カサブランカ』(’42)でオスカーに輝く大ベテランのジュリアス・エプスタインがオリジナル脚本を完成。しかし、エプスタインの脚本は極めてオーソドックスな正統派の戦争物だったらしく、これを気に入らなかったペキンパーは無名の若手ジョシュ・ハミルトンにリライトを任せ、さらに撮影中も愛弟子ウォルター・ケリーに随時指示しながら修正や追加を繰り返したという。ケリーは脚本のみならず一部シーンでペキンパーに代わって演出も手掛けている。

ロケ地は鉄のカーテンの向こう側!

ロケ地に選ばれたのは旧東欧圏のユーゴスラヴィア。当時の共産圏陣営にあって一定の自由市場経済や言論の自由が認められ、ソ連ともアメリカとも距離を置いていた同国は、当時のチトー大統領が大変な映画好きだったこともあり、西側からの映画撮影誘致に積極的だった。イタリアの戦争映画や一部のマカロニ・ウエスタンはユーゴで撮影されたものが多かったし、バート・ランカスター主演の『大反撃』(’69)やクリント・イーストウッド主演の『戦略大作戦』(’70)などのハリウッド映画もユーゴでロケしている。’60年代の西ドイツではカール・メイ原作の国産西部劇映画(いわゆるザワークラウト・ウエスタン)が大変な人気を集めたが、それらも実は主に現在のクロアチアのパクレニツァ国立公園辺りをアメリカ西部に見立てて撮影されていた。人件費は安いし経験豊富なスタッフも撮影機材も揃っている。なるべくコストを抑えたい映画プロデューサーにとっては理想的なロケ地であろう。

ユーゴスラヴィア政府も撮影にはとても協力的で、戦闘シーンではユーゴスラヴィア人民軍がエキストラのみならず第二次世界大戦で実際に使われたロシア製やドイツ製の武器・戦車などを提供(ただし、ロシア製戦車は3台しか調達できず、なおかつそのうち1台は動かなかったため、編集技術で何台もあるように見せている)。しかしその一方、ディテールにまで強くこだわるペキンパー監督の演出方針に加えて、クルーやキャストがギャラの週給制度を要求し、毎週金曜日の給料日に支払いが遅れるとみんなで仕事をボイコットしたため、撮影スケジュールが大幅に伸びてしまった。また、現地の食事がお気に召さなかったペキンパーは、製作スタッフにイタリアで大量の牛肉の塊を買ってこさせ、ロケ地で薪や枯れ木を集めて火を焚き、自ら肉を切り分けてクルーやキャストにバーベキューを振る舞ったという。

そんなこんなで、当初400万ドルだった予算は最終的に600万ドルへと膨れ上がり、資金調達に行き詰まったプロデューサーたちがロケ地へ乗り込んで撮影を強制終了。「今日でクランクアップだ」と言われたペキンパーは目に涙を浮かべながら猛抗議し、主演のジェームズ・コバーンも激怒したそうだがプロデューサー陣には通用せず、仕方なく4台のカメラをフル稼働して最低限必要なシーンを滑り込みで撮り終えたのだそうだ。ペキンパー本人によると、本当ならあと数日で完了するはずだったという。その後、ロンドンでのポスト・プロダクション費用は共同制作を担当したイギリスのEMIフィルムが追加提供。当時、ドイツ映画としては戦後最高額の予算をかけた超大作と宣伝されたが、しかし例えば『遠すぎた橋』(’77)の2500万ドルや『ナヴァロンの嵐』(’78)の1050万ドルなど、同時代の戦争大作映画と比べると明らかに安価で作られている。そもそもストーリーの規模を考えてみれば、当初の400万ドルという数字自体が少なすぎたのだ。

そこに描かれるのは戦場のリアルな地獄

時は第二次世界大戦下の1943年、場所は東部戦線のクリミア半島。ソ連軍の猛反撃にナチス・ドイツ軍が苦戦を強いられる中、怖いもの知らずの英雄シュタイナー伍長(ジェームズ・コバーン)率いるならず者部隊が孤軍奮闘する。自由気ままで粗野で反抗的なシュタイナーだが、しかしリーダーシップは抜群で部下からの信頼も絶大ゆえ、上司であるブラント大佐(ジェームズ・メイソン)やキーゼル大尉(デヴィッド・ワーナー)も一目を置く存在だ。そんなところへ、西部戦線のフランスからエリート将校シュトランスキー大尉(マクシミリアン・シェル)が新たに赴任してくる。ドイツ軍人最高の栄誉である鉄十字勲章が喉から手が出るほど欲しいシュトランスキーは、劣勢の東部戦線で武勲を立てれば必ずや受勲できると考えて志願したのだ。

そんなシュトランスキーのことをシュタイナーははなから軽んじる。なにしろ、見るからに威張りくさった優等生。ソ連軍の砲弾が飛んでくる度ビクビクしている様子から察するに、ろくに前線で戦った経験がないことは明らかだ。実際、戦闘中は安全な塹壕の会議室から一歩も外へ出ようとしない臆病者。そのくせ自己評価とエリート意識だけは高くて尊大なクソ野郎だ。一方、プロイセン貴族出身であることを最大の誇りにする権威主義者シュトランスキーにしてみれば、一介の無名兵士に過ぎない平民出身のシュタイナーが、生まれも育ちも特権階級である高級将校の自分に敬意を払わないことが許せない。それでも、鉄十字勲章を得るにはシュタイナーを味方につけた方が得策と考えたシュトランスキーは、彼を曹長に昇格させてご機嫌を取ろうとするものの、名誉だの階級だのに無関心なシュタイナーの反応は素っ気なかった。

ソ連軍の大規模攻撃によりナチス・ドイツ軍は大勢の犠牲を出し、さすがのシュタイナーも重傷を負ってしまう。収容された病院で久々に平穏な時間を過ごし、担当看護婦エヴァ(センタ・バーガー)と束の間の愛を交わすシュタイナー。しかし、負傷兵たちの慰問に訪れたエリート将校たちの他人事な態度に憤慨し、たまたま病院を訪れた部下の顔を見て戦場へ戻ることを決意する。そこで彼を待っていたのは、戦死したマイヤー少尉(イゴール・ガロ)の手柄を自分のものにして、念願の鉄十字勲章を手に入れようと画策するシュトランスキー。既に、右腕トリービヒ中尉(ロジャー・フリッツ)は同性愛者であることをネタに脅され、本来ならマイヤー少尉のものである武勲をシュトランスキーのものと偽証する宣誓書にサインをしていた。シュタイナーにも同様の推薦書を書いて欲しいと頼むシュトランスキー。しかし、ひと足先に鉄十字勲章を授与されたシュタイナーは「こんな鉄くずの塊に何の価値があるのか?」と、呆れるようにしてシュトランスキーの申し入れを断る。これを深く恨んだシュトランスキーは、わざとシュタイナーの小部隊だけに退却命令を伝えず、彼らを敵陣に取り残して部隊ごと皆殺しにしてしまおうとするのだが…?

砲弾で吹っ飛ばされた兵士の内臓が飛び出し、機関銃で蜂の巣にされた兵士の全身から血が噴き出し、亡骸となった兵士が戦車の下敷きでペチャンコにされる。そんな見るも無残で醜くて恐ろしい戦場のリアルな地獄を、ペキンパー監督のトレードマークであるスローモーションをフル稼働して、余すことなくスクリーンにぶちまけてくれるのだから恐れ入る。もはや戦場のヒロイズムなど微塵もなし。劇場公開当時、ペキンパーは「(観客に)戦場の匂いや空気まで感じ取って欲しい」と語っていたが、これほど戦争というものの非人間性をまざまざと見せつけるような映画は稀であろう。さながら『プライベート・ライアン』(’98)の先駆的な作品であり、映画史上屈指の見事な反戦映画であると言えよう。

そのうえで、本作は軍組織が象徴する階級制度や権威主義などを真っ向から否定しつつ、ナチス・ドイツを生んだものとは何だったのか、なぜ一度は興隆を極めた第三帝国が破滅へ向かったのかを、一介の無名兵士シュタイナーの視点から考察していく。その主軸となるのがシュタイナーと上官シュトランスキーの対立である。古き封建時代のヨーロッパを体現する支配階級出身のシュトランスキーと、どれだけ戦果を挙げようとエリートの仲間入りなど出来ない労働者階級出身のシュタイナー。前者にとって戦場は出世の踏み台だが、後者にとっては純然たるサバイバルだ。生まれながらの特権を持つシュトランスキーは最前線に立つ必要もなければ、たとえ戦争に負けたとしても社会的地位や莫大な財産を失うことなどないが、しかしシュタイナーにとって戦争の勝ち負けは自身の生死をも左右する。なんたる不公平。なんたる理不尽。シュタイナーの怒りと不満はごもっとも。戦争も軍隊も階級制度も権威主義も、みんなまとめてクソ食らえである。

お気に入り女優が振り返るスランプ期のペキンパー

そのシュタイナー役にはペキンパー作品の常連でもある親友ジェームズ・コバーン。最初から候補は彼以外にいなかったという。対する宿敵シュトランスキー役を任されたのは、オーストリア出身の世界的な名優マクシミリアン・シェル。英国映画界の重鎮ジェームズ・メイソンは、節税対策のため西ドイツからもユーゴからも比較的近いスイスに住んでいたらしい。ただ、やはり大ベテランゆえギャラも高かったため、契約書で定められた拘束期間はたったの8日間。それゆえ、彼の出番を最初にまとめて撮影したそうだ。キーゼル大尉役のデヴィッド・ワーナーは、『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』(’70)と『わらの犬』(’71)に続いてのペキンパー作品で、当時は『オーメン』(’76)の写真家役が話題となったばかりだった。

もともとオリジナル脚本には存在しなかった看護婦エヴァ役には、数少ないペキンパーお気に入り女優のひとりセンタ・バーガー。’60年代にハリウッドへと進出し、ペキンパーの『ダンディー少佐』(’65)にも出演していた彼女は、当時すでに活動の拠点を母国・西ドイツに移していたのだが、本作の製作準備のためミュンヘンを訪れていたペキンパーと偶然にも業界パーティで再会。その場で出演をオファーされ、ペキンパーは彼女のために看護婦エヴァというキャラを追加したのである。そのバーガー曰く、当時のペキンパーは「イエスマンばかりに囲まれ、彼らのいいように利用されていた。本人がそのことに全く気付いていない様子だったのが残念」だったそうだ。

ちなみに、冒頭でシュタイナーの小部隊が命を助けるロシア人少年兵を演じているスラヴコ・スティマツはクロアチア出身の有名な子役スターで、後にエミール・クストリッツァ監督の『ドリー・ベルを覚えているかい?』(’81)と『ライフ・イズ・ミラクル』(’04)に主演し、カンヌ国際映画祭のパルムドールに輝いた『アンダーグランド』(’95)でも主人公マルコの弟イヴァンを演じていた。

こうして完成した『戦争のはらわた』は、ヨーロッパやアジアの各国で大ヒットを記録。中でも日本での成功は抜きん出ていたらしい。当時、宣伝キャンペーンのため来日したサム・ペキンパーとジェームズ・コバーンは、日本のアパレル企業ダイトウボウの紳士服「ロッキンガム」のCMをペキンパー演出・コバーン出演で撮っている。ただ、肝心のアメリカでは折からの『スター・ウォーズ』ブームの陰に隠れ、残念ながら全米興行では惨敗を喫してしまった。■

『戦争のはらわた』© 1977 Rapid Film GMBH - Terra Filmkunst Gmbh - STUDIOCANAL FILMS Ltd