19世紀後半のアメリカ西部。牧場主のウィル・アンダーソン(演:ジョン・ウェイン)は、1,500頭の牛を売るため、640㌔離れた街まで移動させる、“キャトル・ドライヴ”の必要に迫られていた。
 しかし、必要な助っ人を得ることができない。近隣で金が出たという話が広がり、男たちは皆そちらに行ってしまったのである。
 ウィルは友人の勧めから、教会の学校に通う少年たちをスカウトすることにしたが…。

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 本作『11人のカウボーイ』(1972)は、“デューク(公爵)”ことジョン・ウェイン(1907~79)の主演作。フィルモグラフィーを眺めると、“戦争映画”などへの出演も少なくないが、“デューク”と言えばやっぱりの、“西部劇”だ。
 ジョン・フォード監督の『駅馬車』(39)でスターダムに上り、その後長くハリウッドTOPスターの座に君臨したウェインだが、64年に肺癌を宣告されて片肺を失う。しかし闘病を宣言して俳優活動を続け、60代に突入してからの主演作『勇気ある追跡』(69)で、念願のアカデミー賞主演男優賞を受賞!
 本作に主演した頃は、まだ意気軒昂であった。しかし『11人のカウボーイ』は、ジョン・ウェイン主演の“西部劇”としては、明らかに異彩を放つ作品である。
 ウェインは本作に関して、「私の映画生活で記念すべきチャレンジ…」と発言している。この「チャレンジ」とは、多分監督に関しても含まれる。本作のメガフォンを取ったのは、ニューヨーク派の新鋭マーク・ライデル(1934~ )だった。
 ライデルは俳優出身で、60年代にTVシリーズの監督で頭角を現した。その後劇場用映画として、『女狐』(67)『華麗なる週末』(69)で評判を取ったが、“西部劇”に関しては、長寿TVシリーズの「ガンスモーク」を10話ほど手掛けてはいたものの、劇場用作品としては、本作が初めて。
 後に『黄昏』(81)で、当時70代のヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンにオスカーをもたらすなど、ベテラン俳優の手綱さばきも評価されたライデル。しかしこの頃はまだまだ、“若造”であった。

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 ウィルの下に集まった11人は、みんな10代。厳しい訓練を行い、やがてコックとして雇った黒人のナイトリンガー(演:ロスコー・リー・ブラウン)も携えて、“キャトル・ドライヴ”は出発の日を迎えた。
 過酷な道程で、11人はそれぞれに、厳しいウィルへの不満を抱く。しかしその想いや愛情に触れて、一同はやがて彼に対し、尊敬の念を深めていく…。

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 ジョン・ウェインにとって、ハワード・ホークス監督の『赤い河』(48)への出演が、キャリアの転換点となったのは、自他共に認めるところ。それまで彼を「でくのぼう」扱いしていた、恩師のジョン・フォードにも、ちゃんと演技が出来ることを知らしめたのだ。
『赤い河』は、“キャトル・ドライヴ”の道中を通じて、ウェインとモンゴメリー・クリフトが演じる、血の繋がらない父子による、相克と和解の物語である。
『11人のカウボーイ』でウェインの演じるウィルは、2人の息子を若くして失っている。そんなウィルが、11人の少年カウボーイたちを率いて、“キャトル・ドライヴ”に挑む。ここにはやはり、“疑似父子”関係が見出せる。名作『赤い河』への目配せは、作り手の側には当然あったように思われる。
 ライデル監督の苦労は、“ウェインの息子たち”11人のカウボーイを選ぶところから始まった。何百人もの少年を面接したが、乗馬と芝居の両方を経験している者は、ゼロ。
 選んだ11人の内、6人は荒馬や荒牛を乗りこなすロデオ経験者だったが、他の5人は俳優で、馬に乗ったことがなかった。そこでクランク・イン前は、ロデオと演技の特訓。各々に自分のできること、即ち、乗馬と演技の見本を示すようにと指導を行い、やがて馬に乗れなかった者も、馬上に跨って牛を捕縛する投げ縄などを、マスターしていった。
 そして、撮影開始。ライデルにとっては、少年たちを演出する以上の難物が控えていた。“デューク”である。

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 ウィルと少年たちの“キャトル・ドライヴ”を追ってきた、牛泥棒の一団がいた。ある夜彼らが、襲撃を掛けてきた。
 ウィルは少年たちに手を出させないよう、牛泥棒のリーダー格であるロング・ヘア(演:ブルース・ダーン)に、素手での1対1の闘いを挑んだ。ロング・ヘアはその闘いに敗れると、卑怯にも拳銃を取り出し、ウィルを背後から撃ち殺すのだった。
 今際の際のウィルの言葉を受けて、ナイトリンガーは少年たちを故郷に送り届けようとする。しかし目の前でウィルを殺害されてしまった、少年たちの想いは違っていた。
 彼らは誓った。ロング・ヘアたちへの復讐を果し、1,500頭の牛を取り戻す…。

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 当時のインタビューで、マーク・ライデルはこんなことを言っている。
「政治的見解では両極にある私とデュークだ。彼の政治的立場を私は嫌悪する。しかし、俳優として彼ほど魅力のある男を私は知らなかった…」
 当時はアメリカによるベトナムへの軍事介入に対して、“反戦運動”が盛り上がっていた頃。“リベラル派”に属するライデルにとって、かつて“赤狩り”を支援し、“ベトナム戦争”に対しては、アメリカ政府の立場を全面的に支持する作品『グリーン・ベレー』(68)を製作・監督・主演で作り上げた、“タカ派”の大御所ウェインは、政治的には唾棄すべき存在だった。しかし俳優としてのキャリアは、リスペクトに値する…。
 本作は1971年4月5日にクランクイン。ニューメキシコ州のサン・クリストバル牧場やコロラドのパゴサ・スプリングスなどでロケを行った後、カリフォルニアのバーバンク撮影所へと戻った頃には、7月になっていた。
 長きに渡ったロケで、実は撮り終えてない野外シーンが1つあった。それは、ウェインと敵役であるブルース・ダーンの対決。作品の流れで言えば、長年ハリウッド随一のタフなヒーローだったウェインが、エンドマークが出るまでまだ20分もあるのに、殺害されてしまうシーンであった。

 それまでのウェインは、例えば『アラモ』(60)で実在の人物であるデイヴィー・クロケットを演じた時のように、劇中で英雄的な死を迎えることは幾度かあった。しかし本作のような無残な殺され方は、前代未聞のことだった。
 これまでのジョン・ウェイン主演作でも、殴り合いのシーンは、各作にルーティンのように存在する。従来の“西部劇”は「悠揚として迫らざる」、ゆったりとして落ち着いた描写をモットーに撮られている。
 しかし時代的には、セルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』(64)をはじめとしたマカロニ・ウエスタンや、サム・ペキンパー監督の『ワイルドバンチ』(69)などが、“西部劇”の世界を席捲。決闘シーンはより荒々しく、血生臭い傾向が強くなっていた。
 ダーンは、ウェインとの対決の後のシーンでは、鼻を折られたという設定で、付け鼻を付けている。そんな激しい闘いで、いくら天下のジョン・ウェインであっても、無傷なのはおかしいと、ライデルは考えた。リアリズム風の格闘で、ウェインとダーンは共に血まみれにならなければ…。
 しかしウェインは、“西部劇”に於いてそうしたリアルな描写には、ずっと反対し続けてきた。あるインタビューでは、「幻想(イリュージョン)を描くかわりに、何もかも“リアリズム”にしようとしている…それで、電気装置をつかって……血が噴き出るように仕掛けたりする…」などと、嫌悪感を露わにしている。登場人物すべてが血みどろの戦いの末に果てていく、『ワイルドバンチ』のサム・ペキンパー演出を、明らかに意識し揶揄していた。

 ライデルは本作に於ける“最大のチャレンジ”に挑むため、当時撮影現場に於いてウェインの最側近と言える存在だった、デイヴ・グレイソンと、相談を重ねた。グレイソンはプロのメイクアップ係で、60年代からはウェインの全作品のメイクを担当した人物。ウェインは40代からカツラを装着していたため、グレイソンとは、公私ともに身近な関係だった。
 しかし現代的な“西部劇”の作り方に対し、「…幻想を映画から追い出そうとしている」と反発するウェインを、果して説得などできるのか!?
 問題のシーンの撮影日の朝、グレイソンがライデルから呼び出されると、その場には5~6人のスタッフが集まっていた。議題は、いかにウェインを血だらけにするか。
「デュークがいいと言ったら、出来ますよ。でも、男のメーキャップ係が四人要ります」
「どうして四人掛かりなんだね?」
「三人は彼を押さえ付けておく係です」
 そんなやり取りの末に、スタントディレクターが、ウェインの説得役を買って出た。しかしいざウェインのトレイラーに向かうと、挨拶と雑談だけで終わって、これから撮るシーンのことをまったく切り出せなかった。
 結局は同行したグレイソンが、口を開くしかなかった。
「ねぇ、デューク、みんなは今度のシーンであんたを血だらけにさせたがっているんだが、恐くて言い出せないでいるんだ」
 それに対してウェインは、「下らん!」と一喝。しかしちょっと間を置いてから「まあ、いいだろう。やってくれよ。血糊とやらを塗りたくってくれ」
 ウェインは個人的には好まないながらも、時代の変化の中で観客の嗜好が変わってきたことは、理解していたのである。と言っても、彼が言うところの「傷口がバックリ開いて、肝臓(レバー)がこっちに飛んで来る」ような、極端な残酷描写だけは、決して許そうとしなかったが。

 この対決シーンに、大酒飲みのウェインはほろ酔い状態で臨んだ。酔いに任せて、撮影の合間はジョークを飛ばしたり陽気に振る舞ったという。
 対決相手を演じたブルース・ダーン(1936~ )は、本作出演後、『ブラック・サンデー』(77)『帰郷』(78)などの話題作・問題作に出演。年老いてからは、『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』(2013)で、カンヌ国際映画祭男優賞を受賞し、アカデミー主演男優賞にもノミネートされた名優である。ローラ・ダーンの父親としても知られる彼だが、本作出演時は、若手俳優の1人に過ぎなかった。
 そんなダーンに、ウェインはこんなアドバイスを贈った。
「悪役を演じるときは手加減するな、よい俳優になりたければいじめられたほうがよい」
 そんなウェインの助言が実ったというべきか?「ジョン・ウェインを撃った男」として悪名を馳せたダーンの元には、本作公開後に脅迫状が届き、リンチの警告まで受けるに至った。

 ジョン・ウェインが背後から撃ち殺されてしまうということが、どれだけセンセーショナルな事態であったか!
 例えば本邦を代表する映画評論家の1人、山田宏一氏も当時、次のように記している。

~…『11人のカウボーイ』には、幻滅を感じ、いや、それどころか、怒りを禁じえないのだ。…ぼくらファンにことわりもなしにージョン・ウェインをあっさり殺してしまったのである!~

 山田氏はマーク・ライデル監督への悪罵を尽くした挙げ句、西部劇の不滅のヒーローであり、アメリカ国民の夢であるジョン・ウェインに無残な死をもたらした、本作『11人のカウボーイ』について、~ほとんど犯罪だ。~と断じている。
 ジョン・ウェインは本作の4年後、『ラスト・シューティスト』(76)で、末期がんで余命いくばくもないガンマンを演じ、ならず者たちとのガンファイトで、再びスクリーン上での“死”を演じてみせた。そしてそれを遺作に、79年6月11日、再発した胃がんのために72歳でこの世を去った。
 今日考えるに本作『11人のカウボーイ』は、「悠揚として迫らざる」タッチの西部劇の終焉を象徴する、歴史的な1本であったのだ。■

『11人のカウボーイ』© Warner Bros. Entertainment Inc.