映画の楽しみ方というのは人によって様々だとは思うが、恐らく“女優で見る”という映画ファンも少なくないだろう。かくいう筆者もその一人。スクリーンに美しくも神々しい大輪の花を咲かせる女優は、その存在自体がまさしく芸術だ。もちろん、なにも若けりゃいいってもんじゃないし、綺麗なだけで中身のないマネキンを女優と呼ぶのも憚られる。美しさにだっていろいろ。肝心なのはスターのオーラであり、立ち振る舞いであり、スタイルであり、そして演技者としての表現力だ。優れた女優は時として平凡な映画を傑作に変えることだってあるし、作り手に思いがけないインスピレーションを与えることもある。

 それぞれの時代のそれぞれの国で素晴らしい女優が存在してきたが、中でも’50~’70年代にかけてのイタリア映画は世界に冠たる女優の宝庫だったと言えよう。ソフィア・ローレンにジーナ・ロロブリジーダ、アンナ・マニャーニ、ロッサナ・ポデスタ、ヴィルナ・リージ、クラウディア・カルディナーレ、ステファニア・サンドレッリ、ラウラ・アントネッリなどなど枚挙にいとまない。ウルスラ・アンドレスやマリーザ・メル、アニタ・エクバーグなどの外国女優も、イタリア映画に出演すると格段に輝いて見えた。さすがは、ディーヴァの語源となった国である。

前置きがすっかり長くなってしまったが、今回のお題目であるイタリア映画『アパッショナータ』(’74)もまた、女優で魅せる映画だと言える。主演はオルネラ・ムーティとエレオノラ・ジョルジ。クールな佇まいに情熱的な瞳のブルネット美女ムーティに対し、淑やかでどこかアンニュイなブロンド美女ジョルジ。この絶妙な好対照ぶり。抜群のコンビネーションである。しかも、’70年代のイタリア映画らしく大胆なヌードシーンもてんこ盛り。なんていうと下世話に聞こえるかもしれないが、必要とあらばいくらでも脱ぐ…いや、必要がなくても脱いでいいのだけど、とにかくそれくらいの気骨があってこそプロの女優だろう。

 まずは簡単にストーリーの解説から入るとしよう。舞台は現代のローマ。女学生のエウジェニア(オルネラ・ムーティ)とニコラ(エレオノラ・ジョルジ)は大の親友で、どちらも思春期の多感な年頃だ。エウジェニアの父親エミリオ(ガブリエル・フェルゼッティ)は裕福な歯科医、母親エリザ(ヴァレンティナ・コルテーゼ)は元コンサート・ピアニスト。傍から見ると何不自由のない幸せな家族のようだが、父親は仕事で忙しく家庭を顧みる余裕がなく、母親はノイローゼ気味で情緒不安定。家の中には、いつもどこか気まずい空気が漂っている。一方のニコラは外交官の娘だが、今は伯母のもとで暮らしており、両親の愛情に飢えている複雑な少女だ。

 ある日、エミリオの治療を受けたニコラが彼を誘惑する。相手は娘の親友だ。戸惑うエミリオだが、しかし若くて美しい彼女の魅力には抗し難いものがあった。そんな2人の危うい関係を察知したエウジェニアは、まるで対抗心を燃やすかのように父親を性的に挑発。エミリオもエミリオで、実の娘をこれまでとは同じようには見れなくなっていく。近親相姦すら匂わせる危険な三角関係。その不穏な空気は母親エリザの精神をも蝕み、やがて美しくも完璧なブルジョワ家庭は静かに、だが確実に崩壊していく…。

 いわゆるイタリアン・エロスの系譜に属する作品ではあるものの、それだけで片付けられないのは、本作がマルコ・ベロッキオの『ポケットの中の握り拳』(’65)やピエル・パオロ・パゾリーニの『テオレマ』の流れを汲む映画でもあるからだ。要するに、家族の崩壊というテーマである。’68年にフランスで起きた学生運動、いわゆる五月革命はたちまちイタリアへと飛び火し、その前後に“新イタリア派”と呼ばれる反体制的な映像作家や、そうした時代の傾向を敏感に取り入れた作品がイタリア映画界を席巻する。彼らが異議を申し立てたのは、旧態然とした政治であり、宗教であり、社会階級であり、そして家族だったのだ。

 『ポケットの中の握り拳』で家族を崩壊に導いたのは伝統的な家族制度、『テオレマ』ではセックスがブルジョワ家庭の空虚な仮面を剥がしたわけだが、本作でエウジェニアの家庭を破壊するのは若さである。若さゆえに気まぐれで魅力的で残酷な少女たち。そして、若さへの憧憬から道を踏み外してしまう父親エミリオ、若さへの嫉妬と渇望から狂っていく母親エリザ。そういう意味では、ヴィスコンティの『ベニスに死す』(’71)を彷彿させるものもあると言えるかもしれない。

 監督は『楡の木陰の愛』(’75)でも知られるジャンルイジ・カルデローネ。一歩間違えるとただのソフトポルノ映画になりかねない題材を、まるでマウロ・ボロニーニやジュゼッペ・パトローニ・グリッフィの文芸エロスかのごとく、官能的で背徳的でありながら繊細で美しく上品な青春残酷物語として仕上げている。ヴィスコンティ映画の撮影監督としても有名なアルマンド・ナヌッツィによる瑞々しい映像美、モリコーネやロータと並ぶイタリア映画界のマエストロ、ピエロ・ピッチョーニの手がけた華麗な音楽スコアも素晴らしい。主演女優の魅力も然ることながら、映画作品としても紛れもない一級品だ。

 当時まだ19歳だったオルネラ・ムーティ。初期の『シシリアの恋人』(’70)や『ふたりだけの恋の島』(’71)もそうだが、彼女は怒りや不満、欲望など沸々としたものを内に秘めた、物静かながらも情熱的なイタリア女性を演じさせたら右に出る者のない存在だ。その個性はカルディナーレにも通じるものがあると言えよう。本作のエウジェニア役もまさにその延長線上だ。恐らく彼女は決して父親に恋心を抱いているわけではないし、当然ながら性的な欲望を感じているわけでもない。若さゆえの心理的な衝動が彼女を突き動かすのであり、それが何なのかは本人も分かっていないはずだ。そんな少女の複雑な危うさを演じて見事である。

 一方のニコラ役を演じているエレオノラ・ジョルジは、日本では恐らくアルジェントの『インフェルノ』(’80)くらいでしか知られていないかもしれない。なにしろ、出演作の大半が日本だと劇場未公開なので仕方ないのだが、’70~’80年代のイタリア映画界ではグロリア・グイダやモニカ・ゲリトーレなどと並ぶ売れっ子スター女優の一人だった。父親は映画プロデューサー。本作の当時は21歳。少女のようなあどけなさと豊満な肉体のアンバランスが魅力で、本作でもそれが大きな武器となっている。

 また、本作で見逃せないのは母親エリザ役の大女優ヴァレンティナ・コルテーゼの存在だ。ファシスト政権末期のイタリア映画界でお姫様女優として活躍し、戦後はルイジ・ザンパやミケランジェロ・アントニオーニら巨匠にも愛され、一時はハリウッド映画でも活躍した。トリュフォーの『アメリカの夜』(’73)では落ちぶれたスター女優を演じてアカデミー助演女優賞候補となり、『オリエント急行殺人事件』で受賞したイングリッド・バーグマンが“本来ならあなたが受け取るべきよ”と会場にいたコルテーゼへ賛辞を贈ったのは有名な話。若かりし頃の彼女は、まるで中世ヨーロッパの貴婦人画から抜け出てきたような美女だったが、本作の当時もその美貌は十分に片鱗をとどめており、だからこそ失われてしまった若さを渇望し、老いゆく自分が夫から愛されているのかどうか自信を持てず、その不安から精神を病んでいくエリザを演じてすこぶる説得力があるのだ。

 なお、父親エミリオを演じているのはアントニオーニの傑作『情事』(’60)で有名な伊達男俳優ガブリエル・フェルゼッッティ。迷子になったエリザの愛犬を拾ってくる肉屋の丁稚役として、パゾリーニ映画の常連だった二ネット・ダヴォリも顔を出している。

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